財布の中に1000円札が1枚だけ残っていた。松崎静上はその1枚を3つ折りにしたまま、もう一度丁寧に指先で伸ばした。紙幣の橋が少しすり切れていて、表面の印刷がうっすらと白ずんでいる。彼女はそれを見つめながら心の中で静かに計算した。1枚で3日間はなんとかなる。そう自分に言い聞かせた。
外は6月の雨だった。梅の走りというには少し遅い。じっとりと肌に張りつくような湿気が漂う夕暮れで、千葉県の外れにある団地の駅前は帰宅する人たちの傘と濡れた靴音で込み合っていた。静上はその夕方も駅前の自転車預かり所でパートの仕事を終えたばかりだった。来ていたのはホームセンターで500円で買った透明のビニールカッパで、かつては完全に透き通っていたはずのそれが、今では全体的に曇りを帯びてしまっている。袖の内側には小さな亀裂が入っていて、雨が降るたびにそこから冷たい水が少しずつ染み込んでくる。それでも静上はそのカッパを毎回使用後に丁寧に水気を拭き取り、陰干ししてから畳んでいた。
自転車預かり所の仕事は時給950円、週に5日、1日4時間のパートだった。雨の日も晴れの日も静上は決まった時間に出勤し、濡れた自転車をタオルで拭いて整列させ、定期券を確認し、利用者に頭を下げ続けた。若い人たちが忙しそうに駆け抜けていく中で、静上はいつも少し離れた場所に立って黙々と仕事をこなしていた。
仕事を終えた彼女は帰り道をまっすぐ家には向かわなかった。駅から徒歩7分ほどのところにあるスーパーマーケットへ立ち寄るのがここ数年の習慣になっていた。ただし静上がその店に入るのはいつも夜の8時を過ぎてからと決めていた。理由は単純だった。8時になると精肉や総菜の棚に半額シールが貼られるからだ。
店内は蛍光灯の白い光で満たされていて、夕方の混雑が一段落した後の静けさが漂っていた。静上は入り口でカゴを1つ取り、まず野菜売り場を一周した。じっくりと値段を確かめながら歩き、何も取らずに通り過ぎる。次に豆腐と卵のコーナーを確認したが、今日は予算に余裕がなかった。精肉コーナーの前で彼女は立ち止まった。棚の前にはすでに3人の老人が集まっていた。誰もが静上と同じように手を後ろに組んだり、買い物袋を足元に置いたりしながら、棚から少し距離を置いた場所で待機していた。誰も視線を合わせない。誰も口を開かない。それはお互いの事情を知っている者同士が守る暗黙の掟のようなものだった。
店員の男性が台車を押してくる音が聞こえた。静上の瞳孔が収縮した。男性がパックを1つ1つに取り、ハーフプライスの赤いシールを貼り始めると、3人の老人たちは示し合わせたようにゆっくりと棚に近づいた。静上も一歩また一歩と前に出た。目当てはカレイの煮付けが入ったパックだった。今日の日付のもので198円が半額になれば99円になる。それなら帰れる。しかし手が届く寸前のところで、隣の白髪の女性がさっと手を伸ばし、そのパックを取ってしまった。静上は一瞬指先がパックの縁に触れたような気がしたが、何も言えなかった。静かに手を引いて別のパックを探した。結局、鮭のアラが入った小さなパックを見つけた。126円が半額で63円。それを1つカゴに入れた。
レジに並んだ時、静上は財布の中の小銭を確認した。10円玉が6枚と5円玉が2枚、1円玉が15枚ある。合計で100円玉が1枚と合わせて200円ほどだった。鮭のアラのパックと、あとは値引きシールが貼られていた小さな豆腐のパック。合わせて107円になるはずだった。レジ係は20代の女性で、慣れた手つきで商品をスキャンしていた。静上はカゴから品物を取り出してベルトコンベアに置こうとしたが、前の客の荷物がまだ残っていたため、少し待つ形になった。合計金額が表示されて、静上は小銭入れを開いた。10円玉を数えながら並べ始めたが、指先が少し震えた。後ろに人が並んでいるのは分かっていた。急がなければと思うほど指がうまく動かない。レジ係が何か言ったような気がしたが、静上には聞き取れなかった。彼女は軽い難聴があり、騒がしい場所では高い声が消えてしまうことが多い。聞き返すのが怖くて、静上はただ頭を下げた。「申し訳ありません」と声に出しながら、小銭を手のひらに広げて差し出した。レジ係は無言のまま静上の手のひらから必要な分だけ取り、釣り銭を返してくれた。後ろに並んでいたサラリーマン風の男性が舌打ちをするような音を出した気がしたが、静上はそちらを振り向かなかった。ただカゴを受け取って、できるだけ小さな歩幅で出口へと向かった。
