「貧乏臭い寿司なんか、いらねえんだよ。俺ら上位層には合わないからさ」 ピンポーン……開始30分前。50人分の予約、120万円分の仕込みが、たった一本の電話で全てパーになった。借金してまで揃えた大トロもウニも、無駄になった。その日、父は初めて声を詰まらせ、私は父の背中が小さく見えた。でも、その夜、40年以上通う常連の“潤おじさん”が、静かな怒りを帯びた目で店に来た。…

「貧乏臭い寿司なんか、いらねえんだよ。俺ら上位層には合わないからさ」 ピンポーン……開始30分前。50人分の予約、120万円分の仕込みが、たった一本の電話で全てパーになった。借金してまで揃えた大トロもウニも、無駄になった。その日、父は初めて声を詰まらせ、私は父の背中が小さく見えた。でも、その夜、40年以上通う常連の“潤おじさん”が、静かな怒りを帯びた目で店に来た。...

電話の向こうの声は、最初からこちらを見下すように高圧的だった。

「そんな貧乏臭い寿司なんか、いらねえんだよ。50人分、120万円分、丸ごとキャンセルだから。昨日の段階で確信したんだよ。味も店の佇まいもダサいし、俺ら上位層には全然合わないからさ。こっちは最強銀行のエリート側だろ。もっと看板が立つ店に切り替えたんだよ。じゃあな」

ツー、という無機質な切断音だけが、店内に虚しく響き渡った。

時刻は午後5時30分。予約開始の30分前だった。

「お父さん……キャンセル来ました」

震える千里の声に、板場で仕上げをしていた父・健二が顔を上げた。その目には、信じられないという色が浮かんでいた。

「なんだと……?」

カウンターには、今まさに並べようとしていた50人分の寿司があった。脂の乗った大トロ、艶やかなウニ、立ちのいいシャリ。その食材はすべて、この日のために借りた金で揃えたものだった。仕入れの総額は120万円。2年前に妻を亡くし、肩と膝に持病を抱える健二が、娘のために体を削って準備した、渾身の一席だった。

「ごめんなさい。私が予約の条件をもっとしっかり確認しておけば……」

千里の目から涙がこぼれ落ちた。21歳の彼女は、父の店を守るために調理の専門学校を中退した。学費を浮かせ、毎日店に立ち、笑顔で客を迎えてきた。そして今日の50人分の予約。これが実れば借金も減らせるし、古くなった設備も直せる。そう信じて、父と二人で寝る間も惜しんで準備してきたのに。

「ちひろ……」

健二の声は掠れていた。娘を責めることなどできるはずもない。全ては自分の腕と判断力が足りなかったせいだと、拳を固く握った。板前として38年、江戸前寿司一筋で生きてきた誇りが、今まさに足元で踏みにじられた。

「俺が未熟だった」

父の背中が、ひどく小さく縮こまって見えた。千里は袖で涙を拭い、無理に笑顔を作ろうとした。

「大丈夫。なんとか……なんとかなるから、お父さん」

しかし声は震え、言葉が続かなかった。

二人は無言で、並べかけの寿司を見つめた。生ものは長く持たない。今、処分するしかない。120万円が、この瞬間に音もなく消えていく。

その夜、午後10時。閉店後の「鮨かいしき」に、静かに扉が開く音がした。いつもの湯気の匂いは残るが、店内は重い沈黙に包まれていた。

「こんばんは」

入ってきたのは、白河潤一郎だった。76歳。地味だが品のいい服を着た、穏やかな目つきの男。この店の常連として、40年以上通い続けてきた。

「潤おじさん……」

カウンターで俯いていた千里が顔を上げた。目は赤く腫れていた。潤一郎の表情が、一瞬で硬くなった。

「ちさとちゃん、どうしたんだい?」

健二も、いすの椅子に深く腰を下ろした。いつもなら「いらっしゃい」と明るい声が帰るはずなのに、今夜は全てが違っていた。

千里は震える声で、電話の内容と、直前までの仕込みのことを順に話し始めた。「貧乏臭い寿司はいらねえ」って言われて。「俺ら上位層には合わない」って。涙で言葉が詰まる。潤一郎は目を細め、表情は変えないまま、奥で何かを必死に抑えていた。

