「母さん、もう限界だ。早く出て行ってくれ」—…

「母さん、もう限界だ。早く出て行ってくれ」—...

「母さん、もう限界だ。早く出て行ってくれ」

その言葉が発せられた瞬間、私は時が止まったかのように感じた。年末の親族会。息子の高一が突然立ち上がり、集まった十数人の親戚の前で、私に向かってそう言い放ったのだ。四十二年間、看護師として働き、息子を医者にまで育て上げた私が、なぜこんな屈辱を受けなければならないのか。

高一の険しい表情を見て、嫌な予感が走った。この神聖な年の瀬の集まりで、息子が私への告発を始めようとしている。

「母は最近、物忘れがひどくて」

リビングに集まった親戚たちの視線が一斉に私に注がれる。哀れみか、好奇心か、入り混じった感情を感じた。隣に座る嫁の波は、まるで示し合わせたかのように頷いている。

「お母さんには申し訳ないけど、もう限界なんです」

波の言葉に、私の心臓が大きく脈打った。この二人は、私を家から追い出すつもりだ。それも、親族全員の前で。

私は静かに立ち上がり、震える手をテーブルの上で組んだ。怒りと悲しみ、そして何よりも裏切られた失望感が全身を駆け巡っていた。

四十二年前、私は新米看護師として病院で働き始めた。夜勤も厭わず、患者さんのために身を粉にして働いてきた。月収のほとんどを家族のために使い、自分の楽しみは全て後回しにしてきた人生だった。

「高一、あなたが大学に進学する時、学費の八百万円は誰が用意したか、覚えている?」

私の問いかけに、息子は一瞬たじろいだ。

「それは… 昔の話でしょう」

昔の話。その一言で片付けられる金額ではない。朝五時に起きて弁当を作り、夜勤明けでも息子の勉強を見守った日々。マイホーム購入時の頭金五百万円も、波との結婚式費用三百万円も、孫が生まれてからの育児用品も、全て私の貯金から出したのだ。

「お母さん、過去の話を持ち出すのはやめてください」

波が口を挟んできた。定年後、年金は月十八万円。それを全額家に入れているにも関わらず、「足りない」「もっと節約して」と言われ続けてきた。

親戚の一人が気まずそうに咳払いをした。

「さ子さんも大変だったのね」

その同情めいた言葉が、かえって私の惨めさを際立たせる。看護師長として多くの患者を救ってきた私が、実の息子からはお荷物扱い。この理不尽な状況に、私の心は静かに、しかし確実に、何かを決意し始めていた。

高一は親戚全員を見回すと、まるで演説でも始めるかのように胸を張った。

「皆さんに知っておいてもらいたいことがあります。母は最近、認知症の兆候が見られるんです」

血の気が引いた。認知症。そんな診断を受けたことは一度もない。

「同じ話を何度も繰り返したり、約束を忘れたり。先週も病院の予約を三回も確認してきました」

それは念のための確認だった。医療現場で働いてきた私にとって、ダブルチェックは当然の習慣だ。それを認知症の症状だと言うなんて。

波が追い打ちをかけるように立ち上がった。

「お母さん、最近お風呂にも入らないんです。三日に一回くらいしか。正直、不潔で孫に触らせたくないくらいなんです」

親戚たちがざわめき始めた。確かに毎日入ってはいない。しかしそれは、長年の夜勤で身についた習慣で、体調管理の一環だった。

「かわいそうに。さ子さん」

親戚のおばが哀れむような視線を向けてきた。

「施設も考えた方がいいんじゃない? 専門的なケアが必要かもしれないし」

別の親戚も口を挟む。まるで私がそこにいないかのような会話が続く。

高一はさらに声を大きくした。

「実は、もっと深刻な問題があるんです。母の貯金が激減していて、二千万円あったはずなのに、今は三百万円しか残っていません」

会場がどよめいた。

「使い込み?」「誰かが小声で呟いた」「通帳も見せてくれないし、何に使ったのか説明もありません。認知症の影響で、わけも分からず使ってしまったのかもしれません」

私は怒りで震えた。その二千万円の大半は、高一の大学の学費、マイホームの頭金、結婚式費用、そして孫のための支出に消えたのだ。全て領収書も残っている。家族のために使ったお金なのに。

