あの日、孫の大機が無邪気に笑いながら言ったんだ。「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって。」リビングで遊んでいた私は、その瞬間、言葉を失った。毎月15万円、3年間欠かさず援助してきたお金。それは息子夫婦の生活費の足しのはずだった。でも、家計簿に書かれていたのは「両親との同居準備費用…

あの日、孫の大機が無邪気に笑いながら言ったんだ。「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって。」リビングで遊んでいた私は、その瞬間、言葉を失った。毎月15万円、3年間欠かさず援助してきたお金。それは息子夫婦の生活費の足しのはずだった。でも、家計簿に書かれていたのは「両親との同居準備費用...

「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって。楽しみだね、おばあちゃん。」

孫の大機が無邪気に笑いながら言った言葉に、私の手が止まった。

息子夫婦の新居を訪れた穏やかな午後のことだった。リビングで大機と遊んでいた私は、その一言の意味がすぐには理解できなかった。

「大きちゃん、それってどういうこと? 」私が優しく訪ねると、大機は嬉しそうに続ける。

「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって。」

その瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じた。台所から慌てて出てきた嫁のリカさんの顔は、明らかに焦っていた。

「余計なことを言わないで! 」

リカさんの慌てた様子を見て、私の胸に冷たいものが広がっていく。まさか、私が毎月援助している15万円は、リカさんのご両親との同居費用に使われていたのだろうか? 息子の新太郎が気まずそうに視線をそらす姿を見た時、私は全てを理解してしまった。

私は長谷川ユキ、65歳。夫のアキラと2人で穏やかな日々を送ってきた。病院の受付として30年間働き続け、コツコツと貯めたお金は、全て息子のために使ってきた。新太郎の教育費だけで850万円。大学まで全て私たちが出した。結婚式には200万円、新居の頭金として300万円。そして今も毎月15万円を援助し続けている。3年間で540万円になる。

「生活費の足しにしてね。」

そう言って渡してきたお金が、リカさんのご両親のために使われていたなんて。

孫の大機は本当に可愛い子だ。でも会えるのは月に1度だけ。リカさんのご両親は毎週のように息子の家を訪れているのに、私たちは「お母さんは忙しいから」と遠ざけられてきた。

夫のアキラが静かに言う。

「ユキ、無理しなくていいんだぞ。」

でも私は、息子夫婦の幸せが自分の幸せだと信じていた。それなのに、この仕打ち。胸が締めつけられるような思いが、じわりと広がっていく。

その日の夜、私は一睡もできなかった。大機の言葉が頭の中で何度も繰り返される。

翌週、私は決意して息子の家を訪れることにした。

「お母さん、今日はどうされたんですか?

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リカさんの声には、明らかに迷惑そうな響きがあった。約束なしで来たことへの非難が、その表情から伝わってくる。

「少しお話があって。新太郎はいるかしら? 」

リビングに通された私の目に、テーブルの上に置かれた家計簿が飛び込んできた。リカさんが慌てて隠そうとしたが、一瞬見えた数字に心臓が凍りつく。

「両親との同居準備費用 月8万円。」

そう書かれていた。

新太郎が仕事から帰ってきて、私は静かに尋ねた。

「私が援助しているお金、何に使っているの? 」

息子は一瞬目を泳がせる。

「生活費だよ、母さん。言ってただろう。」

「リカさんのご両親との同居費用には使っていないの? 」

その言葉に2人の顔色が変わった。リカさんが先に口を開く。

「お母さん、それは生活費の一部ですから。」

「一部?

