ハワイの最高級ホテルのラウンジ。抜けるような青空と穏やかな波の音が広がる中、私は壁の影で呆然と立ち尽くしていた。純白のタキシードに身を包んだ孫のシ太が、震える声で問いかける。
「どういうことですか?カノンは?カノンはどこですか?」
彼の前に立ちはだかるのは、勝ち誇った笑みを浮かべる神父の両親、田中正尾とみつ子だった。
「カノンならもうここにはいないわよ。今頃もっとふさわしいお相手と別の場所でシャンパンでも開けているんじゃないかしら」
みつ子は高価なブランドバッグを抱え直し、汚いものを見るような目でシ太を見下した。
数ヶ月前、シ太が結婚したい人がいると紹介してくれた時、私は心から喜んだ。若くして両親を事故で失い、私一人の手で育ててきたシ太。彼は私の背中を見て育ち、誰よりも優しく真面目な青年に成長してくれた。彼が選んだカノンさんも、最初はとても控えめで可愛らしいお嬢さんに見えた。
「おばあ様、シ太さんを大切にします」
そう言って微笑んでいた彼女の姿は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
「キャンセル料?そんなものそっちで全部持ちなさいよ。大体このハワイ挙式だって、あんたたちが無理して背伸びした結果でしょう。うちみたいなメ下と親戚になれると思って、必死に貯金を叩いたのかしら」
正尾が吐き捨てるように言った。彼らは自称不動産業を営む一族だ。シ太が地元の工務店で働く普通の若者だと知るや、初対面の時から高圧的な態度を取ってきた。しかしシ太は耐えていた。
「カノンを愛しているから、彼女の両親ともいつか分かり合えるはずだ」
そう言って彼は泥臭く働き、このハワイでの結婚式のために必死に資金を準備してきたのだ。
「もう一度言います。カノンはどこですか?彼女の口から聞かない限り、僕は信じない」
シ太の必死の叫びが豪華なラウンジに虚しく響く。タキシードの袖をぎゅっと握りしめ、涙を堪えて立ち尽くすシ太。その肩は小さく震えていた。彼の純粋な思いが土足で踏みにじられた瞬間だった。
「しつこいわね、身のほどをわきまえなさい。あんたたちみたいな下賤な階級が私たち田中家と関われると思ったのが間違いなのよ。今回のキャンセルは私たちからの最終宣告。二度と連絡してこないでちょうだい」
正尾はそう言い捨てると、傍らにいたホテルのスタッフに冷たく命じた。
「おい、こいつらをさっさと追い出せ。不快だ」
しかしホテルのスタッフは困惑した表情で私の方をちらりと見た。そうです。この時、田中夫妻はまだ何も知らなかったのです。彼らが「貧乏人の老婆」と見下し、無視し続けていた私、山下せ子の正体を。そして、このハワイの名門ホテルを含め、彼らが取引先として必死に媚を売っている大企業グループの頂点に君臨しているのが誰であるかを。
私はゆっくりと震える手でスマートフォンを取り出した。怒りで指先が熱くなっていた。シ太の流した涙の一滴一滴を、後悔という名の毒液に変えて奴らに飲ませてやる。そう決意したのだ。
「もしもし、私です。子宮秘書室につないでちょうだい。それと、田中不動産の全取引を今この瞬間から完全に停止させて」
私の声は自分でも驚くほど静かで、氷のように冷たいものだった。地獄の門が開く音が、私には確かに聞こえた。
でも、物語はまだ始まったばかり。これから彼らが味わう絶望は、こんなものでは済まないのです。
「シ太、もういいのよ。立派だったわ、あなたの姿は」
私は愛する孫の肩を抱くために、ゆっくりと歩き出した。逆転の歯車が、音を立てて回り始めたのです。
果たして、この後田中家を待ち受ける運命とは。ハワイの爽やかな風が、残酷に感じられる午後でした。
私の隣で、シ太はまだ立ち尽くしていた。真っ白なタキシード。それは彼が何日も残業をし、大好きな趣味も全て我慢してようやく手に入れた覚悟の象徴だった。
「おばあちゃん、ごめん。僕のせいでせっかくのハワイがこんなことになっちゃって」
自分の一番の晴れ舞台を壊されたというのに、この子はまだ私のことを気遣っている。私は胸が締め付けられる思いで、彼の冷たくなった手を握りしめた。
「謝ることなんて何一つないわよ。シ太、あなたは本当に立派にやってきたんだから」
私の頭の中には、これまでの数年間の光景が走馬灯のように駆け巡っていた。シ太は幼い頃に両親を亡くし、私の手一つで育ててきた。私は彼を甘やかすつもりはなかった。自分の力で道を切り開く喜びを知ってほしくて、あえて質素な暮らしを心がけてきたのだ。
「おばあちゃん、俺、立派な職人になるよ。自分の腕で誰かを幸せにする家を建てるんだ」
そう言って彼は地元の工務店に就職し、毎日泥にまみれて働いてきた。真っ黒に日焼けした顔で嬉しそうにその日の仕事ぶりを語るシ太。私は誇りに思っていた。
そんな彼が連れてきたのがカノンさんだった。
「初めまして。田中カノンです。シ太さんからはいつもおばあ様のお話を伺っています」
初めて会った時の彼女は、実に穏やかで育ちの良さを感じさせる女性だった。シ太が「この人しかいないんだ」と目を輝かせて語るのも無理はないと、私も安心していた。
しかし、その背後にいる両親、田中正尾とみつ子の本性は、顔合わせの席ですぐに露呈した。
「あら、そのお召し物。失礼ですけど、どちらの百貨店でお買い求めになったのかしら。うちの主人、生地屋にはうるさいものですから。なんだか安っぽい河線の匂いがして不快だわ」
みつ子は私の着ていた着物を一瞥して、鼻で笑った。それは私が長年大切にしてきた、亡き夫との思い出の品だった。彼女たちに言わせれば、陰謀人の古着にしか見えなかったのだろう。
「まあまあ、みつ子。山下さんは一人で孫を育ててこられたんだ。贅沢なんて言葉とは無縁の生活をしてきたんだろうよ。シ太君も工務店の職人だっけ?まあ、肉体労働者にしては言葉遣いだけはまともかな」
正尾もワイングラスを傾けながら、見下すような視線を隠そうともしなかった。
それでもシ太は笑って耐えていた。
「カノンさんのご両親は、彼女のことを本当に大切に思っていらっしゃるんだ。僕みたいな若造に娘を預けるのが不安なのは当然だよ。だから僕がもっと頑張って、信頼してもらえるようにならないと」
彼は田中家から出された無理難題も全て受け入れた。結婚式はハワイの最高級ホテルで、当然費用は新郎側が全額負担。私たちの親族の渡航費や祝儀費も全て出しなさい。それがお嬢様を嫁にもらう誠意というものだろう。
そんなみつ子の要求は、若手職人の貯金で賄える額ではない。それでもシ太は朝から晩まで現場で働き、週末は別のアルバイトまでして必死に資金を貯めた。
「カノンに最高の景色を見せてあげたいんだ」
そう言って休みもせずに働く彼の背中を、私は何度見てきたことか。
一方、私、山下せ子は、彼らにはただの年金暮らしの老婆として接してきた。実は私は、日本でも指折りの規模を誇る総合企業、山下ホールディングスの創業者であり名誉会長だ。夫と共に裸一貫で立ち上げた会社は、今や建設、不動産、ホテル事業と幅広く展開し、日本にも大きな影響力を持っている。
しかし私は、シ太が成人するまで自分の地位や財産を彼に詳しく話すことはしなかった。
「おばあちゃんは、昔からの古い友達がやってる会社の相談役みたいなことをしてるのよ」
そう説明して、私は引退後の静かな生活を楽しんでいた。シ太にはお金の力ではなく、自分の力で人生を歩んでほしかったからだ。
ところが、その私の沈黙が田中家の傲慢さを増長させてしまったようだ。
「おい、いつまでそこに突っ立ってるんだ。見苦しいな。おい、ホテルマン。こいつらは客じゃないんだ。さっさと表へ放り出せと言ってるのが聞こえないのか」
正尾の怒声が静かなラウンジに再び響いた。彼は知らないのだ。このハワイの最高級ホテルが、山下グループが提携しているグローバルチェーンの一部であり、私が最も信頼している知人がオーナーを務めているということ。そして、田中家が経営している田中不動産が、実は山下グループ傘下の建設会社から回ってくる下請け仕事でかろうじて食いつないでいる零細企業に過ぎないということを。
「シ太、もう十分よ」
私は愛する孫の震える肩を抱き寄せた。
「おばあちゃん、あなたが今までどれだけ努力してきたか、私は全部知っているわ。だからもう自分を責めるのはやめなさい。これからはおばあちゃんの番」
私はバッグの中から、普段は決して持ち歩かない特別なカードを取り出した。それは山下グループのトップである証。田中夫妻は、私の手元にあるそのカードの重みを、まだ微塵も理解していなかった。
「山下さん、何よそのカード。ポイントカードでも見せびらかすつもり?ハワイまで来て何も買わずに帰るなんて」
みつ子がゲラゲラと下品な笑い声をあげた。しかしその笑い声は、数分後には絶望の悲鳴と変わることになる。
私はホテルマンに一歩近づいた。彼は私の顔を見るなり目を見開き、直立不動の姿勢を取った。
「ま、まさか、あなたは…」
「彼らに少しお話があるの。静かな場所を用意してくれるかしら」
私の声は、南国の太陽の下で凍りつくように冷たく響いた。
ホテルのラウンジは、南国の楽園を象徴するような優雅なBGMが流れている。しかし私たちの周りだけは、凍りつくような殺伐とした空気に支配されていた。
「おばあちゃん、もう行こう。ここにいても悲しくなるだけだよ」
シ太が私の袖を弱々しく引いた。彼の顔は青白く、愛する人に裏切られた衝撃で今にも崩れ落ちそうだ。
しかし田中夫妻は、そんな彼の様子を嘲笑うかのように眺めていた。
「そうよ。さっさと連れて帰ってちょうだい。タキシードなんて着ちゃって、背伸びしすぎなのよ。鏡を見たことあるのかしら。土足でうちのお嬢様に触れるなんて、そもそもおこがましいのよ」
みつ子が扇子で顔を仰ぎながら吐き捨てるように言った。彼女の首元には、これ見よがしに大粒の真珠のネックレスが光っている。おそらく、初対面の際に「カノンさんのご両親に喜んでほしいから」と身を削って送った高級品だろう。それを身につけながら、彼をゴミのように扱うその神経が、私には到底理解できなかった。
「おばあちゃんの持ってるそのカード、何かの見間違いじゃないの?ホテルのスタッフも、老人をいたわるふりをしてるだけよね」
正尾がホテルのスタッフに同意を求めた。しかしカードを預かったスタッフは、顔面蒼白のまま小刻みに震えている。彼は何度もカードと私の顔を交互に見て、何かを言いかけたが、喉の奥に言葉が詰まっているようだった。
「どうしたんだ?おい、さっさとその貧乏人を追い出せと言っているんだ」
正尾が苛立ったようにスタッフの肩を突き飛ばした。
「いい加減にしてください!」
それまで沈黙を守っていたシ太が、ついに声を荒げた。
「僕のことはどう言っても構いません。でも、おばあちゃんまでバカにするのはやめてください。彼女は僕を立派に育ててくれた、大切な家族なんです」
「健気ねえ。でもね、シ太君、世の中は情熱や愛情だけでは立っていけるほど甘くないの。カノンもね、最初はあなたの真っすぐなところに惹かれたのかもしれないけれど、結局は現実を見たのよ。これから先、工務店の作業員と結婚して一生汗水垂らして節約生活を送るなんて、あの子には耐えられるはずがないじゃない」
みつ子の言葉に、シ太の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「カノンは…カノンは本当にそう言ったんですか?僕との生活は耐えられないって」