「お母さんは最近、被害妄想もひどくて、私たちが財産を狙っているとか、意味不明なことを言うんです」

波の作り話に、私は呆れて言葉も出なかった。

「それに、料理の味付けもおかしくなってきて。塩と砂糖を間違えたり、同じおかずを三日連続で作ったり」

そんなことは一度もない。むしろ毎日違うメニューを考え、栄養バランスまで計算していた。

親戚の視線が痛い。哀れみ、同情、そして少しの恐れ。認知症の老人を見るような目で、皆が私を見ている。

高一はとどめを刺すように言った。

「母さん、僕たちも限界なんだ。これ以上一緒に暮らすのは無理だ。出ていってもらえないか?」

「そうですよ、お母さん。私たちにも生活があるんです。教育にも悪影響です」

波が畳みかける。

「年金も全部家に入れてもらっているけど、正直、入った方が母さんのためにもなると思う」

年金十八万円を全額渡しているのに、まだ足りないというのか。しかも、施設の費用は誰が払うというのだろう。

四十二年間、看護師として働き、家族のために尽くしてきた。夜勤明けでも家事をこなし、定年後も火夫のように働いてきた。それなのに、親族十数人の前で認知症扱いされ、泥棒のように扱われ、挙句の果てに家から追い出される。

私の中で何かが音を立てて崩れていった。信じていたもの、守ってきたもの、全てが否定された瞬間だった。でも同時に、ある決意が静かに、しかし確実に、私の心に宿り始めていた。

私はゆっくりと立ち上がった。親族全員の視線が私に集まる。息子夫婦は私が泣き崩れるか、必死に弁解するだろうと思っていたに違いない。しかし、私の口元には静かな微笑みが浮かんでいた。

