「おい、どういうことだよ。鍵が開いてないじゃないか。早く開けろよ。この脳なし!」
大晦日の夜、雪が静かに降り積もる中、スマートフォンのスピーカーから義妹・愛子のヒステリックな叫び声が響いてきた。その後ろでは、彼女の夫である年男と、血の繋がらない3人の子供たちの騒ぎ声も聞こえる。
「もしもし?お兄ちゃん、ちょっと香織さんに代わってよ。こっちはもうお腹ペコペコなの。豪華な年越しを用意して待ってるって言ったじゃない」
愛子の声は、吹雪く空の下で苛立ちを隠せない様子だった。
しかしその時、彼女たちはまだ気づいていなかった。暗く静まり返った我が家の玄関前で、自分たちがどれほど愚かな過ちを犯したのかを。そして、この数分後に人生で最も過酷な絶望を味わうことになるとは、夢にも思っていなかった。
私は隣で静かにハンドルを握る夫・誠志と視線を合わせた。誠志はどこか吹っ切れたような、それでいて冷徹な表情で前を見つめている。車のワイパーがフロントガラスに積もる雪を淡々と払いのけていく。私たちの向かう先は、愛子たちが想像すらできない、温かく、そして彼女たちとの縁が完全に断たれた新しい世界だった。
「ねえ、香織。もういいよね」
誠志が低く落ち着いた声で言った。私は小さく頷き、スマートフォンの録音ボタンを確認した。これから始まるのは、長年私を「使用人か製造機のように扱ってきた佐藤家」への、最後にして最大の決別劇だ。
愛子たちの絶叫はまだ止まらない。
「ちょっと、無視してんじゃないわよ!今すぐ鍵を開けなさい。じゃないとお母さんに言いつけて、あんたをこの家から追い出してもらうんだからね」
この言葉が、彼女たちの最後の強気なセリフになるとは知らずに。
物語は、数ヶ月前のあの忌々しい出来事から始まっていた。
一年前の正月。そしてお盆。義母一家が我が家にやってくるたびに、私の平穏は粉々に打ち砕かれてきた。
「香織さん、お茶。あ、子供たちが揚げ物食べたいって言ってるから、今すぐあげて。もちろん、一番いいお肉使ってね。あ、ビールも冷えてるでしょうね」
それが、お客様として招かれた人間の態度だろうか。彼女たちは私の家に一歩足を踏み入れた瞬間から、そこを無料の高級レストランか何かだと勘違いしているようだった。
しかし、今年の冬は違う。
私は愛子の罵声を聞きながら、心の中で静かにカウントダウンを始めていた。
「地獄へようこそ、愛子さん。あなた方が『タダ飯最高』と笑いながら踏みにじってきた私の心は、もうここにはありません。そして、あなた方が今立っているその場所も」
私はゆっくりと震える指を抑えながら、スピーカーに向かって口を開いた。
「愛子さん、そこに私の居場所はもうないのよ。あなたたちの居場所もね」
その一言が、全ての終わりの合図だった。
雪はさらに激しさを増し、愛子たちの怒号を飲み込んでいく。自業自得という言葉では生ぬるいほどの、壮絶な結末がすぐそこまで迫っていた。
私は佐藤香織。結婚して10年になる平凡な主婦だ。夫の誠志とは共通の友人の紹介で知り合った。誠志は真面目で優しく、大手メーカーに勤務する誠実な人柄に惹かれて結婚を決めた。
しかし、結婚生活というものは2人だけの問題では済まないことを、私は身を持って知ることになった。その元凶が、夫の妹である愛子さんと、その母である菊さんだった。
愛子さんは私たちの家から車で1時間ほどの場所に住んでいる。彼女には同い年の夫と、ワンパク盛りの3人の子供がいる。一見どこにでもある幸せな5人家族に見えるが、その実態は信じられないほど図々しく、他人の厚意に漬け込むことに何の罪悪感も抱かない人々だった。
「お兄ちゃんの家は、私たちの家も同然でしょう。親戚なんだから、奢ってもらうのは当然じゃない」
それがあいつの口癖だった。
特にお正月やお盆、ゴールデンウィークといった大型連休になると、彼女たちは示し合わせたかのように我が家に押し寄せてくる。それも、ただ遊びに来るだけではない。
「香織さん、今日の夕食はすき焼きがいいな。もちろん、デパ地下の一番高い霜降り肉を用意しておいてね。あ、子供たちはカニも食べたいって言ってるから、特大のタラバガニもよろしく。あはは。タダ飯最高!」
愛子さんは当たり前のように高価な食材を要求する。そして、その費用を一度も支払ったことはない。5人家族が数日間滞在し、朝から晩まで贅沢三昧。その食費や光熱費は全て、私たちがコツコツと貯めてきた家計から捻出されていた。
最初のうちは、私も嫁という立場から波風を立てたくなくて、笑顔で受け入れていた。誠志も自分の妹のことだから強く言えない様子で、「ごめんね、香織。今度埋め合わせするから」と申し訳なさそうに言っていた。
しかし、愛子さんの要求は年々エスカレートしていった。
去年の夏のことだ。愛子さん一家が突然「遊びに来たわよ」と言って、予約もなしに我が家にやってきた。その時、私はちょうど風邪を引いて寝込んでいた。熱が38度を超え、フラフラになりながら布団の中にいた私に対し、愛子さんはこう言い放った。
「ちょっと香織さん、いつまで寝てるのよ。お客さんが来てるのにお茶も出さないなんて、失礼しちゃうわ。主婦失格ね。中卒の家計はこれだから礼儀を知らないのかしら」
私は中卒ではない。地元の公立大学を卒業し、結婚前までは銀行に務めていた。愛子さんは、自分より学歴が高い私のことが気に入らないのか、事実無根の侮辱を重ねて私を貶めようとするのだ。
その時、寝室に入ってきた義弟の年男さんも、愛子さんの肩を持った。
「そうよ、香織さん。愛子たちは遠くからわざわざ遊びに来てくれたのよ。少し体がだるいくらいで、家の仕事を放棄するなんて。誠志が稼いできたお金で生活させてもらっている自覚を持ちなさい。さあ、早く起きて子供たちに冷やし中華でも作ってあげて」
誠志はその時、仕事のトラブルで会社に呼び出されており、家には私と佐藤家の人々だけだった。私は震える足で台所に立ち、泣きながらお湯を沸かした。
「ああ、香織さんの作った料理って、なんか味気ないのよね。やっぱり心がこもってないからかしら」
愛子さんは私が作った料理を一口食べては、子供たちの前で平然とそんな悪口を言う。彼女の子供たちも親の背中を見ているせいか、私を「使用人のおばさん」と呼び、リビングにお菓子をぶちまけたり、泥だらけの靴で廊下を走り回ったりとやりたい放題だった。
そんな地獄のような数日間が過ぎ、誠志が帰宅した時、家の中は荒れ果てていた。私は疲れ果て、リビングの隅でうずくまっていた。
「香織、どうしたんだ、これ?」
驚きのあまり固まる誠志に、私はその夜初めて声を上げて泣いた。これまでの悔しさ、悲しさ、そして人間として扱われない屈辱を、全て吐き出したのだ。
「誠志さん、私もう限界なの。あなたの家族は大切にしたい。でも、私はあなたの妹さんの使用人じゃない。あなたの家は無料の宿泊施設じゃないのよ」
誠志は長い間黙って私の話を聞いていた。彼は優しすぎるがゆえに、家族の暴走を止められずにいた自分を責めているようだった。そして、私の手がボロボロに荒れているのを見て、彼は静かに、しかし力強く言った。
「ごめん。本当にごめん。香織、俺が甘かった。君にこんな思いをさせていたなんて…。もうあいつらに好き勝手はさせない。約束する」
その日から、私たち夫婦の静かな反撃の準備が始まった。
季節は巡り、今年も大晦日がやってくることになった。
12月に入った頃、愛子さんから勝ち誇ったようなLINEが届いた。
「お兄ちゃん、香織さん、今年の大晦日ももちろんそっちに行くからね。去年食べたステーキ美味しかったから、今年も準備しといて。あ、あと旦那が今年はフグが食べたいって言ってるから、通販のお取り寄せを注文しといてよ。支払いはもちろんお兄ちゃんもちでいいわよね。タダ飯最高w うちの子供たちも楽しみにしてるから」
私はそのメッセージを見て、怒りで震えるどころか、むしろ冷静だった。誠志と顔を見合わせ、私たちは深く頷いた。
「香織、作戦通りに行こう」
「ええ、もう二度と彼らに私たちの人生を荒らさせない」
私たちは愛子さんに「分かったわ。楽しみにお待ちしているわね」とだけ返信した。もちろん、フグもステーキも何も用意するつもりはない。それどころか、私たちはある重大な計画を実行に移していたのだ。
大晦日の当日、天気予報通り空からは大粒の雪が降り始めた。愛子さん一家は、おそらく今頃ウキウキしながら高級食材にあり付けると信じてこちらに向かっていることだろう。
私たちはすでに家の中にいなかった。それどころか、その家自体が彼女たちの知る佐藤家ではなくなっていたのだ。
スマートフォンの通知が鳴った。愛子さんからの着信だ。私は助手席で悴んだ指先を温めながら、わざとゆっくりと電話に出た。
「もしもし、愛子さん」
「ちょっと香織さん!今玄関の前に着いたんだけど、どういうことよ!」
電話の向こうで愛子さんの金切り声が響く。
「鍵が開かないのよ。暗証番号も変わってるし、インターホンを押しても誰も出てこないじゃない。雪が降ってて寒いのよ。早く開けなさいよ」
私は隣で運転する誠志に目配せをした。誠志はバックミラー越しに、遠ざかっていくかつての我が家の灯りを見つめていた。
「ああ、愛子さん。言い忘れていたけれど…」
私は言葉を選びながら、最も残酷な事実を突きつける準備をした。
「その家の鍵は、もう私たちの手元にはないのよ」
愛子の声が一瞬止まった。周囲の風の音だけが不気味に響いている。
「はあ?何言ってんの?あんたたちの家でしょう。早く開けなさいよ、このグズ!」
怒鳴り続ける彼女。しかし、次の瞬間、彼女の背後で夫の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「おい、愛子。見ろ。これ、門のところに何か貼ってあるぞ」
その看板に書かれた内容を目にした時、愛子一家の「タダ飯大晦日」は永遠に失われることになる。
「おい、愛子、これを見ろよ。『売却済み』『立入禁止』って書いてあるぞ。どういうことだ、これ?」
「はあ?売却済み?何言ってるのよ、年男さん。ここはお兄ちゃんの家でしょう。ローンだってまだ残ってるはずだし、売るわけないじゃない」
愛子さんの困惑が怒りに変わり、再び私への罵声となって突き刺さる。
「ちょっと香織さん、聞こえてるんでしょう!何なのよ、この悪質な!吹雪の下で子供たちを待たせて、何が楽しいのよ。あんたみたいな陰湿な女、お兄ちゃんに何か言ってるんじゃないでしょうね!」
私は何も答えず、ただ静かに電話を耳に当てていた。隣でハンドルを握る誠志も、一点を見つめたまま口を閉ざしている。この沈黙こそが、今の私にできる最大の意思表示だった。
