夫が出張先から不倫相手と豪華ホテルにいることを知ったのは、義母が離婚届を叩きつけてきた日のことでした。 「あんたみたいな中卒の貧乏人、10分以内にこれを役所に出してきなさい。それが、私たち家族への唯一の恩返しよ」 義母の勝ち誇った笑顔を見た瞬間、私の胸にあった最後の我慢が、音を立てて崩れ去りました。私は黙ってペンを握り、自分の名前を書きました。そして、笑顔でこう言ったのです。…

夫が出張先から不倫相手と豪華ホテルにいることを知ったのは、義母が離婚届を叩きつけてきた日のことでした。 「あんたみたいな中卒の貧乏人、10分以内にこれを役所に出してきなさい。それが、私たち家族への唯一の恩返しよ」 義母の勝ち誇った笑顔を見た瞬間、私の胸にあった最後の我慢が、音を立てて崩れ去りました。私は黙ってペンを握り、自分の名前を書きました。そして、笑顔でこう言ったのです。...

義母の鋭い笑い声が静まり返ったリビングに響き渡った。テーブルに叩きつけられた一枚の紙。そこには出張中のはずの夫の署名が乱暴に記されていた。勝ち誇ったように鼻を鳴らす義母。普通なら絶望して泣き崩れる場面だろう。しかしこの時の私は違った。数分前まで感じていた胸のざわつきは、一瞬で解放感へと変わっていた。

義母はまだ何も気づいていない。自分の放った一言が、自分たちの首を締める引き金になったことに。そしてこの10分後、我が家のパワーバランスは想像を絶する形で大逆転することになる。

遡ること3年前。私は心理、3歳年上の夫・健二と結婚した。大手商社に務める健二は、外では仕事のできるエリートとして通っていたが、家では絵に描いたような亭主関白だった。その背後には常に過干渉でプライドの高い義母・静子の存在があった。

「まりさん、今日の味噌汁、出汁が薄いわね。健二はもっと濃い味が好きなのよ。育ちが知れるわ」

週末になればアポなしで我が家に上がり込み、重箱の隅をつつくような嫌味を連発する静子。私はその度に波風を立てないよう、黙って頭を下げてきた。健二に相談しても「母さんは悪気がないんだから、お前が我慢しろよ」と取り合ってくれない。むしろ健二は静子と一緒になって私を貶めることを楽しんでいるようだった。

「心理は専業主婦なんだから、家事ぐらい完璧にこなせよ。俺の稼ぎで食わせてもらってる自覚あるのか?」

それが口癖だった健二。しかし彼ら親子は決定的な勘違いをしていた。私がなぜ彼らの理不尽な要求に黙って耐え続けてきたのか。そして私が本当は何者であるのかを。

その日の朝、健二は1週間の海外出張だと言って家を出ていった。「お土産なんて期待するなよ。仕事で忙しいんだからな」と残して去っていく夫の背中を、私は冷めた目で見送っていた。

彼が家を出てから数時間後、インターホンが壊れたのかと思うほどの激しい連打と共に、静子がやってきた。その手には不適な笑みと共に握りしめられた離婚届があった。

「さあ、まりさん。今すぐこれにサインして、そして今から10分以内に役所へ行きなさい」

唐突な要求に私はわざとらしく驚いたふりをした。「小母さん、一体どういうことですか?」

「健二は出張なんて嘘よ。あの子はもうあんたとの生活に限界なのよ。今頃、ふさわしい女性と新しい人生の準備をしてるわ」

静子の口から飛び出した衝撃の事実。夫の出張は嘘であり、不倫相手との旅行であること。そしてこの離婚届は、義母によって準備された計画の一部であること。

「みたいな中卒の貧乏人が、うちの嫁でいられたこと自体が奇跡なのよ。ほら、早く書きなさいよ。それとも慰謝料が欲しくて見苦しく抵抗するつもり?」

静子の言葉は、もはや隠そうともしない悪意に満ちていた。しかし私は沈黙を守った。ただじっとテーブルの上の離婚届を見つめていた。

「何よ? 声も出ないほどショックなわけ? 情けない女ね。あんたの代わりなんていくらでもいるのよ。健二の新しい彼女は資産家の令嬢なんだから。あんたとは月とすっぽんよ」

私はゆっくりと顔を上げた。その時、私の瞳に宿っていたのは悲しみではなかった。

「小母さん、本当にいいんですか? 後悔しませんか?」

私の問いかけに静子は鼻で笑った。「後悔? するわけないじゃない。あんたがいなくなることが、我が家にとって最大の喜びよ。さあ、10分よ。10分以内に出してこないと、このまま追い出すわよ」

「わかりました。そこまでおっしゃるなら」

私はペンを手に取り、迷うことなく自分の名前を書き込んだ。その筆跡はこれまでになく力強く、そして晴れやかだった。

「はい、書きました。今すぐ役所へ行ってきますね」

私が笑顔でそう言った瞬間、静子の顔がピクリと動いた。想定していた、泣き崩れる嫁の姿がそこにはなかったからだ。

「え、あんた何を嬉しそうにしてるのよ」

戸惑う静子をよそに、私は鞄を手に取り玄関へと向かった。その足取りはまるで長年の重りから解放されたかのように軽やかだった。

「それでは小母さん、これでお別れですね。お元気で」

私は背後で呆然と立ち尽くす静子を置き去りにし、ドアを閉めた。外の空気は驚くほど美味しく、空はどこまでも青く澄んでいた。

しかし静子はまだ気づいていなかった。この家が誰の名義で、この生活を支えていた本当の資金源がどこにあるのか。そして役所に離婚届が受理された瞬間に、自分たちが何を失うことになるのかを。

私は役所へと向かうタクシーの中で、一台のスマートフォンを取り出した。それは健二や静子には決して見せたことのない、私専用の端末だった。ある番号を呼び出すと、すぐに馴染みの深い、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。

「お嬢様、いかがなさいましたか?」

「おじい様、お待たせしました。今、終わりました」

私は窓の外を流れる景色を見つめながら静かに告げた。これから始まるのは、身勝手な親子への復讐劇ではない。ただ、奪われていたものをあるべき場所に戻すだけの簡単な作業だ。

役所に到着した私は、迷わず窓口へと向かった。時計の針は静子が指定した10分を過ぎようとしている。提出を終えたその瞬間、私のスマートフォンが激しく震え出した。画面に表示されたのは、出張中のはずの夫・健二の名前。一体何が起きたというのだろうか。

「おい、マリ。お前、何をしたんだ? 説明しろ」

電話の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまでの余裕など微塵も感じられない、健二の喚き散らす叫び声だった。

「さっき、離婚届を出したのか。受理されたって通知が、なぜか俺のアプリにも来てるんだよ。どういうことだ?」

私は窓口から少し離れたベンチに腰を下ろし、穏やかな声で答えた。「どういうことも何も、小母さんに言われた通りにしただけですよ。10分以内に役所に出して来いって、あんなに急かされたんですもの。愛する夫・健二さんの願いを叶えてあげただけです」

「ああ、母さんがそんなこと。いや、それより今すぐ取り消してこい。今すぐだ」

「無理です。もう受理されました。私たちはたった今、正式に他人になったんです。おめでとうございます、健二さん。これで不倫相手の方と堂々と旅行を楽しめますね」

「なんでそれを…」

健二が絶句するのが電話越しに伝わってくる。私はふと、小さくため息をついた。私たちが結婚したのは3年前のこと。当時、中堅の商社マンだった健二は、今の傲慢さからは想像もできないほど優しくて誠実そうな男性だった。「君を一生守る。苦労はさせない」そんな言葉を信じて、私は彼との結婚を決めたのだ。

しかし新婚生活が始まって1ヶ月も経たないうちに、彼の本性は現れた。

「おい、心理。このシャツ、アイロンのシワが残ってるぞ。専業主婦のくせに、こんな簡単なこともできないのか」

「夕食に肉がないじゃないか。俺が外でどれだけ神経を削って稼いでると思ってるんだ。お前は俺の金で飯を食わせてもらってるんだから、もっと感謝の気持ちを持てよ」

健二は家にいる間ずっと私を家政婦か何かのように扱い、その度に「俺の稼ぎ」を盾にして私を支配しようとした。そしてそれに拍車をかけたのが、近所に住む義母の静子だった。静子は週に何度も我が家にやってきては、冷蔵庫の中を勝手にチェックし、掃除の不行き届きを指摘して回るのが日課だった。

「ああ、まりさん、こんな安物の野菜を買って。健二の体は一流の食材で作られなきゃいけないのよ。あんたの実家が貧乏だからって、うちの息子まで貧相な食事をさせるつもり?」

静子は私の実家を徹底的に見下していた。私が地方の一般家庭の出身であること、そして学歴も大したことがないと思い込んでいることを理由に、その度に侮辱的な言葉を投げつけてきた。

「中卒同然のあんたを拾ってあげた健二に感謝しなさい。普通ならあんたみたいな女は、うちの子を嫁にすることすら許されないんだから」

実際には私は海外の大学を飛び級で卒業し、複数の学位を持つ身だったが、健二と出会った時はあえてそれを伏せていた。肩書きや家柄ではなく、私という人間を見てほしい。若さゆえのそんな青い願いが、今の地獄を招いてしまったのかもしれない。

私は彼らの暴言に黙って耐えているのを、言い返す言葉もない無能な女だと勘違いし、その態度は年々エスカレートしていった。最近では健二は生活費すら渋るようになり、私に自由な外出さえ禁じるようになっていた。

「お前みたいな世間知らずが外に出ても、恥をかくだけだ。この家の中で俺たちのために尽くしていればいいんだよ」

それが健二の口癖だった。しかし、彼は1つ大きな勘違いをしていた。私には彼らの知らない、もう1つの顔があるということを。

「マリ、聞いてるのか? 今すぐ役所に駆け込んで離婚を取り消せ。そうしないと俺のブラックカードが使えないんだよ。さっきホテルでチェックインしようとしたらエラーが出やがった」

健二の叫び声で私は現実へと引き戻された。

「あれは私の家族の家族カードですから。離婚が成立した瞬間に、本会員である私の父が利用を停止したみたいですね」

「はあ? お前の父親? 何を言ってるんだ。あんな貧乏な…」

「健二さん、小母さんから何も聞いていないんですか? ああ、そうですよね。小母さんもまだ何も知らないんですもの」

私は立ち上がり、役所の出口へと向かった。自動ドアが開くと、目の前には一台の高級黒塗りセダンが停まっていた。運転席から降りてきた黒スーツの男性が、私に向かって深々と一礼する。

「お嬢様、お迎えに上がりました」

私はその光景を横目に見ながら、スマートフォンに向かって穏やかに告げた。「健二さん、あなたが今滞在しているその豪華なホテルも、私たちが住んでいたあのマンションも、誰が本当のオーナーか考えたことはありませんか?」

「は? 嘘だろ? おい、マリ、待て。切るな」

健二の悲鳴のような声を無視して、私は通話を切った。ちょうどその時、私のスマートフォンに一通のメールが届く。それは自宅に残してきた義母・静子からのものだった。

「まりさん、早く戻ってきなさい。今すぐよ。部屋の鍵が開かないの。それにさっきから変な男たちが来て、荷物を運び出そうとしてるのよ。早く追い出しなさいよ」

文字からも静子のパニックぶりが伝わってくる。私はふっと口元を上げ、運転手に指示を出した。

「家へ戻ってください。ただし、少し遠回りをして。小母様が存分に絶望する時間をプレゼントしてあげたいんです」

車が滑り出すように走り始めた。これから自宅で繰り広げられるであろう、最高に愉快な光景を想像しながら、私は窓の外の景色を楽しんでいた。静子と健二、あの親子が築き上げてきた砂の城が、音を立てて崩れていく。

