みさ、教準に出ていけ。息子夫婦の部屋が足りないからな。
同居させるってこと?私はもう済だから捨てるわけ。
ああ、その通りだ。専業主婦はニートと同じ。この家には不必要なんだよ。お前に拒否権ないからな。
息子のカイトも嫁のエリも、夫の言葉に馬鹿にするような目で頷いている。彼らも夫と同意見のようだ。
ふーん。そうなのね。分かったわ。お望み通り出ていってあげる。だけど1つだけ約束して。後で私に頼るのはなしよ。
おいみさ。それはこっちのセリフだ。お前こそ俺たちを頼ってくるなよ。
母さんって本当にバカだよな。父さんのおかげで生活できてたのに。ニートが強がっても惨めなだけですよ。
家事要員がいなくなるのは残念ですけどね。
心ない言葉の数々だが、私の表情を動かすには至らない。なぜなら私は全て知っているから。夫たちが後悔し、私を頼ってくることは確定している。すでに準備は整っているのだ。無表情のまま3人の顔を見つめる。彼らの無邪気とも思える笑顔の奥には、自分たちの都合しか見えない薄っぺらい本性が透けて見える。私はただ黙っていた。心の中で溜飲を下げながら。
じゃあ私たちは旅行に行ってきますね。その間娘のお世話をしてください。ちなみにこれはお願いじゃなくて命令です。ちゃんと可愛がってあげてね。
エリが私に孫娘を抱かせた。まだ小さくて温かいその命が私の腕の中にそっと収まる。エリは唇の端を吊り上げるように微笑んだ。夫も続けて冷たい声を投げかけてくる。
俺たちが帰ってくるまでに家を出る準備しておけ。ああ、それと旅行の邪魔だけはするなよ。電話もしてくるな。
最後にカイトが皮肉を込めて笑いながら言った。
よろしくね。ニートの母さん。
3人は親密楽しそうな様子で笑顔を交わし合いながら家を出ていった。ドアが閉まる音が夜中に大きく響いた後、静寂が訪れる。その中で私は孫を抱きながら胸の中で固く誓った。
見てなさい。あなたたちには必ず責任を取らせる。どんな手を使ってでも絶対に。
それから約1ヶ月が過ぎた。ある場所で日常を過ごしているとポケットの中でスマホが振動した。ディスプレイに表示された名前は夫であるたけしだ。その瞬間、胸の奥にわずかな緊張と期待が生まれる。
とうとう来たか。
そう思いながら通話ボタンを押すと、耳に飛び込んできたのは普段の落ち着きなど微塵もない夫の慌てた声だった。
おいみさ、ふざけるな。全部なくなってたぞ。各家電が。どうせお前の仕業だろ。
その通りよ。家にあった家具や家電は全部私の新居に移したのだから、家が空っぽなのは当然のことよ。
電話の向こうで夫が息を飲む気配がする。静かに語り始めた私の声が、自分でも驚くほど冷たかったからだ。
報告しようとは思ったんだけど、あなたたちが旅行中に電話するなって言ってたでしょ。だから遠慮したの。報告する必要ないかなって。おかげで旅行を満喫できたんじゃない?そういうわけだから、1から全部買い直してね。
勝手なことをしやがって。無断で持ち出すなんて泥棒と同じだろうが。さっさと返せよ。
何?通報でもするつもりかしら?別に構わないし、好きなだけすればいいわよ。だって私は何も悪いことはしていない。家具や家電を買ったのは私。独身時代に購入したものだから特有財産よ。財産分与の対象にはならない。それはたけしも分かっていたことでしょ。まさか忘れていたなんて言わないでしょうね。今更慌てるなんて笑わせてくれるわ。
事実を淡々と突きつけると、夫は一瞬で黙り込む。数秒後の沈黙の後、彼の苛立ちが爆発したような声が再び響いた。
