「昨日作ってもらった資料、ここが間違ってるから直して欲しいんだけど」
私はファイルを持って、中途採用の子に手渡した。彼女はポカンとした顔で私を見る。間違いが分からないのかと思い、修正して欲しい箇所と内容を伝えた。しかし彼女の反応は鈍い。
「頼んで大丈夫?」
私が彼女の顔を見ながらそう聞くと、彼女は私の顔を見て笑った。
私の名前は直美。旧姓は少し珍しい苗字だったけど、結婚してからは小林という平凡な苗字になった。読み方を訂正することもないので、楽になったという点は良かったところだ。
私は55歳の会社員で、夫と娘の3人で暮らしている。それぞれ忙しいので、家で家族が揃う時間はほとんどない。娘の香織はもう30歳だし、一緒に過ごす時間が減ったことに不満はないけど、仕事が好きな娘の結婚が遅れていきそうなところが悩みだ。
私は今の会社で昔から働いていて、子育て中は退職していたが、娘が高校を卒業した時に復職した。退職してから時間も経っているので、初心に戻って勉強し直し、新人のつもりで頑張った。当時の先輩や同期は役職がある人がほとんどで、役員になっている人もいる。だからあまり頼れる人はいなかった。とはいえ、そこまで大きな流れは変わっていなかったので、私はなんとか仕事について行くこともできた。復職してからも10年以上経っているので、今では教育係として新人の指導にあたっている。
今私が指導しているのは、少し前に入社してきた24歳の部長の娘。部長は娘の学歴を自慢しながら「こんなに頭がいいんだから仕事もできる。雇って損はない」と社長に頼んだそうだ。この部長は10年ほど前に他社から転職してきた人だそうで、「自分は仕事ができる。ついて来られない奴がおかしい」というタイプだ。確かに営業実績が良かったこともあり、部長に出世したけど、今の時代の流れについていけてないようで、やり方も考え方も古い。それに勉強不足で商品知識もない。いつまでも昔のことを引きずっていて、「自分はすごかったんだ」と部下に自慢しているものだから、部下からは煙たがられている。
私のことを社員ではなくパートだと思っていて、私が娘の指導をしていると知った時は「パートごときに指導させるな」とうちの課長に言ってきた。課長は私がパートではなく社員だと訂正し、何人も指導してきたと説明したけど、納得はしていないようだ。
部長の娘は初日から横柄な態度で、挨拶もろくにしないし、なぜか偉そう。軽く注意はしたけど、聞く耳も持たない。でも「頭がいいし仕事ができる」と部長が太鼓判を押していたし、仕事をやらせてみたら成長するかもしれない。そう思って仕事を教えて1ヶ月。私の努力はほとんど無駄になっている。
どうやら大学には入学したけど、勉強もせずに遊んで留年。結局大学に行かなくなって中退したらしい。大卒だと学歴を詐称していたけど、ある時本人がうっかり中退だと暴露してしまった。その後は就職することも、アルバイトをすることもなく、親からお小遣いをもらっては遊び歩いていたそうだ。さすがにこのままではいけないと思った部長がゴリ押しして入社させたというわけだ。
少しでもやる気を見せてくれるなら仕事を教えようという気になるんだけど、これではお互いストレスが溜まるだけだろう。かと言って他の人に指導できるとも思えないし、もう少し頑張ってみるしかないか。
私は部長の娘への対応を色々変えてみた。時には褒めて伸ばそうとし、時には自主性に任せてみる。遠回しに注意したこともあるし、世間話をしてみようとしたこともある。が、どれもこれも思うようにはいかなかった。本当は叱りたい気持ちもあったけど、そんなことをしたらまた部長がしゃしゃり出てきて面倒なことになるのが目に見えている。もう手の打ちようがないと思い始めた夜、とんでもないことが起こった。
ある日、私は前日に部長の娘へお願いしていた資料が間違っていることに気づいた。