「ええ、そうよ。今朝、あの子は泣きながら言ったわ。『お父様、お母様、私、やっぱりあんな貧乏な家に行くのは嫌。もっとキラキラした世界で生きたいの』ってね。だから今のあの子は、もうあなたなんか見ていないわ」
正尾がさらに追い打ちをかける。
「実はね、今日の結婚式に合わせて、もっとふさわしいお相手をこちらで用意したんだ。都内で有名な病院の御曹司だよ。彼は今、カノンと一緒にホテルのスイートルームでシャンパンを楽しんでいるはずだ。君へのキャンセルは、あの子自身の意志でもあるんだよ」
その瞬間、シ太の膝ががくんと折れた。信じていた女性の裏切り。それが一番残酷な形で突きつけられたのだ。私は崩れ落ちる彼をしっかりと支えた。私の心の中では、これまで感じたことのないほど冷たく鋭い怒りが結晶化していくのが分かった。
「そうですか。カノンさんもそれを承知の上で…」
私はようやく口を開いた。その声は低く、そして静かだった。
「あら、やっと現実を理解したかしら。そうよ。山下さん、あなたたちが一生かかっても手に入らないような富と名誉が、私たちの世界にはあるの。あなたたちみたいな一般人は、身の丈にあった生活をしていればいいのよ。いつまでそこにいるつもり?営業妨害で警察を呼んでもいいのよ」
みつ子は勝ち誇ったように笑った。しかし私は彼女の言葉を無視して、まだ震えているホテルのスタッフに視線を戻した。
「支配人はどこにいますか?」
「わ、はい、ただいま、すぐに呼んでまいります。申し訳ございません。少々お待ちください」
スタッフはダッシュのごとく奥の事務室へと走っていった。
「わははは、支配人を呼んでどうするんだ?謝罪でも求めるつもりか?貧乏人のプライドっていうのは本当に見苦しいな」
正尾は腹を抱えて笑っている。
「みつ子、せっかくだから、この老婆が泣いて許しを乞う姿をビデオに撮っておこう。後でカノンに見せてやろう。きっといい酒の肴になる」
「いいわね。それ、最高にスカッとするわ」
二人はスマートフォンを取り出し、私たちにカメラを向けた。私は何も言わなかった。ただじっと彼らの顔を見つめていた。この後、自分たちがどのような地獄に足を踏み入れることになるのか、一秒先のことすら想像できない愚かな人間たちの顔を。
シ太は顔を覆って泣いていた。しかし、彼の涙はこれが最後になるだろう。
やがて、ホテルの奥から見るからに高級なスーツに身を包んだ、風格のある男性が慌てた様子で走ってきた。このホテルの総支配人、ヘンリー・スミス氏だ。
「せつ子・山下様、これは一体どういうことでしょうか?」
ヘンリーは田中夫妻の前を素通りし、私の前で深々と頭を下げた。その角度は、まさに主君に対する礼儀そのものだった。
田中夫妻の笑い声がぴたりと止まった。
「い、いや、総支配人、なんでこのばあさんに頭を下げてるんだ」
正尾の声が裏返った。私はヘンリーを見つめ、静かに、しかし威厳を持って告げた。
「ヘンリー、お久しぶりね。ところで、このホテルのロビーでは、宿泊客でもない人間が大切なゲストを侮辱し、撮影することが許されているのかしら」
「とんでもございません。山下様、すぐに、すぐに対処いたします」
ヘンリーの額からは滝のような汗が流れ落ちていた。田中夫妻の顔が急速に引きつり始めた。
「山下様?おい、みつ子、どういうことだ?この老婆はただの山下とかいう年金暮らしじゃないのか?」
「わ、私に聞かないでよ。でも、総支配人があんなに怯えるなんて…」
私はヘンリーに預けていたカードをしまった。
「この方たちは、私の孫の結婚をキャンセルするとおっしゃったわ。そして、このホテルのスイートルームで別の男性とパーティーをしているとか。ヘンリー、このホテルの規約では、マナーに反する宿泊客を即刻退去させる権利があったはずよね」
「もちろんでございます。山下様のご意向であれば、即刻執行いたします」
ヘンリーはそう言うと、鋭い目つきで田中夫妻を睨みつけた。
「おい、待て。私たちはここの上顧客だぞ。田中不動産の社長だ。山下グループの関連会社とも取引があるんだぞ」
正尾が必死に叫んだ。私はそんな彼にゆっくりと近づき、耳元でささやいた。
「田中さん、その山下グループの会長が誰か、ご存知かしら?」
正尾の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。彼の顔から、さっきまでの余裕が潮が引くように消えていった。しかし、それは恐怖というよりも、信じられないものを見た時の拒絶に近い反応だった。
「いや、山下グループの会長だと?バカバカしい。山下グループといえば、日本を代表する巨大企業だぞ。そのトップが、こんな古臭い着物を着たばあさんなわけがないだろう」
正尾は震える指先で私を指差し、必死に自分に言い聞かせるように叫んだ。隣にいるみつ子も引きつった笑いを浮かべて同調する。
「そうよ、あなた騙されないで。きっとそのカードも、どこかの土産物屋で買ったおもちゃか何かなのよ。ほら見てご覧なさい、この貧相な身なりを。会長様がこんな安い工務店の孫を育てるなんてありえないわ。嘘をつくなら、もっとましな嘘をつきなさい」
彼女たちは、自分たちが信じたい現実を必死に守ろうとしていた。もし私が本当にその人物であれば、自分たちが今までしてきた数々の悪行が、取り返しのつかない破滅を招くことを直感的に理解していたのだろう。
私は何も言い返さず、ただ静かに二人を見つめていた。その沈黙が、逆に彼らの不安を煽る。
「黙りなさい!」
怒鳴ったのは、ホテルの総支配人ヘンリーだった。
「この方は山下せつ子様。我がホテルグループの最重要株主であり、私が最も尊敬する大人物だ。着方々のような無礼な客に、これ以上神聖なロビーを汚させるわけにはいかない。今すぐ立ち去りなさい」
ヘンリーの厳しい一喝に、ロビーにいた他の観光客たちも何事かと足を止め、こちらに注目し始めた。
「な、なんだと…本当に本物の会長なのか」
正尾の膝が目に見えて震え始めた。彼は不動産業を営む身として、山下グループという存在が自分たちのような零細企業にとってどれほど巨大で、逆らえない神のような存在であるかを、誰よりも熟知しているはずだ。
しかし、ここで引き下がれば自分の敗北を認めることになる。虚栄心だけで生きてきた彼は、さらに見苦しい言いがかりをシ太に浴びせ始めた。
「おい、シ太、お前、知っていたのか?自分のばあさんがこんな金持ちだってこと。卑怯だぞ。正体を隠して俺たちの娘に近づくなんて、金目当てだったのか。ああ、そうに違いない。山下グループの財産を一人占めするために、うちのカノンを利用しようとしたんだ」
あまりにも身勝手な言い分に、私は耳を疑った。シ太はまだ事態が飲み込めない様子で、私と田中夫妻を交互に見つめている。
「おばあちゃん、本当に…僕はおばあちゃんが普通の優しいおばあちゃんだとばかり。それに金目当てなんて、そんなこと一度も思ったことないよ」
「うるさい!貧乏人のふりをして人の善意を試すような真似、最低だわ。あなたたちが正体を隠していたせいで、私たちは恥をかいたのよ。どうしてくれるのよ」
みつ子がキーキーと猿のような声をあげ、私の肩を掴もうと手を伸ばしてきた。その時です。
「そこまでにしてください」
低く通る声が響いた。現れたのは、仕立ての良いスーツを着こなした30代後半ほどの男性だった。彼は私の秘書として長年使えてくれている佐藤だ。彼は私の指示を待たずとも、必要な手配を全て済ませて駆けつけてくれたようだ。
「会長、お待たせいたしました。日本との連絡及び現地当局への確認、全て完了しております」
佐藤は私に一礼すると、冷徹な視線を田中夫妻に向けた。
「田中正尾さん、あなたが経営する田中不動産。現在、山下建設から下請けしている3つの大型プロジェクトについて、重大な契約違反の疑いがあるとの報告が上がっています」
正尾の顔が、土色を通り越して真っ白になった。
「契約違反?何のことだ?そんなはずはない」
「いいえ。本来、山下グループが指定した高品質な資材を使うべきところ、安価な海外製の粗悪品に勝手に変更し、その差額を裏金として着服していたという証拠。今朝方、匿名の方から提供いただきました。現在、弊社の法務部が精査中ですが、ほぼ事実であると断定されています」
正尾の口が、金魚のようにパクパクと動く。
「それから、みつ子さん。あなたが運営されているというセレクトショップ、あちらで扱っている一部のブランド品について、商標法違反、つまりコピー品の販売の疑いで、税務署と警察が動き出す準備をしているとのことです」
「な、何言ってるのよ。失礼しちゃうわ」
みつ子は叫んだが、その瞳は泳ぎ、激しく動揺しているのが丸分かりだった。
「お二人とも、これまで山下グループの名前を虎の威を借るように利用し、甘い汁を吸ってきたようですが、その甘い夢は、強制の瞬間を持って終わりです」
佐藤が淡々と事実を突きつけるたびに、田中夫妻のプライドは音を立てて崩れ去っていった。
しかし、私にとって彼らの会社の倒産など、些細なことに過ぎなかった。一番許せなかったのは、彼らが「カノンさんは別の男性とスイートルームにいる」と言い放ったこと。シ太の心を最も深く傷つけたあの言葉。
「佐藤、カノンさんはどこにいるの?」
私は静かに尋ねた。
「はい。現在、こちらのホテルの最上階、インペリアルスイートにいらっしゃいます。ご指摘の通り、都内の総合病院の御曹司、佐藤健一氏とご一緒です」
佐藤が告げたその名を聞いて、シ太の顔が絶望に染まった。佐藤健一。それはシ太も知っている、地元の名家の息子だった。
「そんな…カノン…」
シ太は崩れ落ちるように膝をついた。私は愛する孫の背中に手を置いた。彼の震えが、私の手のひらを通じて伝わってくる。
「シ太、真実を確かめに行きましょう。自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ、あなたは一生この呪縛から逃れられない」
私は顔を上げ、ヘンリーと佐藤に命じた。
「二人をスイートルームまで案内してちょうだい。田中さん夫妻もご一緒に。娘さんの晴れ姿を、特等席で見せてあげましょう」
田中夫妻はもはや言葉を失い、ボロ雑巾のように力なく項垂れていた。
スイートルーム。そこには、さらなる衝撃の事実が待ち受けていることを、まだ誰も知りませんでした。
静まり返ったエレベーターの中で、数字だけが無機質に上がっていく。最上階、インペリアルスイート。そこはこのホテルで最も格式が高く、一晩の宿泊料だけで一般的なサラリーマンの年収が吹き飛ぶような、選ばれたものしか立ち入ることのできない聖域だ。
「ありえない…何かの間違いだ」
みつ子が震える声で何度も呟いていた。彼女の目は血走り、完璧に整えられていたはずの夜会巻きの髪が、少しずつ乱れ始めている。
「黙れ、みつ子。山下さん…いや、山下会長。これはその、単なる行き違いでして。娘もきっと何か事情があって…」
正尾はさっきまでの傲慢な態度をどこへやら、私にすり寄ろうとしてきた。しかし秘書の佐藤が、鋼のような冷たさでそれを遮る。
「お控えください。会長にこれ以上近づくことは許されません」
「チン」という電子音と共に扉が開いた。目の前に広がるのは、見渡す限りの青い海と空が溶け合う、パノラマビューの豪華なリビングルーム。最高級のシャンパンの香りが、かすかに漂ってきた。
「あら、お父様、お母様、どうしたの?そんなに大勢連れて」