「そうですか。わかりました」

穏やかな声で答えると、会場が静まり返った。高一と波が顔を見合わせる。予想外の反応に戸惑っているようだ。

「母さん、本当に分かってるの?」

高一が確認するように聞いてきた。

「ええ、よく分かりました。あなたたちの本心が」

私は親族一人ひとりの顔を見回した。困惑、好奇心、様々な感情が入り混じった表情を見ながら、私は続けた。

「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。息子の言う通り、私は出ていきます」

「さ子さん、そんな急に決めなくても」

親戚の一人が慌てたように言った。

「いいえ、これでいいんです。息子夫婦も限界だと言っていますから」

私の落ち着いた態度に、高一が苛立ったように言った。

「母さん、変に意地を張らないでよ。施設に入るのが、そんなに悪いことだとは思わないよ」

「施設? 誰がその費用を払うの?」

私の問いかけに、高一は言葉に詰まった。

「それは… 母さんの年金で」

「月十八万円の年金で? 全額あなたたちに渡している年金で?」

波が口を挟んできた。

「お母さん、そういう計算はできるのになぜ他のことは忘れるんですか?」

その言葉に、私は心の中で嘲笑した。四十二年間、病院の計算や点滴の速度を間違いなく管理してきた私が、認知症だというのか。

「明日の朝一番に出ていきます。今夜のうちに荷物をまとめますから」

「え? 明日?」

高一が驚いたように声をあげた。

「早い方がいいでしょう。これ以上迷惑をかけたくありませんから」

私の言葉に親戚たちがざわめき始めた。

「高一君、これはちょっと急すぎるんじゃない?」

「そうよ。お正月も近いのに」

親戚たちが口ぐちに言い始めたが、高一は首を振った。

「母さんが自分で決めたことですから」

その瞬間、私の心の中で何かが音を立てた。四十二年間の看護師経験が教えてくれたこと。それは準備と段取りの大切さ、そしてタイミングを逃さないこと。

「ところで高一、一つ確認したいことがあるの。この家の名義、覚えてる?」

高一の顔色が変わった。

「それは… 共同名義でしょ?」

「そうね。私が頭金五百万円を出した、共同名義。ローンの連帯保証人も私よね」

「何が言いたいの?」

「別に。ただ確認しただけよ」

私は微笑みを崩さなかった。看護師として培った観察力で、息子夫婦の動揺を見逃さない。

「お母さん、まさか家を売るとか、言い出さないですよね?」

波が不安そうに聞いてきた。

「ふふ。なぜ私が出ていくのに、私がそんなことを考えるんでしょう?」

曖昧な返事に、二人はさらに不安そうな表情を見せた。私は心の中で、すでに計画を立て始めていた。通帳、委任状、書類。全て私が管理している。土地の権利書も、保険証券も。息子たちは、私が全てを握っていることを忘れているらしい。

「では皆さん、今日は失礼します。準備がありますので」

私は深々と頭を下げると、リビングを出ようとした。

「母さん、待って」

高一が呼び止めたが、私は振り返らなかった。

「何か用事があれば、明日の朝、荷物を取りに来た時に聞きます」

階段を上がりながら、私は静かに微笑んだ。息子夫婦は気づいていない。私が本当の意味で準備を始めたことに。四十二年間、緊急事態に備えて冷静に対処してきた看護師の本能を、今こそ発揮する時が来たのだ。

部屋に戻ると、私はまず引出しを開けた。銀行口座、保険、年金。全ての情報が整理されている。息子夫婦は知らないだろうが、私には別口座に八百万円の預金がある。これは亡くなった夫の生命保険金の一部。誰にも言わずに取っておいたお金だ。

そして、最も重要なこと。この家のローンは、私が連帯保証人を降りれば、高一一人では支払いが困難になる。月々十五万円の返済。私の年金なしでやっていけるのか。

私は静かに、しかし着実に、明日からの計画を練り始めた。

深夜二時。家中が静まった頃、私は静かに動き始めた。四十二年間の夜勤で身についた、無音の歩き方。まず向かったのは書斎の金庫。ダイヤルを回し、中から重要書類を取り出す。土地の権利書、実印、銀行印、保険証券、年金手帳。全て私の名前で管理されているものだ。

次に、寝室のクローゼットの奥から、封をした封筒を取り出した。現金三十万円。緊急用に少しずつ貯めてきたお金だ。高一も波も、まさか私がへそくりをしているとは思いもしないだろう。

静かにリビングに降りて、私は家中を見回した。この家で過ごした十五年。家族のために尽くしてきた日々。でも、もう終わりだ。

キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。中身の八割は私が買ってきた食材だ。野菜、肉、調味料。私は大きなエコバッグを取り出し、自分が購入したものだけを詰め込み始めた。私が買ったものは私のもの。置いていく義理はない。

冷凍庫からも、作り置きのおかずを取り出す。明日から、波はどうするつもりなのだろう。料理もろくにできない彼女が、毎日三食作れるとは思えない。

次に向かったのは洗面所。私の化粧品、シャンプー、常備薬。全てダンボールに詰める。洗濯機の横に置いてあった洗剤や柔軟剤も、私が買ったものは全て持っていく。

「お母さんは汚いんでしょう。じゃあ、私のものはいらないわよね」

皮肉を込めて呟きながら、着々と準備を進める。そして、最も重要な作業に取りかかった。スマートフォンを取り出し、登録していたサービスの解約手続きを始める。

まず、家事代行サービス。週三回掃除に来てもらっていたが、実は費用は私の口座から引き落とされていた。高一たちは無料のサービスだと思い込んでいる。

「明日から解約でお願いします。ええ、急で申し訳ありませんが」

次に、食材の定期配送サービス。これも私の名義で契約し、支払いも私。野菜や肉を届けていたが、これも解約だ。

「はい、明日の配送から停止してください」

ネットスーパーの会員登録も削除。クリーニングの会員カードも処分。全て、私の名義で私が管理していたものだ。

ふと、壁にかかったカレンダーに目が止まった。来週、高一の会社の健康診断がある。いつもは前日に特別メニューを作って、体調を整えさせていた。でも、もうその必要はない。

