「また古臭いシステムをいじっているのか。」
部長の織田が後ろから覗き込んで、そう言った。腹の底で怒りが渦巻いたが、俺は黙って画面に向き直った。何度説明してもこの人には話が通じない。これは20年近く前に俺が開発し、全国の工場で使われている、うちの会社にとってなくてはならないシステムだ。
俺の名前は黒川。50歳のシステムエンジニアだ。今の会社に勤めて30年。工場の発注や受注を自動で行うシステムは、俺の腕の結晶だった。親友の中井だけは俺のことを評価してくれていて、以前組んだ在庫管理の仕組みが彼の会社の危機を救ったこともある。つい先日も新しいシステム開発を依頼されたが、仕事が忙しくて断っていたところだ。
しかし、会社での俺の評価は真逆だった。新入社員が増えるにつれ、俺は「古臭いシステムしかいじれない人間」と思われるようになっていった。その原因を作っているのが織田部長だ。役員の息子で、いわゆるエコノミー入社でそのままコネで出世してきた男。そして今年の春、織田は自分の甥である島村という22歳のエリートを新卒で入社させた。
「これからはAIとクラウドの時代だ。優秀な若手を集めるためなら投資を惜しまない。」
そう言って提示された島村の初任給は、なんと月給48万円。対する俺の月給は、手当てを削られに削られて25万円にされた。30年この会社を支え、全国の工場を動かすシステムを作った俺の給料が、入社したばかりの新卒の半分以下だ。あまりの待遇の差に、俺は開いた口が塞がらなかった。
島村はただのエリートで、俺を見下すようなやつだった。
「黒川さん、まだそんな化石みたいなコード書いてるんですか」
俺が指導しようとしても、「そんなの分かってますよ。あなたから教わることなんて何もありません」と見下してくる。だが、島村の書いたコードは所々間違っている。仕方なく俺がそれに修正を加えると、どうにか動いている状態だった。それなのに島村は、
「黒川さんのシステムって画面が黒くて緑の文字が並んでるだけでダサいんすよね。まあ老害にはこういう地味な作業がお似合いか」
と口を開けばそんなことばかり。織田も一緒になって、「おい島村、あまり年寄りをいじめるなよ」と笑っている。このダサい画面がどれほど重要なものか、彼らには分かっていないのだ。
ある日、いつものように島村と話していた織田が、突然俺に向き直った。
「黒川、お前さ、自分の立場分かってる?新卒の島村君ですら48万稼ぐ時代に、25万の価値しかないお前がいても困るんだよね。昔の古いコードをいじるだけなんて誰でもできるだろう。正直、お前がいるだけで人件費のコストが嵩むんだよ」
その言葉に、俺は一瞬で腹が立った。俺の仕事は25万の価値しかないのか?島村が48万の価値?ふざけるな。だが、そんなことを反論したところで、聞く耳を持たないこいつらには何の意味もない。
すると島村が、ニヤニヤした顔で言った。
「AIがあるんだから、黒川さんもう引退したらどうですか?黒川さんみたいな老害より、AIの方が全然いいですよ」
織田も一緒になって笑う。
「そうだよなあ。老害にしかできないことなんてないからな」
さすがに俺も我慢の限界だった。
「私がいなくなっても困らないと言うんですか?30年間この会社のシステムを守ってきたのは私です。俺にだってプライドがある」
こんなことまで言われて、黙ってはいられなかった。
その言葉に、織田も島村も腹を抱えて笑い出す。
「黒川さんって意外に自己評価高いんですね」
と島村は完全に馬鹿にしきっている。織田にいたっては、
「お前がいなくなったって誰も困らないよ。給料はその人物を評価しているんだ。嫌ならやめろよ。退職届ならいつでも受け取るぞ」
と促してきた。俺は言葉を失い、ため息をついた。30年捧げてきた結果がこれか。怒りを超えて、呆れと醒めた感情が胸を満たしていく。
「分かりました。本日付けで退職させていただきます」
俺は言い切った。すると織田は、慌てることもなく、
「物分かりが良くて助かるわ。じゃあ荷物まとめてさっさと出ていけよ。お前は今日で退職な」
と笑う。俺はその場で退職届を書き上げ、織田の机にそっと置いた。そしてため息をつきながら、デスクの上の私物をダンボール一つにまとめる。使い込んだキーボードを手に取ると、かつて大規模なシステム障害を一人で徹夜して乗り切った夜のことが蘇る。誰にも頼らず、この手で守り抜いてきた現場だった。道具を箱に詰める自分の手が、少しだけ震えた気がした。
周りの社員たちは俺を気の毒そうに見てくるが、誰も声をかけようとしない。巻き込まれるのが嫌なのだろう。俺の給料がカットされたのはなぜか噂になっている。おそらく織田が気に入らない人間は給料を下げられると、みんな考えているのだ。俺は織田に「では引き継ぎを」と言ったが、
「そんなもんマニュアルを置いてけよ。お前にできて島村君にできないものはないよ」
と呆れた声を出された。俺はその指示に従い、基本マニュアルをサーバーに格納し、島村にその場所をチャットで送った。島村は「このくらいのシステム、僕には余裕です」と返してくる。最後の最後まで嫌味なやつだ。俺は一応「質問があれば今のうちにお願いします」と一言添えたが、質問してくることはなかった。
マニュアルに書かれているのは、システムが正常に動いている時の一般的な操作手順だけだ。エラーが出た時は、俺が調整をかけていた。マニュアルを読めばそのことにも気づくはずだが、島村はマニュアルに目を通すことすらしていないのだろう。明日は全国の工場が一斉にデータを送り込んでくる。月末の一斉発注の日だ。この日は必ず何かしらのトラブルが起こる。この発注システムが正確に動かないと、工場から発注が飛ばないのだから、会社に損害賠償を請求されることにもなりかねない。まあ、なんとか乗り切ってくれ。俺は振り返ることなく会社を後にした。
翌朝、俺は久しぶりにゆっくりした朝を迎えた。スマホのグループチャットの通知が朝からやけに増えている気配はあったが、気にしないことにした。午前10時を過ぎた頃、俺の携帯が鳴り響いた。着信画面には織田の名前が表示されている。迷ったが、何度も鳴らされるのも迷惑なので、通話ボタンを押した。
「お前、何やってんだ?さっさと会社に来い!」
と怒鳴り散らす。
「昨日、退職することをお伝えしました。今日で退職なので、部長も言いましたよね」
俺がそう返すと、
「そんなこと知らん。いいから今すぐ来い!」
と言って、一方的に電話を切られた。
俺は動かなかった。退職させられたようなものだ。織田が手短に電話を切ったことや、その背後でけたたましく電話が鳴っていたことを考えると、会社は電話で手一杯なのだろう。きっと発注システムがうまくいっていないのだ。でも、そんな中に俺が行ったところで、また高圧的な態度で命令され、いいように使われるのは目に見えている。俺はその要件を無視して、親友の中井に電話をかけた。
「おお、黒川、こんな時間からどうしたんだよ」
俺は昨日の出来事を話し、「そういうわけなんで、前に中井が言ってたシステム開発できるようになったよ。待たせて悪かったな」と言うと、中井は笑った。
「あれからそんなに経ってないじゃないか。しかも、着々と個人事業主として起業する準備してたんだろう?」
そう、俺は中井に相談しながら、いつか会社をやめてやろうと思っていたのだ。俺はすぐに、中井の依頼していたシステム開発に着手することになった。
それから1時間後、またスマホが鳴った。今度は島村からだ。
「黒川さん、今どこですか?」
随分と慌てた様子で、その後ろは相変わらず電話が鳴り響いている。
「家だけど」
俺がそう答えると、
「なんでですか?部長にすぐ来るように言われたでしょ。社長も今すぐあいつを連れ戻せって言ってるんです!」
と叫んだ。
「退職した俺に、なんの用だ?」
そう返すと、島村は、
「なんかじゃないんですよ。エラーアラームが鳴りっぱなしで、顧客からの問い合わせがさ…朝からみんな対応に追われていて、仕方なく手作業でやってるんですよ。僕には余裕ですから、すぐ治りますけどね」
と、まだどこか強気な様子だった。だが数分後、また電話が鳴った。
「エラーが消えません。黒川さんが隠してる秘密の手順書とかないんですか?」
島村が逆切れ気味に言う。俺は穏やかに、
「基本マニュアルは昨日渡した通りだ。イレギュラーの対応は、得意のAIにでも聞いたらどうだ」
と答えた。島村は、プライドを打ち砕かれたような情けない声で、
「マニュアルに書いてある手順じゃエラーが消えないんです。AIに聞いたコードを打ち込んだら、余計にデータベースがバグっちゃって。もうお願いですから…ベコベコに謝りますから、助けてくださいよ」
最後には完全に涙声で泣きついてきた。あれだけ俺を見下し、初任給48万を誇っていたドヤ顔の面影は、もうどこにもない。
「断る」
俺は静かに返した。
「代わりはいくらでもいる。AIがいれば老害はいらない。そういうことを言ったのは忘れたわけではないだろう。自分で書いたコードのケツくらい、48万円分の給料で拭いたらどうだ?いつも俺が指摘していたことに耳も傾けず、俺が密かにコードを修正していたことにも気づいていないんだろう。優秀な人間だったら、コードが修正されたことくらい気づくし、自ら勉強しようという気持ちがあるものなんだよ」
そう返すと、島村は、
「ごめんなさい。調子に乗ってました。だからお願いです。今すぐ来て直してください」
と言ってくる。なんとも軽い謝罪だ。こんな一言で、今まで俺を見下してきたことがなかったことになるのか?俺は許すつもりはない。すると電話口で何やら会話が聞こえ、織田の声が聞こえてきた。
「黒川…いや、黒川さん。君が30年やってきたことがどれほど重要か、よく分かった。今こそ君の力を発揮する時なんだ。社長に直接給料の交渉をしてみたらどうだ?」
まるで上から目線で自分を正当化しようとする。俺は、
「今更認められても、そうですかとしか言えませんね。昨日、退職を促されたので俺はそれに同意し、その場で退職届も書いて置いてきました。これからは個人事業主として起業することにしたんです。ですから、もうお電話もしないでください」
と言い放った。すると織田は、
「そ、そんな不安定な人生やめておいた方がいいぞ。考え直せ」