外に出ると雨はまだ続いていた。静上はビニール袋を左手に持ち、傘を右手に持って、緩やかな坂道をゆっくりと登った。坂の途中に街灯があって、雨粒がその光の中を斜めに流れていくのが見えた。静上は傘を少し傾けて光の中を歩いた。
団地の棟は3つあり、静上が住む部屋は1番奥の棟の3階だった。エレベーターはあるが、静上はいつも階段を使っていた。月々の電気代のことを考えると、エレベーターのボタンを押す気になれなかった。3階への階段を登り切ったところで、靴の中がじっとりと湿っているのに気づいた。カッパの袖の亀裂から入り込んだ水が、いつの間にかそこまで流れてきたのだろう。静上は廊下の端で一度立ち止まり、靴底を軽く叩いてから部屋のドアの前に立った。鍵を回して中に入ると、空気がひんやりとしていた。節電のために日中は暖房も冷房も一切使っていないので、梅雨の時期の室内は外とほとんど変わらない湿度に包まれていた。
静上は電気をつけた。蛍光灯が一度点滅してから青白い光が部屋に広がった。6畳一間と小さなキッチン、それとユニットバスという作りの部屋には家具がほとんどなかった。中央に古いこたつ台があり、そこに食器類と郵便物が整理して置かれている。壁際には衣装ケースが2段重ねてあり、その上に小さなブラウン管テレビが乗っていた。静上はまずカッパを脱ぎ、それをビニール袋に入れてから洗面台にかけた。次に濡れた靴下を脱いで絞ってから干した。乾いた靴下に履き換えてから、やっとキッチンに立った。
テレビをつけた。音量はあまり大きくしないが、人の声が聞こえていると少し落ち着く。夜のニュースが始まっていて、アナウンサーが物価上昇についての特集を読んでいた。静上はチャンネルを変えた。料理番組が映った。そのままにした。鮭のアラのパックを開けると、鱗と骨が多く残っていた。静上はそれを小鍋に入れ、水と醤油と砂糖を少しずつ加えて火にかけた。骨をほぐしながら食べられる身の部分をできるだけ多く取り出すつもりだった。昨日の残りご飯が冷蔵庫に少しあった。それを電子レンジで温めてテーブルに並べた。
食事の前に静上は手を合わせた。「いただきます」と声に出して言ってから箸を取った。鮭のアラは骨が多くて食べにくかったが、静上はよく噛んだ。急ぐことはない。1人の食事には時間の制限などないのだから。テレビでは料理番組の司会者が笑いながら何かを言っていた。静上にはよく聞き取れなかったが、笑い声だけは分かった。
食べ終わった後、静上はパックの容器を水でよく洗った。蓋についたシールを慎重に剥がし、輪ゴムは輪ゴムのかかった引き出しの中に入れた。輪ゴムはスーパーの袋に入っているものを毎回外して取っておいている。引き出しの中にはすでに20本ほどが丸まって収まっていた。
静上は郵便物の確認をしようと、こたつ台の上に積んでいた封筒を手に取った。ほとんどは広告の類いで、電力会社からの明細書が1枚あった。それを開けると、今月の使用量の金額が先月より少し上がっていた。静上は眉を寄せて数字を何度も確かめた。その下に1枚の封筒があった。茶色い封筒で、差出人の欄に市の住宅管理課の名前が印刷されていた。静上の手が少しだけ止まった。市の住宅管理課から郵便が来るのは良い知らせであることはほとんどない。彼女はその封筒を最後に残して、先に他の郵便物を処理した。広告はそのままゴミの袋に入れ、電力会社の明細書は衣装ケースの上のファイルに挟んだ。それから茶色い封筒を手に取った。封を丁寧に開けて中の紙を取り出した。役所特有の硬い文体で書かれた通知書だった。
