「バーバ、早くここに隠れて。絶対見つからないから」
孫の琢磨が私の手を引っ張りながら、庭の奥にある物置を指さした。その無邪気な笑顔は、いつもと変わらない可愛らしさだった。
私は藤井のり子、65歳。33年間バスガイドとして日本を案内してきたが、今は退職し、息子夫婦と一緒に暮らしている。琢磨との時間は、私にとって何よりも大切な宝物だった。
「琢磨君、そこは少し狭くて暗いから…」
私が躊躇していると、琢磨はさらに強く手を引いた。
「大丈夫だよ。すぐに見つけてあげるから。バーバ、早く」
その必死な様子に苦笑いしながら、私は物置の扉を開けた。中は思った以上に狭く、古いダンボールや使わなくなった道具が積まれていた。
「じゃあ、ちょっとだけね」
私が中に入ると、琢磨は満足そうに頷いた。そして扉を閉める直前、なぜか少し困ったような表情を見せた。
ガチャン。鍵の音が響いた。
「琢磨君、開けて」
返事はなかった。私の心に言い知れぬ不安が広がり始めた。暗い物置の中で扉を押してみたが、ビクともしない。外から聞こえてくる足音に助けを求めようとした瞬間だった。
「よくやったわね。約束通りお小遣いをあげる」
美の声だった。私は息を潜めた。
「これで邪魔物は片付いたな」
健太の声が続く。私の息子の声とは思えないほど冷たかった。
「30年以上働いたんだろ。相当貯まってるはずだ。ざっと3000万円ね。それに貯金もあるはずよ」
私の全身から血の気が引いていった。まさか息子夫婦が私の退職金を狙って、認知症で徘徊して行方不明になったことにしようとしているのか。
「バスガイドなんて恥ずかしい仕事してた母親だ。いなくなってくれた方がいい」
健太の言葉は私の心を深くえぐった。33年間、誇りを持って続けてきた仕事を恥ずかしいというのだ。私は物置の壁によりかかり、震える手で胸を抑えた。家族だと信じていた人たちが、私をただの金づるとしか見ていなかった。
このままでは本当に失踪させられてしまう。私は必死に冷静さを保とうとした。外では息子夫婦の会話がまだ続いていた。私は壁に耳を押し当て、一言も聞き漏らすまいと集中した。
「でも本当に大丈夫なの?警察とか…」
美の声に一瞬の不安が混じった。
「大丈夫だ。母さんは最近もの忘れもひどくなってた。認知症の兆候があったって言えばいい」
健太の計算高い返答に、私は怒りで震えた。物忘れなどしていない。
「それに近所の人にも『お母さんの様子がおかしい』って言っておいたから」
「さすがね。用意周到じゃない」
二人の見苦しい笑い声が聞こえてきた。
「バーバの退職金があれば、新しい車も買えるし海外旅行にも行ける。でもバーバがいなくなったら、誰がお家のことをするの?」
琢磨の素朴な疑問に、美が答えた。
「それは私がやるわ。今までバーバに押し付けてたけど、お金が手に入れば家政婦でも雇えるし」
押し付けていた?私は自ら進んで家事を引き受けていたのに。琢磨との時間を大切にしたくて、喜んでやっていたのに。
「母さんには悪いけど、もう限界だったんだ。いつも昔はこうだったとか、バス時代はとか、聞き飽きたよ」
健太の声が聞こえた。
「本当よね。時代遅れの価値観を押し付けてくるし」
私の目から涙がこぼれた。私は決して価値観を押し付けたことなどない。ただ孫に日本の美しい場所や文化を教えたかっただけなのに。
「それにお客さんが来た時も恥ずかしいのよ。『息子の祖母はバスガイドをしていました』なんて言えないわ」
美の声が続く。
「そうだな。もっとまともな仕事をしていればよかったのに」
私の誇りがズタズタに引き裂かれていくのを感じた。バスガイドという仕事を、私は心から愛していた。日本中の美しい景色を案内し、お客様の笑顔を見ることが私の生きがいだった。
「この家をリフォームするお金も出してもらったし、もう十分貢献してもらったよな。500万円よ。あれがなかったらこの家に住めなかった」
「でもそれも当然だろ。親なんだから」
「当然」
私は言葉を失った。父の残した貯金を切り崩して渡したあの500万円が、当然のことだと?
