「ねえ、お母さん。100万円、出せないの?」
冷蔵庫に夕食の買い出し品をしまいながら、息子の一言に手が止まった。年金は月6万円。私たち夫婦が必死に切り詰めて貯めた20万円が、あの日の朝に消えた。それなのに、まだ100万円?
30年間、私は病院の清掃員として働いてきた。毎朝4時に起きて、誰もいない廊下を拭き、消毒液の匂いを体に染み込ませながら、黙々と床を磨いてきた。学歴は高校だけ。それでも、院内感染ゼロの誇りを支えてきたのは、私の仕事だと思っていた。
息子の嫁は、私の仕事を嘲笑った。
「だって清掃員ですもんね。誰にでもできる仕事だから、センスがないのも当然か」
その言葉は、笑顔の裏に隠された毒だと気づくのに、時間はかからなかった。
ある日、掃除の最中、病室のカーテン越しに聞こえた声。
「100万円ね。まあ、エリートの子なら当然でしょ」
「そうそう。清掃なんて汚い仕事、いつ辞めてもおかしくないからね」
ああ、この息子は。私がどれだけの時間を費やしてきたか、何も知らないんだ。
そして、あの日。夫のヨシオが机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
「本当は来月の記念日に発表するつもりだったが……クロダさんには、特別長期勤続表彰と、特別退職金2000万円が授与されることになりました」
会議室には看護師や事務職員が集まり、拍手が鳴り響いた。患者から届いた何百通もの感謝状。私は清掃を「専門職」にまで高めたと、院長は言った。
信じられなかった。30年間、誰にも評価されないと思っていた。息子にも嫁にも軽視され、ただ黙ってモップを握り続けてきた。
その夜、息子がまた金をせびりに来た。
「母さん、まだ清掃員やってるんでしょ? どうせ使う当てもないんだから、くれてもいいじゃん」
「ダイキ、私はまだ生きているわ」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「あなたが私の死を願っていることも含めて、もう十分よ。私はもう、あなたの母ではない」
息子と嫁は顔を見合わせて笑った。
「お母さんに何ができるっていうの?」
「清掃員の分際で」
その翌朝、私は動いた。寝ている夫婦の横で、あらかじめ用意していた書類を封筒にしまい、携帯電話で男の会社の人事部に電話をかけた。
「もしもし、ダイキさんの母ですが。彼の価値観について、お伝えしたいことがあります」
電話越しに、相手の声が凍りつくのがわかった。続けて、嫁の実家にも電話を入れた。
「娘さんから、私の仕事を侮辱する言葉をいただきました。事実を伝えているだけです」
夕方、二人が帰宅すると、私はテーブルの上に紙を広げていた。
「これは、私の長期勤続表彰の通知と、特別退職金の書類よ」
「なんだよ、これ……母さんが表彰? 清掃員のくせに?」
「ダイキ、あなたは言ったわね。『本当の家族は妻と子だけだ』って。そして、私の仕事を笑った。それなら、あなたの本当の家族に頼めばいい」
「ふざけんな! 老害が!」
「それは自分自身に返ってきた言葉よ。もうこの家に二度と入れません」
くすくすと、私は笑みがこぼれた。30年間、誰にも認められなかった仕事が、今こうして私を立たせている。ヨシオが黙って私の肩を抱いた。
3ヶ月後、私は退職後も週3日、後輩の指導者として病院に戻っていた。特別医療貢献賞は、医師や看護師以外では私が初めてだった。
ある日、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人は、ダイキ。
便せんには、震えるような字でこう書かれていた。
「母さん、父さん。どうしても伝えたくて。こんな母を捨てた自分が、今、やっとわかった。母さんが30年間やってきた仕事が、どんなに尊いものだったか。僕は、母さんを差別していたんだ。ごめんなさい」
涙が便せんの上に落ちた。ヨシオの肩に頭を預けると、彼は何も言わずに背中をさすってくれた。
翌朝も、私はいつものように白衣に着替え、モップを手に取る。
私たちは、背筋を伸ばして歩く。なぜなら、私は清掃員だからだ。大切な仕事が、今日も私を待っている。



