まなみは顔を真っ青にして、ガクガク震えていた。「50人、ドタキャンされた……」。開店を間近に控えた孫娘のために、俺は全財産をかけたわけじゃない。ただ、彼女が立て替えた15万円分の料理が、誰も来ない店に並んでいた。「誰が付け焼き刃で成り上がりの店に行くか。今夜は駅前の居酒屋で無反省会をやるんだよ」——元部長の高笑いが録音された電話から聞こえてきた。パニックに陥るまなみを横目に、俺はある人物に電…

まなみは顔を真っ青にして、ガクガク震えていた。「50人、ドタキャンされた……」。開店を間近に控えた孫娘のために、俺は全財産をかけたわけじゃない。ただ、彼女が立て替えた15万円分の料理が、誰も来ない店に並んでいた。「誰が付け焼き刃で成り上がりの店に行くか。今夜は駅前の居酒屋で無反省会をやるんだよ」——元部長の高笑いが録音された電話から聞こえてきた。パニックに陥るまなみを横目に、俺はある人物に電...

「まなみ、どうした?」
青ざめた顔でガクガク震える孫娘を見たのは、あの日が初めてだった。

俺の名前は菅原吉。75歳の後期高齢者だ。大先短い爺いさんと呼ばれることもあるが、俺はまだまだ現役で働いている。家族は妻と息子、そして孫娘のまなみとの3人暮らしだ。息子の妻は、まなみを産むときに自分の命と引き換えにこの世を去った。花は母親の温もりを知らぬまま育ったが、祖母となる妻の献身的な子育てと、息子の溢れる愛情で真っ直ぐに育った。俺はまなみが結婚し、子供を授かるまでは、絶対にこの世を離れるわけにはいかないと思っている。だから人一倍健康に気を遣い、定期検診も欠かさない。

まなみは地元の中高一貫校を卒業し、自宅から通える国立大学に入学した。栄養学を学び、食品衛生や調理にも力を入れてきた。彼女の夢は、自分のお店を持つことだ。しかも、お袋の味、おばあちゃんの味が楽しめる小料理居酒屋を開くのが夢だという。

「食に関する昔の言い伝えって、理に適っているものが多いの。それにお酒は百薬の長って言うじゃない?食と酒って、本当に不思議よね。だから私は、健康に気を遣いながら美味しいお酒を楽しめるお店を持ちたいんだ」

一歩間違えば食べ過ぎで健康を損ねてしまうこともあるが、まなみは誰でも楽しみを大切にできる場所を提供したいのだという。お酒が飲めない人には、きりっと冷やした米麹の甘酒を振る舞い、よく飲む人にはキノコや豆類をメインにしたお通しを合わせる。食事制限がある人にも、何なら食べられるかを考え、食べられずに苦痛な時間にならないよう提供したいとも言っていた。

まなみは大学を卒業後、管理栄養士の資格を生かして和食系のファミレスへの就職を決め、商品開発部門で働き始めた。就職先はいわゆる地元資本のファミレスで、ヘルシーフードが売りだ。手作り豆腐や香辛料料理が人気だった まなみは自ら進んで転職だと思って仕事をしてきた。調理法や発酵食などの知恵を得るため、全国様々な地域へ出向き、調理法を学んだり食材を仕入れたりしてきた。そして、まなみの夢に向けて大きな一歩を踏み出したのだ。

「おじいちゃん、おばあちゃん、パパ。あのね、お店、見つかったの!」
「おお、随分早く見つかったな」
「駅前からちょっと離れるんだけど、市役所通りにあるお寿司屋さんよ。大将が高齢でお店を閉めるらしくて、格安で貸してもらえるの。それに、大将のご厚意で厨房備品なんかも譲ってもらえることになって」
「あのお寿司屋さんかい?若い頃、大将にはすごく世話になったなあ」
「おじいちゃんのおかげよ。不動産屋さんに声をかけてもらって内見に行ったんだけど、私が菅原学ですってご挨拶したら、大将が『吉さんの孫娘だろう』ってすぐに気づいてくれたの」
「え、そうなのかい。それから話がトントン拍子に進んでね、不動産屋さんも真剣に話を聞いてくださって、その場で契約してきちゃった」
「あの大将の店の立地なら、客入りも確かだろう。良かったな」

