「今は人生百年の時代だぞ。俺はこれから第二の人生を楽しまないとな」
夫はそう言って笑い、私に脱ぎ捨てたYシャツを投げつけた。
「おい、火鍋、これ洗ってアイロンかけておけ」
私はため息をついてシャツを受け取った。つもりはないけど、面と向かって「火扱い」と言われれば、さすがにいい気持ちはしない。
「何か誰かに言われたの? 」
「ああ、社長だよ。今日の飲み会でな、人生百年なら五十で折り返しだって言われてさ」
酒の匂いをぷんぷんさせながら、夫は私の夕飯のおかずを勝手につまみ始めた。「おい、火鍋、酒とつまみ出せよ。」
私はカナ。42歳の会社員だ。夫と結婚して十五年、今では名前で呼ばれたことすらない。「火鍋」が私の名前だ。
夫との出会いは居酒屋でのナンパだった。当時、子宮系の病気で手術をし、私は子供を持てない体になっていた。だからもう仕事だけして一人で生きていこうと決めていたのに、夫は「子供がいなくてもいい」と言ってくれた。私を愛しているからだと思った。まさか「火扱いの女が欲しかったから、子供は要らない」という意味だとは、あの時は思いもしなかった。
。
夫には大きな連れ子がいた。九歳の娘、あゆみだ。若い頃にできた子供で、元妻と離婚してからは義両親が育てていた。
私と初めて会った時、あゆみは言った。
「お母さんになるの? ずっと一緒にいてくれる? 弟か妹はできるの?

」
あの時のあゆみの真剣な目は、今でも忘れられない。私はしゃがんで、あゆみの目を見て言った。
「そうだね、ずっと一緒にいるよ。私は赤ちゃんは産めないけど、その分、あゆみを大切にするからね」
「そっか、うれしいな。私だけのお母さん」
子供を持てない私にとって、あゆみは我が子だった。愛に飢えた娘と、子供を欲しかった私が、本当の親子になるのに時間はかからなかった。
夫はすぐに家庭を顧みなくなった。若い子にナンパで引っかからなくなると、今度はキャバクラに嵌まった。
「最近、若くて綺麗なキャバ嬢が俺に夢中なんだよ」
どう考えても、夫が若い子に夢中なだけだ。
それでも私が離婚しなかったのは、あゆみのためだ。あゆみと二人の生活は甘くて幸せだった。夫はあゆみの行事にも一切参加しなかったから、周りからは母子家庭だと思われていただろう。
あゆみの成長を楽しみに過ごすうち、月日は流れ、つい先日、あゆみから言われた。
「お母さん、会って欲しい人がいるんだ」
あゆみはもう二十六歳だ。恋人がいるとは聞いていたけど、正式に紹介される日が来たのかと思うと、感慨深いものがある。
「おめでとう、大きくなったわね」
初めて会った時、どこか不安げだった娘は、いつの間にか心からの笑顔を見せてくれるようになっていた。
本当の親子のように、なれたんだと思った。幸せな日々だった。
「ねえ、お母さん、もう私のために我慢しなくて大丈夫よ。お父さんと離婚してよ」
「お母さんにも幸せになって欲しいの」
あゆみは、私が夫を見限っていることをずっと前から見抜いていた。私には仕事もあるし、貯金もある。いつ離婚してもいい準備はできている。ただ、なかなか踏ん切れずにいた。
そんな時、夫が言い出したんだ。
「あゆみの結婚も決まったしさ、そろそろ俺らもいいんじゃないか」
「え? 何がいいって? 」
「もう別れてもいいんじゃないかってことだよ」
娘の結婚式の前に、このタイミングで言い出すんだ。私は驚いた。
「でも、あゆみの結婚式には両親揃って出た方がいいんじゃないの? 」
「カナ、お前、バカだな」。あゆみとは血が繋がってないだろうが。結婚式にお前が行く必要はないんだよ」
「じゃあ、誰が行くの?