私は手紙を書き始めた。

「高一さんへ。お言葉通り、出ていきます。四十二年間、ありがとうございました。認知症の疑いがある人間に、大切な家のことは任せられないでしょうから、全ての管理をお返しします。

なお、以下の件についてお知らせします。

家事代行サービス(月三万円)解約しました。
食材配送サービス(月二万円)も解約しました。
ネットスーパーの会員登録も削除しました。

私の年金振込先を変更する手続きを取ります。住民票も明日移動します。ローンの連帯保証人の件は、銀行にご相談ください。認知症の疑いがある人間が保証人では、銀行も困るでしょうから。

追伸。冷蔵庫の中身は、私が購入したものは持っていきます。明日からの朝食は、ご自分でご用意ください。

母より」

手紙を書き終えると、テーブルの上に置いた。そして最後の仕上げとして、家の合鍵を全て集めた。門の鍵、玄関の鍵、勝手口の鍵。全て私が管理していたスペアキーだ。

「これも置いていきましょう。認知症の人間に鍵を持たせるのは危険ですものね」

時計を見ると、もう朝の四時。後二時間で世が明ける。私は最後に自分の部屋に戻り、残りの荷物をスーツケースに詰めた。看護師時代の表彰状。患者さんからもらった感謝の手紙。亡き夫との思い出の写真。本当に大切なものだけを選んで詰め込む。

全ての準備が整った時、私の心は不思議なほど晴れやかだった。四十二年間の重荷を、やっと下ろせる。新しい人生の始まりだ。

朝六時。私は玄関に立っていた。スーツケース二つと、ダンボール三箱。四十二年間の人生が、これだけに収まった。玄関のドアを開けると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。振り返ることなく、私は家を出た。

タクシーに乗り込み、運転手に告げる。

「駅前のビジネスホテルまで、お願いします」

車が走り出した瞬間、私のスマートフォンが震えた。高一からの着信だ。まだ私の不在に気づいていないだろう。この電話は、多分何か用事の連絡に違いない。私は着信を無視した。

その頃、夫婦の家では大変が起き始めていた。朝六時半に目覚めた高一は、キッチンに降りてきた。毎朝六時には朝食が並んでいるはずなのに、テーブルには何もない。

「母さん、朝ご飯は?」

返事がない。不審に思いながら冷蔵庫を開けた瞬間、高一は絶句した。中はほぼ空っぽだった。調味料の棚も、醤油と塩しかない。冷凍庫を開けても、アイスクリームが一つあるだけ。

「なんだこれ? 波! 波、起きてくれ!」

慌てて二階に駆け上がり、妻を起こす。

「どうしたの? 朝から大声出して」

「母さんがいない。朝食もない。冷蔵庫が空っぽなんだ」

「はあ? 何それ?」

二人でリビングに降りると、テーブルの上に手紙があることに気づいた。高一が震える手で封を開ける。内容を読み進めるうちに、顔が青ざめていった。

「本当に…

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出ていった。嘘でしょ?」

波が手紙を引ったくるように取り、読み始めた。

「家事代サービス月三万円。食材配送月二万円。全部お母さんが払ってたの? そんなの聞いてない」

その時、高一のスマートフォンが鳴った。銀行からだった。

「福田光一様でしょうか。連帯保証人の変更申請の件で、お電話しました。福田さ子様から連帯保証人を降りたいとの申し出がありまして。代わりの保証人を立てていただく必要があります」

