ロビーで名刺を差し出した瞬間、かつて同級生だった開発部長は、私から目もくれず手を払いのけた。床に落ちた名刺を眺めながら、彼は高卒の私を清掃員と勘違いして笑い飛ばした。「高卒無能が来るところじゃない。時間の無駄だ」と。彼は知らない。この7200億円のプロジェクトは、私の会社の特許工法なしでは成立しないことを。そして私がその会社の社長だということも。私は静かに告げた。「後悔しますよ」と。その場を…

ロビーで名刺を差し出した瞬間、かつて同級生だった開発部長は、私から目もくれず手を払いのけた。床に落ちた名刺を眺めながら、彼は高卒の私を清掃員と勘違いして笑い飛ばした。「高卒無能が来るところじゃない。時間の無駄だ」と。彼は知らない。この7200億円のプロジェクトは、私の会社の特許工法なしでは成立しないことを。そして私がその会社の社長だということも。私は静かに告げた。「後悔しますよ」と。その場を...

俺が名刺を差し出した瞬間、上田は俺の手を払いのけた。名刺が床に落ち、乾いた音を立てた。

俺は拾い上げて、静かに告げた。

「今回の湾岸プロジェクトの契約は白紙にさせてもらう」

上田は鼻で笑った。

「はあ? 何言ってんだお前。頭おかしくなったか」

高卒無能が来るところじゃない。とっとと帰れよ。警備員を呼ぶ前にな。

俺は上田を見据えた。

「後悔しますよ」

あえて丁寧な口調にしたのは、俺が仕事上の取引相手であることを思い出させるためだ。しかし上田は何も気づかない。腕を組んで、勝ち誇った笑みを浮かべている。

俺はそんな上田を一瞥し、本社ビルを後にした。

俺は佐々木、45歳。佐々木建設の社長だ。

高校を卒業して大手建設会社に入社し、現場作業員として15年間働いた。そのほとんどを海沿いの現場で過ごしてきた。埋め立て地は地盤が柔らかく、通常の工法では建物が沈んだり傾いたりするリスクが高い。俺は何度も技術的な限界に直面する場面を見てきた。

この問題を解決できれば、大きな需要があるはずだ。そう確信した俺は独立し、今の会社を立ち上げた。海沿いの建設に特化し、専門家を雇い、俺の現場経験も反映させて新しい工法を開発させた。地盤の柔らかさを逆に利用し、地震の揺れを吸収する仕組みだ。

開発には5年かかったが、特許を取得できた。この工法のおかげで、俺の会社は業界で確固たる地位を築く。特許取得後は大手との業務提携や技術者の積極採用で急成長し、今では従業員100名を抱えている。それでも俺は一人の職人としての自覚を忘れないようにしている。だから、現場に出る時も社長として仕事をする時も、いつも作業着姿だ。作業着は職人の制服であり、なんら恥じる必要はない。

今日は特別な日だった。大手デベロッパーから請負依頼のあった、7200億円規模の湾岸開発プロジェクトの最終打合せ。このプロジェクトの建築施工を我が社が一括で請け負う予定だ。

これまでの技術打ち合わせは栗林専務に任せていた。栗林の話では、プロジェクトリーダーの上田開発部長は技術面の詳細を部下に丸投げしていたらしい。打ち合わせにも顔を出さず、契約直前の今が初対面だという。

この建設予定地は海沿いの埋め立て地で、地盤が非常に柔らかく通常の工法では高層建築物を立てられない。俺の会社が持つ特許工法なら安全に建設できる。行政も安全性が証明できない方法での建築は許可しない。実質的にこのプロジェクトに対応できるのは我が社のみだった。

俺はいつもの作業着姿でデベロッパーの本社ビルへ向かった。ロビーで待つ間、床を掃除している清掃員の女性が目に入る。腰をかがめて丁寧に床を磨く姿を見て、俺は自分の原点を思い出した。

「いつもお疲れ様です」

女性は驚いたように顔を上げ、丁寧に会釈を返してくれた。

その時、エレベーターが開いた。中から降りてきたのは上田開発部長だ。俺はこの男を知っている。高校時代の同級生で、当時貧しかった俺に嫌がらせばかりしてきた男だ。その後、上田は一流大学に進学し、大手デベロッパーに入社した。

