「そこで今すぐタバコを消してください。」
静かな声だった。しかし、その一言でマンションのエントランスの空気は凍りついた。
「なんだこの女は?偉そうに。」
鬼塚の手下の一人が嘲笑うように言った。
「関係ねえだろう。家に帰って旦那の世話でもしてろよ。」
佐藤ミキは持っていた布のバッグをゆっくりと床に置いた。彼女の視線は隅にいる鈴木さんに向かっていた。73歳の警備員は腰を痛めて震えていた。
「ここは子供たちが毎日通る道です。汚さないでください。」
口調は穏やかだったが、どこか断固とした響きがあった。
平凡な30代の女性に見える彼女。しかし、警備員の鈴木さんの目には何かが違って見えていた。バッグのストラップの内側で光る金属のチェーン。それは自衛隊の認識表だった。
鬼塚がタバコの煙を吐きかけながら一歩近づいた。
「おい、ここがどこだか分かってんのか?俺たちが誰だか知ってんのか?」
「いいえ。知りません。知る必要がありますか?」
ミキの答えにヤザたちは顔を見合わせて笑った。しかし、その笑いがすぐに消えることになるとは、彼らはまだ知らなかった。
2024年9月、東京都あ地区にある新築マンション。入居が始まってまだ3ヶ月しか経っておらず、まだ新しい家の匂いがしていた。しかし、住民たちの表情は明るくなかった。理由はただ一つ。マンションの手南頭を牛じる暴力団のせいだった。
鬼塚達也、45歳。地元暴力団の若である彼は、このマンションの再開発利権に目をつけていた。
「おい、もう1本吸ってから行くぞ。」
鬼塚がエントランスの前で言った。彼の横で3人の手下がタバコを取り出した。
「組長、ここは禁煙区域じゃないですか?」
鈴木さんが恐る恐る近づいてきた。73歳の警備員である彼は、追板バンヘルニアのため歩行が不自由だった。
「規則ではエントランスから10m以内は禁煙なんですが。」
「ああ?このじじい、今なんつった?」
鬼塚の手下で大柄な男が鈴木さんに詰め寄った。
「じいさん、俺たちが誰だか分かってて口を耐えしてんのか?」
「いえ。そういうわけでは… 管理に。」
鈴木さんは震える手でポケットから書類を取り出した。マンション管理規約のコピーだった。
「ほら、ここに明確に… 」
鬼塚がその書類をひったくり、くしゃくしゃに丸めた。
「こんな髪切れが何だよ。」
丸められた紙が床に落ちた。鈴木さんは腰を眺めてそれを拾おうとしたが、痛みでうまく動けない。
「じいさん、次からは俺たちの前に顔出すな。分かったな。」
まさにその時だった。
「その書類、私が拾います。」
女性の声がした。佐藤ミキだった。彼女はゆっくりと丸められた書類を拾い、広げた。
「管理規約第8条。参考共容における喫煙の禁止。違反した場合、5000円を申し受けます。」
はっきりと読み上げる彼女の声。鬼塚は顔をしかめた。
「あんた、何者だ?」
「1204号室の入居者です。1ヶ月前に越してきました。」
ミキは布のバッグを肩から下ろしながら言った。バッグのストラップがわずかに揺れた瞬間、鈴木さんはそれを見た。金属性の薄い遅延。それは自衛隊の認識表だった。
「この方、もしかして自衛官なのか。」
鈴木さんは瞬間的に奇妙な安堵を覚えた。しかし、他の住民たちの目には彼女はただの平凡な30代の女性にしか見えなかった。
「奥さんよ、ここで法律ごっこは寄せや。俺たちはこの辺りじゃ顔見知りなんだ。」
鬼塚の手下が一歩前に出た。
しかし、ミキは動じなかった。
「法律ごっこではありません。ここには規則があります。そして、私にはそれを守る義務があります。」
鬼塚は鋭い目でミキを睨んだ。
「おい、いい加減にしろよ。俺が誰だか… 」
「知っています。鬼塚達也さんですね。地元暴力団の若頭。」
ミキの冷静な言葉に、鬼塚の顔色が変わった。