嫁のものは夫である俺のものなんだよ。法律とか関係ない。絶対に返してもらうからな。
その言葉に私は思わず深いため息をついた。夫が言う「嫁のものは俺のもの」というフレーズは、これまで何度も聞かされてきたものだ。結婚する前の彼はそんなことを口にする人ではなかった。優しく思いやりがあって、いつも私を尊重してくれていた。だが息子が生まれた後、夫は次第に変わっていった。彼が変わった理由を知った時、私は大きな絶望を味わった。その記憶は今も胸の奥に残っているが、それは過去の話だ。今の私はただ前を向いて生きることを決意している。
とりあえず、あなたの家に行くわね。それから話し合いをしましょう。
あ、そうそう。大事なことを言い忘れてたんだけど。3日後だ。3日後に家に来い。逃げられると思うなよ。
私の話を遮るように夫は一方的にそう言って電話を切ってしまった。私は軽く肩をすくめて苦笑いした。
やれやれ。どこまで行っても自分勝手な人だ。
とはいえ、逃げるつもりなど最初からない。むしろ追い詰められるのは夫たちの方なのだから。不敵な笑みを浮かべた私はスマホを手に取り、ある人に電話をかけた。
3日後に決着をつけに行きます。
そう伝えた私は、決戦の日に向けて準備を始めた。
3日後、私は夫の家、かつて自分が住んでいた家の前に立っていた。長年住んでいた場所のはずなのに、不思議と何の感情も湧いてこない。それはきっと、この家に対する未練が完全に消え去った証拠なのだろう。スマホで「今着きました」とメールを送ると、数秒もしないうちに玄関の扉が乱暴に開いた。それは家が壊れてしまいそうな勢いで、夫の怒りを表しているようだった。
よくもみさ、ただで済むと思うなよ。絶対に白黒つけてやるから覚悟しろ。
怒りを爆発させる夫の言葉が途中で途切れた。彼の視線は私の隣に立つ男性に吸い寄せられている。
ね、どういうことですか?なぜ山神さんがうちにみそと一緒に来るなんて聞いてませんが。
夫の声には明らかな困惑が混じっていた。私の隣にいる男性は夫の上司である山神友信さんだ。彼に対する敬意と恐れがその表情から滲み出ている。
済まないね。たけし君、実は大事な話があって来たんだ。少しだけ時間をもらえないか?
夫は完全に面食らった様子だったが、上司からの頼みを無視するわけにもいかないのだろう。彼は動揺を隠せないまま友信さんを家の中に案内した。私と友信さんは静かにアイコンタクトを交わしながら夫の後に続く。
家の中では息子のカイトが戸惑いの表情を浮かべていた。
え、父さん、その人はどちら様?今日は家族会議じゃなかったの?大丈夫なの?
カイトにとって友信さんはただの赤の他人だ。そんな彼が私と一緒に現れたことに戸惑いを隠せないようだった。その横ではエリも同じく動揺している。しかし彼女の戸惑いは夫やカイトのそれとは違う種類のもの。なぜエリが動揺しているのか。その理由も私は知っているが、ここではあえて触れない。
そんな中、友信さんはゆっくりと周囲を見回し、落ち着いた様子で椅子に腰を下ろした。そして重々しい口調で言葉を紡ぎ始めた。
たけし君、大事な話というのは僕の妻についてなんだよ。実は僕の妻は妊娠後に失踪してしまったんだ。ずっと探していたんだけど、なかなか見つからなくて。
その言葉が部屋の中に不穏な静けさをもたらした。友信さんの目は遠くを見つめ、過去の思い出に浸るような様子だ。夫とカイトは理解が追いつかないという表情だったが、友信さんが冗談を言っているわけではないということだけは伝わったようだ。