まなみは今までにない極上の笑顔で、大きく頷いたようだ。ここから、寿司屋の閉店というタイミングで俺はお礼を兼ねて食事に出かけた。まなみは店内の簡単な改修や保健所への届け出などに奔走する。また4ヶ月後の開店を目指して、勤務先へ退職届を提出した 俺は一度、まなみに開業資金は大丈夫なのかと聞いたことがある。俺の蓄えを少々融通してもいいと申し出たのだが、
「おじいちゃん、私が洋服もほとんど買わずに貯金を続けてきたこと、知ってるでしょ?少々銀行からお金を借りるにしても大丈夫よ。心配ご無用よ」
と、まなみはにっこりして俺の申し出を断ったんだろうな

まなみは本当にパワフルで、退職届が受理され、退職日へのカウントダウンが始まってからも会社の仕事を精力的にこなしていた。そして、買い出す重機や食器、耗品となる調味料類などを発注していく。この辺りはコンサルタントが介入し、まなみが目指すコンセプトの実現に向けて助言しているようだった そしてまなみが退職し、脱皿に向けて新たな一歩を踏み出す。保険所の許可が下り、オープン日が決まってからというもの、まなみも少々ピリピリしているようだった:
「まなみ、根を詰めてしまってはオープン前に倒れてしまうぞ」
「ねえ、おじいちゃん!すごくない?元部長が、このお店で50人分の宴会をしたいと言ってくれているの。プレオープンを兼ねて、お店の運営を試せるのよ」

話を聞くと、まなみの送別会をしていないため、開業祝を兼ねてこの店で食事会をしたいと、全職の部長が脱進したというのだ。
「でもこの店じゃ、50人ものキャパシティはないだろう」
「そうなのよ。だからね、この店の中庭にもテラス席を設ければ50名行けるって分かったから、お引き受けしたのよ。ビアガーデンっぽくできるでしょ」

この店はL字型の作りの建物になっており、小上がりから中庭が見渡せるようになっていた。その中庭なら20名ほどが食事を楽しめると考えたわけだ 建物は様々な都合上、決められた人数以上の収容はできないので、外で飲食してもらえるように考えたようだ まなみは元職場のメンバーの顔を思い浮かべながらメニューを検討していた。
「立食形式にするから、煮物や揚げ物以外にもメニューが必要よね。そうだ。香川さんも来てくれるのなら、カレーバイキングなんかも面白そう」

孫娘はネタ帳にメニューの素案をどんどん書き込んでいく。書き込んでは精査し、必要な材料や予算も確認していたようだ ここまで熱心に仕事をしているまなみを初めて見たような気がした そして、俺はちょっとした不安が頭をもたげてきた:
「まなみ、君は50人分の食事をどうやって準備するんだ?一人出し、あの厨房じゃどうしても限界があるだろう。それに、表向きは送別会で脱退の開業祝なのが全てホスト側で立ち回るのはおかしいのではないだろうか」
「大丈夫よ。基本の煮物を作って、そこからアレンジ料理に発展させるから、実はそんなに負担はないのよ」

料理の数も少なくして、焼酎やビールのサーバーをレンタルしてセルフで楽しんでもらうようにするという 俺はまなみの考えることを尊重し、何かあったら妻と手助けするつもりで見守ることにした そして当日を迎える:
「会場設営だけは手伝って欲しい」

というまなみの申し出を受けて、俺と妻は店へ向かった。椅子やテーブルを撤去し、中庭にベンチを置き、タープを貼る。料理をカウンターに置くと、業者がビールサーバーを設置しに来た。
「ビールジョッキなんかもレンタルできるから助かった」
「おい、この費用は誰が持つんだ?」
「今職の菊口部長が、1人予算3000円でって言ってくれたから、予算内に収まるようにやってみたんだけど」

料理は食べ残しなども考えて50名の8割分、洗い物なども少なくできるよう、今回はディスポーザブル食器を準備した まなみにとって負担の少ない方法ではあるが、ちょっとだけ持ち出し金があるようだ これで仕事帰りに立ち寄ってもらえたらいいかなって思って、とまなみは言ったが、
「まあ、それはそうなんだが」

花は準備が終わったら帰っていいと言っていたが、イベント会社に開業祝の生花スタンドを注文していたので、その設置を待っていた そして、まなみが小休止できる小部屋で待機することにした:
「手が回らなかったら手伝うからな」
「ありがとう。その時はよろしくね」

店の入り口に生花スタンドが設置され、元職場の面々が集まる時間となる こちらは準備万端、いつでもOKの状態だったのだが、誰一人としてゲストが来ないのだ 小部屋にいた俺と妻だったが、あまりにも静かすぎて心配になった そして厨房へ足を運んでみるすると、まなみは顔を青くしてガクガク震えていたのだ:

「まなみ、どうした?」
「……50名、ドタキャンされた」
「なんだと?」
「まなみが立て替えている、1人予算3000円。15万円プラスアルファだけではなく、50人分近くの食べ物が全て無駄になってしまったのよ」

