オフィスの空気が氷のように凍りついた。鬼頭部長の言葉が、まるで刃物のように田中健一の全身を貫いた。
「おい、底辺の契約社員。お前の代わりなんて、その辺の野良犬より安いんだよ。」
その一言で、広々としたオフィスエリアは水を打ったように静まり返った。誰もが息を潜め、キーボードを叩く手さえ止めている。だが、この時、傲慢に笑うこの男も、冷ややかな視線を送る周囲の者たちも、誰一人として知らなかった。わずか数分後、この男が人生で最も無様な土下座をし、全員の顔から血の気が引くことになるとは。
窓の外では、朝から降り続く冷たい雨が、灰色のビル群を濡らしていた。
ざあざあという雨音だけが、不気味に静まり返ったフロアに響いている。
都内の一等地にそびえ立つ大手総合商社、東郷コーポレーション営業部。ここで契約社員として働く田中健一、55歳。彼は今、フロアの中央で一人立ち尽くし、冷酷な言葉の刃を全身で浴びていた。
「大体な、お前みたいな中高年が、この一流企業で働かせてもらってるだけで感謝すべきなんだよ。分かるか? 」
剣一の目の前で、高級なオーダーメイドのスーツを着崩し、見下すような薄ら笑いを浮かべているのは、営業部長の鬼頭だった。年齢は40代前半、親のコネで入社し、実力ではなくゴマすりだけで異例の出世を遂げた男だ。彼は自分が気に入らない部下、特に立場の弱い派遣社員や契約社員をターゲットにしては、公開処刑のように罵倒することを日課としていた。
鬼頭の手には、剣一が徹夜で仕上げた顧客向けの企画書が握られている。
「この数字のミスは何だ? 小学生でも間違えないぞ。お前、脳みそまで錆びついてんのか? 」
鬼頭はあろうことか、数十ページに及ぶ企画書を剣一の顔に向けて力いっぱい投げつけた。白い紙が吹雪のように散らばり、オフィスの床に落ちていく書類たち。
「申し訳ありません。」
剣一は深く頭を下げた。本当なら言い返したいことは山ほどあった。その企画書の数字は、昨日、鬼頭自身が「この数字に変更しておけ」と手書きのメモで指示してきたものだった。しかしそのメモを鬼頭が受け取った今、何を言っても「言い訳をするな」と火に油を注ぐだけだということは、これまでの経験で痛いほど分かっていた。
それに剣一には、どうしてもこの仕事をやめられない理由があった。長年連れ添った妻、秋子が重い病を患い、毎月の治療費が高額なのだ。以前勤めていた会社が倒産し、50代でようやく拾ってもらったこの職を失うわけにはいかない。どれだけ理不尽な侮辱を受けようとも、剣一はただじっと唇を噛みしめて耐えるしかなかった。
「すいませんで済むなら警察はいらねえんだよ。これだから使えない中高年は困る。」
「おい、お前らもそう思うだろう。」
鬼頭が周囲を見渡すと、若手社員たちは目をそらし、関わり合いになりたくないという態度で無言を貫いた。中には、鬼頭に同調して「本当迷惑ですよね」とヘラヘラ笑う者さえいる。誰も剣一を庇おうとはしない。この部署では、鬼頭に逆らうことは自身の首を意味するからだ。
床に散らばった書類を拾い集めようと、剣一が膝をついたその時だった。
「広げなくていい。」
鬼頭の冷酷な声が頭の上から降ってきた。剣一が顔を上げると、鬼頭は革靴の先端で、剣一が拾おうとしていた企画書をぐしゃりと踏みにじっていた。泥のついた靴底が、剣一が心血を注いだ書類を無惨に汚していく。
「お前みたいな無能に払う給料は、うちの会社には1円もないんだよ。」
「お前の顔を見てると、こっちまで貧乏臭くなる。」
鬼頭はネクタイを少し緩めると、勝ち誇ったような、何かの鬱憤を晴らすような見にくい笑みを浮かべた。
「田中、お前、明日から来なくていいわ。首だ。」
その宣告は、あまりにも突然で、あまりにも残酷だった。
「え、」
剣一の喉からかれた声が漏れる。妻の顔が、そして積み重なる請求書の束が脳裏をよぎった。
「部長、どうかそれだけは。どんな仕事でもします。トイレ掃除でも構いません。ですからどうか。」
プライドを捨て、剣一は床に手をつき必死に懇願した。しかし鬼頭は鼻で笑うだけだった。
「はっ、お前の代わりなんて、ハローワークに行けばいくらでも転がってんだよ。さっさと荷物まとめて消えろ。このゴミが。」
絶望的な沈黙がフロアを支配した。剣一の視界が、屈辱と絶望で歪んでいく。万事休す、剣一の人生はここで終わってしまうのか。
周囲の社員たちも、「ああ、ついに終わったな」というような冷たい視線を送っていた。
だが、誰も気づいていなかった。オフィスの入り口、重厚なガラス扉の向こう側に、いつの間にか一人の老紳士が立っていることに。濡れ傘を手にしたその老紳士は、静かに、しかし確かな足取りで自動ドアを開けたのだった。
「ウィーン」
静まり返ったフロアに、無機質な機械音が響き渡った。普段なら誰も気に留めないその音だが、鬼頭の暴言によって凍りついていたオフィスでは、ひどく間延びしたほど大きく響き渡った。
「ああ?

」
苛立ちを隠そうともせず、鬼頭が眉間に深い皺を寄せて入り口を睨みつける。そこに立っていたのは、一人の見知らぬ老紳士だった。
上質な生地だと分かる、どこか控えめなグレーのスリーピーススーツ。その手には、まだ水滴を滴らせている一本の黒い傘が握られている。
床に手をつき、絶望の淵に沈んでいた剣一も、その足音にゆっくりと顔を上げた。
ぼやける視界の先に映ったその老紳士の顔を見た瞬間、剣一の目が大きく見開かれる。
あ、あの時の紳士。
時間を、ほんの数時間前、この日の早朝へと戻そう。
その日の朝は、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。冷たい風が吹き荒れ、駅前を行き交う人々は皆、足早にオフィスビルへと吸い込まれていく。剣一は使い古された通勤鞄を抱え込むようにして歩いていた。
頭の中を占めていたのは、病床にある妻、秋子のことだ。
「あなた、無理しないでね。私のことはいいから。」
昨晩、電話越しに聞いた妻の弱々しい声が耳から離れない。治療費は毎月重くのしかかる一方だ。昼は東郷コーポレーションで契約社員として働き、週末は深夜の清掃アルバイトをして、なんとか繋いでいる状態だった。
「今日も頑張らないとな。」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、剣一が駅前の交差点を渡り終えた時のことだ。
大きなオフィスビルの入り口から少し離れた、雨風を凌げない小さな庇の下そこに一人の老人がポツンと立ち尽くしていたのだ。
傘を持っておらず、雨宿り仕様にも横殴りの雨に打たれ、肩からすっかり濡れそぼっている。寒さのせいか、その小さな体は小刻みに震えていた。
行き交うビジネスマンたちは、誰一人として老人に見向きもしない。「邪魔だな」と言わんばかりに舌打ちをして通り過ぎる若い男すらいた。
剣一は、気づけば足を止めていた。
「このままじゃ、おじいさん風邪を引いてしまう。」
今の世の中、他人に干渉するのはリスクだと若者たちは言う。ましてや剣一は、自分自身の生活だけで手一杯の底辺の契約社員だ。他人にかまっている余裕など、どこにもないはずだった。
しかし剣一には、どうしてもその老人を見捨てることはできなかった。
「あの。」
剣一は迷わず老人に歩み寄ると、自分の差していた黒い傘を、すっと老人の頭の上に差しかけた。
「え? 」
老人が驚いたように顔をあげる。白髪交じりの品の良い顔立ちだったが、その唇は寒さで少し青ざめていた。
「冷たい雨ですね。このままだと、お体が冷えきってしまいます。もしよろしければ、この傘使ってください。」
剣一は穏やかな笑みを浮かべ、傘の柄を老人の手に向かって差し出した。
「いや、しかし、これを頂いてしまったら、あなたが濡れてしまうでしょう。」
「知らない私などに、そこまでしていただく訳には。」
老人は遠慮がちに首を振った。だが剣一は、優しく、しかし強引に、傘の柄を老人の手に握らせた。
「大丈夫です。私はすぐそこの東郷コーポレーションで働いているものですから、走れば1分で着きます。」
「それよりも、おじいさんがこんな冷たい雨に打たれているのを、見てみぬふりはできませんよ。」
「東郷コーポレーション。」
老人が小さく呟いた。その目に、一瞬だけ鋭い光が宿ったように見えたが、剣一は気に留めなかった。
「どうかお気をつけて。それでは、私はこれで。」
剣一は鞄を頭の上に乗せると、土砂降りの雨の中へと飛び出していった。
背後から、「ありがとう。本当にありがとう。」という老人の声が聞こえた。
スーツはズブ濡れになり、後で鬼頭に「貧乏臭い」と怒鳴られる原因にはなったが、剣一の心は不思議と暖かかった。
――そして現在。罵声が響き渡った営業部のフロア。
剣一は床に手をついたまま、信じられない思いで目の前の老紳士を見つめていた。
間違いない。今朝、自分が傘を貸したあのおじいさんだ。手には、剣一が渡した黒い傘が握られている。
「なぜ、あのおじいさんがこんな所に。まさか、傘を返しに来てくれたのか? だとしたら、まずい。ここは部外者が入ってきていい場所じゃない。」
剣一が老紳士を連れ出そうと、とっさに立ち上がろうとしたその時だった。
「おい、じじい。」
フロアに鬼頭の下品な怒声が轟いた。
「ここは関係者以外入り禁止なんだよ。警備の目はどうなってんだ? おい、そこのお前,早くこの薄汚いじじいをつまみ出せ。」
鬼頭は入口の近くにいた若手社員に顎で指示を出す。しかし若手社員は動かなかった。いや、動けなかったのだ。
「聞こえねえのか。おい、使えねえ奴らだな。」
「おいじじい,耳が遠いのか。さっさと出ていけって言ってんだよ。ここが天下の東郷コーポレーションだと分かってるのか?