「そうか」

声はいつもと同じ優しさを帯びていた。それでも千里は、その低い響きの中に怒りの気配を感じ取った。

「潤さん、すみません。こんな話を……もう店を畳むしかないかもしれません」

その言葉に、潤一郎の拳がわずかに震えた。

『この店を……失わせるわけにはいかない。畳むのは、この店じゃない』

潤一郎の胸に、44年前の記憶が鮮やかに蘇った。

昭和57年、1982年。二十歳の潤一郎は、ほとんど無一文で東京に出てきた。地方から上京したばかりの青年に、最初から仕事はなかった。日雇いでわずかな金を稼ぎ、その日を乗り切るのが精一杯だった。

そんなある日、人形町の路地で小さな看板を見つけた。『鮨かいきし』。狭いが、木の匂いが清潔な店だった。

「いらっしゃい」

声の主は、千里の祖父にあたる初代店主だった。

「すみません。握りを……一人前を」

財布の中身はわずか420円。それでも温かい寿司が食べたくて、潤一郎は店に入った。

「若いの。上京してきたのか」

「はい」

「なら、腹いっぱい食え。これからが勝負だ」

大将は、一人前の値段で倍以上の寿司を出してくれた。そして笑顔で言った。

「金がなくても、腹が減ったら来い。食わせてやるから」

その言葉に、潤一郎は胸が熱くなった。それから毎日、店に通った。日雇いで稼いだわずかな金で寿司を食べた。大将はいつも、同じように迎えてくれた。「ちゃんと働いてるか? 偉いぞ。いつかお前にいい日が来る」。居場所のなかった日々を、大将の言葉が支えてくれた。

潤一郎は必死に働き、投資の本を独学で読み始めた。大きな資金で失敗を重ね、それでも諦めずに学んだ。恩を返すまで、倒れるわけにはいかない。10年後、小さな投資会社を立ち上げた。20年後、会社は大きく育ち、潤一郎は名の通った資本家となっていた。

それでも、潤一郎はこの店を忘れなかった。初代が亡くなり、二代目の健二が店を継いだ。健二も父と同じように、潤一郎を温かく迎えてくれた。「潤さん、いつもありがとうございます」。そして千里が生まれた。幼い里は潤一郎を「潤おじさん」と呼んで懐いた。「おじいちゃん、今日は寿司いっぱい食べてね」。その笑顔が、潤一郎の心を何度も救ってきた。

2年前、健二の妻が病気で亡くなった。潤一郎はこっそりと葬儀と当面の生活費を手当てした。健二のプライドを傷つけないよう、名乗ることはなかった。毎年の誕生日には、千里が手紙と握りを届けてくれる。「潤おじさん、いつもありがとうございます。おじいちゃんは私のヒーローです」。その文を読むたび、潤一郎は目頭が熱くなった。

血は繋がらないが、親子とこの店は、潤一郎の人生そのものだった。

彼は静かに息を吐き出した。

「健二さん、ちさとちゃん。詳しく聞かせてくれないか。その銀行員のことだ」

千里は堰を切ったように話し始めた。昨日、その男が下見に来たこと。ネクタイを緩め、カウンターに頬杖をつき、父が握った一貫を指先で押して笑っていたこと。「こんな古い店、よく持つね」と。「まあ、慰安会には使えるかな」。その後、夜の金融仲間の車内チャットの画面が回ってきて、『人形町の昭和寿司は下受け接待にちょうどいい』と書かれていたこと。名前は伏せられていたが、この店だと分かったこと。