部屋の奥から現れたのは、真っ白なシルクのドレスをまとったカノンさんだった。彼女の手にはクリスタルグラスが握られている。そして、その傍らには、いかにも高級そうなスーツを着崩した若い男がソファに深く座り込んでいた。
「カノン…」
シ太が絞り出すような声で彼女の名前を呼んだ。カノンさんはタキシード姿のシ太を一瞥すると、露骨に嫌そうな顔をして鼻を鳴らした。
「何よ、シ太さん?まだいたの?キャンセルの話、お父様から聞いたでしょう。もう終わったのよ。私たち。わざわざここまで追いかけてくるなんて、本当に未練がましいわね」
彼女の口から出たのは、かつての清楚な面影を微塵も感じさせない、冷酷な言葉だった。
「どうして…昨日まであんなに仲良く準備してたじゃないか。ハワイに来るの、あんなに楽しみにしてたのに」
「あはは。演技に決まってるじゃない。あなたみたいなただの職人と結婚して、一生汚い作業着のまま過ごすなんて、冗談じゃないわ。私はね、もっと高い場所にふさわしい人間なの」
彼女はそう言うと、隣に座る男の方に手を置いた。
「紹介するわ。こちらは佐藤健一さん。都内にいくつも大きな病院を持つ、佐藤総合病院の御曹司よ。あなたみたいに、いつ怪我をして働けなくなるかわからない危険な仕事とは、住む世界が違うの」
健一と呼ばれた男は、下卑た笑みを浮かべながらシ太を足の先から頭のてっぺんまで眺め回した。
「へえ。君がその職人君か。カノンから聞いてたよ。いいカモだったってね。ハワイまでの旅費、宿泊費、全部出してくれたんだって。おかげで俺たちは一銭も払わずにバカンスを楽しめてるわけだ。感謝するよ」
「なんだって…」
シ太の顔から血の気が引いていく。
「本当なの?カノン…君が僕と結婚しようとしたのは、この男とハワイに来るための資金調達のためだったのか」
「気づくのが遅いのよ。あなた、真面目だけが取り柄だったものね。少し優しくしてあげれば、必死に働いてお金を見つけてくる。本当にちょろかったわ」
カノンさんはシャンパンを一口煽ると、残りを床にぶちまけた。
「ほら、足元が汚れちゃった。職人さんなら、掃除の仕方も詳しいんでしょう。ついでにここ、綺麗にしていってちょうだい」
その光景を見て、田中夫妻は青ざめていた。彼らは知っているのだ。この部屋に、自分たちが到底逆らえない本物の怪物がいることを。
「カノン!やめなさい!謝るんだ!今すぐ!」
正尾が悲鳴のような声をあげたが、カノンさんは首をかしげるだけだった。
「お父様、何を言ってるの?怖い顔して。あ、分かったわ。この貧乏人の老婆が邪魔なのね。安心して、ホテルのセキュリティを呼んで…」
「黙れ、この愚か者が!」
正尾はカノンさんの頬を力いっぱい張った。乾いた音が室内に響き渡る。
「お父様、なんで…」
「いいから、山下会長に謝れ!土下座してでも許しを乞うんだ!」
カノンさんは叩かれた頬を押さえながら、信じられないものを見る目で父親を見た。
「何を言ってるの?お父様。この人はただのシ太さんのおばあちゃん…」
「黙りなさい」
私は一歩前へ出た。私の沈黙が、部屋の温度を数度下げたかのような錯覚を与える。私は床にぶちまけられたシャンパンの跡を見つめ、それからカノンさんと健一、そして震える田中夫妻を順番に見据えた。
「カノンさん、あなたはシ太の心を、そして彼の流した汗と涙を、このシャンパンと同じように床に捨てたのね」
「な、何よ、おばあさん。誰に向かって口を聞いてるの?健一さん、何とか言ってやって」
助けを求められた健一だったが、彼は私と目があった瞬間、持っていたグラスを床に落として粉砕させた。
「や、山下名誉会長…」
健一の声は、生まれたての子羊のように細く震えていた。
「健一さん、どうしたの?」
「お、お前、この方がどなたか分かっているのか。山下グループの…我々佐藤病院が、融資から経営アドバイザーまで、全てを依存している。山下ホールディングスの創業者だぞ!」
健一はソファから転げ落ちるようにして、床に膝まづいた。
「も、申し訳ございません!私はこの女性が、田中カノンが山下家と親戚になると聞いて、コネクション作りのために近づいただけなんです!結婚式の費用をシ太という男に出させているなんて、私は知らなかったんです!」
「健一さん、何を言ってるの?あなた、私を愛してるって…」
「うるさい!この際、山下会長に盾突くような女だと知っていたら、最初から関わらなかった!」
愛を誓い合っていたはずの二人が、見苦しいののしり合いを始めた。私はその様子を、ただ冷たく見つめていた。
「シ太、見ていなさい。これが、あなたが守ろうとしたものの正体よ」
シ太は何も言わなかった。ただ拳を、血が滲むほど固く握りしめ、静かに、本当に静かに、その光景を瞳に焼きつけていた。
「さて、田中さん、そして佐藤さん」
私は静かに口を開いた。
「一族全員、覚悟はできているかしら?地獄のカウントダウンが、今ゼロを指しました」
インペリアルスイートの豪華な内装が、今はまるで舞台のセットのように虚しく見えた。床に散らばったシャンパンとグラスの破片。それは、シ太が必死に積み上げてきた誠実さが、この傲慢な一家によって無惨に砕かれた象徴のようだった。
「あ、あの、山下会長、これは本当に、その、誤解なんです」
田中正尾が這いつくばるようにして私の足元に寄ってきた。
「カノンはまだ若いんです。佐藤さんの息子さんに誑かされて、ちょっと間がさしただけで。私は、私はずっとシ太君のことを、本当の息子のように思っていたんですよ」
つい数分前まで「下賤な階級」と罵っていた口が、今は驚くほど滑らかに嘘をつき出す。その醜態に、私はただ黙って視線を落とした。
「嘘をおっしゃい!お父様だって、佐藤病院の御曹司と結婚した方が商売に有利だって、あんなに喜んでいたじゃない!」
カノンさんが叫んだ。窮地に陥った親子が、今度は互いに責任をなすりつけ始める。
「黙りなさい、カノン!会長、お聞きください。全てはこの娘が勝手にやったことで、私どもは必死に止めたのですが、どうしても聞かなくて。どうか、田中不動産への制裁だけはご勘弁いただけないでしょうか?」
正尾の言葉に、私は深く落胆した。自分の保身のために、実の娘さえも切り捨てる。これが、シ太が家族になろうとした人々の本性だったのだ。
私は彼らの謝罪や言い訳に耳を貸すつもりはなかった。私の視線は、ただ一点、静かに立ち尽くしているシ太に向けられていた。
「シ太、あなたはどうしたい?」
私は努めて穏やかな声で孫に尋ねた。シ太はゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れ、深い悲しみに沈んでいたが、そこには確かな決意の光が宿り始めていた。
「おばあちゃん。僕はずっと、自分の腕一本で誰かを幸せにできる人間になりたいと思って、今日まで働いてきた」
「ええ、知っているわ。あなたは素晴らしい職人よ」
「でも、僕が信じていたものは、僕が愛そうとした人たちは、僕の努力なんてこれっぽっちも見てくれていなかったんだね。僕が流した汗も、おばあちゃんを喜ばせたくて必死に貯めたお金も、彼らにとってはただの便利な道具でしかなかったんだ」
シ太の声は震えていたが、言葉の一つ一つがスイートルームの静寂を切り裂いていった。
「おばあちゃん、ごめん。おばあちゃんが僕に教えてくれた、誠実に生きるということの意味が、今ようやく分かった気がする。誠実さは、それを理解できる相手にしか届かないんだ」
彼はそう言うと、右手の薬指にはめていた、カノンさんとお揃いで買ったはずのプラチナの指輪を静かに外した。そして、それを足元のシャンパンの破片と共に、迷いなく落とした。
「田中さん、カノンさん。僕たちの関係は、今この瞬間、完全に終わりました。もう、あなたたちの顔を見るのも、声を聞くのも、これ以上は耐えられません」
シ太の言葉に、カノンさんが引きつった声をあげた。
「な、何よ!生意気言わないでよ!あんたみたいな貧乏人、こっちから願い下げなの!おばあ様が会長だからって、あんた自身は何者でもないじゃない。ただの泥臭い職人でしょう!」
彼女はまだ、ことの重大さが分かっていないようだった。自分たちの足元が、すでに音を立てて崩れ去っていることに。
私は秘書の佐藤に目配せをした。
「さ、承知いたしました。会長」
佐藤がタブレットを取り出し、いくつかの操作を行った。
「田中正尾さん。先ほど申し上げた契約違反及び横領の件ですが、すでに現地の協力会社及び日本の警察当局への通報を完了しました。今頃、日本にあるあなたの会社には捜査員が到着しているはずです。さらに、田中不動産が抱えている全ての負債について、メインバンクが一斉に債権回収に動くよう手配済みです。あなたの会社の資産は、本日中に全て凍結されます」
正尾は白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
「それから、佐藤健一さん」
呼ばれた健一が、びくっと肩を震わせた。
「あなたの父親である佐藤病院の理事長には、すでに私から直接連絡を入れました。今回のハワイでの醜態及び高額横領の嫌疑についてお伝えしたところ、理事長は激怒され、あなたを直ちに親族から除籍し、理事の席も引きずり下ろすと明言されました」
「そ、そんな…親父!待ってくれ!」
健一は狂ったようにスマートフォンを操作し始めたが、彼の電話が繋がることは二度とないだろう。
「最後に、カノンさん」
私は真っ白なドレスを着た、かつての孫の婚約者を冷たく見据えた。
「あなたが今日、シ太から奪ったものは、単なる時間やお金ではありません。あなたは一人の人間の純粋な心を、最も醜い形で踏みにじった。その対価は、あまりにも重いわよ」
「な、何よ?警察、破産、そんなの私には関係ないわ。私はもっといい男を見つけて、ハワイで優雅に暮らすんだから」
彼女が虚勢を張って叫んだその時、ホテルのスタッフ数名が部屋に現れた。
「失礼いたします。当ホテルの総支配人より通達がございます。田中様、佐藤様、お客様の宿泊予約は、先ほどを持って全て強制キャンセルとなりました。今すぐ荷物をまとめて退去していただきます」
「な、なんですって!私たちは客よ!追い出すなんて許されないわ!」
「規約に基づき、他のお客様への著しい迷惑行為及び不正な宿泊手続きが認められました。もしも退去されない場合は、現地の警察及び不法侵入として処置させていただきます」
スタッフの冷厳な通告に、カノンさんの顔が恐怖で歪んだ。
「あ、ちょっと待って!私の荷物は!私が買ったブランド品は!」
「それらについては、すでに債権の差し押さえ対象として当局が管理しております」
逃げ場はどこにもなかった。田中夫妻、そしてカノンさんと健一は、まるでゴミのようにスイートルームから引きずり出されていった。廊下に響き渡る彼らの見苦しい絶叫が遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、私とシ太。そして沈黙だけだった。
「シ太、怖かったでしょう。辛かったわね」
私は愛する孫の肩に手を置いた。シ太は私の手の上に自分の手を重ね、深いため息をついた。
「おばあちゃん、ありがとう。でも、これで終わりじゃないよね」
シ太の言葉に、私は頷いた。
「ええ、彼らにはまだ本当の地獄が待っているわ。彼らが誇りに思っていた家柄も名誉も、全てが虚構の上に成り立っていたこと。身を持って知ることになるのよ」