私が家に戻った時、そこには想像を絶する光景が広がっていた。玄関の前で、髪を振り乱し、ドアの鍵をガチャガチャと激しく回す静子の姿があった。

「開けなさいよ。何なのよ、これ。どうして鍵が合わないの? 心理、そこにいるんでしょう。出てきなさい」

かつて優雅さを気取って私を見下していた姿はどこにもない。そこにいるのはただの理不尽な怒りに駆られた老婆だった。エントランスの前では、数人の作業員たちが困り果てた表情で立ち尽くしている。共有スペースにはいくつかの大きなダンボール箱が積み上げられていた。

「ちょっとマリ、あんたどこに行ってたのよ。それに、何なのよ。その車。どうせ私がいないのをいいことに、男にでも泣きついて送ってもらったんでしょう。どこまで下衆い女なのかしら」

静子は私の姿を見るなり、開口一番に罵声を浴びせてきた。「小母さん、そんな大きな声を出さないでください。近所迷惑ですよ」と私が冷静に言うと、静子は顔を真っ赤にしてさらに激昂した。

「近所迷惑? ふざけないでちょうだい。私を締め出したのはあんたでしょう。10分以内に役所に行けとは言ったけど、誰が家の鍵を変えろと言ったのよ。それにこの人たちは何? 勝手に健二の荷物を運び出そうとしてるのよ。立派な窃盗じゃない」

静子は作業員の一人を指差し、震える声で叫んだ。作業員のリーダー格の男性が困ったように私の方を見る。「奥様、ご指示通りに作業を進めておりますが、こちらの方がどうしても納得されないようでして」

私は作業員の方に小さく頷き、再び静子の方を向いた。「小母さん、誤解しないでください。彼らは窃盗ではありません。私が正式に依頼した、不要品回収と引っ越しの業者さんです」

「不要品? 健二のゴルフバッグや、私が買ってあげた高級な家具を指して、不要品だっていうの? あんた、頭がおかしくなったんじゃないの?」

静子は私の肩を掴んで揺さぶろうとしたが、私はそれをひらりと身をかわして避けた。その仕草がさらに彼女のプライドを傷つけたのか、静子の目は釣り上がり、言葉のナイフが次々と飛んできた。

「いい? 勘違いしないでちょうだい。ここは私の息子、健二の家なのよ。あんたみたいな、勘違いした嫁が勝手なことをしていい場所じゃないの。離婚届を出したなら、もうあんたは他人なんだから。さっさと自分の荷物だけまとめて出ていきなさいよ」

「小母さん、1つ訂正させてください。この家は健二さんの家ではありません」

「はあ? 何を馬鹿なことを。健二が商社の給料でローンを払ってるんでしょう」

私はバッグの中から一通の書類を取り出し、静子の目の前に突きつけた。それはこのマンションの権利書の写しだった。

「よく見てください。所有者の欄、ここに健二さんの名前なんてどこにもありません。このマンションは私の父が、私の結婚祝いとして一括で購入したものです。つまり名義も支払いも、全て私側なんです」

静子はひったくるように書類を奪い取り、老眼鏡をかけ直して必死に文字を追った。「な、マリ、嘘よ。そんなはずないわ。健二は自分が買ったって言ってたわよ。毎月のローンの支払いだって」

「健二さんがローンの支払いだと言って、毎月口座から引き出していたお金は、全部ギャンブルと不倫相手とのデート代に消えていたんですよ。私が黙って、その分を補填していただけです」

「な、なんですって」

静子の顔からすっと血の気が引いていくのが分かった。しかし、彼女はまだ認めようとしない。震える手で書類を握りつぶし、さらに声を荒げた。

「嘘よ。そんな作り話に騙されないわ。あんたの実家は、地方の小さな家じゃない。こんな都心のマンションをポンと買えるわけがないわ。健二を貶めるために偽造した書類を持ってくるなんて、どこまで腐った女なの」

静子の激昂と傲慢には呆れるのを通り越して、哀れみすら感じた。彼女は私の父が海外でも広く事業を展開するグループの創業者であることを知らない。私はただ普通の結婚生活を送りたいという願いから、資産については最低限の説明しかしていなかったのだ。それを彼らは勝手に貧乏な家庭だと解釈し、私を見下してきた。

「小母さん、信じられないなら、健二さんに確認してみたらどうですか? ああ、でも今の健二さんは自分の心配で手いっぱいかもしれませんね。先ほども言いましたが、彼が使っていたブラックカードも、今さっき利用停止になりましたから」

「カードが停止? 健二のカードが、どうしてあんたに止められるのよ」

「あれは私の家族の家族カードですから。離婚が成立した以上、家族ではない健二さんに貸し出しておく理由はありません」

私が淡々と告げると、静子は言葉を失い、金魚のように口をパクパクさせた。そこに、再び私のスマートフォンが鳴り響いた。今度は健二からではなく、見知らぬ番号からだ。

「はい、心理です」

電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、健二の、先ほどまでとは打って変わった情けない鳴き声だった。

「マリ、頼む、助けてくれ。ホテルを追い出されそうなんだ。それだけじゃない。今、会社から電話があって、俺のこれまでの経費精算に不正があるって、調査が入るって言われたんだよ。心理、一体何をしたんだ?」

電話の声は静子にも聞こえるほどの大きさだった。静子の顔が恐怖で引きつっていくのが分かる。私は冷徹な笑みを浮かべ、静子の目をじっと見つめながら答えた。

「あら、健二さん、私は何もしていませんよ。ただ、あなたの本当の姿を、あるべき場所に報告しただけです。不正な経費で不倫相手と旅行していたこと。そして、私の父の会社の関連企業であることを利用して、裏口で便宜を図ろうとしていたこと。全てね」

「なあ、お前、会社にまで連絡したのか」

「当たり前でしょう。離婚したんですもの。もうあなたの不祥事を隠してあげる義理はありません」

健二の絶叫が響き渡る中、私は通話を切った。静子はガタガタと膝を震わせ、今にもその場に崩れ落ちそうだった。

「そんな、そんなこと許されないわ。健二はエリートなのよ。私の自慢の息子なのよ。あんたみたいな女が、健二の人生をめちゃくちゃにするなんて」

「めちゃくちゃにしたのは私ではなく、あなたたち親子自身ですよ」

私は一歩、静子に歩み寄った。彼女は怯えたように後ずさりし、積み上げられたダンボール箱にぶつかった。

「小母さん、思い出してください。あなたは私に言いましたよね。10分以内に離婚届を出してこいと。あんたがいなくなることが、我が家にとって最大の喜びだと。そのお望み通り、私はもうあなたの家族ではありません。ですから、この家にある私の資産、家具も家電も、そしてこの家そのものも、あなたたちには一分一秒たりとも貸すつもりはありません。さあ、健二さんの荷物はあちらにまとめました。今すぐそれを持って、ここから立ち去ってください」

私が指差した先には、使い古された健二の衣類やゴルフバッグ、そして静子が勝手に持ち込んでいた私物が乱雑に積まれていた。

「待って、待ちなさいよ。行くところなんてないわよ。健二が帰ってくるまで、ここで待たせて」

「いいえ。健二さんはここには帰ってきません。というか、帰ってこれません。警察が彼の帰国を待っているはずですから」

「警察?!」

静子の叫び声がエントランスに虚しく響いた。その時、マンションの敷地内にさらにもう一台の車が入ってきた。そこから降りてきた人物を見て、私は少しだけ目を細めた。それは健二と不倫関係にあり、静子が資産家の令嬢と持ち上げていたあの女性だった。

派手なブランド品に身を包んだ若い女。彼女こそ健二の不倫相手であり、静子が資産家の令嬢と崇めていたリカだった。リカはエントランス前で立ち尽くす静子と、積み上げられた荷物を見て、露骨に顔を顰めた。

「ちょっと、小母様。何なんですか? この散らかった状況は。せっかく健二さんと新しい生活を始めるためにお祝いを持ってきてあげたのに」

リカは手に持った高級シャンパンのボトルを振りかざしながら、スタスタと歩み寄ってきた。静子は救い主を見つけたかのように、リカの腕にすがりついた。

「リカさん。ああ、リカさん、助けてちょうだい。この女、心理が急に暴れ出して、私たちを追い出そうとしてるのよ」

リカは静子の言葉を聞くと、私を頭の先から爪先まで見下すような目で見つめた。「ふうん。あんたが健二さんを縛りつけてたっていう、あの冴えない奥さん? 噂には聞いてたけど、本当に地味で貧相ね。その格好、スーパーの特売にでも行くつもり?」

リカの言葉に、静子が勝ち誇ったように追随する。「そうなのよ。育ちが悪いから、品格のかけらもないの。リカさんみたいな一流のお嬢様とは大違いだわ」

私は何も言わず、ただ黙って彼女たちのやり取りを見つめていた。その沈黙を畏縮していると勘違いしたのか、リカはさらに言葉を荒げた。

「ねえ、聞いてる? 健二さんはもうあんたに愛想を尽かしたの。これからは私がこの広いマンションで、健二さんと小母様を支えていくのよ。あんたみたいな低学歴の女が住んでたせいで、部屋の空気が濁ってる気がするわ。さっさと消えてくれない?」

リカは鼻をつまむような仕草をして、クスクスと笑った。「小母様から聞いたわよ。実家は田舎の農家なんですって? 都会の暮らしは大変だったでしょう。あんたには泥にまみれて土でもいじってるのがお似合いよ。このマンションの価値も分からないような女に、ここに座る権利なんてないんだから」

リカの侮辱は止まらない。彼女は私が持っていたバッグを指差し、さらに嘲笑を重ねた。「何よ、そのバッグ。本物だと思ってるの? 健二さんに買ってもらったのかしら。まあ、健二さんも優しいから、ゴミみたいな女に同情して、偽物でも与えておいたんでしょうね。可哀想に」

静子もリカの勢いに乗り、私を指さして高笑いした。「ほ~ら、まりさん。これが本物の教養と余裕よ。あんたみたいに夫の稼ぎに寄りかかって、最後は家まで乗っ取ろうとする卑怯者とは大違いね。さあ、リカさんの言う通り。さっさとドロンコの実家に帰りなさい」

2人の罵詈雑言がエントランスに響き渡る中、私はただ時計に目をやった。彼女たちの言う資産家の令嬢という肩書き。そしてリカが乗ってきた車。全てが滑稽で、私は笑いをこらえるのに必死だった。

「どうしたの? 悔しくて声も出ない? それとも自分の惨めさにやっと気づいたのかしら」

リカが私の顔を覗き込むようにして、勝ち誇った顔をした。私はゆっくりと口を開いた。

「リカさんとおっしゃいましたっけ? 1つ伺いたいのですが、そのお車、レンタカーですよね。それもかなり古いモデルの」

リカの表情が一瞬で凍りついた。「はあ? 何を馬鹿なこと言ってるの? これは私のパパが買ってくれた…」

「我が社の関連企業であるリース会社から、昨日借り出された記録があります。名前はリカではなく、別の偽名を使われていたようですが。そして、そのバッグも、ロゴの配置が少しずれていますね。本物を見たことがない方は気づかないかもしれませんが」

「な、あんた…」

リカの声が裏返った。私は彼女の動揺を逃さず、今度は静子の方を向いた。

「小母さん、あなたが資産家の令嬢と信じている彼女の本当の正体、ご存知ですか? 彼女は私の実家が運営している小額融資制度の対象者リストに載っていた、ただのフリーターですよ。それも、多額の借金を抱えて行方をくらましていた」