「お父さんは……お客様だからって、我慢してました。でも手が震えてて……悔しくて」

千里が肩を震わせた。潤一郎は、その肩にそっと手を置いた。

「もう大丈夫だ」

声は優しかった。しかし、潤一郎の口元は引き結ばれ、笑みは消えていた。

『絶対に許さない。この店も、君たちも、俺が守る』

「その銀行員の名前は、吉岡涼。30歳。最強銀行・人形町支店の方です」

潤一郎の目が、さらに細められた。

「最強銀行……。そうか。あの最強銀行か」

潤一郎は静かに立ち上がり、健二に深く頭を下げた。

「健二さん、ちさとちゃん。少し時間をください。必ず、この店を守ります」

言葉に確信があった。健二の目にも涙が光った。

「潤さん……ありがとうございます」

潤一郎は静かに店を出た。夜の人形町を歩きながら、彼は空を見上げた。

『親方……見ていてください。あなたの店を、必ず守ります』

静かな怒りが、老体を包み込んだ。これは、理不尽な仕打ちで追い詰められた親子が、最後に報いを受ける因果応報の物語である。

翌朝、港区の超高層ビル最上階。『潤井総合投資』の会長室。重厚な机の前で、潤一郎は窓の外を見ていた。

ノックの音が響いた。

「失礼いたします」

入ってきたのは、会長秘書の岩崎リエ、44歳だった。

「岩崎、調べてほしいことがある」

「はい」

「吉岡涼。30歳。最強銀行・人形町支店勤務。この男の素性を、洗い出してくれ」

潤一郎の声は、いつもより低く、冷たかった。岩崎は一瞬で察した。会長が、本気で怒っている。

「承知しました。1時間以内にまとめます」

岩崎が部屋を出て、わずか55分後。報告書が潤一郎の机に置かれた。

『吉岡涼、30歳。有名私立大学卒業後、最強銀行に入行。入行7年目で人形町支店の営業第二部副主任に昇進。学歴と華やかな肩書きに驕り、横柄な態度で知られる。SNSでは高級店の写真を多用し、承認欲求が強いタイプ』

