あの雪の日、俺は倒れている女性を助けた。薄手の上着にボロボロのデニム。消えそうな声で「助けて」と呟いて、彼女は意識を失った。背負った体は驚くほど軽くて、気づけば涙が出ていた。それが、ずっと探していた初恋の人だったなんて。再会の喜びもつかの間、彼女は言ったんだ。「私、夫から逃げてきたんです」と。その夜、店のドアが激しく叩かれた。低い男の声が聞こえてきた。「まゆ子! いるんだろう!…

あの雪の日、俺は倒れている女性を助けた。薄手の上着にボロボロのデニム。消えそうな声で「助けて」と呟いて、彼女は意識を失った。背負った体は驚くほど軽くて、気づけば涙が出ていた。それが、ずっと探していた初恋の人だったなんて。再会の喜びもつかの間、彼女は言ったんだ。「私、夫から逃げてきたんです」と。その夜、店のドアが激しく叩かれた。低い男の声が聞こえてきた。「まゆ子! いるんだろう!...

「大丈夫ですか? 」

雪の中に倒れていた女性の体は驚くほど軽く、顔は白く、手足は凍えるように冷たかった。薄手の上着にボロボロのデニム。この雪の中を歩くような服装じゃない。

消えそうな声で「助けて」と呟いて、彼女は意識を失った。俺は少し迷って、彼女を背負った。気づけば涙が出ていた。

その日、俺が助けた女性は、俺の思い人だった。こうして俺と彼女は再び出会ったんだ。

俺の名前は沖津蒼太。二十六歳。田舎で小さなレストランを経営している。古いピアノが一台とテーブル席が数席だけの店だ。元々はじいちゃんの店で、じいちゃんが亡くなった後に俺が継いだ。

幼い頃に両親を事故で失い、引き取ってくれたのが父方の祖父だった。じいちゃんとこの店があったから、俺は今こうして生きている。ピアノを見ると、お客さんのリクエストに応えて楽しそうに弾くじいちゃんの姿が思い浮かぶ。

「楽しむことが一番だよ。お前には笑顔が一番似合うんだからな」

亡くなる前もそう言って、じいちゃんは笑っていた。俺はピアノに向かって微笑むと、入口のドアを開けた。冷たい風が吹き込む。ちらほらと雪が降り始めていた。

「今日のおすすめはシチューに決定だな」

朝から降り始めた雪は次第に強さを増し、夜には膝下ほどまで積もった。元々多くない客もこの天候でさらに減り、ディナータイムが過ぎてからはぱったりと途絶えた。

「仕方ない。少し早いけど店じまいかな」

後片付けをして帰宅することにした。レストランから自宅までは近いので、相当な大雪でない限り出勤は可能だ。しかし、客が来れそうにないほどの積雪では店を開けていても意味がない。

冷蔵庫の中の食材の期限は問題なかったはず。そう考えながら家を急いでいた時だった。

街灯の下で、ふらふらと歩く人影があった。不審者か酔っ払いかと思い身構えるが、次の瞬間、その人物がばたっと倒れた。

近づいてみると、そこにいたのは昼間助けたあの女性だった。まだこの辺りをうろついていたのか。それとも、何か理由があって……。

「ねえ、そうだ」

彼女が突然口を開いた。

「ん? 」

「一緒にピアノを弾いてみない? 」

俺は一瞬、言葉を失った。ピアノを弾くのはじいちゃんの姿を見て覚えたが、人前で弾いたことはほとんどない。

「一緒に引けば楽しくなるかもしれないし」

多少強引だったとは思うが、俺の直感を信じることにした。

「そう言うなら、少しだけ。うまく引けなくても笑わないでよ」

「笑うわけないだろ。ありがとう、まゆ子。曲はどうする?

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「そうだな。『星に願いを』とかはどう? 」

こうして、俺とまゆ子の距離は少しずつ縮まっていった。彼女がなぜ雪の中を歩いていたのか。なぜあんな格好で倒れるまで放っておかれたのか。それを聞くのが怖くて、俺はまだ何も尋ねられずにいた。

