深夜の救急外来。同僚と夜勤を交代し、病院へ向かった私の耳に、緊迫した声が飛び込んできた。呼吸困難を訴える30代男性が、緊急搬送されてきたのだ。付き添う女性は取り乱し、「私の旦那を助けてください」と叫んでいる。救急隊員が患者の顔にかぶさった布をゆっくりと外したとき、私の世界は凍りついた。え、たく? その患者は、先週から「急な出張だ」と言って家を空けている、私の夫だった。
もしかして出張先で事故にあったのか。そう思う一方で、同時に違和感が走る。さっきの女性、私の夫のことを「旦那」と呼んでいた。どういうことだ。疑惑が頭をよぎるが、今は人工呼吸器の音がいつもより大きく鳴り響く処置室で、患者を救うしかない。処置室に移動する間も、女性は夫のそばを離れない。「匠さん、しっかりして。私がついているから」。その声に、私の胸は締め付けられた。
処置室の前で、スタッフが彼女を止めた。「奥様、ここから先は患者様本人しか入れません。ロビーでお待ちください」。彼女はうつむき、大きく息を吐くと、ぽつりとつぶやいた。「朝、パンケーキを作ってあげたんです。喜んで食べてくれたんですが、急に苦しみ出したんですよ」。パンケーキ。その言葉が、私の脳裏に嫌な記憶を呼び覚ました。匠は卵とナッツのアレルギーを持っている。ケーキやプリンの類を食べるだけで、症状が出るほどに。彼女が作ったというパンケーキに、卵やナッツが入っていたとしたら。
頭がパニックになりそうだった。だが看護師として、妻として、次にやるべきことを考えなければ。処置を終え、夫の容体は少し落ち着いた。原因は卵とナッツによる食物アレルギー反応。一晩入院させて様子を見ることになった。私は彼女、木村彩佳さんと話をすることになった。面談室で、彼女は目元を赤く腫らしながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。「今朝パンケーキを焼いてあげたんですよ。私の夢だったんです。大事な人にご飯を作って喜ばせるの」。彼女はそう話すが、その言葉の裏に何が隠されているのか。私は、彼女の一挙手一投足から目が離せなかった。