毎月15万円も援助しているのに、それを義理のご両親のために? 」

私の声が震えていた。怒りではなく、悲しみで震えているのだ。

新太郎が言い訳を始める。

「母さんは1人だし、遠慮できるだろう。理香の両親は色々教えてくれるから、同居した方が助かるんだ。」

「私たち夫婦は、私たちとの同居は考えなかったの? 」

新太郎が言葉を濁した瞬間、リカさんが冷たく言い放った。

「正直に言えばいいじゃない。お母さんとは価値観が合わないんです。」

その言葉が、胸に鋭く刺さる。

数日後、私はもう一度息子の家を訪れた。夕方、窓から聞こえてくる会話に私の足が止まる。

「お母さんは遠いし、正直面倒なのよね。」

リカさんの声だ。

「そうよね。でもお金は出させればいいのよ。うちは同居して孫の教育もできるし、一石二鳥じゃない。」

返事をしたのは、リカさんのお母様だった。義母と呼ぶべき方の声に、私の手が震える。

「新太郎も、私の両親の方が話しやすいって言ってますし、お母さんは正直時代遅れなところがあって。」

笑い声が聞こえてきた。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

玄関のチャイムを鳴らすと、リカさんが驚いた顔で出てきた。

「お母さん、いつから? 」

「今来たところよ。」

嘘をついた。でも、真実を知った今、まだ心の準備ができていなかったのだ。

その夜、新太郎から電話がかかってきた。

「母さん、来月の援助の件なんだけど、義父の誕生日も近いから、できれば10万円にしてもらえないかな。」

私は、拳を握る手に力を込める。

「新太郎、私、聞きたいことがあるの。私はあなたたちにとって、何なの?

「何って? 母さんだろう? 何を言ってるんだ? 」

「本当に母親として見てくれているの?

それとも…。」

言葉が続かない。息子の返事を待ったが、沈黙が流れるだけだった。

「母さん、変なこと考えないでよ。俺たちは感謝してるって。」

その言葉が、どれほど空疎に聞こえたことだろう。

翌日、私が偶然通りかかった喫茶店で、リカさんとそのお母様が話しているのを見かけた。窓際の席で2人は楽しそうに笑っている。

「お母さんには、援助だけしてもらえばいいのよ。」

義母の声が、開いた窓から聞こえてくる。

「そうですね。同居なんてとんでもない。価値観が違いすぎますもの。」

リカさんが頷きながら答えた。

「お金は便利だけど、人は必要ないってことよね。」

2人の笑い声が、町の喧噪に溶けていく。私はその場から静かに立ち去った。涙は出なかった。ただ、心の中で何かが音を立てて壊れていく感覚だけが、確かにあった。

家に帰ると、夫のアキラが心配そうに私を見つめていた。

「ユキ、顔色が悪いぞ。何かあったのか? 」

私は全てを話した。大機の言葉から始まり、家計簿で見た数字、盗み聞きした会話、そして喫茶店で耳にした残酷な言葉まで、全てだ。

アキラの顔が見る見るうちに曇っていく。

「そんな。息子がそこまで…。」

「私たちは、利用されていただけなのよ。」

言葉にすると、現実がより鮮明になっていく。30年間必死に働いて貯めたお金。それは息子の幸せのためだと信じていたのに、実際には義理の両親を養うために使われていた。

その夜、新太郎からメールが届いた。

「母さん、来月の援助よろしくね。あと義父母の誕生日も頼むよ。できれば3万円くらいで。」

画面を見つめながら、私の中で何かがはっきりと音を立てて切れていく。

「アキラ、私、もう許せない。」

夫が静かに頷いた。

「ユキ、俺たちの老後はどうするんだ? このまま息子に援助を続けていたら、俺たちの貯金はなくなってしまう。」

その言葉に、私ははっとした。そうです。私たちにも老後があるのだ。病院のパートを続けてきたが、体力的にもそろそろ限界だ。これから先、医療費も介護費用も必要になるかもしれない。なのに、息子は私たちの将来を考えてくれているだろうか? 「遺言を書き換えます。」

