「絶対に飲んではダメ」——亡き妻の声が、午前4時に私を目覚めさせた。翌朝、食卓の真ん中に、妻が大事にしていた猪口が置かれていた。誰もいないはずの家で。そして、底には妙な匂いが残っていた。その日、訪れた息子夫婦が持ち込んだのは「逆月」と書かれた、妙なお茶だった。私は誰も信じないと決めた。薬も、お茶も、何も飲まない。真相を確かめるまでは——。しかし、その夜、息子が口にした言葉が、私をさらに凍りつ…

「絶対に飲んではダメ」——亡き妻の声が、午前4時に私を目覚めさせた。翌朝、食卓の真ん中に、妻が大事にしていた猪口が置かれていた。誰もいないはずの家で。そして、底には妙な匂いが残っていた。その日、訪れた息子夫婦が持ち込んだのは「逆月」と書かれた、妙なお茶だった。私は誰も信じないと決めた。薬も、お茶も、何も飲まない。真相を確かめるまでは——。しかし、その夜、息子が口にした言葉が、私をさらに凍りつ...

目が覚めたのは午前4時。妻の声が聞こえた気がした。あなた、あの人たちに気をつけて。特にあの逆月(さかづき)は絶対に飲んではダメ。

哲夫は怖くなって起き上がった。しかし寝室には誰もいない。夢か……そう思い直した瞬間、台所から何かの気配がした。いや、気配じゃない。何かが、そこにある。

台所に行くと、食卓の真ん中に、妻が大事にしていた有田焼の猪口が置かれていた。昨日は確かに棚の一番上にしまったはずだ。誰が、こんな朝早くに。泥棒か?家の中を見回したが、他に変わったものはない。ただ、その猪口だけが、そこにあった。

手に取ると、底から甘いような苦いような、妙な匂いがした。哲夫は手を震わせながら猪口を置いた。頭の中で妻の言葉がよぎる。絶対に飲んではダメ。何を、誰が飲ませようとしたんだ。

今日は息子夫婦が来る日だ。息子の健司は最近、仕事で悩んでいるらしい。嫁の弓はいつも気が利くと言えば聞こえはいいが、どうにも真意が見えない。笑っていても目が笑っていない。哲夫はそう感じていた。

朝食を済ませ、血糖値を測る。数値は普段より20も高かった。ストレスのせいか、それとも昨日の電話のせいか。健司から「明日、弓と一緒に行く」と連絡があったのは昨日の夕方だった。

掃除をしながら、ふと妻の写真に目をやる。哲夫は呟いた。おい、健司が最近大変そうだ。授業がうまくいってないんだとよ。まあ、弓さんが良い子で助かってるけどな。しかし、どうしても引っかかる。あの猪口は、いったい誰が。

昼過ぎ、健司夫婦が来た。弓は相変わらず愛想笑いを浮かべている。お父さん、お元気そうで何よりです。そう言いながら、彼女は持ってきた紙袋を置いた。これ、最近いいらしいんですよ。糖尿病に効くお茶なんですって。

哲夫は礼を言って受け取った。しかし、その袋を見た瞬間、背筋が凍った。袋に書かれた文字。『逆月(さかづき)』。朝、台所にあった猪口と同じ名前の、そのお茶。哲夫は急に喉が渇くのを感じた。まさか、そんなはずは……。

夕食の準備を始める頃、哲夫はこっそりとその紙袋を開けた。中には茶葉のパックが入っていた。袋には原材料も製造元も書かれていない。ただ、『逆月』という文字と、妙に目を引く銀色の模様があるだけだ。

哲夫はキッチンの隅に置かれた、朝の猪口をまた見た。底に付着していたのは、この茶葉の残りか?誰がここに置いたんだ。妻は何を知っていたんだ。

夕食中、弓がぽつりと言った。お父さん、その猪口、素敵ですね。どこで買われたんですか?哲夫は箸を止めた。いや、これは昔、妻が買ったものだ。そう答えると、弓はへえ、とだけ言って、何事もなかったように食事を続けた。

健司が口を開いた。父さん、最近、変な夢を見るんだ。母さんが出てきて、何かを警告してるような夢。哲夫は顔を上げた。どんな夢だ?健司は首を傾げた。なんか……『あの人たちに気をつけて』って。はっきりと聞こえたんだ。哲夫はゾッとした。自分の見た夢と、まったく同じことを言っている。

夜、健司夫婦が帰った後、哲夫は一人で台所に立っていた。あの猪口は、もうそこにはなかった。いや、最初からなかったのかもしれない。夢だったのか?いや、確かに朝、あそこにあった。哲夫は頭を抱えた。

翌日、哲夫はかかりつけの医者を訪ねた。最近、記憶に不安があると伝えると、医者はアセスメントをした。しかし結果は正常だった。医者は言った。田中さん、特に問題はありませんよ。ただ……気になるのは、お薬の効き目が最近、少し不安定なことですね。哲夫は聞いた。どういうことですか?医者はカルテを見ながら答えた。いつも通り飲んでいますか?はい、もちろん。じゃあ、ちょっと薬を変えてみましょうか。

家に帰ると、哲夫は机の引き出しを開けた。そこには、飲みかけの薬のシートがある。ふと見ると、シートの裏に、小さな文字で何かが書かれている。『逆月』。哲夫は手を震わせた。薬のシートにまで、この名前が?誰が、こんなことを。

その晩、哲夫は眠れなかった。妻の言葉が頭の中で反響する。あの人たちに気をつけて。特にあの逆月は絶対に飲んではダメ。あの人たちとは、誰だ。健司か?弓か?それとも……医者か?

哲夫は決意した。真相を確かめるまでは、何も口にしない。薬も、お茶も、飲まない。そして誰も信じない。ここからが、本当の闘いの始まりだ。

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