愛子さんは私が黙っているのをいいことに、さらに言葉を荒げる。
「黙ってないで何か言いなさいよ。まさか本当に家を売ったなんて言わないわよね。そんなの絶対許さないんだから。お母さんが許すはずないんだから!」
私は3ヶ月前のあの日のことを思い出していた。それは佐藤家で開かれた法事の後の食事会でのことだ。親戚一同が集まる中、愛子さんは当然のように私を顎で使い、お酒の準備や片付けを全て押し付けた。
「香織さん、ビール。あ、冷えてないのは論外だからね。それから、子供たちが飽きちゃったから近くのコンビニまでアイス買ってきて。もちろん、あんたの自腹でね。お兄ちゃんのお金は私たちの家族のためにあるんだから、無駄遣いしないでよ」
親戚たちの前で、わざと聞こえるようにそんなことを言う。そして、追い打ちをかけるように彼女はこう言い放った。
「大体さ、あんたの実家って、父親が小さな工場経営してたんでしょ。結局倒産して、あんたは苦労して育ったって聞いたわよ。だからそんなに汚い金に汚いのかしら。お兄ちゃんと結婚できたのは宝くじに当たったようなもんなんだから、一生奴隷みたいに働いて恩を返しなさいよ」
その場にいた義弟の年男さんも、愛子さんの言葉を止めるどころか鼻で笑いながらこう言った。
「そうだよ、愛子の言う通りだわ。佐藤家の嫁になった以上、身を粉にして働くのは当たり前。誠志も、あんたみたいな底の知れない女を拾ってやったんだから、感謝しなきゃね」
亡くなった義父を忍ぶ場であるはずなのに、彼女たちが口にするのは私への悪口と自分たちの優越感だけ。私はその時持っていた盆を握りしめ、歯を食いしばって耐えていた。誠志は仕事の都合でその席にうらず、私はたった1人で刃物のような言葉を浴びせられ続けていたのだ。
「どうしたの?反論もできないわけ?やっぱり中卒並みの知能しかないのかしらね。あはは。年男さん見てよ。この顔、幽霊みたいで不気味じゃない」
愛子さんの高笑いが今でも耳の奥にこびりついて離れない。あの時、私は決めたのだ。この人たちはもう私の家族ではない。言葉で何を伝えても、彼女たちには届かない。それならば、行動で全てを終わらせよう、と。
法事から帰宅した私は、誠志に全てを打ち明けた。そして、彼に究極の選択を迫った。
「誠志さん、私はもうあなたの家族とは会えません。もしあなたがこれからも彼らとの付き合いを続けるというのなら、私はこの家を出ていきます。離婚届はもう書いてあります」
誠志は驚き、そして私の目を見て事の重大さを悟ったようだった。彼は私がどれほどの屈辱に耐えてきたか、そして自分の母親と妹がどれほど残酷な人間であるかを、ようやく正面から受け止めた。
誠志は一晩悩み、翌朝私に言った。
「香織、今まで本当にすまなかった。俺が無慈悲なばかりに、君を壊しそうになっていた。俺は君を選ぶ。母さんたちとは縁を切るよ。この家も思い出が汚れすぎてしまった。全部リセットしよう」
そこからの誠志の行動は迅速だった。この家は元々、誠志が独身時代からコツコツ貯めた資金と私の貯金を合わせて購入したものだ。佐藤家からは1円の援助も受けていない。それなのに、愛子さんたちはここを実家のようなものと勘違いし、やりたい放題にしてきた。
私たちは密かに不動産業者と連絡を取り、家の売却手続きを進めた。そして新しい住居を探し、愛子さんや菊さんには一切知らせずに荷物を運び出したのだ。
「おい、香織!無視すんなって言ってんだろう!」
電話の向こうで愛子さんの怒声が一段と大きくなった。
「今すぐ戻ってきて鍵を開けろ!子供たちが震えてるのよ!もし風邪でも引いたら、あんたのせいだからね!治療費と慰謝料、たっぷり請求してやるから!」
相変わらずの自己中ぶり。彼女はまだ、自分が立たされている状況を理解していない。
すると、電話の向こうでバタンと門のドアが閉まる音が聞こえた。そして、愛子さんの叫び声が響く。
「ちょっと、誰よあんた?勝手に敷地に入ってこないでよ!」
愛子たちの前に、1人の影が現れたようだ。それは私たちが手配したある人物だった。
「いえ、何?管理会社?警察を呼ぶって、どういうことよ?」
愛子さんの声に、明らかな動揺が混じり始めた。
「ちょっと、あなた誰よ?人の家の敷地で、何をごちゃごちゃ言ってるの?」
「私はこの物件の管理を任されているものです。本日、この家は完全に引き渡しが完了しております。現在の所有者は別の方です。あなた方は許可なく敷地内に立ち入っています。即刻退去してください」
低く、事務的で、冷徹な男性の声が聞こえた。それは私たちが依頼した不動産管理会社の担当者、佐藤さんの声だった。彼は非常に厳格な方で、不法侵入やトラブル対応のプロでもある。
「引き渡し?何言ってるのよ、バカバカしい。ここは私のお兄ちゃんの家よ。お兄ちゃんが私に大晦日はゆっくりしていけって言ったんだから。あ、分かったわ。あんた、香織さんに雇われた役者でしょう。私を追い返すためにこんな手の込んだ真似して、本当に浅ましい女ね」
愛子さんはそう決めつけると、電話に向かってさらに激しい言葉を叩きつけてきた。
「ねえ、聞いてるんでしょ?香織さん。あんた、自分が何をやっているか分かってるの?こんな嘘をついて親戚を困らせて。あんたの実家が貧乏で教育もまともに受けられなかったのは同情してあげるけど、だからってやっていいことと悪いことがあるわよ。あんたみたいな根性の曲がった女、佐藤家の嫁として恥ずかしくて名前も出せないわ。ねえ、年男さんも何か言ってやってよ!」
すると、電話の向こうから年男さんの低い声が聞こえてきた。
「おい、香織さん、いい加減にしろよ。愛子がここまで言ってるんだ。冗談はそれくらいにしろ。俺たちは明日フグを食べるのを楽しみにしてきたんだ。子供たちも腹を空かせてる。今すぐその男に鍵を開けさせろ。さもないと、俺にも考えがあるぞ。俺の知り合いには、ちょっと顔の広い連中もいるんだ。あんたの実家の母親、まだ1人で暮らしてるんだろう。変な噂が流れても知らないぞ」
年男さんの言葉は、明らかな脅迫だった。私の大切な母のことまで引き合いに出し、卑劣な手段で私を屈服させようとしている。
私は怒りで全身が震えるのを感じた。拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込む。しかし、私は声を出さなかった。ここで言い返せば、また彼らの土俵に引きずり込まれる。私はただ、深く長い沈黙を守った。
隣で私の様子を伺っていた誠志が、そっと私の手に自分の手を重ねた。彼の体温が、私の震えを少しだけ沈めてくれる。
誠志は私のスマートフォンを手に取り、スピーカーモードにした。
「香織さん、無視か?おい、聞いてんのかよ!」
年男さんの苛立ちが最高潮に達したその時、スピーカーから別の聞き慣れた声が割り込んできた。
「ちょっと、愛子!何やってるのよ、あんたたち!」
それは義母・菊さんの声だった。どうやら愛子さんが菊さんに助けを求めて電話を繋いだか、あるいは現場に呼び寄せていたようだ。
「お母さん、ちょうどいいところに来てくれたわ。見てよ、これ。香織さんが変な男を雇って、私たちを家に入れないようにしてるの。お兄ちゃんも香織さんに洗脳されちゃって、電話にも出ないし」
愛子さんの声に、菊さんの鋭い一声が重なる。
「香織さん、あんた、いい加減になさい!愛子たちがどれだけ楽しみにしてきたと思っているの!あんたみたいな器のない女を誠志が拾ってやった恩を、こんな形で返すなんて。この恩知らず!今すぐそこへ行って、あんたの顔を叩いてやりたいわ。この家の所有者は誠志なのよ。誠志が買った家を、あんたが勝手にどうこうできるわけないじゃない」
菊さんの言葉はいつも以上に残酷で、私という人間を根底から否定するものだった。彼女たちにとって私は、意思を持った人間ではなく、ただ誠志に付随する便利な道具に過ぎなかった。
「中卒の家計に育つと、常識というものが欠如するのかしら。これだから育ちの悪い女は困るのよ。誠志も、まともな家柄の娘と結婚させておけばよかったわ。…香織さん、聞こえてる?あんたは勘違いで佐藤家とは縁遠い。その代わり、この家は私たちに譲りなさい。それが、これまで私たちが受けた精神的苦痛への慰謝料よ」
菊さんの滅茶苦茶な論理に、私は驚きを通り越して乾いた笑いが出そうになった。家を譲れ?慰謝料を?自分たちが何を言っているのか、分かっているのだろうか?
私はずっと黙って聞いていた誠志を見つめた。誠志の顔は、今まで見たこともないほど冷たく険しいものになっていた。
誠志は私の手からゆっくりとスマートフォンを取り上げた。
「母さん、愛子、全部聞いたよ」
低く静かな声が響いた瞬間、電話の向こうが水を打ったように静まり返った。
「お、お兄ちゃん、今の聞いてたの?」
愛子さんの声が、急に媚びるような情けない響きに変わる。
「ああ、全部だ。香織に対する侮辱も、年男の脅迫も、母さんの暴言も。全て録音させてもらったよ」
「な、何言ってるのよ。お兄ちゃん、冗談でしょう。ほら、早くその男に行って鍵を開けさせて。雪が強くなってきて、本当に寒いのよ。ねえ、お兄ちゃん…」
誠志は愛子さんの甘言を冷たく遮った。
「鍵?そんなもの、もう俺の手元にはない。言っただろう。その家はもう売ったんだ。引き渡しは今日の午後2時に完了している。もう、佐藤家の持ち物じゃないんだよ」
「い、え…。嘘…でしょう?」
愛子さんの絶望的なつぶやきが聞こえた。
しかし、誠志の追撃はこれで終わりではなかった。
「母さん。あの家は母さんの家じゃない。俺と香織が必死に働いて、香織の実家のお父さんから少しだけ援助も受けて買った家だ。母さんに指図される筋合いはない。それに、母さんのマンションについても話があるんだ」
誠志の口から出た「マンション」という言葉に、菊さんの悲鳴に近い声が上がった。
「な、何のことよ!私のマンションがどうしたっていうの!」
「管理会社から連絡があったよ。管理費と修繕積立金を1年以上滞納してるんだって。その滞納分、全部俺たちの家に請求が来るようにしてたんだね。香織が黙って、俺に内緒で立て替えてたの。さっき知ったよ」
私は、誠志に内緒にしていたことを詰め寄られ、少しだけ肩をすくめた。菊さんのメンツを守るために、私は自分の貯金から彼女のマンションの費用を密かに支払い続けていたのだ。
「それを香織は、母さんの体面があるからって、ずっと隠してたんだぞ。それなのに、お前たちは…!」
誠志の怒りが車内に響き渡った。
その時、電話の向こうからガシャーンという激しい音が聞こえてきた。
「ぎゃあ!何よこれ!何すんのよ!」
愛子さんの絶叫。そして、何かが崩れるような音。一体、現場で何が起きているのか?