しかし、私の心にはまだ一つの懸念があった。それは、田中家が隠し持っていた、さらなる最悪の計画の存在でした。
静寂が戻ったインペリアルスイート。窓の外には、皮肉なほどに美しいハワイの夕焼けが広がっていた。オレンジ色に染まる海を見つめながら、シ太は力なくソファに腰を下ろした。
「おばあちゃん、僕はどうしてあんな人たちのことを信じてしまったんだろう」
彼の言葉には、裏切られた怒りよりも、自分自身の不甲斐なさを責めるような深い悲しみが混じっていた。私は彼の隣に座り、その大きな節くれだった職人の手をそっと握った。
「シ太、あなたは人を信じるという、一番尊い心を持っていただけ。悪いのは、その心を食い物にしたあの一族よ」
その時、佐藤が静かに近づいてきた。
「会長、シ太様。実は、田中家が企てていたのは、単なる結婚詐欺や旅費の搾取だけではありませんでした」
佐藤がテーブルに広げたのは、数枚の内部告発資料と、田中不動産の裏帳簿のコピーだった。
「どういうことだ?」
シ太が資料を覗き込む。そこには、目を疑うような内容が記されていた。
「田中正尾は、山下建設から請け負ったマンション建設において、意図的に強度不足の資材を使用させていました。そして、その責任を全て、現場責任者であるシ太様に押し付ける準備を進めていたのです」
「僕に…責任?」
シ太の顔が驚愕で歪んだ。
「はい。彼らは、シ太様が書いたとされる虚偽の工事報告書を偽造していました。もしこのまま結婚が進んでいたら、最後にその不正を明るみに出し、シ太様をトカゲの尻尾切りとして告発。山下グループからの損害賠償請求を、全てシ太様に被せるつもりだったようです」
あまりの悪辣さに、私の体中に冷たい怒りが走った。彼らはシ太からお金を奪うだけでなく、彼の職人としての生命、そして人生そのものを生贄にするつもりだったのだ。
「なんてこと…家族になるはずの相手を、犯罪者に仕立て上げようとしていたなんて」
さらに、カノンさんについても驚くべき事実が判明した。
「彼女はシ太様から結婚資金として預かっていた数百万円を、全て佐藤健一との遊びに使っていました。それだけではありません。彼女は山下グループの会長の孫と結婚するという偽の情報を流し、それを担保に複数の闇金業者から多額の借金を重ねていたのです」
「おばあちゃん、僕が隠していた貯金も、カノンに渡してたんだ。結婚後の生活費にって」
シ太は顔を覆った。彼が汗水垂らして、それこそ指にタコを作り、腰を痛めながら稼いだ尊いお金が、あのような下劣な男との遊びに使われていた。己れ田中一族。私は拳を強く握りしめた。彼らは私の大切な宝物を、文字通り徹底的に踏みにじった。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
「どなたかしら?もう誰も入るなと言ったはずよ」
ヘンリーが申し訳なさそうに顔を出し、一人の女性を伴って入ってきた。
「会長、失礼いたします。どうしても会長にお伝えしたいことがあるという女性が。彼女は日本から田中家を追って、ここまで来たそうです」
現れたのは、質素なスーツを着た、疲れ果てた様子の若い女性だった。
「初めまして。私は田中不動産で事務をしていた、川田ゆいと申します」
彼女は私とシ太の前に出ると、深く、深く頭を下げた。
「山下様、シ太さん、本当に申し訳ございませんでした。私は、社長たちがシ太さんを落とし入れようとしているのを知っていました。でも、声をあげたら首にすると脅されて。でも、耐えられません。これ、私が社長の部屋から持ち出した、本当の工事記録です」
彼女が差し出したのは、偽造される前の真実の記録だった。そこには、シ太がいかに真面目に、規律正しく現場を管理していたかが克明に記されていた。
「川田さん、君が…」
シ太が驚いて立ち上がった。
「シ太さんが現場で職人さんたちに優しく接している姿を見ていました。あなたがどれだけ一生懸命だったか、私だけは知っています。あんな悪党たちに、あなたの人生を壊させたくなかった」
川田さんの目から涙がこぼれ落ちた。彼女もまた、田中家の横暴に苦しめられていた被害者の一人だったのだ。
「ありがとう、川田さん。あなたの勇気が、最後のパズルのピースを埋めてくれたわ」
私は彼女の手を取り、感謝を伝えた。これで全ての証拠が揃った。田中正尾の業務上横領と公文書偽造、田中みつ子の商標法違反と詐欺、田中カノンの結婚詐欺と多額の借金トラブル。そして、彼らが隠し持っていた最大の事実が、もうすぐ白日の下にさらされようとしている。
「佐藤、手配していた特別チームを日本へ。田中家の自宅、店舗、及び関連する全ての隠し口座の差し押さえを開始しなさい」
「承知いたしました」
「それから、カノンさんが借りていた闇金業者たちにも、山下グループの法務部が接触したことを伝えなさい。『田中家はもう一銭も持っていない。回収したいなら、今すぐハワイにいる本人たちのところへ行け』とな」
私の冷厳な命令に、シ太が少しだけ目を見開いた。
「おばあちゃん、それって…」
「慈悲をかける相手を間違えてはいけないわ。彼らがあなたにしようとしたことは、殺人にも等しい行為よ。私は彼らに、奪う側から奪われる側の恐怖を、骨の髄まで教えてあげるつもり」
ハワイの夜空に、パトカーのサイレンの音がかすかに響き始めた。ホテルを追い出された田中一族が、今どこで何をしていようと、彼らに安息の場所など、地球上のどこにも存在しないのだ。
しかし、この時、私はまだ知らなかった。絶望の淵に立たされた田中正尾が、最後に取った狂気とも言える行動が、私たちを再び窮地に追い込むことになることを。
ハワイの夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。しかし、私たちの滞在するインペリアルスイートの扉の外では、何やら騒がしい怒鳴り声が響いていた。
「通せ!私は山下会長に大事な話があるんだ!これをばらされたくなければ、今すぐ通せと言っているだろう!」
その声の主は、先ほどスタッフによってつまみ出されたはずの田中正尾だった。どうやら警備の隙をついて、再び最上階まで舞い戻ってきたようだ。
「会長、いかがなさいますか?セキュリティに命じて、力づくで排除させますが」
佐藤が声を潜めて尋ねた。私は少し考え、静かに頷いた。
「いいわ、入れてあげなさい。逃げ場を失ったネズミが、最後にどんな顔をして泣くのか。見ておくのも一興だわ」
扉が開くと、そこには見るも無惨な姿の正尾が立っていた。高級だったはずのスーツはもみくちゃになり、ネクタイは曲がり、髪は乱れ放題。かつての不動産会社の社長としての威厳など、微塵も残っていなかった。
「山下会長…いや、クソばあさん、よくもやってくれたな。私の会社を、私の人生を、めちゃくちゃにしやがって」
正尾は部屋に転がり込むなり、私を指差して叫んだ。彼の背後には、同じようにボロボロになったみつ子と、頬を腫らして泣きじゃくるカノンが立ち尽くしている。
「あら、ご挨拶。自分の犯した罪を棚に上げて、他人のせいにするなんて。それでこそ田中正尾さんだわ」
私は優雅にソファに腰掛けたまま、穏やかに彼を見下した。
「ふん。強気でいられるのも今のうちだ。見ろ、これを!」
正尾が震える手で突き出してきたのは、一台のスマートフォンだった。その画面には、何かの音声ファイルが表示されている。
「これは、シ太とカノンが付き合い始めた当初の、私の事務所での会話だ。シ太、お前、あの時言ったよな。『僕は山下グループのことは何も知らない。おばあちゃんはただの年寄りだ』って。で、それを聞いた私が、いかにお前を馬鹿にし、騙して金を引き出す計画を立てていたか。その一部始終が、この録音に入っているんだ」
「それがどうしたんですか?」
シ太が静かな声で問い返した。
「どうしたもこうしたもあるか!これを世間に公表してみろ!山下グループの会長の孫が、こんな簡単に騙される愚か者だったと知れたら、株価はどうなる?お前の無能さが原因で、このばあさんが築き上げた帝国に泥を塗ることになるんだぞ!」
正尾は勝ち誇ったように、引きつった笑いを浮かべた。
「この録音データを消して欲しければ、今すぐ会社への差し押さえを解け。それと、一億円。いや、三億円の解決金を今すぐ用意しろ。さもなければ、これをマスコミにばらしてやる!」
あまりにも短絡的で、あまりにも醜い脅迫。みつ子も正尾の背後から必死に声を張り上げた。
「そうよ!私たちはただでは起きないわよ!カノンだって、シ太さんの子供を身籠っているかもしれないって言えば、世間はどっちの味方をするか知らないわよ!泥沼の裁判にして、山下の名前を徹底的に汚してやるわ!」
その言葉を聞いた瞬間、シ太の顔から完全に感情が消えた。それは怒りを超越した、深い無の境地だった。
「そうですか。子供ですか」
シ太は一歩、また一歩と田中夫妻に近づいていった。
「な、なんだよ。暴力か?殴るのか?ほら、殴ってみろ。それも全部録画してやるからな」
正尾がスマートフォンを構えたが、シ太は殴るどころか、その場に立ち止まって静かに語りかけた。
「田中さん、僕はあなたたちを、心から家族だと思おうとしていました。カノンを愛し、あなたたちを尊敬しようと努力してきた。でも、今、その録音があると言って喜んでいるあなたの姿を見て、心底がっかりしました」
シ太は正尾の手にあるスマートフォンを、悲しげな目で見つめた。
「その録音には、僕があなたたちを信じていた証拠が入っているんでしょう。僕があなたたちを疑わず、純粋に接していた声が入っているんでしょう。それを、自分たちを守るための武器に使うなんて。あなたたちには、人の心というものがないんですか?」
「心だ?そんなもので腹が膨れるか?金だ!金が全てなんだよ!」
正尾が吐き捨てるように言った。
「わかりました。おばあちゃん、もういいよ」
シ太は私の方を振り返った。
「この人たちに、これ以上言葉をかけるのは時間の無駄だ。僕の負けでいい。僕が愚かだったことも、騙されたことも、全部世間に公表すればいい。山下グループの株価が下がるなら、僕は一生かかってその償いをする。でも」
シ太は再び鋭い視線を正尾に向けた。
「不当な脅迫に屈して、あなたたちに金を払うことだけは、絶対にしません。どうぞ。その録音を、どこへでも持っていってください」
シ太の毅然とした態度に、正尾の顔が引きつった。
「な、本気か?本当にいいんだな?お前のせいで、このばあさんは全てを失うんだぞ」
「失うものなど、何もありませんよ」
私は立ち上がり、静かに口を開いた。
「田中さん、あなたが持っているそのデータ。実は私も持っているの。それも、もっと高音質で、あなたの計画の全容が記録されたものをね」
「な、何を言っている?」
「川田さんが届けてくれたのは、書類だけではないの。あなたの事務所に、彼女が以前から仕掛けていたボイスレコーダーのデータよ。あなたがどうやって資材を偽装し、どうやってシ太を罠にはめようとしたか。そして、今この部屋で私を脅迫している、今の音声も。リアルタイムで警察に送信されているわ」
正尾の顔から、一気に血の気が引いていった。
「え、警察…」
その時、ホテルの廊下から重厚な靴音が近づいてくるのが聞こえた。
「ハワイ州警察です。田中正尾及びみつ子、恐喝及び詐欺の疑いで同行を求めます」
青い制服を着た大柄な警察官たちが、部屋になだれ込んできた。
「待て!通せ!私は被害者だ!このばあさんにはめられたんだ!」