「あなたのことは調べさせていただきました。再開発利権を狙って、このマンションの住民を脅していることも。」
「…

なんでそんなこと知ってるんだ?」
ミキはバッグからスマートフォンを取り出した。画面には何かの書類が写っていた。
「ここに、あなたのグループの活動記録があります。住民からの通報も複数件。これらをすべて警察に提出する準備はできています。」
鬼塚の手下たちがざわついた。鬼塚は歯を食いしばった。
「ふざけんな。そんなもん、誰が信じるんだ。」
「信じるかどうかは別として、事実です。そして、ここにあなたが今、禁煙区域でタバコを吸っている写真もあります。」
ミキはスマートフォンを掲げた。確かに、鬼塚がタバコを吸っている写真が写っていた。
「くそ… 」
鬼塚は舌打ちし、タバコを地面に投げ捨てた。そして、ミキを睨みつけたまま言った。
「覚えておけよ。俺たちは必ず仕返しに来るからな。」
そう言い残して、鬼塚たちは去っていった。
しかし、ミキにはそれが終わりでないことは分かっていた。ヤザたちは必ずまた来る。しかし、ミキにも準備があった。次の対決はさらに私烈なものになるだろう。
翌朝、ミキはマンションの管理事務所の前にいた。管理人が困惑した表情で出てきた。
「佐藤さん、昨日の件で苦情が入りまして。」
「苦情ですか?」
「ええ… 鬼塚さんたちからです。あなたの対応が悪質だったと。」
ミキは微笑んだ。
「そうですか。なら、私からも苦情を出させていただきます。暴力団の侵入を許した管理体制について。」
管理人は言葉を失った。ミキは続けた。
「私はこのマンションに住んでいます。そして、ここを安全な場所にしたいと思っています。そのためには、管理組合にきちんと対応してもらう必要があります。」
その日から、ミキは住民たちと協力して、マンションの安全対策を進めていくことになった。そして、鬼塚たちの次の行動に備えて、着々と準備を整えていった。
数週間後、鬼塚たちが再び姿を現した。しかし、その時の彼らは以前とは違っていた。マンションの前には警備会社の車が停まり、複数の警備員が配置されていた。そして、エントランスには新しい看板が設置されていた。
「このマンションは、暴力団排除宣言を行っています。」
鬼塚はその看板を見て、顔を歪めた。しかし、その時、後ろから声がした。
「お久しぶりです。鬼塚さん。」
振り返ると、そこにはミキが立っていた。彼女の隣には、警察官の姿もあった。
「このマンションでは、あなたたちの不法行為は一切許されません。もし、何か問題を起こすなら、その時は法に基づいて対応します。」
鬼塚は睨みつけたが、ミキの表情は変わらなかった。警察官が一歩前に出た。
「鬼塚さん。あなたたちは過去にこのマンションで何度も問題を起こしています。今回は警告にとどめますが、次は厳重に対処しますよ。」
鬼塚は歯を食いしばった。しかし、何も言い返せなかった。
「…
覚えておけよ。」
鬼塚はそう言い残して、手下たちとともに去っていった。
それから、マンションから暴力団の姿は消えた。住民たちは安心して暮らせるようになった。そして、ミキは時々、エントランスで鈴木さんと話すようになった。
「佐藤さん、ありがとうございます。あなたのおかげで、このマンションが安全になりました。」
ミキは微笑んで首を振った。
「いいえ。私がしたことは、ただ規則を守っただけです。そして、あなたが諦めなかったから、私も行動できました。」
鈴木さんは目を細めて笑った。その笑顔は、長年の緊張から解放されたかのような穏やかさがあった。
ミキは自衛隊時代に培った規律と勇気を持って、マンションを守り続けた。そして、彼女の行動は、周りの人々にも次第に影響を与えていった。
エントランスの前には、あの日、鬼塚が吸っていたタバコの吸い殻が一つ、未だに落ちていた。しかし、もはや誰もそれを気にする者はいなかった。