」
そこまで言い散らした鬼頭の言葉が、ぴたりと止まった。
老紳士が、ゆっくりと鬼頭の顔を見据えたのだ。その眼差しは、先ほど雨の中で震えていた哀れな老人とは全く違っていた。まるで絶対的な権力者のように、周囲の空気を一瞬で制圧するほどの、重く鋭く、そして底知れぬ怒りを秘めた眼光だった。
老紳士は、踏みにじられた書類の残骸と、土下座させられている剣一、そして傲慢にふんぞり返る鬼頭を、交互に見比べた。
「これが、我が社の営業のトップのやり方か。」
低く、血が這うような声だった。
その瞬間である。
鬼頭の後ろに立っていた、この部署のナンバー2である副部長の口から、悲鳴のような声が漏れた。
剣一がふと見ると、先ほどまで鬼頭と一緒にヘラヘラと笑っていた副部長の顔面から、見る見るうちに血の気が引いていくではないか。まるで、見てはいけない恐ろしい化け物にでも遭遇したかのように、ガチガチと歯の根を鳴らしている。
「ふ、副部長,どうかしたんですか? そんな青い顔して。」
「こんなじじい,俺が追い出してやりますから。」
鬼頭が不思議そうに振り返る。しかし副部長は、腰を抜かしたようにその場にへり込み、震える指で老紳士を指差した。
「ば、バカ野郎。お前、なんて口の聞き方をしてるんだ。」
「あ、あのお方を,どなただと? 」
副部長の悲鳴のような声が、静まり返ったフロアにこだました。
普段は鬼頭の腰巾着としていつもへいこらしている副部長が、まるで幽霊でも見たかのように震え上がり、床に這いつくばっている。その異様な光景に、周囲の社員たちは息を飲んだ。
しかし当の鬼頭だけは、苛立ちを隠せない様子で舌打ちをした。
「何を言ってるんですか? 副部長。あのお方,どこの誰だか知りませんが、ただの薄汚いじじいじゃないですか。」
「ああ、そこの底辺契約社員が貸したっていう汚らしい傘を持ってるし。」
「累は友を呼ぶってやつですかね。」
鬼頭はヘラヘラと笑いながら老紳士を指差した。
「ち、違う。あのお方は、あのお方は。」
副部長が極度の恐怖で白目を向きかけながら、その名前を口にしようとした瞬間だった。
老紳士が、すっと副部長に視線を向けた。
たったそれだけだった。言葉を発したわけではない。ただ冷たく、底なしの深海のような瞳で見下ろしただけだ。
それなのに、副部長の喉は「ヒュッ」と音を立てて凍り付き、発作でも起きたかのように口をパクパクさせるだけで、一切の言葉を失ってしまった。そのままがっくりと頭を垂れ、床に突っ伏してガタガタと震え続ける。
「おい副部長,急にどうかしたんですか?
貧乏臭いじじいのせいで頭でもおかしくなりましたか? 」
鬼頭は嗤いながら呆れたように肩を竦めた。
「おい、誰か副部長を医務室へ運んでやれ。」
「それからそこのじじい,さっさと出て行け。ここはな、俺みたいなエリートが働く場所なんだよ。」
「お前みたいな生ゴミが息をしていい空気じゃねえんだよ。」
鬼頭の暴言は止まらない。
その言葉の刃は、老紳士だけでなく、床に膝をついている剣一にも向けられていた。
剣一は、自分自身が罵倒されることには慣れていた。しかし、純粋な善意から傘を返しに来てくれただけの老紳士が、これほどまでにひどい言葉を投げつけられている状況が、どうしても許せなかった。
剣一はゆっくりと立ち上がると、無言のまま老紳士を背中で庇うように前に立った。
「や、」
老紳士が、背中を向けた剣一を見上げて、小さく声を漏らす。
剣一は何も言い返さず、ただ静かに、まっすぐ鬼頭の目を見つめ返した。
その目には、先ほどまでの仕事を首になる恐怖、怯えではなく、ある種の覚悟が決まっていた。
「これ以上、この方を傷つけさせるわけにはいかない。」
その強い意志が、剣一の沈黙から痛いほどに伝わってくる。
「なんだ田中? お前その目はなんだ? 俺に逆らう気か?
」
鬼頭が面白くなさそうに顔を歪めた。
「底辺同士で、いい抱擁だな。お前,自分がどういう立場か分かってんのか? たった今首を宣告された無能な契約社員なんだぞ。」
「大人しく土下座して泣き喚いてりゃいいものの,生意気にヒーロー気取りかよ。」
鬼頭はつかつかと剣一に歩み寄り、その胸倉を乱暴に掴んだ。
「いいか、田中。」
「お前がこのじじいを今すぐここから叩き出さないなら、お前の今後の就職先,全部潰してやるからな。」
「俺のコネを使えば、お前みたいな中高年が、この業界のどこにも雇われないようにするなんて簡単なんだよ。」
「病気の嫁さんがいるんだろう。路頭に迷って、夫婦揃って野垂れ死ぬんだな。」
その残酷すぎる言葉に、周囲の若手社員たちですら顔をしかめた。いくら何でもやりすぎだと。だが誰も止めることはできない。
剣一は、ぐっと奥歯を噛みしめた。妻の顔が脳裏に浮かぶ。
ここで抵抗すれば、本当に人生が終わるかもしれない。しかし、それでも剣一は、老紳士の前から一歩も引き下がらなかった。
「ほう。」
その様子を、背後から静かに見つめていた老紳士が、ぽつりと呟いた。
「己の身が破滅するかもしれないというのに、私のような水臭い老人を守ろうというのか。」
「今の世の中に、まだこのような男が残っていたとはな。」
老紳士は静かに歩み出ると、剣一の胸倉を掴む鬼頭の腕を、皺だらけの手でぴたりと掴んだ。
「い、いでて。」
鬼頭が悲鳴をあげた。見かけによらない、万力のような恐ろしい握力だった。
鬼頭は思わず、剣一から手を離す。
「てめえ,じじい,ただじゃおかねえぞ。警察呼んで,不法侵入と暴行で逮捕させてやる。」
顔を真っ赤にして喚き散らす。しかし老紳士は、全く怯むことなく、濡れ傘の先端で床に散らばったままの企画書——鬼頭が踏みにじった剣一の書類——をとんとんと突いた。
「警察を呼ぶ前に、1つだけ教えてもらおうか,営業部長殿。」
老紳士の声はひどく穏やかで、だからこそ得体の知れない不気味さを孕んでいた。
「君は先ほど,自分の代わりはいくらでもいると言って,この男を切り捨てたな。」
「ああ。ああ,そうだ。こんなもんの代わりは,いくらでもいる。」
老紳士はすっと目を細めた。
「ならば,君の代わりは,果たしているのかな。」
その言葉の真意が理解できず、鬼頭が「はあ? 」と抜けた声を漏らした、その直後だった。
フロアの奥にある役員専用エレベーターが、「ちん」という軽やかな音を立てて開いたのだ。
そこから、息を切らせて飛び出してきた人物の顔を見て、今度は鬼頭の顔面から一瞬にして血の気が引いた。
「ウィーン」という無機質な電子音と共に、フロアの奥にある役員専用エレベーターの扉が開いた。そこから、欠伸を忘れたように飛び出してきた人物を見て、鬼頭の顔面から一瞬にして血の気が引いた。
現れたのは、代表取締役社長の大取だった。
普段はテレビや経済誌のインタビューでしかお目にかかれないような、雲の上の存在が、なぜかネクタイを締め直し、額に大粒の汗を浮かべながら息を弾ませて、営業部に駆け込んできたのだ。
「社長! わざわざ現場に足を運んでいただくとは,何か急用で。」
鬼頭は慌てて媚びへつらうような作り笑いを浮かべ、もみ手で駆け寄ろうとした。しかし大取社長の目は、鬼頭など全く見ていなかった。
その視線は、剣一の背後に静かに佇む老紳士へと釘付けになっていた。
「あ,ああ。」
大取社長の喉から、「ヒッ」と有妙な音が漏れる。その足はガクガクと震え、まるで命綱にすがるような様子で老紳士に向かって走り出そうとした。
「か,会長。」
社長がその言葉を口にしようとした、まさにその瞬間だった。
老紳士はすっと右手を上げ,人差し指を自分の口元に当てた。
黙っていろ。
言葉は発しない。しかし、その絶対的な威圧感と鋭い眼光だけで、老紳士の意思は痛いほどに伝わった。
大取社長は,雷に打たれたようにびくっと身を竦ませると,ぴたりと動きを止め,その場で直立不動の姿勢を取った。
滝のような脂汗が彼の額を伝い落ちていく。
その社長の異様な様子を、鬼頭は完全に勘違いしていた。
「なるほど。」
「社長,申し訳ありません。」
鬼頭はわざとらしく大きな声を張り上げた。
「こんな薄汚いじじいが社内に紛れ込んでいるのを見て,社長も言葉を失うほど呆れられたのですね。」
「警備の怠慢です。今すぐ私が,この不審者と,それに同調するゴミを叩き出しますから。」
鬼頭は社長に、仕事ができる自分、毅然とした自分をアピールする絶好のチャンスだと踏んだのだ。
彼の広格は,見にくく歪み,残酷な優越感に浸っていた。
「いいか田中,社長の御前だぞ。」
「お前のような底辺中の底辺が,この会社の仕組みを回していること自体が間違いなんだよ。」
鬼頭は剣一に向かって再び,激しい言葉のナイフを突き立てた。
剣一は,社長が目の前にいる状況でも,一歩も引き下がらなかった。自分がここで引き下がれば,背後にいる老紳士がどう扱われるか分からない。
剣一は両拳を強く握りしめ,じっと足元を見つめながら,怒りと屈辱を押し殺して沈黙を貫いた。
その剣一の態度が,鬼頭の自尊心をさらに逆撫でしました。
「黙りかよ。反省の色もねえな。」
「大体な,お前の嫁が病気だってのも,どうせ嘘なんだろう。道楽を引いて首を繕われようって魂胆が見え見えなんだよ。」
剣一の肩が,びくっと跳ねた。
自分が侮辱されるのは耐えられる。。だが,病床で苦しみながらも剣一を気遣ってくれる最愛の妻を侮辱されることだけは,どうしても許せなかった。
剣一が顔を上げ,鬼頭を鋭く睨みつける。
「なんだその目は。ずぶ濡れで頭に来たか。」
「累は友を呼ぶって言うが,このじじいも,どうせお前の身内か何かのホームレスだろうが。」
「こんな貧乏くさい恰好を大事そうに持って,本当に虫酸が走るぜ。」
鬼頭の口から「ホームレス」という単語が出た瞬間である。
直立不動で立ち尽くしていた大取社長が,ついに白目を剥いて奇声を上げた。
「社長,大丈夫ですか?
やはりこんな生ゴミどもの発する悪臭に当てられたのですね。」
鬼頭は得意げに社長を気遣うふりをすると,再び剣一たちに向き直った。
「ホームレスか。」
老紳士が,とつとつと,ひどく冷たい声で呟いた。
「君の目には,私がそのように映るのだな。」
「当たり前だろ,このクソじじい。その見すぼらしい恰好を見れば分かる。」
「いや,社長の気分をこれ以上害する前に,俺が直接制裁を加えてやる。」
そう叫ぶと,鬼頭は近くにあった自分のデスクから,飲みかけの熱いコーヒーが入ったマグカップを乱暴に掴み取った。
「お前らみたいな社会のゴミには,こうして消毒してやるのがお似合いだ。」
鬼頭は狂気じみた笑みを浮かべ,あろうことか熱いコーヒーを,老紳士と剣一に向かって思いきりぶちまけようと,腕を振り上げた。
「やめろ!! 鬼頭!! 」
大取社長の,血を吐くような絶叫がフロアに轟いた。
しかし鬼頭の腕は,すでに振り下ろされようとしていた。
「いや,やめろ!! 鬼頭!!