内容は来月から適用される管理費及び家賃の改定についてのものだった。2026年の物価上昇に伴い、公営住宅の維持コストが増加したため、居住者負担を見直す必要があるとの説明があった。具体的な金額は現在の月額から2300円の引き上げとなっていた。静上は紙をテーブルに置いた。部屋の中でテレビの声だけが続いていた。
静上は衣装ケースの引き出しから古い手帳を取り出した。表紙がすり切れていて、裏表紙の角がめくれている。ページを開くと、毎月の収入と支出が細かい字で記録されていた。年金の振り込み額が一覧、パートの給与が一覧。その下に家賃、電気代、水道代、ガス代、通信費、薬と続き、最後の下りに食費と日用品がまとめて記されている。静上は鉛筆を持って、新しい家賃の金額で計算し直した。今月の年金振り込み額は基礎年金と厚生年金を合わせて月に約8万7000円。パートの給与は週5日勤務で月に約7万6000円、合計で16万3000円ほどになるはずだった。ここから家賃が新しい金額に変わると、光熱費や通信費を引いた後に手元に残るのは約8000円になる計算だった。1ヶ月を8000円で食べていく。静上は鉛筆を置いた。
テレビの料理番組は終わっていて、今度はバラエティ番組に変わっていた。スタジオで若い芸能人たちが笑い声をあげている。静上はリモコンを手に取ってテレビを消した。部屋が急に静かになった。外の雨音だけが薄い窓ガラスを通して聞こえてくる。静上はしばらくテーブルの上の通知書を見つめていた。紙の上の数字は変わらない。何度見ても2300円という額は消えない。静上はもう一度手帳を開き、支出の欄を眺めた。削れる項目があるとすれば食費だけだった。薬は削れない。電気代はもう限界まで使わないようにしている。通信費は一番安い携帯の料金プランにすでに変えてある。もう少し仕事を増やせないかと考えた。しかし今の自転車預かり所では週5日が規定のシフトの上限だった。別のパートを探すという選択肢もある。しかし74歳の自分を雇ってくれる場所がどれだけあるか、静上には分からなかった。
腕時計を見ると夜の9時を過ぎていた。静上は立ち上がり、薬を飲む準備をした。就寝前に飲む安定剤は、近所の薬局で売っている市販の睡眠補助薬で、一袋に6錠入っている。値段は1600円するが、月末に値引きになるタイミングを狙って買っていた。この薬がないと夜中に目が覚めてしまい、一度覚醒するともう眠れない。コップに水を汲んで薬を一錠飲んだ。それだけでいい。たった一錠でも飲むのと飲まないのとでは、夜中の目覚め方が違う。
布団を敷く前に静上は窓の鍵を確認し、ガスの元栓を閉め、玄関の鍵がかかっていることを3回確かめた。どれも毎晩繰り返す動作だった。布団に入ってもすぐには眠れなかった。天井を見上げながら、静上は先ほどの計算を頭の中で繰り返した。8000円。1ヶ月30日で割ると1日約270円。1日3食を270円で賄うのは難しい。1食を90円以内に収める計算になる。今日買った鮭のアラは63円だった。明日はその残りで味噌汁を作れるかもしれない。味噌は今月まだ少し残っている。大根も半分残っている。考えながら、考えながら、静上はいつの間にか意識が薄れていった。
深夜に一度目が覚めた。時計を見ると午前2時過ぎだった。雨はまだ降っている。静上はトイレに立ち、また布団に入った。今度は眠れなかった。天井の染みを見つめながら、静上はぼんやりと夫のことを思った。夫の葬儀がなくなってからもう10年が経つ。心臓の病気であっという間だった。あの頃はまだ今の団地ではなく、小さいながらも持ち家に住んでいた。夫が残した保険金で葬儀を出し、その後の整理をして、気づいたら貯金がほとんど残っていなかった。子供の頃から倹約を美徳として生きてきた静上には、それが自分の人生の縮図のように感じられた。
息子の亮平は東京にいる。今年で45歳になる。派遣社員として働いていると聞いていた。3年前、亮平が最後に顔を見せた時、少し痩せていた。それ以来、電話でのやり取りだけが続いている。月に一度あるかないかの連絡で、長く話すことはない。静上は亮平に自分の経済的な状況を話したことは一度もない。話す必要はないと思っていた。いや、正確に言えば話せないのだ。息子に心配させたくないという気持ちは本当だが、それ以上に、自分が苦しいと認めることへの恐れがあった。誰かに頼るということは、自分の失敗を認めることのような気がしていた。