高一は言葉を失った。母の収入がなければ、新たな保証人を見つけるのは困難だ。

「それができない場合は、ローンの一括返済をお願いすることになります。残債は二千三百万円です」

電話を切った高一は、膝から崩れ落ちそうになった。

「どうするの? 朝食は? 私、今日仕事があるのよ」

波が苛立ったように言う。

「コンビニで買ってきて」

「私が? なんで私が?」

「じゃあ、自分で作れるのか?」

二人の間に険悪な空気が流れ始めた。その時、玄関のインターホンが鳴った。波が出ると、家事代行サービスの人だった。

「おはようございます。本日で契約終了とのことで、鍵をお返しに」

「終了? 聞いてませんけど」

「福田さ子様から解約のご連絡をいただきました。長い間、ありがとうございました」

波は呆然と立ち尽くした。週の掃除を誰がやるのか。続いて、食材配送の業者から電話が入った。

「本日の配送からキャンセルとのことで、確認のお電話です」

「キャンセルなんてしてません」

「福田さ子様から、昨夜ご連絡をいただきました」

次々と判明する事実に、夫婦は混乱した。高一は慌てて母の部屋に向かった。ドアを開けると、そこはもぬけの殻。クローゼットも、机の引き出しも、空っぽだ。

「金庫が開いてる」

中を確認すると、重要書類が全てなくなっていた。土地の権利書、実印。全て。

「これじゃ、家も売れない。何もできない」

リビングに戻ると、波が半泣きになっていた。

「洗剤もない。シャンプーもない。トイレットペーパーもあと一つしかないのよ」

高一は母に電話をかけた。一回、二回、三回。何度かけても出ない。

「クソ」

仕方なく、会社に遅刻の連絡を入れる。

「急な家庭の事情で。はい。午後には出社します」

朝食を買いにコンビニに走り、適当なパンと飲み物を買ってきた。

「これで済ませて」

「これが朝食?」

波の不満な顔を見て、高一も苛立った。

「文句があるなら、自分で作れよ」

「私だって仕事があるのよ。そもそもあなたが昨日あんなこと言うから」

責任のなすり合いが始まった。

九時、高一は銀行に電話をかけた。

「連帯保証人の件ですが、なんとか母を説得しますので、少し待っていただけませんか?」

「一週間の猶予はありますが、それ以上は… 」

次に、親戚に電話をかけ始めた。

「実は母が家を出てしまって。ええ、昨日の今日で。もし連絡があったら教えてください」

親戚の反応は冷たかった。

「昨日のあの言い方はひどかったんじゃない? お母さんがかわいそうだと思ってたのよ」

避難めいた言葉が返ってくる。

昼になっても、昼食を作れる人はいない。また外食だ。食費がかさむ。

「お母さんの年金十八万円がないと、生活費が足りないわ」

波が家計簿を見ながら言った。

「ローン十五万、管理費三万、光熱費三万、食費五万。私たちの収入だけじゃ赤字よ」

夕方、高一の会社から電話があった。

「福田さん、健康診断の前日なのに、なぜ通常食を? いつもお母様が特別メニューを用意されてたでしょう」

細かいことまで、母が管理していたことを今更ながら思い知らされた。

夜七時、波が泣き出した。

「夕飯どうするの? 洗濯物も溜まってるし、お風呂掃除もしてない」

「僕だって疲れてるんだ」

「私だって疲れてる」

二人の言い争いは、夜遅くまで続いた。

その頃、私はホテルの部屋でゆっくりとお茶を飲んでいた。スマートフォンには着信が五十件以上。全て無視だ。テレビをつけると、ちょうどドラマが始まるところだった。十年ぶりに、自分の好きな番組を好きな時間に見る。小さな幸せが心に沁みた。

明日から、新しい生活を始めよう。友人がルームシェアの相談に乗ってくれている。家賃は手頃で、お互い気楽に暮らせる。窓の外を見ると、都会の夜景が輝いていた。四十二年間の束縛から解放された私の心も、星のように輝いていた。