」
大取社長の悲痛な絶叫がフロアを切り裂いた。
しかし,自らの歪んだ優越感と狂気に酔い知れている鬼頭の耳には,その声すら社長の応援に聞こえていた。
「ははは。社会のゴミは消毒だ。」
濁った茶色の液体が,無慈悲な弧を描いて,空中を舞った。
淹れたてでまだ湯気を立てている熱いコーヒー。それが,老紳士の顔面を直撃する。。誰もがそう思った,次の瞬間だった。
「ぐっ。」
鈍い呻き声と共に,剣一が身を挺して老紳士の前に覆いかぶさった。
熱湯に近いコーヒーは,剣一の背中と後頭部を容赦なく打ち据えた。
焼けつくような痛みが,剣一の皮膚を襲う。白いワイシャツは一瞬にして茶色に染まり,ぼたぼたと汚れた雫が床へと滴り落ちていく。
「た,田中。」
背中に庇われた老紳士が,目を見開いて剣一の背中を見つめた。
自分のような水臭い老人のために,まさか自らの身を投げ出して熱湯を浴びるとは。
老紳士の瞳の奥で,静かだった怒りの炎が,ごうっという音を立てて燃え上がり始めていた。
しかし剣一は,一言も発しなかった。。痛みに顔を歪めながらも,ただじっと奥歯を噛みしめて沈黙を貫いている。ここで自分が反撃すれば,鬼頭はさらに増長し,老紳士に危害を加えるかもしれない。。それだけは絶対に防がなければならなかった。
「ちっ,,避けやがったか。」
「まあいい。。どうせお前の服なんて,雑巾みたいなもんだからな。」
「ちょうどいい色合いになったじゃねえか。」
鬼頭は空になったマグカップを床に放り投げると,腹を抱えて下品に笑い転げた。
その光景を見て,大取社長は完全にパニックに陥っていた。
「ああなんてことだ。」
大取社長は今すぐ鬼頭を殴り飛ばし,老紳士に土下座したかった。。しかし,先ほど老紳士から突きつけられた「黙っていろ」という霊圧的なジェスチャーが,社長の足を床に縫いつけていた。。もし今,自分が勝手に動けば,自分の首も物理的に飛ぶかもしれない。。恐怖のあまり,社長はガチガチと歯を鳴らしながら,ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「ほら,社長,ご覧ください。この生ゴミ,熱湯を浴びても反抗的な目をしてやがる。」
「こういう奴には,もっと分からせてやらないとダメなんですよ。」
鬼頭は,震えて動けない社長を怒りで震えている。。と勘違いし,さらに暴走を始めた。
「おい田中,お前,今日で首なんだから,さっさと荷物をまとめて出ていけよ。」
「俺が手伝ってやるよ。」
鬼頭は剣一のデスクにつかつかと歩み寄ると,引き出しを乱暴に開け放った。
「い,やめてください。。自分でやります。」
剣一が慌てて立ち上がろうとしたが,鬼頭は「うるせえ」と剣一の肩を蹴り飛ばした。
どさぶざと床に転がる剣一。
周囲の社員たちは完全に目をそらし,誰一人として助けようとしない。
「お,なんだこれ? 貧乏臭い弁当箱だな。」
「中身は梅干と白飯だけかよ。受ける。」
鬼頭は剣一の私物を次々と床に放り投げた。古い手帳,使い古したボールペン。。そして,
「うん? なんだこの汚い布切れは? 」
鬼頭の手には,不格好な手作りの小さなお守りが握られていた。
それを見た瞬間,剣一の顔色が変わった。
「返してください!!
それは!! 」
それは,病床の妻,秋子が震える手で一針一針縫ってくれた,交通安全のお守りだった。
「お父さん,いつも遅くまでお仕事ご苦労様,気をつけて帰ってきてね。」
そう言って渡してくれた,剣一にとって何よりも大切な宝物だった。
「返せ,こんなゴミが。」
「ああ,なんだよこれ。縫い目もガタガタじゃねえか。」
「病気の嫁が作ったってアピールか。。本当に道楽を引くのがうまいね,底辺は。」
「やめろ!! それだけは!! 」
剣一は床を這うようにしてお守りに手を伸ばした。
しかし,鬼頭は残酷な嘲笑を浮かべると,そのお守りを床に落とし,革靴の底で力任せに踏みにじった。
「ぐしゃっ」という嫌な音が響いた。
「あっ。」
剣一の喉から,かれた声が漏れた。。妻の愛情が込められたお守りが,,鬼頭の泥だらけの靴底で無惨に汚れ,形を失っていく。
剣一の目から,ついに大粒の涙が溢れ落ちた。
屈辱,,怒り,,そして妻への申し訳なさ。。全ての感情が混ざり合い,,剣一の心は完全に踏み潰されてしまった。
「あはははは。。泣いてやんの。」
「いい年したおっさんが,,こんなゴミで泣くかよ。」
「ほら,社長も洗ってやってくださいよ。」
鬼頭がゲラゲラと笑いながら,,大取社長の方を見た。
しかし,その時,フロアの空気が一変した。
先ほどまで静かに事態を見守っていた老紳士が,,ゆっくりと,,本当にゆっくりと,,一歩前へ踏み出したのだ。
「もう十分だ。」
嗄れたような低く,,しかし絶対的な威厳に満ちた声だった。
その一言で,鬼頭の笑い声がぴたりと止まる。
老紳士は,,踏みにじられたお守りを拾い集めようとして泣き崩れる剣一を見下ろし,,それから鬼頭へと霊圧極まりない視線を向けた。
「君の罪はよく見えた。」
「大取。」
老紳士が,,ついにその名を口にした。
「は,,はい。」
直立不動だった大取社長が,,聞かれたように直角にお辞儀をした。
いよいよ,,反撃の火蓋が切って落とされる。
「大取。」
老紳士の低く地の底のような声。その名で呼ばれた大取社長は,,背筋をピンと伸ばし,,引き締まったように直角のお辞儀をした。
「はい。」
額からポタポタと脂汗を流し,,大企業トップの威厳など微塵も感じさせないその姿に,,フロアの社員たちは目を丸くした。
しかし鬼頭だけは,,未だに状況が理解できていなかった。
いや,,自分の都合のいいようにしか解釈できない,,小人の性だった。
「社長,,どうかされたんですか?
そんなに畏まって。」
「あ,,なるほど。。こんな貧乏臭いじじいにも礼儀を尽くすとは,,さすが我が社のトップですが,こんなゴミ相手に頭を下げる必要はありませんよ。」
「おい,,じじい,,社長の情けに感謝して,,さっさと消えろ。」
「き,,貴様,,黙れ!! 」
鼓膜を突き破るような大取社長の怒声が,,鬼頭の言葉を強引に遮切った。普段は温厚で,,怒鳴ることなど滅多にない社長の形相は,,まるで鬼人のように怒りで歪んでいた。。その目には真っ赤な血走った線が浮かんでいる。
「え,,あ,,社長,,何を怒って。」
大取社長は鬼頭を睨みつけたまま,,ぐりぐりと奥歯を鳴らし,,再び老紳士に向き直って深く頭を下げた。
老紳士は,,震える社長には目もくれず,,コーヒーで汚れた背中を丸め,,踏みにじられたお守りを握りしめている剣一を見つめた。
「大取。」
「そこにいる鬼頭とやらは,,この田中健一という男を,,無能な底辺と呼んだ。」
老紳士の声は静かだったが,,その奥には氷のような冷たさが潜んでいた。
「だが,,お前は知っているはずだ。。この男の本当の顔を。」
「は,,はい。。存じ上げております。」
大取社長は震える声で答えた。
「おい,,鬼頭。」
老紳士の鋭い眼光が,,再び鬼頭を射抜く。
「君は先ほど,,彼に,,『脳みそまで錆びついてんのか』と言ったな。」
「ならば教えてやろう。。君が足蹴にしたこの男が,,一体何者なのかを。」
鬼頭は鼻で笑った。
「何者って,,ただの底辺契約社員でしょうが。。どこにでもいる使えない中高年ですよ。」
「愚か者だな。」
老紳士は冷たく吐き捨てると,,大取社長に顎で示した。
「大取,,言ってやれ。」
「はい。」
大取社長は一つ深呼吸をすると,,フロア全体に響き渡る声で言った。
「田中健一。。彼は,,かつて業界最大手の総合商社,,大道商事において,,歴代最年少で営業本部長にまで登り詰めた男だ。」
「彼が手掛けた数百億円規模の海外インフラプロジェクトは,,今でもこの業界の伝説として語り継がれている。」
「いわば,,営業の神様のような存在だ。」
その言葉に,,フロア全体が水を打ったように静まり返った。
「え,,あの田中さんが,,大道商事の最年少本部長? 」
若手社員たちがざわめき始める。。大道商事といえば,,数年前までは東郷コーポレーションすら足元にも及ばない,,超巨大企業だったな。
「何をバカな。」
鬼頭の顔が引きつった。
「嘘だ。。そんなすごいやつが,,なんでうちで時給1000円ちょっとの契約社員なんかやってるんですか? 」
「それに大道商事は,,3年前に倒産したじゃないですか。。こいつはただの負け犬だ。」
「倒産したのは,,彼が会社を去った後だ。」
老紳士が静かに言葉を継いだ。
「彼は,,自分の派閥の部下が起こした巨額の横領事件の責任を,,ただ一人で背負って,,辞職したのだ。」
「彼が残っていれば,,大道商事が倒産することは決してなかった。。あの時,,業界中の企業が彼をヘッドハンティングしようと血道になったものだ。」
老紳士の言葉に,,誰もが息を飲んだ。
剣一は,,己の過去を暴かれても,,ただ床に視線を落とし,,沈黙を貫いていた。。言い訳も自慢も一切しない。
ただ,,部下の罪を被ってエリート街道から転落し,,愛する妻のためにどんな屈辱にも耐えて,,底辺の仕事に就いていたのだ。
その背中の重さに,,周囲の社員たちは言葉を失った。
「そ,,そんなの,,知るかよ!!
」
鬼頭が焦りを隠すようにヒステリックに叫んだ。
「過去がどうだろうと関係ねえ。。今,,こいつは俺の部下で,,俺より下なんだよ。」
「それにこいつは,,俺の指示した数字をミスしたんだ。。だから首にしてやったんですよ。」
鬼頭は己の正当性を主張しようと必死だった。
しかし,,老紳士は,,全く怯むことなく,,濡れ傘の先端で床に散らばったままの企画書を軽く叩いた。
「ほう,,この企画書の数字が間違っていると。」
「そうです。。こいつは基礎的な計算すらできない無能なんです。」
「大取。」
「この企画書を拾って,,直近の市場データと照らし合わせてみろ。」
「はい。」
大取社長は這いつくばるようにして床の書類を拾い集め,,震える手でページをめくった。。そして自分のスマートフォンを取り出し,,最新の市場データを確認し始めた。
数分後,,大取社長の顔が,,驚愕で青ざめた。
「こ,,これは,,どうした? 」
「大取,,どうなんだ。」
「完璧です。。いや,,完璧どころか,,現在の不安定な市場動向を完全に予測し,,リスクを最小限に抑えつつ利益を最大化する,,まさに神がかり的な数字の弾き出し方です。」
「この企画書通りに動けば,,我が社は数十億の利益を,,ノーリスクで得られます!! 」
鬼頭の目が,,こぼれ落ちそうなくらいに見開かれた。
「おい,,鬼頭。」
老紳士は,,哀れな虫けらを見るような目で鬼頭を見下ろした。
「君は,,この完璧な数字を,,ミスだと言ったな。」
「君の言う『正しい数字』とは,,一体どんなものだったのかね。」
その問いかけに,,鬼頭の全身から嫌な汗がどっと吹き出した。
「俺の数字は完璧です!! この無能な田中が,,俺の指示を無視して勝手にデータを書き換えたんですよ!!
」
鬼頭は必死に声を張り上げると,,自分のデスクに駆け寄り,,乱暴に引き出しを開けた。。そして1枚の手書きのメモを引っ張り出し,,大取社長の目の前に突きつけた。
「これです!! これが俺が計算し,,指示した本当の数字です!! 社長なら,,お分かりになるはずだ。。俺の優秀さが!! 」
大取社長はそのメモをひったくるように受け取ると,,震える手で眼鏡を掛け直し,,数字に目を落とした。
その瞬間,,社長の顔色が,,青ざめるどころか,,まるで死人のような土気色に変わった。
「も,,鬼頭。」
「はい!!