静子の顔が今度は土色に変わった。「い、いえ、嘘よ。リカさんは代々続く不動産業の…」

「彼女の実家が営んでいたのは、地方の小さな清掃業です。それも数年前に倒産しています。健二さんに近づいたのは、彼の商社マンという肩書きと、私が彼に持たせていたブラックカードに目がくらんだからでしょうね」

リカは顔を真っ赤にし、震える指で私を差した。「黙れ! 黙りなさいよ、この泥棒猫! あんたこそ自分の立場が分かってないのよ。健二さんは私の味方なんだから。健二さんが帰ってくれば、あんたなんて…」

「健二さんならもう帰ってきませんよ。先ほども言いましたが、彼は今、警察の事情聴取を受けているはずですから。不正経費の件だけでなく、あなたが健二さんに犯させたあることについてもね」

リカの顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。「あること」という言葉に、彼女の心当たりが的中したようだ。

その時、マンションの入り口に数人の屈強な男性たちが現れた。彼らは私を見ると、深々と頭を下げた。「お嬢様、お待たせいたしました。こちらの方々の強制退去の準備が整いました」

静子はその光景を呆然と見つめるしかなかった。しかし、本当の絶望はここから始まる。

「ちょっと、退去って何よ? 私の荷物は? 健二のゴルフバッグはどうなるの?」

静子が叫ぶが、作業員たちは淡々と作業を続ける。「小母さん、そしてリカさん。あなたたちには、これからじっくりと清算をしていただかなければなりません」

私はリカが持っていたシャンパンのボトルを軽く指差した。「そのシャンパン、実は健二さんのカードで買ったものでしょう。でも残念ながら、その決済、エラーで通っていないはずですよ。未決済の状態で商品を持ち去る。これも立派な犯罪ですよね」

リカの持つボトルがガタガタと震え出した。次々と明かされていく真実に、静子の理性が崩壊していく音が聞こえるようだった。

「嘘、嘘よ。健二、健二…」

静子が地面に座り込み、泣き叫び始めたその時、私のスマートフォンに新たな通知が届いた。それは健二の会社から送られてきた正式な解雇通知と、損害賠償請求の書面だった。そしてそこには、静子さえも知らない、健二の最大級の裏切りが記されていた。

「嘘よ。全部でたらめよ。この女、私たちの仲を裂くために偽の情報をどこかから仕入れてきたんだわ」

リカが金切り声をあげ、私の目の前で激しく足を踏み鳴らした。その拍子に、彼女が履いていたハイヒールの踵がくんと折れ、無様な格好でよろめいた。しかし彼女は執念深く私を睨みつけ、震える指を突きつけてきた。

「あんた、自分が何をしてるか分かってるの? 健二さんは私のパパの会社と大きな提携をするはずだったのよ。それをあんたがぶち壊したのよ。損害賠償で、一生刑務所に入れてやるから」

リカの尻切れとんぼな脅しに、静子もすがりつくように同調する。「そうよ、そうよ。まりさん、リカさんの言う通りだわ。あんたが健二の邪魔をしたせいで、私たちの輝かしい未来が台無しじゃない。今すぐ健二の会社に電話して、全部私の嘘でしたって言いなさい。そうすれば今回だけは許してあげるわ」

2人はもはや現実を見ることができなくなっていた。自分たちが築き上げてきた虚構の世界が崩れるのを防ごうと、必死に私を悪者に仕立て上げようとしている。

「どうしたの? 早く電話しなさいよ。黙ってないで、何か言ったらどうなの?」

静子が私の腕を掴み、爪が食い込むほどの力で揺さぶった。私は痛みをこらえながら、ただじっと彼女たちの狂気を見つめていた。

するとリカが、私の沈黙を屈服と勘違いしたのか、さらに残酷な笑みを浮かべた。「ねえ、小母様、いい考えがあります。この女、どうせ行くところなんてないんですから。私たちの新しい家で、下働きの家政婦として雇ってあげましょうよ。今までのお詫びとして、一生働かせて尽くさせるの。掃除に洗濯、私の靴磨き。あはは。お似合いじゃない?」

「まあ、リカさん、素敵だわ。それなら健二の気も晴れるでしょうね。まりさん、良かったわね。路頭に迷わずに済む方法を作ってあげたわよ。さあ、今すぐ土下座して感謝しなさい」

2人は私の周りを囲み、汚い言葉を浴びせかけ、精神的に追い詰めようと必死だった。エントランスを通る住人たちが遠巻きに私たちを見て、ひそひそとささやき合っている。その視線が私を突き刺すようだった。

しかし、私は一言も発しなかった。ただ心の中でカウントダウンをしていた。あと30秒。

「何よ。その目は。反抗的な態度ね。ほら、土下座よ。土下座しなさい」

静子が私の背中を押そうと手を伸ばした、その時だった。エントランスに設置された大型モニターと、住人全員のスマートフォンが一斉に緊急通知の音を鳴らした。それはこのマンションの管理組合及びオーナー事務局からの、緊急通告だった。

静子とリカも何事かと自分のスマートフォンを取り出した。画面を見た瞬間、2人の顔が今度こそ完全に凍りついた。通知の内容はこうだった。

「本日、当マンションの前後及び共用施設において、不正な金融取引に関与した疑いのある居住者1名の立ち入りを永久に禁止いたします。対象は403号室居住の佐藤健二氏。なお、同氏は所有者である心理氏の承諾なく、本物件を担保に多額の借入を行っていたことが判明いたしました」

「ええ…」

静子の手が震え、スマートフォンがタイル張りの床に落ちて、画面が砕けた。

「健二がこの家を担保に借金?」

「それだけではありませんよ、小母さん」

私はようやく口を開いた。その声は驚くほど冷静で冷徹だった。

「健二さんは私の父の会社の金だけでなく、小母さん、あなたが住んでいるあの実家も勝手に担保に入れていたんですよ」

静子の瞳が大きく見開かれた。「な、何を言ってるの? 私の実家は…私の名義を健二に貸した覚えなんて…」

「健二さんはあなたの実印を勝手に持ち出していたんです。リカさんに貢ぐための資金が足りなくなって、あちこちから手を出していた。リカさん、あなたも知っていたはずですよね。健二さんが、母親の遺産が入る予定だと言って、あなたをつなぎとめていたこと」

リカは顔を真っ赤にして後ずさった。「私、私は知らないわ。彼が勝手にやったことよ。私はただ、彼がお金持ちだって言われたから…」

「自分の正体がバレそうになると、すぐに逃げるんですね。でも残念ですが、リカさん。あなたが健二さんと共謀して、私の口座から不正に資金を引き出そうとした証拠も、全て抑えてあります」

私がそう告げた瞬間、リカはダッとばかりに玄関口へと走り出した。しかしそこには、先ほどから待機していた警察官たちの姿があった。

「リカさん、窃盗及び詐欺未遂の疑いで、任意同行をお願いします」

「やだ、離して! 私は悪くない。全部、健二が…」

リカが絶叫しながら連行されていくのを、静子は腰を抜かして地面に座り込んだまま見つめていた。

「そんな、そんな馬鹿な。健二が、私の家まで…」

静子のプライドを支えていた唯一の拠り所である、実家代々続いてきたという彼女の誇りは、最愛の息子の手によって既に他人の手に渡ろうとしていた。静子は私を見上げ、震える声で懇願した。

「まりさん、助けて。助けてちょうだい。あんたなら、お父様に頼めばどうにかできるんでしょう? 健二もきっと、心が逸っただけなのよ。家族じゃない。私たち、家族でしょう?」

数分前までは私を「中卒同然」と呼び、土下座を強要していた女性が、今は私の靴を掴んで泣き叫んでいる。私は彼女の手を静かに、しかし冷たく振り払った。

「小母さん、1つ大きな秘密を教えます。これを聞けば、あなたがなぜ今日この時間にここへ呼ばれたのか、全て理解できるはずです」

私は身を乗り出し、絶望に震える静子の耳元である事実をささやいた。それは、私という人間の本当の正体についてだった。

静まり返ったエントランスホールで、静子はまるで糸の切れた人形のように地面にへたり込んでいた。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、震える手で私の靴を掴もうとしている。

「まりさん、お願い。嘘だと言って。健二が、私の家まで勝手に担保に入れるなんて、そんなこと。あの子はいい子なのよ。ちょっと遊びが過ぎただけなの。あんたが、あんたがお父様に頼んで、借金を片付けてくれれば済む話じゃないの」

私はその手を冷たく振り払い、一歩後ろに下がった。「小母さん、あなたは先ほどから、私の実家を貧乏な家だとか、私を低学歴の無能だとか、何度も罵りましたよね。でも、あなたは一度でも私のフルネームを正しく調べようとしたことがありますか?」

静子は涙で滲んだ目で、呆けた様子を見せた。「何を…あんたはただの心理じゃない。佐藤マリ、でしょ?」

「いいえ。婚姻届を出す前の私の名前は、幸音寺です」

その名前を聞いた瞬間、静子の顔がピクリと動いた。この国でその名を知らぬ者はいない。日本を代表する巨大財閥グループ。不動産、金融、製造業に至るまで、あらゆる産業の頂点に君臨する一族の名前。幸音寺。

「まさか…でも、あんたの履歴書には、地方の公立高校卒業って…」

「それは父が、私に普通の金銭感覚と苦労を学ばせたいと願って、あえて公立に通わせたからです。でも、その後の学歴については、あなたは興味すら持たなかった。私は高校卒業後、アメリカの大学に飛び級で入学し、21歳で経済学の博士号を取得しました。その後は、父の会社で経営戦略のアドバイザーを務めていたんです」

静子の口が力なく開いた。「は、博士…あんたが…」

「健二さんとの出会いも、実は偶然ではありません。彼が務めていた商社は、我がグループの末端にある子会社です。父は真面目に働いている若手社員の中から、私の結婚相手の候補を何人かピックアップしていました。健二さんは、その中の1人でした。当時の彼は、とても誠実で野心に溢れつつも謙虚に見えました。私は、家柄じゃなく、私という人間そのものを愛してくれる人を探していました。だから、幸音寺の名前を伏せ、父の知人が経営する小さな農家の娘という設定で、彼と結婚したんです。結婚式の費用もわざと質素にしました。あなたたちが、私の背後にある力ではなく、私自身をどう扱うかを見るために」

静子の顔が、今度は青白さを通り越して土色に変わっていった。「じゃあ、あの時、私が言ったこともやったことも…」

「はい、全て見ていました。あなたが私の実家をバカにするたびに、父は激怒していましたよ。今すぐあの親子を破滅させてやると。でも、私は止めたんです。いつか回心してくれるかもしれない。そう信じたかったから。でも、その期待は見事に裏切られました」

私は冷徹な視線で静子を射抜いた。「小母さん、あなたが私を中卒同然の者と嘲笑っている間、私は自宅の書斎で何をしていたと思いますか? 私は健二さんの会社の経営状況をチェックし、彼が犯していた数々の不正経費や会社資金の私的流用の証拠をリアルタイムで収集していたんです。そして、彼がリカという女性に貢ぐために、あなたの家まで担保に入れたことも、その過程で全て把握していました」

静子はガタガタと震えながら、喉の奥でひとつ短い悲鳴をあげた。「あんた、最初から分かってて…」

「ええ。助けるチャンスはいくらでもありました。でも、あなたは今日、決定的な一線を越えた。私に離婚届を突きつけ、10分以内に出してこいと言った。あれが私の忍耐の限界でした。あの瞬間、私は幸音寺の娘として、あなたたち親子の抹殺を決定したんです」

