「『体に傷のある女を幸せにできるのか?』――婚約者のふりをして彼女の実家に挨拶に行った日、俺は彼女の家族にそう罵られた。患者さんに慕われ、いつも笑顔で診察する医師・有沙さんは、実の親から『一族の恥』と呼ばれ、更には怪我の古傷をバカにされた。気づけば俺は彼女の手を掴み、あの家から飛び出していた。そして、6時間離れた俺の地元での再出発を決めた。しかし、彼女の両親がそれを黙って見逃すはずもなく――…

「『体に傷のある女を幸せにできるのか?』――婚約者のふりをして彼女の実家に挨拶に行った日、俺は彼女の家族にそう罵られた。患者さんに慕われ、いつも笑顔で診察する医師・有沙さんは、実の親から『一族の恥』と呼ばれ、更には怪我の古傷をバカにされた。気づけば俺は彼女の手を掴み、あの家から飛び出していた。そして、6時間離れた俺の地元での再出発を決めた。しかし、彼女の両親がそれを黙って見逃すはずもなく――...

「うわっ!」という俺の大声が病院のロビーに響き渡り、周りの人々が慌てて駆け寄ってきた。「どうした?大丈夫か?」「ごめんなさい!」という声が飛び交うが、痛みでまともに反応できない。足首を庇いながら、俺は何とか立ち上がった。お世話になっている小方さんに「すぐ病院に行け」と言われ、俺はタクシーに飛び乗った。

病院で診察してくれたのは、金子先生という温和そうな医者だった。「折れてはいないね。でも、しばらくは安静にしなさい。転んだのかい?」「舞台から落ちました」「ああ、役者さんなんだね」俺は役者だ。でも、それだけで食べていけるわけではない。週5日、力仕事のバイトで食いつないでいる。30歳までに芽が出なければ役者は諦める、と両親と約束している。いわゆる崖っぷちだ。

会計を待っている間、バイト先に休みの連絡を入れようと外へ出た。ポケットからスマホを取り出した瞬間だった。「おっと!」目の前に子供が飛び出してきた。いつもなら避けられる。でも、この時は違った。松葉杖ごとバランスを崩し、俺はそのまま地面に倒れ込んだ。

「大丈夫?」ふわりと柔らかい感触と甘い香りが俺を包んだ。恐る恐る目を開けると、視界は真っ白。俺は白い服を着た女性の上に倒れていたのだ。「ご、ごめんなさい!」「慌てなくていいから。あなた、怪我してるんでしょ?ゆっくり起き上がって」女性は俺を支えながら起こしてくれた。それは、さっき診察してくれた整形外科の野村有沙先生だった。「何かあったら連絡してください」子供の母親が電話番号のメモを渡して去っていく。野村先生は「念のため診察しましょう」と笑った。その笑顔は綺麗だったが、有無を言わせない強さもあった。

1週間後、診察で病院を訪れた。受付を済ませて電光掲示板を見ると、「相馬健太」の名前が表示されている。しかし、よく見ると診察室の表記が変わっている。診察室に入ると、野村先生が笑顔で待っていた。「元々は金子先生が見てたんだけど、私が担当することになったの。よろしくね」俺は照れ臭くなりながら頭を下げた。診察の合間、野村先生は「この1週間、大変だったでしょ?」と優しく声をかけてくる。「バイト先は冷たい対応でした。役者やってるんですけど、怪我で役も下ろされちゃって」「そっか。今度の公園の役も?」「はい。主演じゃないけど、それなりに重要な役だったんです」俺はつい愚痴をこぼした。「いいのよ。そういう話を聞くのも私の仕事だと思ってるから」その言葉で少しだけ心が軽くなった。