と説得してくる。
「あなたから俺の人生のアドバイスを受けることはありません。早急に解決して欲しいというなら、緊急対応として1日あたり150万円のコンサル料金でどうでしょう」
と提案した。織田は激怒し、
「お前、ふざけてるのか?誰がそんな金出すんだよ!」
と怒鳴り散らす。
「そうですよね。あなたにとって私は月給25万円の人間ですから。だったら、そんな人間に泣きつくことが間違いでしょう」
俺の穏やかな返答に、織田の荒い息遣いが受話器越しに伝わってくる。
「くそっ…分かった。お前の希望通り、月給も50万にしてやる。島村よりも上だ。それで満足だろう」
上から目線の、気の遅れた提案に、俺は思わず鼻で笑ってしまった。
「まだ理解できませんか?俺が怒っているのは金額の低さではありません。30年現場を支えてきた技術と人間性を、人件費と踏みにじったあなたたちの愚かさですよ。月給48万円の優秀な島村君とAIに、せいぜい頑張ってもらってください」
「くそっ…覚えてろよ黒川。この業界で生きていけないようにしてやるからな」
絶望の裏返しのような捨てゼリフ。俺は淡々と一言だけ返した。
「どうぞご自由に。では、1日150万円のご依頼でなければ、二度とお電話なさらないでください。それでは失礼します」
と事務的に言って、電話を切った。これでも無理に呼び出されることもないだろうし、もし呼び出されたとしても、コンサル料を受け取って仕事をするまでだ。
その1週間後、元同僚から連絡が来た。あの時何も言い出せなくて申し訳ないと謝られたが、まあ仕方ないだろう。俺が電話を切った後もシステムは復旧せず、全国の工場へ出荷指示が出ない状態が丸1日続いたという。現場はパニックになり、取引先の大手メーカーからは莫大な損害賠償と取引停止を言い渡され、会社は未曾有の大損害を出すことになった。実は、あの発注システムの中核ロジックには、俺が個人名義で特許を取得していた。会社はそれを知らないまま長年運用しており、特許使用料など1円も払っていなかったのだ。だから島村がAIの力を借りても、中核部分には誰も手を加えられず、表面的なマニュアル通りの操作しかできなかったのである。
社長は現場の混乱の原因を作った織田と島村を速攻で問い詰めたそうだ。2人とも顔面蒼白で、「黒川が引き継ぎもせずに辞めた。黒川が復旧を拒否した」と言い訳をしたそうだが、社長は騙されなかった。社長の怒号が社内に響き渡り、織田はその場で部長職を解任され、平社員へ格下げとなったそうだ。今もなお、今回のシステム障害に関する責任を徹底的に追求されているという。織田と一緒になって俺を馬鹿にしていた島村も、悲惨な末路を辿った。AIを過信して適当なコードを打ち込み、エラーを拡大させた張本人であることが社内全員に知れ渡り、「月給48万の無能」と陰口を叩かれるはめになり、結局誰からも相手にされなくなり居場所を失った。かばってくれるはずの織田も、自分の保身で手いっぱいで、すがりつく島村を「全部お前のミスだ」と切り捨てたそうだ。誰にも相手にされなくなった島村は、数日後にひっそりと自主退職していった。かつて俺を見下していた2人が、自分たちの過ちで自滅していく様は、まさに自業自得という他なかった。
現在、俺は個人事業主として独立し、中井の会社の新しいシステム開発に全力を注いでいる。あの特許は、今や俺個人の資産だ。30年守ってきた誇りを踏みにじった奴らは報いを受け、俺は正当な評価と自由を手に入れた。これからまた新しいシステムを開発していく。一歩前進するたびに、新しい世界が開けるのだ。
そして、これは少し前の話になるが、俺の知人の鈴村という男にも、似たような、いや、もっと凄まじい出来事があった。
「昭和生まれは役立たずだ。老害と言わんばかりの言い方に、俺は前を潜めた。簡単にAI導入を推進しようとする社長に冷静に対処してきた結果がこれだ。俺を首にし、アメリカから帰ってくる息子を代わりに入れたいらしい。」
鈴村は53歳の会社員で、地元の機械製品の製造会社で情報システム部の部長を務めていた。システムの設計から管理、トラブル対応まで、会社のIT周りは全て彼らの担当だ。工場で動いているシステムは鈴村が中心となって開発したもので、生産工程を最適化しながら品質異常も検知する複合システムで特許も取得している。取引先の工場でも使われていて、開発者として鼻が高かった。今の会社には20年前に中途入社した。父が倒れたのをきっかけに地元へ戻り、再就職した先がこの会社だった。先代の社長に「都会で培ったスキルを我が社のために役立ててくれないか?」と言われた時は、とても嬉しかった。それからずっと会社のために尽力してきた。代替わりして先代の息子が社長になった今でも、その気持ちは変わらないはずだった。
その気持ちに揺らぎが出始めたのは、およそ2年前くらいからだ。社長が海外にいる息子から、「これからの時代はAIだ」と聞いたらしく、「AIに任せて何でも効率化していこう」と言い出したのだ。確かにAIという言葉は急速に注目を集め始めていたが、社長の「何でも」というのが厄介だった。特に鈴村が開発した特許システムのように、人の手による確認や動作を前提に作ったものにAIを取り入れるのは難しい。AIは最初から全てを可能にするわけではなく、正しいデータを大量に学習させて初めて機能する。つまり、データの質と量が担保されていないAIは、便利どころかむしろ危険なのだ。鈴村は自分の知識や部下たちの協力を得て社長にそれらを説明したが、社長は「息子がこう言ってたぞ」と、この場にいない息子の名前を持ち出して話にならない。鈴村はAI自体に反対しているわけではない。社長の提案でいくつかのシステムにはAIを導入できるよう調整したこともあった。それだって、可能だと判断したものだけだし、AIに丸投げする仕組みにはなっていない。
2年経った現在でも社長のAI熱は収まることなく、鈴村のいる情報システム部に直接出向いたり、会議を開いてはAI導入についてしょっちゅう熱弁している。さらに厄介なのは、先週になって「社内でAIを開発したらどうだ」と言い出したことである。さすがに部下たちも、「車座のそばをすすりながら」ぼやく有様だった。AIの開発は専門的な知識が必要であり、今の人員では無理であること、外部に委託するにもコストがかかりすぎること。それら全てを鈴村は丁寧に説明したのだが、社長は「息子がこう言った、ああ言った」で通す。部下たちからは、社長に対する不満が続々と出てくる。鈴村が気を遣って励ますと、「鈴村部長が一番大変ですよ」と皆が頷き合う。
そんな中、部下の一人が思い出したように言った。
「そういえば、その息子の… 正さんでしたっけ?近いうち帰ってくるらしいですよ。人事にいる同期がこっそり教えてくれたんです」
鈴村のいるテーブルは一層どんよりとした空気に包まれた。
「おいおい、ってことは、もしかしてまた何か起きるんじゃないのか?」
鈴村も不安な気持ちに駆られたが、みんなを安心させようと笑顔を心がけた。
「心配するな。帰国が本当の話だとしても、社長と同じ考えとは限らない。もしも何か言ってきたとしても、俺がしっかり対応するから。方針を決めるのが上だとしても、現場を一番知るのは俺たちだ。しっかり話し合えば、きっと会社にとって良い方向に進めるはずだ」
言いながら、説得力がない気がした。
昼食を終えて仕事に戻ろうとモニターをつけた時だ。
「みんなお疲れ。社長から大切な話がある」
噂をすれば何とやら。社長が俺たちの元へやってきた。社長は全員に聞こえるように手のひらをパンパンと叩いた。
「今日はみんなに大切な話がある。実はな、前々から話は出ていたんだが、ついに正がうちに帰ってくることになった。来月からこの部署の一員となる。ついでに、この部署を任せようと考えているんだ」
「この部署」という単語に、部署内はどよめいた。鈴村は動揺を押し隠し、社長に訪ねた。
「この部署を任せるとは、どういう意味でしょうか?」
社長は、はっきりと息子の正に任せると言ったのだ。部長の俺がこの部署をまとめているのに。一瞬にして嫌な予感が頭の中を支配する。社長は俺をちらりと横目で見て、鼻で笑う。
「聞いてなかったのか?AI開発者の息子が帰国するんだよ。だから、昭和生まれは役立たずだ。鈴村君のポジションには息子についてもらう。つまり、首だ」
鈴村が抗議すると、社長は大げさに「やれやれ」と首を横に振る。
「こっちが真剣に話せばいずれ理解してくれると思ったが、お前のような老害は会社にとって荷物にしかならん。その点、息子の正なら新しい風を入れてくれるに違いない」
今まで鈴村が筆頭になってAIについて反発していたことを、ずっと根に持っていたらしい。これは報復手段だ。ご自慢の息子を部長にし、ついでに俺を排除すれば、自分の思う通りに事が運ぶとでも考えたのだろう。怒りと同時に呆れてしまう。感情がいっぱいになる俺は、言葉にならなかった。それをいいことに、社長は得意げに告げる。
「手始めに、息子にはお前が開発した特許システムにAIを導入してもらい、完全効率化を図ろうと思う。そうすれば、導入している取引先もアップデートを検討してくれるだろう」
俺の心を代弁するように、部下から反対の声が上がった。
「今まで鈴村部長がどれだけ貢献してきたと思ってるんですか!首なんておかしいです!」
その声に、俺は自然と体が震えた。確かに特許システムの開発は俺が主導して行ったものだとしても、所有権は会社にある。特許システムは完全に会社名義のものだからだ。しかし、だからと言って、この扱いは酷すぎる。
「首だと言うからには、それに値する理由があるんですよね?」
俺は静かに尋ねると、社長は当然だとばかりに言う。
「いいか、鈴村部長。君はここ数年で会社にどれだけ損害を与えたと思う?AI化を進めようとするたびに反発し、部下たちを扇動し、俺の経営判断を何度も潰してきた。そのせいで会社がどれだけの機会を逃したと思ってる?君のような昭和気質の人間には、もう限界なんだよ。お前さえいなければ、思い通りになるはずだ」
最後の一言が全てを物語っていた。部下の一人が反論しようとしたが、鈴村は手で静止した。これ以上部下たちの心象を下げるわけにはいかない。それに、この時点で俺はもう心が決まっていた。