私がそう告げた時、エントランスの自動ドアが再び開き、数人の黒スーツを着た男たちが整然と入ってきた。彼らは私の前で一列に並び、軍隊のような規律正しさで深く頭を下げた。

「お嬢様、総帥がお待ちです。また、佐藤健二氏の身柄は現在、成田空港近くの警察署にて完全に確保いたしました。不正融資及び横領の容疑について、すでに取調べを始めております」

リーダー格の男性が、静子には目もくれずに報告した。

「ご苦労様。小母さんの荷物はどうなりました?」

「はい、契約に基づき、全てこのマンションの敷地外へ撤去いたしました。また、佐藤静子氏が現在居住している物件についても、担保権が実行され、本日を持って差し押さえが完了しております。彼女には、帰る場所はもうございません」

静子はその言葉を聞いて、文字通り崩れ落ちた。「私の家…私の誇りだったあの家が…嘘よ。そんなの認めないわ。健二! 健二を呼んでちょうだい」

「健二さんはもう、あなたの助けを呼ぶことはできませんよ。それどころか、彼は自分の罪を少しでも軽くするために、ある供述を始めているそうです」

私はしゃがみ込んで、静子の耳元でささやいた。「彼、言ったそうですよ。全ては母にそそのかされた。母が贅沢を望んだから、俺は手を染めるしかなかったんだって」

静子の瞳が絶望に大きく見開かれた。最愛の息子に全責任を押し付けられた。その事実が、彼女の心を粉々に打ち砕いたようだった。

しかし、この地獄はまだ序章に過ぎなかった。私のスマートフォンの画面が明るく光り、新しいメッセージが表示された。それは、健二が不倫相手のリカだけでなく、他にもある重大な秘密を隠していたことを示すものだった。

エントランスに冷たい風が吹き抜け、静子のすすり泣く声だけが虚しく響いていた。しかし、私の背後に控える幸音寺家のホームチームのリーダー、高木弁護士が一歩前に進み出た。彼の手に握られた一冊の分厚いファイル。それが、これからの地獄をさらに深いものへと変える宣告書だった。

「佐藤静子様。今、お嬢様からお聞きになった通り、事態は単なる家族間の揉め事では済まなくなっております。私ども幸音寺グループの調査の結果、あなたの息子さんである佐藤健二氏が犯した罪は、横領や不倫だけではありませんでした」

静子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、高木弁護士を呆然と見つめた。「まだ、まだ何かあるっていうの? もう家も名誉も全部失ったのよ。これ以上、何を奪うっていうのよ」

「奪うのではありません。健二氏があなたという存在を利用して作り上げた負債を、法的に整理させていただくだけです。これをご覧ください」

高木弁護士が差し出したのは、数十枚に及ぶ送金記録のコピーだった。そこには静子の名前で開設された、複数の隠し口座のリストがあった。

「こ、これは私の名前…でも、私はこんな口座、作った覚えなんてないわよ」

「その通りでしょう。健二氏はあなたの身分証や実印を勝手に持ち出し、あなたの名前で多額の融資を受けていました。それだけではありません。彼は幸音寺グループの関連企業であることを悪用し、投資家たちから、静子氏が運営する架空の慈善団体名義の寄付を募っていたのです」

静子の顔が驚愕に引きつった。「架空の慈善団体?」

「はい。その額、現時点で判明しているだけで3億円。そして、その資金のほとんどは、先ほど連行されたリカとの豪華海外旅行やカジノ、そして、ここが重要なのですが、健二氏が密かに囲っていた別の女性たちへの生活費に当てられていました」

「別の、女性たち? ちょっと待って。リカさんだけじゃないの? 健二、あんた、一体何人の女と…」

静子はあまりの衝撃に言葉が続かなくなった。彼女にとって健二は、非の打ち所のない自慢の息子であり、自分を敬ってくれる唯一の存在だったはずだ。しかし真実は、息子は母親を単なる便利な名義人としてしか見ていなかった。そして、静子が資産家の令嬢と信じて疑わなかったリカすらも、健二にとっては数多くいる遊び相手の1人でしかなかった。

「さらにもう1点。あなたにとって決定的な問題がございます」

高木弁護士の声はどこまでも事務的で冷酷だった。「健二氏は、これらの詐欺行為を、母である静子氏の指示で行ったと、すでに警察に対して明確な供述を始めています。それも、詳細な偽造のメモとともに。そのメモには、あなたが健二氏に対してもっとお金を稼いできなさい。どんな手段を使っても構わないと命じたかのような記録が、あなたの筆跡を完璧に模倣して記されていました」

「な、嘘よ。私、そんなこと言ってない。書いてないわよ。健二! 健二、どうしてそんな嘘を吐くの? 私、あんたのために、あんたがエリートでいられるように、あんなに尽くしてきたのに」

静子は狂ったように叫び、アスファルトの地面を拳で叩いた。その姿は、かつて私を「中卒同然」と見下していた時とは対極にあるまでに、見苦しいものだった。私はそんな彼女を冷ややかに見下ろした。

「小母さん、皮肉なものですね。あなたが私に対して嘘をついてまで優位に立とうとした結果、今度は実の息子に嘘をつかれて破滅させられるなんて。健二さんは、自分が刑務所に入る時間を少しでも短くするために、あなたを犠牲にし立て上げる道を選んだんですよ」

「そんな、そんなのあんまりだわ。まりさん、あんたからも言ってやって。私は無実だって。健二が勝手にやったことだって」

静子が私の足元に這い寄り、震える手でスカートの裾を掴もうとした。私はそれを、汚れ物でも見るような目で避け、高木弁護士に合図を送った。

「小母さん、無実を証明したいなら、法廷でどうぞ。ただ、健二さんが用意した証拠は、素人目には完璧に見えるそうです。それに、健二さんが勝手に担保に入れたあなたの実家ですが、実は、健二さんがあそこを担保に借りたお金も、すでに使い果たしています。さらに悪いことに、貸主は一般的な金融機関ではなく、かなりグレーな組織だという報告も受けています」

私がそう言った瞬間、エントランスの入り口に数人の柄の悪い男たちが現れた。彼らは派手なシャツに身を包み、周囲を威圧するように当たりを見回している。

「おい、佐藤健二はどこだ? 連絡が取れねえんだけどよ。あいつ、今日が利息の支払い日だって言ってたんだろうが」

男たちの1人が静子の姿を見つけると、ニヤリと下卑た笑みを浮かべて近づいてきた。「お、あんたが母親か。ちょうどいい。息子が逃げちまったんなら、親が払うのが世の道理だよな。実家を担保に入れてるんだ。払えねえなら、今すぐあの家から出てってもらうか…」

男は静子の顔を覗き込み、わざとらしく頭から足先まで舐めるような視線を送った。静子は恐怖のあまり、声も出せずにガタガタと震えている。

「ひ、ひ、助けて…私、何も知らないの。お金なんて持ってないわ」

「知らないじゃすまねえんだよ。契約書にはあんたの判子がばっちり押してあんだからな」

事態は単なる家庭内の騒動や警察沙汰を通り越し、反社会的な勢力まで巻き込んだ大混乱へと発展していた。静子のプライドという名の城はもはや跡形もなく崩れ去り、彼女の周囲には絶望という名の深い闇が広がっていた。

私はその混乱の中にいる静子に向かって、最後通告を突きつけた。「小母さん、これがあなたが10分という時間で選んだ結果です。健二さんを守るためには私を捨て、欲に溺れた結果、あなたは息子に裏切られ、家を失い、犯罪者の濡れ衣を着せられ、そして借金取りに追われる人生を手に入れたんです」

「まりさん、お願い、助けて。幸音寺の力で、この人たちを追い払って」

静子は我を忘れ、見苦しくも私にすがりつこうとした。しかし、私は静かに首を振った。

「いいえ。私はもうあなたの家族ではありません。それに、私の父も言っています。『自業自得という言葉を、その身を持って学ばせろ』と」

私はホームチームと黒スーツの男たちを引き連れ、ゆっくりとエントランスを後にした。背後では、男たちの怒号と、静子の悲鳴のような泣き声が響き渡っていた。

しかし、この物語にはまだ、誰も予想しなかった展開が隠されていた。車に乗り込もうとした私の元に、一本の緊急電話が入ったのだ。それは、警察署で事情聴取を受けていた健二が、最後に残したという、ある告白についてだった。

「お嬢様、少々よろしいでしょうか? 警察署の担当官から、至急伝えしたいことがあると連絡が入りました」

高級セダンのドアに手をかけた私を引き止めたのは、私の影として長年仕えてくれている執事の安倍だった。彼は警察署に詰めているホームスタッフの最新情報を耳打ちした。

「健二さんが、最後にある告白を…」

「おお。どうやら彼は、自分の罪を軽くするためだけではなく、最後の悪あがきとして、ある爆弾を落としていったようです。それが、小母様…いえ、静子氏にとって止めの一撃になるかもしれません」

私は安倍の言葉に小さく頷き、再び静子の方へ視線を戻した。そこには借金取りの男たちに囲まれ、必死に命乞いをする静子の無様な姿があった。

「ちょっと、お嬢様って呼ばれてるあんた! 助けてって言ってるでしょう! 幸音家なら、こんなの、大したことないじゃない! 後のことは健二と話し合うから、今は、今だけは、この人たちを追い払って!」

静子は男たちに腕を掴まれながら、我を忘れて叫んでいた。しかし、その時だ。エントランスの入り口に、もう1人の意外な人物が現れた。それは、健二の秘書として長年彼を支え、静子からも「健二の右腕」として絶大な信頼を寄せられていた、佐藤という名の穏やかそうな青年だった。

「あ、佐藤さん! 佐藤さんじゃない! 助けてちょうだい。健二が大変なのよ。警察に連れて行かれたの。何かの間違いよね? あなたなら分かるでしょう。健二があんなひどいことをするはずがないって」

静子は地獄で仏にでもあったかのように、佐藤秘書に向かって手を伸ばした。しかし、佐藤秘書は静子の叫びを冷徹な目で見下ろし、私に向かって静かに一礼した。

「お嬢様、お久しぶりでございます。ご指示通り、潜入調査を完了いたしました」

その一言で、エントランスの空気が再び凍りついた。

「ええ? 潜入調査? 佐藤さん、何を言ってるの?」

静子の声が震えている。佐藤秘書は懐から一冊の手帳を取り出し、淡々と語り始めた。

「静子様、私は健二さんの秘書として働いていたわけではありません。私は幸音寺家が運営する調査機関から派遣された、潜入調査員です。健二さんが我がグループの末端企業に入社した当初から、彼の言動に疑念を抱いた総帥、つまりマリ様のお父様のご依頼で、彼の行動を全て監視しておりました」

静子は信じられないという表情で首を振った。「嘘よ。だって、あなたは健二の親友だって。健二が一番信頼できる部下だって…」

「健二さんが私を信頼していたのは、私が彼の悪事を率先して手伝っていたからです。彼は私を、自分の汚れ仕事を受け持つ忠実な犬だと思い込んでいました。だからこそ、私には全てを話してくれたのですよ。リカさんとの不倫のディテールも、小母様の実印を使って勝手に融資を受けた際の手口も。そして、彼が今回なぜ海外出張と称して旅立とうとしたのか、その本当の理由も」

私は佐藤秘書に促した。「佐藤さん、彼が警察に話したという、最後の告白について詳しく教えてください」

佐藤秘書は不気味なほど静かに、静子の方を向き直った。その眼差しには、これまで隠してきた激しい軽蔑の念が込められていた。

「健二さんは取調べで、泣きながらこう言ったそうです。『俺をこんなモンスターにしたのは、母親の静子だ。子供の頃から常に他人を見下せ、自分は特別な人間だと思い込めと教育された。その期待に答えるために、俺は虚飾を塗り固めるしかなかったんだ』と」