「ああ、私のスマホが雪の中に落ちて、画面が真っ暗じゃない!ちょっと、どうしてくれるのよ!」
どうやら、あまりの混乱に愛子さんがスマートフォンを雪の中に落としてしまったようだ。しかし、すぐに年男さんのスマートフォンを使って再びこちらに繋いできた。
「もしもし!香織さん、聞こえてるんでしょう?今の音!警察よ、警察が来たのよ!あんたが呼んだのね!自分の親戚を警察に突き出すなんて、あんた人間じゃないわ!鬼よ!悪魔よ!」
愛子さんの声は、もはや理性を失った獣のような叫びだった。
「いい?今すぐその管理会社の男に電話して、私たちを通しなさい!子供たちが、長男の健太が寒さでガタガタ震えてるのよ!唇が紫になってるわ!もしこの子に何かあったら、あんたを殺人未遂で告訴してやるから!」
あまりにも飛躍した、あまりにも理不尽な言葉が私の耳を刺した。私は愛子さんのその言葉を聞きながら、かつての記憶を呼び覚まされていた。
それは3年前の冬のことだ。私の実家の母が、急な心臓の発作で倒れた時だった。私は誠志に付き添ってもらい、病院へ駆けつけようとしていた。しかし、ちょうどその時、愛子さん一家が「スキーの帰りに寄ったから晩御飯食べさせて」と、予告もなしに我が家に現れたのだ。
「愛子、悪いけど今日は無理だ。香織のお母さんが倒れたんだ。今から病院に行かなきゃいけない」
誠志がそう説明しても、愛子さんは信じられない言葉を返した。
「はあ?お母さんが倒れた?そんなの、香織さんが1人で行けばいいじゃない。お兄ちゃんまで行く必要ないでしょう。それより、私たちはお腹が空いてるの。子供たち、スキーで疲れてるんだから、温かい鍋でも作ってから行きなさいよ。それくらいの時間は、嫁として作るのが当然でしょう」
結局、愛子さんは泣いてすがる私を無視し、玄関を塞いで立ちはだかった。
「香織さん、あんたみたいな貧乏人の親がどうなろうと知ったこっちゃないのよ。それより佐藤家の客人を優先しなさい。お兄ちゃんが行かないなら、私がここで大声で騒いで近所に言いふらしてやるんだから。この家の嫁は、親戚を追い出す薄情者だってね」
あの時、私は結局愛子さんたちを家に入れ、震える手でうどんを作った。病院に駆けつけた時には母の容態は一旦落ち着いていたが、私は一生あの時の悔しさを忘れることはできない。
私の母の命よりも自分たちの空腹を優先した人たちが、今自分の子供が寒いからと私を殺人者呼ばわりしている。あまりの虫の良さに、私は吐き気がしそうだった。
「香織、大丈夫か?」
誠志が心配そうに私を覗き込む。私はただ、青白くなった顔で頷くことしかできなかった。心臓が嫌な音を立てて波打っている。彼女たちの言葉は、毒のように私の精神を蝕んでいく。
「ちょっと、聞いてるの?このグズ!中卒の豆腐メンタルが!あんたの実家が潰れたのは、あんたみたいな疫病神がいたからよ!あんたに関わると、みんな不幸になるのよ!今すぐここに来て、土下座して謝りなさい!お兄ちゃんと別れて、全財産を置いて出ていきなさい!」
愛子さんの言葉は、もはや支離滅裂だった。しかし、その言葉の一つ一つが私の自信を削り、私を深い闇の中へと引きずり込もうとする。沈黙を守り続ける私に、愛子さんはさらに追い打ちをかけた。
「お母さんも言ってるわよ。香織さんは佐藤家の恥だってね!」
電話の向こうから、菊さんの冷たい声が重なる。
「そうよ、香織さん。あんたはいつもそう、黙っていれば許されると思っている。その人並み外れた性格が、誠志を駄目にするのよ。いいから今すぐ、そこにある家の鍵の場所を教えなさい。それか、暗証番号を言いなさい。愛子たちの子供に何かあったら、あんたの親の墓まで暴いてやるからね!」
墓を暴く。その言葉に、私はついに限界を迎えた。視界が歪み、指先が冷たくなっていく。私は自分がどれほど追い詰められていたのかを痛感した。何をしても、どこまで尽くしても、この人たちは私を人間として認めない。それどころか、私の大切な人たちを平気で踏みにじる。
私は、もう一歩も動けないような絶望感に包まれた。車の外は雪が激しくなり、まるで世界が白く塗りつぶされていくようだ。私たちの新しい生活への道は、結局彼女たちの呪縛から逃れることはできないのだろうか。
しかし、その時だった。
「もう、いい加減にしろ」
誠志の声が、低く、しかし刃のような響きを持って車内に充満した。
「お兄ちゃん、やっと話す気になった?さあ、早く暗証番号…」
「愛子。そして母さん。今の言葉、警察の前でも同じことが言えるんだな」
誠志の声には、これまでにない鋭さと重みが宿っていた。
「え?警察って、今目の前にいるわよ。でも、警察だって身内の揉め事には介入しないでしょう。私たちは正当な権利を主張してるだけ」
「正当な権利?笑わせるな。お前たちがやっているのは、不法侵入と脅迫、そして侮辱罪だ。佐藤さん、聞こえますか?」
誠志が電話の向こうにいる管理会社の担当者に呼びかけた。
「はい、佐藤です。全てこちらのボイスレコーダーにも記録しております。また、警察官の方々もスピーカーから漏れる会話内容をしっかりと確認されました。今、2人の身柄を確保する準備に入っています」
「は、はあ?身柄確保?」
愛子さんの声が、初めて恐怖に震え始めた。
「ちょっと待ってよ。何よそれ?私たちはただ、お正月を過ごしに来ただけで…」
「愛子、まだ分からないのか?俺たちは本気なんだよ。お前たちが香織にしてきたこと、全てを法的に清算してもらう」
誠志はそう言うと、スマートフォンの画面を操作し、あるビデオ通話を開始した。
その画面に映し出されたのは、現場に到着したばかりの、もう1人の意外な人物だった。
「え、嘘?どうして?」
愛子さんの、魂が抜けたような声が聞こえた。
ビデオ通話の画面越しに、雪明かりに照らされた1人の老紳士の姿が映し出された。それは愛子さんの夫である年男さんの実父、源さんだった。源さんは頑固な性格で、一代で小さな建設会社を築き上げた苦労人だ。しかし、数年前から体調を崩し、隠居生活を送っているはずだった。
「お父さん!どうしてここに!体調が悪くて家で休んでいるんじゃなかったのかよ!」
年男さんの声が裏返った。無理もない。源さんは、愛子さん一家にとって最も恐ろしく、かつ「金のなる木」として敬遠しながらも頼りにしていた存在だったからだ。
「ふん。年男。お前という奴は、病身の親を騙してここまで恥知らずに生きてきたのか。香織さんから連絡をもらわなければ、俺は一生自分の息子がこんな卑劣な人間だとは知らずに死ぬところだったぞ」
源さんの声は、怒りと悲しみで震えていた。
愛子さんは慌てて、源さんに擦り寄るような声を出した。
「お義父様、誤解ですわ!私たちはただ、お兄ちゃんの家でお正月をお祝いしようと思っただけで、それを香織さんがわざと私たちを外に締め出して、こんな冷たい仕打ちをするんです。香織さんがお義父様に嘘を吹き込んだんですよ!」
愛子さんは必死に私を悪者にして逃れようとするが、源さんはそれを一蹴した。
「黙れ、愛子。香織さんが嘘をつくような人でないことくらい、この数年間の付き合いで分かっている。それよりも、これを見ろ」
源さんが画面に向けて突き出したのは、数枚の分厚い書類だった。そこには、年男さんの署名と押印がされた高額の借用書が何枚も重なっていた。
「こ、これ…!年男!」
年男さんの顔から血の気が引いていくのが、暗い画面越しにも分かった。
「お前、会社の金を使い込んでいただけでなく、香織さんの実家の工場の再建資金にまで手を出そうとしていたそうだな。しかも、香織さんが私の治療費として密かに積み立ててくれていたお金まで、勝手に引き出そうと画策していたとは。人間として恥ずかしくないのか!」
ここで、私の秘密が明かされた。
実は私は、ただの主婦ではなかった。独身時代、銀行員として資産運用や財務管理のプロとして働いていた私は、結婚後もそのスキルを生かし、個人の資産運用を続けていた。そして、義父である源さんの会社の経営が苦しくなった際、誠志にも内緒で匿名のアドバイザーとして財務再建を手伝っていたのだ。源さんが私の正体を知ったのは、つい数ヶ月前のことだった。私が提示していた再建プランの謎の専門家の連絡先が、偶然誠志の家のものであることに気づいたのだ。
さらに、私は愛子さん一家が今まで我が家からしていった全ての経費、そして彼女たちが私に浴びせてきた罵詈雑言の記録を、日付・時間・場所と共に全て1冊の黒い手帳に詳細に記していた。その中には、愛子さんが私の実家の母を侮辱した言葉や、年男が誠志の会社の経費を私物化しようとした証拠、そして義母の菊さんが私の貯金を勝手に切り崩そうとしたやり取りの録音も含まれていた。
「香織さんは、ずっと耐えていたんだ。お前たちが佐藤家の人間として、目を覚ましてくれることを信じてな。だが、お前たちはその優しさに付け込み、彼女の実家や、その両親まで馬鹿にした。挙げ句の果てには、この大晦日にまで彼女を侮辱し続けた」
源さんの言葉に、私は車の中で静かに涙を流した。誠志が私の肩を抱き寄せ、強く握りしめてくれる。
「私は、香織さんのような賢く忍耐強い女性を、佐藤家の嫁として誇りに思っている。それに引き換え、愛子。お前は私の娘でありながら、なんと浅ましい人間に成り果てたのだ」
「年男。お前たちの借金、そして今回香織さんたちに与えた全ての苦痛。これは全て、私が責任を持って清算する。…ただし、条件がある」
源さんの鋭い眼光が、カメラ越しに愛子さんたちを射抜いた。
「え、ええ?条件って、何よ?」
愛子さんの震える声に、源さんは淡々とした宣告を下した。
「今すぐその場所から立ち去れ。そして、明日からお前たちの家は差し押さえる。年男の借金の担保として、お前たちが今住んでいるマンションは、私が買い取らせてもらった。お前たちには、もっと身の丈に合った場所を用意してある」
「え、マンションを差し押さえる?そんなの、どこに住めばいいのよ!」
愛子さんの絶叫が雪に響く。
しかし、源さんの話はそれだけでは終わらなかった。
「香織さんから聞いているぞ。お前たちが今日ここに持ってこようとしていた手土産のことだ。お前たち、私の名前を勝手に使って、高級料亭に数百万円分の料理を注文しただろう。その請求書が、私のところに届いているぞ」
私は、愛子さんたちが「タダ飯最高」と笑いながら注文した贅沢品の数々を、あらかじめ把握していた。彼女たちは源さんのクレジットカードの家族カードを盗み出し、それを悪用していたのだ。
「ちょ、ちょっと、それはお正月くらい豪華にしようと思って…」
言い訳をする愛子さん。しかし、事態は彼女の想像を絶する方向へと動き出していた。
「残念だが、そのカードはすでに利用停止にしてある。そして、その料亭には注文のキャンセルではなく、注文主への直接請求を依頼しておいた。今頃、お前たちの自宅には料亭の店員と警察が向かっているはずだ。詐欺の疑いでな」
「さ、詐欺?そんな、身内でちょっと贅沢しただけで、警察だなんて!」
愛子さんは狂ったように笑い出した。しかし、彼女の目の前にいるのは、もう彼女を甘やかす父親ではなかった。
「身内ではない。香織さんは、お前たちとの縁を切ると決めた。私も、お前たちのような犯罪者を身内とは認めん。さあ、佐藤さん、始めてください」
源さんが管理会社の佐藤さんに合図を送ると、家の玄関のライトが突然、真っ赤な警告色に点滅し始めた。警告灯が、振りしきる雪を不気味に染め上げる。その光は、愛子さんや年男さん、そして義母の菊さんの顔を交互に照らし出し、彼らの醜態を白日のもとにさらしていた。
遠くから聞こえていたサイレンの音が、次第に大きく、確かなものとして近づいてくる。1台、また1台と、パトカーが住宅街の角を曲がってこちらに向かってくるのが、管理会社の佐藤さんが掲げるスマートフォンのカメラ越しに見えた。
「ちょっと、何よこれ!警察なんて呼んで、本気なの!お兄ちゃん、止めてよ!冗談が過ぎるわよ!」
愛子さんは狂ったように叫びながら、閉ざされた玄関のドアを何度も蹴りつけた。ドンドンという鈍い音が、静かな夜の空気に虚しく響く。
「開けなさいよ!どうせ中にいるんでしょう!香織、あんたね、こんなことして、ただで済むと思ってるの?親戚を警察に売るなんて!ご近所さんが見てるじゃない!私たちの面目を潰して、楽しい?」
愛子さんの言う通り、異変に気づいた近所の方々が、何事かと窓を開けたり、玄関先まで出てきたりしていた。この住宅街は静かで、中高年が多く住む地域だ。大晦日の夜にパトカーが来て、赤い光が点滅する光景は、あまりにも異常だった。
しかし、愛子さんは縮こまるどころか、集まってきた近所の人々に向かって、驚くべき行動に出た。
「皆さん、聞いてください!この家の嫁の香織さんが、私たちを騙して家から追い出したんです!小さな子供たちを外に放り出して、自分たちだけ温かいところで美味しいものを食べてるんですよ!警察の方、早くこの女を捕まえてください!」