私が言うと、アキラが驚いた顔で私を見た。

「ユキ…

。」

「え、このままでは、私たちが亡くなった後も、息子は当然のように遺産を受け取るでしょう。でも、もうそれは許せない。」

アキラは長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。

「そうだな。息子には厳しいかもしれないが、これは必要な教訓だ。」

翌朝、私は弁護士事務所に電話をかけた。昔病院で知り合った患者さんのご主人が弁護士で、信頼できる方だと聞いていたのだ。

「田村が法律事務所です。」

「あの、遺言書の作成について相談したいのですが。」

その日の午後、私たち夫婦は田村弁護士の事務所を訪れていた。白髪の穏やかな表情の先生が、私たちの話を丁寧に聞いてくださる。

「なるほど。長谷川さん、これは明らかな経済的虐待のケースですね。」

田村先生の言葉に、私は目を見開いた。

「経済的虐待ですか? 」

「え、親御さんから金銭を取し、本人の意思に反して使用する。これは立派な虐待行為です。」

その言葉で、私の中のモヤモヤが晴れていくように感じた。私が感じていた違和感は、間違っていなかったのだ。

田村先生は、遺言書の書き方について詳しく説明してくださった。

「息子さんへの相続を完全に無効にすることはできません。法律で守られた遺留分というものがあります。しかし、それを最低限に抑えることは可能です。」

「最低限とは? 」

「全財産の8分の1程度です。長谷川さんの場合、総資産が約2800万円とのことですから、息子さんへは約350万円。残りの2450万円は、ご主人様や慈善団体に遺贈することができます。」

私はアキラの顔を見た。夫も真剣な表情で頷いている。

「それでお願いします。」

決意が、言葉となって口から出ていく。

「ただし、公正証書遺言にすることをお勧めします。自筆証書遺言では、息子さんに破棄されたり、偽造を主張されたりする可能性があります。公証役場で作成する公正証書なら、法的に最も強い効力を持ちます。」

「わかりました。それでお願いします。」

事務所を出る時、私の心は不思議なほど軽くなっていた。罪悪感はない。これは復讐ではなく、自分たちの人生を守るための正当な権利なのだと、ようやく理解できたのだ。

その夜、私は1人で書斎に座り、これまでの援助の記録を整理し始めた。通帳のコピー、振り込み明細、息子からの要求のメール、全てを時系列に並べていく。

教育費用850万円、結婚式200万円、新居の頭金300万円、月々の援助15万円×36ヶ月で540万円、合計1890万円。これだけのお金を注ぎ込んできたのだ。

それなのに、私たちは「面倒」「時代遅れ」と言われ、お金だけ出せばいいと言われてきた。

アキラが部屋に入ってきて、私の肩にそっと手を置く。

「ユキ、後悔はしていないか? 」

「え、もう迷いはないわ。」

私は夫の手を握り返した。

「これは私たちの人生を取り戻すためなのよ。」

「息子のためではなく、私たち自身のために生きる。それがこれからの私たちの選択なの。」

アキラが優しく微笑む。

「そうだな。俺たちにも幸せになる権利がある。」

翌週、私は銀行に向かった。自動振り込みの停止手続きをするためだ。

窓口で手続きをしながら、不思議と心は穏やかだった。

「毎月15万円の自動振り込みを、今月分から停止してください。」

係員の方が確認する。

「本当によろしいですか?