「いえ、私も社長と同じように会社のことを考えて行動してまいりました。何度も申し上げたことですが、AI自体を否定していません。それに対応できるシステムに関しては、導入のための調整と改良をしてきました。それは記録にしっかり残っています。社長にご迷惑な損害は与えていないものと考えます」
俺の言葉に、部下たちも黙って頷いた。
「私は再三申し上げてきました。AIをいきなり導入するのは難しい。検証やデータ収集、準備の上でなら対応可能だと。必要な工程を無視して導入を急ぐ社長の判断を否定してきただけです」
「だから、それだと遅いんだ。時代の流れというものは待ってくれん」
俺は静かに遮った。ふと先代の笑顔が頭をよぎる。「都会で培ったスキルを我が社のために役立ててくれないか?」あの言葉を信じて20年間ここにいた。しかし、心がぽっきりと折れてしまった。この会社を思う気持ちは一緒のはずだと信じていたのに。
「もう結構です。よくわかりました。首だというなら、それで結構。私のことが必要ないと社長自らがおっしゃるのですから、私がすがる理由はございません」
部下たちが「鈴村部長、そんな… 」と声を漏らす。部下たちには申し訳ないが、もうこれ以上は無理だ。社長は勝ち誇ったように笑う。
「どうやら観念したようだな。まあ、息子が帰国するまでの間、引き継ぎなんかだけはしっかり頼むよ」
もう用はないと言わんばかりに、社長は部署を出ていった。
それからおよそ1ヶ月後、鈴村は退職届を提出し、引き継ぎ作業も最終段階に進んでいた。ノックもなしに情報システム部の扉が開き、「なんだよ。本当に小さな部署じゃないか」と不満げな表情の男が現れる。40代くらいの男性だが、見覚えのない顔だ。先代の息子、正が帰国していたのだ。
「前が鈴村?ははっ、父さんから聞いてた通り、さえない顔だな。俺の踏み台。お疲れ様。ああ、俺が引き継ぐから、もう帰っていいぞ」
鈴村は手渡されたUSBを正に手渡した。
「こちらが、正さんへの引き継ぎ資料となります。特許システムなどの権限も、今すぐ移行できますがいかがなさいますか?」
鈴村が従順に見えたのだろう。正は気分を良くしたようだ。全ての作業が終わると、正は鈴村の肩をポンと叩いた。
「お前も運がなかったよな。もう少し柔軟な考えが持てればさ、父さんだって首とまでは言わなかったんじゃないか。まあ、今更遅いけどな」
因縁のない高笑いが鈴村の神経を逆撫でする。こんな男が本当にアメリカでAI開発の主力メンバーを務めたのか疑問だ。そもそもそこまで優秀なら、わざわざ帰国して父親の会社に入るだろうか。様々な疑問が浮かんだが、もうどうでもいいことだ。部下たちが冷たい目で正を見つめていることに、正自身は気づいていなかった。
それからさらに1ヶ月、鈴村は有給を消化していた。ある日、元部下から電話がかかってきた。用件を聞くと、なんと正が特許システムにAIを導入したのだという。鈴村が驚いたのは、そこからだった。正はシステムの安全装置を無効化した上で、AIに生産データを丸投げした。しかも、AIが出す指示の検証もせずに本番ラインに適用した。その結果、品質異常が検知されないまま不良品が生産され続け、生産ラインを停止せざるを得ない状態にまでなったらしい。正は慌てて部下たちに指示を仰いだが、部下たちは「復旧作業するには権限が必要ですから、権限のない我々が下手にいじって悪化してはいけませんし」と手伝おうとしなかった。全ての権限が正の手にある以上、部下が勝手に動けば背信行為になる。責任を押し付けられるリスクもある。部下たちの判断は正しかった。今度は社長が電話口で慌てて鈴村を呼び戻そうとした。
「戻ってきてくれ。部長の座は、いや、望むならそれ以上の立場を約束する」
「ふざけるな。お前の開発したシステムだろう。お前がなんとかしろ」
「鈴村、頼む。お前しか分かるやつがいないんだよ」
かつて「踏み台、お疲れ様」と高笑いした口が、今こうしてすがっている。鈴村はやれやれと首を横に振った。
「システムの全権限を譲渡し、実質退職している以上、私にできることはありません。責任ある立場にあるんですから、社長も正さんも、それぞれ自分の役割を全うしてください」
そう言って通話終了をタップしようとした時、鈴村はあることを思い出し、最後に告げた。
「そうだ。社長に解雇宣告されてすぐ、弁護士に不当解雇の相談をしましたので、そのうち弁護士から連絡が行くと思います。その時はどうぞよろしくお願いいたしますね」
「な、弁護士だと?」
最後に鈴村はあえて明るい調子で「それでは」と言うと、問答無用で通話を切り、そのまま電源を切った。
その後の話は元部下たちから聞いた。生産ラインの緊急停止により納期遅延が多発した。社長と正はお互いに責任をなすりつけ合ったようだ。しかも、取引先からの問い合わせをきっかけに正の経歴が調べられ、アメリカでAI開発の主力メンバーだったという話は真っ赤な嘘だったと発覚した。開発グループにいたのは事実らしいが、出世のために話を大きくしていたらしい。それもあり、かつての親子の絆は見る影もなく、取引先からの信頼も失い、会社の評判は地に落ちているそうだ。さらに、鈴村が首になったその日に、部下たちが一斉退職したことが追い打ちをかけた。「部長がいないなら、ここにいる意味はない」と。今は人員を募集しているらしいが、トラブルの話はすでに業界内に広まっており、応募者は来ないそうだ。鈴村の方も、弁護士との話が着々と進んでいる。
「鈴村さんには、今でも感謝しています」
飲みの席でそう言ってくれた元部下たちの顔を見て、鈴村は目頭が熱くなった。20年間、この会社のために働いてきた。技術者として、それは間違っていなかったと、今は静かに思える。次の場所でも、自分のやり方でまた誰かの役に立てれば、それでいい。
また、38歳の杉山という男の話もある。彼は、自動車用部品の製造を手掛ける会社で、現場叩き上げで最年少工場長に就任したばかりだった。貧しい家庭に育った彼は、中学卒業後、働きながら独学で大検に合格し、夜間の大学で工学を学び、技術の資格を取った。その資格を活かして入社した工場で、13年間現場一筋に働いてきた。その後、社長の岩田から、地元の大学と組んで新素材を開発するプロジェクトの主導役を任された。大学と共同で新素材の開発を進め、試作から生産ラインの設計まで、彼は主導的な役割を果たしてきた。
工場長就任の翌日、杉山は取引先の商社に向かった。うちの工場は、部品の製造に使う素材を30年来この商社から仕入れてきた実績がある。挨拶に行くと、担当者が若い男に代わっていた。落合というその男は、海外留学してMBAを取得していると誇らしげに言った。
「杉山さんはどちらの大学ですか?」
杉山が正直に答えると、落合は口の端を持ち上げて言った。
「へえ。それなら、中卒みたいなもんですよね」
含みのある声だった。杉山がこれまで積み上げてきたものを、この男は「中卒」の一言で否定した。深夜の閉店間際に大検の参考書を買い求めた夜。働き始めてからも、工学の教科書を作業着のままめくった夜。そんな日々が蘇ってくる。
工場長就任から数日後、落合から連絡が入った。
「明日、時間あるよね。急ぎで確認したいことがあるから来てくれ」
翌日、商社の会議室に通されると、落合の隣に初めて見る顔があった。野村という営業部長だ。落合はテーブルに分厚い書類の束を置いた。
「相談したいのは、来月からの単価の件だ。まあ、世界的に素材がシワスなのは知ってるよね。悪いが、この単価にしてもらえるかな」
書類を広げると、品目ごとの単価が並んでいた。数字に目を走らせた瞬間、杉山は思った。桁が1つ多い。従来の10倍の単価だ。国際的な需給の崩れは業界紙でも繰り返し報じられているが、この数字は市場の変動を踏まえた見直しではない。素材が手に入らなければ部品は作れない。仕入れを他社に頼っても、慌てている今は同じような単価が出てくるだけだ。落合はこの2つの出口を読み切った上で、10倍という数字を叩きつけてきたに違いない。そこへ、これまで黙っていた野村が口を開いた。
「これは弊社として正式に決定した話だ。ご理解いただきたい」
落ち着いた口調だったが、覆す余地はないという響きがある。落合は野村の援護を受け、さらに攻勢を強めた。
「工場長になったばかりで大変だと思うが、うちもうちで大変なんだよ。分かるよね。まあ、早めに判断した方がお互いのためだ。さっさとサインしてくれよ、中卒君。素材10倍な。無理なら他社に売る。言っておくが、他もシワスだぞ」
「中卒君」という言葉が、頭の中で静かに反響した。ペンを見つめながら、杉山は思った。この男の目には、俺は学歴のない工場長としか映っていない。だが、落合は知らない。俺がこの5年間、何のために動いてきたかを。勝ち誇った顔でこちらを見下ろす落合を、杉山は静かに見返した。そして、椅子から立ち上がり、言い放った。
「では、取引契約は解除で」
落合の動きが止まった。野村も顔を上げた。2人の視線が杉山に向く。杉山はテーブルの上に広げられた見積書を手に取り、一礼して会議室を出た。
杉山は工場へは戻らず、本社ビルへ向かう。社長室のドアをノックして中に入ると、岩田が書類に目を通していた。杉山は商社での出来事を端的に伝えた。落合から来月以降の単価を一方的に10倍に引き上げると通告されたこと。その場で契約解除を告げて見積書を持ち帰ったこと。岩田は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、経理の三浦を呼んだ。三浦は我が社の経営に関する数字を一手に預かる重役だ。杉山がプロジェクトを始めて以来、予算配分も投資計画も全て三浦を通してきた。杉山がもう一度最初から説明すると、三浦は腕を組んで眉を寄せた。
「契約解除をもう告げてきたのか」
「はい。あの場で判断しました」
杉山は短く答え、机の上に持ち帰った見積書を置いた。10倍の数字が並んだ書類を、岩田と三浦は黙って見つめた。先に口を開いたのは岩田だった。
「杉山、お前、こうなることを見越して動いてきたのか?」
「はい。ただ、今日あの場で切るとは、私自身思っていたわけではありません」
杉山は正直に答えた。