奥さんが失踪したんですか?会社では普通に過ごされているように見えたので、うまくいっているものだとばかり。大変でしたね。それで、その事情は分かったのですが、話を聞く限り山神さんとみさに接点はないのでは?それに僕たちも奥さんと接点はありません。
僕もお父さんと同じことを考えてた。奥さんが失踪されたのは残念ですが、俺たちは無関係ですよね。
実は僕とみささんは幼馴染みなんだ。僕が中学生の時に引っ越したから、会ったのは数十年ぶりだったけどね。だから全くの無関係ではないけど、大事なのはそこじゃないんだよ。
友信さんの言葉が重く、そして慎重に紡がれていく。部屋の空気がますます重くなり、息を飲むような静けさが漂った。友信さんの表情がわずかに硬直し、次に何が来るのかを予感させる。夫とカイトの顔には疑念の色が広がっていった。しかし、彼らが何も知らないだけで、すでに確信に迫っている。この家に友信さんが来た理由を知れば全て繋がるのだ。
たけし君、カイト君。ずっと探していた妻は君たちの近くにいたんだ。今隣で青い顔をしているエリだよ。彼女は僕の妻なんだ。
その言葉が部屋に響き渡ると、空気が一瞬で凍りついた。夫とカイトの顔が驚愕に歪み、言葉もなくただエリを見つめるばかり。一方エリは体全体をブルブルと震わせている。それは恐怖が体の隅々まで広がっているかのようだった。彼女にとってこの事実は絶対に知られてはいけないもの。だからこそ全員の前で暴露することに決めていた。夫とカイトはその衝撃を消化できないまま言葉を失う。それでも2人の心の中には否定する気持ちが強く残っており、言葉となって溢れ出してきた。
いやいや、山神さん、冗談はやめてくださいよ。あなたの奥さんがエリさんだなんて意味が分からない。エリさんはカイトの子を産んでいるんですよ。そんな彼女が山神さんの奥さんなわけないじゃないですか。
そうですよ。そんな突拍子もない話、信じられるわけがない。それにエリが俺を裏切るわけないんですよ。そうだよな。エリ。
カイトはエリを守ろうとするが、その声は自信なさげだった。当然簡単には信じられない事実だが、目の前にはブルブルと震えているエリがいる。本当に何もなければエリが恐怖する理由もない。それはカイトも感じていることだろう。エリはその震えを必死に押さえ込もうとしているのか、口を閉ざしただ目をそらすばかりだった。彼女の目は怯えと戸惑いが交錯しており、その表情が何よりも真実を物語っているように思えた。
エリが産んだ子は僕の子なんだ。その事実をエリが隠していた。ということだよね。エリ。だよな。俺たちを騙していたなんて。俺たちの子供が実は他人の子供だったなんて。そんなバカな話か。
カイトの言う通りだ。こんなバカな話ありえない。山神さん、証拠はあるんですか?うちの孫がカイトとエリさんの子供ではないという証拠が、山神さんの言葉だけではどうしても信じられないんです。僕たちを納得させてくださいよ。
夫の声は震えており、彼の心の中でも深い疑念と怒りが渦巻いているのが伝わってきた。自分の息子と孫に関わることだからこそ、その怒りの色がより一層濃くなり言葉が鋭くなる。
友信さんは無言で深く息を吸い込み、その表情に少しの覚悟を感じさせた。静かな沈黙の後、彼は予想通りあらかじめ準備していたものを取り出す。
これを見れば分かるよ。今みささんに抱かれて眠っている子が僕とエリの子だと。
それはDNA鑑定の結果だった。夫は目を見開き、手に取ったDNA鑑定書をじっと見つめる。それは確かな鑑定結果であり、その内容は彼らの信じた現実を一気に崩すものだ。
いつの間にこんなものを?