正尾の叫びは、無情にも手錠の音にかき消された。みつ子もカノンも、パニック状態で泣き叫びながら連行されていく。
「お父様!お母様!助けて!嫌よ、こんなの!」
カノンさんのドレスはもはや見る影もなく汚れ、彼女の虚栄心と共に引き裂かれていった。
嵐が去った後のような静寂が、再び部屋を包み込んだ。
「シ太、よく言ったわね。自分の弱さを認めることは、本当の強さよ」
私は疲れきったシ太の肩を抱いた。しかし、彼の表情はまだ晴れない。
「おばあちゃん、これで全部終わったのかな?」
「いいえ、まだよ。彼らが犯した罪の報いは、ここからが本番なの。そして、あなたにはこれから、本当の最高の結婚式をプロデュースしてもらうわよ」
私の言葉に、シ太が不思議そうに顔を上げた。
ハワイ州警察の留置施設。そこは、数時間前まで最高級ホテルのスイートルームでシャンパンを傾けていた田中家にとって、あまりにも残酷な現実の場所だった。鉄格子に囲まれた冷たいベンチに、田中正尾、みつ子、そしてカノンの三人は力なく座り込んでいた。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、ただ互いの顔を見ては、醜いののしり合いを繰り返すばかりだ。
「あんたのせいよ!あんたが無理にあの工務店のガキを嵌めようなんて計画を立てるから、こんなことになったんじゃないの!」
みつ子が乱れた髪を振り乱しながら夫に詰め寄った。
「何を言うか!お前だって、あの老婆の持ち物を安物だと決めつけて、徹底的にバカにしていたじゃないか!そもそも、山下グループの会長だと気づかなかったのは、お前の目が節穴だからだ!」
「ですって!私は、カノンがあのガキをうまく手な付けているって言うから信じたのよ!カノン、あんた、あんなにちょろいって言ってたじゃない!」
矛先を向けられたカノンは、膝を抱えてガタガタと震えていた。
「私だって知らなかったわよ!まさか、あんな作業着が似合う地味な男の家が、日本有数の財閥だなんて!それに、健一さんがあんなに早く私を捨てるなんて思わなかったのよ!」
「あのバカ息子が!結局、金とだけの付き合いだったということだ。あんな男にうつつを抜かして、本物のダイヤをドブに捨てるとは」
正尾が壁を殴りつけた。しかし、彼らが後悔しているのは自分の行いではなく、もっとうまく騙せればよかったという、歪んだ欲望の失敗に対してだけだった。
そこへ、一人の男性が面会室に現れた。
「静かにしてください。見苦しいですよ、田中さん」
現れたのは、秘書の佐藤だった。その手には、分厚い書類の束が握られている。
「佐藤さん!あ、助けに来てくれたのか!頼む!山下会長に伝えてくれ!私たちは深く反省している!すぐにでも日本に帰って、全額弁済するから、この告訴を取り下げるように言ってくれ!」
正尾が鉄格子にへばりつくようにして叫んだ。しかし、佐藤の表情は微動だにしない。
「勘違いしないでください。私は助けに来たのではありません。皆さんに、現在の状況を正確にお伝えしに来たのです」
「まず、田中正尾さん。あなたが経営する田中不動産ですが、先ほど正式に破産手続きが開始されました。負債総額は、私たちが把握しているだけで15億円を超えています。山下建設への損害賠償、資材の着服に伴う違約金、そして無理な経営で積み重なった借入金。全てが一斉に火を吹きました。今、日本にあるあなたの自宅、別荘、高級車は全て差し押さえられ、従業員も全員解雇。あなたの会社は、強制の瞬間、地図から消えました」
正尾の口が、金魚のようにパクパクと動く。
「次に、みつ子さん。あなたが運営していたセレクトショップですが、こちらも偽ブランド品販売の容疑で、家宅捜索が入りました。あなたが本物だと言って顧客に売り付けていたバッグや時計の多くが、巧妙なコピー品であることが判明しています。被害者たちが、集団訴訟の準備を始めていますよ」
「そ、そんな…私、あれでお友達に自慢してたのに…」
「そして、カノンさん」
佐藤の冷厳な視線が、震えるカノンを射抜いた。
「あなたがシ太様から騙し取った結婚資金及び個人的な借用。これらは全て、刑法に反する詐欺行為と見なされ、返還請求が出されました。あなたが今着ているそのドレス、身につけている装飾品。それらも全て、シ太様のお金で購入されたものです。先ほど、ホテルのスタッフが全て回収に向かいましたが、すでに差し押さえのタグが貼られています」
「な、じゃあ、私はこれから何を着ればいいのよ!下着一枚で放り出すつもり!」
「それは、あなたの知ったことではありません」
「ああ、それから、皆さんが最も気にしていた、佐藤健一さんとの件ですが」
佐藤が書類の一枚をめくった。
「彼もまた、父親から完全に縁を切られました。それだけでなく、彼が病院の公金を横領して、あなたとのハワイ旅行に当てていたことが発覚し、彼自身も背任罪で訴えられる予定です。お互いに相手に金があると思い込んで騙し合っていたわけですから。ある意味、お似合いの二人でしたね」
佐藤の皮肉に、カノンは絶叫をあげた。
「嫌ああ!私はまだ若いのよ!これから最高の人生を送るはずだったのよ!」
「最高の人生。それをシ太様は、あなたに与えようとしていたのですよ。彼は自分の資産を一切頼らず、自分の腕一本であなたを幸せにしようと、血の滲むような努力をしていた。あなたはその本物の愛を、偽物のダイヤと引き換えに捨てたのです」
佐藤の声には、シ太を近くで見守ってきた者としての、静かな怒りがこもっていた。
「さて、これで田中一族は、文字通り全員無一文となりました。社会的地位、財産、友人、そして自由。全てを失った皆さんに、これからどのような生活が待っているか。想像するのは容易いでしょう」
佐藤はそう言い捨てると、一度も振り返ることなく面会室を後にした。
「待って!佐藤さん!待ってくれ!」
正尾の叫びが、留置場に虚しく響く。
一方、その頃、ホテルのラウンジでは、私はシ太と向かい合っていた。シ太は以前よりも、どこか落ち着いた表情をしていた。
「おばあちゃん、僕、決めたよ」
「何をかしら」
「シ太、ハワイでの結婚式はもういいんだ。でも、このまま日本に帰って、悲しい思い出のまま終わりたくない。僕、もう一度、一からやり直したい。山下グループの力じゃなくて、自分の腕で、本当の信頼を築ける職人になりたいんだ」
私は微笑んで、彼の言葉を待った。
「だから、おばあちゃん、あの方たちを僕に合わせてくれないかな?」
「あの方たち?」
シ太が指差したのは、ホテルのロビーの片隅で、申し訳なさそうに身を縮めている現地の老若男女だった。これは今回の結婚式のために、シ太が日本から呼び寄せた、彼の工務店の仲間たちや、かつての恩師たちだった。田中家によって「品がない」と称され、列席を拒否されていた、シ太の本当の大切な人々。
「彼らに謝りたいんだ。そして、もし許してもらえるなら…」
シ太の瞳に、新たな希望の光が宿った。
しかし、その温かな空気を切り裂くように、秘書の佐藤が慌てた様子で戻ってきた。
「会長、大変です!日本の山下建設本部から、緊急の連絡が!」
「どうしたの?落ち着きなさい」
「田中正尾が逮捕される直前に放った、最後の一手が、とんでもない事態を引き起こしています。彼は、自分が倒れる道連れに、山下建設が現在手掛けている国立病院の建設プロジェクトの設計図を、海外の競合他社に売り渡した疑いがあります」
「なんですって!」
田中の悪意は、まだ終わっていなかったのです。一族の崩壊は、さらなる巨大な嵐の始まりに過ぎませんでした。設計図が流出したとなれば、山下建設の信頼は失墜し、国家規模のスキャンダルになる。
「会長、どうされますか?」
私は拳を強く握りしめた。
「シ太、どうやらゆっくりしている暇はなさそうね。あなたの職人としての誇り、ここで試されることになるわよ」
逆転の舞台は、ハワイから日本へ。そして、誰も予想しなかった真実の黒幕が、姿を表そうとしていました。
ハワイの美しい夜景が、今はまるで燃え盛る戦場のように見えた。秘書の佐藤が持ってきた知らせは、山下グループの身ならず、日本の建設業界全体を揺るがしかねない大スキャンダルの種だった。
「田中正尾が、国立病院の設計図を海外の競合他社に流した?佐藤、それは確かなの?」
私の問いに、佐藤は苦渋に満ちた表情で頷いた。
「はい。先ほど日本の法務部から連絡がありました。田中は逮捕の数時間前、自身のパソコンから暗号化された通信を使い、シンガポールに拠点を置くグローバルメガテックにデータを送信しています。この会社は、以前から我がグループのプロジェクトを妨害してきた、いわば天敵とも言える存在です」
「あいつ…どこまで腐っているんだ?」
シ太が絞り出すような声で言った。彼の拳は、怒りで白く震えている。
「国立病院は、多くの人々の命を救うための場所だ。それを、自分の私怨のために…いや、自分を追い詰めたことへの腹いせに、海外に売り飛ばすなんて」
私は一度深く目を閉じ、呼吸を整えた。こういう時こそ、トップとしての冷静さが試される。私は静かに沈黙を守り、佐藤が持ってきたタブレットのログをじっくりと見つめた。
「会長、一刻も早く事態を収拾しなければなりません。メガテックがこの図面をもとに、日本政府へ『山下建設の設計には欠陥がある』と虚偽の告発を行う可能性があります。そうなれば、建設の認可は取り消され、数千億円規模の損失が出るでしょう」
佐藤の言葉には、焦りの色が濃く滲んでいた。しかし、私はある一点のデータに目が止まり、ふっと唇の端を上げた。
「焦らなくていいわ。佐藤、田中正尾は墓穴を掘ったようね」
「ええ?どういうことでしょうか?」
「シ太、あなた、この流出したデータのファイル名を見て、何か気づかない?」
私はタブレットをシ太の方へ向けた。シ太は険しい顔をしながら画面を覗き込んだが、すぐに目を見開き、息を飲んだ。
「まさか…そうか!これは、田中があなたを落とし入れるために、わざと強度不足の資材を使うように改ざんさせた、あの欠陥だらけの設計図じゃないかしら」
シ太は狂ったように画面をスクロールさせ、図面の詳細を確認し始めた。彼の職人としての鋭い目が、瞬時に真実を見抜いた。
「本当だ、おばあちゃん!これは本物の最終決定版じゃない。田中が僕に責任をなすりつけるために作った、嘘の設計図だ!柱の数も鉄筋の密度も、本来の基準を大幅に下回っている。これをそのまま建てたら、大きな地震が来たらひとたまりもないような、欠陥建築になる」
佐藤が呆然とした声をあげた。
「ということは、田中は自分が盗んだものが本物だと思い込んでいたけれど、実は自分で作ったゴミを、得意満面でメガテックに売り飛ばしたということですか?」
「その通りよ。滑稽なものね。彼はシ太の人生を壊そうとして偽物の設計図を作った。そして、最後の一手のつもりでその偽物を売り、自らその罪の証拠を、世界中にばらまいてしまったのよ」
私はようやく、椅子に深く身を預けた。もし田中が本物の設計図を盗み出していたら、事態はもっと深刻だっただろう。しかし、彼はあまりにもシ太を落とし入れることに執着しすぎていた。自分が改ざんしたデータこそが、山下建設の致命傷になると信じて疑わなかったのだ。
「メガテックも愚かね。目先の利益に目がくらんで、まともな図面の精査もせずに飛びついたのでしょう」
「佐藤、すぐに日本の広報と法務に連絡してちょうだい。田中が流出させたのは、捏造された偽データであること。そして、その偽データを作成したプロセスこそが、田中の背任行為の証拠であること。プレスリリースとして準備させなさい」
