「そんなお金、出せませんよ」──嫁のその一言で、私は初めて気づいた。29年間、家族のために尽くしてきた私が、ただのATM扱いされていることを。 毎月15万円、家計に入れてきた。孫の習い事には月8万円。嫁の実家には月10万円。それなのに、私が肺炎になりかけて入院が必要だと医者に言われた時、息子と嫁は笑いながら言ったんです。「入院? 高が風邪でしょ。市販薬で十分じゃないですか」と。…

「そんなお金、出せませんよ」──嫁のその一言で、私は初めて気づいた。29年間、家族のために尽くしてきた私が、ただのATM扱いされていることを。 毎月15万円、家計に入れてきた。孫の習い事には月8万円。嫁の実家には月10万円。それなのに、私が肺炎になりかけて入院が必要だと医者に言われた時、息子と嫁は笑いながら言ったんです。「入院? 高が風邪でしょ。市販薬で十分じゃないですか」と。...

「そんなお金、出せませんよ」

嫁の冷たい声が、廊下から聞こえてきた。私は森下ゆみ子、65歳。激しい咳で目が覚めた朝だった。たった一度、医療費の相談をしただけなのに。

「高が風邪でしょう。市販薬で十分じゃないですか」

「龍也の習い事代だって、毎月8万円かかるんですから」

子供の習い事は即決。私の医療費は無駄遣い。この差は一体何なのだろう。私は震える手で、枕元のティッシュを取って口を押さえた。

「母さんも働いてるんだから、自分のことは自分でしなよ」

息子、健一の声も聞こえてくる。亡くなった夫と2人で建てたこの家で、今や私は厄介者扱いだった。固定資産税も光熱費も私が払っているのに、まるで居候のような扱いを受けている。

「お母さん、咳がうるさいですよ。静かにしてください」

美咲が眉をひそめながら言った。私は咳をすることさえ許されないのか。

私の1日は、毎朝5時に始まる。29年間変わることのない朝の日課。まだ暗い台所で息子と孫たちの弁当を作り、朝食の準備を整え、洗濯機を回してから7時にはスーパーへ向かう。食材部での8時間の立ち仕事は、65歳の身体には正直きつい。

それでも私は休むことなく働き続けてきた。月収18万円。そのうち15万円を、この5年間ずっと家計に入れ続けてきた。私が自分のために使えるお金はわずか3万円。それさえも孫の誕生日プレゼントや家族の必要なものに消えていく。

夫が5年前に他界してからは、負担はさらに重くなった。この家の固定資産税は年間10万円。光熱費は月3万円。屋根の修繕、外車の乗り換え、給湯器の交換。累計300万円を超える維持費は、全て私の貯金から負担してきた。健一が結婚する時の祝い金として200万円。孫の優也が生まれた時の出産費用60万円。柴織の時の50万円も、私が支払った。

家族のためなら、どんな出費も惜しまない。それなのに今では、泣き夫と2人で必死に建てたこの家で、居候のような扱いを受けている。

「お母さんの分の薬でいいですよね。味もよくわからないでしょうから」

夕食時、美咲は平然とそう言った。リビングにも私の居場所はなく、テレビを見ることさえ遠慮しなければならない。まるでこの家の主は息子夫婦で、私はお邪魔している老人のような扱いだった。

給料日の朝、私はいつものように銀行から18万円を下ろしてきた。

「母さん、今月分お願い」

健一が当たり前のように手を差し出してくる。私は無言で15万円を渡した。残った3万円を財布にしまおうとした時、美咲が横から口を挟んできた。

「お母さん、優也の英会話教室、新しいコースが始まるんですけど、追加で3万円かかるんです」

「でも、これは私のお小遣いよ。それに通院費だってかかるし」

「通院費? 高が風邪の薬代でしょう。優也の英語教育は将来への投資なんです。5歳の今が一番大切な時期。お母さんの病院代なんて無駄遣いですよ」

将来への投資。その言葉を聞くたびに、私の胸は痛む。子供たちの習い事には、英会話に月3万円、水泳に2万円、ピアノに2万円、ダンス教室に1万円。合計8万円もかけているのに、私の医療費は無駄と切り捨てられる。