潤一郎は報告書に目を通し、静かに頷いた。

「最強銀行か……」

「会長。実は最強銀行との大型案件が、最終段階にございます。2兆円規模の総合ファイナンス。来月頭に最終決済の予定です」

潤一郎は資料の束を指で押さえ、顔を上げた。

「2兆円か」

「はい。また、当社は最強銀行の筆頭株主でもございます。保有株式17%。実質的に、当社の意向が経営判断に入ります」

潤一郎は静かに立ち上がった。

「岩崎。本店の頭取にアポを取ってくれ。私が直接、会う」

「承知しました」

同日午後2時。東京・大手町。最強銀行本店の超高層ビル。最上階の頭取室。重厚な扉が開き、潤一郎が静かに入室した。

「潤井会長、ご来栄です」

頭取の森川修、63歳が満面の笑みで迎えた。潤井総合投資は最大級の顧客兼株主であり、2兆円案件は業績の柱だった。

「森川頭取。突然の訪問、失礼する」

「いえいえ、いつでも歓迎です。来月の決済に向けて、何かご確認でも……」

潤一郎は正面に座り、静かに、しかしはっきりと告げた。

「案件は、白紙撤回させていただきます」

森川の笑顔が、一瞬で消え去った。

「は……はい? 白紙……撤回ですか?」

森川の顔がみるみる青ざめた。2兆円が消え、銀行に致死的な穴が開く。会計部と広報は、画面を開き、入力する手が止まった。

「潤井会長、条件を引き上げることは可能です。どうかご再考を……!! 」

「いいえ。条件の問題ではない。貴行の社員が、私の大切な店を侮辱した」

森川の目が、見開かれた。

「人形町の『鮨かいきし』だ。昨日から今日にかけて、何があったか。貴方は知っているか?」

潤一郎は、予約の直前キャンセルと、下見の際の侮辱、暴言の要点をもらさず告げた。森川の顔が、どんどん硬くなっていく。

「その店は、44年前、私が無一文だった頃、唯一私を人間として扱ってくれた場所だ。あの店がなければ、今の私はありません」

森川は息を飲み、背筋を伸ばした。

「その店を、貴行の社員・吉岡涼が、踏みにじった」

「吉岡……涼……」

森川は震える手で内線電話を取った。

「人事部長、すぐ来てくれ。吉岡涼という社員を、洗え。今すぐだ」

数分後、人事部長が資料を抱えて飛び込んできた。

「吉岡涼、31歳。人形町支店、営業第二部副主任です。すぐ本店に呼びます。緊急役員会を開きます」

森川の声は震えていた。潤一郎は静かに立ち上がった。

「森川頭取。誠意を見せてください」

「も、もちろんです。徹底調査し、厳正に処分いたします」

「処分だけでは、足りません」

潤一郎の声が、一段と低くなった。

「板前と娘が、どれだけ傷ついたか。120万円の借金で揃えた食材が、廃棄になったか。それを軽く見た代償は、大きい」

森川は冷や汗を拭い、深く頭を下げた。

「必ず誠意を示します。どうか……案件の再考を」

「それは、貴行の対応次第だ」

窓の外はまだ明るい昼だった。潤一郎は静かに頭取室を後にした。

その頃、人形町の吉岡涼の携帯が鳴った。

「はい、吉岡です」

「吉岡副支店長。今すぐ本店へ。役員会議だ。緊急召集です」

吉岡は下品な舌打ちをしながら電話を切った。

「ちっ、なんだよ。急に」

同席していた後輩が、恐る恐る声をかけた。

「支店長……本店で何かあったんですか?」

「知るかよ。俺は何も悪いことしてないし」

後輩は黙ってPCの画面に戻り、指がキーボードの上で止まった。まだ彼は気づいていなかった。自分の人生が、今まさに崩れ始めていることに。

午後4時。最強銀行本店の会議室。役員たちが険しい顔で並んでいた。その重苦しい空気の中、吉岡が入室した。

「お呼びでしょうか?」

森川は眉間に深い縦じわを刻み、吉岡を正面から見据えた。

「吉岡。座れ」

森川の声は、怒りを抑えた低さだった。吉岡は状況を読めないまま席に着いた。

「貴様、『鮨かいきし』を知っているな」

「は? ああ、あの狭い寿司屋ですよね」

その瞬間、森川の拳が机を叩きつけられた。

「その店が、誰にとって何の店か、知らんのか!」

会議室全体が静まり返った。

「知りませんけど。ただの古い店じゃないですか?」

役員たちの顔が、さらに険しくなった。

「吉岡。お前は、とんでもないことをしたぞ。昨日、50人分を開始30分前にキャンセルしたな」