一週間後、私は駅前のビジネスホテルから、小さなワンルームマンションに移っていた。家賃は月七万円。年金十八万円から、十分に払える額だ。何より、誰にも気を使わない一人暮らしが、こんなに気楽だとは思わなかった。

朝六時。目覚ましなしで自然に目が覚める。四十二年間の習慣は簡単には変わらない。でも今は、誰の朝食も作らなくていい。自分のためだけにコーヒーを入れ、トーストを焼く。

スマートフォンを見ると、着信が八十三件。高一から五十件、波から三十件、その他親戚から。全て無視だ。

その頃、夫婦の家は完全に崩壊していた。高一は連帯保証人を見つけられず、銀行から最後通告を受けていた。実印も権利書もないため、家を売ることもできない。朝食はコンビニ弁当。昼食は外食。夕食もスーパーのお惣菜。食費だけで月十万円を超えていた。

「もう限界だ。母さんを探し出すしかない」

高一は探偵事務所に依頼し、ついに私の居場所を突き止めた。

二週間後の朝、マンションの前で高一が待ち伏せしていた。

「母さん」

やつれ果てた息子の姿を見ても、私の心は動かなかった。顔は無精髭に覆われ、スーツはしわだらけ。以前の清潔感のある息子の面影はない。

「何の用?」

「帰ってきてくれ。頼む。僕が間違っていた。認知症の疑いがある人間が家にいたら困るなんて、あれは撤回する。母さんは認知症なんかじゃない」

「今更、親戚十数人の前で私を侮辱したことは消えないわ」

高一は土下座する勢いで頭を下げた。

「本当に申し訳なかった。波も反省している。毎日泣いているんだ。それで… ローンが払えない。保証人に戻ってくれないか」

私は冷たく笑った。

「認知症疑いの人間が、保証人になれるかしら」

「母さん、意地悪を言わないでくれ」

「意地悪? 四十二年間、私があなたたちのために何をしてきたか、今なら分かる?」

高一は顔を上げた。目に涙が溜まっている。

「分かった。本当に分かった。朝食も作れない。洗濯物は溜まる。掃除もできない。家の中はめちゃくちゃだ」

「自業自得ね」

「母さんがいないと、僕たちは生活できないんだ」

「でも、もう遅いのよ」

私の言葉に、高一は絶望的な表情を見せた。

「お金なら払う。月に十万でも、三十万でも」

「お金の問題じゃないの。私の尊厳の問題なの」

そこへ、波も駆けつけてきた。以前の完璧なメイクは崩れ、髪もぼさぼさだ。

「お母さん、お願いします。私が悪かったです」

「あら、波さん。私みたいな不潔な人間に近づいて、大丈夫?」

波は顔を真っ赤にして俯いた。

「本当にごめんなさい。お母さんがいないと、何もできないんです。仕事も手につかなくて、会社でもミスばかりで」

私は二人を見下ろした。かつて私を見下した二人を。

「いいえ。私は二度と戻らない。あなたたちは私をお荷物と言った。早く出ていけと言った。私はその通りにしただけ」

「後悔してる。本当に後悔してるんだ」

「後悔したら、自分たちで抱えて生きなさい。私は私の人生を生きる」

マンションに戻り、一人の部屋で深呼吸をした。窓から差し込む朝日が眩しい。私は日記を開いた。

「今日、息子夫婦と最後の対面をした。彼らは完全に崩壊していた。でも、私の心は痛まなかった。四十二年間の看護師生活で学んだことがある。患者さんが最後に後悔するのは、自分の人生を生きなかったこと。私は六十八歳で、やっと自分の人生を始めた」

「理不尽に耐えることが美徳だと思っていた時期もあった。でも違う。自分の尊厳は、自分で守るもの。誰も守ってはくれない。息子夫婦への仕返し? それは、私が私らしく幸せに生きること。彼らが苦しむ姿を見ることが復讐ではない。私が自由に、誇りを持って生きることが、最大の勝利なのだ」

ペンを置いて、私は微笑んだ。新しい日が始まる。私だけの、自由な一日が。