それから数日後、健一が固定資産税の納付書を私の前に置いた。

「20万円。母さんの名義なんだから、当然だろ」

息子は平然と言い放つ。名義は私でも、この家の主導権は完全に息子夫婦が握っている。そんな理不尽な現実に、私はただ頷くことしかできなかった。

数日後の夕食時、私の体調はさらに悪化していた。激しい咳が止まらず、箸を持つ手も震えている。食卓で咳き込んだ私に、美咲が顔をしかめて言った。

「お母さん、汚いから向こうで食べてください。子供たちに移ったらどうするんですか?」

私は言われるがまま、台所の隅に移動した。家族だの温かい食卓から、私だけが追い出されたのだ。

「母さん、うるさいよ。優也が絵本読めないじゃないか。咳をするなら自分の部屋でしてくれ」

自分の部屋。2階の一番奥にある6畳の部屋。この家には他に3つも空き部屋があるのに、私に与えられたのは最も狭く日当たりの悪い部屋だった。かつて物置きとして使っていた部屋に、私の荷物が押し込められている。

「バーバ、大丈夫?」

心配そうに近づいてきた3歳の柴織に、美咲が鋭い声で言った。

「柴織、バーバは病気だから近づいちゃだめよ。病気が移るから」

柴織は怖がって、私から離れていった。その小さな後ろ姿を見て、私の心は引き裂かれそうになる。

夜、リビングから聞こえてきた会話に、私は凍りついた。

「正直、お母さんがいなくなったら楽になるんだけど。毎月15万円もらえるだけじゃなくて、顔も見なくて済むなら最高なのに」

「ま、もう少しの辛抱だよ。母さんももう65歳だ。あと何年もつかな」

「そうね。お母さんが死んだら、この家も土地も全部私たちのものよね」

「当然だろう。俺は一人息子なんだから。財産は全部俺のものだ」

「優也と柴織の教育費も、もっとかけられるわね。今は月8万円だけど、小学校に上がったらもっと必要になるし」

私は階段の影でその会話を聞いていた。震える手を支えながら、涙をこらえる。私の死を待ち望む息子夫婦。この家で、私はもう生きている価値さえないのか。

翌朝、朝食の準備をしていると美咲がキッチンに入ってきた。

「お母さん、言い忘れてましたけど、来月から食費も別にしますから」

「食費も?」

「ええ。お母さんの分は自分で用意してください。だって私たち家族とは別ですから」

「でも、光熱費も固定資産税も全部私が払ってるのに」

「それは当然でしょう。お母さんの家なんですから。それにお母さんは、お金だけ入れてくれればいいんです」

その時、健一もリビングから口を挟んできた。

「母さん、正直に言うけど、もう母さんの役割は終わったんだよ。俺たちは自立した家族なんだ。母さんはただのATMでいいんだよ」

ATM。私は人間ではなく、お金を出す機械なのか。29年間働き続け、家族のために尽くしてきた私が、ただの現金自動預払機だというのか。

「優也、柴織、おいで。バーバは病気で汚いから、もう一緒にご飯食べないの?」

「わかった」

「うん」

「ママ、バーバ臭いもんね」

5歳の優也が無邪気に答える。

「そうよ。優也は賢いわね。英会話の先生も褒めてたわよ」

美咲は息子を褒めながら、私を見下すような視線を向けてきた。

「お母さん、優也の英会話の発表会、来月あるんですけど、来ないでくださいね。他のお母さんたちに、汚いおばあさんがいるって思われたら困りますから」

息子家族が私を汚いという。孫たちも私を避けるようになっていく。激しい咳が再び襲ってきた。胸を押さえながら、私は自分の部屋へと向かう。階段を登る足取りは重く、まるで自分の墓場へ向かっているような気分だった。