嘘八百を並べ立てて、被害者を装い、周囲の同情を引こうとする愛子さん。その厚かましい姿に、私は車の中で呆れ果て、言葉も出なかった。
しかし、近所の人たちの反応は、愛子さんの期待とは正反対のものだった。
「あら、あの方、また騒いでるわよ。いつもの鬱陶しい家でしょう」
「ええ、香織さんがいつも困ってたものね」
ひそひそと交わされる会話は、愛子さんたちには聞こえなかったのだろう。彼女たちが来るたびに大声で騒ぎ、ゴミを散らかし、我が者顔で振る舞っていた姿を、近所の人たちは冷ややかな目でずっと見ていたのだ。
「嘘よ…。なんで、みんなあんな目で私を見てるの?」
愛子さんの声が、震え始めた。
さらに追い打ちをかけるように、年男さんのスマートフォンに1本の電話が入った。
「おい、年男。お前、どこにいるんだ?」
スピーカー越しに聞こえてきたのは、年男さんの勤務先の社長の声だった。源さんの古い知人でもある社長の声は、怒髪天をつく勢いだった。
「お前が会社の取引先から、個人的にマージンを受け取っていた証拠が、今さっき匿名で届いたぞ。それだけじゃない。備品の転売までしていたそうだな。新年早々、お前には解雇通知を送る。覚悟しておけ。退職金なんて1円も出さん。損害賠償も請求させてもらうからな」
「な、社長、それは誤解です!私はそんな…!」
年男さんの顔が、雪よりも白くなった。会社を首になり、さらに多額の賠償金。彼の人生の土台が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
絶望に打ちひしがれる年男の横で、3人の子供たちがついに泣き叫び始めた。
「お腹空いたよー!」
「寒いよー!」
「お母さん、お家に帰ろうよ!」
「ステーキ食べるんじゃなかったの?」
「カニはただで食べ放題って言ったじゃん!」
子供たちの言葉が、残酷にも愛子さんの本音を暴露させる。近所の人々からは、「やっぱり意地汚い」という軽蔑の視線が突き刺さる。
すると、これまで黙って事の成り行きを見ていた義母の菊さんが、急に私に向かってスピーカー越しに震える声で語りかけてきた。
「か、香織さん、お願い。もうやめてちょうだい。私が悪かったわ。あんたをバカにしたことも、中卒なんて嘘をついたことも、謝るから。だから、お願い。私のマンションだけは、私の住む場所だけは、守ってちょうだい。誠志、あんたからも、お父さんに行ってちょうだい。私は佐藤家の母親なのよ。母親を路頭に迷わせるなんて、親にもほどがあるわ」
菊さんのプライドは、すでに粉々に打ち砕かれていた。しかし、その謝罪に心からの反省は微塵も感じられない。ただ、自分が困るから、自分が惨めになりたくないから、という卑屈な懇願だった。
私はハンドルを握りしめて前を見つめる誠志の横顔を見た。誠志は一度だけ深く息を吐き、そして既決した態度で答えた。
「母さん、香織は母さんのために、十分すぎるほど尽くしてきたよ。管理費の肩代わりだけじゃない。母さんが近所で借金を作った時も、香織が自分の結婚前の貯金を切り崩して、相手の家を一件一件回って、頭を下げて返して歩いたんだ。俺に内緒でな。それを、母さんは知っていたのか?」
「え…?借金…を?香織さんが?」
菊さんの声が潰えた。彼女は、自分の不始末が私の手によって密かに処理されていたことを、今この瞬間まで知らなかったのだ。
「香織は、母さんのことを本当の親だと思おうとしていた。でも、母さんは香織を道具としてしか見ていなかった。もう、遅いんだよ。俺たちは、もうあんたたちの財布じゃない」
誠志の言葉が終わると同時に、現場に3台のパトカーが到着した。ドアが開く音が重なり、数人の警察官が愛子さんたちを取り囲む。
「佐藤愛子さんですね。及び、佐藤さん。不動産管理会社から不法侵入の通報が入っています。また、料亭からの詐欺被害届、及び建設会社からの業務上横領に関する告発も受理されています。詳しいお話を伺いますので、署まで同行願います」
「待って!話してよ!私は被害者なのよ!香織、あんた、本当に許さないから!絶対に呪ってやるから!」
警察官に腕を掴まれながら、愛子さんはなおも私に向かって呪詛の言葉を吐き続けた。その姿は、かつて私のキッチンで「タダ飯最高」と笑っていた面影など微塵もない、ただの残念な犯罪者のそれだった。
雪はさらに激しさを増していく。愛子さんたちが連行されていく中、1人その場に残された菊さんが、雪の上にヘナヘナと座り込んだ。彼女には、帰る家も、自分を守ってくれる息子も、そして「できる嫁」も、もうどこにもいなかった。
しかし、この騒動は単なる家族の絶縁では終わらなかった。
「香織さん、聞こえますか?」
管理会社の佐藤さんの声が、スマートフォンのスピーカーから再び聞こえてきた。彼の声には、先ほどまでの事務的な調子とは違う、どこか緊張した響きがあった。
「実は、警察の方から報告があったのですが、愛子さんたちが乗ってきた車のトランクから、大量のあるものが見つかったそうです。これは、ただの嫌がらせでは済まないレベルですよ」
私と誠志は顔を見合わせた。愛子さんたちがわざわざ大晦日に我が家に持ち込もうとしていた「あるもの」。それは、私たちの想像を絶する、彼女たちの執念深さと狂気を物語るものだった。
「パトカーの警官が不審物がないか、愛子さんたちの車のトランクを確認したところ。中から、バールや大型のボルトクリッパー、そして山積みの大きなゴミ袋が見つかったそうです。それだけではありません。香織さんの名前が記された遺言書や譲渡証らしき書類の束も見つかりました」
私は耳を疑った。バール、ボルトクリッパー…。それは、とてもお正月を祝いに来た親戚が持っているようなものではない。
「どういうことですか、佐藤さん。譲渡証明書って、一体何の…?」
「現在警察が精査中ですが、中には香織さんの実印を成功に偽造したと思われる印影もありました。どうやら彼女たちは、今夜強引に鍵を壊して中に押し入り、香織さんの荷物を全てゴミ袋に詰めて運び出すつもりだったようです。そして、香織さんが自発的に家を譲ったという書類を偽造し、この家を完全に自分たちのものにしようと計画していた。そう考えるのが自然な状況です」
背筋に氷を押し当てられたような寒気が走った。彼女たちは単に「タダ飯を食べに来た」だけではなかった。私の人生そのものを、力づくで奪い取ろうとしていたのだ。
「ちょっと、勝手に人の車を調べるなんて違法よ!それはただの掃除道具よ!大掃除を手伝ってあげようと思っただけじゃない!」
警察官に押さえつけられながら、愛子さんが必死に弁明する。しかし、その声には先ほどまでの勢いはなく、隠しきれない動揺が混じっていた。
「掃除道具に、バールが必要なのか?それに、この書類は何だ?香織さんの署名が、素人目に見ても不自然に真似て書いてあるぞ。印鑑も、この印影を彫って作ったのか?」
警察官の鋭い追求に、年男さんがついに崩れ落ちた。
「愛子が言ったんだ!お兄ちゃんの家を乗っ取れば、俺たちの借金なんてチャラになるって!母さんも協力するって言ったんだ!香織を追い出せば、また私がこの家の主婦、主婦に戻れるって!」
「年男!あんた、なんてことを言うのよ!」
菊さんの悲鳴が上がった。しかし、年男さんの口からは、次々と醜い真実が溢れ出る。
「お母さんは、香織さんの通帳の隠し場所や、実印がどこにあるかを俺たちに教えたんだ!その見返りに、この家の一部屋を、お母さんの専用個室にするっていう約束で…。俺は、俺はただ、借金を返したかっただけなんだ…!」
私は、ハンドルを握る誠志の手が、白くなるほど強く握られているのを見た。誠志は、自分の母親と妹が、自分の妻を陥れるためにそこまで綿密な計画を立てていたことに、深い絶望を感じているようだった。
「…そうだったのね」
私はようやく、震える声でつぶやいた。これまでどんなに侮辱されても、どんなに使用人のように扱われても、心のどこかで「家族だから、いつかは分かり合える」という淡い希望を捨てきれずにいた。でも、それは私の一人よがりな幻想に過ぎなかった。彼女たちは最初から、私を家族だなんて思っていなかった。ただの、使い勝手のいい獲物だったのだ。
私はスマートフォンのマイクに向かって、これまでで最も冷静な、そして最も冷徹な声で告げた。
「愛子さん、義母さん。聞こえる?私は、あなたたちのことを、心の底から軽蔑します」
「香織さん…!」
菊さんの声が漏れた。
「義母さんの借金を私が肩代わりしていたのも、愛子さんの子供たちに学資保険をかけてあげていたのも、全ては佐藤家のためだと思っていました。でも、もう、その必要はありません。先ほど佐藤さんからお聞きした通り、その家はすでに売却済みです。…でも、誰に売ったかまでは、お話ししていませんでしたね」
電話の向こうで、愛子さんたちが息を飲む気配がした。
「この家を買ったのは、私の実家の工場の元従業員の方々が設立した共同組合です。彼らは今、私の父が守ってきた技術を受け継ぎ、新しい事業を成功させています。彼らは、父を裏切り、工場を倒産に追い込んだ原因の一つが、佐藤家への過剰な援助だったことを知っています」
ここで、私自身の逆転のきっかけが語られた。私は、ただ黙って耐えていたわけではなかった。銀行員時代のコネクションを使い、父の工場の元従業員たちと密かに連絡を取り合っていた。そして、彼らの再起を資金面と経営面でサポートし、かつての父の夢を、形を変えて復活させていたのだ。
「彼らは、恩人である私の父を苦しめたあなたたちのことを、決して許さないでしょう。今夜、あなたたちが壊そうとしたのは、単なる家の鍵ではありません。自分たちが道理で築き上げてきた、人間としての最後の居場所を、自分たちの手で叩き壊したのよ」
「え…、じゃあ、この家は…」
愛子さんの声が、絶望に染まる。
「ええ。あなたたちが今立っているその場所は、かつてあなたたちがバカにし、踏みにじった『中卒の工場主』と、その仲間たちの持ち物なの。そこに、あなたたちの居場所は、1ミリも存在しないわ」
その瞬間、現場にいた元従業員の1人であり、現在は警備会社の社長を務める、意外な人物が暗闇の中からゆっくりと姿を現した。
「久しぶりだな、愛子さん。あんたに『油臭い』って言われて追い出された、あの時の工場長だよ」
屈強な体格の男性が、警察官の横で腕を組み、愛子さんを冷たく見下ろした。愛子さんはその顔を見るなり、腰を抜かして雪の上にへたり込んだ。
「ひ、ひっ…!あ、あなたは…!」
「香織さんから話は聞いている。あんたたちが今夜、何をしでかそうとしたかもな。さあ、警察官の皆さん、証拠品は山ほどあります。この連中を、さっさと連れて行ってください」
警察のパトカーのドアが閉まる音が、次々と重なった。愛子さん、年男さん、そして菊さん。3人は別々のパトカーに乗せられ、赤色灯の光の中に消えていった。残されたのは、抜け殻となった家と、雪の上に散乱した彼女たちの悪意の証拠品だけだった。
しかし、物語はここで終わりではなかった。
パトカーが去った後、佐藤さんが静かに言った。
「香織さん、誠志さん。実は、もう1つお伝えしなければならないことがあります。愛子さんの車から見つかった書類の中に、誠志さんの実印も入っていました。それも、かなり最近使われた形跡があるんです」
誠志が目を見開いた。
「俺の実印?バカな。俺は肌身離さず持っているはずだぞ」
誠志が慌てて自分の鞄を確認したが、そこには確かに実印が入ったケースがあった。しかし、中を開けた瞬間、誠志の顔が凍りついた。
「こ、これ、偽物だ…。重さが違う…。いつの間に?なんだよ、これ?偽物じゃないか!」
誠志の声は、凍てつく夜の空気の中で震えていた。ケースに入っていたのは、一見すると本物そっくりの印鑑だったが、手に取ればその軽さは歴然だった。プラスチック製の安物の偽物だ。
「いつからだ?いつから、俺の印鑑はすり替えられていたんだ?」
誠志が絶望に打ちひしがれる中、管理会社の佐藤さんがタブレット端末を操作しながら、冷静に告げた。
「誠志さん。愛子さんの車から見つかった書類の中には、あなたの実印が押された、あなたの所有する別の土地の売却委任状が含まれていました。それも、日付は昨日になっています」
「昨日?そんなバカな。昨日はずっと会社にいたし、印鑑を持ち出した覚えもない。それに、別の土地って、まさか、父さんが残してくれたあの土地のことか?」
誠志が顔を青くして叫んだ。誠志は、亡くなった父親から「将来のために」と小さな山林を相続していたのだ。資産価値はそれほど高くないが、誠志にとっては亡き父との数少ない思い出の場所だった。