「本当に物置に閉じ込めたままで大丈夫?」
美の声が聞こえた。
「大丈夫よ。しばらくしたら、私たちが『お母さんがいない』って騒げばいいの」
「そうだ。俺たちは買い物に出かけていた。帰ってきたら母さんがいなくなっていた。ってな」
「完璧ね。琢磨もちゃんと同じこと言うのよ」
「うん。分かった」
私は物置の中を見回した。小さな窓から差し込む光で周囲の様子が分かる。古い工具や段ボール箱が積まれているが、脱出に使えそうなものは見当たらない。
「でもバーバのスマートフォンは?」
琢磨の質問に健太が答えた。
「さっき部屋から持ってきた。これも認知症で置き忘れたことにする」
私はポケットを探った。確かにスマートフォンがない。
「通帳とキャッシュカードは後で探す。部屋を片付ける時に見つければいい」
美の声は、まるで獲物を物色する泥棒のようだった。
「あんな仕事を30年以上も続けてきたんだから、相当ため込んでるはずよ」
「バスガイドなんて給料も安いだろうによく俺を大学まで出してくれたよな」
健太の言葉に一瞬の感謝の色が見えたかと思ったが、続く言葉で打ち砕かれた。
「ま、そのおかげで今の俺があるんだから、財産をもらうのは当然の権利だ」
私は壁に爪を立てた。息子を大学に通わせるため、私は日夜働いた。それが当然の権利だと?
「お父さんには連絡した?」
美が聞いた。
「親父か…でも、お父さんもきっと賛成してくれるわよ。最近お母さんの世話に疲れてるって言ってたし」
私は驚いた。夫が私の世話に疲れている?毎日「のり子の料理は美味しい」「のり子がいてくれて幸せだ」と言ってくれているのに。
「今日のことは誰にも言っちゃだめよ」
「うん。分かってる」
「いい子ね。これで私たちは幸せになれるわ」
美の声が遠ざかっていく。どうやら家の中に戻っていくようだ。私は物置の中で一人震えていた。怒り、悲しみ、裏切られた思いが胸の中で渦巻いている。でも同時に、冷静な部分が私に語りかけていた。
「のり子、あなたは33年バスガイドとして働いてきた。どんな困難な状況でもお客様を安全に目的地まで案内してきた。今回も必ず切り抜けられる」
私は深呼吸をして状況を整理し始めた。彼らの計画は完全に犯罪だ。監禁、詐欺、そして私の財産を狙った悪質なものだ。証拠を残さなければ。私は物置の中を必死に探し、古いボールペンを見つけた。ダンボールの切れ端に、聞いた会話の内容を書き留め始めた。
まだ午前中だ。夫は今頃ゲートボールに行っているはず。彼が帰ってくれば、私がいないことに気づくだろう。でも息子夫婦の計画では、その頃には認知症で徘徊したことになっているかもしれない。私はバスガイドの経験で培った観察力を総動員し、脱出方法を考え始めた。諦めるわけにはいかない。
物置の中で時間だけが過ぎていった。私はダンボールの切れ端に聞いた会話を詳細に書き留めながら、これまでの人生を振り返っていた。33年間バスガイドとして日本を巡ってきた。北は北海道の雄大な大地から南は沖縄の美しい海まで。お客様に日本の素晴らしさを伝えることが私の誇りであり生きがいだった。
健太を育てながらの仕事は決して楽ではなかった。朝早くから夜遅くまで、時には泊まりがけの仕事もあった。でも健太のために頑張れた。
「母さん、今日も仕事?」
幼い健太が寂しそうに聞いてきた時、胸が痛んだ。でも私は笑顔で答えた。
「お母さんは日本の素敵な場所を案内するお仕事よ。健太も大きくなったら一緒に行こうね」
あの時の健太の笑顔を、私は今でも覚えている。そんな息子が今では私を恥ずかしいと言い、財産目当てに監禁するなんて。
私は物置の小窓から外を見た。庭の向こうに道路が見える。人が通れば助けを求められるかもしれない。でも平日の昼間、この住宅街を歩く人は少ないだろう。