「そうだ。こういう時におすすめの本があるの」野村先生は立ち上がり、踏台に乗って本棚の上の本を取ろうとした。その瞬間、彼女はバランスを崩し、踏台から落ちてしまった。「だ、大丈夫ですか?」俺は慌てて駆け寄る。彼女は今日、女性らしい柔らかな生地のロングスカートを履いていた。落ちた衝撃でスカートがめくれ上がり、太ももが露わになっている。――白く細長い足。それに、太ももにはっきりと残る火傷の跡。俺は一瞬、目を奪われてしまった。「え…」不自然に途切れる俺の言葉。野村先生は何かに気づき、慌ててスカートの裾を引っ張って隠す。「いえ、大丈夫です。痛みも何もないから、相馬さんも戻ってください」彼女の顔から柔らかな表情は消え、仮面のような笑顔が貼り付いていた。「どの本を貸すんですか?」うまく切り替えて、彼女は笑った。俺は何も見なかったことにできず、胸の奥にモヤモヤしたものを残すことになった。

次回の診察日、ギブスが取れる日だった。「前回、少し妙な雰囲気で帰ってしまったから正直不安だったけど、張り付けた笑顔じゃなくて良かった」本を貸してもらったので、お礼を言おうと思った。「すごく面白かったです。1週間で3回も読みました」「そんなに嬉しそうに笑う。じゃあ、これあげるわ」野村先生は俺に本を戻してきた。「いえ、自分で買うから」「ギブスは今日取れるけど、だからって歩き回るのは良くないわ。読みなさい」有無を言わせない口調で、彼女は本を押し付けた。「じゃあ、何かお礼させてください。ご飯行かない?」「いいですよ。あと、相馬さんの家に行ってもいい?」「はい。……へ?」変な声を出してしまった。「ダメなの?」「野村先生。自分が何言ってるか分かってますか?」「見たでしょ?あれ?責任取ってよ」「あれ」とは、きっとあのことだ。この前の診察で見てしまった、スカートの中の太ももと傷跡のことだろう。「責任取って」と言われても、意味が分からない。「いいもの見たな」で終わらせるつもりだったのかもしれないが、彼女の手は震えていた。「分かりました。うちに来るってことでいいですか?」野村先生は小さく頷き、上目遣いで俺を見上げる。小動物のようだ。さっきまでの勝気な様子はどこにもない。「今日仕事終わったら連絡するわ。夕飯を作ってあげる」「今日、あなたの気が変わらないうちに」そう言ってニコっと笑った彼女は、どこか奔放だった。

夕方、野村先生は俺のアパートにやってきた。診察室とは雰囲気の違う、少女のような愛らしさがあった。「お邪魔します」彼女は手際よく料理を始め、肉じゃがを作ってくれた。「すごく美味しい。料理上手なんだね」「料理は好きなんだけど、なかなか作れなくて。自分以外の人のために作るなんて滅多にないから、今日は楽しかったわ」「そうなんだ。彼氏とかいないの?」その言葉に彼女はパッと顔をあげる。「いないです。健太さんは?」「え?俺?うん。俺もいないよ」その言葉に有沙さんは嬉しそうに微笑んだ。この展開はもしや…?俺は期待で胸の鼓動が早くなる。「健太さんさえよかったら、婚約者のふりをしてもらえませんか?」「はぁ?」彼女は言った。親に医者を辞めさせられそうになっていること、お見合い結婚を強要されていること。彼女は医師の家系で、幼い頃から両親に厳しく育てられてきた。テストで98点を取るとご飯を食べさせてもらえなかった。お兄さんと比べられ、否定され続けてきた。「そんな両親にとって私は一族の恥なんです。両親が望まない整形外科をやってる私に、お見合い結婚させて医者を辞めさせる気なんです。そして存在を隠したいと言っています」「でも、どうして俺に婚約者のふりを?」「役者さんだったら、得意かなって思って」頭のいい人は、時々凡人には予想がつかないことを言う。まさにこれだ。その日、俺はすぐに答えを出せなかった。もちろん彼女の助けになりたい。だが、婚約者のふりをすることで、彼女の人生をさらに壊してしまうかもしれない。

翌週の診察日、順調なら今日で最後のはずだった。有沙さんは婚約者のふりの話には一切触れてこなかった。「もう大丈夫ですよ。3週間、長かったかな?もう明日からは普通の生活に戻っていいですよ」「仕事は好きですか?」「好きよ。昔からの夢だったもの」そう言ってまっすぐに俺を見つめニッコリ笑う。「でも、この前の話は気にしないで。無理なお願いしたなって反省してたの」俺は意を決して話しかけた。「いいよ。婚約者のふりするよ」有沙さんは一瞬固まった。「夢がどれだけ大切なものか、俺だって少しは分かるつもり。人の夢を守るために必死な姿を見て、何も思わないほど冷たい人間じゃないよ。協力させて」有沙さんはゆっくりと笑顔を浮かべ、俺の手をぎゅっと握って頭を下げた。「ありがとう」