たけし君とカイト君、そしてエリはみささんに全てを押し付けていたそうだね。子供の世話も全てだ。そこでみささんにお願いして検体を取ってもらったんだよ。
私が小さく頷くと、夫とカイトの視線が一斉に私に集中した。その目には驚きと同時に悔しさが滲んでいた。彼らにとって私は何もできない「火事場のクソ力」という位置づけ。「専業主婦はニートと同じ」と見下していたことからも分かるだろう。そんな私が夫たちの目を盗み水面下で動いていた。きっと屈辱だったに違いない。
鑑定結果を信じられない場合は、改めてやり直してもいい。ただ、何度やっても結果は同じになるはずだ。僕の妻がエリで、エリが妊娠したのは僕の子だという事実は変えられないから。
エリ、なんでだよ。なんで俺たちを騙したんだ。お前は俺のこと愛してるって言ってたよな。あれも全部嘘だったのか。答えろよ。
証拠がある以上、エリに逃げ場はない。彼女自身も分かっているから、震えて言葉を失っている。エリは俯いていた顔を上げて私を見た。そして観念したように事実を語り始めた。
友信さんに不満があったわけではないの。でも友信さんへの愛情はほとんどなかったわ。私と友信さんはお見合い結婚だった。両親が強引に決めてしまったのよ。私は逆らうことができず、流されて結婚してしまった。子供ができたら変わるかもしれないと思って、友信さんの子供を妊娠した。でも私の気持ちは変わることはなかったの。そんな時だった。私がカイトと出会ったのは。カイトを愛しているのは嘘じゃない。愛しているから言えなかったの。ごめんなさい。
エリは勢いよく土下座した。その姿が静かになった家に広がっていく。彼女の告げた真実は友信さんや夫に重くのしかかる。
信じられない。これはとんでもない裏切りだ。愛しているなんて、口では何とでも言えるしな。エリ、お前のやってることは結婚詐欺みたいなもんだぞ。最初から俺や父さんに規制するつもりだったんだろ。山神さんも山神さんだ。あなたがしっかりしてないからこんなことになったんじゃないですか。
たけしの言う通りだな。山神さん、どう責任を取るつもりですか?俺たちが納得できる答えは聞かせてくださいよ。
夫とカイトの鋭い視線が友信さんを襲った。
そんな2人を見て、私はマグマのような怒りが込み上げてきた。確かにエリがしたことは許されないことだろう。でも夫とカイトもエリを責められる立場ではない。本当に詐欺師なのは誰なのか。思い知らせてやる必要がある。そのために私は準備をしてきた。私にとっての戦いは、ここからなのだ。
結婚詐欺の責任を取れだと?たけし、あなたたちにそれを言う権利ないでしょ。私は知ってるのよ。全てをね。
は、何言ってんだお前。お前ごときが何を知ってんだ。
母さんは黙っててよ。どうせ何もできないんだから。
直後、私は用意していたノートパソコンの画面を見せた。それを見て夫とカイトは時間が止まったように固まった。画面には夫とカイトの意地悪な笑顔が映っている。私が再生ボタンを押すと、耳を疑うような会話が聞こえてきた。
ほら、カイト、これを見てくれ。離婚届けだ。俺の名前は書いておいたから、あとはみさのサインがあれば離婚成立だ。
いよいよ離婚するんだね。絶対にその方がいいよ。母さんは父さんのお金で何の苦労もなく生活しているからね。昔から父さんがかわいそうだって思ってたんだ。そういえば、なんですぐに離婚しなかったんだよ。
実はな、カイト。元々俺はみさを利用するために結婚したんだよ。正直誰でも良かったんだ。その時たまたまみさと付き合っていたってだけ。あいつ、俺に従順で言いなりだったしな。でももういらなくなったし。捨てるわ。
うわ、最低。ま、母さんは騙されてるって気づいてないし、最後まで都合よく使ってやろうよ。
ここまで流して停止ボタンを押した。映像も音声も鮮明だっただけに、夫とカイトは驚きを隠せずにいる。ある程度のことは我慢できた。でも交際当初から今に至るまでずっと騙されていたと分かった瞬間、私の中で何かが切れてしまい、今に至っている。こんな会話をしている2人に、どうしてエリが責められるだろうか。本当に笑わせてくれると呆れ果てたが、実際は笑えない状況だ。
だが、夫とカイトはさらに笑えないことを言い出した。
みさ、お前盗撮していたのか?例え家族間であっても盗撮なんて許されない。そもそもお前が全部悪いんだろ?俺に規制して悠々自適に暮らしていたお前が。
そうだ、そうだ。1人じゃ生きていけないから父さんと結婚したんだろ。せっかく父さんが養ってくれてたのに、感謝の気持ちはないのかよ。