その時、ふと思い出した。バスガイドとして様々な非常事態に対処してきたことを。大雨で道路が寸断された時、お客様を安全な場所に誘導した。バスが故障した時、冷静に対処法を考えた。お客様が体調を崩した時、適切な応急処置を施した。
「非常時こそ冷静に。パニックは最大の敵」
新人研修で教わった言葉が、脳裏に浮かんだ。私は物置の中を改めて観察した。古い工具箱、使わなくなった植木鉢、錆びた自転車の部品、そして壁の隅に積まれた古い段ボール。そして、あることに気づいた。物置の扉は内側からは開かないが、蝶番が古くて錆びている。もしかしたら工具を使えば…
工具箱を開けると、錆びたドライバーとペンチがあった。私は蝶番に近づき、ネジを外そうと試みた。しかし錆がひどく、ビクともしない。
その時、外から足音が聞こえてきた。
「母さん、まだ大丈夫かな?」
健太の声だ。私は思わず助けを求めようとした。でもすぐに思い直した。彼は私を助けに来たのではない。
「大丈夫よ。物置は頑丈だし、声も外に漏れないわ」
美の冷たい声が響く。
「でも水とか食べ物とか…」
「何言ってるの?数時間の話でしょ。夕方には徘徊として警察に届けるんだから」
私は息を潜めた。夕方まで。あと数時間。それまでに脱出しなければ。
「琢磨は友達の家に遊びに行かせたわ。アリバイ作りよ」
何という執念だろうか。8歳の孫まで犯罪に加担させるなんて。
「ところで母さんの部屋も調べた」
「え、通帳が3冊あったわ。全部で800万円以上」
「すごいな。よくそんなに貯めたもんだ」
「きっと私たちのために貯めてたのよ。やっと受け取れるわね」
二人の笑い声が物置の中まで響いてきた。違う。あのお金は老後の生活費としてコツコツ貯めたものだ。誰にも迷惑をかけず、自立して生きていくために。
「でも印鑑が見つからないの」
「銀行で紛失届けを出せば再発行できるでしょ。死亡届けが出れば相続できるしな」
死亡届け。私はぞっとした。まさか本当に…
「ちょっとそんなこと言わないでよ」
美の声にわずかな動揺が感じられた。
「冗談だよ。でも認知症で施設に入れることにすれば、財産管理は俺たちができる」
「そうね。成年後見人制度を使えばいいのよ」
なんと恐ろしい計画だろうか。私の人格も尊厳も全て否定して、ただの財産としてしか見ていない。足音が遠ざかっていった。私は怒りで震えながらも、冷静さを保とうとした。バスガイドとして培った精神力が、今こそ必要だ。
物置の中を見回すと、古い毛布を見つけた。これを使えば…私は毛布を細く裂き、ロープ代わりにした。そして小窓の格子に結びつけた。もしかしたら外から見た人が異変に気づくかもしれない。でもそれだけでは不十分だ。もっと積極的に脱出方法を考えなければ。
私は再び工具箱を探った。その中に小さな懐中電灯があった。スイッチを入れると、弱々しい光が灯った。これで物置の隅々まで調べることができる。壁を丹念に調べていくと、一箇所板が腐って柔らかくなっている部分を見つけた。ドライバーで突くと、少し崩れる。希望が見えてきた。時間はかかるだろうが、ここから脱出できるかもしれない。
私は作業を始めた。少しずつ、少しずつ板を削っていく。33年間、どんな困難も乗り越えてきた。今回も必ず乗り越えて見せる。私は一度も仕事を休んだことがない。健太が熱を出した時も、実家の母に預けて仕事に行った。全ては健太のため、息子に恥ずかしくない母親でいるため。でもその息子は私の仕事を恥ずかしいと言い、私を邪魔者と呼んだ。涙が頬を伝った。でも泣いている場合ではない。必ずこの悪事を暴いて、正義を実現させます。板を削る手にさらに力を込めた。外の世界へ、自由へ。そして真実を明らかにするために。