上田は俺を見ると、口元を歪めて笑みを浮かべた。まるで獲物を見つけた肉食獣のような表情だ。

「おい、佐々じゃないか。久しぶりだな」

上田は高校卒業後、俺が建設会社に就職したことまでは知っている。卒業式の日、上田は俺にこう言い放った。

「大学にも行けない貧乏人が建設現場か。一生下働きでもやってろよ」

上田の勝ち誇った顔を、俺は鮮明に覚えている。

一方、上田は今日打ち合わせする施工業者については把握しているだろう。だがその会社の社長が俺だということまでは認知していない。佐々木というありふれた苗字では、かつての同級生と同一人物だとは思い至らないだろう。かつて見下していた男が今や社長になっていることなど、上田の想像をはるかに超えているはずだ。

上田は俺の作業着姿を上から下まで舐めるように見た。その表情に侮蔑の色が浮かぶ。

「まさか佐々木、清掃員の面接にでも来たのか。どうせ無能なお前のことだ。リストラでもされたんだろう」

その瞬間だった。背後から若手社員の怒鳴り声が響く。

「おい、そこ邪魔だ。さっさと退けよ」

声の先にはさっきの清掃員の女性がいた。慌てて道を開ける女性を見て、若手社員は鼻で笑う。上田も振り返り、その光景を見て口を開いた。

「おいおい、そんなに責めるなよ。底辺の仕事も大変なんだから。そうなんだろう、佐々木」

上田は清掃員を見下す態度をそのまま俺にも向ける。この会社の社風の悪さを、俺は肌で感じ取った。

俺は上田に向き直った。

「今日は打ち合わせに来たんだ」

一瞬の沈黙の後、上田は腹を抱えて笑い出した。

「冗談だろ。お前がその作業着で? 笑いが止まらない」

上田は涙まで浮かべている。

「高卒無能は場違いだ。時間の無駄だから帰れば? そんな見え透いた嘘をついて見栄を張らなくていいよ」

周囲にいた社員たちも上田の言葉に失笑をもらす。俺は静かに名刺入れを取り出し差し出した。しかし上田は受け取ろうともせず、俺の手を払いのけた。

本社ビルを出た俺は、車で会社へ向かいながら栗林に連絡を入れた。

「専務、今回の湾岸プロジェクトだが、契約は白紙だ」

電話口から栗林の驚いた声が聞こえる。

「え、社長、一体何が?」

「詳しいことは会社で話す」

会社に戻ると、俺は大会議室に栗林を呼び、ソファーに向かい合って座った。俺はデベロッパー本社で起きた顛末について話し始める。上田が俺を清掃員の面接に来た落ちぶれた男だと決めつけたこと。名刺を差し出しても受け取らず、契約白紙を告げても笑って追い返されたこと。

栗林は俺の話を黙って聞いていたが、途中で深く頷いた。

「実は私もこれまでの打ち合わせで、デベロッパー側の担当者たちの横柄な態度に疑問を感じていました。技術説明をまともに聞かず、常に上から目線でした。社員が清掃員を怒鳴りつける場面も目撃しています。上田部長が不在でもあの態度ということは、あの会社の社風そのものに問題があるのでしょう」

栗林の苦い表情を見て、俺は自分の判断は間違っていなかったと確信する。その時、応接室の内線電話が鳴った。栗林が受話器を取る。しばらく相手の話を聞いた後、栗林が受話器を抑えて俺に告げた。

「社長、デベロッパーの上田部長からです。打ち合わせ開始の時間が過ぎているが、我が社の打ち合わせ担当者がまだ来ていないと言っています。いかがいたしますか?」

予想通りの展開だ。俺は再度契約白紙を伝えるよう指示する。栗林は頷き、受話器に向かって言った。

「それでは弊社の社長から直接お答えします」

栗林から受話器を受け取り、俺は告げた。

「先ほどロビーで会った佐々木だ」

上田の声が返ってくる。

「佐々、なんでお前が電話に出るんだ? 社長に早く代われよ」

「私が社長だからだよ」

電話口が一瞬静かになった。

「はあ? 何言ってんだお前。ふざけるのもいい加減にしろ」

「さっきロビーで俺はお前に名刺を渡そうとした。床に叩き落とされたがな」

上田が息を飲む音が聞こえた。

「ま、まさか、あの作業着の?」

「そうだ。私が今回のプロジェクトの施工を担当している建設会社の社長だ。再度伝えておくが、契約は白紙だ。その通知を今から正式に送らせてもらう」

上田は慌てた様子で言い訳を始めた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あれは誤解だ」

俺は電話を切った。

それから1時間ほど経った頃、また内線が鳴った。栗林が出る。

「社長、今度はデベロッパーの常務社長からです」

俺は再び受話器を取る。向こうの声は切迫していた。

「佐々木社長、この度は誠に申し訳ございません。上田から事情を聞きました。開発部長が打ち合わせ相手である社長を追い返してしまったと。なんとか機会をいただけませんか」