素晴らしい数字でしょう!! それをこの底辺が!! 」
「貴様,,本気でこの数字で今回のプロジェクトを進めるつもりだったのか? 」
「え,,はい。。もちろんですが。」
鬼頭は社長の反応を肯定的に受け取ったと勘違いし,,得意げに胸を張った。
「若造が!!
」
再び大取社長の怒声がフロアに轟いた。鬼頭はびくっと肩を竦ませ,,間抜けな顔で固まった。
「この数字,,原価計算が根本から間違っているではないか!! 」
「しかも為替の激しい変動リスクを,,全く考慮していない。。もしこのお前の数字で契約を結んでいたら,,我が社は,,たった1つのプロジェクトで数十億円の特別損失を出すところだったんだぞ!! 」
「え,,会社を,,いや,,トグループ全体を吹き飛ばす気か!! 貴様は!!
」
社長の言葉に,,周囲の社員たちも一斉に青ざめた。鬼頭が指示した数字こそが,,会社を破滅に導く最悪のミスだったのだ。
一方,,剣一の企画書は,,その鬼頭の常識はずれなミスに気づき,,独断で完璧な修正を施したものだった。
剣一は,,自分を虫けらのように扱う会社であっても,,仕事には決して妥協しなかった。。それが,,かつて『営業の神様』と呼ばれた男の最後のプライドだったのだ。
剣一は,,自分の正しさが証明されても,,やはり沈黙を貫いていた。。彼にとっては,,会社を救ったことよりも,,踏みにじられた妻のお守りの方が,,何百倍も重要だった。。コーヒーで汚れた手で,,床に散らばったお守りの残骸を,,丁寧に拾い集めている。
「そ,,そんなバカな!! 」
鬼頭は後ずさりし,,信じられないというように首を振った。
「俺が間違えるはずがない。。そうだ。。これも田中の罠だ。。あいつが,,わざと俺を嵌めるために,,偽の市場データを俺には足したんだ。。絶対にそうだ!! 」
どこまでも責任を転嫁しようとする鬼頭。。その見苦しい姿に,,老紳士は深いため息をついた。
「見苦しい男だ。」
「君の問題は,,これだけではないだろう。」
老紳士の言葉に,,鬼頭が顔を上げる。
「な,,何だ,と。」
「君はこれまで,,優秀な契約社員や若手社員に仕事を丸投げし,,成功すれば全て自分の手柄として上に報告してきた。」
「そして少しでも問題が起きれば,,全て部下の責任にして,,容赦なく首を切ってきた。。違うか? 」
ずぶ濡れの頭が,,激しく引きつった。
「で,,出たらめだ!!
俺は実力でこの営業部長の椅子を勝ち取ったんだ!! 大体,,お前みたいな外部のじじいが,,うちの会社の何を知ってるって言うんだ!! 」
「出たらめかどうかは,,彼らに聞けば分かることだ。」
老紳士は,,周囲で息を潜めている若手社員たちを一瞥した。
若手社員たちは,,びくっと体を竦ませたが,,誰一人として鬼頭を擁護しようとはしなかった。。皆,,鬼頭のパワハラと手柄の横取りに苦しめられてきた被害者なのだ。
彼らの無言の反応自体が,,老紳士の言葉が真実であることを,,何よりも物語っていた。
「くそ。。どいつもこいつも,,俺をコケにしやがって!! 」
鬼頭はぎりっと歯を食い縛り,,再び老紳士に怒りの矛先を向けた。
「おい,,じじい,,さっきから黙って聞いてりゃ,,知ったような口を聞きやがって。」
「社長も社長だ。。なんでこんなホームレスみたいなじじいの言うことを真に受けてるんですか?
目を覚ましてください!! 」
鬼頭は,,自分が完全に追い詰められていることにも気づかず,,己の破滅という名の最大の地雷へ向かって,,全力疾走を続けていた。
「もういい。。俺が直接,,警備員を読んで,,この薄汚いじじいをつまみ出してやる。」
鬼頭がスマートフォンの画面をタップしようとした,,その時だった。
「本当に,,救いのない愚か者だな。」
老紳士が,,静かに,,しかし周囲の空気が一瞬で凍りつくほどの異様な威圧に満ちた声で呟いた。
そして老紳士は,,ゆっくりとスリーピーススーツの胸元から,,1つの身分証を取り出した。
それは,,普通の社員が首から下げているプラスチックのカードとは違った。。純金で縁取られ,,東郷コーポレーションの車掌が,,「東郷」と輝く特別な身分証だった。
それを見た瞬間,,鬼頭の動きがぴたりと止まった。
純金で縁取られた特別な身分証が,,オフィスの冷たい蛍光灯の光を反射し,,そこには東郷グループの紋章が,,高貴に焼き付けられていた。
鬼頭の指先が,,空中でぴたりと止まった。。スマートフォンの画面をタップしようとしていた手が,,小刻みに震え始める。
「な,,なんだ,,その,,おもちゃは? 」
鬼頭の口から,,引きつった声が漏れた。
「百均で買ってきたのか。。そんなプラスチックのおもちゃで,,俺を脅そうってのか。」
強がってはいるものの,,その顔には明らかな動揺が浮かんでいる。
本能が,,目の前の老紳士から発せられる尋常ではない覇気を察知していたのだ。
「おもちゃだと?! 貴様,,目が腐っているのか!!
」
大取社長が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
そして老紳士の横にうやうやしく並び立つと,,フロアの隅々まで響き渡る声で宣言した。
「よく見ろ!! そしてその耳に刻み込め!! 」
「このお方こそ,,我がトグループ全150社を束ねる絶対的トップ,,代表取締役会長,,東郷現一郎様であらせられるぞ!! 」
「え,,会長?
」
フロア中から,,息を飲む音と悲鳴のような声が同時に上がった。
次の瞬間,,ばたばたばたという音を立てて,,若手社員たちが一斉に床に土下座をした。。椅子から転げ落ちるようにして平伏する者もいる。
誰もが,,顔の血の気を失い,,ガクガクと震えていた。
東郷グループにおいて,,東郷会長という名前は,,神にも等しい,,雲の上のさらに上の存在だ。
剣一もまた,,目を見開いて,,両信じられない思いで,,いや,,東郷会長を見つめていた。
「私が今朝,,傘を貸したおじいさんが,,この会社の会長? 」
剣一の頭の中が,,真っ白になる。
しかし剣一は,,声を出さなかった。。踏みにじられ,,汚れてしまった妻のお守りを,,両手で包み込むように握りしめ,,だまって,,信じられない思いで会長の広い背中を見つめていた。
「嘘だ!! 嘘だ!! 」
フロアでただ一人,,土下座もせずに立ち尽くした鬼頭が,,乱心したように叫んだ。
「会長は,,療養のためにハワイの別荘にいるはずだ!!
先週,,親父,,鬼頭専務がそう言っていた!! 」
「こんな,,こんな貧乏臭いスーツを着て,,百均のビニール傘に毛が生えたようなボロ傘を持ってるじじいが,,天下の東郷を,,解釈なわけがない!! 」
鬼頭は,,自分の首の皮一枚をつなぎ止めるかのように,,必死に現実を否定した。
「分かったぞ。。これも田中が仕組んだ罠だ。。どうせ,,その辺りで拾ってきたホームレスのじじいにおもちゃの身分証を持たせて,,役者をやらせてるんだ。」
「底辺が考えるような,,浅知恵だがな。」
どこまでも浅ましく,,そして愚かな侮辱の言葉。
大取社長は,,息を飲み,,絶望的な顔で天を仰いだ。
「こいつは,,もうだめだ。。助からない。」
東郷会長は,,鬼頭の暴言を受けても眉一つ動かさなかった。。ただ静かに,,ゆっくりと口を開いた。
「私の療養が,,予定より早く終わっただけの話だ。」
「今朝,,忍びでこの本社を視察しようと立ち寄ったのだが,,生憎のゲリラ豪雨に見舞われてな。」
「傘を持っていなかった私を,,そこにいる田中君が助けてくれたのだ。」
「我が身が濡れることも顧みずにな。」
会長は振り返り,,コーヒーで背中を汚した剣一に,,深く,,深く頭を下げた。
「あの時は,,本当にありがとう。。君の優しさに,,私は心から救われた。」
「そして,,私の会社の愚か者が,,君の大切なものを踏みにじり,,深い傷を負わせてしまったこと。」
「グループの長として,,心の底から詫びさせてほしい。。申し訳なかった。」
「か,,会長!! 頭をお上げください!!
私のような契約社員に!! 」
剣一が慌てて声を絞り出す。。神のような存在である会長が,,自分のような一契約社員に頭を下げるなど,,あってはならないことだ。
しかし東郷会長は,,ゆっくりと顔を上げると,,慈愛に満ちた目で剣一を見つめた。
「君の本当の実力は,,先ほど大取から聞いた通りだ。」
「大道商事での君の活躍は,,私も高く評価していた。。その時,,君を引き抜けなかったことを,,ずっと悔んでいたのだよ。」
「まさか,,我が社でこんな不遇な扱いを受けているとは,,夢にも思わなかったがね。」
東郷会長の言葉の後半は,,急激に温度を下げ,,絶対零度の冷たさを帯びていた。。その矛先は,,もちろん鬼頭へと向けられていた。
「ひっ。」
鬼頭が後ずさりする。
「だ,,だから偽物だろう!! こんなじじいの言うことなんか!! 」
「君の父親は,,厳選の,,鬼頭茂だったな。」
東郷会長が,,霊圧的な声で切り出した。
「君が,,この若さで営業部長に収まっているのも,,父親の権力とコネクションのおかげだと聞いている。」
「そ,,それがどうした!?
親父は,,専務の最有力の補佐だぞ!! お前みたいな偽物のじじいに,,俺の親父を,,同調できるわけが!! 」
その時だった。
東郷会長のポケットの中で,,低く重厚な電子音が鳴った。
会長は,,ゆっくりとスマートフォンを取り出し,,画面に表示された名前を,,鬼頭に見せつけるようにして,,通話ボタンを押した。
「もしもし。。私だ。」
電話の向こうから,,何か慌てふためくような,,か細い声が,,わずかに漏れ聞こえてくる。
「ああ,,鬼頭専務か。。いや,,今まさに君の自慢の息子と話をしているところだよ。」
東郷会長がそう言った瞬間,,鬼頭の顔色から,,今度こそ完全に血の気が引いたのだった。
「あ,,ああ,,鬼頭専務か。。いや,,今まさに君の自慢の息子と,,話をしているところだよ。」
東郷会長の静かな声が,,凍りついたフロアに響き渡った。
スマートフォンのスピーカー機能がオンにされ,,電話の向こうの音声が,,静寂に包まれた営業部全体に筒抜けになっていた。
「か,,会長!! 本当でいらっしゃいますか!?
ハワイの別荘で療養中だとばかり。。なぜ,,我が輩のいる営業部に? 」
スピーカーから漏れ聞こえてきたのは,,専務の最有力の補佐として社内で権勢を振るっているはずの,,鬼頭専務の,,情けない悲鳴だった。
その声は裏返り,,ガチガチと歯の噛み合わない音が聞こえてきそうなほど震えている。
「親父!! 」
鬼頭の顔から,,見る見るうちに血の気が引いていく。
電話の向こうの声は,,間違いなく自分の父親のものだった。
家でも会社でも,,傲岸不遜で,,他人に頭を下げることなど一度もなかった。。あの父親が,,電話で,,泣き出しそうなほど怯えている。
「お父,,騙されるな!! そいつは,,俺を嵌めるための偽物だ!!