「昨日作ってもらった資料、ここが間違ってるから直して欲しいんだけど」
私は資料のファイルを持って彼女に渡す。すると彼女は「何言ってるの」と言わんばかりの顔で私を見た。間違っている場所が分からないのかもしれないと、修正して欲しい箇所と内容を伝える。それでも彼女の表情が変わらないので、私は「頼んで大丈夫?」と確認をした。次の瞬間、彼女は私の顔を見てバカにしたように笑う。
「どうして私がこんなことやらなきゃいけないの?直して欲しいなら、もっと頼み方があるでしょう。ていうか、そのくらいの修正、あなたがやればいいじゃない」
開いた口が塞がらないとはこういうことなのか。私は思わず数秒固まってしまった。指導している立場の人間に向かって「どうしてやらなきゃいけないのか」。「もっと頼み方がある」なんていう新人は今までいなかったし、そんな言葉が出てくるとは思ってもいない。彼女はファイルを受け取りもせず、私に背を向けた。
さすがに我慢ができない。私はなるべく冷静に彼女に話をした。
「あのね、これはあなたの仕事なの。ミスをしたことは何も起こっていないし、そのミスを見つけるのも私の仕事だけど、修正を拒むってどういうこと?あなたは自分の仕事に最後まで責任を持てないということ?まだ新人だから、ミスしている箇所も修正の仕方も教えている。それなのにその態度は何?ここは会社なの。仕事をするところなの。どんな理由で入社してきたとしても、仕事はきちんとしてもらわないと困るんだから。そういう態度は今すぐ改めてくれる?」
すると彼女はまた私を馬鹿にしたように笑い、部屋を出てどこか行ってしまった。周りはみんな私に同調してくれていたし、「もう指導しなくていい」という声も聞こえるほどだ。私もため息をついて自分の席に戻る。その日、部長の娘はそのまま帰ったようで席に戻ってくることはなかった。その行動には驚いたけど、そのままやめてもらっても会社には何のダメージもないと思ってしまった。ただ、部長が出てきてまずいことになるかもしれないと不安になった。
翌日、1人の社員が私の元へ慌ててやってくる。
「直美さん、部長が今すぐ来て欲しいって言ってるんですけど」
思った通りの展開だ。私は席を立ち、呼び出された会議室へと向かう。大方昨日のことだろう。「指導が行きすぎていた」とか「娘に何を言ったんだ」とかそんなところだろうけど、私は悪くない。なんなら周りに証言してもらうのも。
会議室へ入ると、いきなり部長に睨まれた。隣の席には娘が座っている。挨拶をする間もなく、私は部長に怒鳴りつけられた。
「きちんと指導もできないパートごときが調子に乗るな」
またその話。何度「パートじゃない」と言ったら分かってもらえるのか。この年の女性ならパートだろうという固定概念なのか、初めから覚える気がないのか。それともあえて見下すために私のことをパートだと言ってきているのか。部長の考えは全くわからない。この部長は感情的になることも多いし、途中で反論すると長引きそうだから、とにかく話を最後まで聞くのが先だ。しばらく怒鳴られるのは覚悟しよう。
そう思って聞いていたけど、さすがに事実と異なることばかりで怒鳴られていることに疑問しか感じなくなった。「いつも感情任せに怒鳴ってくる」とか「何をしても間違っている」とか「早く直せ」とか、そんなことはしたことがない。部長が怒鳴っている横で、ニヤニヤと私を見ている彼女にも腹が立ってきた。ずっとこうやって父親任せに人生を歩んできたのだろうか。それとも利用できるものは父親でも利用するのだろうか。ある意味尊敬してしまう。
昨日、私は課長から彼女の指導係を降りてもいいと言われたし、この部長は違う部の部長で、普段の私のいる部署には関係がない。正直なところ、この親子から嫌われようと何しようと私にはどうでもいいことだ。でも、言われっぱなしは悔しい。私は事実でないことばかり言ってくる部長の話を遮った。