常務は必死に謝罪を続ける。しかし俺の決意は揺がない。

「プロジェクトリーダーである上田部長は、打ち合わせ相手を確認もせず外見だけで判断し、私を追い返しました。そのような方が携わるプロジェクトに、弊社の技術を提供することはできません」

「なんとか、もう一度……」

「お断りします」

電話を切ると、栗林が静かに頷いた。

「社長の判断は正しいと思います」

デベロッパーは今頃混乱を極めているだろう。しかしそれは、人を外見だけで判断した上田が自ら招いた結果なのだ。

大手デベロッパーとの契約を白紙にした翌日、俺は栗林を呼んだ。

「以前我が社に問い合わせがあったが断った案件で、まだ施工業者が決まっていないものはあるか?」

栗林は少し考えてから答えた。

「運送会社から、湾岸エリアに大規模な物流倉庫を建設したいという依頼がありました」

俺もその案件を思い出す。当時は大手デベロッパーの7200億円プロジェクトを引き受けた直後で、スケジュールの都合上断らざるを得なかった案件だ。

「その運送会社に連絡を取ってくれ。今なら対応可能だと伝えてほしい」

数時間後、栗林が明るい顔で戻ってきた。

「社長、先方はまだ施工業者を決めかねているとのことです。湾岸の軟弱地盤での高層建築のため技術面で不安があり、なかなか決断できずにいたそうです。先方の社長は、明日にでも我が社に相談に来たいとのことです」

俺は迷わず面談することを伝えた。

翌日、我が社を訪れた運送会社社長は、挨拶もそこそこに熱心に話し始めた。

「半年前にお問い合わせした際は、すでにプロジェクトが埋まっているとのことで、正直諦めかけておりました」

社長は資料を俺に手渡す。

「こちらは湾岸エリアに大規模な物流拠点を建設する計画です。しかし地盤が非常に柔らかく、複数の建設会社に相談しましたが、皆リスクが高すぎると断られました」

俺は資料に目を通す。計画は具体的で、技術面での課題も正確に把握されている。

「本社の特許工法なら、この難しい条件でも安全に建設できると確信しております」

運送会社社長の熱心な訴えに、俺は大きな手応えを感じる。規模は300億円程度で7200億円の巨大プロジェクトには及ばない。しかし、誠意と技術を信頼してくれる相手と仕事をしたい。それが俺の信念だ。

「前向きに検討させていただきます」

俺の回答に、運送会社社長の顔がパッと明るくなる。

面談を終えて自室に戻ると、栗林が待っていた。

「社長、先ほど大手デベロッパーの常務社長から再度連絡がありました」

俺は首を横に振る。

「無視して構わない」

栗林は頷き、続けた。

「実はその他にも、大手デベロッパーで技術担当をしていた方から私に連絡が入りました。その方の話では、上田部長が取締役会で厳しく責任を追及されているそうです」

「当然だな」

「しかし上田部長は反省するどころか、『相手の服装が悪かったのが問題だ。社長なら社長らしい格好をすべきだ』と開き直っているとか」

俺は苦笑する。上田は最後まで自分の非を認めないつもりらしい。

その翌日、俺は自室で業界紙を広げていた。一面に大きく記事が載っている。

「大手デベロッパーの巨大湾岸プロジェクト暗礁に」

記事によれば、すでに2000億円の用地取得が完了しているものの、施工業者との契約が白紙撤回され、プロジェクトが完全に停止状態となっているという。さらに、唯一の施工可能業者との関係悪化が原因とも書かれていた。

デベロッパーがプロジェクトを進めるには、我が社の工法が不可欠だ。仮に他の建設会社が工事を受けても、構造計算からやり直し、建築許可の再申請が必要になる。最短でも半年から1年程度はかかるだろう。そして決定的なのは、我が社の特許工法は特許で保護されているということだ。他者が使用するには、我が社とのライセンス契約が必要になる。特許の有効期間はまだ13年以上残っている。つまり、どう転んでも我が社を通さざるを得ないのだ。

俺は栗林を呼び、運送会社との契約を進めるよう指示を出した。

翌日の午前中、受付から内線で、大手デベロッパーの常務社長と上田部長が来たと伝えられた。わざわざ社長自らが謝罪に来たということは、事態の深刻さを理解しているのだろう。