底辺の契約社員が連れてきた,,ホームレスのじじいなんだよ!! 」
鬼頭は必死に電話に向かって叫んだ。。自分の世界がガラガラと崩れ去っていくのを,,必死に食い止めようとするかのように。
「ば,,バカ野郎!! 」
スピーカーから,,鼓膜を破らんばかりの専務の絶叫が飛び出した。
「お,,お前,,今,,なんとおっしゃった!? 」
「ほ,,ホームレスだと!?
貴様,,自分の会社のトップの顔も分からんのか!? 」
「その低く響くお声。。そして私しか知らない専用の直通番号。。間違いなく,,東郷会長その人であらせられるわ!! この大バカ者が!! 」
「今すぐ土下座しろ!!
床に頭を擦りつけて,,会長の靴を舐めてでも詫びしろ!! 」
父親の,,血を吐くような怒号に,,鬼頭の膝が,,がくんと折れた。
「嘘だ,,嘘だ,,嘘だ,,嘘だ。」
目の前にいる,,コーヒーのシミがついた貧乏臭いスーツを着た老人が,,天下の東郷グループの総帥だと? 自分が,,社会のゴミと呼び,,熱湯を浴びせようとした相手が,,ああ。
鬼頭の口から,,光のないような声が漏れる。
滝のような脂汗が全身から吹き出し,,オーダーメイドの高級スーツを内側からじっとりと濡らしていった。
「無様だな。」
息子を怒鳴るのを後に,,東郷会長が冷鉄に言い放った。
「君の息子は,,実に素晴らしい営業部長だよ。。数字の基礎的な計算すらできず,,会社に数十億の損失を出しかけ,,それを優秀な部下のせいにして,,首を切ろうとした。」
「しかも,,部下の病気の妻が作ったお守りを泥で踏みにじり,,私に熱湯を浴びせようとしたのだからな。」
「ひぃっ。」
電話の向こうで,,専務が,,卒倒したかのような奇声を上げた。
「どさっ,,がしゃーん」と,,椅子から転げ落ちて机の上のものを投げ倒したような,,派手な音が響く。
「お,,お父!! 」
「だ,,黙れと言っているんだ!!
ゴミくずが!! 」
再び大取社長が雷を落とした。鬼頭はびくっと体を竦ませ,,ついにその場にへり込んでしまった。
さっきまでフロアの王様気取りで暴れ回っていた男が,,今は哀れな負け犬のように,,床に這いつくばっている。
周囲の若手社員たちは,,土下座の姿勢のまま,,鬼頭の無様な姿を,,冷やかな目で見ていた。。誰も彼を庇おうとはしない。。日頃のパワハラと傲岸不遜の報いを,,今まさに受けているのだ。
剣一は,,そんな鬼頭の姿を見ても,,決して笑うことはなかった。。彼は沈黙したままで,,静かに床から拾い集めたお守りの汚れを,,自分の袖で丁寧に拭き取っていた。
彼にとって,,鬼頭が破滅しようが,,どうしようが,,知ったことではない。。ただ,,妻の思いが込められた,,この小さなお守りだけが,,何よりも大切だった。
「戦友,,私はね,,この東郷コーポレーションを,,人の心を大切にする企業に育てたつもりだった。」
「だが,,君の息子を見ていると,,私の教育が根本から間違っていたのではないかと,,思えてくるよ。」
東郷会長の声には,,深い失望と,,そして,,底光のように深い怒りが込められていた。
「か,,会長,,申し訳ございません!! 全て,,私の教育不足でございます!! 」
「息子の処分はいかようにも。。どうか,,どうか,,私へのご慈悲だけは!!
」
「親父!! 俺を見捨てる気か!! 」
鬼頭が絶望的な声を上げた。
自分を可愛がり,,どんな時も庇ってくれた父親が,,保身のために,,いとも簡単に自分を切り捨てようとしている。
これが,,権力と金だけで繋がっていた,,親子の絆の,,脆さだった。
「見苦しいぞ,,鬼頭。」
東郷会長は,,床に這いつくばる鬼頭を,,氷のような目で見下ろした。
「君は先ほど,,『自分の代わりはいくらでもいる』と田中に言ったな。」
「ならば,,君も覚悟することだ。。君の代わりなど,,この世界には,,吐いて捨てるほどいるのだからな。」
「い,,いや,,やめてくれ!! 俺はエリートだ!!
こんな底辺の契約社員なんかとは違うんだ!! 」
鬼頭は反響乱になりながら,,なおも上がき続けた。
「そ,,そうだ!! 親父!! 父親の力で,,何とかしてくれ!!
親父が,,専務になれば!! 」
鬼頭が最後の希望にすがろうとした,,その時だった。
「務む。」
息子はこう言っているが,,東郷会長は電話口の専務に向かって,,ゆっくりと決定打を投げかけた。
「君たちが進めていた,,あの裏金工作の件,,私がまだ気づいていないとでも思っていたのか。」
その一言が発せられた瞬間,,電話の向こうの専務の,,息の音が完全に停止した。
数秒の不気味な沈黙の後,,スピーカーから聞こえてきたのは,,まるで喉を締め上げられた鳥のような,,かれた悲鳴だった。
「裏,,裏金工作など,,と,,か,,会長,,何かの誤解でございます!! 私と息子は,,会社のために,,身を削って!! 」
「見苦しい嘘を重ねるな。」
会長の一喝が,,フロアの空気をびりびりと振るわせた。
「私が,,重病でハワイで療養していた,,愚か者の目。」
「それは,,貴様らのような,,会社の癌を炙り出すための,,ただの罠だ。」
「この半年間,,私は匿名の内部監査チームを動かし,,貴様らが,,ダミー会社を利用して会社の利益を不正にプールしていた証拠を,,全て洗い出していたのだよ。」
その言葉に,,大取社長すらも,,息を飲んだ。
東郷グループの裏で,,会長自らが,,極秘裏に動いていたのだ。
「そして,,そこにいる君の息子,,鬼頭営業部長。」
「彼が,,現場で水増し発注や架空取引を行い,,裏金作りの実動部隊として動いていたことも,,すでに裏が取れている。」
床に這いつくばっていた鬼頭が,,バネ仕掛けの人形のように顔を上げた。
「ち,,違う!!
俺は,,親父に言われた通りに数字を作って取引先に流していただけで,,裏金なんて知らねえ!! 」
あっさりと自らの罪を暴露し,,父親に責任をなすりつけようとする,,その醜悪な姿に,,周囲の社員たちは露骨に顔をしかめた。
「自分は知らないか。腐り切った男だ。」
東郷会長は深く溜め息をつくと,,静かに視線を剣一に向けた。
「田中君。」
「君が先ほどの企画書で,,鬼頭の指示を無視してまで数字を大きく修正した,,本当の理由は,,これだったのだね。」
その問いかけに,,フロア中の視線が,,一斉に剣一に集まった。
剣一は,,汚れたお守りを大事そうに胸ポケットにしまうと,,ゆっくりと,,しかし強く頷いた。
「はい。」
沈黙を貫いていた剣一が,,落ち着いた声で開いた。
「鬼頭部長から指示された手書きのメモを見た時,,原価計算の項目に,,不自然な,,謎のコンサルタント料とシステム保守費が計上されているのに気づきました。」
「その資金の流れる先を,,個人的に調べたところ,,実態のない幽霊会社であることが判明したのです。」
「な,,なんだと? 」
鬼頭が目を見開く。。ただの底辺だと思っていた男が,,自分の裏の顔を,,完全に把握していたというのか。
「かつて私が大道商事で責任を取ることになった,,横領事件。。その時の手口と,,あまりにも酷似していました。」
剣一の目には,,過去の懊悩と決意,,そして,,二度と同じ過ちを繰り返させないという,,強い意志が宿っていた。
「もし部長の指示通りにこの企画書を通してしまえば,,東郷コーポレーションは裏金づくりに加担したとして,,いずれ社会的信用を完全に失うことになります。」
「だから私は,,リスクを承知で,,不正な経費を全て削り落とし,,純粋に会社の利益となる正しい数字に書き換えたのです。」
「お,,なんということだ。」
大取社長が,,震える両手で顔を覆った。
「君は,,自分が首になるリスクを背負ってまで,,我が社を,,この東郷コーポレーションを,,破滅から救ってくれていたというのか。」
社長の言葉に,,周囲の若手社員たちも,,はっとした。
剣一が,,いつも夜遅くまで残り,,理不尽な指示に黙って耐えていたのは,,ただ無能だからではなかった。
圧倒的な経験と知識で,,この部署の裏側で蠢く不正を監視し,,会社を守るための防波堤になってくれていたのだ。
その真実を知り,,若手社員たちの目から,,ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。。自分たちが,,どれほど偉大な男を見下げていたのか,,今になってようやく気づいたのだ。
「で,,出たらめだ!! 全てを暴いた鬼頭が,,強乱して立ち上がった。」
「こいつが勝手に調べただけだ!!
証拠なんて,,どこにもない!! 俺はエリートだ!! こんな底辺の言葉を,,信じるのか!! 」
しかし東郷会長は,,冷ややかにスマートフォンを持ち上げた。
「証拠なら,,山ほどあると言ったはずだ。」
「務む。。今,,君のオフィスにお客様が到着した頃合だろう。」
「え?
」
電話の向こうの専務が,,間抜けな声を出すのと,,ほぼ同時に,,スピーカーから,,「どかっ」という,,重厚な扉が乱暴に開け放たれる音が響いた。
「な,,なんだ君たちは!? ここは,,専務である私の部屋だぞ!! 」
「東京地検特捜部です。。鬼頭茂容疑者,,特別背任及び業務横領の容疑で,,同行願います。」
「それから,,そちらのダンボールに,,全ての書類を,,押収する。」
「ひ,,やめてくれ!! わ,,私は知らない!!
全部,,息子が勝手にやったことだ!! 」
「がちゃっ」
父親の見苦しい絶叫と共に,,電話は一方的に切断された。
「お,,親父!! 」
鬼頭は,,完全に理解が追いつかない様子で,,空中に電話を持ったまま固まっていた。
最大の後ろ盾であった父親が,,特捜部に連行された。。それはつまり,,共犯者である自分にも,,間もなく捜査の手が伸びるということを意味していた。
「あ,,あ,,あ。」
鬼頭は後ずさりした。。エリートとしてのプライドも,,傲慢な態度も,,全てが崩れ去り,,そこにはただ,,恐怖に怯える哀れな男だけが残された。
「逃げるぞ。」
鬼頭は,,ぼそっとつぶやくと,,突然くるりと背を向け,,オフィスの出口に向かって全力で走り出したのだ。
「待て!! 鬼頭!!
」
大取社長が叫ぶが,,鬼頭は聞く耳を持たない。
「こんな会社,,やめてやる!! 俺は捕まらない!! 絶対に逃げ切ってやる!! 」
鬼頭が自動ドアに手をかけ,,強引にこじ開けようとした。。まさにその瞬間だった。
「親,,どちらへ行かれるおつもりですか?