1度停止されますと、再開には手続きが必要になりますが。」

「はい、もう2度と再開することはありません。」

その言葉に、自分でも驚くほどの確信があった。

銀行を出た私は、次に保険会社へ向かう。生命保険の受け取り人変更だ。現在は新太郎が受け取り人になっているが、これをアキラに変更する。

全ての手続きを終えた時、空が夕焼けに染まっていた。オレンジ色の光が町を優しく包み込んでいる。私は、新しい銀生の第一歩を踏み出したのだと感じていた。

それから1週間後、私たち夫婦は公証役場を訪れていた。重厚な建物の中は静寂に包まれ、これから行うことの重大さを感じさせる。

「長谷川ユキ様、長谷川アキラ様、こちらへどうぞ。」

公証人の先生が、私たちを個室に案内してくださった。田村弁護士も同席し、厳粛な雰囲気の中で手続きが始まる。

「それでは、遺言の内容を確認させていただきます。」

公証人の先生が、ゆっくりと読み上げていく。

「遺言者長谷川ユキは、次の通り遺言する。第1条、遺言者の有する全財産のうち、長男長谷川慎太郎に相続させる財産は、法定の遺留分に相当する金額のみとする。」

その言葉を聞きながら、私の心に迷いはなかった。

「第2条、遺留分を除く残りの財産は、夫長谷川アキラに相続させ、残り2分を社会福祉法人に寄付する。」

アキラが隣で、私の手をそっと握ってくれる。その温かさが、私の決意を支えてくれた。

「長谷川さん、この内容で間違いございませんか? 」

「はい、間違いありません。」

私ははっきりとした声で答えた。

「それでは、証人の方々にもご確認いただきます。」

2人の証人の方が内容を確認し、署名していく。そして最後に、私が署名と押印をする番が来た。

ペンを持つ手が、わずかに震える。でも、それは恐れからではなかった。長い間背負ってきた重荷から、ようやく解放される瞬間だったのだ。署名を終えた私は、深く息を吸い込んだ。

「これで、公正証書遺言の作成は完了です。原本は公証役場で保管し、正本と謄本をお渡しします。」

公証人の先生から、温かい封筒を受け取る。この中に、私の最後の意思が記されているのだ。田村弁護士が、優しく声をかけてくださった。

「長谷川さん、よく決断されましたね。これで、息子さんが遺言を破棄したり改ざんしたりすることは不可能です。」

「ありがとうございます。」

公証役場を出ると、秋の風が頬を撫でていく。空は高く、雲1つない青空が広がっていた。

その帰り道、私たちは市役所に立ち寄った。もう1つ、やっておかなければならないことがあったのだ。

「住民票の閲覧制限の申請をしたいのですが。」

窓口の職員の方が、書類を用意してくださる。

「ご家族からのDV等の被害を受けておられるのですか? 」

「経済的虐待を受けています。」

私がそう答えると、職員の方は理解のある表情で頷いてくださった。

「承知いたしました。こちらの書類にご記入ください。」

この手続きをしておけば、息子が私たちの住所を役所で調べることはできなくなる。将来もし私たちが引っ越したとしても、居場所を知られることはない。

全ての手続きを終えて帰宅すると、新太郎からのメッセージが届いていた。

「母さん、今月の援助まだだけど、忘れてない? 早めに振り込んでくれると助かるんだけど。」

その文面には、感謝の言葉も気遣いの言葉も一切なかった。ただ、お金を要求するだけのメッセージだ。私は返信しなかった。今はまだ、その時ではないのだ。

夕食の後、アキラと2人でリビングに座り、これからのことを話し合った。

「ユキ、援助やめたら、息子はすぐに気づくだろうな。」

「え、来月の初めには連絡が来るでしょうね。」

「その時、どう対応する?

私は少し考えてから答えた。

「事実だけを伝えます。援助は停止した。2度と再開しない。それだけよ。」

アキラが心配そうに私を見つめる。

「息子はきっと怒るぞ。」

「構いません。もう息子の顔色を伺って生きるのは、終わりにしたいの。」

その言葉に、アキラが静かに微笑んだ。

「そうだな。俺たちも、自分たちの人生を楽しまないとな。」

翌日、私は久しぶりに友人のヨシコさんに電話をかけた。ヨシコさんは、私の数少ない親友だ。長年の付き合いで、何でも話せる相手だった。

「ユキさん、久しぶりね。どうしたの? 」

「ヨシコさん、実は相談があって。」

私はこれまでの経緯を全て話した。ヨシコさんは黙って聞いてくれて、最後にこう言ってくださった。

「ユキさん、あなたは正しい選択をしたわ。親だって、自分の人生を大切にしていいのよ。」

その言葉に、涙がこぼれそうになった。

「ありがとう。ヨシコさん、これからは、私たちも一緒に楽しみましょう。来週、陶芸教室に誘ってもいい? 」

「え、是非。」

電話を切った後、私は窓の外を見つめる。庭の金木犀が、小さな花をつけ始めていた。甘い香りが、開けた窓から流れ込んでくる。

秋は終わりの季節であると同時に、新しい始まりの季節なのだと、ふと思った。私の中で何かが終わり、そして何かが始まろうとしている。書斎の机の引き出しには、公正証書の謄本が大切にしまわれている。それは、私たちの新しい銀生への確かな一歩なのであった。