「承知いたしました。これで、メガテックからの攻撃も、逆に彼らの信頼を失墜させるカウンターになりますね」
佐藤は顔を輝かせ、すぐさま電話を手に取った。しかし、シ太だけはまだ険しい表情を崩していなかった。
「おばあちゃん、でも、これだけじゃない気がするんだ。田中さん一人であんな巧妙な偽のサーバーや暗号通信なんて、扱えるはずがない。彼を裏で操っていた。あるいは、協力していた誰かがいるはずだ」
シ太の言葉に、私ははっとさせられた。確かにそうだ。田中正尾は狡猾だが、ITや国際的なスパイ行為に精通している男ではない。
その時でした。ホテルの部屋のドアが、ノックもなしに静かに開いた。
「その通りですよ。お若いのになかなかの洞察力だ」
そこに立っていたのは、意外すぎる人物だった。
「あなたは…」
シ太が驚きの声をあげた。現れたのは、今回の結婚式にシ太が招待していた数少ない友人の一人、村上健二だった。彼はシ太の高校時代の同級生で、今は若手ながらも優秀な弁護士として活躍していると聞いていた。しかし、今の彼の雰囲気は、先ほどまでロビーで心配そうにしていた友人のものとは、明らかに違っていた。
「村上君、どうしてここに?」
シ太の問いに、村上は静かに笑い、懐から一つのデバイスを取り出した。
「シ太、すまない。君を騙すつもりはなかったんだが、私は山下名誉会長から個人的に依頼を受けていたんだ。『孫の周りに不審な動きがないか、徹底的に調査してほしい』とな」
「ええ!おばあちゃん!」
シ太が驚いて私を見た。私は静かに頷いた。
「そうよ、シ太。田中があなたに近づいた最初から、私は違和感を感じていたの。だから、彼には友人としてあなたの側にいてもらいながら、裏で動向を探ってもらっていたのよ」
村上が一歩前に出た。
「田中正尾を、そしてメガテックにつなげたのは、ある特定の人物です。その人物は、現在このホテルの一階のカフェで、優雅にコーヒーを飲んでいますよ。自分が勝利したと思い込んでね」
「誰なんだ、その黒幕は?」
シ太が詰め寄る。村上は私の顔を一度見ると、重々しくその名を口にした。
「あなたの叔父、つまり山下会長の次男にあたる、山下幸造氏です」
その名を聞いた瞬間、私は手元にあったティーカップを、思わず落としそうになった。幸造。私の実の息子であり、数年前にグループの経営方針を巡って私と対立し、会社を追われた男。まさか、彼が田中家を操り、自分の甥であるシ太や、自分の母親が築き上げた会社を、地の底に突き落とそうとしていたなんて。
「幸造が…あの子が、そこまで落ちぶれていたのね」
私の声が、かすかに震えた。
「会長、確かに幸造は田中を利用し、会社を混乱させた隙に株を買い占め、経営権を奪い返そうと画策していました。メガテックとの橋渡しも、全て彼が仕組んだことです」
村上の言葉に、部屋の中に重苦しい沈黙が流れた。家族の裏切り。それが、今回の一件の最も深い闇だった。
「おばあちゃん」
シ太が、私の震える手を両手で包み込んでくれた。
「大丈夫だよ。僕が、僕がその山下幸造って人を、絶対に許さない。家族を傷つけて、みんなを不幸にしようとする人を、僕は絶対に認めない」
シ太の瞳には、かつての弱々しさは微塵もなかった。彼は今、山下の後継ぎとして、そして一人の誇り高き男として、立ち上がろうとしていた。
「行きましょう、おばあちゃん。そのおじさんって人に、決着をつけに」
逆転の連鎖はまだ終わっていない。真の黒幕との直接対決。ハワイの夜が明ける前に、全ての決着をつける。私はシ太の力強い手に引かれ、ゆっくりと立ち上がった。
ホテルのラウンジを一望できる開放的なオープンカフェ。まだ夜が明け切らない薄明かりの中、一人の男が優雅にエスプレッソを口にしていた。仕立ての良いイタリア製のスーツを完璧に着こなし、高価な腕時計をちらつかせながら、タブレット端末を眺めては、ほくそ笑んでいる。
山下幸造。私の次男であり、かつて山下グループの副社長まで務めた男。その強欲さと独断的な経営が原因で、私が自ら追放した息子だ。
「おはよう、幸造。こんなところで何をしているのかしら?」
私の声に、幸造はゆっくりと顔を上げた。そこには反省の色など微塵もない。あるのは、母親を古臭い障害物としか見ていない、冷酷な野心の目だった。
「お袋。それに、そっちの小汚いのは、確か死んだ兄貴の息子だったかな。職人ごっこは楽しいか?泥にまみれて数万円を稼ぐ生活なんて、僕には想像もできないよ」
幸造はシ太を一瞥して、鼻で笑った。
「おじさん、あなたが田中さんを裏で操っていたんですか?僕の結婚式をぶち壊して、会社を危機に落とし入れて。そこまでして、何が欲しいんですか?」
シ太の必死の訴えに、幸造は声を上げて笑った。
「欲しいもの?決まっているだろう。正当な権利だよ。この山下グループは、本来僕が継ぐべきものだったんだ。それを、この老いぼれた母親が僕を追い出して、隠居生活を楽しんでいる。挙句の果てには、こんな現場仕事しかできない無能な孫を後継ぎにしようと考えているんだろう。ヘドが出るね」
幸造は立ち上がり、私に一歩近づいた。
「お袋、もう手を打てよ。田中という男は実におめでたい馬鹿だったが、利用価値はあった。彼が流したデータのおかげで、今頃日本のマーケットは大騒ぎだ。山下建設の株価は暴落し、政府も調査に乗り出す。混乱に乗じて、僕はすでに過半数の株を確保する手はずを整えた」
「それで、勝ったつもりなの?」
私は静かに彼を見つめた。
「ああ、勝ったさ。お袋は時代遅れなんだよ。誠実だの、堅実だの。そんな綺麗事でビジネスができると思っているのか?世の中は数字と策略だ。お前のような老いた老人に、これ以上の舵取りは無理なんだよ。さっさとその椅子を僕に譲って、ハワイで静かに余生を過ごせばいい」
幸造の言葉は、鋭いナイフのように私を突き刺そうとする。しかし、私は一歩も引かなかった。
「幸造、あなたは自分の甥がどれほど立派な職人に成長したかも知らずに、ただ無能だと決めつけるのね。自分の血を分けた家族を、ただの駒としてしか見ていない。それが、あなたの最大の敗因よ」
「わけを言うな。おい、村上、そこにいるなら、さっさと今の会話を録音して、メガテックに送りなさい。『会長が動揺して、経営権の譲渡を口にした』と」
幸造は、私の後ろに立っていた村上弁護士に命じた。どうやら幸造は、村上までもが自分のスパイだと思い込んでいたようだ。しかし、村上は一歩も動かなかった。ただ、冷ややかな視線を幸造に向けているだけだ。
「幸造さん、残念ですが、メガテック社からの連絡は、もう二度とあなたには届きませんよ」
「何を言っている?僕は彼らと密約を交わしているんだ。僕が経営権を握れば、彼らに日本の市場を明け渡すと」
「その密約の相手ですが」
村上がタブレットを操作し、一つのビデオ通話画面を表示させた。
「ミスター山下。残念ながら、我々はあなたとの取引を白紙に戻すことにした」
画面に映し出されたのは、シンガポールの巨大企業、メガテック社のCEOだった。
「な、どういうことだ?私は君たちに、山下建設の致命的な弱点を渡したはずだぞ!」
「弱点だと?笑わせないでくれ。君が寄越したあの設計図は、素人が見ても分かるような出鱈目な捏造品だった。我々がそれを信じて動けば、逆にこちらの信用が地に落ちるところだった。君のような、身内の足を引っ張ることしか考えない男とは、組む価値がない」
画面がプツンと切れた。幸造の顔が、見る見るうちに土色に変わっていく。
「ば、バカな…田中が!あのネズミ男が、僕を裏切って偽物を渡したのか!」
「いいえ、幸造おじさん。それは違います」
シ太が、幸造の前に立ちはだかった。その背中は、私が見てきた誰よりも大きく、頼もしいものだった。
「田中さんが盗み出したのは、確かに僕のデスクにあったデータです。でも、僕は最初から気づいていました。田中さんが僕のパソコンを覗き見ていることも、僕を落とし入れようとしていたことも」
「なんだと?」
「僕は職人です。現場で図面を見るのが仕事です。だから、大切なデータをどう守るべきかも、現場の親方から教わりました。僕はあの日、田中さんが盗める場所に、わざと未完成の、欠陥だらけのダミーデータを置いておいたんです」
幸造は絶句した。自分が無能な作業員と見下していたシ太が、実は全てを見抜き、逆に罠を仕掛けていたのだ。
「お前…そんなことが、できるはずがない。お前はただの中卒の、現場上がりのガキだろうが!」
幸造が理性を失って叫んだ。
「学歴や肩書きが、人間の知恵を決めるわけじゃない。おじさん、あなたは人をバカにしすぎたんだ」
「おばあちゃん、もう警察が外に来ているよ」
シ太の言葉通り、カフェの入り口には現地の警察官と、日本から同行してきた特別捜査チームが控えていた。
「山下さん、恐喝未遂及び産業スパイ防止法違反の疑いで、任意同行をお願いします」
幸造は、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「待て!嘘だ!僕は山下グループの王になる男だぞ!おふ、お袋!冗談だよ!全部、冗談だったんだ!」
見苦しく叫びながら、幸造は警察官に抱えられていった。私はその背中を見送りながら、深く、深いため息をついた。
「終わったわね、シ太」
「うん。おばあちゃん、大丈夫?」
「ええ、悲しいけれど、これでようやく、山下の中に溜まっていた毒を出し切ることができたわ」
私はシ太の手を、強く握りしめた。
しかし、逆転の物語はここで終わりではありませんでした。幸造が連行された後、村上弁護士がある一通の封筒を私に手渡したのです。
「会長、実は田中正尾を調べている過程で、もう一つ信じられない事実が見つかりました。これは、カノンさんの出生に関わる秘密です」
その封筒の中身を見た瞬間、私は今度こそ言葉を失って、立ち尽くしてしまいました。
「これ、本当なの?」
シ太が横から覗き込み、驚愕の声を上げた。そこには、この地獄のような騒動の全てを根底から覆すような、最大の事実が記されていたのです。
幸造が連行され、静まり返ったカフェ。村上弁護士が差し出した一通の封筒を、私は震える指先で受け取った。中には、色褪せた戸籍謄本の写しと、数枚の古い写真、そして鑑定書が入っていた。
「会長、これを田中正尾たちが隠し持っていた。今回の計画の柱に据えていた真実です」
書類に目を通した瞬間、私の心臓は早鐘を打ち、視界が歪んだ。そこには、信じられない名前が記されていたからだ。
「カノンさんは、田中正尾とみつ子の実の娘ではありません。彼女の本当の母親の名は、山下はる子。会長、あなたの亡き長男の妻。つまり、シ太様の実の母親である女性の妹にあたる人物です」
「な、じゃあ、カノンは…」
シ太が絶句して立ち上がった。
「そうです。カノンさんは、シ太様の従妹にあたります。しかし、話はそれだけではありません。カノンさんの実の両親は、彼女が幼い頃に事故で亡くなっています。その際、彼女に残された莫大な遺産と、山下家との縁を一人占めしようと画策したのが、当時遠縁だった田中正尾夫妻だったのです」
村上の説明を聞きながら、私はかつての記憶を必死に手繰り寄せた。長男の妻だったはる子さんの妹、あき子さん。彼女は若くして不慮の事故で亡くなり、その後に残された幼い娘が行方不明になったという噂を聞いていた。まさか、あの田中夫妻が身分を偽り、彼女を自分の娘として育て上げ、あろうことか山下家を乗っ取るための道具として利用していたなんて。