鬼頭,,元部長。」
自動ドアの向こう側に,,数名の屈強な男たちを引き連れた,,ある人物が立ち塞がっていた。
その顔を見た瞬間,,鬼頭は奇声を上げ,,腰を抜かしてその場にへり込んだのだった。
自動ドアの向こう側に,,立ち塞がっていたのは,,霊圧的な光を宿した眼鏡の奥から鬼頭を射抜く,,一人の男だった。
その背後には,,紺色のスーツに身を包んだ,,いかにも鍛え上げられた体躯を持つ男たちが,,数名,,壁のように控えている。
「あ,,あ,,佐藤!! 」
内部監査室長の,,佐藤。
鬼頭は,,逃げようとした勢いのまま,,ぬかに釘を刺されたように,,狂ったように叫んだ。
佐藤は,,東郷コーポレーションにおいて,,不正を一切許さない,,鉄面皮として恐れられている,,内部監査室のトップだ。
普段は役員フロアに詰め,,滅多に現場には現れない男が,,なぜ今,,ここにいるのか。
「佐藤!! お前,,何の真似だ!? 俺を誰だと思ってる?
親父に言いつけて,,お前なんか首にしてやるぞ!! 」
鬼頭は震える指で佐藤を指差し,,虚勢を張った。。しかしその声は裏返り,,恐怖を隠しきれていない。
「首ですか? それは,,こちらのセリフですよ,,鬼頭さん。」
佐藤は,,表情を一つ変えず,,懐から一通の書類を取り出した。
「たった今,,取締役会において,,あなたの役員解雇が,,正式に決定しました。」
「理由は,,多額の業務上横領,,特別背任,,及び部下への著しいパワーハラスメント。」
「それに,,あなたの後ろ盾だった,,お父上も,,先ほど特捜部に身柄を確保されました。」
「もはや,,あなたを助けるものは,,この会社のどこにも,,いや,,この世界のどこにも,,いません。」
鬼頭の口から,,魂が抜けたような音が漏れた。
役員解雇。
それは,,エリートとして歩んできた彼の人生の死を意味していた。
退職金はゼロ。。再就職も絶望的。。それどころか,,これから待っているのは,,警察の取り調べと,,冷たい留置場の中の生活だ。
「嘘だ,,嘘だ,,嘘だ,,嘘だ!! 」
鬼頭は床を這い,,子供のように泣き叫んだ。
「俺は悪くない!!
全部,,親父と田中が悪いんだ!! あいつが!! あの契約社員が,,俺を嵌めたんだ!! 」
「そうだろう!!
おい佐藤!! お前もグルか!? いくらだ!? いくら積めば,,見逃してくれる!?
」
見苦しくわいろを提案する鬼頭の姿に,,フロア中の社員たちが,,軽蔑の視線を送った。
佐藤は,,そんな鬼頭を無視するように,,静かに視線を,,フロアの中央,,剣一へと向けた。
そして,,それまでの霊圧的な表情を一変させ,,深い敬意を込めて,,一歩踏み出した。
「田中さん。」
「お久しぶりです。。またこうしてお会いできるとは。」
その言葉に,,フロアに衝撃が走った。
「え,,佐藤室長が,,田中さんに,,敬語を使ってる? 」
剣一は,,コーヒーの汚れがついたシャツのまま,,ゆっくりと立ち上がった。
「佐藤君。。いや,,今は内部監査室長だったね。。立派になったな。」
「いえ,,私が今こうしてこの場所にいられるのは,,かつて大道商事で,,田中さんに叩き込んでいただいた教えがあったからです。」
「あの時,,あなたが一人で責任を背負って去られたこと,,私たちは,,一時も忘れたことはありません。」
佐藤の目には,,熱いものが込み上げていた。
実は佐藤は,,かつて大道商事で,,剣一の部下だった男だったのだ。
剣一が去った後,,彼に恩義を感じていた若手たちが,,剣一の潔白を証明するために結束し,,今では業界の各所で活躍している。
東郷コーポレーションの内部監査室長という地位も,,佐藤が,,「いつか,,田中さんのような被害者を救うために」と,,死に物狂いで手に入れたものだった。
「佐藤君たちが,,頑張ってくれていることは,,聞いていたよ。。ありがとう。」
剣一は,,静かに微笑んだ。
その沈黙の中に秘められていた,,孤独な戦いが,,ようやく報われた瞬間だった。
「田中さん。」
「あなたが,,密かに送ってくださった,,鬼頭の不正データの数々,,完璧でした。。おかげで,,特捜部も迷うことなく動くことができた。」
「あなたは,,最後まで『営業の神様』であり,,私たちの指針でした。」
「だ,,だと。」
床に這いつくばっていた鬼頭が,,信じられないものを見るような目で剣一を見た。
「データ,,だと,,お前,,いつの間に。。ただの無能な契約社員のふりをして,,俺たちを,,ずっと監視していたのか。」
「監視など,,していないよ,,鬼頭部長。」
剣一は,,初めて鬼頭の目を,,まっすぐに見据えた。。その瞳には,,怒りも憎しみもなく,,ただ深い慈悲と,,哀れみだけがあった。
「私はただ,,この会社が好きだった。」
「ここで働く若い人たちが,,かつての私のように,,理不尽な思いをするのが,,嫌だった。。それだけだよ。」
「ふざけるな!! ふざけるな!! 」
鬼頭は,,剣一のその聖人のような態度が,,何よりも我慢ならなかった。
自分の悪行が,,自分が最も見下していた底辺によって,,最初から全て手の平で転がされていた。
その屈辱に,,鬼頭の精神は,,ついに限界を超えた。
「お前さえ,,お前さえいなければ!!!
」
鬼頭は狂ったように立ち上がると,,近くのデスクにあった,,重厚なクリスタル製の置き物を掴み取り,,剣一に向かって大きく振りかぶった。
「死ねええええ!!! 」
「危ない!! 」
若手社員たちが悲鳴を上げる。。しかし剣一は,,避けようとしなかった。。ただ,,胸ポケットにある妻のお守りを守るように,,静かに目を閉じた。
「ぐっ。」
鈍い衝撃音が,,フロアに響いた。
しかし,,剣一に痛みは走らなかった。
「そこまでだ。。愚か者よ。」
低く,,しかし絶対的な力を持つ声。
剣一が目を開けると,,そこには東郷会長が,,自らの濡れた傘を杖のように突き出し,,鬼頭の腕を,,完璧に封じ込めていた。
「ひぃっ。」
鬼頭は,,会長の圧倒的な威圧感に気圧され,,クリスタルを床に落とした。
「がしゃーん」と砕け散る音。
それは,,鬼頭の人生が,,粉々に砕け散った音でもあった。
「大取,,佐藤。。この男を連れて行け。。二度と,,私の視界に入れるな。」
会長の霊圧的な命令だった。
佐藤の合図と共に,,控えていた男たちが,,鬼頭の腕を掴み,,無理やり引きずり出していく。
「離せ!! 俺はエリートだ!!
俺は!! 俺は!! 」
鬼頭の断末魔のような叫び声が,,遠ざかっていく。
フロアに残されたのは,,深い静寂と,,窓の外で降り続く雨の音だけだった。
「終わったな。」
大取社長が,,長く,,深い溜め息をついた。
しかし,,東郷会長は,,まだ険しい表情を崩していなかった。
会長は,,ゆっくりと剣一に向き直ると,,周囲の誰もが予想もしなかった,,最大の事実を口にした。
「田中君。」
「君に,,どうしても伝えておかなければならないことがある。」
「君の奥さん,,秋子さんのことだ。」
その言葉に,,剣一の心臓が,,どくんと跳ねた。
「秋子のことですか? 何か,,あったのですか?
」
会長の口から語られようとしているのは,,剣一の人生を,,さらに一変させる,,衝撃の真実だった。
床に散らばったお守りの残骸を握りしめたまま,,剣一は震える声で問い返す。
「秋子のことですか,,会長。。なぜ,,私の妻の名前を? それに,,何かあったというのですか? 」
不安が胸をよぎる。。まさか,,病院から何か連絡があったのでは。。自分が会社で騒動に巻き込まれている間に,,彼女の身に万が一のことが。
剣一の顔から,,血の気が引いていくのを見て,,東郷会長は,,穏やかに,,しかし重みのある口調で首を振った。
「落ち着いて聞きなさい。。悪い知らせではない。,,むしろその逆だ。」
会長は,,窓の外,,少しずつ雲の切れ間から光が差し込み始めた空を見上げた。
「田中君。」
「君が,,秋子さんの高額な治療費を払うために,,昼夜を問わず働き,,この会社でどんな屈辱にも耐えてきたこと,,私は全て知っている。」
「だがね,,君が毎月欠かさず振り込んでいた,,あの莫大な治療費。。あれが,,一体どこへ流れていたか,,考えたことはあるかね? 」
「いえ,,それはもちろん,,秋子が入院している,,中央総合病院。」
「ええ,,その通りだ。。あの病院は,,我がトグループが運営する,,医療法人の中核だ。」
「そしてね,,田中君。。君の妻の主治医である,,山崎教授は,,私の古い友人でもある。」
剣一は,,呆然とした。
自分が必死に稼いだ金を注ぎ込んでいた病院が,,まさかこの会社のグループ企業だったとは。
だが,,驚きはそれだけでは終わらなかった。
「山崎から連絡があった。。秋子さんの病状は,,先週行われた最新の投薬治療によって,,奇跡的な回復を見せている。」
「もはや,,不治の病ではない。。彼女は今,,自分の足で歩けるまでに,,回復しているのだよ。」
「なあ。」
剣一の目から,,堰を切ったように涙が溢れ出した。
「本当ですか!?
秋子が,,歩けるように?? あんなに苦しんでいた,,秋子が!! 」
余りの喜びに,,剣一はその場に崩れ落ちそうになった。。それを大取社長が慌てて支える。
「田中さん!! 良かった。。本当に,,良かった。」
「だが,,驚くのは,,まだ早い。」
東郷会長は,,さらに衝撃的な言葉を続けた。
「君がこれまで払い続けてきた治療費。。総額で,,1億円は下らないだろう。」
「実はね。。その全額が,,すでに君の個人口座へ,,全額返金される手続きが終わっている。」
「いや,,正確に言えば,,最初から1円も,,受け取っていなかったのだよ。」
「ど,,どういうことですか?