それから俺たちは休みの日に時々会ってはデートすることにした。お互いのことを知らないとボロが出るから、という彼女の提案だった。彼女と過ごす時間はとても穏やかで楽しくて、うっかり本当に好きになってしまいそうになる。2ヶ月ほど経った頃、有沙さんからお見合いの話が来たと連絡が入った。彼女の両親は、2ヶ月に1回のペースでお見合い相手を探してくるのだという。「実家に一緒に来てくれる?」「もちろん」

週末、俺たちは有沙さんの実家に向かった。立派な建物で、一目で裕福な家庭だと分かった。「あら、いらっしゃい。あり沙がお世話になっております」有沙さんそっくりの母親が現れた。「そんなにかしこまらないでさ、中へどうぞ」洗練された空間のリビングに通され、コーヒーを待つ間、時計の音が耳につく。「緊張しないで。すぐに帰ってもらうことになるから」有沙さんが低い声で付け加える。母は有沙さんと目を合わせようとしない。コーヒーを持って戻ってきた母親は、俺にお菓子を出してくれた。――俺の分だけ。「あり沙とお付き合いしてるの?」「はい」「あなた、お仕事は?」「あ、はい。役者をやってます」「役者?」失礼だけど、それじゃあうちの娘を養えないわね」毒舌が始まった。「30歳までに目が出なかったら役者はやめて、安定した職に着くと両親と約束しています。今年、約束の30になりました」隣で有沙さんが驚いたように俺を見ている。その瞬間、リビングのドアが開き、男性が2人入ってきた。「君か。うちのあり沙と付き合ってるというのは」「はい。あり沙さんとお付き合いさせていただいてます。相馬健太と申します」「それで君はうちのあり沙と婚約したと?」「はい」父親と兄は、有沙さんに対する剣のような感情を隠さない。「こんな出来損ないはやめておきなさい。あり沙は私たちが選んだ家に嫁いで、そこで一生を終えればいいんだ」「医者をやめろと?」「そうだ。こんな出来損ないの医者にしておくわけにはいかないだろう」俺の視線の先で有沙さんが動いた。「お言葉ですが、有沙さんは出来損ないなんかじゃありません。診察も丁寧で、患者さんやスタッフにも好かれてる印象を受けました」「だから何だ?疲れているのと医者としての評価は別物だよ。評価というのは結果を残してこそのものだ」今度は兄が意地悪く顔を歪めて言う。「私、健太さんと結婚して医者も続けます」一瞬の沈黙の後、有沙さんが大きな声で叫ぶように言った。青ざめた顔、震える声。だが、その瞳は強い意志が宿り、刃のような鋭さがあった。「何言ってるの?あなたは私たちが決めた家と結婚するのよ。今まで好きにさせてやったんだ。いい加減、お母さんの言うことを聞きなさい」「出来損ないのお前が医師なんて、世間に迷惑なだけだ」この時、俺の中で何かが弾けた。「いい加減にしてください!自分の家族を貶めて楽しいですか?俺は有沙さんと結婚します。そして、もう有沙さんを2度とこの家には戻さない!」リビングはシーンと静まり返った。「何言ってるんだ?体に傷のある女を幸せにできるのか?」兄の言葉に、有沙さんの肩がビクッと上がる。「それって、彼女の古傷のことですか?」あの日、診察室で見てしまった火傷の跡。有沙さんの太ももにはくっきりと残る傷跡があった。彼女は幼い頃、両親にカップ麺を禁止されていたのに、1人で留守番中に隠れて食べようとしてお湯をこぼしてしまった。しかし、自業自得だと怒られ、病院に連れて行ってもらえなかったそうだ。「え?あの傷を知ってるのか?婚約者っていうのは本当らしいな。でも、こんな傷のある女なんかやめておいた方がいい」「なんで彼女をそんなに貶すんだ!もうこの家から彼女を解放してやってください!今後は俺が彼女を大切に守り抜きます。絶対に不幸にはさせません」そう言って俺は3人に頭を下げると、有沙さんの手を掴んだ。「行こう。もうここに用はない」有沙さんの実家を飛び出し、そのまま駅へと向かい電車に乗った。「あのお父さんたちの顔。鳩が豆鉄砲を食ったような顔って、ああいうのを言うのね」有沙さんはクスクスと笑い続ける。家族から逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。それでも逃げなかったのは、心のどこかであの3人に認めて欲しかったからかもしれない。「でも決めたわ。私、あの人たちと縁を切る。簡単じゃないと思うけど、やるわ」