「彼らはカノンさんに本当の出自を教えず、ただ『お前は選ばれた特別な存在だ。山下の財産を手に入れるのがお前の使命だ』と刷り込んで、育ててきました。彼女のあの歪んだ虚栄心は、田中夫妻によって長年かけて作り上げられたものだったのです」
私は怒りで、全身が震えた。彼らは一人の少女の人生を歪め、親の愛も真実も奪い、自分たちの欲望を満たすためのトロイの木馬として、シ太に近づけたのだ。
「なんてこと…実の親を亡くした子を、そんな風に扱うなんて。田中正尾、あの男は人間じゃないわ」
さらに、驚くべきことに、田中正尾の一族。今回シ太の結婚を機に、グループの関連企業に次々と潜り込んでいた連中は、全員がこの事実を知った上での共犯者だった。彼らは「田中家」という偽りの名門の看板を借り、山下という巨大な木に群がる寄生虫のような集団だったのだ。
私は手元にある資料を、強く握りしめた。彼らが誇っていた「名家の一族」。それは全て、一人の孤児から奪った名前と遺産の上に築かれた虚構に過ぎなかった。そして、彼らはその道具であるカノンさんを使って、今度は本家である山下家そのものを飲み込もうとしていたのだ。
「おばあちゃん、じゃあ、カノンは…あの子も、被害者だったっていうことなの?」
シ太の声は、複雑な感情に揺れていた。裏切られた怒り、踏みにじられた愛。そして、今明かされた残酷すぎる真実。
「被害者かもしれないわね。でも、シ太。彼女があなたに向けた、あなたを馬鹿にし、踏みにじった言葉の数々は、たとえ親に教えられたものであっても、彼女自身が選んで放ったものよ。それは消えない事実だわ」
私は心を鬼にして言った。悲しいけれど、カノンさんもまた、田中夫妻の毒に深く犯され、取り返しのつかない怪物になってしまっていたのだ。
「村上さん、この事実、警察や当局には?」
「はい、すでに提出済みです。田中正尾には、未成年略取及び遺産横領の疑いも追加されました。そして、彼らが一族として山下グループから得ていた全ての役職、報酬、地位について、法的に遡って無効とする手続きを始めています」
私は立ち上がり、窓の外の夜明けを見つめた。空が白み始め、暗闇が少しずつ晴れていく。それと同じように、山下を覆っていた霧も、今完全に取り払われようとしていた。
「佐藤、手配を。ハワイに滞在している田中一族の全員を、今すぐこのホテルの大広間に集めなさい。そして、日本にいる彼らの親族も、一人残らずビデオ回線でつなぎなさい」
「会長、ついにですね」
「ええ。彼らが山下の親戚として夢見ていた華やかな生活。それがどれほど脆い嘘の上に成り立っていたか。その最後を見届けてあげるのが、私の、そしてシ太の最後のけじめよ」
私は、タキシード姿のまま立ち尽くしているシ太の元へ歩み寄った。
「シ太、あなたは今日、全てを失ったように感じているかもしれない。でも、違うわ。あなたは今日から、本当の山下の長男として、そして一人の人間として、新しく生まれ変わるのよ」
「おばあちゃん、行きましょう。偽物たちが踊り続けた、この無惨な宴を終わらせるために」
私の声には、もはや一片の迷いもなかった。
ホテルの大広間。本来であれば、シ太とカノンさんの華やかな披露宴が行われ、日米の政財界から名だたる賓客が訪れるはずだった場所だ。そこには今、田中正尾の親族や、彼が田中不動産の役員として送り込んでいた親戚連中、総勢30名ほどが集められていた。彼らはまだ、ことの重大さを正確には把握していない。ただ、正尾が警察に連行されたという断片的な情報に動揺しながらも、どこかで山下から多額の口止め料が取れるのではないかという、浅ましい期待を抱いているようだった。
「おい、山下会長、一体どういうことだ?うちの正尾を警察に突き出すなんて。カノンは傷ついて、スイートルームで泣いているんだぞ」
正尾の弟で、関連会社の専務を名乗っていた田中としおが、真っ赤な顔で私に詰め寄ってきた。
「そうだ、そうだ!そもそも、あんたの孫が正体を隠してカノンに近づいたのが原因じゃないか!詐欺師はそっちだろう!慰謝料として、山下グループの株をいくらか譲ってもらわないと、収まりがつかないぞ!」
親族たちは、口々に醜い欲望を剥き出しにして叫んだ。彼らの目は、シ太を人間としてではなく、ただの金のなる木としてしか見ていなかった。
私は壇上に立ち、一言も発さずに彼らを見下した。私の沈黙が続くと、会場の温度がじわじわと下がるような、奇妙な圧迫感が広がっていった。
「黙りなさい」
私の静かな、しかし芯の通った声が、マイクを通して響き渡った。その一言で、騒いでいた親族たちが一斉に口を閉じた。
「田中としおさん、そしてそこにいる親族の皆さん。あなた方は、自分たちが何の上に立っているか、まだ理解していないようね」
私は傍らに立つ村上弁護士に合図を送った。
「発表してください」
村上が一歩前に出た。
「まず、こちらに集まった田中一族の皆様に、現時点での状況をご報告します。本日未明、田中不動産及び関連会社に対し、裁判所から資産の差し押さえ命令が下されました。また、皆様が役員として受け取っていた報酬の出所を調査したところ、山下建設からの不当な中抜き及び架空請求による、巨額の横領の疑いが濃厚となりました」
会場に、動揺の波が広がった。
「さらに、重大な事実をお伝えします。皆様が誇称されていた『明治時代からの地主の家系』というプロフィールは、全て捏造であることが判明しました。田中正尾が20年前に他人の戸籍を不正に取得し、資産家の名義を乗っ取ったことが、法務局の調査で確定しました」
「な、何を言っているんだ?嘘だ!出鱈目を言うな!」
としおが叫んだが、村上は冷然と続ける。
「証拠は全て揃っています。あなた方は、一族揃って他人の人生と財産を盗み、それを隠れ蓑にして山下グループに寄生してきた偽物です。よって、山下名誉会長のご決断をお伝えします」
私は一歩前へ出て、絶望に染まり始めた彼らの顔を、一人ずつ見据えた。
「田中一族、全員首よ」
私の宣言に、会場は水を打ったような静寂に包まれた。
「首?会長、何をおっしゃっている?私たちは正当なビジネスパートナーとして…」
「パートナーなどではないわ。あなたたちは、私の大切な孫を傷つけ、私の会社を食い物にしようとした外道よ。今この瞬間を持って、山下グループ及び提携している全世界の企業は、田中一族及びそれに関連する全ての人間との取引を、永久にかつ完全に遮断します」
私が右手を一振りすると、大広間の巨大なスクリーンに、日本での執行状況が映し出された。彼らが暮らしていた豪邸に、次々と差し押さえの札が貼られていく様子。彼らの銀行口座が、次々と凍結されていくグラフ。そして、彼らが隠し持っていた裏帳簿の数々。
「ああ…」
親族の一人が、膝から崩れ落ちた。
「あなたたちが今日まで享受してきた贅沢は、全て誰かから奪ったものでした。今日からは、その全てを返してもらうわ。損害賠償請求の総額は、田中一族全員の資産を合わせても足りないでしょうね。あなたたちの子供や孫の世代まで、その罪と負債を背負って生きていくことになるわ」
「そ、そんな!助けてくれ!私は何も知らなかったんだ!兄貴に言われるがままに…」
としおが壇下まで這いつくばってきたが、私は視線を合わせることすら拒絶した。
「知らなかった?嘘をおっしゃい。あなたたちは、シ太が汗水垂らして働く姿を見て、陰でゲラゲラと笑いながら、彼のお金を使い込んでいた。その霊感の差が、自分たちの身を滅ぼしたのよ」
シ太は私の横で、静かにその光景を見ていた。彼の目には、もう迷いも未練もなかった。
「おばあちゃん、ありがとう」
シ太が私の耳元でささやいた。
「これで、僕の長い一日が終わる気がするよ」
「いえ、でも、最後にもう一人、落とし前をつけなければならない人がいるわね」
私は会場の隅で、ガタガタと震え、自慢のドレスをボロボロに汚して立ち尽くしている、カノンさんに目を向けた。彼女は、自分の一族が崩壊していく様を、信じられないものを見るような目で見つめていた。彼女にとっての完璧な世界が、音を立てて砕け散ったのだ。
「カノンさん、あなたにも、特別なプレゼントを用意しているわ」
私の言葉に、カノンさんがびくっと肩を揺らした。
大広間に充満する、絶望と後悔の匂い。かつて「名家の一族」を名乗っていた田中家の面々は、今や地面を這いつくばる虫のように、醜く命乞いをしていた。私はゆっくりと壇から降りて行った。カツン、カツンと響く杖の音が、彼らにとっては処刑台へ向かう足音のように聞こえたことだろう。
私の視線の先には、純白のドレスを泥と涙で汚したカノンさんがいた。彼女は震える手で、必死に自分の腕を抱きしめていた。
「カノンさん、先ほど私は、あなたに特別なプレゼントがあると言ったわね」
私は秘書の佐藤から手渡された一通の青い封筒を、彼女の足元に静かに置いた。
「な、何よ?これ以上、私をどうするつもりなのよ!もう家もお金も婚約者も、全部なくなったじゃない!これ以上、私から何を奪えば気が済むの?」
彼女は狂ったように叫んだ。しかし、封筒の中身を見た瞬間、彼女の叫びは凍りついた。
「これは…」
「それは、あなたの自由を証明する書類よ」
私は冷然と告げた。
「中身は、田中正尾夫妻との親子関係の無効申立書。及び、あなたの実の両親から盗まれた遺産の返還請求に関する書類。あなたは、今この瞬間から、あの醜い田中という名前から解放されるわ」
カノンさんの目が、大きく見開かれた。
「解放…?じゃあ、私は…」
「ええ、あなたはもう、彼らの道具ではない。でもね、カノンさん、勘違いしないで。これは許しではないのよ。名前が変わっても、あなたがシ太に対して言ってきた数々の侮辱、裏切り、そして詐欺行為の責任は、全てあなた自身が背負わなければならない。田中正尾という盾を失ったあなたは、これから一人で、数億円に上る損害賠償と、世間の冷たい目にさらされることになるのよ」
「そ、そんな…私一人で無理!そんなの!おばあ様、お願い!私、本当はあんなこと言いたくなかったの!全部、あの親たちに言わされて…」
カノンさんは私の足元にすがりつこうとした。しかし、それを遮ったのは、今までずっと沈黙を守っていたシ太だった。
「触るな」
シ太の声は低く、そして血を吐くような冷たさを持っていた。カノンさんは、その声の迫力に圧倒され、動きを止めた。
「シ太さん、お願い!あなただけは信じて!私、あなたのこと…本当は…」
「本当は、なんだ?便利なATMだと思ってたんだろう。自分の贅沢のために、僕が毎日泥だらけになって働いて稼いだお金を、笑いながら使ってたんだろう」
シ太は一歩前へ出た。タキシード姿の彼は、崩れ落ちたカノンさんを、まるで道端に落ちているゴミを見るような目で見下した。
「さっき、おじさんが僕のことを『中卒の現場上がりのガキ』って言った時、君は隣で笑ってたよね。僕はね、あの時、君との思い出が全部、泥水に変わったのを感じたよ」
「それは…」
「君がどんなに不遇な環境で育ったとしても、それは僕を裏切っていい理由にはならない。僕は君を愛してた。君との未来のために、自分の人生の全てをかけてた。でも、君が愛していたのは僕じゃなく、僕の背後にあるはずの金だったんだ。いや、金すら持っていないと分かった瞬間に、君は僕をゴミのように捨てた」
シ太は静かに深呼吸をした。その表情には、もう怒りすら残っていなかった。
「カノンさん、さよなら。君に送る最後の言葉は、これだけだ」
