松崎し子は、薄茶色のカーディガンの袖口を引っ張りながら、テーブルの上に置かれた一通の封筒を見つめていた。埼玉市役所からの封筒。中に入っていたのは、「緑顔台第二住宅 立替え及び用途変更に伴う退去のお知らせ」。来年の4月までに、この40年住み慣れた団地を出て行かなければならない。補助金は一世帯あたり10万円。次の住まいは自分たちで探すか、市営住宅へ申請するか。68歳のしず子は、書類を読み終えて、そっとテーブルに置いた。
夜の9時40分、夫の英雄が帰ってきた。71歳の英雄は、道路工事の交通誘導員として働いている。しず子が市役所からの書類を差し出すと、英雄はそれを一瞥し、何も言わずに弁当を食べ始めた。その沈黙が、しず子には何より苦しかった。英雄は、驚きもせず、怒りもせず、ただ静かに食事を続けた。しず子は台所の棚の奥から通帳を取り出した。残高は8万円と少し。これから引っ越しの費用を捻出しなければならない。家賃5万円の物件を借りるとしても、敷金・礼金で15万円はかかる。補助金を合わせても足りない。そして、70歳を超えた夫婦に部屋を貸してくれる大家がいるかどうか。英雄は、10年以上前に事業に失敗して税金の延滞が残っている。信用情報に傷がある。それは、部屋を借りる上で大きなハンデになる。
翌朝、しず子は決意して、市役所へ向かった。住宅政策課の窓口で、30代前半の男性職員・黒沢に対応された。黒沢は丁寧な言葉で、しかし淡々と説明した。市営住宅への申請は随時受け付けているが、現在の平均待機期間は2年から3年。今回のような建て替えによる退去は、緊急性の高い案件には優先枠が設けられているが、それには該当しない。その間の住まいは、民間の賃貸物件を探してもらうことになる。しず子が「審査は通りますでしょうか」と尋ねると、黒沢は「過去に債務整理や滞納などの経歴がある場合は、難しくなるケースもあります」と答えた。英雄の過去の延滞が、今もなお影を落としている。しず子は、自身が想定していたよりも分厚い申請書類の束を受け取った。
その後、税務課で納税証明書を取得しようとすると、2016年度の住民税に延滞金が残っていることが判明した。7,800円。しず子は、それをその場で支払った。英雄は、このことを知らない。家に帰ってから、しず子は市役所での出来事をすべて話した。英雄は黙って聞いていたが、最後に「分かった」とだけ言った。翌日、英雄は会社に電話して収入証明書の発行を依頼した。しず子は、住民票と年金の証明書を取り寄せた。書類を揃えるために、何度も市役所や役所に足を運んだ。そのたびに、自分たちは「処理される案件」なのだという感覚を強くしていった。
書類が揃ったのは、通知書を受け取ってから2週間後のことだった。しず子は再び市役所へ向かった。しかし、窓口で確認をされた書類には、年金証明書がもう一枚足りなかった。国民年金の分が不足していると言われ、しず子は絶望的な気持ちで、また取り寄せることになった。英雄には「出してきた」と嘘をついた。英雄の仕事がなくなり、収入が途絶えたのは、1月のことだった。視力が落ちていた英雄は、現場で誘導の合図を誤り、事故になりかねない場面があった。現場のリーダーから、目の治療に専念してほしいと言われ、仕事を辞めることになった。英雄は、最後の日当3万4,000円が入った封筒をテーブルに置き、「今日で切られた」とだけ言った。
しず子は、これまで自分が嘘をついてきたことを、すべて打ち明けた。市役所に何度も足を運んだこと、書類が足りずに嘘をついたこと、夜中に駅のトイレを清掃して稼いでいたこと。英雄は、それを聞いて、作業服のベストを床に叩きつけた。「俺が悪い。目が悪くなって、仕事ができなくなって、稼げなくなった。それが全部の原因だ」と、英雄は叫んだ。しかし、しず子は言った。「私が夜も働いているのは、あなたを責めるためじゃない。2人で4月を超えるためだ」。英雄は、「俺はお前に頼られたかった。でも、お前は全部1人でやって、俺に言わなかった」と、涙を浮かべながら言った。しず子は、「聞いて欲しかった。『どこ行くの?』と。1度も聞いてくれなかった」と返した。2人は、雪が降る夜のバス停で、ようやく向き合った。「情けなくてもいい。情けなくても生きてる」と、しず子は言った。
2月に入り、英雄は仕事を探すことをやめた。しず子は、福祉課に相談に行くことを提案した。英雄は「俺も行くか」と、意外な言葉を口にした。2人で市役所の福祉課を訪れ、生活保護の申請について相談した。担当の山田は、丁寧に説明した。10日後、ケースワーカーの坂田が自宅を訪問し、生活状況を確認した。英雄は、若い頃から掛けていた生命保険を解約し、23万円の解約返戻金を受け取った。それは、娘の弓への遺産のつもりだった。ずっと動かしていなかったバイクも処分した。3月に入って、福祉課から「生活保護開始決定通知」が届いた。2人は、書類を黙って同じ引き出しにしまった。
荷物の整理が始まった。持っていくもの、処分するもの。熊本県の実家から送られてきた結婚当初のアルバムと、弓が子供の頃のアルバムだけは、持っていくことにした。3月の終わりの夜、最後の団地の部屋で、半額の弁当を食べながら、英雄が「うまい」と言った。しず子は驚いた。「今夜はうまい気がする」。4月の最初の週、引っ越し業者が来て、荷物を運び出した。しず子は、最後に台所を見て、鍵をかけた。新しい部屋は、埼玉市の中心部から少し外れた、古い集合住宅の3階だった。4階建てでエレベーターはない。部屋は、六畳一間と小さな台所。窓は廊下側にしかなく、昼間でも薄暗い。2枚の布団を並べて敷くと、もう部屋の大半が埋まった。
夜、コンビニで買ってきた弁当を2人で食べた。しず子は自分の塩鮭の切り身を半分に割って、英雄の弁当に入れた。「あなたの方が体が大きい」。英雄は何も言わずに、それを食べた。食後、2人で湯呑みのお茶を飲んだ。英雄が、白い湯呑みを見つめながら言った。「ここでどのくらい生きることになるかな」。しず子は「分からない」と答えた。英雄は言った。「でも、ここがあった」。しず子は頷いた。外では春の雨が、古い窓枠を伝って流れていた。隣の部屋から、老人の咳の音が聞こえる。しず子は、英雄の呼吸が次第に深くなっていくのを聞きながら、目を閉じた。今夜の自分たちの場所は、ここだった。広くもなく、明るくもない。窓から見える景色は、壁だけだった。しかし、ここにいる。ここにいて、今夜のお茶を飲んで、英雄の呼吸が聞こえる。それが今夜の全部だった。何も解決していないし、何も終わっていない。来月も、ケースワーカーの訪問があり、英雄の目の診察がある。しず子は、パートを続けるかどうか、医者と相談しなければならない。しかし、今夜は、そのどれもが始まっていない。ただ、雨の音と、英雄の呼吸と、隣の壁があるだけだった。人が静かに流されていく時、そこに音はない。叫び声もない。ただ、春の雨が降って、古い窓枠を水が流れていく。2人が並んで横になっている。それだけが続いていく。