静子の顔から、完全に表情が消えた。「あの子が…私のせいだって?」

「それだけではありません。健二さんは今回の海外出張で、幸音寺グループが極秘に進めていた次世代エネルギーの特許情報を、海外の共同開発業者に売却しようとしていたんです。その売却益で、彼は自分だけ海外へ高飛びし、リカさんも、そして実の母親であるあなたさえも、全て日本に置き去りにする計画でした」

「な、なんで…」

「彼は私に言っていましたよ。『母さんは過去の栄光にしがみつくだけの老害だ。あのプライドの高い性格じゃ、俺がいなくなればすぐに破滅するだろうけど、知ったことか。俺は自由になりたいんだ』とね」

佐藤秘書が突きつけた事実は、静子の人生を支えてきた最後の柱を無慈悲にへし折るものだった。自分を尊敬し、自分を後継者へと導いてくれるはずだった最愛の息子。その息子にとって、自分は早く捨て去りたい邪魔者でしかなかった。

静子はもはや声にもならない嗚咽をあげ、その場に崩れ落ちた。彼女が必死に守ろうとしてきた「佐藤家の絆」など、最初からどこにも存在しなかったのだ。

借金取りの男たちはその様子を見て、鼻で笑った。「へえ、飛んだ親子だな。おい、ババア。息子にも見捨てられたんなら、もう未練はねえだろう? さっさと実家の鍵を渡しな。あそこは今日から俺たちの事務所だ」

「いや、いや、あれだけは! あの家だけは!」

静子は、かつて私が大切にしていた花瓶を「安物」と言って捨てた時と同じような、残酷な現実を突きつけられていた。自分が大切にしていたものを土足で踏みにじられる痛み。それを彼女は今、何倍にもなって味わっていた。

私は崩れ落ちる静子を見つめながら、大空を見上げた。風はますます冷たさを増していたが、私の心は不思議と穏やかだった。

「小母さん、これがあなたが10分という時間で手に入れた自由の正体です」

私は静かに言い残し、セダンの後部座席に乗り込んだ。安倍が静かにドアを閉め、車が滑り出すように走り出そうとした、その時だ。私のスマートフォンのバイブレーションが再び鳴り響いた。今度の着信は、なんと警察署にいるはずの健二本人からだった。

「マリ、心理、頼む。一度だけでいいから、電話に出てくれ。弁護士を通じて司法取引の話が来てるんだ。お前が、お前がサインさえしてくれれば、俺は…」

健二の声は、もはや人間のものとは思えないほど、恐怖と欲望が混じり合った見苦しいものだった。私はその通話をスピーカーに切り替えた。車外で泣き崩れている静子にも、その声が聞こえるように。

「健二さん、1つだけ言い忘れていたことがあります」

私は冷徹な微笑みを浮かべながら、受話器の向こうの元夫に告げた。

スピーカー越しに響き渡る健二の声は、かつてのエリート商社マンとしての余裕など微塵もなく、まるで追い詰められたネズミが泣き喚いているかのようだった。

「マリ、聞いてるんだろう! お願いだ! 幸音寺の力を使って、この罪を取り下げさせてくれ! 司法取引の条件として、お前が夫婦間の金銭トラブルだったと証言してくれれば、俺の罪は格段に軽くなるんだ! そうなれば、俺たちはやり直せる。またあの頃みたいに、仲良く暮らそう」

健二の恥知らずな言葉に、私は思わず鼻で笑ってしまった。その笑い声は、車の外でうずくまっている静子にも、そして電話の向こうの健二にも、冷たく響いたはずだ。

「健二さん、本気で言っているんですか? 私たちがやり直す? どの口がそんなことを? あなたは今朝、不倫相手のリカさんと一緒に、私の実家の機密情報を手土産に、海外へ逃亡しようとしていた。それも、小母さんすら日本に置き去りにして。そんな人の言葉を、誰が信じると思うのですか?」

「そ、それは、あれは出来心だったんだ! リカが、リカがそそのかしたんだよ! 俺は本当はお前を愛していたんだ。ただ、幸音寺の娘だって知らなかったから、つい甘えてしまっただけで…」

「つい甘えて、で3億円もの詐欺を働き、母の実家を担保に入れ、会社の特許を売ろうとしたのですか? あなたの『甘え』は、あまりにも高くつきましたね」

私が淡々と突き放すと、電話の向こうで健二の呼吸が激しくなった。焦りが頂点に達したのだろう。今度は泣き落としから、脅しに変わった。

「おい、マリ、調子に乗るなよ! お前だって、俺がこれだけ尽くしてやった恩があるだろう! 幸音寺の看板がなければ、お前なんてただの地味な女なんだよ! 俺がいたから、お前は主婦という幸せを味わえたんだ! それを恩に感じて、俺を助けるのが妻の義務だろうが!」

その言葉を聞いた瞬間、地面に潰れていた静子がフラフラと立ち上がった。彼女は震える手で私のスマートフォンに向かって叫んだ。

「健二! 健二、私の声が分かる? お母さんよ! 今の言葉、本当なの? あんた、私を捨てて海外に行こうとしてたの? 私の実家を、あの家を勝手に売ろうとしていたのは、私のためじゃなかったの?」

静子の悲痛な叫びが虚しく響く。電話の向こうで健二が一瞬絶句した。しかし、彼はすぐに毒を吐き散らした。

「母さんか、ちっうるせえな! 全部お前のせいだろうが! いつもいつも人より上に立て、佐藤家の格を上げろって、俺にプレッシャーをかけ続けて! お前が贅沢な暮らしを望んだから、俺は金が必要になったんだ! お前さえいなければ、俺はもっと自由に立ち回れたんだよ、この老害が!」

「健二、あんた、お母さんに何てことを!」

静子はショックの余り、その場に膝をついた。自分の全てを捧げて育て上げ、自分の人生の誇りそのものだった息子から、面と向かって「老害」呼ばわりされ、全ての責任を押し付けられたのだ。彼女の目に宿っていた最後の光が、音を立てて消えていくのが分かった。

「心理、聞こえるか? 母さんなんてどうでもいい。あいつはもう終わりだ。だが、俺は違う。俺には才能があるんだ。幸音寺の力があれば、俺はもっと大きな仕事ができる。今すぐ弁護士に連絡しろ。10分以内に返事をしろよ。分かったか」

かつて静子が私に突きつけた「10分以内」という言葉。今度は息子が私に、それも自分を助けろという身勝手な要求のために、投げつけてきたのだ。皮肉な因縁に、私はただ静かに沈黙を守った。

「おい、何か言えよ、マリ! もし助けないなら、お前の実家のはずべき秘密を世間にぶちまけてやるからな! 潜入調査なんて卑怯なことをした報いだ。覚悟しろよ!」

健二の焦りは、もはや狂気の域に達していた。彼はありもしない虚言を並べ立てて、私を脅そうと必死だった。しかし、その必死さが逆に、彼の無力さを際立たせていた。

私はゆっくりと車の窓を閉め始めた。モーターの静かな作動音が、健二の罵声と静子の号泣を遮断していく。

「健二さん、1つだけ重大な勘違いを正しておきますね」

私は窓が完全に閉まる直前、冷徹な一言を放った。

「あなたが売ろうとした次世代エネルギーの特許情報。あれ、本物だと思っていましたか?」

電話の向こうで、健二が息を飲む音が聞こえた。「え、何? お、お前…」

「あなたが私から盗み出したと思っていたあのデータは、私自身が作成した精巧なダミーですよ。それを海外の企業に持ち込もうとした時点で、あなたは産業スパイ罪だけでなく、偽造情報を売買した詐欺罪で、相手企業から訴えられることになります。もう、あなたが逃げられる場所は、この地球上のどこにもありません」

「そ、そんな、嘘だろ! マリ! 心理!」

健二の絶叫が途切れると同時に、私は通話を切断した。車内には、心地よい静寂が戻ってきた。外を見ると、静子は借金取りの男たちに引きずられるようにして、エントランスから連れ出されていた。彼女の口からは、もはや意味をなさない言葉が漏れ出し、虚空を見つめる瞳には絶望だけが沈殿していた。

しかし、この物語の本当の前幕は、まだ完全には見えていなかった。健二が盗み出した偽のデータ。実は、その中には彼自身さえも気づいていない罠が仕掛けられていたのだ。

車がゆっくりと走り出し、私はバックミラー越しに遠ざかっていくマンションを眺めた。そこで私は、信じられない光景を目にすることになる。マンションの影から、これまで一度も姿を見せなかった人物が、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見送っていたのだ。

走り去るセダンのバックミラーの中で小さくなっていくマンションの影。そのエントランスの柱の影から、一人の男がゆっくりと姿を現した。仕立ての良いグレーのスリーピーススーツを着こなし、端正な顔立ちに冷ややかな笑みを浮かべてこちらを見送るその人物。それは、健二が「海外企業の交渉人」だと信じ込み、必死に機密情報の売却交渉を進めていた相手。私の弟であり、幸音寺グループの副社長を務める、晴だった。

私はスマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押した。すぐに、ミラーの中の男が耳元に手をやるのが見えた。

「お疲れ様、晴。完璧な演技だったわね」

「姉さんもね。おめでとう。ようやく、あの不潔な男と縁が切れたね。見てたよ。義母さんのあの顔、最高に滑稽だった」

晴の声は、冷徹な中にも姉に対する親しみが混じっていた。健二が自分の実力で掴んだ「ビッグチャンス」だと思い込んでいたあの取引。それこそが、幸音寺家が彼を試すために用意した、巨大な罠だったのだ。

「父様は何て言ってる?」

「『もっと徹底的にやれ』だってさ。あの男、姉さんの優しさに付け込んで、幸音寺の資産を自分の財布だと思ってたんだろう。許せるはずがないよ。今頃、警察署ではもっと面白いことが起きてるはずだ」

晴との通話を終え、私はシートに背を預けた。健二との3年間の結婚生活。それは私にとって、ある意味では壮大な社会実験のようなものだった。愛した人が権力と金を手にした時にどう変わるのか、あるいは最初からその本性を隠していたのか。健二は私を「何も知らない、実家が貧乏な従順な妻」だと思い込むことで、自分のプライドを満たしていた。私が家で黙々と家事をこなし、彼の罵詈雑言を黙って受け流していたのは、決して彼を恐れていたからではない。彼の嘘、彼の裏切り、彼の弱さ。その全てを、幸音寺グループの次期後継者としての冷徹な視線で、ただ観察していただけだったのだ。

静子が持ってきた離婚届。あれも、実は私が裏で糸を引いていた。健二がリカに夢中になり、機密情報を盗み出そうとしていることを察知した私は、あえて静子に「健二さんが最近、新しい女性と将来の約束をしているようです。今の奥様を排除すれば、佐藤家はもっと安泰ですよ」という情報を、匿名の協力者を通じて流した。静子はその言葉に飛びついた。彼女は健二の出世のためではなく、自分自身が「資産家の令嬢」という新しい嫁を迎え、さらに贅沢な暮らしを謳歌したいという私欲のために、あの離婚届を準備したのだ。

「10分以内に役所に出しな」というあの傲慢な命令さえ、私の計算通りだった。役所が閉まる直前、あるいは特定の銀行取引が停止される直前。あのタイミングで離婚届が受理されることが、健二を法的に完全に、幸音寺の呪縛から叩き出すための絶対条件だったのだ。