「ただ、いずれは商社1本の依存から抜ける時が来ると、社長にも三浦さんにもこれまでご報告してきた通りです。切り替えの準備はすでに整っています」
岩田が小さく頷く。最初に動いたのは岩田だった。
「分かった。やれ」
言葉は短かったが、杉山が積み上げてきたものを丸ごと受け止めた一言だった。三浦が口を開いた。
「杉山、1つだけ確認させてくれ。商社との交渉を続ける選択肢は本当にないのか?30年の付き合いだ。野村部長が出てきたなら、上の判断で条件を引き戻す余地もあるんじゃないか」
「この10倍という数字は、書面で正式に通告されたものです。担当者1人の暴走ではなく、野村部長は『弊社の正式決定』と言い切りました。協力な値上げ要求と書面通告では、重みが違います。それともう1つ。一方的に10倍を通告する行為は、独占禁止法上の優越的地位の乱用に当たる可能性があります。この見積書を持って、まずはうちの法務に相談させてください。正式な契約解除の通知を内容証明で送る形が望ましいと考えています」
岩田は深く頷く。三浦もようやく腕を解いていった。
「杉山がそう言うなら、進めてくれ」
杉山は見積書をもう一度内ポケットにしまい、社長室を出た。その足で同じビルにある法務部のフロアへ向かった。法務部長は見積書を入念に確認し、「独占禁止法上の問題として正面から指摘できる」と断言した。さらに、契約解除の通告を内容証明郵便で送る手続きをその場で進めてくれた。
3日後、工場の事務室に商社からの電話が入る。事務員から「商社の落合という者が俺と話したがっている」と伝えられ、杉山は内線を取った。
「杉山さん、先日の単価の件で、社内で改めて協議いたしました。条件を見直すご相談をさせていただきたいのですが」
3日前まで「無理なら他社に売る」と豪語していた当人が、あっさりと見直し対象に切り替えている。内容証明が届いたのだろう。
「すでに法務を通じて手続きを進めています」
杉山はそれだけ告げて、内線を切った。法的な手続きと並行して、工場の中では切り替えに向けた準備が動き始めていた。杉山は地元大学の研究チームに連絡を入れ、生産ラインの最終調整に立ち会ってもらう日程を組んだ。半年前には量産設備の据え付けが完了しており、各工程の作業手順書も整備済みだった。生産ラインの稼働確認は、研究チームの立ち会いのもと数日にわたって慎重に進められた。加工精度、生産速度、不良品の発生率。それぞれの数値が目標の範囲に収まっていることを、工程ごとに一つずつ確認していく。杉山は従業員たちを集めて切り替えの全体像を説明した。
「来月から新素材の量産を本格的に立ち上げる。これまで使ってきた特殊素材の仕入れは止める」
試作段階で何度も調整を回してきた従業員たちは、表情を引き締めた。一方、商社からの連絡は途切れなかった。落合と野村部長が入れ替わりながら、ほぼ毎日のように工場の事務室に電話が入る。杉山は法務を通すように取り次ぎを断った。1週間が過ぎ、2週間が経過する頃には、電話の頻度はむしろ増していた。事務からの取り次ぎ報告には、相手の声が次第に切迫している様子が滲んでいる。商社は、こちらが折れて戻ってくると見込んでいたのだろう。ところが、杉山は一度も席を立たない。焦っているのは商社の方なのだ。
杉山が次に動いたのは、納入先の大手自動車部品メーカーの窓口だった。試作段階で新素材のサンプルを受け取り、従来の金属部品を上回る試験データを出してくれた数社のうち、評価が特に高かった2社の調達担当者に、杉山は自ら電話を入れる。
「量産体制が整いました。正式な量産サンプルをお持ちします」
反応は早かった。どちらの担当者も、その日のうちに打ち合わせ日程を折り返しで送ってきた。杉山は手帳に2件の予定を書き入れ、ペンを置く。ここから先は、こちらの段取りで進む。契約解除の内容証明を送ってから1ヶ月後、商社の野村から取引再開を打診する電話が事務所に入った。これまでは量産ラインの構築と受注対応に集中するため、商社からの連絡は全て断ってきた。それが片付いた今なら、商社と向き合ってもいいだろう。杉山は「工場までお越しください」とだけ告げ、辞去した。
翌日、野村と落合は揃って工場の正面玄関に現れた。杉山は2人を応接室へ通し、テーブルを挟んで向かい合う。最初に口を開いたのは野村だった。
「先日の単価通告については、社内で改めて検討しております。価格条件を大幅に引き下げる用意がございます。30年の付き合いを、なんとかこの先も続けさせていただきたい」
言葉は丁寧でも、その声には契約をつなぎ止めたい必死さが滲んでいた。杉山はゆっくりと口を開いた。
「弊社から素材を仕入れる計画は、もうありません」
野村が顔を上げた。
「杉山さん、それは… 」
「お話を進める前に、まず確認させていただきたいことがあります」
杉山は野村の言葉を遮り、隣の落合へ視線を移した。
「落合さん、1ヶ月前、あなたと最初にお会いした日のことを覚えていますか?」
落合は唇を結んだまま、目を伏せている。
「あの日、あなたは私の経歴を聞き、『中卒みたいなもんですよね』とおっしゃった。私はあの一言で、あなたという人物を理解しました。取引相手の中身を見ようとせず、学歴という記号でしか人を見ない。そして、その2週間後の会議室では、私を『中卒』呼ばわりしながら、笑いを含んだ声で10倍の単価を押し付けた」
杉山は内ポケットからあの日持ち帰った見積書のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「この書類が何を意味するか、お分かりですか?すでに私どもの法務部から、優越的地位の乱用にあたる事案として対応中です」
野村の顔がわずかに強張る。落合の指先が膝の上でかすかに震え始めている。
「落合さん、あなたは私を完全に見誤った。30年の取引依存を盾にすればサインせざるを得ない。他社からの素材調達も進んでいない。そう踏んだのでしょう。あなたの読みでは、私はあの場で仕方なくペンを取る人間だったはずだ」
落合は依然として一言も発しない。杉山は続けた。
「今、この工場は商社から仕入れた素材を一切使っていません。我々が5年かけて開発した新素材で量産化の目途が立っています。金属基複合材料です。従来の特殊素材と同等以上の引っ張り強度、疲労強度を持ちながら、比重が約3割低い。自動車部品の軽量化規制が世界的に厳しくなる中、納入先各社が最も求めていた数値でした。地元大学の材料工学の研究室と共同開発し、試作段階で複数の大手部品メーカーから従来品を上回る評価をすでに得ています。商社から一方的な通告を受けた時点で、切り替えはすでに射程内に入っていました」
落合の表情がわずかに揺れる。杉山は一息を置き、声に重みを込めた。
「あなたには、お礼を申し上げます」
落合の目がかすかに見開かれた。
「あの10倍の通告書は、私にとって最上の贈り物でした。一社に原料調達を依存し続けることがどれほど危ういか。それを我が社の幹部に証明するため、これ以上ない説得材料を持ち帰ることができた。この見積書があったからこそ、私は迷うことなく新素材への全面切り替えを決断できたのです。あなたがあの日、礼儀正しく交渉していたら、私は今でも商社から素材を仕入れ続けていたかもしれません」
落合の顔から血の気が引いていくのが見えた。杉山は視線を隣の野村へと移した。野村の喉がわずかに上下する。
「野村部長、あなたにも申し上げたいことがあります。営業部長として、部下の暴走にチェックをかけるのがあなたの役目だったはずです。ところがあなたは『社の正式決定だ』と言い切り、援護しました。いや、正確には違うかもしれない。落合さんに、30年の依存関係があるから強気でいけると、あらかじめ伝えていたのではないですか。確認したばかりの担当者が、あそこまで踏み込んだ通告を1人で決断できるとは思えません」
野村は口を開きかけては閉じることを繰り返している。ようやく出てきたのは、途切れ途切れの言葉だった。
「杉山さん、あれは…

あの場では… 」
「あの場で止められなかった部長が、契約を失った今になって頭を下げに来た。それが弊社の組織判断の限界だということが、よくわかりました」
野村の唇がわずかに動いたが、もう声は出てこない。杉山は立ち上がった。
「お引き取りください。今後、貴社との取引が再開されることはありません」
野村と落合は、何かを言いかけては言葉を飲み込むことを繰り返しながら、力なく立ち上がった。杉山は応接室のドアを開け、2人を正面玄関まで見送る。車が敷地を出ていくのを見届けてから、杉山は晴れやかな気分で事務所に戻った。
それから数ヶ月後、業界紙に商社の社名が載った。公正取引委員会が、商社による優越的地位の乱用を認定し、行政処分を受けたと報じられている。取引先への一方的な単価引き上げ要求が、複数社への調査で次々と明らかになったのだという。法務部が言うには、杉山が持ち帰った見積書が調査の端緒になったとのことだ。記事を読みながら、杉山はしばらく手を止めた。道理は、時間がかかってもちゃんと通るものだ。一方、工場の方は引き続き好調で、2社からの正式受注に加え、新たに3社から量産サンプルの提供依頼が届き、設備稼働率は前年の2倍近くに達している。ある日、杉山が本社に出向いた時、岩田から声をかけられた。
「杉山、あの時のお前の判断は正しかった」
それ以上は何もない。だが、その一言に、これまで歩んできた道のりの全てが詰まっていた。工場に戻り、製造ラインの脇に立つ。新素材の部品が次々と組み上がっていく。ふと、中学を出たばかりの自分が本屋で大検の参考書を手に取った日のことが浮かぶ。あの日の自分に、今日のこの景色を見せてやれたら、なんと声をかけられるだろうか。答えは出ない。俺はもう一度製造ラインに目をやり、明日の段取りに頭を切り替えるのだった。
そして、これはまた別の話。40歳の太田は、業界ナンバー3の医薬品関連企業で社内翻訳者として働いている。翻訳家はわずか4人だけの少数精鋭だ。海外の取引先から届く英語の書類、臨床データや薬の配合基準書を正しく日本語に翻訳しなければならない。翻訳ミスがあったら、場合によっては人の命に関わる。医薬品の翻訳ミスは患者の命に直結するからだ。だから太田はどんな案件でも必ず3回見直す。その習慣を18年間、一度も崩したことがない。たとえ深夜になっても、確認を省いたことは一度もなかった。課長の新井は、翻訳の精度は太田や他の社員よりもはるかにレベルが高く、太田はその仕事ぶりを本当に尊敬している。