その時、階段の下から美咲の声が聞こえてきた。

「あ、そうそう。この家、お母さんがいなくなったらリフォームして貸しに出そうと思ってるんです。月に10万円くらいの家賃収入になりますよ。お母さんも早く楽になった方がいいんじゃないですか」

もう限界かもしれない。そう思いながら、私は部屋のドアを閉めた。外からは家族の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その中に、私の居場所はもうないのだ。

その日の昼過ぎ、私は偶然、息子夫婦の決定的な裏切りを知ることになる。体調が悪化し、早退して帰宅した私は、リビングから聞こえてくる電話の声に足を止めた。美咲がスピーカーにして、誰かと楽しそうに話している。

「ママ、今月も10万円振り込んでおいたから」

「え、いつものように旦那の給料からじゃなくて、お母さんの給料から出してるから大丈夫よ」

「でも美咲、それってお姑様のお金でしょう」

「何言ってるの? ママ。お母さんなんてただのATMよ。ママは大切な家族だけど、あの人は他人も同然」

私は壁によりかかりながら、震える足で立っていた。私が必死に働いて稼いだお金が、美咲の実家に流れていたなんて。

「それにもうすぐ全部手に入るから。あの人、65歳で体もボロボロ。咳もひどいし、そう長くはないと思うわ。死んだらこの家も土地も預金も、全部私たちのものよ」

電話を切った後、健一がリビングに入っていく。

「美咲、また実家に送金したのか」

「ええ、10万円。いつも通りよ」

「ま、妻の親を大切にするのは当然だろう。俺の母親と違って、美咲の母親は品があるし、一緒にいて楽しいからな」

健一の言葉に、私の心臓は激しく痛んだ。実の息子が、私よりも義理の母を大切にしているなんて。

翌日、とうとう私は倒れてしまった。激しい咳と高熱で意識が朦朧とする中、健一に連れられて病院へ行く。診察室で、医師は深刻な顔をして言った。

「森下さん、これは肺炎の一歩手前です。このままでは命に関わります。すぐに入院が必要です」

「入院ですか?」

「はい。最低でも1週間は必要です。点滴治療をしないと、重篤な状態になる可能性があります」

診察室を出ると、健一が不機嫌に言った。

「入院? そんな金あるわけないだろう」

「でも、お医者様が命に関わると」

「大げさなんだよ。医者ってのは、入院なんてしたらいくらかかると思ってるんだ」

すると美咲も、同じような反応だった。

「入院なんて大げさじゃないですか? 風邪なら薬局で1000円くらいで買えますよ」

「でも、肺炎になりかけていると」

「お母さん、入院なんてしたら誰が家事をするんですか? 私は子供たちの世話もあるんです」

結局、私の入院は却下された。命に関わると言われても、息子夫婦にとって私の命より入院費の方が重いのだ。孫の習い事には月8万円、美咲の実家には月10万円送っているのに、私の入院費は出せないなんて。

その夜、私は預金通帳を確認していた。退職金の積み立てが800万円。これまでコツコツ貯めた貯金が500万円。合計1300万円。これはいざという時のために、誰にも言わずに貯めてきたお金だ。老後の医療費や介護が必要になった時のために。

通帳をバッグに入れ、眠りに着いた。しかし深夜、物音で目が覚めた。時計を見ると午前2時過ぎ。誰かが1階で何かしている音が聞こえる。私は静かに部屋を出て、階段の上から下を覗いた。リビングの明かりがついている。