」
剣一は,,涙に濡れた顔を上げた。
「田中君。」
「君が,,かつて大道商事で,,部下の罪を被って全てを失った,,あの事件。」
「あの時,,君が守った若手社員の一人に,,私の孫娘の夫がいたのだ。」
フロアに,,再びどよめきが走った。
「君は知らなかっただろうが,,君のあの英断によって,,一人の誠実な若者の人生が救われた。」
「私は,,君という男の誠実さに,,深く感銘を受け,,いつか必ず報いたいと思っていたのだ。」
「だから,,秋子さんが我がグループの病院に入院したと知った時から,,全ての治療費は,,私が個人的に負担させてもらっていたのだよ。」
「つまり,,私が振り込んでいたお金は,,全て『預かり金』として,,積み立てておいた。」
「君が,,どれほどの逆境にあっても,,腐らず,,自分の力で妻を救おうとする。。その背中を,,私は確認したかったのだ。」
「残酷な試練だったかもしれない。。だが君は,,見事に証明してくれた。。君は,,富や名声などよりも,,遥かに尊い,,高潔な魂を持っているということを。」
東郷会長は,,剣一の肩に,,優しく手を置いた。
「田中君。」
「君が積み立ててきた,,そのお金は,,今日から君と秋子さんの,,第二の人生のための資金だ。」
「それから,,もう一つ。」
会長は,,側近が差し出した一通の封筒を,,剣一に手渡した。
「これは,,君の奥さん,,秋子さんからの,,手紙だ。」
「今日,,彼女は退院した。。今,,このビルの下で,,君を待っているよ。」
「秋子が,,ここに? 」
剣一の心臓が,,今日一番の衝撃で跳ねた。
5年。。5年に及ぶ,,暗く長いトンネル。。出口の見えない絶望の中で,,ただ妻の笑顔だけを支えに生きてきた。
その妻が,,今,,すぐ近くにいる。
剣一は,,震える手で,,お守りの残骸を,,胸ポケットにしまい,,会長に深く頭を下げた。
「会長,,ありがとうございます。。本当に,,本当に,,ありがとうございます。」
「行きなさい。。田中君。」
「あ,,そうだ。。一つ,,言い忘れていた。」
剣一が駆け出そうとした時,,東郷会長が,,いたずらっぽく目を細めた。
「君が今朝,,私に貸してくれた,,あの傘。」
「あれは,,私の人生で,,最も価値のある投資になったよ。」
「傘一本で,,私は日本一の営業マンを,,再び手に入れることができたのだからな。」
その言葉の意味を理解した大取社長と,,若手社員たちが,,一斉に拍手を送った。
それは,,屈辱に耐え続けた,,一人の誠実な男が,,再び光輝く舞台へと戻るための,,祝福の拍手だった。
剣一は,,涙を拭い,,力強い足取りで,,エレベーターへと向かった。
彼の背中には,,もはや,,疲れた中高年の影はなかった。
かつて業界を震撼させた,,あの伝説の営業マンの,,堂々たる風格が,,そこにはあった。
――だが,,物語は,,これで終わりではなかった。
剣一が,,一階のロビーで妻と再会を果たそうとした,,その時,,背後から意外な呼び声がかかったのである。
エレベーターの扉が開いた瞬間,,剣一の目に飛び込んできたのは,,窓から差し込む柔らかな午後の光と,,ロビーの中央で静かに佇む,,一人の女性の姿だった。
「秋子。」
その名を呼ぶ剣一の声が,,震えた。
そこに立っていたのは,,かつて病床で青白い顔をしていた妻の面影を残しながらも,,驚くほど艶やかな肌と,,力強い眼差しを取り戻した,,秋子だった。
彼女は,,車椅子に乗っているわけでも,,杖をついているわけでもない。。自分の足でしっかりと大地を踏みしめ,,剣一の方を向いて,,世界で一番優しい微笑みを浮かべていた。
「けんちゃん,,ただいま。」
「あ,,ああ,,秋子!! 」
剣一は駆け寄り,,人目も憚からず,,最愛の妻を,,強く抱きしめた。
5年間,,地獄のような日々だった。。いつ終わるとも知れない病魔,,膨らみ続ける借金,,そして会社での非道な侮辱。
その全てが,,この温もりを感じた瞬間に,,音を立てて溶けていった。
剣一の目から,,堰を切ったように涙が溢れ出す。。それは,,悲しみの涙ではなく,,ようやく辿り着いた,,幸福の雫だった。
「けんちゃん,,ごめんね。。ずっと,,苦労をかけちゃって。」
「会長さんから,,全部聞いたわ。。私のために,,あんなにひどい目に遭いながら,,頑張ってくれてたなんて。」
秋子の細い指が,,剣一の頬を伝う涙を,,優しく拭う。
その時だった。
「離せ!! 離せよ!!
俺を誰だと思ってるんだ!? 」
ロビーの隅で,,屈強な警備員たちに引きずり出されようとしている,,男の絶叫が響いた。
鬼頭だ。
彼は,,もがき,,足をばたつかせ,,抵抗を続けていた。
その時,,ふと抱き合う剣一と秋子の姿が,,彼の視界に入った。
「ああ,,なんだ田中,,お前,,まだそんな女に未練があるのかよ。」
鬼頭は,,自分が破滅した原因が全て剣一にあると思い込み,,最後の悪態として,,剣一の最も大切なものを,,傷つけようと叫んだ。
「おい,,その女!! そいつは,,ただの無能な負け犬だぞ!! お前のせいで人生を棒に振った,,哀れな中高年だ!!
」
「お前みたいな病人がいるから,,こいつは,,いつまでも底辺から抜け出せないんだよ!! 」
その言葉に,,ロビーを通行かかった社員たちが,,一斉に顔をしかめた。
しかし,,秋子は,,ひるむどころか,,剣一の腕の中から,,一歩前へ踏み出し,,鬼頭を,,依然とした目で見据えた。
「あなたが,,鬼頭部長さんですね。」
「ああ,,そうだ。。エリートの俺様に,,そんな死にぞこないの女が!! 」
「主人のことを,,無能と,,仰いましたね。」
「ですが,,私はそうは思いません。。主人は,,私を救うために,,世界で一番誇り高い戦いをしてくれました。」
「自分のプライドよりも,,愛する人を守ることを選んだ。。そんな強さを,,あなたのような方に,,理解して欲しくは,,ありません。」
秋子の声は静かだったが,,そこには,,どんな刃よりも鋭い響きがあった。
「それに,,もう一つ。」
「私は,,『死にぞこない』ではありません。。主人が繋いでくれた命で,,今日,,ここから,,新しい人生を始める女です。」
「主人の隣を歩くにふさわしい,,最高の妻になるつもりですから。」
「さよなら。。かわいそうな方。」
「な,,なんだと!? 」
鬼頭の顔が,,真っ赤に沸騰する。。しかし彼の怒声が響く前に,,背後から霊圧的な声が,,追い打ちをかけた。
「見苦しいぞ。。鬼頭,,元部長。」
現れたのは,,東郷会長と,,大取社長だった。
周囲の社員たちが,,一斉に直立不動の姿勢を取る。
「君は先ほど,,田中君を『負け犬』と呼んだな。」
「だが,,本当の勝負は,,ここからだ。」
東郷会長は,,剣一に向き直ると,,ロビー全体に響き渡る声で宣言した。
「本日付で,,田中健一君が,,トグループ全体の海外戦略顧問,そして来月からは,,東郷コーポレーション専務取締役として,,迎え入れることを,,決定した。」
「えええええ!!
」
ロビーにいた全社員の叫びが,,天井まで突き抜けた。
専務取締役。
それは,,つい先ほど逮捕された,,鬼頭の父親が座っていた,,会社の中枢と言えるポストだ。
契約社員から,,一気に役員へ。。全社未曾有の,,超法規的抜擢人事だった。
「そ,,そんな!! ただの契約社員が,,役員だと!! 嘘だ!! そんなこと,,認められるわけがない!!
」
鬼頭は腰を抜かし,,ガタガタと震えながら叫んだ。
「認めないのは,,君の自由だ。」
「だが,,株主総会を待つまでもない。。私はこの会社の筆頭株主であり,,会長だ。。私の決断に,,異を唱えるものは,,このグループには,,存在しない。」
東郷会長の言葉は,,絶対だった。
「さあ,,連れて行け。。警察が,,外で待っているよ。」
「嫌だ!! 助けてくれ!! 親父!! 田中!!
いや,,田中専務!! 俺が悪かった!! 謝るから,,首だけは,,勘弁してくれ!! 」
鬼頭の無様な断末魔が,,冷たい自動ドアの向こうがわへと,,消えていった。
静まり返ったロビーで,,剣一は,,会長に向かって,,深く頭を下げた。
「会長,,身に余る光栄です。。ですが,,私に,,そんな体が,,勤まるでしょうか?
」
「勤まるとも。」
「君のような,,高潔な魂を持つ男にこそ,,この会社の未来を,,託したいのだ。」
「それに,,君には,,強力な味方が,,ついているだろう。」
会長が視線を送った先には,,微笑む秋子と,,そして,,エレベーターから降りてきた,,数名の若手社員たちがいた。
彼らは,,剣一の前に並ぶと,,申し訳なさそうに,,しかし,,凜々しい表情で,,深ぶかと頭を下げた。
「田中さん。。いえ,,田中専務。。今まで,,本当に申し訳ありませんでした。」
「僕たちの手柄を奪われていた時,,黙って守ってくれていたのが,,田中さんだったなんて。」
「これからは,,田中さんの背中を追いかけて,,全力で働きます。。どうか,,見捨てないでください。」
彼らの瞳には,,かつて剣一が見せた,,誠実さという光が,,宿っていた。
剣一は,,少しだけ照れくさそうに微笑むと,,彼ら一人一人の肩を叩いた。
「見捨てたりなんて,,しないよ。」
「君たちこそ,,これからの東郷コーポレーションを背負って立つ,,宝なんだから。。一緒に,,頑張ろう。」
剣一の言葉に,,若手社員たちは,,涙を浮かべて,,頷いた。
窓の外では,,いつの間にか雨が上がり,,淡い虹が,,ビルとビルの間に,,架かっていた。
どん底の契約社員。。雨の日に一本の傘を貸しただけの,,名もなき男。
その男が,,今,,誰もが羨む要職として,,再び輝き始めたのである。
――しかし,,剣一のスカットは,,まだこれだけでは終わらなかった。
数日後,,彼はある場所を訪れることになる。
これは,,剣一を散々バカにし,,首に追い込んだ,,あの部署,,営業部のフロアだった。
鬼頭が特捜部に連行されてから,,数日が経過した。。椅子を失った東郷コーポレーション営業部のフロアは,,まるで嵐が過ぎ去った後のような,,奇妙で居心地の悪い静寂に包まれていた。
「これから,,どうなるんですかね。」
「鬼頭部長の派閥だった奴らは,,全員調査対象だって噂だぞ。」
若手社員たちが小声で囁き合う中,,デスクでガタガタと震えながら,,必死にパソコンに向かっている男がいた。
副部長の,,佐々木だ。
彼は,,鬼頭の腰巾着として,,剣一に対して,,誰よりも激しい侮辱を繰り返してきた男だった。
鬼頭が剣一の企画書を踏みにじった時,,隣でヘラヘラと笑いながら「本当迷惑ですよね」と同調していたのも,,この佐々木だ。
「くそ。。俺は,,ただ部長の機嫌を取っていただけだ。。裏金のことなんて,,何も知らない。」
「あんな底辺の契約社員を,,少しいじめたくらいで,,首になるはずがない。」
佐々木は,,自分に言い聞かせるように,,猛烈な勢いでキーボードを叩く。。だが,,その指先は,,恐怖で,,思うように動かない。
その時だった。
「ウィーン」
フロアの自動ドアが,,開いた。普段なら,,誰も気に留めない音だ。。が,,その直後に響いた,,足音の重みに,,その場にいた全員の背筋が,,凍りついた。
「コツ,,コツ,,コツ」
一点の澱みもない,,高級な革靴が奏でる,,規則正しい音。
社員たちが,,恐る恐る入り口に目を向けると,,そこには,,信じられない光景が広がっていた。
「え,,な,,田中さん? 」
そこに立っていたのは,,数日前まで,,コーヒーのシミがついたボロボロの礼服シャツを着て,,床を這いつくばっていたはずの,,田中剣一だった。
だが,,今の彼は,,全くの別人だった。
体に完璧にフィットした,,チャコールグレーのスリーピーススーツ,,イタリア製のネクタイが,,控えめながらも,,確かな気品を放ち,,その表情には,,長年の屈辱を乗り越えた者だけが持つ,,圧倒的な凄味と威厳が宿っていた。
剣一の隣には,,大取社長,そして内部監査室長の佐藤が,,まるで文官のように控えている。
「た,,田中さん。。いや,,田中専務!! 」
真っ先に立ち上がったのは,,剣一の正体を知って涙を流した,,若手社員たちだった。。彼らは深い敬意を込め,,フロアの中央で,,一斉に頭を下げた。
剣一は,,優しく微笑み,,彼らに小さく頷くと,,真っすぐ,,ある男のデスクへと,,歩みを進めた。
副部長,,佐々木。
彼は,,椅子から転げ落ちばかりに驚き,,腰を浮かせたまま,,口をぱくぱくとさせて,,固まっていた。
「佐々木君,,久しぶりだね。」
剣一の声は,,驚くほど穏やかだった。
「ひ,,あ,,あ,,田中。。いや,,田中専務!! お,,おめでとうございます!!