そんな新井課長が、今日も疲れたように目を閉じている。理由は1年ほど前に赴任してきた高橋専務だ。高橋は過去に中央省庁に務めていた。我が社は省庁の天下り先の1つとなっており、先代社長が官僚出身で、天下り先として官僚や公務員を受け入れるようになったのだ。高橋もそのうちの1人で、医薬品に関する知識はないが専務の椅子に座っている。専務の着任が社内で公式発表された際、新井課長は誰よりも目を丸くしていた。
「新しい専務、俺の大学時代の友達なんだよ。同じゼミだったんだ」
だが、2人は仲が良かったわけではない。むしろその逆で、高橋が一方的に新井課長を敵視していた。大学時代、高橋は成績トップだったが、語学だけは新井課長に勝てなかったそうだ。ゼミ担当は英文学を英語で学ぶ授業の教授で、ゼミ課題によく英語の翻訳を出していた。教授は高橋の前で新井課長を褒めていたものだ。プライドの高い高橋は、毎回課長に負けた気持ちになっていた。必死になって勉強したが、どうしても勝てず、穏やかで優しい新井課長の周りにはいつも人が集まっていて、神経質でプライドが高く見えっ張りの高橋には友人があまりいなかったそうだ。さらに高橋には、中央省庁からうちに天下りしてきたのは勤務先で不正が発覚して失脚したから、という妙な噂が突きまとっている。あくまで噂だが、やりかねないと思ってしまうほど嫌な人なのだ。
専務着任初日、高橋は新井課長に絡むためにわざわざ翻訳部に足を運んだ。
「まさかこんなところで会えるとはなあ。俺は勉強ができたから中央省庁勤めだったが、お前は業界の中では中途半端な会社で、社員数の少ない部署のトップを務めてたんだな。お山の大将ってわけか。お前にお似合いだな」
新井課長は困ったように笑いながら受け流した。
「そうなんだよ。俺、英語しかできないからさ。高橋みたいに頭が良かったら、別の人生もあったかもな」
嫌みを受け流した課長に対し、専務は語気を強めて返す。
「誰に向かって口を聞いてる?俺は専務だぞ。お前の上司だ。同窓生なんて口が聞ける立場じゃないだろ」
「そうでしたね。すみませんでした。今後は、一緒の職場で働く仲間として、何卒よろしくお願いします」
専務の顔は怒りで真っ赤になっていた。同時に、課長に対して拭いきれない劣等感を抱いていると、専務の目を見て気づく。嫌味なんて軽く受け流せる課長の大らかさに、専務は完全に負けた形だ。本人はそれを理解しているらしく、「じじいになっても、イライラするやつだな」と、そう言い残し、荒い足音を立てて翻訳部から立ち去った。
「課長がじじいなら、あんたもそうだろ」
課長が「じじいならあんたも」と呟いた言葉は、太田と他の社員に聞こえていたらしく、一拍置いて3人から笑い声が上がった。
高橋の劣等感は、権力を得て悪い方向に進んでしまった。専務に着任して半年後、突如翻訳の予算が3割減ることが決まった。
「昨今の物価高で、我が社も余裕がないんだよ。無駄なものはどんどん削減していくからな」
わざわざ翻訳部に来た高橋が、似非笑いを浮かべながら課長に向かって言い放った。さらに、予算削減の一環で外部への翻訳業務の委託が禁止となる。4人だけで社内の全ての翻訳業務をこなすはめになった。
「ごめんみんな。俺のせいだ」
新井課長が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、課長のせいじゃありませんよ」
太田が「そうだよな」と他の社員に問いかけると、2人とも頷いた。
「それに、うちの会社って残業代が結構いいですよね。課長、稼がせてもらいます」
笑いながら言うと、新井課長は少しだけ表情を柔らかくした。しかし、本人は責任を感じていたらしい。課長は翻訳部の誰よりも仕事をこなして、皆の負担を軽くしようとしていたが、ある日、無理が祟って過労で倒れてしまった。課長の入院中、太田は我慢できず高橋に直訴した。
「専務、課長を目の敵にするのはやめてください。過労で倒れたのはご存知ですよね。もし課長に何かあったら、責任取れるんですか?」
責任という言葉に、専務は一瞬だけ気まずそうな顔になる。しかし、すぐにその表情は太田に対する怒りへと変わった。
「何の権限も持たない社員のくせに、生意気だぞ」
この日以降、高橋専務の敵意は太田にも向くようになった。専務が同席する会議に出席すると、太田を名指しで詰るようになったのだ。実際、過労から復帰した課長が何度か専務に苦言を呈した。
「俺の部下を虐使するのはやめてください」
しかし、専務相手では逆効果だった。高橋のいびりは、手に負えないものになっていく。課長が肩を落としているのは、今進めている大型のプロジェクトから外されたからだ。3年ほど前、アメリカの大手製薬会社との新薬共同開発プロジェクトが始まった。当初は翻訳部が全ての書類を担当していたが、専務の着任後、彼らは外された。
「翻訳部は最近、対応が遅れ気味だ。大型案件にリスクをかけたくない」
それらしいことを言い、上層部を説得したのだ。そして専務は、最近流行りのAIに仕事を任せようと画策した。
「AIに任せれば、一瞬で翻訳が完了する。人を使うよりコストがかからない」
無駄にうまい口でプレゼンテーションをした結果、AIツールの導入が決定したらしい。白石社長は専務の提言をそのまま承認。現場を大切にする人だという評判は以前から聞いていたので、残念だった。新薬共同開発プロジェクトのAI導入決定後、専務の働きかけで社内にAI翻訳の使用が広がっていく。
「うちにAI翻訳の本格導入をするから、今のうちに使って慣れておいてくれ」
専務の通達に逆らえる人間はいない。そして、専務が翻訳部を虐使しているという噂が、徐々に社内に広まっていった。ある日、廊下を歩いていると、太田は別部署だが仲のいい同期を見つけ声をかけた。しかし、同期は慌てた様子で太田を物陰に連れて行くと、申し訳なさそうにこう言った。
「高橋専務に睨まれたくないんだよ。もう俺に声をかけないでくれ」
他に関わりのあった別部署の人間も、同じ感じで太田や翻訳部から距離を取り始めたのだ。そして、とうとうその日がやってくる。以前よりだいぶ少なくなった仕事を4人で片付けていると、突然高橋が翻訳部にやってきたのだ。
「翻訳はAIで十分だろ。お前ら、全員首だ」
似非笑いを浮かべながら言い放つ専務に、翻訳部は凍りついた。
「どういうことですか?説明してください!」
新井課長が怒りに満ちた表情で専務の前に立つ。
「AI導入はすでに社内に広まっている。翻訳部の存在意義はもうないんだよ。というわけで、上層部にこの部署の解体を提言した。前向きに検討するとのことだったよ」
「だからと言って、首なんて… 」
課長の言葉を、専務が片手を上げて遮る。
「別部署に移動したいのか?翻訳しか能のないお前らが、どうせお荷物になるに決まってる。お前らの居場所はもうどこにもないんだよ。一方的な解雇は、こちらが訴えれば違法になる可能性が高い。けれど、専務はそれでも構わないという態度だ。慰謝料が欲しいなら、訴えればいい。この会社で居心地の悪い思いをしながら働き続けるつもりか。訴える暇があるなら、転職先を探す方がいいんじゃないか。身の振り方をよく考えることだな」
そう言い残し、専務は翻訳部から立ち去った。最終的に彼らが下した決断は、黙って会社を去ること。せめて残った有給をフルで使おうと考えたが、太田と新井課長の有給は認められなかった。
「高橋専務の嫌がらせだ。あいつ、最後の最後まで… 」
「すまない、太田。俺がもう少しうまく立ち回っていれば…
」
「課長のせいじゃありませんって。最後の日まで課長と一緒に働けるなら、俺は文句ありませんよ」
笑顔でそう告げると、課長は力なく笑った。解雇宣告の翌日、新井課長から呼び出された。
「以前から声をかけてくれていた会社がある。お前も一緒に来ないか?」
太田に迷う理由はなかった。そして最後の出勤日。2人きりになった翻訳部で、彼らは笑顔で会話を交わす。完全勝利を悟った専務は、最近顔を出さなくなった。新薬共同開発プロジェクトも大詰めに入り、忙しいのもあるだろう。昼時、会社の外へ向かう途中、一番大きな会議室の前を通った。中から複数の声が聞こえてくる。耳を済ませると、その声が切羽詰まっていることに気づいた。
「なぜ契約金額が10倍なんだ?」
高橋専務の声だ。すると突然、会議室の扉が開いたと思ったら、青ざめた高橋が飛び出してきたきた。驚き立ち止まった2人と専務の目が合う。
「ちょうど良かった。お前らのところに行こうとしてたんだ」
専務が勢いよく迫ってきて、ある書類を突きつけてきた。
「AIが翻訳したこの書類。何も問題はないよな?」
最初は驚いて目を丸くしていた新井課長だが、「AI」と聞いた瞬間に目が鋭くなる。
「見せてください」
太田も書類を受け取り、課長と共にページをめくった。課長が書類に目を走らせる。10秒ほどの沈黙の後、静かに口を開いた。
「ざっと確認しただけでも、誤訳が7箇所あるな」
太田は頷いて返し、専務に向き直る。
「これ、アメリカの大手製薬会社と進めていた新薬の共同開発の書類ですよね。5箇所は、いずれも医薬品の配合量と投与基準に関わる、重要な部分です」
次の瞬間、高橋専務の顔が歪んだ。冷汗が一気に吹き出て、口からは短い呼吸が漏れている。
「もしかして、誤訳に気づかないまま、新薬を作ったんですか?」
新井課長の問いかけに、専務は小さく頷いた。
「すでにアメリカの大手製薬会社に納品済みだ。でも、今になって誤訳が発覚して、28億円も賠償請求されて、契約金額が10倍に跳ね上がったんだ」
専務は震える手で書類と新井課長のスーツの裾を掴んだ。
「頼む。お前らで翻訳し直してくれ」
しかし、太田と新井課長は同時に専務の手を振り払った。
「1ヶ月前に、自分が何を言ったか忘れたんですか?『翻訳はAIで十分』『お前らの居場所はもうどこにもない』。そんなことを言ってましたよね」