俺は上田がどんな顔をして現れるのか確かめたくなり、応接室で二人を迎えることにする。

しばらくして応接室のドアが開き、常務と上田が入ってきた。常務は深々と頭を下げた。

「この度は誠に申し訳ございませんでした」

常務の謝罪は丁寧で、誠実さが感じられた。一方の上田は形だけ頭を下げているものの、その目には今も俺を見下す色が残っている。

常務が続ける。

「上田の不手際により、佐々木社長に大変な不快感を与えてしまいました。心よりお詫び申し上げます」

上田もしぶしぶといった様子で口を開く。

「私の態度が不適切でした。申し訳ございませんでした」

言葉だけは謝罪の形を取っているが、心がこもっていないことは明白だ。

俺は静かに口を開いた。

「上田部長、あなたはロビーで私を嘲笑し、名刺を床に叩き落とした。清掃員や受付の方々に対しても、人として扱わない態度を取っていた。それは人の尊厳を否定する行為だ」

上田の顔が歪み、俺に鋭い視線を向ける。それを見た常務が慌てて割って入ろうとした。その時、常務の携帯電話が鳴った。

「すみません。緊急の連絡のようです。少し席を外させていただきます」

常務が応接室を出ていく。二人きりになった瞬間、上田の表情が変わった。小声で、しかし感情を込めて言い放つ。

「だからなんだよ。あんな格好で来る方が悪いんだよ。社長なら社長らしくスーツを着るべきだろ」

俺は呆れを通り越して、怒りすら覚える。作業着を着るのは、一人の建設職人としての誇りだ。なんら恥じる必要などない。むしろ服装だけで人の価値を判断する、その浅はかさが今回の事態を招いたんだ。

上田が何か言い返そうとした時、ドアが開いて常務が戻ってきた。常務は青ざめた顔で上田を見る。

「上田、今の発言を私は廊下で聞いていた」

上田の顔から血の気が引く。

俺は冷静に告げた。

「お前は学歴と肩書きしか見ていない。しかしビジネスで大切なのは技術と実績、そして誠意だ。お前はあのロビーで『後悔するぞ』という俺の警告を無視した。今後悔しているのはどっちだ?」

上田の顔から血の気が引いていく。

「帰れ。お前が失ったのは一つの取引ではない。信頼だ。それは一度失えば、もう二度と戻らない」

常務が慌てて立ち上がる。

「佐々木社長、お願いします。上田の処遇は役員会で厳正に検討します。ですから、なんとかもう一度チャンスを」

常務の必死な様子は理解できる。しかし俺の決意は揺がない。

「申し訳ございませんが、すでに別の大型案件が決まっております。今更御社と仕事をする理由がございません」

俺はきっぱりと告げた。常務と上田は絶望の表情を浮かべる。上田は膝から崩れ落ちそうになり、椅子に手をついた。常務は何度も頭を下げるが、俺は最後に告げる。

「人を外見で判断し、技術を軽視する会社とは、いかなる条件でも仕事はできません」

俺は応接室のドアを開け、二人を促した。常務は力なく頷き、上田の腕を掴んで立ち上がらせた。二人が応接室を出ていく背中を、俺は黙って見送る。

ドアが閉まった後、栗林が静かに入ってきた。

「社長、運送会社との打ち合わせの時間が近づいております」

俺は決断したことへの後悔は一切ない。むしろ清々しささえ感じる。俺は栗林に頷き、気持ちを切り替えた。

「わかった。すぐに向かう」

俺の気持ちは、すでに次の仕事へと向かっていた。

三ヶ月後、業界紙の一面に大きな見出しが踊った。

「大手デベロッパー7200億円プロジェクト、正式に凍結」

記事によれば、臨時取締役会が開かれ、経営陣が一掃されたという。プロジェクトそのものも根本から見直すとのことだ。

栗林からも、これまで折に触れてやり取りしていた大手デベロッパー側の担当者を通じて、上田のその後の顛末を知ることができた。上田は部長職を解かれ、その後、依願退職という形で会社を去ったらしい。巨大プロジェクトを潰した男として業界内で悪評が広まり、未だに再就職先も見つからないそうだ。

一方、運送会社から依頼された倉庫建設の件は順調に進んでいる。先方の社長は我が社の技術を正当に評価してくれ、現場の声にも真摯に耳を傾けてくれる。こういう相手と仕事ができることが、何より嬉しい。

ある日、我が社を一人の女性が訪ねてきた。あの日、デベロッパーのビルで見かけた清掃員の女性だった。

「あの時、お声がけいただいて、とても嬉しかったです。それが言いたくて……」

女性は丁寧にお礼を述べてくれた。俺は少し照れながら答える。

「当然のことをしただけです。こちらこそ、いつもありがとうございます」

こういう出会いこそが、仕事の原点だと俺は思う。

今日も俺は作業着を着て現場に立つ。一人の建設職人として、技術と誠意を何より大切にして、これからも仕事を続けていくつもりだ。

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