」
「私は,,私は最初から,,田中さんの実力を見抜いていましたよ!! 」
「あ,,あの時は,,ほら,,鬼頭の野郎が怖くて,,仕方なく同調していただけで。」
佐々木は,,手のひらを返したように,,跪くような笑みを浮かべて,,すり寄ってきた。。その姿は,,あまりにも下卑で,,あまりにも浅ましかった。
「そうか。。君は,,私の実力を見抜いていたのか。」
剣一は,,佐々木が差し出した手を握ることもなく,,静かに,,デスクの上に置かれた,,一枚の書類を見つめた。
それは,,佐々木が今まさに作成していた,,四半期の営業計画書だった。
「相変わらずだね,,佐々木君。」
「この数字,,以前私が修正したはずの,,不正な経費が,,巧妙に名前を変えて,,再び計上されている。」
「君も,,鬼頭君と同じ,,甘い蜜を吸っていたわけだな。」
「そ,,それは,,その。」
佐々木の顔から,,一気に血の気が引いた。
「大取,,佐藤君。」
剣一が振り返ると,,二人は一歩前へ出た。
「佐々木副部長,,及び,,ここに名前のある係長以上の5名。」
「君たちは,,鬼頭元部長による不正を黙認し,,自らも私服を肥やしていた証拠が,,すでに内部監査によって,,固められている。」
「そ,,そんな!! 助けてください!! 俺には,,住宅ローンがあるんです!!
子供も受験で!! 」
佐々木が,,剣一の足元に,,すがりつこうとした。
しかし,,剣一は,,その手を,,静かに,,しかし断固として,,振り払った。
数日前,,自分がこのフロアでコーヒーを浴びせられ,,妻のお守りを踏みにじられた時,,佐々木は何と言ったか? 「お前みたいなゴミ,,明日から来なくていいんだよ。」
「お前の代わりなんて,,野良犬より安い。」
その言葉を,,剣一は,,決して忘れてはいなかった。
「佐々木君。」
「君は,,以前,,私に言ったね。。『お前の代わりはいくらでもいる』と。」
剣一の瞳が,,絶対零度の冷たさを帯びた。
「その言葉,,そのまま君にお返ししよう。」
「君のような,,会社の資産を食い潰し,,部下を傷つけることしかできない,,人間の代わりは,,この世界に,,吐いて捨てるほどいる。」
「いや,,そもそも,,君のような人間は,,我が社には,,必要ない。」
「ああ!! 」
「本日付けで,,君たち6名には,,自宅待機を命じる。。まもなく,,懲罰委員会から,,正式な通達が行くはずだ。」
「荷物をまとめて,,今すぐ,,このフロアから出て行きたまえ。」
「嫌だ!!
そんな!! 俺はエリートなんだ!! 俺は!! 俺は!!
」
佐々木たちの絶叫がフロアに響く中,,警備員たちが現れ,,彼らを,,無理やり連れ出していった。
その光景を見ていた,,若手社員たちの間に,,大きな拍手が湧き起こった。
それは,,長年の間,,部署を支配していた,,悪が,,完全に取り除かれた,,瞬間だった。
剣一は,,フロア全体を見渡し,,晴れやかな表情で,,口を開いた。
「皆さん。」
「私は,,この会社を,,世界で一番,,働く人が誇りを持てる場所に,,したいと考えています。」
「学歴や年齢,,雇用形態なんて,,関係ない。。誠実な仕事が,,正当に評価される。」
「そんな,,当たり前のことを,,私はこの会社で,,実現させたい。」
剣一の言葉は,,社員一人一人の心に,,沁み渡っていった。
雨降って地固まる。
冷たい雨の日に,,一本の傘を貸したことから,,始まった,,奇跡のような物語。
そのスカットの頂点は,,剣一の温かな微笑みとともに,,最高の形で,,幕を閉じた。
――だが,,剣一には,,最後に,,どうしても行かなければならない場所があった。
それは,,かつて自分が契約社員として,,毎日通っていた,,あの駅前の交差点。
そこには,,剣一を待っている,,もう一人の人物がいたのである。
数日後,,東郷コーポレーションの専務取締役に就任した剣一は,,慌ただしい引き継ぎと会議の合間を縫って,,ある場所へと,,足を運んでいた。
ここは,,あの運命の朝,,土砂降りの雨の中で,,一人の老紳士に傘を貸した,,駅前の交差点だった。
あの日は,,灰色の雲が垂れ込め,,視界を遮るほどの雨が降っていたが,,今日の空は,,見事なまでの日本晴れだった。
抜けるような青空の下,,街路樹の緑が陽光に輝き,,行き交う人々も,,どこか晴れやかな表情をしている。
剣一は,,誂えられたスーツの襟を正し,,一本の黒い傘を,,大切そうに抱えて,,立ち止まった。
ふと見上げると,,そこには東郷コーポレーションの,,巨大な本社ビルが,,そびえ立っている。
数日前まで,,自分は,,あの中の一角で,,「ゴミ」や「底辺」と呼ばれ,,泥で大切なものを踏みにじられていたのだ。
そう思うと,,今でも胸の奥が,,少しだけ痛む。。でも,,もう大丈夫だ。
剣一は,,胸ポケットを,,そっと押さえた。
そこには,,秋子が入院先で一針一針縫ってくれた,,あの,,お守りが入っている。
東郷会長の手によって修復され,,汚れ一つなくなったお守りは,,今では,,剣一の人生を支える,,最大の守護神となっていた。
「田中君,,待たせたね。」
背後から,,穏やかで,,深みのある声がかかった。
振り返ると,,そこには,,東郷会長が立っていた。
今日は,,重厚なスリーピースではなく,,柔らかな素材のポロシャツにパンツ,,という,,実に軽やかな普段着だった。
その手には,,やはり,,一本の傘,,剣一が貸した,,あの黒い傘が,,握られている。
「会長。。いや,,東郷さん。。お呼び立てして,,申し訳ありません。」
剣一は,,深く頭を下げた。
「いいんだよ。。ここが,,私たちの,,始まりの場所だからな。」
東郷会長は,,目を細め,,人込みの中を一人の老人として歩いていた,,あの日の自分を,,懐かしむように笑った。
「田中君に,,返さなければならないものが,,あったが。」
会長は,,手に持っていた,,黒い傘を,,剣一へと,,差し出した。
「この傘のおかげで,,私は風邪を引かずに済んだ。」
「それどころか,,人生で一番,,温かな気持ちになれたよ。。ありがとう。」
「いいえ。。私の方こそ,,ありがとうございます。」
「この傘一本が,,私の,,そして妻の命を,,救ってくれました。」
剣一は,,両手で,,うやうやしく,,傘を受け取った。
使い古されたその傘は,,少しだけ,,重くなったように感じられた。。それはきっと,,この数日間で起きた,,多くの奇跡の重みだろう。
「田中君,,専務としての仕事は,,どうかな? 」
「営業部の若手たちが,,君の下で,,生き生きと働いていると,,聞いているよ。」
「はい。。彼らは,,本当に優秀です。。今まで,,鬼頭たちの影に隠れて,,目が出なかっただけなんです。」
「私は,,ただ,,彼らが,,自分を信じて働ける場所を,,作っているだけですよ。」
剣一は,,控えめに答えたが,,その瞳には,,リーダーとしての,,強い決意が,,宿っていた。
「それでいい。」
「人は,,自分を信じてくれる人が,,一人いるだけで,,どこまでも強くなれる。。君が,,そうであったようにな。」
東郷会長は,,剣一の肩を,,ぽんと叩くと,,少し,,真剣な表情になって,,付け加えた。
「君の奥さん,,秋子さんとは,,その後,,どうかな。」
「はい。。おかげ様で,,毎日リハビリに励んでいます。。今朝も,,『けんちゃん,,お仕事頑張ってね』と,,笑顔で見送ってくれました。」
「もうすぐ,,二人で旅行にでも行こうと,,話しているんです。」
「それは素晴らしい。。失われた年月分を,,これから,,たっぷりと,,埋め合わせなさい。。会社の方は,,大取に任せておけばいい。」
会長は,,豪快に笑うと,,再び空を仰いだ。
「田中君。」
「私はね,,この年になってようやく,,分かったことがある。」
「ビジネスの世界は数字が全てだという者がいる。。だが,,それは間違いだ。」
「最後に,,人を動かし,,会社を,,そして世界を救うのは,,数字ではない。」
「君が,,雨の日に見せたような,,見返りを求めない,,優しさなのだよ。」
「優しさ,,ですか。」
「そうだ。。冷たい雨に打たれている人に,,そっと傘を差し出す。。そんな当たり前のことが,,今の世の中では,,一番難しい。」
「君は,,その難しさを,,意図も簡単にやってのけた。。私は,,そんな君を,,誇りに思うよ,,田中専務。」
東郷会長の温かな言葉が,,剣一の心に,,沁み渡っていった。
これまでの5年間,,どれほど多くの人に石を投げられ,,冷たい言葉を浴びせられてきただろう。
だが,,その全ては,,この瞬間のためにあったのだと,,剣一は確信した。
「ありがとう,,ございます。」
「私は,,この傘を,,一生の宝物にします。」
「そしていつか,,私も,,誰かの雨の日に,,傘を差し出せるような,,そんな人間であり続けたいと,,思います。」
剣一の言葉に,,東郷会長は,,満足げに頷くと,,人込みの中へと,,ゆっくりと歩き去っていった。
その背中は,,もはや,,孤独な老人のものではなかった。。多くの社員と,,そして一人の誠実な部下に愛される,,偉大な先達だった。
剣一は,,受け取った,,黒い傘を抱え,,もう一度,,本社ビルを見上げた。
そこには,,かつての自分と同じように,,何かに悩み,,立ち止まっている,,若者たちの姿が見えた。
「これからは,,私が,,君たちの傘になろう。」
剣一は,,心の中でそう誓い,,力強い足取りで,,歩き出した。
――その日の夕方,,仕事を終えた剣一が,,自宅のドアを開けると,,そこには,,エプロン姿で,,キッチンに立つ,,秋子の姿があった。
味噌汁の香りが漂う,,平穏無事な日常。。かつては,,ただの夢でしかなかった光景が,,今は,,目の前にある。
「お帰りなさい,,けんちゃん。。今日も,,いいお仕事できた? 」
秋子が,,最高の笑顔で,,剣一を迎える。
「ああ,,最高の仕事が,,できたよ。」
剣一は,,秋子の肩を抱き寄せ,,窓の外を見た。
夕焼けに染まる町並は,,どこまでも美しく,,希望に満ち溢れていた。
冷たい雨の日は,,必ず終わる。。そして,,その後にかかる虹は,,何よりも美しい。
一人の契約社員が起こした,,小さな奇跡は,,これからも,,東郷コーポレーションという,,大きな木の中で,,温かな実を結び続けていくことだろう。