「どうやら、そのようです。そして、ここからが本題です。愛子さんと年男さんは、その土地を担保にして、闇金に近い業者から、すでに5,000万円の融資を引き出そうとしていました。書類は全て揃っており、あとは誠志さんの本人確認という段階で、今日の騒動が起きたようです」
5,000万円。その金額を聞いた瞬間、私は自分の血の気が引いていくのが分かった。彼女たちは家を乗っ取るだけでなく、誠志の将来、そして亡き義父の形見まで、自分たちの借金返済のために売り払おうとしていたのだ。
パトカーの窓に、愛子さんの顔が見えた。彼女は警察官に詰め寄られながら、必死で何かを叫んでいる。佐藤さんがスピーカーの音量を上げると、彼女の最後の足掻きとも言える、見苦しい叫びが聞こえてきた。
「お兄ちゃん、いいじゃない!土地なんて持ってても、税金がかかるだけでしょう!私たちが有効活用してあげようとしたのよ!年男さんの借金が返せれば、またみんなで仲良く暮らせると思ったんだから!これも全部、家族を思ってのことなのよ!」
家族…。彼女の口から出るその言葉が、これほどまでに悍ましく感じたことはなかった。自分の欲望を正当化するために、平然と「家族」という絆を利用する。その神経に、私は吐き気すら覚えた。
「愛子、お前、本気で言ってるのか?俺の実印を盗んで、書類を偽造して、俺の人生をめちゃくちゃにしようとして、それが家族のためだって?」
誠志の声は、もう怒りを超えて、深い疲れに包まれていた。
「そうよ!お兄ちゃんはカッコいいんだから、少しくらい苦労したっていいじゃない!それに、香織さんみたいなケチな女と結婚してから、お兄ちゃんは変わっちゃったのよ!昔の優しいお兄ちゃんに戻って欲しかっただけなの!」
愛子さんはパトカーの座席を激しく叩きながら、今度は年男さんに向かって矛先を向けた。
「ちょっと、年男!あんたが『もっとうまくやる』って言ったじゃない!『お兄ちゃんの実印さえ手に入れば、あとは俺の知り合いの業者が何とかしてくれる』って!で、どうしてくれるのよ!これじゃ、計画が台無しじゃない!」
「うるさいな!お前が『母さんに協力してもらえば簡単だ』って煽ったんだろう!印鑑をすり替えたのは母さんなんだから、俺だけのせいにするなよ!」
パトカーの中で、醜いなすり付け合いが始まった。そして、その様子を別のパトカーから呆然と眺めていたのが、義母の菊さんだった。
「私のせい…?私が…誠志の印鑑を盗んだっていうの…?」
菊さんの声は、もう老婆のように力なく震えていた。彼女は、自分の愛した娘と息子が、自分を実行犯として警察に売ろうとしている現実に、ようやく直面したのだ。
「そうよ、お母さん!あんたが誠志の部屋に忍び込んで、印鑑を盗み出したんじゃない!『香織を追い出せるなら、何だって協力するわ』って言ったのは、お母さんでしょう!今更、被害者面しないでよ!」
愛子さんの冷酷な言葉が、菊さんの心を抉った。菊さんは、自分が家を取り戻すために協力したつもりが、実際には子供たちの尻拭いのために利用され、使い捨てられたことに気づいたのだろう。
菊さんは顔を覆い、雪の上に崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。
「ああ、なんてこと…!私は、私はただ、昔のように広い家で、みんなで楽しく暮らしたかっただけなのに…!どうして、こんなことになっちゃったの…?」
その涙に、同情するものは誰もいなかった。近所の人々も、警察官も、そして身の息子である誠志さえも、ただ冷ややかな視線を送るだけだった。
しかし、ここでさらなる衝撃の事実が明らかになる。
「誠志さん、安心してください。その5,000万円の融資ですが、実行はされていません」
佐藤さんの言葉に、誠志が顔を上げた。
「え?でも、書類は揃っていたんだろう?」
「ええ。ですが、愛子さんたちが使った業者というのは、実は私の知人が経営する調査会社が、あらかじめ網を張っていた罠だったんです」
「罠?」
私は驚いて、佐藤さんの顔を見た。佐藤さんは少しだけ口元を上げ、私に説明した。
「香織さんから、『義妹夫婦が不穏な動きを見せている。夫の資産を狙っている可能性がある』と相談を受けた際、念のために網を張っておいたのです。愛子さんたちが接触した業者は、全てこちらの息がかかった者たちです。融資の話を持ちかけ、書類を提出させ、決定的な証拠を掴むための罠だったんですよ」
私は、誠志に内緒で進めていたもう1つの防御策を思い出した。数ヶ月前、愛子さんが我が家の書斎を物色しているのを見かけた時から、私は最悪の事態を想定していた。銀行員時代に培ったリスク管理の経験が、彼女たちの暴走を予感させていたのだ。私は佐藤さんに依頼し、彼女たちが接触しそうな闇のルートを先回りして塞ぎ、逆に彼女たちを追い詰めるための舞台を用意していたのだった。
「じゃあ…香織が、全て仕組んでいたのか?」
誠志が、信じられないといった表情で私を見た。私は小さく頷いた。
「ごめんなさい、誠志さん。確証が持てるまで、あなたに余計な心配をかけたくなかったの。でも、彼らは私たちが思っている以上に、深い闇の中にいたわ」
愛子さんと年男さんは、自分たちが完璧な計画を進めているつもりで、実は私の手のひらで転がされていたに過ぎなかったのだ。
「嘘…!じゃあ、あの融資の話も、全部嘘だったの?」
パトカーの中から、愛子さんの絶望的なつぶやきが聞こえた。彼女たちが最後の希望としていた5,000万円という大金は、最初から存在しない幻だったのだ。
「愛子、お前たちの負けだ。これで、お前たちは不法侵入、窃盗、文書偽造罪、そして詐欺。もう、言い逃れはできないぞ」
誠志の言葉がとどめとなった。愛子さんは真っ白な顔でガタガタと震え、ついには言葉を失ってパトカーのシートに沈み込んだ。年男さんも、もはや反論する気力すらないようで、項垂れたまま動かなくなった。
雪は、全てを覆い隠すように、降り続いている。
しかし、佐藤さんはまだタブレットを見つめたまま、厳しい表情を崩していなかった。
「…おかしいですね。1点、計算が合わない書類があります」
佐藤さんのその一言で、現場の空気が再び凍りついた。
「どういうことですか、佐藤さん?」
「愛子さんたちが偽造した書類の中に、もう一通、別の生命保険の受取人変更届が入っています。それも、誠志さんのものではなく、菊さんのものです」
「生命保険の…受取人変更届?」
パトカーの座席に力なく座り込んでいた菊さんが、その言葉を聞いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。雪に濡れて白髪が顔に張り付き、その表情は幽霊のように凄惨なものだった。
管理会社の佐藤さんは、警察官の手元にある書類を確認しながら、冷徹な事実を読み上げる。
「はい。菊さんが現在加入している大手生命保険の、死亡保険金及び高度障害保険金の受取人が、これまでの誠志さんから、愛子さんへと変更される手続き書類です。日付は先月。そして、ここには菊さんの署名と、実印が押されています。菊さん、心当たりはありますか?」
「な、そんな…!私はそんな書類、書いた覚えなんてないわよ!実印だって、大切に仏壇の奥に隠して…!」
菊さんの声が震え、次第に絶叫へと変わっていった。
「愛子!どういうこと?あんた、私の実印を勝手に持ち出したの?私の死んだ後のお金まで、自分のものにしようとしてたっていうの!」
すると、それまで黙り込んでいた愛子さんが、開き直ったようにパトカーの窓を激しく叩き、母親に向かって悪態をつき始めた。
「ああ、そうよ!それが何だって言うのよ!お母さん、いつも言ってたじゃない!『愛子のことが一番可愛い』『愛子のためなら何だってしてあげたい』って!だったら、死んだ後の金くらい、私にくれたっていいでしょう!お兄ちゃんには、この家があるんだから、バランスが取れていいじゃない!」
「バランス…!あんた、私の命をそんな風に…!私はあんたを信じて、香織さんの悪口にまで付き合って…!」
「うるさいわね!大体、お母さんがいつまでも長生きしてるから、私たちがいつまで経っても楽になれないのよ!早くお迎えが来ないかしら、って年男さんといつも話してたんだから!香織さんを追い出した後は、お母さんにはちょっと不注意で階段から落ちてもらうか、お風呂で寝てもらう予定だったんだから!」
愛子さんの口から飛び出したのは、身の母親に対する殺意すら感じさせる悍ましい計画だった。
現場にいた全員が、そのあまりの残酷さに言葉を失った。近所の住人たちも、恐怖で顔を引きつらせ、後ずさりしている。私はハンドルを握りしめたまま、ただ沈黙を守っていた。怒りを通り越して、人間という生き物の底知れぬ闇に、ただ圧倒されていた。
愛子さんの目は、もはや人間のそれではなかった。金という魔物に取り憑かれ、親子の絆も、道徳も、全てを焼き尽くしてしまった狂気だった。
「愛子、お前、本気で言ってるのか?」
誠志の声は、絞り出すような低さだった。
「そうよ!お兄ちゃんだって、お母さんの介護なんてしたくないでしょう!私が引き受けてあげるって言ってるんだから、感謝して欲しいくらいだわ!お母さんの保険金で借金を返して、この家を手に入れて、私たちは幸せになるはずだったのよ!それを、香織さんみたいな中卒のゴミ女が、ぶち壊したのよ!あんたさえ!あんたさえいなければ!」
愛子さんはパトカーの中で暴れ、警察官に必死に押さえつけられた。その姿は、かつて私を「器が小さい」と笑っていた時と同じ、醜い傲慢さに満ちていた。
しかし、ここでさらなる真実が明かされた。
「残念ですが、愛子さん。その保険金、1円も受け取れませんよ」
佐藤さんの静かな一言に、愛子さんの動きが止まった。
「はあ?何言ってんのよ。書類はもう…」
「菊さんの生命保険ですが、実は3年前に保険料の支払いが滞り、一度失効しかけていたんです。それを救ったのは、香織さんでした。香織さんはご自分の貯金から、未払い分を全て一括で支払い、契約を継続させた。その際、契約内容を『契約者:誠志さん、被保険者:菊さん』という形に変更し、さらに特約として、受取人の変更には契約者である誠志さんと、実質的な保険料負担者である香織さんの2人の同意を必須とするという条件を付加していたんです」
「ええ…?つまり…」
「つまり、あなたが偽造した受取人変更届は、最初からただの紙切れだったんです。法的な効力は一切ありません。保険会社側も、不審な書類が届いた時点で、すでにこちらに報告を入れていました」
愛子さんの顔が、泥のように濁っていった。
「じゃあ…あの書類も…無駄だったの…?私の…私の完璧な計画が…!」
「計画ではありません。それは、単なる犯罪です」
佐藤さんは冷たく言い放つと、今度は菊さんの方を向いた。
「菊さん、あなたは愛子さんのことを思って、香織さんを貶めてきた。でも、愛子さんが本当に見ていたのは、あなたの顔ではなく、あなたの背中にある『保険金』という数字だけだったんです。これが、あなたが守ろうとした『佐藤家の絆』の正体ですよ」
菊さんは、雪の上に膝をついたまま、声を漏らした。その涙は、後悔によるものか、それとも裏切られた絶望によるものか。しかし、どんなに泣いても、彼女が私にしてきた数々の仕打ちは消えない。
「香織さん…ま、まさか…ごめんなさい…許して…私、どうかしてたの…?」
菊さんは這うようにしてこちらに向かって手を伸ばしてきた。しかし、誠志はその手を取ることはなかった。
「母さん、もう遅いんだ。俺たちは今日、この場所で母さんとも決別する。もう二度と連絡もしないし、助けることもない。母さんが愛した愛子と一緒に、自分の人生の落とし前をつけてくれ」
誠志はそう告げると、ゆっくりと車の窓を閉めた。パトカーの赤色灯が雪に反射し、現場を去っていく様子がバックミラーに映った。愛子さんの絶叫と、菊さんの泣き声は、激しさを増す吹雪の中に飲み込まれていった。
車内には、深い沈黙が流れた。私は隣で前を向いたまま動かない誠志の横顔を見つめた。彼の頬を、一筋の涙が伝い落ちるのが見えた。
「香織…終わったよ」
「ええ、終わったわね、誠志さん」
私は彼の手に、自分の手をそっと重ねた。
しかし、私たちはまだ知らなかった。愛子さんと年男さんが連行された警察署で、さらなる衝撃の事実が発覚することを。彼らが隠していたのは、保険金や家だけではなかったのだ。
パトカーが角を曲がり、完全に視界から消えたその時、私のスマートフォンが再び鳴った。発信元は、先ほど現場にいた警察官からだった。
「佐藤さんですね。先ほど連行した年男さんの所持品から、不審な鍵を1つ見つかりました。これ、心当たりはありませんか?あなたの実家の工場の倉庫の鍵のように見えるのですが…」
私の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。実家の工場の鍵。なぜ、彼らがそんなものを…?