腐った板を削り続けて、ようやく外の光が差し込む穴が開いた。まだ人が通れる大きさではないが、希望が見えてきた。その時、思いがけない声が聞こえてきた。
「のり子。のり子はどこだ?」
夫の声だ。夫が私を探している。
「お父さん、お母さんなら買い物に出かけましたよ」
庭で取り繕う美の声が聞こえる。
「買い物?財布も持たずにか」
夫の声には疑いの色があった。
「きっと忘れたんでしょう。最近物忘れがひどくて」
「のり子が物忘れ?冗談じゃない。あいつほどしっかりした女はいない」
夫の言葉に、私は胸が熱くなった。
「でも実際にいないんです」
健太の声も加わった。
「携帯も置いていったし、心配で…」
「ふざけるな。のり子が携帯を忘れるはずがない」
夫の怒気を含んだ声に、私は必死に叫んだ。
「俊夫さん、ここです。物置です」
声は外に届かない。厚い壁に阻まれて。夫の足音が近づいてくる。私は壁を必死に叩いた。ドンドンドン。
「何の音だ?」
「古い家ですから、きしむ音でしょう」
健太が慌てて言い訳をした。
「物置は調べたのか?」
「もちろんです。最初に確認しました」
美の嘘に、私は怒りで震えた。私は急いで削った穴から毛布の切れ端を押し出した。赤い布が外からも見えるはずだ。
「おい、あれは何だ?」
夫が気づいたようだ。
「え、あ、それは…」
健太が言葉に詰まった。その瞬間、私は持てる限りの力を込めて叫んだ。
「俊夫さん、私はここにいます。健太たちに閉じ込められました」
一瞬の静寂の後、夫の怒号が響いた。
「鍵を開けろ。今すぐだ」
「お父さん、落ち着いて」
「黙れ。鍵はどこだ?」
ガチャガチャと扉を揺らす音がする。
「健太、鍵を出しなさい」
夫の声は、これまで聞いたことがないほど恐ろしいものだった。
「わ、分かりました」
健太が観念したように鍵を差し出す音がした。扉が開き、眩しい光が差し込んだ。そこに立っていたのは、顔を真っ赤にした夫だった。
「のり子、大丈夫か?」
夫は私を抱きかかえるようにして物置から出してくれた。
「ありがとう、俊夫さん。でもまだ終わりじゃありません」
私は震える手で、ダンボールに書き留めたメモを見せた。
「これを見てください。全部聞いていました」
夫がメモを読むにつれ、その顔は青ざめていった。
「退職金を狙って認知症だと偽って…そんな…」
「お母さんが勝手に物置に入って鍵が壊れて…」
美が必死に弁解しようとした。私は美を睨みつけた。
「琢磨まで使って私を閉じ込めたでしょう。全部聞いていたんです」
その時、私のポケットから小さな機械が落ちた。それは小型のボイスレコーダーだった。バスガイド時代、トラブル防止のために常に持ち歩いていたものだ。
「まさか…」
健太の顔が青ざめた。
「ええ、全部録音してあります。実は物置に入る直前、何か違和感を感じてポケットのレコーダーのスイッチを入れていたんです」
長年の職業的感が私を救ったのだ。ちょうど3時間分、たっぷり録音されているはずだ。
美が床に崩れ落ちた。
「私たちの会話が全部…」
「その通りです。認知症の計画も退職金を狙っていたことも、全て証拠として残っています」
夫が健太の胸ぐらを掴んだ。
「お前という奴は、母親を何だと思っている?」
「父さん、違うんだ。これは…」
「言い訳は聞きたくない」
私は夫の腕に手を置いた。
「俊夫さん、暴力はいけません。これは法的に解決しましょう」
私は携帯電話を取り出した。物置から出た時、テーブルの上にあったのを取り戻したのだ。今から私の知り合いに連絡します。33年間のバスガイド生活で、私には多くの人脈があった。その中には弁護士も警察関係者も地域の有力者もいる。まず、元検事で今は弁護士をしている坂本先生に電話した。