そっと階段を降りて物陰から様子を伺うと、信じられない光景が目に飛び込んできた。なんと健一と美咲が、私のバッグを漁っていたのだ。財布を開け、中身を確認している。

「あった。通帳よ。なんだ、隠し金あるじゃない。1300万円もあるわよ」

「本当か? すごいな。こんなに貯めてたのか?」

「これ、全部もらいましょうよ」

「そうだな。でも、今すぐは無理だろう」

2人は私の個人情報を書いたメモを探し始めた。

「そもそもこの家も土地も、いずれ俺たちのものだしな。母さんが死んだら、すぐに売却して新しい家を建てよう」

「そうね。こんな古い家、リフォームするより売った方がいいわ。土地だけでも2000万円くらいになるでしょう」

「合計で3300万円か。優也と柴織の教育費も心配ないな」

「お母さんには悪いけど、早く死んでくれた方が私たちのためよね」

「まあ、あの咳の様子じゃ、そう遠くないだろう。入院させなかったのは正解だったな。無駄な治療にお金使うくらいなら、俺たちが有効に使った方がいい」

私は階段の影で、全身を震わせながらその会話を聞いていた。息子夫婦は私の死を願っている。いや、積極的に早めようとしている。必要な治療を受けさせず、私が苦しんでいるのを知りながら、お金のために見殺しにしようとしている。

「はあ、ATMの暗証番号も調べておかないとね。お母さんが急に死んだら、お金が下ろせなくなっちゃう」

「そうだな。明日、それとなく聞き出してみるか」

2人は通帳を元の場所に戻し、証拠を残さないよう注意深く片付けを始めた。私は音を立てないよう、そっと自室に戻る。ベッドに倒れ込むと、涙が止まらなかった。悲しみ、怒り、絶望、裏切られた痛み。全ての感情が混ざり合い、胸が張り裂けそうだ。

でも、涙が乾いた後に残ったのは、冷たい決意だった。

「もう限界だわ」

私はつぶやいた。それは諦めの言葉ではない。復讐を決意した者の、静かな宣言だった。

今までたくさん家族のために尽くしてきた。結婚資金も出し、孫の出産費用も払い、この家の維持費も全て負担してきた。それなのに、私は人間扱いすらされていない。もういい。もう十分です。

私はメモ帳を取り出し、震える手でペンを握った。これから何をすべきか、冷静に計画を立て始める。窓の外は真っ暗だった。でも私の心には、冷たく燃える決意の光が灯っている。もう誰にも、私を踏みにじることはできない。

翌朝、私は高熱でうなされながら目を覚ました。体温計は38度を示している。激しい咳で胸が痛み、呼吸をするのも苦しい。このままでは本当に死んでしまう。息子夫婦の思惑通りになってしまう。

絶対に負けない。震える手で携帯電話を握り、タクシーを呼んだ。息子家族はまだ誰も起きていない。私は音を立てないよう、そっと家を出た。

「どちらまで?」

「総合病院までお願いします」

昨日とは別の病院だ。息子夫婦に知られないよう、離れた場所にある病院を選んだ。救急外来で診察を受けると、医師は深刻な表情を浮かべる。

「これは危険な状態です。すぐに入院してください」

「入院はできません。家庭の事情で」

「わかりました。では、外来で集中的に治療しましょう。今日から1週間、毎日通院してください。朝一番に点滴をして、強力な抗生物質を処方します」

「ありがとうございます」

点滴には2時間かかった。その間、私は今後の計画を頭の中で整理する。世帯分離、口座変更、職場の相談、そして家からの脱出。

「森下さん、今日の治療費は8000円です」

「はい」

私は震える手で財布からお金を出す。高額だが、命には変えられない。息子夫婦が「高が3万円」と切り捨てた通院費で、私は命をつなぐことができるのだ。

病院を出ると、そのまま市役所へ向かった。点滴のおかげで少し楽になったとはいえ、まだ熱がある。待合室で何度も咳込みながら、順番を待った。

「世帯分離の手続きをしたいのですが」

「お客様、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」

「大丈夫です。どうしても今日、手続きをしたいんです」

「同じ住所で別世帯にされる理由は?」

「息子夫婦とは、もう家族として生活できません」

職員は複雑な表情を見せたが、それ以上は聞かなかった。

「これで手続きは完了です。新しい住民票です」

「ありがとうございます」

これで、私はもう他人ですね。新しい住民票を見つめながら、私は深く息をついた。森下ゆみ子、世帯主。この肩書きが、これほど心強く感じられる日が来るとは思わなかった。

次に法務局へ向かい、この家の登記事項証明書を取得する。改めて確認すると、土地も建物も私の単独名義。亡き夫が「お前の名義にしておけば、将来安心だから」と言ってくれた言葉を思い出した。今になって、夫の先見の明に感謝せずにはいられない。