実家の工場は、父が亡くなった後に一度閉鎖されたが、現在は私が支援する元従業員たちの組合が管理し、再出発に向けた準備を進めている。その心臓部とも言える倉庫には、父が残した貴重な設計図や、特許に関わる精密機械が保管されているのだ。
「ええ、そうです。…年男さんのポケットから隠し持っていた、特殊な形状の鍵が見つかりました。タグには『佐藤製作所 倉庫1』と手書きの文字がありました。佐藤さん、あなたはこの鍵を彼らに貸した覚えはありますか?」
「いいえ、一度もありません。その鍵は、私が厳重に管理しているはずです。予備の鍵も、工場の事務室にある金庫に保管されているはずなのですが…」
私が言い終わる前に、パトカーの中から年男さんの、狂ったような笑い声が漏れ聞こえてきた。
「ひ、ひっ、遅いんだよ、香織さん!鍵を盗むなんて、簡単だったよ!お前が実家に帰って、お母さんの介護で疲れ果てて寝ていた、あの夜だ!寝てる隙にちょっと拝借して、合鍵を作るなんて、子供の使いさ!」
年男さんは、警察官に両腕を掴まれながらも、勝ち誇ったように身を乗り出した。その目は充血し、脂汗を流しながら、異様な興奮を燃やしている。
「家が売却されたのは計算違いだったが、本命はあっちなんだよ!あの倉庫にある機械、あれは海外の企業が高値で買い取ってくれることが決まってるんだ!今頃、俺の仲間の運び屋が、中にあるものを全てトラックに積み込んでいるはずだ!今から駆けつけたって、無駄だぞ!」
「年男さん、あなた…そんなことまで…!」
私は彼の浅ましさに、背筋が凍る思いだった。父が一生をかけて守り抜いた技術を、ただの金に変えようとするその行為は、死者への強盗に等しい。
愛子さんも、パトカーの窓に顔を押し付け、歪んだ笑顔を浮かべた。
「そうよ!あんたから家を取り上げるのは、余興に過ぎないわ!本当の目的は、あんたの実家の資産を根こそぎ奪うことだったのよ!『中卒の工場主が残したガラクタでも、売れば数千万円にはなる』って、年男さんが言ってたわ!あはは!ざまぁ見ろ!家を失い、思い出の工場も空っぽになるのよ!あんたには、何にも残らないわ!」
愛子さんの哄笑が、雪の夜に響き渡る。彼女は、最後の最後で私に致命傷を与えたと確信しているようだった。隣でハンドルを握る誠志も、怒りのあまり呼吸が荒くなっている。
「香織!今すぐ工場へ向かおう!警察にも連絡して…!」
誠志が車を出そうとしたその時、私はそっと彼の手を制した。
私は、愛子さんたちの狂乱を醒めた目で見つめ、ゆっくりと、深い沈黙に入った。その沈黙は、彼女たちにとって不気味なものに映ったのだろう。愛子さんの笑い声が、次第に小さくなり、不安そうに私を伺い始めた。
「…何よ、黙り込んじゃって。ショックすぎて声も出ないわけ?それとも、もう諦めたのかしら。まあ、賢明な判断ね。あんたみたいな無能な女に、工場なんて守れるわけなかったのよ」
愛子さんはなおも侮辱を続ける。しかし、私は静かにスマートフォンのスピーカーに向かって、口を開いた。
「愛子さん、年男さん。1つ、勘違いしているわ。私が、そんなに脇が甘いと思っているの?」
「はあ?強がりはやめなさいよ。鍵はもう使われた後なんだから」
「いいえ。…佐藤さん、お願いしていた例の報告、入っていますか?」
私が呼びかけると、管理会社の佐藤さんがタブレットを操作しながら、力強く頷いた。
「はい、香織さん。今、工場の警備システムから映像が届きました。面白いことになっていますよ」
佐藤さんは、警察官たちにも見えるように、タブレットの画面を大きく掲げた。そこに映し出されていたのは、暗い工場の倉庫前で、数人の屈強な男たちが、開かない重厚なシャッターの前で立ち往生している姿だった。
「な、何よこれ!なんでシャッターが開かないのよ!鍵は持ってるはずでしょう!」
年男さんが画面を凝視し、絶叫した。
「残念だったわね、年男さん。あなたが盗んだのは、確かに本物の鍵だったわ。でも、それは1ヶ月前の話でしょう。私が、鍵を盗まれたことに気づかないとでも思ったの?」
「な…!」
「実は、実家で寝込んでいたあの夜、私は年男さんが鞄を物色していることに、うっすら気づいていたのよ。私はわざと寝たふりをし、彼が鍵を持ち出し、数時間後に戻したのを確認していたわ。翌朝、私はすぐに工場の全ての鍵を最新のデジタルロックに交換し、さらにシャッター自体の駆動システムを遠隔操作式に変えた。あなたが持っているその鍵は、今はもう、ただの鉄の塊でしかないのよ」
「う、嘘だ…!じゃあ、あいつらは…!」
「ええ。あなたの仲間の運び屋さんたちは、開かないシャッターの前で騒いでいるところを、すでに駆けつけた警備員と警察によって、全員その場で現行犯逮捕されたわ。今、彼らが持っていたトラックの中身を警察が確認しているけれど、中にはあなたたちが事前に運び出そうとしていた工場の備品や原材料が、いくつか見つかったそうよ」
愛子さんの顔から、急速に色が消えていった。
「そ、そんな…!じゃあ、工場も…ダメだったっていうの…!」
「ダメだったのは、あなたたちの浅墓な計画よ。それから、警察の方。もう1人、その場にいたはずです。意外な人物がね」
私がそう言うと、映像の中のある人物が、警察官に連れられてカメラの前に現れた。その顔を見た瞬間、パトカーの中で凍りついたのは、なんと義母の菊さんだった。
「え、嘘でしょう?なんで…なんで、あなたがそこにいるの?」
画面に映っていたのは、菊さんが最も信頼し、数十年に渡って佐藤家の御用聞きとして出入りしていた、税理士の野村という男だった。
「の、野村さん!あんた、なんで工場の倉庫なんかに…!」
菊さんの声が震えている。野村は、佐藤家の資産管理を任されていた人物であり、菊さんにとっては味方であるはずの男だった。
「義母さん。野村さんは、愛子さんたちと裏で繋がっていたのよ。それどころか、義母さんのマンションの問題を煽り、借金を膨らませるように仕向けたのも、この男だったの」
「な、なんですって!」
真実が、次々と剥がれ落ちていく。野村は、愛子さん夫婦の借金問題を解決する代わりに、工場の技術を海外に売却する仲介料を得ようと画策していた。そして、そのために菊さんを操り、私を佐藤家から追い出すための片棒を担いでいたのだ。
「野村さんは、すでに全ての罪を自白し始めているわ。『自分は愛子さんに脅されてやったんだ』って、真っ先にあなたたちを裏切ったそうよ」
「よくも…裏切ったな!」
年男さんがパトカーの壁を激しく蹴った。しかし、もはや怒鳴ったところで、状況は1ミリも変わらない。
愛子さんは、パトカーの中でガタガタと震え始めた。自分たちが仕掛けた罠が、全て自分たちを捉える罠へと変わってしまった。その絶望的な現実に、ようやく心が折れたようだった。
「お兄ちゃん…ごめんなさい…。私、ちょっと魔が差しただけで…。お正月なんだから、家族で笑って過ごしたかっただけなのよ。ねえ、お兄ちゃん、警察に行って、これを全部『間違いだった』ってことにしてよ…」
愛子さんは涙ながらに窓越しに誠志へ訴えかけた。その姿は、かつての傲慢な態度とはほど遠い、哀れな物乞いのようだった。しかし、誠志の目は吹雪よりも冷たく、愛子を映していなかった。
「愛子。お前は、もう俺の妹じゃない。俺たちの人生から、永遠に消えてくれ」
誠志がそう言い捨てた瞬間、パトカーの無線から、さらなる衝撃の報告が飛び込んできた。
「現場の警察より報告。逮捕した運び屋の供述により、新たな事実が判明。年男容疑者が、香織さんの実家の工場に火を放つ準備をしていた形跡があります。倉庫の裏から、大量のガソリン携行缶が発見されました」
車内の空気が、一気に凍りついた。
「ガソリン…携行缶…?」
誠志の絞り出すような声が、車内の狭い空間に低く響いた。私は耳を疑った。脅迫、偽造、乗っ取り。それだけでも十分に許し難い罪だ。しかし、ガソリンを準備していたということは、彼らは父が命を削って守り抜いた工場を、証拠隠滅のために焼き払おうとしていたということだ。
もし、あの計画が実行されていたら…。想像するだけで、全身の血が凍りつくような恐怖を覚えた。この工場には、今でも再建のために心血を注いでいる元従業員の方々がいる。夜間でも、交代で機械のメンテナンスをしている人がいるかもしれない。彼らは、金のために、無実の人々の命まで奪おうとしていたのだろうか?
