顔合わせの席で、り子は相手の父親を見て息を呑んだ。佐藤健二。それは忘れもしない、かつての夫の名前だった。
「お前…どうしてここにいるんだ。」
健二の低く震える声が部屋に響いた。り子は何も言えず、ただ俯いて震えるだけだった。数十年ぶりの再会が、まさか息子の婚約者の父だとは思わなかった。
「この結婚は無しだ。こんな家と結婚させるわけにはいかない。」
健二は立ち上がって怒鳴り、テーブルの上の水の入ったグラスを掴むと、躊躇なくり子に浴びせかけた。冷たい水が顔とスーツをびしょ濡れにした。その場は一瞬で混乱に包まれた。み咲は悲鳴を上げ、順夜は急いで母親の体を支えた。
「この汚らわしい女がいる場所から、今すぐ失礼するぞ。」
健二は妻と娘の手を乱暴に引き摺り、そのまま会場を去っていった。ドアがバタンと大きな音を立てて閉められた。残されたのは、水に濡れて震えるり子と呆然とする順夜だけだった。
家に帰り着いた後、順夜は母親に問い詰めた。
「母さん、一体どういうことなんだ?あの人と知り合いだったのか?」
沈黙の後、り子はゆっくりと口を開いた。声は小さく震えていた。
「…元夫なのよ。佐藤健二さんは私の元夫なの。」
その言葉に順夜の世界が崩れ落ちた。彼はソファから勢いよく立ち上がり、歩き回りながら叫んだ。
「どうしてそんなことに! 僕の実の父親じゃないよね?」
り子は頷いた。私たちの間に子供はいなかった、と。順夜は再びソファに座り込むと、切実な声で言った。
「じゃあ、僕とみささんの結婚はできるんじゃないのか? 法的には問題ないはずだ。」
しかし、り子の表情は沈んでいった。
「純夜、ごめんなさい。実は私、あの人に大きな罪を犯したの。おそらく向こうはどんなことがあっても反対するわ。」
「罪? どんな罪を犯したっていうんだ!」
順夜は立ち上がり、声を荒げた。り子は首を横に振るだけで、何も話そうとしなかった。順夜の目には涙が溢れていた。
「僕はみささんがいないと生きていけないんだ…。」
その言葉を残し、順夜は自分の部屋へと向かっていった。ドアがバタンと閉まる音が家中に響いた。
それから数日、順夜は部屋から出てこなかった。ノックをしても返事はなかった。り子はドアの前で立ち尽くすしかなかった。そして、ある朝。テーブルの上に一通の手紙を見つけた。順夜の字だった。
「母さんへ。これまで育ててくれてありがとうございました。僕はみささんがいないと生きていけそうにありません。ごめんなさい。」
両足から力が抜け、その場に座り込んだ。必死に部屋へ駆け込むと、空っぽだった。クローゼットも机も、何もかもがなくなっていた。り子は息子が勤める会社へ向かったが、数日前に退職したと言われた。最後の望みをかけてみ咲に電話をしたが、一度目も二度目も呼び出し音が続くだけで、彼女は出なかった。
絶望に打ちひしがれるり子の携帯が突然鳴った。もしかして順夜かと期待したが、聞こえてきたのは怒りに満ちた男の声だった。
「鈴木り子か。お前の息子がうちの娘を誘拐していったんだぞ! 今すぐ探し出して連れて来い!」
健二の怒号に、り子はただ謝ることしかできなかった。
それから数日後、り子の携帯に知らない番号から電話がかかってきた。静岡の病院からだった。
「鈴木純夜さんのご家族の方ですか? 患者さんの容態が危険です。至急お越しください。」
り子はタクシーを飛ばして病院に駆け込んだ。順夜はベッドに横たわり、意識はなかった。一酸化炭素中毒で、部屋で寝ているうちに火災に巻き込まれたらしい。命に別状はないが、一、二日は目を覚まさないかもしれないという。一緒にいた女性も煙を吸って別の病室にいると聞き、り子の心は重くなった。
その時だった。廊下から聞き覚えのある声がした。健二がこちらに大股で近づいてきて、り子の胸ぐらに乱暴に掴みかかった。
「お前の息子のせいで、俺の娘が死にかけたんだぞ!」
り子は抵抗もせず、謝り続けた。ごめんなさい、ごめんなさい。すると、健二の妻であるじ子が慌てて駆け寄り、夫を制した。
「やめてください! ここは病院ですよ。いくら腹が立ったからって、女性にこんなことをするなんて。」
看護師たちも駆け寄り、健二は仕方なく手を離した。じ子は夫の腕をそっと掴んでその場を離れていった。
翌日。じ子がり子を病院のカフェに呼び出した。はっきりと言った。
「お二人の過去については存じています。もう随分時間も経ちました。これから先、長い人生を歩む子供たちのために、どうか腹を割ってお話し合いください。」
じ子が席を立った後、二人の間に重い沈黙が流れた。しばらくして、健二が口を開いた。昨日、病院で掴みかかってしまったことを、深く詫びた。
「俺がひどすぎた。本当にすまなかった。」