「坂本先生、藤井です。実は緊急でご相談が…」
事情を手短に説明すると、坂本先生は即座に対応してくれた。
「すぐに向かいます。証拠は絶対に消さないでください」
次に、観光協会の会長である佐藤さんに連絡した。
「佐藤会長、藤井です。実は…」
「何ということだ。のり子さんがそんな目に…すぐに理事たちに連絡します」
続いて、地元新聞の記者である西野さん、市議会議員の鈴木さん、そして警察署の知り合いにも連絡を取った。健太夫婦は呆然と立ち尽くしていた。
「母さん、そんなに知り合いが…」
「33年間、毎日多くの人と出会ってきました。バスガイドという仕事を通じて、素晴らしい方々とご縁をいただいたんです」
私は息子を見つめた。
「あなたが恥ずかしいと言った仕事のおかげで、今私は守られているんです」
30分後、次々と人が集まってきた。坂本弁護士はすぐに状況を把握し、法的措置の準備を始めた。
「監禁、詐欺、場合によっては強盗罪も適用できます」
佐藤会長は観光業界の仲間たちを引き連れてきた。
「のり子さんは我々の誇りです。こんな仕打ちは許せません」
西野記者はカメラを構えていた。
「藤井さん、この件、記事にさせていただいてもよろしいですか?」
私は頷いた。
「ええ、お願いします。同じような被害に遭っている高齢者の方々のためにも」
鈴木議員も憤慨していた。
「高齢者を狙った家族間犯罪は、断じて看過できません」
健太夫婦は集まった人々に囲まれ、顔面蒼白になっていた。
「ま、まさかこんなことに…」
「『天網恢恢疎にして漏らさず』という言葉をご存知ですか?」
私は冷静に言った。
「悪事は必ず露見し、罰を受けるものです」
そして、最後の切り札を取り出した。
「実はもう一つお話があります」
私は坂本弁護士にある書類を渡した。坂本弁護士が書類を確認すると、その表情が一変した。
「これは…藤井さん、まさか」
「はい。実は私、この土地と建物の所有者なんです」
健太と美が同時に叫んだ。
「え、どういうことですか?」
私は冷静に説明を始めた。
「この家は私の亡くなった両親から相続したものです。健太、あなたたちには黙っていましたが、登記は全て私の名義になっています」
健太が青ざめて言った。
「で、でも俺たちがローンを払って…」
「あなたたちが払っていたのは、私への家賃です。正式な賃貸契約書もあります」
坂本弁護士が書類を見せた。
「確かに、月額8万円の賃貸契約になっていますね」
美が崩れ落ちた。
「そんな…私たちずっと自分の家だと勘違いして…」
「でも契約書にはきちんと賃貸と明記されています」
私は続けた。
「そして契約書には特約事項があります。『賃借人が賃貸人に対して害を加えた場合、即時退去とする』と」
健太が必死に食い下がった。
「母さん、そんな…俺たちは家族じゃないか」
「家族?」
私は息子を見つめた。
「私を監禁し、財産を奪おうとした人たちが家族ですか?」
警察官が到着した。
「藤井さん、被害届を出されますか?」
私は頷いた。
「はい、お願いします」
「ちょっと待ってください」
美が泣きながら訴えた。
「これは間違いです。私たちは間違って…」
私はボイスレコーダーを取り出した。
「では、これを聞いてみましょうか」
レコーダーから健太と美の会話が流れ始めた。
「認知症で徘徊して行方不明になった。そういうことにしましょう」
「33年も働いたんだろ。3000万円は堅いな」
「バスガイドなんて恥ずかしい仕事してた母親だ」
会場にいた全員が録音を聞いて顔をしかめた。佐藤会長が声を荒らげた。
「バスガイドを侮辱するとは許せん。のり子さんは業界の宝だ」
観光協会の仲間たちも口々に言った。