「それは娘さん以外の人からも事情を聞いているんですか?お言葉ですが、私は娘さんへの指導で謝った点はありません。それに今部長の話したことは、私には全く身に覚えのないことです。むしろ入社したてと分かっていたので、多少指導は甘くなっていたと思いますよ。私を怒鳴りつける前に、娘さんとしっかり話して娘さんを仕付け直した方がいいんじゃないですか」
今までのことが溜まっていたので、辛辣な言葉をぶつけてしまった。でも後悔はしていない。部長は再び私を怒鳴りつける。
「こんなに娘が泣いているんだ」
なんて熱弁しているけど、あなたの娘はそこでニヤニヤしながらこちらを見ているだけですけど。私は呆れてしまった。部長はもう怒鳴りつけるネタがなくなったのか、机を叩きながら私に言った。
「いい加減、娘に謝れ」
これってパワハラじゃないのかしら。そう思いながらも私は部長を見る。
「謝罪する気はありません」
きっぱりとそう言うと、部長はまた机を叩いて「貴様、誰の娘だと思ってんだ。即首だ」と私に言った。そう来たか。思いがけない展開に、私は一瞬言葉に詰まる。部長はそれを見て勝ち誇ったかのように笑った。
「立場をわきまえろ。新人だろうと俺の娘なんだ。お前みたいなパートと俺の娘、どちらの立場が上かなんて一目瞭然だろ。聞こえなかったのか。首だよ、首。早く出ていけよ」
私は深呼吸をする。そして部長に言った。
「あなたに私を首にする権限があるんですか?」
部長はピクリと眉を動かし、「当然だろ。俺を誰だと思ってるんだ」という。私はため息をつき、「そうですか」と言って会議室の出口に向かった。
次の瞬間、会議室の外からコツコツとヒールで歩く足音がして、会議室のドアの前で止まる。そしてドアが開いた。部長はその人物を見ると固まって、「あ、どうしてここに」とつぶやく。
社長令嬢は社長の秘書で、社長と2人今日外出の予定だった。部長はそれを確認していたから驚いたのだろう。部長は先ほどの態度とは一変、おどおどと会議室に入ってきた社長令嬢に問いかける。
「社長は外出してますが…」
「私はいつも一緒というわけではありませんよ」
きっぱりと言われて、部長は固まったまま。部長の娘に至っては社長令嬢の顔なんて覚えていないのだろう。事態が飲み込めていないようでポカンとしている。この後、もっととんでもない事実を知らされるのである。
社長令嬢は私のところまで来て口を開いた。
「私の母が何か?」
その言葉に部長は小さな声をあげる。「え?…え?」って。私が部長を見ると、顔色がみるみる変わっていった。社長令嬢、いや、私の娘である香織は厳しい顔つきで部長を見る。
「母があなたに呼び出されたと聞いて、この会議室の監視カメラで様子を伺っていました」
部長はもう顔面蒼白で、何かを言いたそうに口をパクパクとさせている。その様子を見て香織は笑った。
「ああ、どうして監視カメラがついているのかってことですか?私も驚きましたよ。まさかこの会議室の監視カメラが切られているなんて。警備の方に聞いたら、あなたが社長の名前を使って今日の朝に警備室に入ったそうですね。その時にここの監視カメラの電源を落としたんでしょう。残念でしたね。私がそのことに気づいたのはあなたたちがここに入る前なので、一部始終見せてもらいました。以前からあなたにパワハラの疑いもありましたし、念のためと思って見ていたら、思わぬ証拠が手に入りました」
顔面蒼白の部長の隣でポカンとしていた娘も、ようやく事態が飲み込めたらしく青ざめていく。それを見ながら香織の口調は厳しくなっていった。
