母さん、悪いけど父さんの葬儀には行けないよ。温泉旅行のキャンセルがもったいないから。電話の向こうから聞こえてきた息子の言葉に、私は一瞬耳を疑いました。朝方、38年間連れ添った夫の正が急性心不全で亡くなった。まだ体が震えているような状態で、必死に息子の高翔へ連絡を取ったのです。高翔、お父さんが今朝…。涙で声が詰まりながらも、なんとか夫の死を伝えました。てっきり息子はすぐに駆けつけてくれるものだと思っていました。
しかし、帰ってきたのは信じられない言葉でした。えっと、実は明日から美希の両親と箱根の温泉旅行なんだ。もう全額支払い済みだし。4人で20万円以上かかってるから、今更キャンセルできないよ。私は受話器を持つ手が震えるのを感じました。でも、お父さんの葬儀が最後のお別れなのよ。母さん、葬儀なんて形式的なものでしょ。俺たちが行かなくても父さんは分かってくれるよ。それより20万円無駄にする方がもったいない。息子の声はまるで他人事のように軽く、私の心臓は凍りつくような感覚に襲われました。
私たち夫婦は高翔のために全てを捧げてきました。幼稚園から大学まで教育費だけで1200万円以上。正は毎日遅くまで働き、私もパートをしながら家計を支えました。高翔には苦労させたくない。それが私たち夫婦の口癖でした。欲しいものは我慢してでも、息子には最高の教育を受けさせたいと思っていたのです。高翔が結婚したのは5年前。相手は同じ会社の美希という女性でした。結婚式の費用300万円も新居の頭金500万円も、全て私たちが用意しました。これで高翔も幸せになれる。正と喜び合ったあの日が、今では遠い昔のように感じます。
結婚後、息子夫婦の態度は少しずつ変わっていきました。最初は月に1度は顔を見せに来ていたのに、今では年に1度、それも正月の挨拶程度。一方で美希の実家には毎月のように泊まりに行き、一緒に旅行も楽しんでいるようでした。美希のSNSには義両親との楽しそうな写真が溢れています。お母さん、お父さんと温泉旅行、最高の親ができました。そんな投稿を見るたびに、正と顔を見合わせて苦笑いするしかありませんでした。俺たちは邪魔者だったのかな。冗談めかして言った正の言葉が、今となっては現実だったのかもしれません。
葬儀の準備を進める中、息子から再び電話がかかってきました。母さん、葬儀の日程は決まった?一応香典だけは後で振り込むから。その言葉に、私は一瞬言葉を失いました。まるで他人の葬儀に香典を送るような事務的な口調でした。香典って、あなたのお父さんよ。分かってるよ。でも行けないものは仕方ないでしょ。っていくらぐらいが相場なの? 息子の質問に、私は震える声で答えました。高翔、聞くのも辛いけど相場は3万円ぐらいよ。3万円ね。じゃあそれでいいわ。息子が父親の葬儀に包もうとしている金額でした。他人でももう少し包むのではないでしょうか。お願いだから来て。お父さんがかわいそうよ。母さん、感情的になっても仕方ないでしょ。美希の両親も楽しみにしてるし、今更キャンセルなんてできないよ。父さんだって分かってくれるって。電話はそこで切れました。
翌日、葬儀の打ち合わせで火葬場に向かう道中、正との思い出が次々と蘇ってきました。高翔が生まれた日、正は会社を早退して病院に駆けつけてくれました。法子、よく頑張った。この子は俺たちの宝だ。初めて我が子を抱いた時の正の顔は、今でも忘れられません。小学校の運動会では必ず仕事を休んで応援に来てくれました。高翔が転んで泣いた時、正は真っ先に駆け寄って励ましていました。高翔、男は簡単に泣くもんじゃない。でも頑張ったから偉いぞ。中学受験の時は毎晩遅くまで高翔の勉強を見てくれました。この問題は難しいけど諦めるな。父さんも一緒に考えるから。正は決して賢い方ではなかったけれど、息子のために必死で参考書を読んでいました。そんな姿を見て、私は何度も胸が熱くなったものです。
葬儀の当日、参列者は親戚と近所の人々だけでした。息子の姿はありませんでした。香典袋を開けると、3万円が入っていました。私はその瞬間、何かがぷつりと切れる音を聞きました。葬儀が終わり、私は息子に一本の電話を入れました。高翔、明日、私たちの家に来なさい。話があるから。え? でも明日は仕事が…。仕事よりも大事な話よ。どうしても来ないと、後悔することになるわ。息子は不機嫌そうに承諾しました。翌日、高翔が妻の美希と一緒に現れました。何の話? 早くしてよ。仕事が溜まってるんだ。私は机の上に、一通の書類を置きました。これは、私たちの家の登記書類よ。そして銀行の通帳。今まであなたに使ったお金の記録が全部ここにある。高翔と美希は顔を見合わせました。母さん、何が言いたいの? 私は静かに、しかしはっきりと言いました。この家も貯金も、全て正が残してくれたものよ。だけど、葬儀にも来ない息子にこれを渡す気はないわ。え? どういうこと? 私たち夫婦が残した全ての財産は、寄付することに決めた。だから、あなたたちには一銭も渡さない。高翔の顔が真っ青になりました。母さん、本気で言ってるの? 私、あなたたちの孫が生まれるんだよ? 知ってるわ。美希さんが妊娠していることは。でも、私の決心は変わらない。あなたたちは、お父さんの葬儀よりも温泉旅行を選んだ。その代償を払う時よ。私はそのまま、テーブルの上に捺印済みの書類を置きました。高翔は何も言えず、美希も顔を真っ赤にして震えていました。それは、これまで私が飲み込んできた全ての我慢を、一度に解放する瞬間でした。私は窓の外を見ながら、心の中で正に語りかけました。正さん、あなたの息子はこんな大人になってしまったわ。でも、あなたが築いてきたものを、無駄にするわけにはいかないから。私は今日から、あなたの分も生きていくからね。