もう一度眠れたのは夜明け前だった。
翌朝は曇りだった。梅雨の合間の薄い光がカーテンの向こうから部屋に差し込んでいた。静上は5時半に起きた。腰を上げる時少しふらつく感覚があったが、すぐに収まった。睡眠が浅かった夜の翌朝はこうなることが多い。朝食は昨日の残りのご飯を水と一緒に鍋で温め、お粥にした。塩を少しだけ振って食べた。これで12分だった。
食べ終えてから静上は手帳を再び開いた。昨夜の計算を見直した。数字は変わらない。ただ明るい朝の光の中で見ると、数字が昨夜よりも少し現実的に感じられた。現実的というのは、つまり解決策を考えなければならないということだ。静上はしばらく考えた後、1つの選択肢を思い当たった。区役所に相談するという方法だ。家賃の減額申請や何らかの補助が受けられる可能性はないとも言えない。ただ、そういう窓口に出向くことへの抵抗が静上の中にあった。立派な市民が行く場所ではないという感覚は、論理では打ち消せなかった。それでも通知書の数字を前にすると、他の選択肢が思い浮かばなかった。静上は手帳を閉じ、出勤の準備を始めた。
その日のパートの仕事はいつも通りだった。濡れた自転車を拭き、整理スペースに整列させ、利用者に頭を下げる。静上は慣れた動作を繰り返しながら、時々頭の中で数字の計算をした。2300円、8000円、1日270円。数字が頭の中を支配していた。昼休みの10分間、静上は駐輪所の屋根の下に立って、水筒のお茶を一口飲んだ。同じシフトの50代の山田という男性が、コンビニで買ったおにぎりを食べながら隣に立った。山田は人の良い人物で、静上に対していつも丁寧に接してくれる。山田がコンビニのレジが最近また値上がりしたと話した。静上は頷いた。よく聞き取れなかったが、話の流れは分かった。「ええ、そうですね」と返した。山田がおにぎりのフィルムを丁寧に畳んで袋に入れながら、景気の話になった。物価が上がって大変だとぼやく山田の言葉に、静上は再び頷いた。「本当にそうですね」と言って、それ以上は何も言わなかった。
夕方仕事を終えた静上は、再び駅前のスーパーへ寄った。今日は昼巻きていた。半額シールを狙うには早すぎる時間だった。それでも足が自然とそちらへ向いた。店内を一周してから、何も買わずに出た。まだ買える余裕はある。今夜は昨日の残りの味噌汁と大根の煮物で足りる。夕方の空気は少し湿っていて、帰り道の坂に立ち並ぶ住宅の窓から夕食の匂いが流れてきた。
団地の玄関に戻ると、静上は玄関の内側のドアの部にかかったままのエコバッグの中に1枚の封筒が入っているのに気づいた。さっき出かける前には気づかなかった。郵便受けに入っていたもの。誰かが玄関先まで届けてくれたのかもしれない。あるいは朝の慌ただしい中で自分が入れておいて忘れていたのかもしれない。封筒を取り出すと、それは市の住宅管理課からではなく、棟の自治会からのものだった。内容は来月予定されている草むしりの日程についての案内で、静上には直接関係のないことだった。封筒をゴミ袋に入れてから、静上は改めて郵便受けを開けた。昨日来た茶色い封筒のことがまた頭に浮かんだ。2300円、1ヶ月8000円。
夕食の後、静上はいつものように薬を飲んで布団の中に入った。目を閉じると、また頭の中で数字が動き始めた。しばらくして静上は手を伸ばした。枕元に置いてある折りたたみ式の携帯電話に触れた。薄くて軽い。それはもう7年以上使っている。画面に傷がいくつかあるが、電話とメールの機能さえ使えれば十分だった。月々の料金は最低限のプランにしていて、それでも通信費として毎月1800円ほどかかる。静上はその携帯電話を手の中に持ったまま、暗い天井を見上げた。電話帳には数件の番号しか登録されていない。かかりつけの薬局、区役所の代表番号、そして亮平の携帯番号だった。静上は画面をつけた。青白い光が顔に当たった。亮平の番号を呼び出して、しばらく見つめた。かけるべきかどうかという問いは最初から存在しなかった。かけるつもりはなかった。ただ番号を見ていた。親指が画面の上に止まったまま動かなかった。それでも何かのはずみで通話ボタンを押してしまった。呼び出し音が鳴り始めた。静上は息を止めた。1回、2回、3回、4回、5回目が鳴り終わる直前に、電話が繋がった。