シ太は、はっきりと、そして残酷なほどに清々しい笑顔で言った。
「君がこれから送る底辺の生活を、心からお祝いするよ。僕が現場で流してきた汗の重さを、今度は君がその身を持って知ればいい」
その瞬間、会場にいた全員が、シ太の言葉の重みに息を飲んだ。
「嫌ああ!行かないで!シ太さん、助けて!私はお嬢様なのよ!こんな汚い場所で終わる人間じゃないのよ!」
カノンさんの絶叫が響き渡る中、ホテルのセキュリティと現地警察が再び現れた。
「田中一族の皆様、全員同行をお願いします。日本からの国際手配に基づき、身柄を確保します」
泣き叫ぶ親族たち。「私は関係ない」と喚き散らす男たち。そして、髪を振り乱して床を掻きむしる女たち。彼らは一人残らず、大広間から引きずり出されていった。その無残な姿は、ホテルの宿泊客やスタッフたちのカメラに収められ、またたく間に世界中に拡散されていった。彼らが何よりも大切にしていた「家柄」と「プライド」が、文字通り世界中で粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
静寂が戻った大広間。シャンデリアの光だけが、虚しく床を照らしていた。私はシ太の肩を抱いた。彼の体は、かすかに震えていた。それは悲しみではなく、あまりにも重い執着から解き放たれた、解放の震えだった。
「おばあちゃん、僕、これで良かったんだよね」
「ええ、あなたは自分の誇りを守り抜いた。これ以上ないほど、立派だったわよ」
私は孫の成長を、心から誇りに思った。
しかし、この物語にはまだ続きがありました。田中一族を完全に駆逐した私とシ太の前に、一人の老紳士が歩み寄ってきたのです。
「山下会長、そしてシ太君。素晴らしい決断だった」
現れたのは、このホテルのオーナーであり、ハワイの政財界の重鎮である、アーサー・マクスウェル氏だった。
「会長、あなたのお孫さんに、是非提案したいことがある。君、君のような魂のこもった職人にこそ、我々が今計画している、ハワイ最大の伝統建築再生プロジェクトのリーダーを務めてほしいんだ」
驚愕の提案に、シ太の目が大きく見開かれた。
「僕が…リーダー?」
「ああ。君の図面に対する真摯な姿勢。そして、ダミーデータに仕掛けた知略。何より、人を思いやる心を持ちながら、悪を断じる強さ。君こそ、次世代を担うリーダーにふさわしい」
どん底からの、衝撃の逆転劇。シ太の人生は、ここから全く予想もしなかった、最高のご褒美へと向かって加速していくことになります。
ハワイの空が、燃えるような赤色から深い群青色へと溶け込んでいく。波の音はどこまでも穏やかで、数時間前までの喧騒が嘘のように、世界は静寂に包まれていた。ホテルのテラスで海を見つめるシ太の背中は、朝のあの痛々しいほど小さな姿とは別人のように、凛として見えた。
「おばあちゃん、見て。星が出てきたよ。あんなに荒れた一日だったのに、夜はこんなに静かなんだね」
シ太が穏やかに微笑んだ。その瞳には、もう涙の跡はなかった。
「そうね。嵐の後には、いつもより綺麗な星が見えるものよ」
私は彼の隣に立ち、秘書の佐藤から受け取った最終報告書を、一度だけ見返した。田中正尾とみつ子の両名は、余罪の数々から、日本への強制送還後、長期の服役が確実視されている。彼らが隠し持っていたわずかな財産も、全て被害者への賠償に当てられた。そして、カノンさん。彼女は奪われた名前を捨て、今は本名のあき子として、かつての贅沢三昧とは正反対の生活を送っている。彼女に課せられた賠償金の額は、彼女が一生かかっても返しきれないほどのものだった。かつて「お嬢様」を気取っていた彼女に用意されたのは、朝から晩まで狭い工場で働き、差し押さえを免れた安アパートで震える毎日。かつての友人や婚約者候補たちは、彼女が破滅したと知るや、誰一人として連絡を寄越すことはなかったそうだ。
一方、都内の病院を追放された佐藤健一も、自らが横領した公金の返済のために、今は名前も知らない異国の地で肉体労働に従事していると聞いた。
「おばあちゃん、田中さんたちのことは、もう考えないことにしたんだ。彼らを憎むことに時間を使うより、僕を信じてくれた人たちのために、この手を使いたい」
シ太は自分の大きな手のひらを見つめた。その手には、これまで彼が積み上げてきた努力の証である、硬いタコがいくつもあった。
「ああ、マクスウェル氏のプロジェクトを受けることに決めたよ。ハワイの古い建物を守り、そこに新しい命を吹き込む。それは、僕が日本でやってきたことと同じ。いや、もっと大きな夢なんだ。ここで修行して、いつか日本に戻った時、おばあちゃんに本物の家をプレゼントするよ」
「楽しみにしてるわ。でも、無理はしちゃだめよ。あなたはもう、十分すぎるほど頑張ってきたんだから」
その時、テラスの奥から賑やかな声が聞こえてきた。
「シ太、何をかっこつけてんだ。パーティーはこれからだぞ!」
現れたのは、日本から駆けつけた工務店の親方や仲間たちだった。田中一族に「品がない」と称され、ホテルの隅で身を縮めていた彼らを、私は改めて山下の賓客として、このテラスに招待したのだ。
「親方、すみません。色々とご迷惑をかけて…」
「バカ野郎!水臭えこと言うな!お前の根性は、この親方が一番よく分かってる。お前がハワイでリーダーをやるってんなら、俺たちも日本から応援するぜ。たまにはドブの手入れ、教えに来いよ」
男たちは笑い合い、シ太の肩を叩いた。豪華なシャンパンではなく、現地で愛されるビールで乾杯する彼らの姿は、どんな着飾った富豪たちよりも、眩しく、気高いものに見えた。
私はその光景を眺めながら、亡き夫の写真をそっと撫でた。
「おじいさん、見てる?あなたの孫は、お金や地位よりも、大切な人の絆という財産を、自分の力で見つけたわよ」
私たちが田中一族を追放したのは、単なる復讐ではありませんでした。それは、誠実に生きる者が報われ、嘘と欲にまみれた者が自滅するという、この世の道理を示したに過ぎません。本当の富とは、銀行の残高にあるのではなく、苦しい時に隣にいてくれる人の数、そして自分の仕事に誇りを持てる心の強さにある。シ太は、過酷な一日を通じて、その真理を誰よりも深く刻み込んだはずです。
「おばあちゃん、これ、僕からの本当のプレゼント」
シ太が私に手渡したのは、小さな木彫りのブローチだった。それは、彼がハワイに到着してから、ほんの少しの空き時間を見つけては、私のために自作していたものだった。ハワイの守り神であるホヌを形取った、世界に一つだけの贈り物。
「ありがとう、シ太。どんな宝石よりも、これが一番嬉しいわ」
私はそのブローチを胸に飾り、孫と共に夜の海を眺めた。遠くで打ち寄せる波の音が、新しい時代の幕開けを告げているようだった。田中一族が夢見ていた偽りの王国は消え去り、そこには一人の若き職人が歩み出した。輝かしい未来の道が、まっすぐに伸びていました。
「よし、おばあちゃん、行こう。みんなが待ってる」
シ太の手が、私の手を取る。その温もりは、何があっても揺るがない、真実の家族の絆だった。ハワイの夜風が、私たちの頬を優しく撫でて通り過ぎていった。空には満天の星。それは、誠実に生きてきた者だけが見ることのできる、最高の祝福の光でした。
ハワイの眩しい日差しが、エメラルドグリーンの海を宝石のように輝かせている。あの一件から三年。私は再び、あの思い出のホテルのテラスに立っていた。しかし、三年前とは流れる空気が全く違う。今の私を包んでいるのは、心からの平穏と、誇らしい気持ちだった。
「おばあちゃん、準備はいい?そろそろ始まるよ」
声をかけてきたのは、以前よりも一回りも二回りも逞しくなったシ太だった。彼は今、アーサー氏とのプロジェクトを大成功させ、ハワイの伝統建築と現代建築を融合させる、天才建築家として、世界中から注目される存在になっていた。今日のシ太は、再び純白のタキシードをまとっている。しかし、三年前のような震えはない。その隣には、彼を優しく支える美しい女性、ゆいさんの姿があった。そうです。あの一件で田中家の不正を暴き、証拠を届けてくれた、事務の川田ゆいさん。彼女はその後、シ太の仕事に対する情熱と誠実さに惹かれ、彼がハワイで苦労していた時期も、日本からずっと支え続けてくれたのです。
「ゆいさん、本当に綺麗よ。シ太を、これからもよろしくね」
「はい。おばあ様。シ太さんと一緒に、温かい家庭を築いていきます」
ゆいさんの言葉には、かつてのカノンさんのような虚栄心は微塵もない。あるのは、ただ真っすぐな愛と信頼だけだった。
その時、ホテルの裏口付近で、清掃員の制服を着た一人の女性が、こちらを呆然と見つめているのが目に入った。
「嘘…なんで、シ太さんがあんなに立派に…」
それは、かつてのカノン。今はあき子と名乗っている彼女だった。彼女は賠償金の支払いのために、いくつもの仕事を掛け持ちし、今は現地の清掃会社に雇われて、このホテルの庭園掃除をしていたのだ。乱れた髪、荒れた肌、そして以前の傲慢さが消え去った、疲れ果てた表情。かつて高級ブランドで身を固めていた面影は、どこにもなかった。
あき子はこちらへ駆け寄ろうとした。
「シ太さん!待って!シ太さん!私よ、カノンよ!ずっと探していたの!」
しかし、彼女がシ太に触れる前に、警備員が静かに、しかし力強く彼女を静止した。
「通して!私はあの人の婚約者だったのよ!私はこんな場所で掃除なんかしてる人間じゃないの!私をスイートルームへ戻してよ!」
あき子の必死の叫びが響くが、シ太は一度だけ彼女の方を向き、そして静かに視線をそらした。
「人違いですよ。僕の知っているカノンという女性は、三年前にハワイの海に消えました。今の僕の隣にいるのは、僕の人生で最も大切な、妻になる人だけです」
シ太の声は冷徹ではなく、ただ過去を切り離した者の、静寂に満ちていた。
「嫌ああ!待って!謝るから!何でもするから!おばあ様、助けて!私、あんな親たちに騙されていただけなのよ!」
あき子は私に向かって手を伸ばしたが、私は一歩も動かなかった。
「あき子さん、あなたは自分の足で立ち、自分の手で汗を流して働くことの意味を、ようやく学び始めたところでしょう。その苦しみこそが、あなたがシ太から奪った時間の重さなの。しっかり働きなさい。それが、あなたの唯一の贖罪よ」
私の言葉に、あき子は力なくその場に崩れ落ちた。
一方、日本にいる田中正尾は、服役中も互いに責任をなすりつけ合い、一族の絆は完全に崩壊したと聞いている。彼らが誇っていた「田中家」という名前は、今や「横領」の代名詞として、ネット上のアーカイブに永遠に刻まれている。叔父の幸造も、全財産を失い、親族から絶縁され、今は孤独な生活の中で、かつての栄光を追い求めるだけの抜け殻のようになっているそうだ。
「おばあちゃん、行こう。みんなが待っている」
シ太がゆいさんの手を引いて歩き出した。チャペルの扉が開くと、そこには親方や仲間たち、そしてアーサー氏といった、シ太の真実の価値を理解してくれた人々が、最高の笑顔で待ち受けていた。パイプオルガンの音が、青い海と空に溶け込んでいく。かつて涙で濡れたタキシード姿の孫が、今、一番の輝きを放っていた。
私は胸元のブローチに手を当て、そっと呟いた。
「誠実であることが、人生で一番強い武器なのね」
窓から降り注ぐ光は、汚れを洗い流し、新しい生命を育むように、シ太とゆいさんを優しく包み込んでいた。スカッと晴れ渡ったハワイの空の下、私たちの本当の物語が、今ここから始まったのです。