」
「俺の新しい女だよ。若くて可愛いキャバ嬢の、あげはちゃんだ」
「え? 」
「あげはちゃんは間違いなく俺に惚れてるんだよ。『あなたが既婚者じゃなかったらなあ』って、毎回言うんだぜ」
「だから、来月のあげはちゃんの誕生日にプロポーズするんだ」
「人生百年だろうが。今ならまだ半分以上あるんだから、十分楽しめる」
「あゆみだって、お前みたいな普通の女よりも、若くて可愛いあげはちゃんが母親として来たら喜ぶだろう」
「そういうわけで、お前はもう用済みだから、離婚な」
「娘とは赤の他人なのに、火鍋、お疲れさん」
私は呆れて、何も言えなかった。軽い調子で離婚を言い渡されたショックよりも、夫のアホさ加減に引いていたんだ。
キャバ嬢の営業トークを真に受けるなんて…
「どうせ血が繋がってないんだし、誰でもいいだろう」
「お前なんか、初めから火扱いの代わりだったんだよ」
「慰謝料とか財産分与とか請求しても無駄だからなあ、俺そんな金ないし」
その言葉で、私の中で何かが音を立てて切れた。。
「分かったわ、離婚する」
こんな程度の低い男とは、縁を切ろう。うん、私も第二の人生を歩まなきゃね。
面倒なんて思ってる場合じゃない。私は夫のアホさ加減にぞっとして、目が覚めた。
「まあ、俺も鬼じゃないよ」。(後半) 家事をやり続けるのを条件に、上げはちゃんが家に入るまではいてやってもいいぞ」
「結構です」
こうしてあっけなく、私たちの離婚が決まった
「お母さん、私の結婚式はどうする? 二人一緒じゃ気まずいだろうし、お母さんだけ参加でいいよね」
娘がさらっとひどいことを言うが、自分が捨てられて当然だと思っている夫は気づきもしない。
「心配するな、あゆみ」。俺が若くて可愛い嫁さん連れて行ってやるからな」
「は? お母さん以外の嫁?
お父さん、浮気してたの? 」
「浮気じゃないよ」。(当)上げはちゃんが本命だよ。こいつは、元々火扱いが欲しくて結婚したんじゃないからな」
「何それ、最低。いつも言ってるけどさ、お母さんを火扱いするなんて、恥ずかしくないの? 」
「うるさいよ」。(後半)なんでお前はいつまでもこいつをお母さんって呼ぶんだ」
「俺とこいつは離婚したんだし、お前とはもう赤の他人なんだぞ」
その瞬間、娘はぽかんとした顔になった。。みるみる真っ赤になって、慌てたように叫んだ。。
「お父さん、知らないの? ていうか、覚えてないの?
」
「な、なんだよ。何を知らないって言うんだ? 」
「私とお母さん、幼子縁組してるでしょ」
「とっても嬉しかったし、よく覚えてる」
「お母さんと私は、赤の他人じゃないんだから」
娘の言葉に、夫はぴんと来ていないようだった。
「え、なんだそれ? 」
私は呆れて、説明してやった。
「あなたと結婚する時に、あゆみと幼子縁組の手続きをしたでしょ」
「幼子縁組をするとね、血の繋がりがなくても、法律上、親子って認められるのよ」
「そんなの、俺と離婚すれば勝手に切れるんだろうが」
「違うわよ」。離婚とは別に、幼子縁組は解消の手続きをしなきゃ、勝手に切れたりしないのよ」
「私はあゆみとの親子関係を解消するつもりなんて、全くないわ」
「そうそう、私だって、お母さんとの絆、絶対切るつもりはないから」
「はあ、二人ともふざけるなよ」。「そんなめんどくさいものは、向こうにしろ」
「あなたが何を騒いでも無駄よ」。法律で決まってることだから」
私はいざとなったら娘を引き取って育てようと思っていたんだ。あゆみも、私が夫と離婚しても私といられる道があると知ったからこそ、私の幸せのため離婚を進めてくれているのだと思うと、胸が熱くなった。
。
翌日、私たちは離婚届けを提出した。
離婚は成立したが、私はまだ家にいた。十五年も暮らしていれば、それなりに荷物もあって、なかなか片付かない。
実家の両親と義両親に連絡をすると、どちらも離婚には大賛成だった。
ただ、義両親からはきつく言われたんだ。
「きっちり慰謝料をもらって、財産分与するように」
「今住んでる家を売ってお金にするように」
自分の息子ながら、孫と嫁にした仕打ちを腹に据えかねていたようだった。
さらにその翌日、夫が言い出したんだ。
「おい、やっぱり、お前と再婚してやるよ」
私と娘は目をぱちくりさせたった。
「若くて可愛い、あげはちゃんはどうしたの? 」
「今日、店に行ったら、いなかったんだ」
「店を辞めてて、もういなかった」
どうやら、若いキャバ嬢に惚れられているというのは、夫の自意識過剰な思い込みだったようだ。
先に吹き出したのは、娘だった。
「あはははは!