「嘘よ!そんなの何かの間違い!ガソリンなんて、ただのキャンプ用か何かじゃないの!」
愛子さんの叫び声が、パトカーの外まで漏れ聞こえてきた。しかし、警察官の声は冷徹だった。
「キャンプ用にしては、量が異常だ。20リットルの携行缶が10個以上。さらに、倉庫の四隅に配置するための発火装置まで見つかっている。これは、明らかな計画的放火の準備だ。佐藤年男。お前、自分が何をやろうとしていたのか、分かっているのか?」
年男さんは、もはや言葉を発することもできず、ただ雪の上に崩れ落ちて、ガタガタと震えていた。その震えは、寒さによるものではなく、自らの犯した罪の重さにようやく気づいた、卑怯な男の末路だった。
私は、ゆっくりと車のドアを開けた。誠志が「香織、危ない!」と手を伸ばしたが、私はそれを優しく振り払い、雪の上に一歩踏み出した。冷たい外気が、私の頬を刺す。パトカーの赤色灯が、雪の結晶を真っ赤に染めて、舞い踊っていた。
私は、警察官に両腕を抱えられた愛子の正面に立った。
「香織…、あんた…」
愛子の目は、恐怖と嫉妬で濁っていた。彼女は私の顔を見るなり、またしても醜い言葉を吐き散らした。
「何よ、その勝ち誇ったような顔は!あんたがそんなに偉いわけ?中卒の家計に生まれた卑しい女のくせに!私たちをこんな目に合わせて!あんたさえ、あんたさえいなければ、私たちは今頃温かい家で美味しいカニを食べて、笑っていたはずなのよ!あんたが、私たちの幸せを奪ったのよ!」
幸せ…。彼女の言う「幸せ」が、他人の命や財産を犠牲にして成り立つものだということを、彼女は最後まで気づかないのだろう。私は、愛子の罵声を浴びながら、ただ黙って彼女を見つめた。怒りを通り越して、哀れみすら感じない。ただ、目の前にいるのが「人間という形をした、別の生き物」であるかのような、醒めた感覚だった。
私が何も言い返さないのを見て、愛子はさらに調子に乗った。
「黙ってないで、何か言いなさいよ!ほら、いつものように『お義母様、すみません』って土下座しなさいよ!お兄ちゃんに言いつけて、あんたを今すぐ離婚させてやるから!そしたら、あんたはまたあの汚い工場で、油まみれになって働けばいいのよ!あはは!お似合いじゃない!」
愛子の哄笑が、静寂を切り裂く。しかし、その笑い声は、すぐに管理会社の佐藤さんの、冷静な一言によって打ち消された。
「愛子さん。1つ、大きな勘違いをされていますね。香織さんは、あなたが思っているような、無能な主婦ではありませんよ」
佐藤さんは、警察官から手渡されたある書類を、私に手渡した。私はそれを開き、中の書類を一通、愛子の目の前に突きつけた。
「何よ、これ?」
「これは、私が10年前、父の工場が倒産した際に、債権者の方々と個別に結んだ、弁済契約書の一部よ。父の工場が倒産したのは、不況だけが原因じゃなかった。当時、佐藤家の家計を支えるために、父が無理な融資を引き受けさせられていたからなのよ。義母さん、覚えているでしょう?あなたが『誠志の結婚資金が必要だ』と言って、父に無理やり3,000万円の連帯保証人になってもらったこと」
背後で座り込んでいた菊さんが、ビクッと肩を揺らした。
「私は、その負債を10年間、誠志さんにも内緒で、銀行員時代の給料と結婚後の副業の利益から、1円も欠かさず返し続けてきた。そして、去年の冬、ようやく完済したのよ。この書類は、その完済証明書」
愛子の顔から、表情が消えた。
「つまりね、愛子さん。私が『中卒の家計』とバカにしていた、私の父は、倒産した後も、あなたたちの贅沢な生活を守るために、死ぬまで借金を背負い続けていたのよ。そして、私はその父の意志を継いで、あなたたちの汚れを、ずっと掃除してきたのよ」
「う、嘘よ…。そんなの…」
「さらに、最大の事実を教えてあげる。佐藤さん、例の口座の記録を」
佐藤さんがタブレットを表示した。そこには、愛子が長年「自分のお金」だと思い込んで使い込んでいた、菊さんの隠し口座の履歴があった。
「愛子さん。あなたが年男さんの借金返済のために、勝手に引き出していたあのお金。あれは、義母さんが貯めたものではないわ。私が、義母さんの老後のためにと、毎月コツコツと積み立ててあげていたお金よ」
「え…?つまり…」
「つまりね、愛子さん。あなたが『タダ飯最高』と言いながら私たちの家から奪っていたのは、実は私があなたたちのために用意していた、最後の慈悲だったの。でも、あなたはそれを全て、ギャンブルと贅沢に使い果たした。挙句の果てには、私を殺してまで、工場の権利を奪おうとした」
愛子の唇が、ガタガタと震え始めた。
「じゃあ…私は…私は、あんたのお金で、あんたに養われていたっていうの…?」
「そうよ。あなたが『ゴミ』と呼んでいた私に、あなたたちは10年間、生かされていたの。でも、それも今日で終わり。私が積み立てていた口座は、先ほど全て解約したわ。あなたたちの手元に残るのは、膨大な借金と、放火未遂という前科の記録だけよ」
その瞬間、愛子のプライドは、完全に崩壊した。自分が散々罵り、踏みにじってきた相手に、実は全ての生活を依存していた。その事実は、彼女にとって何よりも残酷な罰だった。
「ああ、いやよ!そんなの嘘よ!私は佐藤家の令嬢なのよ!あんたみたいな女に施しを受けるなんて!返してよ!私のお金を返してよ!」
愛子は狂ったように雪を掻き、私に掴みかかろうとしたが、警察官たちに強く引き離された。
すると、その時だ。1台の高級セダンが、雪を巻き上げながら現場に滑り込んできた。車から降りてきたのは、この地域で最も権威のある弁護士であり、そして私のある秘密の知人だった。
「香織さん、お待たせしました。証拠の整理、全て完了しましたよ」
車から降りてきたのは、この界隈では知らぬ者のいない、一之瀬法律事務所の代表、一之瀬弁護士だった。彼はかつて、私の父が経営していた工場が危うかった際、父の誠実な人柄に打たれて無償で顧問を引き受けてくれた恩人でもある。
「一之瀬先生、お忙しい大晦日に、本当に申し訳ありません」
私が頭を下げると、一之瀬先生はメガネの奥の鋭い目を、警察官に囲まれた愛子一家に向けた。その目は、冷徹な法執行者のそれであり、不正を許さない正義の光を宿していた。
「一之瀬…弁護士…。おい、嘘だろ?なんで、こんな大物が、香織さんみたいな女の知り合いなんだよ」
年男が、雪の上に座り込んだまま、絶望的な声を漏らした。年男も、自分の務めていた会社の関連で、一之瀬先生の名前は耳にしていたのだろう。彼のような小物にとって、一之瀬先生は最も恐ろしい天敵とも言える存在だ。
「香織さんから依頼を受け、2ヶ月間、あなた方の身辺調査を徹底的に行わせていただきました。佐藤愛子さん、そして年男さん。あなたたちが犯した罪は、先ほど挙げられた放火や窃盗だけではありませんよ」
一之瀬先生は分厚いファイルをばさりと広げ、パトカーのライトの下でその中身を突きつけた。
「これは、年男さんが勤務先の関連子会社を通じて行っていた、架空取引の全記録です。そして、その裏金がどこへ流れていたか。…全て、愛子さんの名義で作られた海外のペーパーカンパニーの口座に振り込まれていますね」
「な、何のことよ!私はそんなの、知らないわよ!年男さんが勝手にやったことよ!」
愛子が必死に責任逃れをしようとするが、一之瀬先生は冷たく言い放った。
「いいえ。その口座の開設手続き、そして資金の引き出しに使用された端末のIPアドレスは、全てあなたたちの自宅、及び愛子さんのスマートフォンからのものです。金額にして、総額1億2,000万円。これはもはや、単なる使い込みの域を超えた、組織的な横領とマネーロンダリングです」
1億2,000万円。その天文学的な数字に、現場は一瞬静まり返った。警察官たちも、事の重大さに表情を引き締め、年男の腕を掴む力を強めた。
「1億2,000万…!年男!あんた、そんな大金…!でも、私たちのお金は…あの口座に入っていたお金は、どこに行ったのよ!」
愛子が叫んだが、一之瀬先生は鼻で笑うように答えた。
「そのお金ですが、残念ながら、すでに国税局と連携し、全て差し押さえさせていただきました。あなた方が私服を肥やすために盗んだお金は、1円とも残っていませんよ」
「う、嘘よ…!私の…私の贅沢な暮らしが…!私のブランド品が…!」
愛子は狂ったように叫び、自分のコートのポケットをまさぐったが、そこには何もない。彼女が必死に守ろうとしていた偽りの富は、一瞬にして消え去ったのだ。
「それだけではありません。香織さんの実家の工場を狙ったのも、実はこの横領を隠蔽するための画策でしたね。工場の設備を海外に売却し、その利益で欠損金を埋めようとした。しかし、香織さんが銀行員時代に培った緻密な追跡調査により、全ての金の流れが、白日のもとにさらされました」
ここで、私がなぜこれほどまでに冷静でいられたのか、その理由が明かされた。私は愛子たちが私の実家や学歴をバカにするたび、心の中で静かに笑っていた。彼女たちが「中卒並みの知能」と貶めていた私の頭脳は、彼女たちが一生かかっても理解できない複雑な金融取引の闇を、数ヶ月かけて解き明かしていたのだ。
「愛子さん。あなたは私を『器のない』と呼びましたね。でも、その『器のない女』に、自分の犯罪の証拠を全て握られていたとは、夢にも思わなかったでしょう」
私は、警察官の腕の中で暴れる愛子の目を、まっすぐに見つめて言った。
「あんた…!あんた、最初から全部知ってて、私たちを泳がせていたっていうの…!」
「ええ。あなたたちが自ら破滅の穴を掘るのを、私は特等席で見守らせてもらったわ。あ、そうそう。義母さんにも、お伝えしておくことがあります」
私は、パトカーの影で震えている菊さんの方へ歩み寄った。
「香織さん…私…私は…」
「義母さん。あなたが愛子さんと一緒に、私の実家を乗っ取ろうとした計画。あれ、実は野村税理士が、全て録音していましたよ。彼だけが助かろうと、あなたたちが話し合っていた音声を、一之瀬先生に提出したんです」
「の、野村さんが…私を裏切った…?」
「裏切ったのは、あなたたちの方でしょう。私という1人の人間を佐藤家の都合のいい道具にして、自分たちだけが甘い汁を吸おうとした。その報いが、これです」
一之瀬先生が、菊さんに向けて最後の一通の書類を提示した。
「菊さん。あなたが現在住んでいるマンションの売却手続き、及びこれまでの滞納金の清算。さらには、今回の一件で香織さんが被った精神的苦痛に対する賠償責任。これら全てを含め、あなたには佐藤家としての全資産を放棄していただきます。拒否されるのであれば、愛子さんたちと共に、共犯者として刑事告訴させていただきますが。いかがいたしますか?」
菊さんは、もはや声も出なかった。彼女が何よりも大切にしていた「佐藤家」の看板。そして「優雅な老後」という夢。それら全てが、自分が産み落とした娘の裏切りと、自分が貶め続けた嫁の正義によって、音を立てて崩れ去った。
「ああ…終わった…。私の人生、全部…終わっちゃった…」
菊さんは雪の中に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくった。しかし、その涙を拭ってくれる人は、もうここには誰1人いない。
年男は、警察官に促されてパトカーの中へと押し込まれた。最後に彼はこちらを振り返り、幽霊のような顔でつぶやいた。
「香織さん…あんたは…最初から、俺たちなんて、見てなかったんだな…」