「俺は大学卒業から18年間、誠実に働いて会社に尽くしてきました。翻訳してきた書類は数えきれない。そのうち重大な誤訳は、一度もありませんでしたよ。新井課長は俺より歴が長い。課長もミスをしたことは一度もありません。それが、AIに任せた途端、1年も経たないうちに誤訳が出てしまった。AI導入で削減できた金額はいくらですか?その金額と、今回の賠償28億円。どちらが高くつきました?」
容赦ない太田の問いかけに、高橋専務は追い詰められていく。助けを求めるように新井課長に視線を向けるが、課長も醒めた目で専務を見ていた。
「薬品の翻訳は、命に関わる判断なんですよ。AIにその責任の重さは理解できない。だから、こんな誤訳が出てしまうんです」
そう言いながら、受け取った書類を専務に突き返した。
「俺たちは解雇で退職です。新規の翻訳業務は受け付けていません。専務が何とかしてください」
専務の体がブルブルと震えている。そして信じられない発言をしてきた。
「首は撤回だ。お前らも再就職先に困っているだろう。戻ってこい。待遇は改善する」
太田が頭を抱えると、新井課長も呆れた様子で苦笑した。
「俺たちの転職先はすでに決まっているので、ご心配なく」
「業界ナンバーワンの会社の、社内翻訳担当部署です。新井課長が先方の会社と繋がりがあって、俺も紹介してもらえたんですよ」
新井課長の性格の良さは、ライバル企業にも好意的に受け入れられていた。相手は課長の人柄と仕事ぶりに惚れ、以前から転職を打診していたらしい。
「そ、そんな… お前らが、業界ナンバーワンの会社に転職だと?」
今まで見下していた相手が自分より上の立場になると知り、専務は泣きそうな声でつぶやく。そこへ、誰かが太田の肩をポンと叩いた。
「いきなり会議室から出ていったかと思ったら、こんなところで何をしているんだ?」
現れたのは我が社のトップ、白石社長だ。社長の背後には、会議室から出てきた役員たちが勢揃いしている。社長は、専務の提言を承諾したことを認めた。
「しかし、まさか翻訳部の社員たちに解雇を迫っていたとは。財務部長、コスト削減効果として、年間いくらの試算だった?」
「年間、約3000万円です」
「今回の賠償額は28億。我が社は3000万円を節約するために、28億を失ったというわけだ」
社長が深いため息をつき、2人に向き直った。
「2人とも、申し訳なかった。専務の提言を聞き入れて翻訳部の解体を決めたのは俺だ。口のうまい奴に騙されたとは言わない。全て、俺の責任だ」
社長が頭を下げる。思わぬ形で会社からの謝罪をもらった太田と新井課長は、目を丸くしてお互いを見つめ合った。すると、社長は専務に向き直り、怒りに満ちた声で言った。
「高橋専務。君とはじっくり話し合う必要があるようだ。今回の賠償の責任の所在についてもね」
専務が短い悲鳴をあげる。
「違います!こいつらが嘘をついているだけで… !」
そこへ、新井課長が静かに言った。
「他の社員にも聴き取り調査を行ってください。専務が翻訳部を迫害していたのは、事実だと分かりますよ」
「お前… !」
まさか心の優しい新井課長が自分を追い詰めるとは思わなかったのだろう。驚きの声をあげる専務に、課長は静かな声で答えた。
「専務、あなたは好き勝手やりすぎた。これ以上会社や他の社員に迷惑をかける前に、厳しい処分を受ける必要があるでしょう」
「あっ…
」
専務の目から光が失われていく。太田がとどめを刺した。
「優しい課長にここまで言わせたのは、専務が初めてですよ。そのくらいひどいことをしたって、自覚してください。まあ、今更反省したところで、何もかも遅いですけどね」
その言葉がとどめになったようだ。専務はフラフラとよろけたかと思うと、その場に力なく膝をついたのだ。俺たちが会社を去った後、太田のもとに専務から謝罪の連絡が来た。悪いのは専務なので、太田は素直に謝罪を受け入れる。すると、専務のその後について教えてもらった。28億の賠償の責任を取る形で、専務は辞表を提出。しかし、専務のやらかしは噂となって業界中に広まり、例の天下りの件も再調査が入ったという話だ。借金を抱えながら再就職もできず、妻は離婚届を提出。2人の子供も愚かな父親に背を向け、残されたのは孤独と借金だけだった。一方、太田は新井課長と共に、業界ナンバーワンの会社で伸び伸びと働いている。翻訳部の他の社員も、転職に無事成功して平和な毎日を送っていると連絡が来た。
「課長、今度、元翻訳部メンバーで飲み会しましょうよ」
「俺はもう課長じゃないぞ。フランクに呼ぶなら、飲み会してもいいぞ」
冗談混じりに言う課長に、太田は笑って答える。俺はこれからも、自分の仕事に一生懸命励んでいくつもりだ。
そして、これはさらに別の話。22歳の立花優一は、大手電機メーカーの最終面接会場にいた。母子家庭で育った彼は、母の苦労に報いるため、必死で勉強して一流大学に入り、就職活動をしていた。様々な困難を乗り越え、一次面接、二次面接と自分の実力で突破し、ついに最終面接までたどり着いた。母を安心させたい。その思いだけが彼を支えてきた。面接の前日、彼はあることを思い出していた。以前、別の企業の採用面接で「お父さんはどんな仕事を?」と聞かれ、「父は亡くなっております」と答えた瞬間、面接官の目が明らかに冷たくなり、かなり侮辱的なことを言われたのだ。1週間後、不採用通知が届いた。その冷たい目、その後の侮辱的な発言を、彼は忘れられない。だから今回は、万が一に備えて録音を始めることにした。優一はスマホを取り出し、録音機能をオンにして胸ポケットにそっとしまい込んだ。
面接の扉を開けると、テーブルの向こうに2人の面接官が座っていた。右側が人事部長の桜井、左側が役員の金田と名乗る。面接は最初、形式通りに進んだ。優一は聞かれた通り自己紹介を述べる。優一は違和感を覚える。技術的な質問には完璧に答えていくが、桜井の表情は冷たいままだ。金田に至っては、興味なさそうに腕を組んでいる。そして、桜井が訪ねてきた。
「ところで、ご両親は何の仕事をされているのかな?」
優一は仕方なく答える。
「家族は母で、仕事は… 」
瞬間、面接の空気が変わった。
「ああ、片親か」
金田が腕を組んだまま、高圧的に言う。
「私も役員になって20年だが、片親育ちで成功した奴を見たことがないな。ここは名門企業だ。家柄も重要な要素だよ」
桜井が金田に向かって話しかける。
「金田さん、前にいたでしょ?母子家庭育ちの若手」
「いたいた。使い物にならなかった奴な」
桜井が聞こえよがしに続ける。
「やっぱり家庭環境って大事ですよね。私も金田さんも、両親揃った裕福な家庭で育ったから、こうして出世できた。家柄がいい人間を採用すれば、会社の品格も上がるというのが私の持論でしてね」
「そうそう。金銭的な余裕があれば、きちんとした教育を受けられる。それが社会人として成功する秘訣だ」
2人は優一を見ずに会話を続ける。優一は拳を握りしめる。桜井が優一の方を向いた。その目は、それまでの冷たさとは違う、明らかな侮蔑に満ちていた。
「母子家庭のガキは、根性がないからな。お前の母親、どうせ男に捨てられたんだろ?」
金田が笑いながら相槌を打つ。
「こんな女に育てられたお前も、所詮その程度なんだよ」
優一の中で何かが燃え上がる。母の顔が浮かぶ。毎朝4時に起きて弁当を作ってくれた母。受験前日、疲れた顔で「頑張ってるね」と笑顔を見せてくれた母。その笑顔を侮辱された。立ち上がって怒鳴りたい衝動を必死で抑え込み、冷静さを保とうとする。すると桜井は、言いながら優一の履歴書をゴミ箱に放り投げた。
「片親の無能は塞ぎよ。最初から期待してなかったけどな。ああ、でも親の顔が見てみたいよ。どうせロクでもない女なんだろうけど。男好きなんだろうし、ちょっと優しくすれば簡単に… 」
金田が下卑た笑いを浮かべた。優一は急速に頭が冷えてきた。このまま帰るわけにはいかない。優一は椅子に座り直し、静かに告げた。
「今のご発言、全て録音させていただきました」
桜井が顔色を変える。優一は胸ポケットからスマホを取り出し、画面を見せた。録音時間が表示されている。
「勝手に録音するとは、非常識な!」
優一は冷静に返す。
「実は以前、別の企業の採用面接でも、家庭環境を理由に理不尽な扱いを受けました。そのため、今回は万が一に備えて、面接に入る前から録音していました」
桜井が反論するが、優一は聞く耳を持たない。
「はい。そうですね。では、内線1番につないでください」
面接室が静まり返り、桜井が驚いた顔でつぶやく。
「内線1番だと?なぜお前がそれを知っている?それは社長直通の、役員でも知らない者がいる極秘番号だぞ」
優一は淡々と答える。
「先ほど『親の顔が見てみたい』とおっしゃっていたので、実際に見ていただこうと思いまして」
金田が怒る。
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
「ふざけているわけではありません。親の顔が見たいとおっしゃったので、その機会を作ろうとしているだけです」
桜井は、はぁ、と嘲笑う。
「いいだろう。お前が社長に何を言おうと、相手にされないだろうがな」
桜井は内線電話に手を伸ばし、1番を押す。
「社長、失礼いたします。最終面接中の応募者が、社長とお話ししたいと申しておりまして… 」
電話の向こうから女性の声がかすかに聞こえてくる。桜井が困惑した表情で、受話器を優一に差し出す。優一は受話器を受け取る。
「もしもし」
すると、電話の向こうから聞き慣れた声が響く。
「優一なの?」
母の声だ。長い沈黙が続く。
「今、どこにいるの?」
「最終面接の部屋です」
受話器の向こうで、何かを考えている気配がする。
「5分で行く。そこを動かないで」
「わかりました」
通話が切れた。優一は受話器を置く。そして、桜井と金田を見ながら静かに言った。
「5分で来るそうです」
金田が声をあげる。
「社長がここに来る?まさか…
」
桜井も明らかに動揺している。
「お前、本当に社長と知り合いなのか?」
優一は静かに答える。
「さあ、どうでしょうね」
2人は顔を見合わせる。桜井が金田に小声で話しかける。
「こんな若造のために、わざわざ来るはずがない」
