昼休み、私はいつもの定食屋へ足を運んだ。仕事を乗り切るには、ここで食べる生姜焼き定食が一番だと分かっていたからだ。この店は、三年前に主人を亡くした母娘が切り盛りしている。私はこの二人に、言い表せないほど世話になっている。かつて私がヤクザだった頃、この店の女将さんと娘さんは、私を普通の人間として接してくれた。その優しさが、私を更生させたと言っても過言ではない。今日も元気な声で客を迎える、娘のレミチャン。その姿に、私はいつも救われている。
「サバエさん、いらっしゃい!今日はお肉がおすすめだよ。生姜焼き定食、どう?」
「ありがとう、レミちゃん。じゃあ、それをもらおうかな。」
女将さんのコトコさんが、奥から優しく声をかける。彼女の笑顔は、まるで私の実の家族のようだ。私は席につき、出てきたばかりの熱々の生姜焼きに箸を伸ばそうとした。その瞬間だった。
ガラッと大きな音を立てて、店の戸が荒々しく開けられた。黒いスーツを着た大柄な男が、格闘家のような部下を何人も引き連れて、どかどかと店の中に入ってくる。彼らの目つきは、明らかに普通の客のものではなかった。店の中にいた他の客たちは、一瞬で空気を察し、慌ただしく会計を済ませると、逃げるように店を出て行った。店内は、私と母娘を残して、一気に静まり返る。
男はコトコさんの前に立ちはだかり、脅すような低い声を発した。
「おい、あんたがこの店の主か。お前の亭主が、うちの組に残した借金が二千万。耳を揃えて返してもらおうか。さもなければ、二度とこの店を営業できないようにしてやる。」
コトコさんの顔から血の気が引く。レミちゃんは怖気づき、母の後ろに隠れた。
「そんな…夫が借金を?そんなはずはございません。夫は真面目でした。家族に何も言わずに借金をするような人じゃなかったんです。」
「うるせえ!男ってのは、家族に言えない秘密の一つや二つ、あるもんなんだよ。借金が払えないっていうなら、この店の土地の権利書をよこしな。こんなボロ店でも、立地はいいんだ。借金の代わりにはなるだろう。」
男は、持っていた書類をテーブルに叩きつける。そこには、確かに私の知っているコトコさんの夫、つまり故人の名前で借金の借用書が書かれていた。しかし、私はこの家族をよく知っている。あの真面目で、家族思いだった男が、内緒で借金をするなんて、絶対に信じられなかった。
私は、意を決して立ち上がった。
「待て。その借用書、本当なのか?」
男は、私を睨みつけた。
「あんた誰だ?関係ない奴は引っ込んでろ。」
「この家族には、私も昔世話になった。あんたに言いがかりをつけるつもりはないが、故人が家族に隠して借金をするとは思えない。その書類、見せてもらっていいか?」
私は、男の目を真っ直ぐに見つめながら言った。すると、男はなぜかニヤリと笑った。そして、私の顔をしげしげと見つめた。
「おいおい、まさか…お前、昔、サバエ組の若頭だったって奴じゃねえか?組が解散したって聞いたぜ。今じゃ、こんな小さな店で飯食ってるのか?落ちぶれたもんだな。」
私の過去を知っている男だった。かつて私は、二万人を率いるサバエ組の若頭だった。今は足を洗い、普通の会社員として暮らしている。この男は、私の過去を知った上で、嘲笑うように言ってくる。
私は、ゆっくりとテーブルの上の借用書に目を落とした。それを手に取ると、指先で紙の質感を確かめた。そして、ある場所でピタリと指を止めた。
「この借用書だが…」
私の声は低く、静かだった。男は、私の態度に少し警戒したような表情を見せる。
「どうした?何か文句でもあるのか?」
私は、書類を男の目の前に突き出すと、静かに言った。
「この印鑑、偽物だ。本物の印鑑と、微妙に違う。私は昔の仕事で、書類を見る目だけは肥えてるんでね。これは、傑作の偽札だな。」
男の顔色が、一瞬で変わる。私は、すかさず続けた。
「俺は、もう昔のようなことはしない。だが、家族を大切にしている人を、偽の書類で脅すような奴は、許せないんだ。この店から、今すぐ出て行け。」
男は、悔しそうに私を睨みつける。だが、何も言い返せない。
「…覚えておけよ。」
男は、部下たちを連れて、店を出て行こうとする。だが、私はその背中に向かって、もう一言添えた。
「ああ、言っておくが、うちの組の昔の連中が、この近くで食事してるぜ。もしこの店に、もう二度と立ち入ったら、その連中がどう出るかは、俺が保証しかねる。」
男は、足を止め、振り返る。その顔は、さっきまでの威圧感を失っていた。彼は、無言のまま店を出て行った。
店内には、私と母娘だけが残された。レミちゃんは、放心状態で立ち尽くしている。コトコさんも、まだ震えているようだった。
「サバエさん…ありがとうございます。本当に、助けられました。」
コトコさんは、涙声でそう言って深く頭を下げる。レミちゃんも、やっと言葉を絞り出すように言った。
「おじさん、かっこよかった…!」
私は、2人を安心させるように、優しく微笑んだ。
「気にするな。ああいう奴は、自分が弱いから、他人を脅すんだ。お前さんたちに非はない。さあ、いつもの生姜焼き定食、続きを頼むよ。」
私は、そう言って席に戻った。女将さんは、何度も何度も頭を下げながら、厨房へと向かう。私は、湯呑みのお茶を一口啜り、ほっと息をついた。かつての自分の過去が、初めて誰かのために役に立った瞬間だった。この店を、これからも守っていこう。そう、心の中で強く誓った。熱々の生姜焼き定食が、再び私の前に運ばれてきた。その美味しそうな香りに、私は自然と笑みをこぼしていた。