その言葉に、り子は我慢の限界が来た。涙が溢れ、嗚咽が漏れた。私の方こそごめんなさい、と。全て私のせいで、と。健二は、一番聞きたいことを口にした。それは、自分が一番聞きたかったことでもあった。
「なぜ…なぜ俺を捨てたんだ?」
り子はゆっくりと、遠い過去の記憶を語り始めた。結婚して間もなく、健二の会社が不況で傾き始めた。借金取りが家に押しかけ、健二は絶望の底にいた。そんな時、健二の事業を潰した張本人であり、かつて自分にプロポーズしてきた男、長谷川がやって来た。
「お前の旦那は完全に破産しただろう。俺のところに来い。お前の為に借金も返してやる。」
長谷川は執拗に迫った。そして、夫である健二が借金取りに殴られ、無残な姿で帰ってきた時、り子は決意した。このままでは夫は死んでしまう。自分が去れば、夫も会社も救われるかもしれない。り子は長谷川に連絡し、条件を出した。夫に知られずに秘密にすること。それが唯一の希望だった。
「あなたと離れたくなかったけど、あなたと離れなければならなかったの。」
その告白を聞いた健二は、長い間抱いてきた恨みと怒りが、どれほど間違っていたのかを知った。積年の誤解が溶け、二人は涙を流して謝り合った。しかし、時はもう戻らない。
「純夜君とうちのみさが結婚すれば、私たちは家族として幸せに暮らしていけるはずだ。」
健二の言葉に、り子の顔にようやく微かな微笑みが浮かんだ。
ちょうどその時、じ子がカフェに飛び込んできた。
「り子さん! 息子さんが目を覚ましましたよ!」
三人は急いで病室に向かった。順夜はまだ顔色が青白かったが、意識ははっきりしていた。健二はベッドの前に進み出ると、突然、順夜の前に膝をついた。部屋の全員が息を呑んだ。
「すまなかった。君のお母さんに水をかけ、怒鳴りつけたこと、謝りたい。もう過去のことで君たちに迷惑をかけることはしない。娘との結婚を許してくれないか。」
数日前には不可能に思えたことが、こうして現実になろうとしていた。
それから数週間後、桜が満開の四月のある晴れた日、純夜とみ咲の結婚式が執り行われた。そして、更に数ヶ月後、順夜は両親の墓参りをしたいと提案した。健二は車を運転し、妻のじ子とり子、そして順夜とみ咲と共に、なだらかな丘の上にある共同墓地へ向かった。何も知らない順夜を連れて、健二の足は慎重に、しかし確かに、とある墓石の前で止まった。
そこにはこう刻まれていた。木村正尾の墓。息子はその墓石を見て、立ち尽くした。どことなく自分と似ている気がした。健二は墓の前に膝をつき、涙を流しながら言った。
「兄さん、ごめん。これまで来られなかった。約束を守れなかった…。」
その時、り子が静かに前へ進み出た。彼女は丁寧に膝をつき、両手を合わせた。
「木村さん、誰よりも素敵で立派な息子さんを産んでくださってありがとうございます。」
順夜はその言葉を聞いて、一体どういうことかと戸惑いながら父の墓石に顔を上げた。り子は震える声で全てを話し始めた。
「あなたは私が産んだ子ではないの。あなたのお母さんは、産んで間もなく亡くなってしまった。そして…。あなたの本当のお父様は、あなたが幼い頃に、健二さんを崖から救って、その代わりに…。」
順夜の顔色が変わった。健二がゆっくりとうなずき、付け加えた。
「正尾さんは俺の命の恩人だったんだ。最後に俺に頼んだんだ…『息子を頼む』って。ずっと探していたんだ。君を…。でも見つからなくて…。」
順夜の目から涙が溢れ出た。全てのピースが一瞬で繋がった。自分を育ててくれた母は、実の母ではなかった。そして、目の前にいる健二が、自分を探し続けてくれていた、父が命を託した相手だった。順夜はその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「父さん…。僕を産んでくれて…ありがとう…。」
その後、どのくらいの時間が流れただろうか。風が吹き抜け、鳥の囀りが響く中、三人はしばらく静かにその場に座っていた。
それから数年後。り子の小さなアパートに、健二とじ子が訪ねてきた。持ってきたのは、不動産の書類だった。
「これは、私たちがみさと結婚したら準備していた家です。ちょうど近くに似たような家が売りに出されて…。購入しました。」
り子は息を呑んだ。健二が続ける。
「あなたも一人でしょう。私たちも娘が結婚して寂しくなる。家族なら、一緒に住んだっていいじゃないか。」
その言葉に、り子の目が潤んだ。こうして三人は同じ町で暮らし始めた。そして、ある春の日、順夜とみ咲が赤ちゃんを連れてやってきた。元気な男の子で、名前は正斗と名付けられた。健二とじ子、そしてり子は、その新しい命を囲み、皆で涙を流した。誤解と傷で引き裂かれた二つの家族は、愛と許しを代償に、一つの大きな家族として新たな物語を紡いでいった。