お父さん、全然脈なしじゃん」
「あゆみ、お前は父親に何てことを言うんだ」! 「上げはちゃんは、お前のお母さんになる人だぞ」
「私のお母さんは、一人だけよ」
「それから、お父さんはいらない」
「おいカナ、お前の育て方が悪いんだぞ」
「お母さんは悪くないわよ」
夫の八つ当たりが私に飛んできて、即座に娘がかばってくれた。私は苦笑した。
「一度も子育てに関わらなかったあなたに言われてもね」
「それに、都合が悪くなれば私のせいで、普段は私を火扱い不及ばかりする人と、再婚なんて絶対にお断りだわ」
分かっていない夫に、はっきりと宣言した。
だが夫は食い下がってきた。
「でもお前、俺が離婚を切り出すまで、何も言わなかっただろうが」よ。「不満なんてなかったんじゃないのか」
「いいえ、あなたには不満しかないわ」
「でも、あゆみのため、それから面倒だったから、離婚しなかったのよ」
最初は、あゆみが両親揃った家庭に憧れていたからだ。娘が父親の存在を諦めた後は、夫のモラハラに慣れてしまっていたんだろうなあ。
でも、やっと目が覚めた。こんな悪縁は、断ち切らなければだめだ。
「じゃあ、あゆみのために、また再婚すればいいだろう」
「お前がいないと、誰が俺の世話をするんだ」
「お父さん、信じられない」。「そんなこと言われて、誰が結婚したいと思うのよ」
夫は娘の言葉を無視し、私の説得にかかった。
「あゆみはこれから、別の家庭を築くのよ」
「あゆみがいないのに、私たちが再婚する意味はないわ」
「じゃあ、老後一人だと不安じゃないか」
「結婚していれば、俺の財産のおこぼれだってあるぞ」
その言葉には、思わず鼻で笑ってしまった。
「財産、あなたに貯金ないでしょ」
「俺はなくても、親父とお袋にはあるだろうがよ」
「それがね、お父さんたち、あなたじゃなくて、孫のあゆみに財産を残したいって、税理士さんに相談してるみたいよ」
「だからあなたには、ほとんど遺産は入らないんじゃないかな」
実は、その税理士を紹介したのは私だ。義両親の気持ちはよく分かる。
。
「そ、そんな…俺、貯金は、ほとんどないぞ…」
夫は急に弱気になってきた。
「カナ、俺のことを、愛してるだろ」よ。「俺を見捨てないよな」
夫がおどおどしながら言ってくるから、私はおかしくてしょうがなかった。この人、本当に、アホだ「私を用済みだって、先に捨てた人を、なんで私が捨てちゃだめなの? 私を火扱い不及ばかりする人を、愛してるわけないでしょ」
「そうそう、お母さんから、あなたにちゃんと責任を取らせろって言われててね」
「弁護士に依頼して、財産分与と慰謝料を請求するつもりよ」
「証拠は全部揃ってるから、負けないわよ」
「家を売ったお金で支払ってね」
そこまで言うと、夫は押し黙った。
「お父さん、お母さんのことを火扱い不及ばかりするなら、給料代わりに、しっかり慰謝料を払って、財産分与しなさいよ」
「それで、私とお母さんの前から、消えてよ」
娘の冷たい言葉に、夫は何か言いたそうに口を開いたが、何も言えずに唸るだけだった。
今まで好き勝手に生きて、私だけでなく、義両親や娘にすら拒絶された夫。
完全に自業自得だ。
「あなたは人生百年で、第二の人生を歩むんでしょ」
「今度こそ、本当に、さようなら」
その後、予定通り、今まで住んでいた家を売って、そのお金で財産分与し、たっぷり慰謝料をもらった私は、娘たちの家の近くで、一人暮らしを始めた。本当は、娘から同居して欲しいと言われていた。
「お母さん、一緒に住もう?
」
「新婚さんの邪魔はできないし、今は一人でのんびりしたいの。ありがとう、嬉しいわ」
そう言って、私は娘のありがたい申し出を断った。
夫は義父の伝手でどこかの現場で住み込みで働くことになり、今はどこにいるのか分からないだが、今回の離婚の発端となった、娘の結婚式は、夫抜きで、私と義両親が参加しただ。
娘から手紙をもらった。
「本当のお母さんのように、育ててくれて、ありがとう」
それを読んだ私は、嬉し涙が止まらなかった。
無事に娘を送り出すことができて、ほっとしている。
やっと、心から幸せな日々が手に入って、今は毎日が本当に楽しいう。
うん。