「藤井さんには何度も助けられた。最高のガイドさんだった」
「お客様からの評価も抜群だった」
西野記者がカメラを向けた。
「では藤井さん、今のお気持ちを」
私は深呼吸をして、カメラに向かって話し始めた。
「高齢者を狙った家族間の犯罪が増えています。私のケースは氷山の一角かもしれません。でも泣き寝入りする必要はありません。必ず助けてくれる人がいます」
坂本弁護士が補足した。
「今回のケースは監禁で、懲役刑もあり得る重大な犯罪です」
健太が土下座した。
「母さん、お願いです。許してください。琢磨のことを考えてください。父親が犯罪者になったら…」
私は冷たく言い放った。
「君も共犯でしたね。8歳の子供を犯罪に加担させたあなたたちの罪は重い」
美も土下座した。
「お母さん、本当にすみませんでした」
「私はもうあなたのお母さんではありません」
夫が私の隣に立った。
「のり子の言う通りだ。お前たちとは今日限りで縁を切る」
警察官が健太と美に手錠をかけようとした時、私は言った。
「ちょっと待ってください」
全員が私を見た。
「逮捕はもう少し待っていただけますか?その代わり、条件があります」
坂本弁護士が心配そうに言った。
「藤井さん、無理は…」
「いいえ、大丈夫です。きっちりと責任を取ってもらいます」
私は健太と美を見据えた。
「まず、今すぐこの家から出て行ってください。荷物をまとめる時間は2時間です」
「で、でも行くところが…」
「それは私の知ったことではありません。あなたたちが私にしようとしたことと同じです」
次に、私は書類を取り出した。
「これは念書です。今後一切、私と夫に近づかない、連絡を取らない、金銭的要求をしない、と誓約してください」
健太が震える手で書類を受け取った。
「これを書けば逮捕は…」
「被害届を出すかどうかは後日決めます。今はまだ保留です」
美が泣きながら言った。
「どうしてこんなことに…」
「『自業自得』という言葉をご存知ですか?」
私は静かに言った。
「人を軽んじた報いが返ってきた結果です」
2時間後、健太と美は最小限の荷物を持って家を出ていった。琢磨は美の実家に預けられることになった。
「バーバ…」
琢磨が涙目で私を見た。私は孫の目線に合わせて言った。
「琢磨、よく聞いてください。人を騙したり傷つけたりしてはいけません。今日のことを一生忘れないでください」
琢磨は泣きながら頷いた。健太が最後に振り返った。
「母さん、本当に、本当にすみませんでした」
「謝罪は結構です。行動で示してください」
彼らが去った後、集まった人々が口々に私を励ました。
「のり子さん、よく頑張りました」
「正義は勝つんです」
「これからは安心して暮らしてください」
西野記者が最後の質問をした。
「藤井さん、息子さんを許す日は来ると思いますか?」
私は少し考えてから答えた。
「それは彼ら次第です。本当に反省し、正道に生きていけば、いつか…でも今は許せません」
全員が帰った後、夫と二人きりになった。
「これからは二人で静かに暮らしましょう」
「そうだな。もう誰にも邪魔されない」
夕日が部屋を照らしていた。健太たちが私をお荷物と呼び、邪魔物扱いしたことへの、これが私の答えだ。完全勝利。これ以上の決着はない。
あの事件から3ヶ月が経った。私と夫は平穏で充実した日々を送っている。朝は二人でゆっくりと朝食を取り、庭の手入れをし、午後は趣味を楽しむ。誰にも邪魔されない。本当の意味での第二の人生が始まった。
「のり子、今日は天気がいいな」
「そうですね。散歩にでも行きましょうか」
こんな何気ない会話が、今はとても幸せに感じる。観光協会の特別顧問としての仕事も任され、順調だ。週に2回、若いバスガイドたちに接客の心構えや観光地の魅力を伝えている。