「ええ、そうね。私は、父が守りたかったものと、誠志さんとの未来だけを見ていたわ。あなたたちの入る隙間なんて、1ミリもなかったのよ」
私は冷たく言い放った。
雪は止むことなく、全てを白く塗りつぶしていく。愛子と年男、そして菊さんを乗せたパトカーが、次々と住宅街の闇へと消えていった。サイレンの音が遠ざかるにつれ、辺りには本来の大晦日の静寂が戻ってきた。
現場には、私と誠志、一之瀬先生、そして管理会社の佐藤さんだけが残された。
「香織、本当に…お疲れ様」
誠志が、私の肩を優しく抱き寄せた。彼の体温が、寒さで凍りついた私の心を、ゆっくりと溶かしていくのを感じた。
「誠志さん…私、ひどい妻だったかしら。あなたのお母さんや妹を、こんな目に合わせて…」
私が少しだけ声を震わせて言うと、誠志は私の目をしっかりと見て、力強く首を振った。
「いいや。君は、俺たちの『本当の家』を守ってくれたんだ。あいつらは、家族の形をした怪物だった。君が勇気を持って立ち向かってくれなければ、俺も今頃、あいつらと一緒に闇に沈んでいたかもしれない。ありがとう、香織。心から、感謝してる」
誠志の言葉に、私はようやく張り詰めていた緊張の糸が切れるのを感じた。私は彼の胸に顔を埋め、静かに涙を流した。それは、悲しみの涙ではなく、10年に及ぶ重圧から解放された、歓喜の涙だった。
しかし、物語はここで終わりではなかった。
一之瀬先生が、スマートフォンの画面を確認しながら、私たちに微笑みかけた。
「香織さん、誠志さん。新年まで、あと1時間を切りました。実は、あちらで皆さんが待っていますよ」
「皆さん?」
「ええ。香織さんが守り抜いた、あの工場の面々ですよ」
一之瀬先生の車に導かれ、私たち夫婦はかつて父が守り、そして私と仲間たちと共に守り抜いた工場の前に到着した。暗闇の中に浮かび上がる工場の建物は、最新のLED照明に照らされ、振りしきる雪の中でまるで御伽噺のように、しかし力強くそびえ立っていた。建物の窓からは、温かみのあるオレンジ色の光が漏れ、そこから漏れ聞こえてくるのは機械の稼働音ではなく、人々の笑い声と賑わう気配だった。
「さあ、香織さん、中へ入りましょう」
門をくぐると、そこには信じられない光景が広がっていた。工場の広いエントランスホールには大きなテーブルが並べられ、そこには豪華な料理が所狭しと並んでいた。
「あ、香織さん、お帰りなさい!誠志さんも、よく来てくださいました!」
迎えてくれたのは、工場の元従業員たちと、その家族、総勢30名以上の人々だった。かつて父と一緒に油まみれになって働いていたベテラン職人から、私が支援して採用した若い技術者まで、全員が満面の笑顔で私たちを歓迎してくれた。
「皆さん、どうしてここに…?」
私が驚いて尋ねると、元工場長で、今は警備会社の社長として愛子たちの逮捕に協力してくれた田中さんが、照れくさそうに笑いながら前に出た。
「香織さん。今日は、あんたが佐藤家の『使用人』を卒業した、記念すべき門出の日でしょ?一之瀬先生から聞いてたんですよ。今夜、全てに決着をつけるってね。だから、僕たちが『本当の家族』として、あんたを迎えようって決めたんです」
「田中さん…」
「あんたの父さんは、僕たちに技術だけじゃなく、人の恩を忘れない心を教えてくれた。あんたがこの10年間、1人で佐藤家の無理難題に耐え、僕たちの工場を守るために必死に働いてくれたことを、みんな知っています。さあ、香織さん。今夜は『タダ飯』じゃありませんよ。これは、僕たちみんなからの、あんたへの精一杯の恩返しです」
テーブルの上には、愛子たちが強欲に要求していたものよりも、ずっと美味しそうな手作りの料理が並んでいた。大鍋で煮込まれた豚汁、艶やかに炊き上がったおにぎり、そして地元の名産品を使った贅沢なオードブル。それらは全て、彼らが心を込めて準備してくれたものだった。
私は、込み上げてくる熱いものを、抑えることができなかった。
「ありがとうございます…。私…こんなに幸せな大晦日は…初めてです…」
私が涙を流すと、職人たちの奥さんたちが「泣かないで、香織さん」「さあ、温かいうちに食べて」と、次々に私を抱きしめ、温かい席へと案内してくれた。
一方で、誠志は一之瀬先生から渡されたタブレット端末を覗き込み、驚きの声をあげた。
「香織、見てくれ。これが、あいつらの『今』だ」
タブレットに映し出されていたのは、警察署の取調室へと続く廊下で、ガタガタと震えながら歩く愛子と年男の姿だった。彼らは今、雪の吹き込む冷たい取調室で、暖房も満足に効かない中、自分たちが犯した罪の数々を、厳しく追及されていた。
「寒い、寒いよ…。お兄ちゃん、助けてよ…」
愛子のその声は、もはや誰にも届かない。彼女が着ていた高級な毛皮のコートは、警察の証拠品として没収され、今は薄汚れた制服を羽織っているだけだった。「タダ飯最高」と笑い、私の心を凍りつかせようとした彼女たちが、今度は自分たちが「無一文」の家の前で、飢えと寒さという、極限の地獄へと突き落とされたのだ。
さらに、衝撃的な報告が入ってきた。
「香織さん、速報です。愛子さんが隠し持っていた、あの横領金の一部を隠していた口座ですが、実はその全額が、今回放火の標的になりかけた工場の修繕基金として、法的に没収・譲渡されることが決定しました」
一之瀬先生の言葉に、会場にいた全員から「おお!」という歓声が上がった。つまり、愛子さんが必死に盗んだお金が、皮肉にも彼女が焼き払おうとした工場を、より最新の設備に生まれ変わらせるための資金になったということだ。まさに、自業自得。因果応報。愛子は、自分が最も憎んでいた私の実家を助けるために、一生をかけて償い続けることになる。これ以上のスカッとする結末があるだろうか?
私は、隣で豚汁を美味しそうに頬張る誠志を見た。誠志は、心からリラックスした表情で、職人たちと笑い合っている。
「誠志さん、私たち、本当に新しい人生を始められるのね」
「ああ、香織。君が守ってくれたこの場所が、これからは俺たちの実家だよ。もう誰にも遠慮することはない。君が、君らしくいられる場所を、俺も一緒に守っていく」
外では、午前0時を知らせる除夜の鐘が、遠くから響き始めた。鐘の音とともに、私を縛りつけていた「佐藤家」という呪縛が、1つまた1つと消えていくのを感じた。かつて愛子たちがいたあの広い家。今頃は「売却済み」の看板が雪に埋もれ、冷たく静まり返っていることだろう。
彼女たちが手に入れようとしたのは、見えざる金と虚栄心。しかし、私が手に入れたのは、目には見えない信頼と、温かな絆だった。
「香織さん、おめでとう。新しい1年の始まりだ」
田中さんの乾杯の音頭と共に、工場のホールは最高の熱気に包まれた。
しかし、この温かな物語には、最後にもう1つの感動の奇跡が待っていた。その奇跡は、私の亡き父が倒産する直前に、金庫の奥深くに隠していた、一通の古い手紙から始まった。
新年の清らかな空気が、工場の敷地内に満ちていた。除夜の鐘が鳴りやみ、私たちは新しい1年の最初の数分を、心からの笑顔で迎えていた。
すると、田中さんが「そうだ、香織さん。これを見て欲しいんだ」と、一通の古びた封筒を差し出した。それは、かつて父が使っていた重厚な金庫の、さらに奥にある隠し引き出しから見つかったものだと言う。
「これは…お父さんの字…!」
震える指で封筒を開けると、そこには父の力強い、しかしどこか温かみのある筆跡で、私と誠志さんへ向けたメッセージが綴られていた。
「香織へ。そして、誠志君へ。この手紙を2人が読んでいるということは、きっと大きな嵐を乗り越えた後なのだろう。誠志君。君の父上である佐藤の親父さんとは、実は若い頃からの親友だったんだ。2人の結婚が決まった時、親父さんは病床で私にこう言った。『うちの妻と娘は欲に目がくらんでいる。誠志と香織さんには苦労をかけるかもしれないが、どうか2人を支えてやってくれ』と。親父さんは、自分の死後、佐藤家の財産が愛子さんたちによって食い散らかされることを予見していた。だからこそ、私にある信託を託していたんだ。香織。お前が返してきた借金。あれは、実は親父さんが、お前のために残した基金の一部だったんだよ。お前が自分の力で苦難を乗り越えようとした時、その資金が解禁されるように、私たちは裏で手続きをしていたんだ。お前は、自分は佐藤家の犠牲になったと思っていたかもしれない。だが、違う。お前こそが、誠志君の父上が最も信頼し、佐藤家の真の遺志を託した、唯一の家族だったんだよ。これからは、誰に遠慮することもなく、自分たちの幸せのために、その力を使ってほしい」
手紙を読み終えた瞬間、私の目からは大粒の涙が溢れ出した。私が10年間、孤独に戦い続けていたと思っていたその日々は、実は亡き父と、そして誠志さんのお父様に見守られていた時間だったのだ。私が愛子さんたちの借金を肩代わりし、工場の再建に奔走していたことは、単なる苦行ではなく、先代からの希望をつなぐための試練だった。
「親父さん…そんな…」
誠志さんも、手紙を読みながら声を詰まらせていた。自分の父親が、身内の妻や娘よりも、嫁である私を信頼していた。その重みと深い愛に、彼は静かに涙を流していた。
この手紙が決定的な証拠となり、愛子さんや菊さんが主張していた遺産の権利は、法的に完全に無効化された。彼女たちが虎視眈々と狙っていた「隠し財産」は、最初から、私という人間に、その誠実さと引き換えに託されていたのだ。
1月1日の朝日が、東の空からゆっくりと登ってきた。愛子さんと年男さんは、その後、組織的な横領と放火未遂の共犯として、厳しい刑事罰を受けることになった。彼らが騙し取った1億2,000万円の返済には、一生をかけてても足りず、刑務所を出た後も、極貧の生活が待っていることだろう。かつて「タダ飯最高」と囃し立てていた彼女たちが、今度は一生、自分の犯した罪という重い代償を払い続けることになった。
義母の菊さんは、全ての資産を失い、一之瀬先生が手配した地方の小さな高齢者施設へと移された。そこは、かつて彼女が見下していた「中卒の職人」たちが、引退後に暮らすような質素な場所だ。彼女は今、誰からも「お義母様」と呼ばれることなく、1人の孤独な老人として、静かに自分の人生を振り返る日々を過ごしている。
一方、私たちは売却した家とは別に、工場の近くに小さな、しかし温かい平屋を建てた。そこにはもう、高級な霜降り肉もカニもないが、近所の人々が届けてくれる新鮮な野菜や、工場の仲間たちと交わす気取らない挨拶がある。温かい食卓がある。
「香織、今日の味噌汁、すごく美味いよ」
誠志さんが、笑顔で言った。彼は今、工場の財務責任者として、私の良きパートナーとして働いている。
「ええ、自分たちで稼いだお金で食べるご飯が、一番美味しいわね」
私は窓の外に広がる冬の青空を見上げた。かつて私を侮辱し、沈黙を強いてきた人々は、もうどこにもいない。私は、自分の名前で、自分の足で、誠志さんと共に、新しい道を歩んでいる。
苦しみの果てに掴み取ったこの平穏こそが、父たちが残してくれた最大の財産なのだと、今なら確信を持って言える。
もし、今どこかで理不尽な扱いに耐えている人がいるなら、伝えたい。誠実に生きることは、決して損をすることではありません。誰かが必ず、あなたの背中を見ています。そして、冬が深ければ深いほど、春の訪れは一層温かく輝くのだということを。
雪解けの音が、聞こえてきた。私たちの新しい物語は、まだ始まったばかりだ。