ありがとう、あなた。私は心の中の夫に語りかけた。

午後、銀行での手続きは体力的に最も辛いものだった。待合室で激しく咳込む私に、他の客が距離を取る。それでも私は順番を待ち続けた。ようやく個室に案内されると、担当者に事情を説明する。

「まず新しい口座を開設したいのです。そして、現在の口座から全額を移動させてください」

「全額ですか?」

「はい、全てです。あと給与の振り込み先も、新しい口座に変更したいのです」

「承知いたしました。お勤め先には、こちらの用紙を提出してください」

新しい通帳とカードを受け取った時、安堵感で涙が出そうになった。銀行を出ると、そのまま職場へ向かう。スーパーの事務所で、田中店長は私の姿を見て驚いた。

「ゆみ子さん、顔が真っ青じゃないですか?」

「店長、お話があります」

私は全てを正直に話した。息子夫婦からの経済的虐待、通院費の拒否、財産を狙われていること、そして私の死を願われていること。店長は涙を浮かべながら聞いてくれた。

「ゆみ子さんがそこまでお辛かったんですね」

「すみません。積み込みで働ける場所を探していただけませんか?」

店長はすぐに系列店に連絡を取ってくれる。隣町の店舗で、ちょうど住み込みの食材担当を探していた。寮は個室で、すぐに入居できるという。

「本当ですか? 来週から寮に入れますか?」

「新しい生活の始まりですね、ゆみ子さん」

「それと店長。明日から1週間、朝の出勤を2時間遅らせていただけませんか? 病院で点滴を受けてから出勤したいんです」

「もちろんです。ゆみ子さんの体が第一です。治療費は大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

帰り道、最後に不動産屋に立ち寄った。熱で体調がぶり返してきている。それでも、これだけは確認しておきたかった。

「この家と土地、売却したらいくらになりますか?」

「立地も良いですし、土地も広い。2500万円から3000万円は確実です」

「ありがとうございます」

家に帰ると、もう限界だった。玄関で靴を脱ぐのも一苦労。階段を登るのに手すりに必死に掴まりながら、1段ずつ。自室にたどり着くと、そのままベッドに倒れ込んだ。

「お母さん、夕ご飯は?」

「今日は作れません」

美咲が何か言っているが、もう相手をする気力もない。私は処方された薬を飲み、目を閉じた。明日からまた病院に通い、点滴を受けながら、残りの準備を進めなければならない。

6日後には、全てが変わる。息子夫婦は、今まで当たり前だと思っていたものを全て失うだろう。そして、私は自由と尊厳を取り戻すのだ。

窓の外はもう暗くなっていた。階下から家族の話し声が聞こえてくる。健一が文句を言いながら、出前を取っているようだ。

「全く、お母さんたら。風邪くらいで寝込んで」

その言葉を聞きながら、私は静かに微笑んだ。もうすぐです。もうすぐ、この地獄から解放されるのです。

1週間後の朝、私は新しい寮への引っ越し準備を終えていた。点滴治療のおかげで体調も回復し、今日がこの家での最後の日だ。荷物はすでにまとめ、引っ越し業者も午後に来る手配を済ませていた。

朝食の時、いつものように美咲が言った。

「お母さん、優也の英会話の月謝。今日が引き落とし日なんです。3万円、お願いします」

「出せません」

「は? そんなお金、出せませんよ」

私は、美咲がかつて私に言った言葉をそのまま返した。

「何を言ってるんですか? いつも払ってもらってるじゃないですか」

「世帯が別ですから、お金を渡す筋合いはありません」

健一が新聞から顔を上げた。

「母さん、何を言ってるんだ?」

「1週間前に、世帯分離の手続きをしました。私たちはもう、法的に他人です。それに、来月の給料から振り込み先も変更しています。もうあなたたちに渡すお金は、1円もありません」