面接室に重い沈黙が落ちる。壁掛け時計の秒針だけが、カチカチと音を刻む。1分が、まるで10分にも感じられる。廊下から足音が聞こえてきた。桜井と金田が同時に扉を見た瞬間、ドアをノックする音が響いた。ドアが開くと、品格のある女性が入ってくる。スーツは仕立ての良いもので、その立ち振る舞いからは揺るぎない自信が感じられた。桜井と金田は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「社長、突然お呼び立てして申し訳ありません」
母は2人に軽く会釈し、優一と目を合わせた。優一は立ち上がる。しかし、何も言わない。母も無言のままだ。だが、優一には分かる。「よく耐えたわね」と、母は目で言っている。優一も目で答える。「大丈夫。俺は負けてない」。そして、母は冷静な表情で桜井に尋ねた。
「桜井部長、まず状況を説明してください。なぜこの応募者が私に連絡を取ろうとしたのですか?」
桜井が汗を拭きながら説明を始めた。
「それが、面接中に多少厳しい質問をしたところ、逆上して録音していると言い出しまして、挙句の果てに内線1番につなげなどと言い出したのです。最近の若者は、少し注意されただけで過剰反応するものでして… 」
一気にまくし立てる桜井。母の表情は変わらない。ただ静かに説明を聞いている。そして、優一を見た。
「では、あなたの説明を聞かせてください」
優一は静かに答える。
「面接中、家族構成について質問され、母子家庭だと答えました。その後、家庭環境を理由に侮辱的な発言を受けました」
桜井が割って入る。
「侮辱などしておりません!ただ、一般的な質問をしたまでです!」
「そうでしょうか。実際の音声を聞いてもらえば、分かるはずです」
母の表情が厳しくなる。2人の顔色が変わった。母が優一に言った。
「その録音を聞かせていただけますか?」
優一はスマホを取り出し、録音の再生ボタンを押す。面接室に、先ほどの会話が流れ始めた。
「ああ、片親か。」
「私も役員になって20年だが、片親育ちで成功した奴を見たことがないな。」
桜井の顔が青ざめていく。金田は視線を落としている。
「母子家庭のガキは、根性がないからな。お前の母親、どうせ男に捨てられたんだろ?」
母の顔から血の気が引く。拳を握りしめているのが見えた。
「そんな女に育てられたお前も、所詮その程度なんだよ。片親の無能は塞ぎよ。」
そして、履歴書がくずかごから落ちる音。
「最初から期待してなかったけどな。ああ、でも親の顔が見てみたいよ。どうせロクでもない女なんだろうけど。男好きなんだろうし、ちょっと優しくすれば簡単に… 」
優一は録音を止めた。面接室が静まり返る。桜井が震える声で弁解を始めた。
「社長!これは、その… ストレス耐性を図るための手法でして!実際の業務では厳しい状況もありますから、その適正を見極めるためにやったものでありまして…
」
必死に言葉を重ねる桜井の横で、金田は俯いたまま黙っている。母が冷たい声で言った。
「どのような手法であっても、家庭環境を理由にした発言は許されません。厚生労働省の指針に明確に違反するどころか、名誉毀損として法的責任を問われる可能性があります」
桜井の顔が真っ青になる。
「申し訳ございません!今後、このようなことは… 」
「履歴書をゴミ箱に投げ入れたというのは、本当ですか?」
母の問いに、優一が答える。
「はい。そこにあります」
母はゆっくりとゴミ箱に近づき、履歴書を拾い上げる。丁寧にほこりを払い、折れた角を直した。そして、桜井と金田を見据えている。
「この応募者は、私の息子です」
面接室の空気が凍りついた。桜井は顔面蒼白に。金田は口を開けたまま固まっている。母が続けた。
「息子には、私が社長であることを伏せて、自分の実力だけで最終面接まで来るように伝えていました。コネではなく、正当な評価を受けさせたかったからです。私自身も父の会社を継いだ時、『2代目の無能』と陰口を叩かれました。だから、息子には誰にも文句を言わせない実力を身につけて欲しかったのです。ただし、万が一今回のような不当な扱いを受けた場合に備えて、内線1番だけは教えていました。息子は母方の姓である『立花』を名乗っています。私は結婚前の姓、『山田』で社長業を続けていますから、社内の誰も息子と私の関係に気づきません」
母は優一の方を向く。その目には慈愛と誇りが宿っていた。
「よくここまで来たわね」
桜井が震える声で言う。
「申し訳ありませんでした!もし、知っていれば… 」
母が冷たく遮る。
「知っていれば、どうしたのですか?」
母の厳しい視線に、2人はただ立ち尽くすことしかできない。
「では、知っていれば丁重に扱ったということですか?つまり、社長の息子でなければ、母子家庭の応募者を侮辱しても構わないと、そういう認識だったのですね」
「そういう意味ではございません!ただ、その言葉が過ぎてしまっただけで… 」
「言葉が過ぎたで済む問題ですか?では、具体的にどのような意図があって、あのような発言をしたのか、説明してください」
2人は顔を見合わせるが、答えられない。母の言葉は容赦がない。
「私が怒りを感じているのは、あなたたちが母子家庭という家庭環境を理由に、一人の人間の価値を否定したからです」
「しかし!家庭環境も、人物を判断する一つの要素ではないかと…
」
「先ほど説明した通り、本人に責任のない家族構成で採用を判断することは、明確な法令違反です。人事部のあなたが、それを知らないとは言わせません」
金田が小声で言う。
「しかし、実際問題として、母子家庭の応募者は… 」
「実際問題として、何ですか?母子家庭で育った人間は能力が劣ると、そう言いたいのですか?」
2人は黙り込む。優一はここで黙って見ているわけにはいかないと思った。立ち上がり、桜井と金田を見据えた。
「お2人は、私の母を『男に捨てられた女』『ロクでもない女』と言いました。しかし、母は誰よりも誇り高く強い人です。父をなくした後、一人で借金を全て返済し、俺を大学まで行かせてくれました。そんな母を侮辱したあなたたちを、私は絶対に許しません。あなたたちは私を『片親の無能』と言いました。しかし、私は自分の力でここまで来ています。一次面接も二次面接も、自分の実力だけで突破しました。それを否定する権利は、あなたたちにはありません」
優一は畳みかける。
「あなたたちは、家庭環境というレッテルだけで、私の努力も能力も見ようとしなかった。それどころか、同じように頑張ってきた他の応募者たちも、家庭環境だけで切り捨ててきたはずです。その罪は、決して軽くはありません」
母が静かに優一を見ている。その目には、誇らしげな光が宿っていた。
「あなたたちは過去にも、同じように家庭環境を理由に応募者を不当に扱ったことがあるのではありませんか?人事記録を精査します。過去の面接で同様の対応がなかったか、徹底的に調査させていただきます」
2人の顔が蒼白になる。桜井が膝から崩れ落ちた。
「申し訳ございません!どうか、どうか… もう一度だけ!」
金田も続いて土下座する。2人は床に額を擦りつけ、何度も何度も謝罪を繰り返す。母は冷静な表情のまま、2人に告げた。
「お2人の処分については、臨時役員会を招集し、そこで正式に決定します。ただし、今後一切、採用業務に関わることは認めません。あなたたちが奪った機会は、息子からだけではありません。過去に同じ扱いを受けたであろう、全ての応募者からです」
金田が震える声で言う。
「どうか、もう一度だけ機会をいただけないでしょうか?」
母が首を振る。
「あなたたちは、自らその機会を放棄しました」
2人は何も言えず、ただ頭を下げ続ける。母は優一に視線を向けた。
「あなたが言っていた、労働局への報告ですが、会社としても自主的に報告します。今回の件を真摯に受け止め、再発防止に努める姿勢を示します。労働局の調査には、全面的に協力しなさい。もう退出して結構です」
2人は肩を落とし、うなだれたまま面接室を後にした。面接室に、優一と母だけが残った。母が優一に向き直る。
「あなたは、自分の力だけでここまで来ました。それを、私はずっと見守っていました。ただし、今回の最終面接は、公正な評価がなされたとは言えません。人事部を刷新した上で、改めて面接を受けてもらいます」
優一は少し驚く。
「再面接ですか?」
母が微笑む。
「そうです。あなたが社長の息子だから採用する。そんな会社にはしたくありません。新しい面接官のもとで、正当な評価を受けてください。それが、あなたへの敬意です」
優一は深く頷いた。
「わかりました」
母の目には、優一への信頼と誇りが宿っている。
あれから3週間が経った。母から聞いた話では、臨時役員会で桜井と金田の懲戒解雇が決定したという。録音という決定的な証拠に加え、過去の面接記録を調べたところ同様の事例が複数見つかったため、迅速な処分が下されたらしい。会社は労働局に自主的に報告し、改善計画書を提出することになる。人事部の体制は全面的に見直され、新しい部長が就任した。その後、優一は再び採用面接を受け、無事合格することができた。その夜、母と2人で食卓を囲んだ。
「よく頑張ったわね」
母は静かに微笑む。
「母さんこそ、ずっと頑張ってきたじゃないか。俺が大学に行けたのも、母さんのおかげだ」
母は何も言わず、ただ頷いた。
「これからは、俺が母さんを支える番だから」
母が小さく笑った。
「まだ早いわよ。あなたはこれから」
「いや、もう決めたんだ。いつか必ず、母さんに楽をさせる」
母の目から、一筋の涙が頬を伝った。今回の経験で学んだことは大きい。人は生まれた環境で判断されるべきではない。努力と能力こそが、その人の価値を証明する。そして何より、不当な扱いに対しては毅然と立ち向かう勇気が必要だ。この経験を忘れず、どんな立場になっても人を軽蔑せずに見る人間でいたい。そう決意するのだった。
そして、これは最後の、また別の話。37歳の長沢は、両親が経営している町工場で働いている。うちで作っているのは機械部品が中心だ。彼の主な役割は職人だが、後継ぎ勉強の一環として、時々営業として仕事をすることもある。今回の相談も、彼が行くことになったのだ。先方は、長沢の住む県では有名な金属製品メーカーだ。今回持ち込む特許部品は、特殊加工を施されたネジで、通常の何十倍もの耐久力を持つ。大量生産はできないが、一つ一つの品質はずば抜けて高いと自負している。合同商談会か。緊張するな。父が背中を叩いた。