「心理お嬢様、お顔の色が少し優れませんね。やはりお疲れでは?」

運転席の安倍が、バックミラー越しに心配そうに声をかけてくれた。

「いいえ。あべ、ただ少しだけ悲しいと思ったの。あんなに必死に嘘を塗り固めて、結局は何もかも失うことになるのに、どうして人は足元にある幸せを壊してまで、実体のない幻を追いかけてしまうのかしら」

「それは、あの親子に心というものが欠けていたからでしょう。お嬢様の真心を踏みにじった報いです。どうぞ今は、何も考えずにお休みください」

車は、私が本来住むべき幸音寺家の本邸へと向かっていた。しかし、物語はここで終わりではなかった。健二はまだ、自分が盗み出した偽のデータに、どれほど恐ろしい仕掛けが施されているのかを知らない。あのデータは、単なる出鱈目な数字の羅列ではなかった。それ自体が一種の追跡プログラムであり、健二が外部のデバイスにコピーしたり、ネット上にアップロードしようとした瞬間に、彼のこれまでの全てのデジタル犯罪の証拠を自動的に収集し、警察と検察、さらには税務署に一斉送信する仕組みになっていたのだ。つまり、健二が逆転の切り札だと思っていたあのフォルダこそが、彼を永久に社会から抹殺するための処刑執行書だった。

そして、警察署で事情聴取を受けていた健二の元に、さらなる絶望の知らせが届こうとしていた。それは、彼が信頼し共に海外へ逃げるはずだった、不倫相手のリカに関する衝撃の事実だった。リカは警察の調べに対し、驚くべき供述を始めたのだ。

「健二さん? ああ、あの人はただのパトロンの1人ですよ。本気で愛してたわけないじゃないですか。むしろ、彼が幸音寺家のお金を横領するように仕向けたのは、私なんです」

リカのその言葉が、健二の最後の正気を奪うことになる。彼が愛だと思っていたものも、成功だと思っていたものも、全ては囮にされた鏡の中の幻影に過ぎなかった。

車が本邸の大きな門をくぐった時、私のスマートフォンに新しい画像が送られてきた。それは、警察署の廊下で顔を覆って泣き崩れる健二の無様な姿だった。かつて私に「俺の稼ぎで食わせてやってる」と誇示していた男の、見る影もない姿。しかし、私の胸に去来したのは、スカッとする快感だけではなかった。3年という月日。それを共に過ごした相手がここまで浅ましく壊れていく。その事実に、私は静かな決意を固めようとしていた。

「さあ、始めましょう。最後の仕上げを」

私は車を降り、私を待っていた父と晴の元へと歩み寄った。これから行われるのは、佐藤健二、そして佐藤静子という存在を、この社会の表舞台から完全に消し去るための、法と資本による冷徹な処理だ。

一方、借金取りに連れ去られた静子。彼女が連れて行かれた先は、かつて彼女が「貧乏人の住む場所」と嘲笑していた、ある寂れた地区の古いアパートだった。そこで彼女を待っていたのは、彼女の想像を絶する、新しい生活だった。

「嘘よ。こんなところ、人間が住む場所じゃないわ! 話しなさいよ!」

静子の絶叫が、湿気を帯びたコンクリートの廊下に虚しく反響した。借金取りの男たちに突き飛ばされるようにして押し込まれたのは、築40年は経過しているであろう木造アパートの一室だった。壁紙は剥がれ落ち、部屋の隅には黒いカビがこびりついている。かつて高級マンションの床を高級スリッパで歩いていた静子にとって、そこは地獄の底以外の何者でもなかった。

「おい、ババア、文句を言うなよ。今日からここがあんたの新しい城だ。実家はもう俺たちの名義に変わった。文句があるなら、金を使い果たした息子に言いな」

男たちは静子の目の前で、彼女が唯一持ち出すことを許された小さな手提げ鞄を投げ捨てた。

「こんな、あんな広い家から、こんな鳥小屋みたいなところに…健二! 健二を呼びなさいよ! あの子が、あの子が黙ってないわ!」

「まだ言ってんのか。息子は今頃、冷たい檻の中だぜ。それに、あんたのことも『犠牲者』だって、警察に話してるって話じゃねえか。仲の良い親子だこって」

男たちが下卑た笑い声を残して去っていくと、静子は力なく畳の上に崩れ落ちた。空気は冷たく、遠くで野良猫の鳴き声が聞こえる。数時間前まで、自分は高慢な家の大様として、嫁を顎で使っていたはずだった。それが、たった1枚の離婚届。あの「10分以内に出しなさい」と言い放った自分の言葉をきっかけに、全てが砂のように指の間から零れ落ちてしまった。

静子は震える手で鞄の中から古いスマートフォンを取り出した。何度も何度も健二の番号を押すが、繋がるはずもない。そこで彼女は、最後にすがるような思いで、ある人物に電話をかけた。それは、不倫相手のリカだった。

「リカさん、リカさん、お願い、助けて! 健二が警察に連れて行かれたの! あなた、資産家の令嬢なんでしょう? あなたのお父様の力で、健二を、そして私を、ここから救い出して」

長いコールの後、ようやく繋がった受話器の向こうから聞こえてきたのは、先ほどまでの可憐なお嬢様とは似ても似つかない、低く冷え切った笑い声だった。

「はあ? 誰かと思えば、あの勘違いババアじゃない。まだ生きてたの」

「何を言っているの? リカさん、冗談はやめて。私はあなたの義理の母になる人間なのよ」

「義理の母? 笑わせないでよ。健二さんなんて、ただの便利な財布だっただけ。幸音寺のカードを持ってるから近づいてあげたのに、まさかあれが嫁さんの家族カードだったなんてね。おかげで私まで警察に事情を聞かれるハメになったじゃない。本当に迷惑だわ」

「い、いえ、資産家のお父様は…」

「そんなの、いるわけないでしょう? 全部嘘よ。健二さんも、私の嘘に騙されて、いい気になって会社の金を横領してまで私に貢いでくれたわ。あ、そうそう。健二さんが『母さんの遺産が入る』って言って見せてくれた、あの実家の写真。あれ、もう売却の手配済みだから。私の知り合いの業者にね」

静子の目の前が真っ暗になった。「ええ、リカさん、あんた、最初から私たちを騙してたの?」

「騙される方がバカなのよ。特に小母様、あなたのあのプライド、見てて最高に滑稽だったわ。貧乏人の嫁をいじめて、自分が上流階級になったつもり? 実際は、息子が盗んできた金で借金取りに追われる、ただの犯罪者の親なのにね。あははは」

嘲笑という無慈悲な音と共に、通話は切れた。静子はスマートフォンの画面を見つめたまま、魂が抜けたように動かなくなった。嫁を「無能」と呼び、不倫相手を「本物のお嬢様」と崇めていた自分。その心理こそが、佐藤家を破滅に導いた最大の原因だった。その事実に、彼女は今更ながら気づいたのだ。

一方その頃、警察署の取調室では、健二がさらなるパニックに陥っていた。

「そんなはずはない! あのデータは本物だ! 総帥の秘密のサーバーから、俺が命がけで抜き出したんだ! それを、あの海外企業の男に渡せば、俺は英雄になれるはずだったんだ!」

目の前の刑事が、呆れ果てたように一枚の書類を突きつけた。「佐藤健二君。君が売ろうとしたデータ。これを見てみろ。君がアクセスした形跡はあるが、中身は空っぽだ。いや、空っぽどころか、君がコピーした瞬間、君のスマートフォン内の全データがこちらに転送されるプログラムが仕組まれていた。君が隠し持っていた裏帳簿、不倫相手との生々しいやり取り、そして、母親の実印を偽造した際の音声データ。全て、警察の手元にある」

「わ、偽造…音声…」

「君は母親を犠牲者に仕立て上げようと供述しているが、君のスマートフォンには、君が母親の寝ている間に実印を持ち出し、『これでババアの家も俺のものだ』と笑っている動画まで保存されていたぞ。自撮りモードでね」

健二の顔から、完全に表情が消えた。彼は自分がどれほど愚かなミスを犯していたのかを、ようやく理解し始めた。心理はただ黙って耐えていたのではない。自分から証拠をさらけ出すように、巧妙に、優しく誘導していたのだ。

「健二さん、最近、お仕事大変そうね。健二さんの実力なら、もっと上を目指せるはずよ」

そんな彼女の何気ない言葉が、全て自分の傲慢さを暴かせ、破滅の穴を掘らせるための呪文だったのではないか。

「マリ、あいつ、あいつ、最初から全部…」

健二はガタガタと震え出し、取調べの机に頭を打ち付けた。「ああ、10分だ。あの10分がなければ…。あの時、母さんが離婚届なんて持ってこなければ、俺はまだ幸音寺の婿として、あの贅沢な暮らしができていたんだ。全部、母さんのせいだ。あのクソババアが、余計なことをしたからだ!」

健二の叫び声は取調室の外まで響き渡った。しかし、そんな彼の元に、最後の絶望が届けられる。ドアが開き、一人の弁護士が入ってきた。健二が期待していた、自分を救ってくれる弁護士ではない。それは、幸音寺家の法務部長だった。

「佐藤健二さん、お久しぶりです。少々、お嬢様からの伝言を預かってまいりました」

健二はすがりつくような目で弁護士を見た。「伝言? あ、心理が、心理が助けてくれるって言うんだな? やっぱりあいつ、俺のことが忘れられないんだ」

弁護士は、哀れみのこもった冷淡な微笑みを浮かべ、こう告げた。「いいえ。お嬢様はこうおっしゃっています。『あなたが3年間で私から奪った時間を、これからは刑務所の中で、1分1秒、利息をつけて返してください』と」

そして、弁護士はさらにもう一枚の紙を差し出した。「これは、あなたが不倫相手のリカさんに貢いでいた3億円。その原資は、幸音寺グループがあなたに貸し付けていた形になっています。離婚届が受理された瞬間、その全額の返済期限が到来しました。これより、あなたと静子氏の全資産を差し押さえ、不足分については、あなたが一生かけて支払うための法的措置を開始します」

健二の視界が真っ白に染まった。自由がないだけでなく、借金という名の鎖が、一生、彼と母親の首を締め続ける。死ぬことさえ許されない、奴隷としての人生。その時、健二の頭の中に、今朝の心理の笑顔がフラッシュバックした。

「小母さん、本当にいいんですか? 後悔しませんか?」

あの時、彼女が見せた最高の笑顔。それは、自分を愛していたからではなく、自分という厄介者から解放された喜びだった。健二は言葉にならない嗚咽をもらしながら、冷たい床に崩れ落ちた。混乱と絶望の渦中で、彼はただ、届くはずのない名前を叫び続けていた。

幸音寺家の本邸は、都心の一等地にありながら、静寂と気品に包まれた別世界だった。広大な日本庭園を望む重厚な和館で、私は一人、静かに紅茶を味わっていた。

「心理。お疲れ様。3年という月日、よく耐え抜いてくれたね」

部屋に入ってきたのは、幸音寺グループの総帥であり、私の父である幸音寺蓮だった。父は私の向かい側に座ると、慈愛に満ちた、しかし経営者としての鋭さを失わない目で私を見つめた。

「お父様、ご心配をおかけしました。でも、これでようやく全てが片付きました」

「ああ、報告は受けているよ。あの親子、最後まで救いようのない不様だったそうじゃないか。だが、心理。お前があの男、健二君との結婚を決めた時、私が提示した条件を覚えているかい?」