夫とカイトに謝罪する気配はない。それどころか、本性は暴かれたのに悪びれる様子もない。それもそのはず。自分たちが悪いなんて1ミリも思ってないのだ。最初から悪いと思ってないから、罪悪感なんて頭にないわけだ。
こんな奴らに遠慮する必要はないだろう。私は反撃の一手を打とうとしたが、先に口を開いたのは友信さんだった。
規制とか、1人じゃ生きていけないとか。さっきから君たちは何を言ってるんだ?もしかして何も知らないのか?家族なのに。
どういう意味ですか?みさは専業主婦ですよ。専業主婦なんてニートと同じです。俺が働いて稼いだ金があれば生きていけるんですから。
そうですよ。はっきり言って母さんは邪魔なんです。母さんがいなくなればもっと生活が楽になりますよ。
本気で言ってるのか?だってみささんの年収は1500万以上だぞ。僕たちの給料なんてはるかに超えている。規制する理由なんてないじゃないか。
あまりにも信じられない事実に、夫とカイトは失笑だった。私には想定内の反応だったので、何も言わずに通帳を取り出した。通帳を見た夫とカイトは目がこぼれ落ちそうなほど見開く。何度も何度も桁数を数えるが、そこにあったのは私の年収が1500万以上であるという事実だけだった。
な、なんだよこれは。ありえない。みさが俺たちよりも稼いでいるだと?しかも年収1500万って。それこそ詐欺じゃないのか。こんな大金、簡単に稼げるわけがないんだ。
実は私、動画製作会社で働いているの。友信さんの友人と一緒にね。お給料はYouTubeの収益がメインよ。在宅でできる仕事だったから、家事をしながらでも可能だったわ。友信さんと再会した時点で、私は夫と離婚することを考えていた。この時私にとっての一番の悩みは収入面だった。悔しいが、夫とカイトの言う通り私は専業主婦で収入がなかった。長年仕事をしていなかったので、就職に対しても不安があった。そんな中、友信さんの友人が会社を起業すると知った。私にもできるような動画制作だったが、結果を出すことができ、今に至っている。ただ、私は夫とカイトに仕事を隠していたわけではない。自宅で仕事をしていたのだから、気づける要素はいくつもあった。彼らが気づけなかったのは、私に興味がなかったからだ。捨てるつもりの女のことなんか知ったこっちゃない。そんなことを考えていたのだろう。
ちなみにここ数年の生活費を出していたのは私よ。家計のことも丸投げしていたたけしには気づかなかっただろうけど。
嘘つくな。生活費は俺の貯金から出してるだろう。確かにお前に任せていたから詳しく把握してないが。
とっくに貯金は尽きてるけどね。だってあなた、ギャンブルとキャバクラにはまって散財してたじゃない。
話の流れでさらっと暴露してやると、夫の額から冷や汗がにじみ出た。私を散々「寄生中」呼ばわりしていた夫だが、彼には規制できるほどのお金はない。私が生活費を補填していたと知らず、家計も丸投げだった夫は、自分のお金の管理すらできていなかったのだ。夫の脂汗はとまることを知らずに流れ出す。しかし夫以上に焦っていたのはカイトだった。カイトは小声でブツブツと何かを呟いている。
父さんに貯金がない。そんな話聞いてないぞ。何のために俺が同居を決めたと思ってるんだ。
私にだけ聞こえていたが、カイトが何を言いたいのか私は知っている。この場で暴露してやってもよかったが、何も言わずにいると、夫とカイトが手のひらを返してきた。
みさ、年収1500万なんてすごいじゃないか。それだけ稼いでれば楽ができるよな。俺が家をやってやるから、もう一度一緒に暮らそう。
そうだよ。母さん。やっぱり家族は一緒にいないと。これまでのことは謝るからさ。
残念だけど。もう私は新居に引っ越してるの。あと重要なことを言ってなかったわね。私は独身になったから、家族でも何でもないわよ。
は、独身になった?俺たちがいつ離婚したって言うんだよ。
戸惑う夫。いや、元夫のたけしに、私は再度ノートパソコンを見せた。するとたけしは「あ」と言葉をもらす。私がなぜ独身なのか察したようだ。
たけし、あなた自身が言っていたことよ。「俺の名前は書いておいた。あとはみさのサインがあれば離婚成立だ」って。離婚届の隠し場所も知っていたから、お望み通りサインして役所に提出しておいたわよ。だから私たちは夫婦じゃないの。手間が省けてよかったでしょ。
母さん、マジで勝手に出してきたの。いくらなんでもやりすぎじゃない?