ある日、まゆ子が言った。

「ねえ、蒼太さん。私、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」

その表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

「実は私……」

そこまで言った時、店の電話が鳴った。受話器を取ると、加藤さんという旅館の女将からだった。

「悪いんだけど、急遽手伝ってもらえないかしら? 」

二つ返事で引き受けた。まゆ子の話は、それで途切れてしまった。

翌日、旅館の厨房で俺は立ちっぱなしで働いた。十七時から十九時まで。準備を含めると合計五時間。何とか乗り切った。へとへとになって厨房横の休憩室で唸だれる。

「一本も動かせないとはこのことか」

旅館の料理人も大変だなと、加藤さんの入れてくれたお茶を飲む。久々の感覚に充実感もあった。

「本当にありがとう。ごめんなさいね、せっかくの休みなのに」

「いや、それは申し訳ないです」

「もちろん今日の宿代はサービスするわよ」

「いや、それは」

「それにしてもさすがの腕前ね。初めての食材も上手に使って」

俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。その時、ふとまゆ子の顔が頭に浮かんだ。あの時、彼女は何を言おうとしていたんだろう。

家に帰ると、まゆ子から連絡が入っていた。

「明日、話があるの。お店に来てもらえる? 」

翌日、いつも通り店を開けて待っていると、まゆ子が現れた。その顔は青ざめていて、目の下にはくまができていた。

「まゆ子、どうしたんだ。顔色が悪いぞ」

「蒼太さん。私……」

彼女は膝から崩れ落ちそうになりながら、絞り出すように言った。

「私、実は……逃げてきたんです。あなたに会うために来たんじゃない。ただ、逃げ場がなくて」

「逃げてきた?

何から? 」

「夫からです」

俺の脳内は真っ白になった。まゆ子が結婚している? あの雪の日に倒れていたのは、夫から逃げてきたから? 「私は……結婚していました。でも、あの人は DV で。暴力がひどくなって、ついに家を飛び出したんです。どこに行けばいいかわからなくて、ただひたすら雪の中を歩いて」

気づいたら倒れていた。あなたに助けられたのは、本当に偶然だった。

俺は何と言っていいのかわからなかった。想い人が既婚者だった。しかも、夫から逃げてきた。

「蒼太さん。迷惑だってわかってる。でも、もうあそこには戻れないんです」

その目は、本気だった。嘘をついているようには見えなかった。

俺は深く息を吸って、言った。

「まゆ子。俺の店で働かないか?

彼女は目を見開いた。

「え? 」

「住む場所も用意する。しばらくはここにいればいい。あいつに見つからないように、俺が守るから」

その言葉を聞いた瞬間、まゆ子の目から涙が溢れ出した。

「ありがとう……ありがとう、蒼太さん」

だが、その夜のことだった。店のドアが激しく叩かれた。

「まゆ子! いるんだろう! 出てこい!

低い男の声。まゆ子は耳を塞いで震え始めた。

「あ、あの人だ……」

とうとう見つかってしまった。俺はまゆ子を奥の部屋に隠して、ドアを開けた。

そこに立っていたのは、がっしりとした体格の男だった。目は血走っていて、酒の匂いが漂っている。

「おい、あの女はどこだ」

「誰のことだ」

「とぼけるな! 俺の妻だ! 」

男は俺の胸ぐらを掴みかかった。俺はそれを払いのける。

「奥さんなら知らない。ここはレストランだ。客でもないなら帰ってくれ」

男はにらみつけたが、突然ニヤリと笑った。

「そうか。ならいい。だがな、もしあの女がここにいるなら言っといてくれ。あいつにはまだ、夫としての義務があるってな」

そう言い残して、男は去っていった。俺は息を吐き、奥の部屋へ向かった。

まゆ子は隅で縮こまっていた。

「大丈夫か? 」

「ごめんなさい……私のせいで」

「気にするな。あいつはもう帰った」

だが、安心したのも束の間だった。翌朝、店の前に一枚の紙が貼られていた。

「次の日にでも店に火をつけるぞ」

脅迫状だった。まゆ子の夫からの物に違いない。俺は警察に相談したが、物的証拠が不十分だと門前払いを食らった。

「どうすればいいんだ……」

その時、まゆ子が言った。

「蒼太さん。私、決めました」

「何を?

「あの人と、ちゃんと話をつけてきます」

「何を言ってるんだ! あいつは危険だぞ! 」

「わかってる。でも、このままじゃあなたにも危険が及ぶ。私が離婚届を持って行って、サインをもらってくる」

「駄目だ! そんな事をさせられるか!