「はい。まあ、別の店に切り替えたので。理由は……古いし、料理も好みじゃないし。うちの客層に合わないかなって」

「その時、なんと言った?」

「え? 普通にキャンセルって言いましたけど……」

「『貧乏臭い寿司はいらねえ』と言ったな。『上位層には合わない』とも言ったな」

会議室に、重い沈黙が落ちた。吉岡の顔がわずかに引きつった。

「まあ……言ったかもしれませんけど。事実、そう感じたんで……」

その時、会議室の扉が静かに開いた。役員たちが一斉に立ち上がり、深く頭を下げた。

「潤井会長」

入ってきたのは、潤一郎だった。静かな足取りで会議室の中央へ進む。吉岡だけが、状況を理解できずに立ち尽くしていた。

「あの……この方は……」

「潤井総合投資の創業者、潤井潤一郎会長だ」

吉岡の顔が、一気に青ざめた。潤井総合投資を知らない金融マンなどいない。日本最大級の投資会社だ。

「……う、潤井会長……」

「君が、吉岡涼君か」

潤一郎の声は穏やかだったが、冷たかった。その目元は硬く、瞬きの回数が減っていた。

「君が侮辱した店は、私の命の恩人の店だ」

吉岡の喉が乾き、唾を一度だけ飲み込んだ。体が震え始めた。

「そ、そんな……存じ上げませんでした。誰も教えてくれませんでした」

「教えなくて済む話じゃない。お前が聞かなかっただけだ。44年前、一文無しの俺に、初代の大将が飯を分けてくれた。『金がなくても来い』と言ってくれた。それが俺の出発点だ。今の大将は健二さん。ちさとちゃんは、家族同然だ」

会議室に、潤一郎の低い声だけが落ちた。吉岡の額には、冷や汗が流れていた。

「会長は、当行の筆頭株主だ。さっきの説明を、よく思い出せ」

吉岡の顔が、さらに歪んだ。

「来月、決済予定だった2兆円の総合案件。お前のせいで、白紙になった」

「2兆……円……?」

吉岡の膝から力が抜けた。手帳が膝から滑り落ち、床に落ちた。2兆円。その桁がようやく、腹の底に落ちた。

「待ってください! キャンセルは接待の都合で……」

「都合で、人を踏んでいいのか?」

「そ、そんな……ただの寿司屋が……」

「ただの寿司屋? 君には、あの店の意味が分からないだろう。健二さんは2年前に妻を亡くした。持病を抱えながら、娘のために店を守っている。ちさとちゃんは、学校を辞めて父を支えている。そんな二人が、君の予約に未来を託した。120万円を借金して、最高の食材を揃えた。それを君は、開始30分前に電話一本で切った」

吉岡は唇を噛みしめ、膝の上で握った拳の爪が、手のひらに食い込んだ。

「『貧乏臭い』『合わない』『エリート』。君は、人の人生を何だと思っている。店を貶める権利も、人を辱める権利もない」

吉岡は言葉が出なかった。ただ震えるだけだった。

「もう……申し訳ございません……」

絞り出した声も、震えていた。

「謝れば、何とかなると思っていたのか? 銀行は、お前の里じゃない」

その時、吉岡の携帯が鳴った。妻からだった。吉岡は震える手で電話に出た。

「あなた、何してるの? ママ友のグループで変な記事が回ってきたんだけど……潤井総合投資と銀行が揉めてるって、本当?」

妻の声が、会議室に漏れていた。吉岡は妻への言い訳まで、全員の前で晒された。

「い、今は……切るぞ」

そう言って電話を切った瞬間、岩崎が資料を配り始めた。

「潤井会長の投資先と影響力一覧です」

役員が資料に目を通す。数字は、資料の通り。赤字の桁が、お前の軽率な行動の結果だと読めた。吉岡は表の桁を指でなぞり、返せない規模だと腹の底で悟った。

「よ岡君。話を聞いてくれるか?」

静かな声に、吉岡が震えながら顔を上げた。

「さっき言った通り、あの店は俺の背骨だ。必死に働いて、守れる立場に来た。それを君は、笑って踏みにじった。他人の人生を軽んじる権利は、誰にもない」

吉岡は何も言えなかった。涙だけが溢れてきた。

「……もう、仕訳ございません」

しかし森川の顔は、険しいままであった。

「謝罪では済まない。信用を傷つけた責任は、お前一人では測れん。暴言、下見の侮辱、直前キャンセル、120万円の仕入れの廃棄。希望を壊したのは、全部お前だ」

数え上げられる度に、吉岡の顔が歪んだ。遂に、吉岡は泣き崩れた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「吉岡君」