アキラが台所からお茶を運んできて、隣に座る。

「ユキ、少し不安か? 」

「いいえ、不思議と心は穏やかなの。」

2人で温かいお茶を飲みながら、これからの人生について語り合った。旅行に行きたい場所、初めて見たい趣味、会いたい友人たち。息子のことばかり考えていた日々から、ようやく解放されたのだと実感する。

全ての準備が整った。あとは、来月を待つだけだ。

月が変わって3日目の朝、予想通り新太郎から電話がかかってきた。時刻は午前8時、私がまだ朝食の準備をしている時間だ。

「母さん、今月の援助が振り込まれてないんだけど。」

開口1番、どなるような声が聞こえてくる。挨拶も、体調を気遣う言葉もない。

「あ、それは停止させていただきましたので。」

私は驚くほど冷静に答えることができた。

「え、何言ってるの?

困るよ、そんなの。」

「義理のご両親との同居費用は、ご自分でお支払いください。」

電話の向こうで、新太郎が言葉に詰まる気配が伝わってくる。

「な、何のこと? 」

「大機ちゃんから聞きましたよ。「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって」って。」

沈黙が流れた。長い、重い沈黙だ。

「母さん、それは… 。」

「私が援助しているお金を、義理のご両親のために使っていたこと、全て知っていますよ。」

「違う。そんなんじゃ。」

「家計簿も見ました。「両親との同居準備費用 月8万円」と書いてありましたね。」

新太郎の呼吸が荒くなるのが聞こえる。

「それに、リカさんとそのお母様の会話も聞いてしまいました。喫茶店で、とても楽しそうにお話しされていましたね。」

「母さん、盗み聞きしたのか? 」

「偶然です。でも、おかげで真実が分かりました。「お金は便利だけど、人は必要ない」そうおっしゃっていましたね。」

電話の向こうで、何かが倒れる音がした。

「母さん、待ってくれ!

説明させて! 」

「説明は結構です。援助は今月から完全に停止します。2度と再開することはありません。」

「そんな、母さん、俺たちどうすればいいんだよ。」

初めて、息子の声に焦りが混じる。でも、私の心はもう動かなかった。

「それは、あなた方で考えてください。私はもう関係ありません。」

電話を切ると、アキラが心配そうに見ていた。

「大丈夫か? 」

「え、不思議なくらい心は平静よ。」

その日の午後、今度はリカさんから電話がかかってきた。

「お母さん、どうか考え直してください。」

声は、泣いているように震えている。

「何を考え直すのですか? 」

「援助のことです!

お願いします! 私たちには必要なんです! 」

「義理のご両親と同居されるなら、そちらに援助していただけばよろしいのでは? 」

「それは、私の両親にはお金がなくて…

。」

「そうですか? では、ご自分たちで何とかするしかありませんね。」

「お母さん! 」

リカさんの声が、悲鳴のように高くなる。

「私のことを「面倒」「時代遅れ」とおっしゃっていましたよね。そんな人間からの援助など、受け取りたくないでしょう? 」

「それは、あの時は本音だったのでしょう。」

「構いません。正直でよろしいと思います。」

「ですから、私も正直に申し上げます。もう援助はしません。」

電話を切った後、携帯電話が何度も鳴り続けたが、私は一切出なかった。

1週間後、息子夫婦が直接、家を尋ねてきた。インターホン越しに見える2人の顔は、やつれているように見える。

ドアを開けると、新太郎が頭を下げた。

「母さん…

。かむ。援助を再開してくれ。」

「お断りします。」

「お母さん! 」

リカさんも涙を流しながら訴えかけてくる。

「お母さん、お願いします! 私が悪かったです! 謝ります!