父の言葉に、私は静かに頷いた。実は、3年前の結婚には、健二も静子も決して知り得なかった、最大の秘密が隠されていたのだ。

「健二さんは自分が運良く、幸音寺グループの子会社に入社し、運良く私に見初められたと思っていました。でも、事実は違います。彼は最初から、試されていたんですよね」

父は深く頷き、傍らに置いていた一通の極秘ファイルを開いた。「その通りだ。私は我がグループの次期後継者であるお前の夫となる男に、単なる能力だけでなく、普遍の誠実さがあるかどうかを確認したかった。だからこそ、あえて彼を幸音寺の息のかかった優遇ではなく、身分の低い娘の夫という、過酷な環境に置いたんだ」

健二が知らない最大の事実。それは、彼が結婚した瞬間に、実は幸音寺グループ本社の常務取締役としての椅子が用意されていたということだ。もし彼がこの3年間、私を裏切らず、静子の暴言から私を守り、地道に努力を続けていたならば、彼は今日、離婚届を突きつけられる代わりに、数千億円の資産を動かすグループの中枢に就任するはずだったのだ。

「彼はあと1歩だった。あと1ヶ月、お前を大切に扱っていれば、今日という日は、彼の栄光の戴冠式になるはずだったんだよ」

父は吐き捨てるように言った。「皮肉なものですね。彼は私の実家から数億円を盗み出すために必死になって、結果的に数千億円の未来をドブに捨てたのですから」

私は冷めた紅茶を見つめながら答えた。健二がリカに貢ぎ、静子の虚栄心を満たすために手を染めた数々の不正。それらは、彼が手にするはずだった莫大な富に比べれば、あまりにも些細で、あまりにも虚しい小銭稼ぎに過ぎなかった。

そして、もう1つ、健二が警察署で知ることになる残酷な事実があった。それは、彼が不倫相手のリカの間に授かったと信じ込んでいた、子供についてのことだ。

「お父様、リカさんの件も、全て裏が取れましたか?」

「ああ。彼女は最初から健二君を嵌めるために送り込まれた、プロの詐欺師だった。彼女が彼に見せていたエコー写真も、妊娠の診断書も、全てネットで拾った偽造品だ。彼女は健二君から引き出した金の一部を、自分の本当の恋人。海外の犯罪組織の男に送金していたよ」

健二は、自分を愛してくれる唯一の理解者だと思っていたリカに、文字通り骨の髄までしゃぶられていたのだ。リカは健二が幸音寺の婿であることを知っていた。しかし、彼女が狙っていたのは健二本人ではなく、彼を通じて引き出せる幸音寺家の資産だけだった。

私は手元にある1枚の通知書を眺めた。それは、健二の拘束期限が延長されたことを知らせるものだった。

「お父様、私、これから最後にあの方、小母様に会いに行ってきます。仕上げに」

「何しに? 今更、何の用があるんだい?」

「お返しをするんです。彼女が私にくれた、あの10分間を。彼女自身の人生に刻み込むために」

私は立ち上がり、安倍の用意した車に向かった。向かった先は、あの寂れたアパート。かつて「教養のない貧乏人」と私を見下していた女性が、今どのような姿で過ごしているのか。

アパートの前に着くと、そこには驚くべき人物の姿があった。静子が最後の希望としてすがろうとしていた、彼女の親戚を名乗る男性。しかし、その男性の正体を知れば、静子は今度こそ発狂するに違いない。

私は車から降り、ゆっくりとアパートの階段を登った。古びたドアの向こうから、静子のすすり泣く声と、男の野太い怒鳴り声が聞こえてくる。

「おい、いつまで泣いてんだ! 早く金を出せ! 健二が残した借金は、まだ1億以上残ってんだぞ! 払えねえなら、この契約書にサインしな。あんたのこれからの収入、全部俺たちが管理してやるからよ」

「いや、いやよ! 私は佐藤静子よ! あんな立派な家に住んでいたのよ! こんなの、夢に決まってるわ!」

私はドアをノックせず、静かに開けた。そこには、床に突っ伏し、ヤクザのような風貌の男に髪を掴まれている静子の姿があった。静子は私を見ると、一瞬、救いを求めるような表情を見せたが、すぐに私の背後に控える黒スーツの男たちと、私の冷徹な眼差しに気づき、凍りついた。

「マリさん…ああ、まりさん、助けて! この人たち、私を売り飛ばそうとしてるのよ!」

私は彼女の前にゆっくりと膝をついた。そして、バッグから1枚の書類を取り出した。

「小母さん、助けに来たのではありません。最後のご報告に来たんです。健二さんがもしあと1ヶ月、私に優しくしてくれていたら、あなたは今頃、銀座の高級マンションの最上階で、幸音寺グループの大様として暮らしていたはずだったんですよ」

静子の瞳が大きく見開かれた。「ええ、銀座の最上階?」

「はい。これが、健二さんに渡されるはずだった役員就任の承諾書です。そして、こちらがあなたに送られるはずだった、幸音寺家からの宝石のリスト」

私は色とりどりの宝石が映った写真を、静子の目の前にバラバラとぶちまけた。

「でも、全ては無駄になりました。あなたが離婚届を持ってきた、あの10分間で」

静子は写真の中の宝石と、今の自分の惨めな境遇を見比べ、信じられないような悲鳴をあげた。「嘘、嘘よ! 健二! 私の宝石! 私のマンション!」

「もう、遅いんです。あなたは自分たちの手で、有り余る幸せな未来をゴミ箱に捨てたのですよ」

私が立ち去ろうとした、その時。アパートの廊下に、さらなる意外な人物が足音を響かせて現れた。その人物を見た瞬間、静子だけでなく、私も一瞬言葉を失った。それは、警察に捕まったはずのリカではなかった。彼女をプロの詐欺師として健二に引き合わせた、全ての黒幕。そこに立っていたのは、健二が親友だと信じ込んでいた、あの人物だった。

古びたアパートの薄暗い廊下に立っていたのは、一人の初老の男性だった。使い古されてはいるものの清潔に手入れされたスーツをまとい、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿には、どこか隠しきれない気品が漂っている。その顔を見た瞬間、静子の顔がこれまでにないほど激しく引きつった。

「あ、まさか…あなた、どうして…死んだんじゃなかったの?」

静子の声は裏返り、恐怖で歯の根が合わないほどガタガタと震え出した。

「久しぶりだね、静子。死んだことにされていたとは、遺憾だが。君が私の財産を全て持ち逃げし、勝手に死亡届の準備まで進めていた、あの日から、私の時計は止まったままだったよ」

男性は、静子の絶望に満ちた瞳をまっすぐに見据え、静かに、しかし重みのある声で告げた。この男性こそ、健二の本当の父親であり、静子の元夫だった。

静子はこれまで、健二や周囲の人々に対し、「夫は身分の低い出身だったが、若くして不慮の事故で亡くなった。私は未亡人として苦労して健二を育てた」と、偽りの生い立ちを語り続けてきた。しかし、事実は逆だった。夫は地方の資産家の家系でしたが、後妻として入り込んだ静子が夫の両親を言いくるめて家の実権を握り、夫を精神的に追い詰めて家から追い出したのだ。その後、静子は家の金を不正に引き出し、夫の名前で多額の借金を作った上で、健二を連れて都会へ逃げた。それが、佐藤家の始まりだった。

「お父様。私はわざとらしく驚いたふりをして、男性に声をかけた。実は、彼を探し出し保護していたのは、私の父だった。静子の過去に不審な点を感じた父が徹底的に調査を行い、地方の小さな工場でこつこつと働いていた元夫を見つけ出したのだ。

「まりさん、今まで私の息子のせいで辛い思いをさせてしまったね。本当に申し訳ない」

元夫は私に向かって深く頭を下げた。その誠実な姿は、健二とは似ても似つかない。

「ちょっと待って! なぜあんたが心理と繋がっているのよ! 嘘よ! こんなの、何かの間違いよ!」

静子は現実を受け入れられず、床を這いずりながら叫んだ。

「静子君が健二に教えてきた『佐藤家の誇り』なんてものは、最初から存在しないんだ。君が盗んだ私の実家の金。君が作り上げた虚構の歴史。健二はその呪いに縛られ、君と同じように他人を騙し、奪うことでしか自分を保てない人間になってしまった。君の歪んだ教育が、実の息子を犯罪者に仕立て上げたんだよ」

元夫の言葉は、静子の心の一番深いところに、彼女がひた隠しにしてきた劣等感という名の急所を貫いた。

「違う! 私は、私は健二を一流の男にしたかっただけよ! 健二は私の最高傑作なのよ!」

「最高傑作? ああ、確かにそうだね。君の見苦しい部分を全て凝縮したような男になった。今、彼は警察署で、君のことを『自分の人生を邪魔した最悪の母親だ』とののしり続けているそうだよ。それが、君の育てた結果だ」

静子は言葉にならない悲鳴を上げて、頭を抱えた。そこに、私の背後に控えていたホームチームの1人が、新たな書類を提示した。

「佐藤静子様。元夫より、過去の財産横領及び私文書偽造に関する損害賠償請求が出されました。また、幸音寺グループに対する詐欺行為及びマリ様への精神的苦痛に対する慰謝料請求も合わせ、あなたには総額で1億円を超える支払い義務が生じています」

「空払えるわけないじゃない! 私はもう一文も持っていないのよ!」

「分かっています。ですから、本日を持って、あなたが身につけているそのブランド物の服、その貴金属、そしてあなたが隠し持っていた古い実家の権利書、全てを正式に差し押さえさせていただきます。今のあなたには、法的に『佐藤』の名前を名乗る資格すらありません」

静子は自分の腕に輝く金色のブレスレットを必死に隠そうとしたが、無慈悲にも執行官たちによって取り上げられていった。優雅さを演出するための鎧を、1つずつ剥ぎ取られ、彼女は文字通り、ただの惨めな老婆へとなり下がっていった。

私は絶望の淵に沈む静子を見つめ、最後の一言を放った。「小母さん、あなたは私に『10分以内に役所に提出しろ』と言いましたね。あの時、もし私があなたの言葉に従わずに、泣いてすがっていたら、あなたは満足したかもしれません。でも、私はあなたの指示を忠実に守りました。10分以内に、私は自由になり。10分以内に、あなたたちは地獄への切符を手にしたんです」

私は元夫の手を取り、ゆっくりとアパートを後にした。背後からは、自分の服まで奪われそうになり、我を忘れて暴れる静子の、見苦しい叫び声が聞こえてくる。

「返して! 私の宝石! 私の人生! 心理、あんた、ただじゃ置かないわよ! 呪ってやるわ!」

その声は、かつて私を震え上がらせた威厳など微塵もなく、ただの負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。

車に乗り込むと、元夫はふと、大きなため息をついた。「まりさん、これで良かったのかい? 健二は私の息子だが、彼にはもう、救いはないかもしれない」

「いいえ、お父様。彼にはこれから、自分の罪と向き合うための、長い長い時間が与えられます。それが彼にとって、唯一の救いになるはずです」

私はそう答え、スマートフォンで最後のある処理を実行した。それは、健二が拘束される予定の拘置所へ、私が用意した特別な「プレゼント」を届けるための合図だった。健二は、そこで知ることになる。彼が幸音寺家から盗み出したと思っていたあの偽データ。実はそこには、データ以上の、彼の未来を決定付ける驚愕の仕掛けが、もう1つ隠されていたことを。そして、このスカッとする物語の頂点は、警察署で健二が放った、最後の一言によって、予期せぬ形で幕を閉じることになる。

警察署の取調室。冷たい蛍光灯の光が、パイプ椅子に力なく座り込む健二を照らしていた。かつての堂々たる商社マンの面影はなく、無精髭が伸び、目は充血し、高級だったはずのシャツは汗と涙で無残に汚れている。

