「派遣にうちの仕入れは任せられないんだよ。先月、会社を継いだ2代目社長が私を見下ろして言った。磨かれた靴みたいに冷たい目だった。仙台のやり方は古い。これからは全部数字で回す。
ロアが静まり返った。私は反論せず、ただ静かに頷いた。怒りも悲しみも顔には出さない。こういう人を私はよく知っている。だからもう傷つかない。
私の名前は相澤。28歳。和菓子店「梅屋」の派遣の仕入れ担当だ。誰も知らないけど、原料を下ろしてくれる全ての農家が、梅屋のためじゃなく、亡き父と私を信じて届けてくれている。鞄の中には、父が残したたった一つの遺品、使い込まれた一冊の手帳があった。
朝、誰よりも早く出社するのが私の習慣だった。まだ人のいないフロアで、私は手帳を開く。そして1件ずつ農家に電話をかけていく。
「井上さん、おはようございます。今朝の冷え込みは、豆の方は大丈夫でしたか? 」
電話の向こうで井上さんの声が笑う。今年で70になるタマネギ農家だ。私はその声を聞くだけで、その日の畑の様子が分かる。天気、土の湿り気、身の入り。30年、父が通い続けた畑の呼吸だった。
でも、社内で私を見る目は違う。「相澤さん、これコピーお願い」「派遣さん、お茶まだ? 」名前すら呼ばれないことも多い。私は派遣だ。会社に雇われたいつでも替えの効く人間。社員たちはそう思っている。
それでも私は腐らなかった。原料の1つ1つに農家の顔がある。その顔を思い浮かべながら、私は今日も伝票を切る。
昼休み、給湯室で若い社員たちの声が聞こえた。
「2代目、開始系のコンサル入れるらしいよ。仕入れも全部見直すって。派遣さんとか真っ先に切られそうじゃない? 」
クスクスと笑う声。私は聞こえないふりをして湯呑みを洗った。
窓の外では桜がもう散りかけていた。父がこの会社にいた頃、この季節になると必ず言っていた。「春の桜の下で取れるあずきはなあ、一番甘いんや」その言葉を私はまだ覚えている。
手帳の最初のページには父の字でこう書かれていた。「信用は値段やない。人や」私はそのページをそっと指でなぞった。
その日、2代目社長が全部署を会議室に集めた。ホワイトボードには大きな赤い文字。
「原価30%削減。今の仕入れははっきり言って高すぎる。複数見積もりを取れば、もっと安い業者はいくらでもある」
社長は私の方を見ずに言った。
「諸君、うちはこれから数字で戦う。古い付き合いにとらわれるな。信用より価格だ」
部屋の中の空気が凍った。私は手帳のページをめくる。そこには父が書き残した農家の名前がずらりと並んでいた。直接、顔を合わせて育てた付き合い。一回も裏切ったことのない絆。
私は口を開いた。
「社長、その数字だけでは測れないものがあります」
社長は初めて私を見た。
「派遣さんが何か言ったか?

自分の立場を忘れてないか? 」
「忘れてません。でも、この業界で30年やってきた経験があります」
「経験? 派遣の経験か? 」周りから失笑が漏れる。私は手帳を胸に抱きしめた。
「私は今日、この手帳を持って農家を回ります。もしこれを読んで、納得してくれる農家が一人でもいなければ、私は辞めます」
社長は鼻で笑った。
「好きにしろ。どうせ誰もお前を信じないぞ」
私は頭を下げて会議室を出た。廊下で、若い社員の声が聞こえた。「派遺が何勘違いしてるんだろうね」私は振り返らなかった。
その夜、私は手帳を開いて農家の名前を思い浮かべた。井上さん、阿部さん、高橋さん、佐藤さん…父が愛した人たち。私は電話をかけ始めた。
「井上さん、急なお願いです。明日、畑に行かせてください。大事な話があります」
明日の朝、私は井上さんの畑に行く。手帳を渡す。そして父の言葉を伝える。もし誰も私を信じなければ、私は黙って辞める。でも、もし一人でも頷いてくれたら、私はこの会社のために、数字では語れない「信用」を取り戻す。
翌朝、私はいつもより早く家を出た。鞄には手帳。空は晴れていた。畑に向かう車の中で、私は父の字を指でなぞった。「信用は値段やない。人や」
井上さんの畑が見えてきた。井上さんはトラクターを止めて、私の方に歩いてきた。
「相澤さん、早いね。何か急用かい?
」
私は手帳を差し出した。
「これを読んでください。父の手帳です」
井上さんは手帳を受け取り、何ページかめくった。そして、深く息を吐いた。
「懐かしいなあ。この字、お父さんのだろ」
「はい」
「お父さんはなあ、いつも僕たちのことを一番に考えてくれた。天候が悪くて収穫が減った時も、一度も値切らなかった。『この豆はいい豆だ。お前たちが作った豆は全部買うよ』って。うちの息子はお父さんのせいで今でも農業を続けられているんだ」
井上さんの目が潤んでいた。私は何も言えずに、ただ頷いた。
「相澤さん、あなたの言いたいことは歩いて分かるよ。新社長は数字だけ見るかもしれない。でも、この土地のことは私が一番知っている。私はあなたとやるよ」
私は涙が止まらなかった。父から教わった「信用」が、確かにここで生きている。
私はその日、全部で7軒の農家を訪ねた。6軒が手帳を読み、頷いてくれた。1軒だけ、社長の数字に従うと言った。それでも、私は十分だった。
会社に戻った私は、新社長の部屋をノックした。
「社長、お願いがあります。この手帳と、農家の方々が書いた手紙を読んでください。数字だけじゃない、この会社の本当の価値があります」
社長は手帳を手に取り、何ページかめくった。そして、何も言わずに机の上に置いた。
「相澤さんは、もう派遣じゃない。明日から、仕入れ部門の責任者として働いてくれ。ただし、数字も忘れるな」
私は頭を下げた。そして、心の中で父に言った。父さん、私はやったよ。あなたのやり方は、まだここに生きている。
手帳は今も私の鞄の中にある。そして、私は今も、父が愛した農家のために伝票を切る。