「なんだそれ?」
部長がかけてきた電話は店の電話で受けており、開業を手助けしてくれたコンサルタントの助言で全て録音しているという 今回のドタキャン電話も録音をしており、その音声には菊口部長の声音がこう録されていた:
「誰が付け焼き刃で成り上がりの店に行くか。今夜は駅前の居酒屋で無反省会をやるんだよ」

録音された音声からは、高笑いまで聞こえてくる。
「どうしよう。これが回収できなかったら、っていうか、それよりも食べ物が無駄になっちゃう」

軽くパニック状態のまなみを、妻が落ち着かせている 俺は店の電話から、とある場所へ電話を入れた:
「ああ、みさ君はいるかい?」
「俺か。名乗らずすまないね。菅原といえば分かるはずだよ」

こんな風に平然な態度で電話を入れたのだが、すぐに繋いでもらえた:
「菅原様、お待たせしております」
「ああ、突然すまないね。今日は商品開発部の菊口君は帰ったのか?」
「少々お待ちください」

電話の向こうは、まなみの元職場の役員であるみ崎だ み崎は部下に確認を取って、取引先接体のために帰ったようだという ほお、私は駅前の居酒屋で反省会をしていると聞いたんだが、と俺が言うと、み崎は慌てた様子だった 呆然としているまなみのために、今すぐ駅前の居酒屋にいる菊口を捕まえる必要があった 俺はみ崎に、駅前の居酒屋で落ち合おうとだけ伝えて電話を切った み崎は事情を把握するためにちょっと待ってくれと叫んでいたが、そんなの知ったことではない:

「まなみ、待ってろ」

俺はそう言って駅前まで出ることにした 俺が駅前の居酒屋に着くよりも早く、み崎は現地についていた:
「菅原様、一体何がどうなっているのか」
「まあ、中に入ろうか」

俺はみ崎の質問に答えぬまま店に入ると、そこには商品開発部のメンバーが数名、美味しそうな食事と酒を楽しんでいる姿があった:
「お楽しみのところすまないね」

俺が菊口らしき人物に声をかけると、
「なんだおっさん。あんた誰だ?」

菊口は酒でほんのり上気した顔をこちらに向けた。俺の真後ろから、菊口の上司であるみ崎が現れたため、その顔色がさっと引いたように見えた:
「今日は、うちの孫娘の店に来てくれるんじゃなかったのか。50人もの社員を連れて、3000円の予算で18時から」

み崎が驚いたような表情を見せるが、菊口は酒によって尊大な態度を取る:
「はあ、なんすかそれ?孫娘の店って」

その時、同じ部門の社員たちの顔色がさっと変わった:
「今日は君たち、どんな集まりなのかね」
「プロジェクト開始のケーキ付けとして、み部長の温度で今日はこちらに」

この男のために、まなみがカレーバイキングを考えたに違いないと、俺は思った。実際、菊口は片手になぜかカレーライスを持っていた:
「おかしいな。今日は取引先の接体だと、仮払い金の精算と臨書があったぞ」

俺はまなみが受けた予約とドタキャンの電話の録音内容を、スマホのボイスレコーダーから再生して聞かせた:
「ちょ、ちょっと、これって」

今まなみさんが料理を50人分準備して待っているってことですか?と、香川という若い社員が言った 俺はうんと頷いてことの全容を知った役員のみ崎は、怖い表情に変わった:
「接客と嘘をついてこの飲み会を開催している他、退職した社員が開いた店の営業妨害をしたってことか」
「そういうことですね」

すると、み崎が突然、俺に土下座して謝った:
「す、菅原様、大変申し訳ございません。菅原学は菅原様のお孫さんだったんですね」

なぜ役員のみ崎がこんなにうやうやしく俺にへりくだるのか?俺は元々、み崎たちの会社の前身である食品卸会社の創業者だった だがファミレスに業態を変えるという時に退任し、今では株主という関係性だ 株主と言っても発行された株の数%程度だし、まなみの入社とは一切無関係だ 多分まなみも、前身の食品卸会社のことは全く知らないだろう まなみが引き継いだ寿司屋の大将と付き合いがあったのも、この繋がりがあったからだ だが、み崎がこんなに恐縮するのは、その創業者としての俺への敬意だろうなあ:

「っていうか、菊口部長、今夜の飲み会は3000円の会費制ですよね」

み崎が顔をさらに怒らせ、菊口部長の顔色が青く変わっていく すると、飲み会に参加していた社員たちが、怒りに満ちた表情になっていた:
「接客と嘘をついて飲み台を会社に請求する。ほ、ここにいる部下から会費を徴収していたってことか」