「嘘だ。そんなはずがないんだ。何かの手違いだろう…。頼むよ、刑事さん。俺は幸音寺グループの身内なんだぞ。義理の父親は、あの幸音寺蓮だ! 俺をこんな風に扱って、ただで済むと思ってるのか!」

健二はまだ、自分が「幸音寺家の婿」という幻想にすがりついていた。目の前の刑事は、哀れみを超えて、もはや呆れ果てたという顔で、大きなため息をついた。

「佐藤健二君。君はまだ自分の立場が分かっていないようだな。君の弁護士。いや、幸音寺家から差し向けられた代理人が到着した。そこで、君の本当の通信簿を見せてもらうといい」

重い鉄の扉が開き、幸音寺家の法務部長である高木弁護士が入ってきた。彼は無表情のまま、一冊の革張りのファイルを取調室の机に置いた。

「さあ、助けに来てくれたんですね! 今すぐ、ここの連中に言ってやってください! 俺をここから出せって! 心理には、俺からよく言っておきますから。夫婦喧嘩がちょっとこじれただけだって」

健二が身を乗り出して叫んだが、高木弁護士はそれを冷たくあしらった。「佐藤健二さん、勘違いしないでいただきたい。私はあなたを助けに来たのではありません。お嬢様、幸音寺総帥からの、最終通告を執行しに来たのです」

「最終通告?」

高木弁護士はファイルをゆっくりと開いた。そこには、健二がこの3年間、どのように評価されていたかが克明に記されていた。

「佐藤健二さん。あなたは自分が偶然、幸音寺グループに入り込んだ幸運な男だと思っていましたね。ですが、事実は違います。あなたは、幸音寺蓮総帥が仕掛けた『後継者選別テスト』の被験者だったのです」

「テスト? 何の話だよ?」

「総帥は、娘であるマリ様を支える伴侶として、あなたを選びました。ですが、権力や富を与えてから本性が出るのでは遅すぎる。だからこそ、あえて身分の低い妻と、その親戚を養う苦労人という役割をあなたに与え、3年間の観察期間を設けたのです」

健二の喉がゴクリとなった。

「もしあなたがこの3年間、マリ様を愛し、守り、謙虚に努力を続けていたならば、あなたは今日のこの瞬間をもって、幸音寺グループ本社の常務取締役に就任し、総額数千億円を超える資産の管理権を譲り渡される手筈になっていました」

「せ、数千億…」

健二の瞳に、かつてないほどの欲望と、それを上回る衝撃が走った。

「ですが、あなたの成績は最悪でした。会社の金の横領。特許情報の売却未遂。そして何より、マリ様への度重なる侮辱と裏切り。これらは全て、幸音寺の監視システムによって、1分1秒の漏れもなく記録されていました」

高木弁護士は、ファイルの中から1枚の写真を差し出した。それは、今日、健二が役員に就任した際に座るはずだった、本社の最上階にある豪華な役員室の写真だった。

「本来なら、あなたは今頃、ここで盃を上げていたはずです。ですが、あなたは自らその権利を捨てた。それも、あのお母様が持ってきた離婚届によってね」

「あ、ああ、あの、離婚届…」

「そうです。マリ様は最後まで、あなたを信じようとしていました。ですが、お母様が『10分以内に提出しろ』と言い放ち、あなたがそれを黙認した瞬間、テストは終了しました。不合格です。それも、史上最低の点数で」

健二の全身から、血の気が引いていくのが分かった。「天を掴む」とは、まさにこのことだった。名誉も、富も、全てが自分の手の届くところにあった。あと1歩。あと数分。妻を大切にしていれば、全てが自分のものになるはずだった。それを、不倫相手との遊びや、母親のつまらない見栄のために、自分自身で叩き壊してしまったのだ。

「ああ、待て、待ってくれ! 撤回だ! 離婚は撤回する! 心理! 心理をここに呼んでくれ! 愛してるんだ! 悪かった! 全部、俺が悪かったんだ!」

健二は机を叩き、狂ったように叫んだ。しかし、高木弁護士の言葉は止まらない。

「撤回は不可能です。離婚届はすでに受理されました。そして、ここからが本当の…いえ、佐藤健二さん。あなたが必死に盗み出し、リカさんを通じて売却しようとしたあのデータ。中身は空っぽだと申し上げましたが、実は1つだけ、お嬢様からのプレゼントが入っていたんです」

「プレゼント?」

「あのデータがコピーされた瞬間、あなたのスマートフォン、パソコン、そしてお母様の端末にある、全ての不適切な履歴が、日本中の主要なSNSと、あなたの取引先、さらにはあなたの親戚一同に、一斉に拡散されるように設定されていました。タイトルは、『佐藤健二・静子親子の華麗なる犯罪記録』」

健二は目を見開き、ガタガタと震え出した。

「ああ、今頃、ネット上はあなたたちの話題で持ち切りですよ。あなたの不倫、お母様の借金取りへの見苦しい命乞い、そしてあなたがマリ様をいかに虐げてきたかという記録。全てが全世界に晒されました。あなたたちは、もうこの国で、顔を上げて生きていくことはできません」

健二はあまりの衝撃に言葉を失い、口をパクパクとさせるだけだった。その姿は、まるで陸に上げられた魚のようだった。

「さらに、お母様の静子さんについてですが。彼女が唯一の誇りにしていた実家の土地。あそこは現在、幸音寺グループが買い取り、来月から『公衆トイレ』の建設が始まることになりました。お母様が高貴な家柄だと嘯いていたあの場所は、これから末永く、多くの人々の汚れを洗い流す場所として活用させていただきます。お母様には、その管理員としての仕事を、数年の刑務所生活の後の義務として用意してありますよ。もちろん、無給でね」

健二の精神は、もはや限界だった。プライドを、金を、未来を、そして自分たちのルーツさえも、徹底的に踏みにじられ、跡形もなく破壊されたのだ。

「マリ、心理! 許してくれ! お願いだ! 助けてくれ!」

健二は床に膝をつき、取調室の壁に向かって何度も頭を打ち付けた。しかし、その声が彼女に届くことはない。

私はその頃、本邸のテラスで、元夫と一緒に静かな午後を過ごしていた。

「まりさん、もう、いいのか?」

「はい、お父様。これで、あの親子に関する全てが、私の人生から消去されました」

私はスマートフォンの画面を操作し、健二からの着信拒否設定を「永久拒否」に変更した。

「10分で出しなと言われた時は、どうなることかと思いましたが。終わってみれば、10分で世界が変わりましたね」

私は空を見上げ、晴れやかな気持ちで微笑んだ。健二と静子。あの2人が、これから何十年という時間をかけて償わなければならない罪。それを思うと、少しだけ胸が痛んだが、それ以上に、ようやく自分を取り戻せたという解放感が、私を包み込んでいた。

しかし、物語はまだ終わっていない。最後に、健二が拘置所の独房で目にする、本当の意味でのスッキリとする結末が待っていた。

翌朝、健二の元に届けられた朝食のトレイの下に、一枚の紙片が挟まっていた。そこには、心理の筆跡でこう記されていた。

「私があなたを愛していた3年間、あなたが私に一度でも『ありがとう』と言ってくれたら、この結末は変わっていたかもしれません。さようなら、佐藤健二さん。いえ、名もなき受刑者さん」

健二はその紙片を握りしめ、言葉にならない絶叫をあげた。その声は、重厚なコンクリートの壁に、虚しく吸い込まれていった。

事件から数ヶ月が経ち、町には爽やかな秋の風が吹き抜けていた。幸音寺家の本邸で、私は父の隠居後の楽しみである庭園の手入れを眺めながら、穏やかな時間を過ごしていた。かつての「佐藤」という名の親子に怯え、耐え忍んでいた日々が、遠い昔の出来事のように感じられる。

あの後、健二と静子の親子には、この社会の厳しい審判が下された。健二は横領、産業スパイ未遂、そして多数の詐欺罪で実刑判決を受け、今も冷たい檻の中で過ごしている。かつて「俺の稼ぎで食わせてやってる」と誇示していた彼は、今では自分の名前さえ番号で呼ばれる日々だ。彼が獄中で知った最大の絶望は、彼が人生の成功と信じていたものが、実は全て私の手のひらの上で転がされていたテストに過ぎなかったという事実だった。

一方、義母だった静子には、さらなる因果応報が待っていた。彼女は今、かつての佐藤家の由緒ある実家があった場所に建てられた、公衆トイレの清掃員として働いている。かつて「育ちが知れるわね」「貧乏臭い」と私を見下していたその口で、今は利用客に「ありがとうございます」と頭を下げ続ける毎日。高級ブランドに身を包んでいたその手は、冷たい水と洗剤で赤くひび割れ、かつての傲慢な姿はどこにもない。

ある日の夕暮れ、私は仕事の合間にかつて住んでいたあのマンションの近くを通りかかった。すると、そこにはボロボロの作業服を着て、地面に膝をつきながら、懸命にトイレの床を磨いている静子の姿があった。

「小母さん」

私が静かに声をかけると、静子はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。私の顔を見た瞬間、彼女の瞳に、絶望と後悔と、そして一筋の涙が浮かんだ。彼女は何かを言おうと口をパクパクさせたが、結局は深く頭を下げ、震える声でこう言った。

「申し訳ありませんでした。私は…私は、一番大切なものを、自分の手で壊してしまったんですね」

静子は、私がかつて彼女に送った、安物のけれど心を込めて選んだ手袋。今も大切に持っていた。彼女は贅沢やプライドという幻影を追いかけるあまり、目の前にあった本物の家族の優しさに気づけなかったのだ。私は何も答えず、ただ彼女の背中を見つめ、その場を後にした。許すことはできないけれど、もう、彼女を憎む気持ちも残っていなかった。

「お嬢様、そろそろお時間です」

安倍が優しく声をかけてくれた。今、私の隣には、本当の父親である元夫が座っている。元夫は、父の計らいで幸音寺グループの関連施設で管理職として再起し、失われた人生を取り戻そうと懸命に生きている。

「まりさん、あの子たちが失ったのは、金や地位じゃない。人を信じ、人に愛されるという、人生で最も尊い権利を、自ら放棄してしまったんだ。君が今、こうして笑っていられることが、私にとって最大の救いだよ」

元夫の言葉に、私は静かに頷いた。車が走り出し、夕日に照らされた街並が後ろへ流れていく。あの10分間。もしあの時、義母がいきなり離婚届を持ってこなかったら。もし私が夫の裏切りに気づかず、騙され続けていたら。今も私は、あの暗い家の中で、冷たい言葉に耐えながら生きていたかもしれない。

小母さん、ありがとうございます。あの10分間が、私を自由にしてくれました。私は心の中でそう呟いた。皮肉なことに、敵が仕掛けた最大の罠こそが、私にとっての最大の福音となったのだ。

幸音寺家の本邸に到着すると、父が玄関先で待っていた。

「お帰り、心理。新しいプロジェクトの資料ができているよ。これからは、幸音寺の未来を担う一人の経営者として、思う存分、腕を振るってくれないか」

「はい、お父様。喜んで」

私は力強く答え、一歩踏み出した。これからは、誰かの顔色を窺う必要はない。自分の力で、自分の信じる道を歩んでいく。奪われていた3年間の時間は、これからの豊かな人生で、何倍にもして取り返していくつもりだ。

人は奪うことで幸せになれるのではない。与え、守り、共に歩むことでしか、本当の豊かさは手に入らない。あの親子が一生かけても気づけなかったその真理を、この胸に深く刻み、新しい未来へと走り出します。空には、一点の曇りもない美しい月が登り始めていた。私の物語は、ここから本当の意味で始まっていくのだ。

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