「何を弱気なことを。いつも通りにやりゃいいんだ。ダメならダメで、そん時考えゃいい」
豪快に笑う父に呆れつつも、気が楽になる。今回の商談会は、事前にマッチングされた企業同士が個別に席を設け、具体的な取引を前提に行うものだ。担当者からの話では、この部品の独占供給契約を結ぶ予定になっている。うちにとっても先方にとっても、大きな取引だ。合同商談会まであと3日まで迫っていた。父と作業をしていた時、「お電話が来ていますが」と事務の女性に声をかけられた。事務所へ向かう途中、誰からの電話かと尋ねると、例の合同商談会の主催企業の営業部長だという。受話器を取ると、電話口の人物は土屋と名乗った。
「ああ、どうもね。オタク、今度うちが開く合同商談会に参加されるでしょう?」
とても慇懃無礼で馴れ馴れしい口調だ。長沢は失礼だなと腹が立つ以前に、驚きで困惑が勝ってしまう。
「その通りですが、何かございましたか?」
「いやね、仮にもうちは大手でしょ。だから必然的に参加する企業は、それなりの会社が多いわけ。周りくどい言い方をすれば、それなりの規模がある企業だけに参加してもらっているわけですわ」
何か馬鹿にしたようなニュアンスだけは伝わってくる。
「でね、今私の方で、参加企業を何社かピックアップして、こうして連絡しているというわけですわ」
「どういう意味でしょうか?」
すると土屋は、電話口で大きなため息をついた。
「底辺企業はこれだから、察しが悪いですな」
「底辺」と聞こえてきて、長沢は目を見開く。
「はっきり言って、町工場なんて時代遅れの業態の会社は、うちと取引するのにふさわしくないんですよ」
あまりの発言に、長沢は反射的に言い返してしまう。
「いくら何でも、失礼じゃありませんか?うちは熟練の職人たちが… 」
土屋は長沢がまだ話しているにも関わらず、無理やり遮ってくる。
「はいはい。よく聞くやつね。優秀な企業というのは、いずれ必ず大きく成長していくもんなんだよ。でもオタクは、今も昔も小さな町工場。それが全てを物語ってるんじゃない?」
あまりの言いように、受話器を持つ手が震えた。長沢が何も言えないのをいいことに、土屋はどんどん続けていく。
「だから、辞退してくれませんかね。正直、小規模で底辺の会社と話したって、時間の無駄になるだけだから」
これは土屋個人が勝手にやっていることに違いない。相手にするだけ時間の無駄だ。長沢はそう結論付けて口を開く。
「土屋部長のお考えはよくわかりました。ですが、弊社は正当な手順を踏んで、合同商談会に参加させていただくことが決まっております。こちらに落ち度がない以上、予定通り参加させていただきますので」
「ああ、そうですか」
土屋は低い声でつぶやく。
「ああ、それならそれで結構。では、せいぜい当日を楽しみにしておくことです」
土屋があっさり引いたことに長沢が驚いていると、一方的に通話が切れた。どこまでも失礼な人だな。ため息混じりに受話器を置いた。
合同商談会の当日、長沢は予定通り先方を訪れていた。受付で担当者の田中さんを取り次いでもらおうとすると、受付の女性が申し訳なさそうに言った。
「申し訳ございません。営業の田中は、本日急な体調不良で欠席しておりまして…
」
長沢は思わず声をあげた。今日のために何度も打ち合わせを重ねてきた田中さんが不在とは。待合スペースで待っている間、エントランスの掲示板が目に入った。合同商談会用に設置したものだろう。長沢は、辞退した企業の一覧が張り出されているのに気づいた。その中の一番上に、うちの名前があったのだ。まさか。一瞬にして、土屋との電話のやり取りが脳裏をよぎる。土屋は最後に「せいぜい当日を楽しみにしておくことです」と言っていた。長沢は何かの間違いであると信じて、受付の社員に確認する。しかし、受付の社員は丁寧に応答してくれたのだが、
「申し訳ございません。こちらで確認いたしましたが、間違いはないとの返答で… 」
無常にもそんな返答が返ってくる。どうしよう。父やみんなに、なんて言えば。方に暮れながらエントランスを出た。駐車場に向かって歩いていると、背後から声がした。
「失礼ですが、長沢さんでいらっしゃいますか?」
驚いて振り返ると、70代くらいの穏やかな表情の男性が立っていた。男性は鈴木と名乗り、今日の合同商談会の視察に来ていたという。
「先ほどエントランスで受付の方とお話しされていましたね。お名前が聞こえてまいりまして、様子から何かトラブルが起きているように見受けられまして… 」
あまりに落胆されていたようでしたので、心配で声をおかけしました。長沢は、うちの会社の名前が辞退した会社の一覧に乗っていたことを打ち明ける。鈴木さんは首をかしげた。
「君自身はここにいるのに、妙な話だな。あれは事前に参加を取りやめた会社の一覧のはずだ。なぜ君の会社が辞退するんだ?」
長沢は数日前に土屋から電話がかかってきた経緯を説明し始めた。「町工場だから辞退しろ」と迫られたこと。それを断ったこと。そして、土屋が最後に「せいぜい当日を楽しみにしておくことです」と意味深な言葉を残したこと。そこまで聞くと、鈴木さんも察したのだろう。険しい顔をして、「そんなことが… 」とつぶやいた。長沢は続けた。
「土屋部長がそこまでするほどうちとは取引したくないようなので、もう特許部品の契約は白紙です。担当者とはかなり話は詰めていましたし、今日の商談のために念入りに準備をしてきたのですが、まさかこんなことになるなんて。父やみんなにも、なんて言えば…
」
鈴木さんはしばらく考え込み、確認するようにこう言った。
「つまり、その営業部長の土屋という人物が、辞退を電話で強要した。長沢さんはそれを断ったが、今日来てみたら辞退した扱いになっていたと」
「その通りです」
すると鈴木さんは、長沢に対して深く頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした」
「えっ、ちょっと何ですか?いきなりどういうことですか?」
長沢が慌てていると、鈴木さんはゆっくりと体勢を元に戻す。
「土屋と同じ会社の人間として、謝罪せずにはいられませんでした」
そう言いながら、鈴木さんは名刺を差し出す。名刺には、代表取締役会長と記載されていた。長沢は驚愕した。鈴木さんは、スマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。通話を終了すると、もう一度長沢に深く頭を下げる。
「では、どうぞお越しください」
長沢は動揺しながらも、鈴木会長の後をついていくことにした。通されたのは、先方の社長室だった。部屋の主である社長の他、青ざめた男性がすでに待っていた。おそらくこの青ざめた男が、先日長沢に電話をかけてきた土屋営業部長その人だろう。社長が説明を始めた。
「長沢さんの話を聞き、すぐに確認しましたが、土屋は『こちらに落ち度はない』と伝えろの一点張りで… 。実は、今日だけで長沢さん以外にも、何件もの会社が同じ問い合わせをしていたんです。長沢さんが到着される直前に調べ終わったのですが、問い合わせた会社名と辞退企業の張り紙の名前を照らし合わせた結果、ほぼ全てが一致したのです」
土屋は、必死の形相で言い訳しようと口を開く。
「私は、会社の評価を上げようと… 」
ごにょごにょとしていて、結局何も言えないでいる。鈴木会長がやれやれと首を横に振った。
「全く。私がたまたま長沢さんと受付担当のやり取りを目撃していなかったらと思うと、恐ろしいね。独占供給契約を結ぶ予定だった企業を、勝手に排除するとは」
長沢は思わずため息をつく。
「本質を見ず、表面上の規模や情報だけで底辺と決めつけるなんて」
「全くです。特に、長沢さんの特許部品は我が社でも注目していた品の1つです。特殊加工された貴社の部品があれば、我が社にとっても非常に心強い」
鈴木会長が一歩前に出る。
「本当に、何とお詫びすればいいか。土屋部長には、厳重に対処しますので…
」
再び深く頭を下げようとする鈴木会長に対し、長沢は慌てて口を開いた。
「もう頭を下げないでください。どうかお願いします」
確かに社員の暴走は社長や会長の責任でもある。しかし、長沢の話を聞き、真剣に対応してくれた鈴木会長に、長沢は感謝していたのだ。この人にもう頭を下げさせたくない。長沢は土屋を睨みつける。
「肝心のあなたが謝罪の言葉を口にせず、どうしてお2人がここまで頭を下げる必要が?」
長沢の言葉で、ようやく自分が謝罪していない事実に気がついたのだろう。
「申し訳ございません!申し訳ございませんでした!」
慌てて土屋は土下座の体制になり謝罪を始めたが、この場の誰一人として、心に響くことはなかった。その後、土屋は懲戒解雇になった。改めて謝罪に来てくれた鈴木会長と、その息子である社長から聞いたので間違いない。そして数日後、あの日、体調不良で欠席していた田中さんが、わざわざうちの工場まで足を運んでくれた。
「長沢さん、本当に申し訳ございませんでした。私が出勤していれば、あのような事態は防げたはずです。今でも悔んでいます」
深々と頭を下げる田中さんに、長沢は首を横に振る。
「田中さんのせいじゃありません。これまで丁寧に対応していただいて、感謝しています」
田中さんの誠実な人柄に触れ、同じ会社でもこんなに違うものかと改めて思った。長沢の受けた仕打ちを知り、父たちも腹を立てていたが、鈴木会長のおかげで助けられたのも事実だ。彼らはみんなで話し合った末、鈴木会長たちの申し出を受け入れ、改めて商談をさせてもらった。その際、申し訳なくなるくらいこちらを優遇する条件を提示してくれたため、一度は断った。しかし、最後には「是非そうさせて欲しい」という鈴木会長たちの気持ちを考慮することにした。辞退を強要されていた他の企業についても、鈴木会長たちが直接連絡を取り、謝罪と事情説明をしたそうだ。多くの企業が、改めて商談の機会を持つことを受け入れてくれたという。長沢はいつか父の跡を継ぐことになる。うちの人間はそんなことはないと信じたいが、一人の暴走が思いもよらぬ事態を引き起こすことになるのも、また事実だ。長沢は、みんなの中から土屋のような人間を出さないように、信頼関係を築いていきたいと思っている。