「ふざけるな。生活費はどうするんだ?」

「知りません。ご自分たちの収入でやりくりしてください」

「母さんの収入を当てにして生活してるんだぞ」

「ご自分たちで生活してください。私はATMだったんでしょう? でも、ATMにもパスワードがあります。そして、口座を変更する権利もあるんです」

その時、郵便受けに何かが投函される音がした。美咲が取りに行って戻ってくると、顔面蒼白になっている。

「固定資産税の督促状。20万円、延滞金付きで……」

「ええ、そうでしょうね。前回の納付書、私は払いませんでした。世帯が別ですので、私が払う理由はありません」

「なんで俺たちが払うんだよ」

「あなたたちが住んでいる家でしょう。私は今日、出ていきますから」

「出ていく?」

美咲が絶句した。

「ええ。新しい職場の寮に移ります」

「ちょっと待って。まさか、実家への仕送りは……」

美咲は慌てて口を押さえた。

「ああ、そうでしたね。私の給料から、月10万円、美咲さんのお母様に送っていたんでしたね。大切な家族だって。でも、私は家族じゃないから、通院費3万円も『そんなお金出せません』と言われました。それは1週間前、私が病院にかけていた時のことです。覚えていますか?」

まだパジャマ姿の優也と柴織が、リビングに入ってきた。

「ママ、どうしたの?」

「バーバ、大きいカバン持ってる」

柴織が私のスーツケースに気づいた。

「バーバ、今日から別のところに住むの? なんで?」

優也が不思議そうに聞く。

「バーバは病気で汚いから、近づいちゃダメってママが言ったでしょう」

「でも、バーバ汚くないよ」

その時、3歳の柴織が爆弾発言をした。

「ママ、バーバのお金全部とろって言ってたよ」

「柴織! 嘘つかないの!」

「だって、本当だもん。パパと一緒に夜話してた」

優也も続ける。

「バーバが死んだら、家もらえるってパパ言ってた」

「ママはバーバの通帳、こっそり見てた。泥棒みたいだった」

「違う! そんなことしてない! 嘘つき!」

美咲の絶叫が家中に響き渡った。子供たちは母親の形相に怯えて、泣き出してしまう。

その時、玄関のチャイムが鳴った。タイミングよく、引っ越し業者が来たのだ。

「森下様、お荷物を運び出させていただきます」

「お願いします」

作業員が次々と私の荷物を運び出し始めた。その様子を見て、健一が慌てる。

「待て! 母さん、本気か?」

「ええ。これは内容証明郵便です。1ヶ月以内に、この家から退去してください」

「なんだと?」

「この家は私の名義です。私には、住ませたくない人を退去させる権利があります」

「俺は息子だぞ!」

「息子? 私をATM扱いし、死を願い、預金を狙う人が息子ですか?」

騒ぎを聞きつけて、近所の人たちが集まってきた。

「森下さん、大丈夫ですか? すごい叫び声が聞こえたけど」

美咲の取り乱した姿が、玄関から丸見えだった。

「お母さん、お願いします。今までのこと、全部謝ります」

「謝る? 私の通院費3万円を『そんなお金出せません』と言った人に、どうして謝罪を信じろと言うんですか?」

「出します! いくらでも出します!」

「そんな余裕、あなたたちにあるの? 15万円の生活費がなくなって、固定資産税20万円も払えなくて、美咲さんの実家の仕送り10万円もできなくて、優也の英会話の月謝3万円も払えない。どこにそんなお金があるんですか?」

美咲は絶望的な表情で、崩れ落ちた。近所の人たちがひそひそ話し始める。

「息子さん夫婦、お母さんをATM扱いしてたの?」

「病気なのに、医療費も出さなかったなんて、ひどい話ね」

美咲の面目は完全に潰れた。いつも上品ぶっていた仮面が、近所衆の前で剥がれ落ちたのだ。

私は最後に言った。

「この家は売却する予定です。3000万円になるそうです。新しい持ち主が決まったら、強制的に出て行ってもらいます」

「母さん!」

健一が叫んだが、私はもう振り返らない。孫たちの頭を優しく撫でて、私は29年間暮らした家を後にした。

「バーバ、また来るね」

引っ越しのトラックに乗り込んでいると、後ろから美咲の絶叫が聞こえてくる。

「どうするのよ! どうやって生活するのよ!」

完全勝利。これが「そんなお金出せません」と私を見捨てた息子夫婦への、正当な報いだった。1週間前、通院費を拒否された瞬間から始まった静かな復讐が、ついに完結したのだ。