だが、まゆ子の目は決意に満ちていた。

「これは私の問題です。あなたを巻き込むわけにはいかない」

その夜、まゆ子は夫の家へと向かった。俺は車の中で待っていた。十分後、中から大きな物音が聞こえた。

「まゆ子! 」

俺は車を飛び出し、家の中に駆け込んだ。

そこには、床に倒れるまゆ子と、ガラスの破片を握った夫がいた。

「てめえ……なんでここに来た」

まゆ子は肩を押さえてうずくまっている。流血していた。

「まゆ子! 」

「蒼太さん……だめ……来ないで……」

夫が笑った。

「見ろ。これが俺の妻だ。素直に言う事を聞いていれば、こうはならなかったんだ」

俺は拳を握りしめた。

「お前……許さない」

その瞬間、俺は夫に飛びかかった。

フックが頬に当たり、男は倒れた。だが、すぐに立ち上がり、こちらに向かってくる。ガラスの破片が俺の腕をかすめた。

痛みで腕に力が入らない。だが、負けるわけにはいかない。

「もういい加減にしろ! 」

俺は男の腹部に思い切り蹴りを入れた。男は壁に叩きつけられ、動かなくなった。

「まゆ子、しっかりしろ!

彼女を抱き起こすと、フラフラとしながらも意識はあった。

「蒼太さん……ごめん……なさい……」

「謝るな。すぐ病院に連れて行く」

救急車を呼ぼうとしたその瞬間、倒れていた夫がゆっくりと立ち上がった。

「まだだ……まだ終わってないぞ……」

夫がポケットから何かを取り出した。それは、小さなナイフだった。

「死ねえええ! 」

俺はまゆ子をかばうように前に立ちはだかった。ナイフが俺の腹部に突き刺さる。

「ぐあっ……」

「蒼太さん! 」

視界がぼやけていく。足から力が抜けた。

――ここで終わるのか。まゆ子を守れないまま。

だが、その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやら近所の誰かが通報したらしい。夫は慌てて逃げ出そうとしたが、駆けつけた警察官に取り押さえられた。

「蒼太さん……しっかりして! 」

まゆ子の声が遠くから聞こえる。

俺は薄れゆく意識の中で、彼女の顔を見つめた。

「まゆ子……無事……で……」

それが、俺が覚えている最後の言葉だった。

目を覚ますと、白い天井が見えた。病院のベッドの上だった。腹部に痛みがある。だが、どうやら命に別状はないらしい。

「気がついたか」

見ると、ベッドの横にまゆ子が座っていた。目は真っ赤に腫れている。

「まゆ子……お前、無事か?

「無事ですよ。蒼太さんが守ってくれたから」

彼女は泣き笑いのような表情を浮かべた。

「大丈夫ですか? 痛みは? 」

「痛いけど、生きてるからな」

俺は苦笑いを浮かべた。まゆ子はそっと俺の手を握った。

「もう、二度とあんな無茶はしないでください」

「それはお前もだろ」

まゆ子は笑った。あの雪の日以来、初めて見せた笑顔だった。

数日後、俺は退院した。店に戻ると、玄関に貼られていた脅迫状は剥がされていた。夫は逮捕され、離婚も成立したらしい。

まゆ子は俺の店で働くことになった。料理はできないが、接客なら任せられるとのことだった。

「蒼太さん。一つ聞いてもいいですか? 」

「何だ?

「あの日、どうして私を助けてくれたんですか? 」

俺は少し考えて、答えた。

「お前が俺の思い人だったからだよ」

「思い人? 私たち、会ったことありましたっけ? 」

「昔、じいちゃんの店によく来てただろ。小さい頃。お前、ピアノの音を聴きに来てたんだよ」

まゆ子は目を丸くした。

「あの時の……蒼太君?

「そうだよ。俺、ずっとお前のことが忘れられなかったんだ」

まゆ子の目から涙がこぼれ落ちた。

「私も……覚えてます。ピアノを弾く男の子がいて、かっこいいなって思ってました」

俺は微笑んだ。こうして俺とまゆ子は再び出会い、今度は離れずにいられるんだ。

――あの大雪の日に倒れていなかったら、俺たちはこのまま二度と会うことはなかったかもしれない。

「まゆ子。これからもずっと、ここにいてくれよ」

「はい。ずっと、ここにいます」

俺はピアノの前に座り、鍵盤に手を置いた。今日もじいちゃんが教えてくれたように、楽しむことが一番だ。

「さて、今日は何を弾こうかな」

まゆ子が微笑む。

「『星に願いを』、いいですね」

その曲が、俺たちの新しい始まりの曲になった。