潤一郎の声が、静かに響いた。

「謝る相手は、私ではない。健二さんと、ちさとちゃんだ。今から店に行きなさい。二人に心から謝罪しなさい。賠償金120万円は、自腹で払いなさい」

吉岡は震えながら頷いた。

「吉岡。処分を言い渡す」

森川の声が、冷たく落ちた。

「直ちに、人形町支店副支店長を解く。地方勤務への左遷も検討したが、それでは足りない。依願退職を、強く勧告する」

吉岡の目が、絶望で見開かれた。

「左遷だけでも……お願いします! 家族が……住宅ローンが!」

「それは、自業自得だ」

その時、廊下からどよめきが聞こえた。『最強銀行員が伝説的投資家の恩人店を侮辱。2兆円案件が白紙に』。すでにニュースが、SNSで広がり始めていた。

「吉岡。お前の行為は、社会問題だ。飲食店への理不尽なキャンセルと、エリート意識による侮辱。銀行の信用は、地に落ちた」

吉岡はもう何も言えなかった。床に手をつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、泣き続けた。

「吉岡君。立ちなさい」

声に、吉岡が震えながら立ち上がった。

「君には、やり直しの余地がある。ただし、心からの謝罪と、誠実な賠償の後だ。分かるか?」

「あ……はい」

「店で謝罪し、120万円を自腹で払え。それができたら、案件は再開する」

森川の顔が、わずかに緩んだ。

「潤井会長。それは……!」

「条件がある。謝罪が心からのものであること。そして、銀行として二度と同じことを起こさないこと。それだけだ」

吉岡は潤一郎の前で床に手をつき、深く頭を下げた。

「潤井会長……本当に、本当に申し訳ございませんでした。私の傲慢さで、人の人生を……」

声が涙で詰まった。

「今から謝罪に行きます。賠償も自腹で払います。どうか……お許しください」

潤一郎は静かに頷いた。

「行きなさい。人の痛みを、体で覚えなさい」

吉岡は膝に手を当て、息を二度吐いてから、会議室を出た。誰も「お疲れ様」とは言わなかった。扉が閉まる音だけが、廊下に残った。

「潤井会長。本当に申し訳ございませんでした。今後、幹部へ徹底教育します。お願いします」

「弱い立場を、決して軽んじないでください。小さな店にも、人生があることを、忘れないでください」

森川は深く頭を下げた。潤一郎は静かに会議室を後にした。岩崎が後ろを追う。

「会長。案件は……再開されるのですか?」

「ああ。店の方々に、今夜様子を伺おう」

「私も同行いたしますか?」

「いい。邪魔になる。誠意が示せたら、進める。俺の目的は復讐じゃない。店を守ること。ちさとちゃんと健二さんを守ることだ」

岩崎は小さく頷いた。

「会長らしいご判断です」

大手町の外へ出ると、風が冷たく頬を打った。待ち構えていた記者たちが殺到する。

「潤井会長! 一言だけ!」

「店と人を守っただけだ。詳細は、銀行へ聞いてくれ」

潤一郎は短く答え、黒い車に乗り込んだ。記者たちはシャッターを鳴らし、車が曲がるまでレンズを向け続けた。

その頃、吉岡は銀行の窓口で現金を受け取っていた。窓口担当者は札束を丁寧に数え、念を押すように領収書に判を押した。震える手で封筒を握りしめ、吉岡は人形町へ向かった。