私の思い切った行動にカイトは驚きを隠せないでいた。だけど私から言わせれば、何を今更という感じだ。サイン済みの離婚届を用意していたたけし。それを見てケラケラと笑っていたカイト。私に離婚届を突きつけるきっかけを与えたのは、どこのどいつだ。私がどんな気持ちでサインしたか、想像もできないのか。蓋をしていた怒りが湧き上がり、私の目には涙が浮かんだ。友信さんも我慢できなかったようで、ゆっくりと口を開いた。
2人とも、自分のことしか頭にないのか。あれだけみささんを傷つけて、やり直すなんて無理だろ。何が家族だ。家族なら何をやっても許されるのか。結婚したから、血が繋がっているから、それだけで家族なのか。お互いを思って支え合い、苦難を乗り越えて、家族になるんじゃないのか。君たちのように汚い人間を見たのは初めてだ。もうみささんに関わらないでくれ。
友信さんは冷静なように見えた。でも体がブルブルと震えていた。幼い頃私を守ってくれていた友信さんは、今も変わらず優しい人だと。今度は嬉しくて涙がこぼれた。たけしとカイトは友信さんの言葉に沈黙している。ようやく黙らせることができたと思ったが、そんな考えは甘かったと思い知ることになる。
分かりましたよ、山神さん。俺とカイトはみさと関わりません。何があっても絶対にです。そもそも最初から捨てるつもりだったんだ。色々あったけど予定通りですよ。俺にはカイトがいるので大丈夫です。というわけで、さっさと帰ってくれませんか。嫁の管理もできないくせに、偉そうにしないでくださいよ。エリもいらないんで、ちゃんと持って帰ってくださいね。まあ、どうせすぐに逃げられるんでしょうけど。
そんなことも忘れているのか、たけしは完全に開き直ってしまった。カイトも便乗するように馬鹿にした言葉を並べ出す。友信さんは今にも殴りかかりそうなくらい怒りの表情を浮かべていた。でも私は冷静に友信さんの前に立って首を横に振る。こんな奴ら、殴る価値もない。そう思いながら友信さんを見ると、彼はすぐに理解してくれたようで、握っていた拳を緩めてくれた。
たけし、カイト。私たちは出ていくわね。3日前にも言ったけど、後で私に頼るのはなしよ。何が起きても絶対にね。
はいはい。分かった分かった。カイトと協力すれば何も問題ないんだ。お前こそ泣きついてくるなよ。1人ぼっちで寂しいってな。
もう何を言っても無駄だと思いながら、私と友信さん、そしてエリは家を出た。
私たちの間には重い沈黙が訪れるが、真っ先に頭を下げて謝罪したのは友信さんだった。
みささん、すまない。僕がいながら大した力になれなかった。たけし君のことは会社にも報告するよ。彼には改めて話をするつもりだ。このまま謝罪もないなんて許せないからね。
ほとんど同時にエリも頭を下げた。彼女の様子から本当に反省していることが見て取れる。簡単に許されることではないが、間違いを認めたのなら、まだ救いはあるだろう。
友信さん、私のことを助けてくれてありがとう。昔もたくさん助けてもらって、ずっと感謝してた。私も守られてるだけじゃダメだと思う。だから後のことは任せて。
その言葉に友信さんは昔のように微笑みながら、ゆっくりと頷いてくれたのだった。
数ヶ月後、私はスマホの着信音で目を覚ました。ディスプレイにはたけしの名前が表示されている。ようやく来たかと思いながら、私は通話ボタンを押した。すると、たけしの情けない声が飛び込んできた。
みさ、教えてくれ。そっちにカイトが行っていないか。探し回っているけど見つからないんだよ。俺、どうすればいいんだ?