呆れるな、と俺は思った 菊口部長の悪事の上塗りが明らかになり、み崎は怒りを通り越したような、この世のものとは思えない表情をしていた:
「菊口、会社に戻るぞ。社長と人事部長に報告だ」

ずるずると引きずられるように、み崎に引っ張られていく菊口部長 この場には、俺の他、一緒に飲んでいた社員が4名残されてしまった:
「あの、まなみさんは今」

「ああ、ドタキャンされたって分かってすぐに出てきてしまったから、何とも言えないけど、あの時は張り切って作った食事と費用面を心配して、少しパニックに陥っていたな」

社員たちは互いに顔を見合わせ、うんと頷くと、俺と一緒にまなみの店に行くと言い出した:
「ありがとう。孫娘を少し元気づけてやってはくれないか?」
「そのつもりですよ」

香川たちは店の会計を済ませた後、ちょっと歩いたところにあるまなみの店へ向かった:
「来週の開店の日にみんなで行こうって話をしてたんですよ。でも、今窮地に陥っているなら、彼女を助けなきゃ」

みんなが、みんなまなみに助けられたという:
「アイディアを一緒に膨らませてくれたり、手作りの煮物をご馳走してくれたり」
「そんな小さなことだったと言うけど、だんだん気持ちがほぐれていきました」
「彼女は、商品開発部に欠かせない存在だったんですよ」
「何言ってるんですか?商品開発部じゃなくて、香川さん自身に欠かせない存在でしょ」

女性社員がそう言うと、香川は顔を真っ赤にしたようだ お、そういうことか、と俺はにっこり笑い、まなみの店の前に到着した すごいな、夢を叶えたんだ、と香川は大きな生花スタンドと店の看板を見て、考え深そうに呟いていた 店内に入ると、作った料理をどうしようかと悩むまなみと妻がいた:
「今から職場の人間と俺の友達20人呼ぶ。多分、全部食べきれる」
「え、俺、このカレールーをご飯全部予約する。これ、俺にくれ」
「へ?」

突然の香川と元職場の仲間の登場に戸惑いを隠せないまなみだったが、香川や仲間たちがまなみの目の前で電話をかけて仲間を呼び始めたところで、安心して泣き出したのだ:
「大丈夫だよ。まなみちゃんのお店は、うちの職場の人間みんなが応援しているから」

周りの仲間も、力強く頷いている:
「まなみ、いい仲間を持ったな」

まなみは泣きながら頷いた そこから一人、二人と仲間が集まり、まなみが作った料理を誰もが美味しそうに食べてくれた 50人分、15万円の損失を背負うところだったが、香川が事情を仲間に説明したところ、誰もが菊口部長に怒りを覚えた そして、まなみちゃんへのお祝いと、少しでも会費相当のお金を支払ってくれたのだ 50人は集まらなかったが、準備した料理は全て綺麗に食べきってもらえた:
「本当にありがとうございます」

まなみは、集まってくれたみんなへ深々と頭を下げた:
「頑張れよ」

そんな声がたくさん飛んできて、まなみを温かく応援している気持ちが伝わってきた その後のことだが、まなみが店主を務める居酒屋は、毎晩大盛だった ほどほどに飲めて、健康的に食べられるところが人気で、家族での来店も増えてきた 菊口部長だが、その後、不正に切退費を受け取っていることが明るみに出て、業務上横領の罪に問われたようだ 地元ファミレスの不祥事は地元テレビ局や新聞で大きく取り上げられることとなったが、それも一瞬のことだった そして、あの日から、香川は毎日のように店に来るようになった:

「なんて君は、毎日孫娘の店でカレーライスばかり食べているんだい?」
「最高なんですよ、まなみさんのスパイスたっぷりのカレーライスが」
「お店以外でも、毎日食べさせてくださいと言えばいいのに」
「えっ」

そのやり取りを聞いて、俺は思わず笑ってしまった:
「君にだったら、大事な孫娘を任せてもいいと思っている。ただ、まなみの父親は俺よりも壁が高くて暑いぞ」

香川は思わずむせ込んで、咳が止まらなくなった:
「香川さん、大丈夫ですか?」

まなみがグラスに水を注いで渡す姿に、俺は満足した だって、まなみはまだまだ香川の気持ちに気づいていないようだったから まだまだ元同僚で、お客さんの一人でしかない、と見た 俺は、この甘酸っぱい関係を眺めながら、この店の隆盛を願っていた。

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