『全部……自分が招いたことだ』

その日の夕方、午後6時30分。『鮨かいきし』に、一人の男が現れた。吉岡涼。顔はやつれ、目は赤く晴れていた。

「失礼します……」

千里と健二が、驚いて顔を上げた。

「あなたは……」

「キャンセルをした、吉岡です」

吉岡は入り口で深く頭を下げると、カウンターの前で土下座した。

「本当に申し訳ございませんでした!」

額を床につけ、声を震わせた。

「傲慢さで、希望を壊しました。120万円の仕入れを、無駄にしました。責任は、全部私です」

千里と健二は、黙って吉岡を見ていた。

「賠償の120万円です。可能なら……機会損失も、お許しください」

吉岡は震える手で封筒を差し出した。健二は静かに封筒を受け取った。

「分かった。二度と、顔を見せるな」

千里は父の手首がわずかに震えていることに気づいたが、何も言わなかった。

「お父さん……手、冷たい」

「大丈夫だ」

吉岡はさらに深く頭を下げた。

「はい……本当に、申し訳ございませんでした」

吉岡は店を出ていった。千里は封筒の厚みに指を当て、深く息を吐いた。

「お父さん……まだ、怖い」

「ああ、怖くていい。忘れるな。忘れない。でも、進もう」

「あの人の声が、まだ耳に残ってる。でも……怖がってるだけじゃ、父さんを守れない」

翌朝、千里は米を研ぎながら、指先の冷たさを確かめた。

「お父さん、今日から普通に笑う練習する?」

「逆に、笑え。鏡の前で練習すんな」

「ずるい。笑ってるじゃん」

健二は包丁を研ぎにやり、心地よい音で返事を返した。店に、少しずつ日常が戻り始めていた。

吉岡は退職願の書類に署名し、名刺の束を引き出しから抜き出した。幹部候補という肩書きは、音を立てて崩れ落ちた。面接では毎回、最後の質問で扉が閉まった。元同僚からは連絡先が消え、マンションのローン通知だけが机の上に積まれていった。

それでも彼は、週3日のデータ入力の派遣で机に向かった。オフィスの長机で、誰も彼の隣の椅子を引かなかった。

『当たり前だ。人を見下す前に、足元を見ろ』

夜の人形町の路地を通るたび、彼は『鮨かいきし』の看板から目をそらした。郵便受けから催促状を抜き、玄関の明かりだけで数字を追った。

『忘れるな。俺が壊したのは、仕事じゃない。人の心だ』

一週間後、『鮨かいきし』に小さな転機が訪れた。潤一郎の根回しで、法人の接待予約が再び入り始めたのだ。

「お父さん、また予約が入ったよ。15名様!」

「本当か?」

潤井総合投資の紹介と、口コミで話題が広がり、予約は少しずつ埋まり始めた。店は、確かに息を吹き返していった。

「まだ……声は震えるけど。でも、逃げない」

千里は予約表に赤ペンで丸をつけ、手のひらの汗を拭った。健二は包丁を研ぐ音を、一定に保った。

ある日の夕方、潤一郎がいつものように店を訪れた。

「潤おじさん! いらっしゃい!」

千里の笑顔が、以前より明るかった。

「ちさとちゃん、元気そうだね」

「おかげ様です! 本当にありがとうございます」

「潤さん……感謝してもしきれません」

健二がカウンター越しに深く頭を下げた。

「救われたのは、こちらだ」

潤一郎は席につき、健二が丁寧に握る寿司を口に運んだ。

「うまい。今日のうまさは、嘘じゃない」

「ありがとうございます」

「やっぱり、ここの寿司が一番だ」

「おじいちゃん、これからも来てくださいね」

「約束する。この店がある限り、俺は通う」

店内に、小さな笑い声が響いた。また常連客が増えたね、と千里が言う。健二は「手を抜くなよ。名前は覚えろ」と笑った。

笑い声は路地へ漏れ、夕暮れの空気に溶けていった。潤一郎は寿司を味わいながら、心の中で呟いた。

『親方……見ていますか。あなたの店は、守られています。ずっと、ずっと』

温かい涙が、老いた頬を伝った。店内には、穏やかな時間が戻ってきていた。健二は仕込み表に印をつけ、千里は予約表に小さく「今日も」と走り書きした。優しい明かりが、三人を照らしていた。

「お父さん、足元気をつけて」

「お前こそ、滑ったら終わりだぞ」

『鮨かいきし』は今日も、変わらず営業を続けている。明日も、この場所を守ろう。潤一郎は路地を抜け、いつもの足取りで車へと向かった。

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