「謝罪は受け入れます。でも、援助は別問題です。」

その時、背後から声が聞こえた。リカさんのご両親も、一緒に来ていたのだ。

「長谷川さん、どうか息子さんたちを助けてあげてください。」

義父が丁寧に頭を下げる。でも、その目にはどこか不穏な光があった。

「あなたがたが、助けてあげればよろしいのでは? 同居されるのでしょう? 」

「それは、経済的な余裕がなくて… 。」

「では、同居はおやめになればいいと思います。」

私の言葉に、4人の顔色が変わった。新太郎がついに膝をつく。

「母さん!

俺が悪かった! 本当に悪かった! だから頼む! 」

土下座をする息子を見ても、私の心は揺らがなかった。これまで何度、この息子のために涙を流してきただろうか?

何度、自分を犠牲にしてきただろうか? 「新太郎、立ちなさい。」

「母さん… 。」

「私はATMではありません。」お金が必要なら、ご自分で働いてください。」

リカさんが叫ぶ。

「お母さん! そんな!

私たちには、子供もいるんですが! 」

「大機ちゃんのためにも、ご両親がしっかりと働く姿を見せてあげてください。それが1番の教育です。」

義母が、不敵そうに放つ。

「長谷川さん、親子の情というものがないのですか? 」

その言葉に、私は静かに笑った。

親子の情、それを1番踏みにじったのは、どなたでしょうね? 4人が言葉を失う。

「あ、もう1つお伝えすることがありました。」

私はリビングから、公正証書の謄本を持ってきた。

「これは何ですか?

新太郎が、不安そうに訪ねる。

「遺言書です。」

「遺言書? 」

「公証役場で作成した、法的に最も効力のあるものです。」

書類を見せると、新太郎の顔が蒼白になっていく。

「ユキ、母さん、何を… 。」

「あなたへの相続は、法定の遺留分のみです。私たちの財産約2800万円のうち、あなたに渡るのは350万円程度です。」

リカさんが、悲鳴をあげた。

「そんな! 」

「残りの2450万円は、父さと社会福祉法人に寄付します。」

「母さん、そんなことして!

「私たちは、もう十分にあなた方に尽くしてきました。」教育費850万円、結婚式に200万円、新居の頭金300万円、そして月々の援助540万円、合計1890万円です。」

具体的な数字を突きつけられて、息子夫婦は何も言えなくなる。

「それでも、あなた方は私たちを「面倒」「時代遅れ」と言い、お金だけ出せばいいと言いました。」

義父が必死に取り成そうとする。

「長谷川さん、それは勘違いです! 娘たちはそんな… 。」

「勘違いではありません。全て、この耳で聞きました。」

私はきっぱりと言い切った。

「これは復讐ではありません。」「私たちの人生を、私たち自身のために生きる、それだけのことです。」

新太郎が、最後の懇願をする。

「母さん、せめて、遺言だけは… 。」

「公正証書遺言は、公証役場に原本が保管されています。」「あなたが破棄したり、改ざんしたりすることは不可能です。」

その言葉に、完全に希望を失ったように、新太郎はその場に座り込んだ。

「もう2度と、私たちに関わらないでください。」「さようなら。」

私は、ドアを閉めた。外では、4人の怒声が聞こえている。でも、私の心に罪悪感はなかった。アキラがそっと、私の肩を抱いてくれる。

「よく頑張ったな、ユキ。」

「え、これでやっと終わったわ。」

窓の外では、秋の日が穏やかに輝いていた。

あれから半月が経った。息子夫婦からの連絡は、ぱったりと絶えている。最初の数日は何度も電話がかかってきたが、全て無視した。そのうち、着信も止まったのだ。

友人のヨシコさんから聞いた話では、リカさんのご両親との同居計画は、白紙になったそうだ。援助がなくなった途端、義両親は同居を断ったのだとか。「結局、お金目当てだったのね。」ヨシコさんの言葉に、私は静かに頷いた。

「え、でも、それが分かってよかったわ。」

新太郎は、妻の両親から借金をしようとしたそうだが、断られたと聞く。夫婦の仲も、最近はかなり険悪になっているとのことだった。

「自業自得ね。」ヨシコさんは厳しい表情で言うが、私の心には複雑な感情が渦巻いている。息子の不幸を喜んでいるわけではない。これが当然の結果なのだと、そう思っているだけだ。