「藤井先生、富士山の説明のコツを教えてください」
「大切なのは、ただ歴史を語るだけでなく、その瞬間の美しさを共有することです」
若い人たちの真剣な眼差しを見ていると、33年間の経験が無駄ではなかったと実感する。
そんなある日、一通の手紙が届いた。差出人は健太だった。手紙にはこう書かれていた。
「母さんへ。あれから3ヶ月、毎日後悔の日々を過ごしています。今僕は工場で働いています。朝から晩まで汗を流して、やっと生活できる程度の給料です。美とは離婚しました。琢磨は美の実家にいます。母さんが33年間どれだけ苦労して僕を育ててくれたか、今になってようやく分かりました。バスガイドという仕事の尊さも理解できるようになりました。人と人とをつなぐ素晴らしい仕事だったんですね。謝罪の言葉はもう聞きたくないと思います。ただ、いつか行動で示せる日が来ることを信じて、真面目に生きていきます。健太」
私は手紙を置いた。
「どうする?」
夫が聞いた。
「今はまだ会うつもりはありません。でもこの手紙は取っておきます。健太が本当に更生するかどうか、それは時間が証明するでしょう」
その後、私は新しく始めた活動に出かけた。地域の高齢者向けの旅行相談ボランティアだ。
「藤井さん、京都に行きたいんですが、足が悪くて」
「それならバリアフリーの宿をご紹介しますね。車椅子でも楽しめるコースもありますよ」
私の経験が同世代の方々の役に立つ。これも大きな喜びだ。
夕方、家に帰ると夫が嬉しそうに出迎えてくれた。
「のり子、すごいぞ。観光協会から表彰が届いている」
見ると、「永年勤続功労賞」と書かれた立派な表彰だった。
「33年間の功績を称えてか。遅すぎるくらいだ」
夫が誇らしげに言った。
「いえ、今がちょうどいいタイミングです」
私は表彰を見つめながら、これまでの人生を振り返った。確かに息子からは裏切られた。お荷物、邪魔物、恥ずかしいと言われ、財産目当てに監禁までされた。でも、その経験があったからこそ、本当に大切なものが見えてきた。自分の仕事への誇り、長年培ってきた人間関係の大切さ、そしてどんな時も味方でいてくれる夫の存在。
「今日はあなたの好きな肉じゃがにしましょう」
「やった。のり子の肉じゃがが日本一だ」
私たちは台所に立ち、一緒に料理を始めた。健太たちがいた頃は、私一人で全ての家事をこなしていた。でも今は夫も積極的に手伝ってくれる。
「じゃがいもの皮むき、上手になりましたね」
「のり子に教わったからな」
こんな些細なやり取りが、本当の幸せなのかもしれない。食事をしながら言った。
「来月、温泉にでも行かないか」
「いいですね。どこか行きたいところはありますか?」
「のり子が33年間で一番思い出に残っている場所はどこだ?」
私は少し考えてから答えた。
「箱根ですね。新人の頃、初めて一人でガイドを任された場所です」
「じゃあ箱根に決まりだ」
私たちはこれからの旅行計画を楽しそうに話し合った。
夜、ベッドに入る前、私は鏡の前に立った。そこに映っているのは65歳の女性。でも3ヶ月前とは違う。誰かの顔色を伺うことなく、自分らしく生きている女性の顔があった。お荷物と呼ばれた私は、今誰よりも自由で幸せだ。邪魔物と言われた私は、今多くの人から必要とされている。恥ずかしいと切り捨てられた仕事は、今若い世代に誇りを持って伝承されている。
人生は何歳からでもやり直せる。そして、理不尽な扱いを受けた時は、毅然として立ち向かうことが大切だと、この経験は教えてくれた。あなたは決してお荷物なんかじゃありません。あなたにはあなたにしかない価値があります。それを否定する人がいたら、私のように堂々と立ち向かってください。必ず道は開けます。