3ヶ月後、私は新しい生活にすっかり慣れていた。隣町のスーパーの寮は、八畳一間の小さな部屋だったが、私にとっては天国のような場所だ。朝、目覚ましの音で起きるとまず感じるのは、深い安堵感。もう誰の顔色も伺わなくていい。自分の時間を、自分のために使えるのだ。

「おはようございます、ゆみ子さん」

職場では、皆が温かく迎えてくれた。

「今日も頼りにしてますよ」

店長の言葉に、私は心から嬉しくなった。29年の経験は伊達ではない。新しい職場でも、私の技術は高く評価されていた。

「ゆみ子さんがいてくれて、本当に助かります。食材の売上が20%も上がりましたよ」

「そんな、私なんて」

「いえいえ、ゆみ子さんの作る食材は絶品だって、お客様からも評判なんです」

認められる喜び、必要とされる幸せ。家族から奪われていたものを、職場の仲間が与えてくれる。体調もすっかり回復していた。

「森下さん、最近顔色がいいですね」

「ええ、咳も出ませんし、食欲もあります」

「それは良かった。ちゃんと通院して、薬を飲み続けた成果ですね」

通院費を惜しまず、自分の健康を第一に考える。当たり前のことが、こんなにも幸せだとは思わなかった。1ヶ月にかかる通院費3万円。かつて「そんなお金出せません」と拒否された金額で、私は健康を取り戻したのだ。

そして何より嬉しいのは、実家からの家賃収入だった。結局、売却はせず、不動産屋の仲介で子育て世帯の家族に、月15万円で貸し出すことができた。皮肉なことに、私が息子夫婦に渡していた金額と同じ。でも、今度は確実に私の口座に振り込まれる。

「これで老後の心配もありませんね」

銀行の担当者が言った。通帳の残高は着実に増えている。給料18万円と家賃収入15万円、合計33万円の月収は、一人暮らしには十分すぎる金額だ。

一方、息子夫婦の生活は一変していた。ある日、職場の同僚が教えてくれた。

「ゆみ子さんの息子さん夫婦、大変みたいよ」

「そうなんですか?」

「駅前の古いアパートに引っ越したって。家賃8万円の2DKらしいわ。奥さんもパートを始めたらしいけど、子供の世話もあるからフルタイムでは働けないみたいね」

私からの15万円。それに固定資産税の滞納金も、重くのしかかっていることだろう。

夕方、寮の自室に戻ると、テレビでニュースが流れていた。

「高齢者への経済的虐待が社会問題になっています。家族という名のもとに、高齢者の年金や貯金を搾取するケースが増えています。専門家は、高齢者にも財産を守る権利があると指摘しています」

まさに、私が経験したことだった。その通りだと、私は深く頷く。私の決断は間違っていなかった。息子夫婦に屈しない勇気を持てたことを、今は誇りに思う。実の息子夫婦であっても、私をATM扱いし、死を願うような人間に、情けをかける必要はなかったのだ。

私は窓の外を眺めた。春の訪れを告げる桜が、ちらほらと咲き始めている。新しい季節の始まり。私の新しい人生も、これから花開いていくでしょう。

もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、勇気を出して立ち上がってください。年齢は関係ありません。自分の人生を取り戻すのに、遅すぎることはないのです。「家族」という呪縛に縛られて、自分を犠牲にし続ける必要はありません。あなたには幸せになる権利があります。自分を大切にする権利があります。そして、理不尽に対して反撃する権利があるのです。必ず、道は開けます。私がそうだったように。一歩踏み出す勇気さえあれば、新しい人生が待っています。

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