今日は、アキラと2人で久しぶりに小旅行に出かけた。紅葉が美しい季節だ。車窓から見える山々は赤や橙に染まり、まるで絵画のように美しい景色が広がっている。

「綺麗ねえ。」

「あ、こんなにゆっくり紅葉を見るのは、何年ぶりだろうな。」

アキラが嬉しそうに笑う。

これまで、旅行に使うお金さえ、息子への援助を優先して我慢してきた。でも、もうそんな必要はない。私たちの人生を、私たち自身のために使っていいのだ。

温泉旅館に到着すると、仲居さんが丁寧に部屋まで案内してくださった。窓からは渓谷が見え、紅葉に彩られた山々が目の前に広がる。

「素敵なお部屋ですね。」

「ごゆっくりお過ごしください。」

仲居さんが去った後、アキラと2人で窓際に座った。

「ユキ、後悔はしていないか?

アキラが優しく訪ねる。

「全く。むしろ、もっと早くこうすべきだったと思うくらい。」

心からの言葉だった。

夕食は、個室での懐石料理だ。美しく盛り付けられた料理の1つ1つに、職人の技が感じられる。

「美味しいねえ。」

「こういう贅沢も、たまには必要よね。」

2人で笑い合いながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。

翌朝、露天風呂から見る朝日は格別だった。山の端から登る太陽が、湖面を薄紅色に染めていく。

「新しい1日の始まりね。」

湯船に浸かりながら、私は深く息を吸い込んだ。これからの人生は、全て私たち自身のものだ。

帰宅してから、私は陶芸教室に通い始めた。ヨシコさんが誘ってくれた教室だ。

「長谷川さん、なかなか筋がいいですよ。」

先生が褒めてくださり、嬉しくなる。轆轤を回しながら、土をこねる感触が心地よい。何も考えず、作品作りに没頭する時間は、私に新しい喜びを与えてくれた。

教室の仲間たちとも、すぐに打ち解けることができた。皆さん私と同年代の方々だ。それぞれに人生の物語があり、その話を聞くのも楽しい時間だ。

「ユキさんは、お孫さんいらっしゃる? 」

ある日、仲間の1人が訪ねてきた。

「え、1人、可愛いでしょ。」

私は少し考えてから答えた。

「可愛いですよ。」

「でも、今は会っていないんです。」

「まあ、何かあったの? 」

詳しくは話さなかったが、皆さんは理解してくださったようだった。

「家族のことは、難しいわよね。」

「でも、長谷川さんが幸せそうで良かったわ。」

温かい言葉に、胸が熱くなる。

理不尽な扱いに、我慢し続ける必要はないのだ。親子であっても、尊重し合えない関係は健全ではない。経済的虐待は、立派な虐待だ。自分の尊厳を守ることは、決して冷たいことではない。

それは、自分を大切にするということなのだ。

ある日の午後、私は書斎で日記を書いていた。この数ヶ月の出来事を、丁寧に記録していく。

アキラがお茶を運んできてくれた。

「ユキ、何を書いているんだ?

「日記を忘れないように、全部書き留めているの。」

「そうか。」

アキラが、私の肩にそっと手を置く。

「俺たち、これからどう生きていこうか。」

「そうね。」

「やりたいことは、たくさんあるわ。」

「来年は、2人で海外旅行に行きたいと思っています。」ずっと憧れていた北欧の国々を訪れてみたい。オーロラを見て、美しい街並を歩いてみたい。

「それから、ボランティア活動にも参加したいと考えています。」社会福祉法人に遺産を寄付すると決めたが、生きている今も、何か社会の役に立てることをしたい。

窓の外では、冬が近づいていることを告げる風が吹いている。でも、私の心は、春のように温かく、希望に満ちていた。

人を大切にできない人に、大切にされる資格はありません。

私たちは、もう自由だ。これからの人生を、心から楽しもうと思う。