今までにないくらい焦りまくっていた。その理由は、たけしの前から突然カイトがいなくなってしまったから。しかも、ただいなくなったわけではない。たけしのお金を盗み、音信不通になってしまったのだ。
貯金がなくなったから借金したんだよ。それでカイトと協力してやりくりしていたんだ。そしたらカイトのやつ、俺が借金した金を持って消えたんだよ。くそ。なんでこんなことに?
それはそれは大変だったね。でも、カイトがあなたのお金を盗むのは確定事項だったわよ。だって、元々カイトはたけしのお金が目当てで同居計画したんだから。
今、何て言った?カイトが俺の金目当てに同居計画しただと。聞き間違いじゃないよな。
ええ、間違いないわよ。カイトもあなたと同じようにギャンブルとキャバクラにはまっていたの。それで多額の借金を抱えていた。そこで思いついたのが、たけしに規制することだったの。たけしは知らないと思うけど、カイトはこんなことを呟いていたわ。「父さんに貯金がない。そんな話聞いてないぞ。何のために俺が同居を決めたと思ってるんだ」ってね。
直後、電話の向こうがしんと静かになった。まさか息子に騙されているとは、本人も思っていなかったのだろう。私がカイトの計画を知ったのは、友信さんと再会したことがきっかけだった。友信さんはエリのことを探し回っていたが、その過程でカイトの存在を知った。その頃、私はたけしのことを調べていた。結果、ギャンブルとキャバクラにはまっていることが判明したのだが、カイトもたけしと同じお店に出入りしていたのだ。そのまま調査を進めていくと、カイトに多額の借金があることが判明した。その後、カイトはたけしに同居を持ちかけた。その瞬間、私はカイトがたけしのお金を頼りにしていると察したというわけだ。
カイトはたけしにべったりだったわ。小さい頃からずっとね。あなたを見ながらカイトは大人になった。だからカイトはあなたのことを誰よりも知っていた。どうすれば騙せるかまでね。
あんなカイトが、実の息子が、俺を騙すなんて。そんなこと信じられるわけない。
そこまで言うと、たけしは何かに気づいたようだった。たけしも私を騙し、貶めた。それが今、自分に帰ってきたというだけだから、何もおかしな話ではない。そうなるべくしてなったのだ。人を騙すなら、騙される覚悟もしておくべきだったわね。家族ならなおさらかも。ま、どちらにせよ私には関係のない話だわ。
そんな冷たいこと言うなよ。俺、会社もやめてアルバイトしてるんだ。マジで金がないんだよ。危ないところからも借りたから、このままだとやばいんだ。みさ、年収1500万なら、少しくらい出せるだろ。俺を助けてくれ。いや、助けてください。
あれ?私は何度も言ったわよね。「後で私に泣きつくのはなし。何があっても絶対に」って。忘れたとは言わせないわよ。
という情けない声だけが聞こえてくる。あれだけ啖呵を切った結果がこれだ。本当にバカな人だと呆れるばかりだ。もう言葉も出ないようだったので、そのまま電話を切った。もうこれで本当に終わりだと、私は静かに目を閉じたのだった。その後、たけしは借金取りに追われながらアルバイトで食いつないでいるとメールを送ってきた。何度も助けて欲しいと連絡が来たが、メールを確認するだけで返信はしなかった。一方カイトは、持ち逃げしたお金も使い切り、身動きが取れなくなった。友人からも借金をしていたようで信用をなくし、今では1人ぼっちだ。もしたけしとカイトが協力していれば、もう少しだけマシな未来があったかもしれない。そう思いはしたが、もう私には関係ないことだ。友信さんとエリは正式に離婚することになり、子供は友信さんが引き取ることになった。エリは実家に帰り、肩身の狭い思いをしているようだが、変わろうとしているらしく就職活動を始めた。「エリのことは簡単には許せないが、変わろうとすることは止めない」と友信さんはそう言っていた。子供と一緒に前を見ている彼を見て、私も新しい人生の一歩を踏み出すのだった。