そこからの有沙さんの行動は早かった。まずは両親に知られている家から離れ、一旦俺のアパートに身を寄せることに。有沙さんは家にあまり物を置かないようにしていたらしく、引っ越しは驚くほど簡単だった。こうして俺たちの共同生活が始まった。しかし、ある日曜日のことだ。「あれ?金子先生だ」有沙さんの携帯に電話がかかってきた。電話を終えた有沙さんは、疲れきった顔をしていた。「何かあった?」「親が病院に来たみたいなの」あの日以来、有沙さんは家族からの連絡を全て無視していた。しびれを切らした両親は、働いている病院に乗り込んだらしい。「これから病院に行ってくる」「俺も行くよ。万が一ってこともあるから」病院に着くと、金子先生が「娘が行方不明だって騒ぐからちょっと心配になってね。でも、ちゃんとしたところに住んでいるなら安心だ」と豪快に笑った。そして、すっと真剣な目をして有沙さんを見た。「あり沙ちゃん、私の友人が病院を考えているそうなんだ。よかったら、その病院を引き継いでみないか」金子先生が教えてくれた場所は、ここから新幹線を乗り継いで6時間のところだった。「そこ、俺の地元だ」「あ、そうか。こりゃ運命だな」有沙さんは顔を真っ赤にして怒った。

その日の夜、俺は有沙さんを小さなレストランに連れ出した。「可愛いお店。健太さんが知ってるなんて意外」有沙さんはクスクス笑う。「俺の地元さ、魚も空気も美味しいんだ。ここに比べたらすごく田舎だけど、のんびりしてていいところだよ」俺はワインを一口含んで言った。「俺、役者をやめて地元に帰ろうと思うんだ」有沙さんは瞳を揺らす。「30歳まで挑戦させてくれって両親に頼んだのは俺なんだ。だから、俺と一緒に地元に行ってくれない?」「それって、金子先生の話を受けろってこと?」「うん。俺と結婚してほしい」有沙さんは瞳をうるませる。「俺、初めて会った時から有沙さんのこと好きでした。婚約者のふりなんてもうしたくない。本物の婚約者になりたいです」「でも、私は出来損ないで、それに傷跡が…」「そんなの気にしない」俺は思わず彼女の言葉を遮った。「あなたはとても素敵な人だ。あんなにも患者さんに好かれているし、スタッフには可愛がられていて。そんな人が出来損ないのはずがない。傷が気になるなら、それを見てしまった俺に責任を取らせてください。そんな傷、俺にとっては取るに足らないものだよ。だから、俺と結婚してください」その瞬間、店内は拍手に包まれた。

それから半年後、全ての準備を終えた俺と有沙は、俺の地元へと向かうことに。見送りには金子先生や看護師、俺の役者仲間が来てくれた。「今まで頑張ってこれたのは、あの夫婦のおかげだわ」「あの夫婦って?」「私の診察室にいた看護師と金子先生よ。家族のことで浸りきってた私を、2人はずっと支えて味方でいてくれたの。本当の両親以上に親みたいな人たちなの」「じゃあ、1日でも早く生活を整えて、あの2人を地元に招待しよう」有沙の顔は希望に満ち溢れていた。

俺の地元で再出発して10年。あっという間だった。有沙は病院を引き継ぎ、俺は隣町の会社に営業として就職。その後に結婚し、2人の子供に恵まれて、慌ただしくも幸せに暮らしている。有沙の両親からは何の音沙汰もない。

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