「今回ようやくあなたの尻尾をつかみましたよ。あなたがパワハラする時は、決まって監視カメラのないところや人のいないところでしたよね。社員の証言に今回の証拠。もう言い逃れはできませんよ。ああ、ちなみに私は母だから守ったわけではないですよ。誰がターゲットにされても、経営者側の人間として社員はしっかり守ります」
私が昨日家に帰ると、珍しく夫と香織が家にいた。香織は社長である夫についている秘書なので、基本的には2人一緒なのである。出先の仕事が早く終わったので直帰したと、夕飯まで用意して待っていてくれた。会社であんなことがあったので、私は嬉しすぎて思わず泣いてしまう。慌てた夫と香織に慰められ、私は事情を話した。
すると、部長のパワハラを他の社員から報告され、問題になっているところだという。「部長は今回の私のことを放っておくはずがないだろう」と踏んだ夫は、もし私に部長が接触することがあれば香織に証拠を掴ませようとしていた。翌日、夫はどうしても外せない用事があったけど「1人で大丈夫」と伝え、香織には車内に残るよう指示。案の定、部長からの呼び出しを受けた私は「会議室に呼ばれた」と香織に短いメールを送り、香織はそれを監視カメラで確認するために警備室に行った。すると警備員から、「少し前に部長が来て、社長命令だから中に入らせろと言われた」と報告を受ける。部長は強引に監視カメラを管理している部屋に入り、カメラの電源を切ったということだ。香織が監視カメラの電源を入れたので、今回の一部始終はばっちり録画もされている。
香織が部長親子に経緯を話すと、2人は今にも倒れるんじゃないかと思うくらいの顔色になった。部長がやっとの思いで口にしたのは「母というのは…」という言葉だ。
私は香織と顔を見合わせて笑い、部長に説明してあげた。
「この子は私の娘です。もちろん私の夫は社長ですよ。ご存知かわかりませんが、私の苗字、小林って言うんです」
部長は社長の苗字と照らし合わせたのだろう。納得した顔をしたが、顔面蒼白のままだ。
「私、昔からこの会社で働いていたんです。子育てで退職しましたけど、この子が大きくなってから復帰して。昔からここで働いている人は、ほとんど私のことを知っていますよ。あと社長夫人として忘年会などの行事をしていたこともあるので、部長とは何度かお会いしてますけど、あなたはそんなこと覚えてないですよね。自分に利益のない人間には興味ないですものね。でも、部下のことはもっとちゃんと理解してあげないと、誰もついてきませんよ。あなた、部下からの評判は最悪なので、社長である夫も更迭を視野に入れているとか言っていましたし」
部長は青い顔のまま「なぜ社長夫人が現場に…」と言ってきた。
「私が現場が好きだし、経営に関わる気はなかったので。そういえば、あなたは社長夫人の私によくそんな態度ができると、周りの人が言っていましたよ。まさか知らないとは思ってなかったようです」
そう言うと部長は黙り込んだ。部長親子は謝罪する気がないようだ。
「もうお話しすることはないようなので、私はこれで」
私はそう言って、香織と会議室を出た。
その後、部長は平社員に降格。私はパワハラで訴えることにし、今まで部長にパワハラを受けた人もそれに続いた。元部長は示談で解決したいと言ってきたので、私も他の社員も示談金を支払ってもらった。それからしばらく元部長は平社員として勤務していたが、周りの目もあり居づらくなったのか退職。元部長の娘はあの事件以来、父親と同じく周りから白い目で見られ、仕事をきちんと教える人もいなくなり、気がつけば会社に来なくなっていた。
夫が聞いた話では、元部長は示談金の支払いで妻と揉め、どうやら離婚協議中らしく家にも帰っていないそうだ。
私は今まで通り楽しく働ける環境が戻ってきて安心している。それと長年心配していた香織の結婚についても、実は交際している男性がいたそうで、結婚したいと連れてきた。これからの新しい生活が楽しみだ。