「もしもし」息子の声はくぐっていた。疲れている時の声だと静上にはすぐに分かった。電話の向こうからは、遠くで何かが動く音と空調のような音がかすかに聞こえた。どこかの職場か、それとも外にいるのかもしれない。
「もしもし。亮平」静上は声を出した。自分でも気づかないうちに、いつもより少し明るい声になっていた。
「何?母さん」亮平の声は低かった。「今残業中なんだけど」声の底に疲弊と少しの苛立ちが混じっていた。誰かと話していた途中に電話に出た、あの種の声だった。
静上の喉の奥で何かが詰まった。言おうと思っていたことがそこで止まった。通知書のことを話そうとしていたのか、相談したかったのか。ただ声を聞きたかっただけなのか、自分でも分からなかった。
「ごめんなさい」静上は言った。「何でもないの。間違えて押しちゃったみたい」
亮平が短く息を吐く音がした。「そう。じゃあ、ちゃんとご飯食べてる?」
静上は言った。自分でもなぜそれを言ったのか分からなかった。
「食べてる」亮平は短く答えた。
「そう。よかった」静上は言った。「仕事頑張ってね」
それだけ言って電話は切れた。静上は携帯電話を手の中で握ったまま動かなかった。通話時間は42秒と画面に表示されていた。部屋の中にまた雨の音だけが戻ってきた。窓の外を車のヘッドライトが1台通り過ぎる。光がカーテンに揺れた。静上は携帯電話を枕元に置き、布団を顎のところまで引き上げた。目を閉じると、まぶたの裏側に数字が浮かんだ。8000円、1ヶ月、1日270円。泣きたいという感覚はなかった。ただ胸の奥に重いものが沈んでいて、それが何であるかを考えないようにしながら、静上はゆっくりと呼吸を繰り返した。
雨は一晩中降り続けた。
翌朝、松崎静上は4時50分に目が覚めた。布団の中で天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。外はまだ暗く、雨は夜のうちに上がっていた。カーテンの隙間から街灯の橙色の光がわずかに差し込んでいる。静上は目を閉じ、また開けた。眠れないわけではなかった。ただ起きなければならないという感覚が体の中に充満していて、それが自然に意識を引き上げてきた。昨夜の計算が朝の薄暗がりの中でも頭の隅に張り付いていた。2300円、月に8000円、1日に270円。
布団を畳んで押し入れに収め、静上は顔を洗った。鏡に映った自分の顔を、いつもより少し長く見た。目の下のくまは浅い眠りの証拠で、口の周りに刻まれた縦じわは、疲れが少し深く見えた。白髪が増えてきている。根元の部分が以前よりも広い範囲を覆っていた。美容院には半年以上行っていない。静上は鏡台の引き出しを開け、古い染髪剤を取り出した。もう底をついていて、逆さにして指先で掬い取るようにして使っている。それを髪に少しつけてから、櫛で丁寧に溶かした。白髪混じりの髪を後ろで小さくまとめた。
服を選ぶのにいつもより時間がかかった。普段のパートに着ていく服は、洗いざらしのシャツと綿パンツだった。しかし今日は区役所の窓口に行くつもりでいた。区役所というのは1つの公的な場所であり、相手は公務員だ。普段の格好ではなんとなく見くびられるような気がした。それは理屈ではなく、長年の習慣から来る感覚だった。衣装ケースの一番下の引き出しを開けた。そこには普段使わない衣類が畳んで納めてある。薄い水色のブラウスと、濃い紺色のスラックス。夫の葬儀以来、数えるほどしか着ていない組み合わせだった。スラックスにはしばらく前につけてしまった小さな染みがあったが、目立たない場所だった。静上はそれを取り出し、軽く手で皺を伸ばした。アイロンをかけることにした。アイロン台を出し、コンセントを差し込んで温まるのを待つ間、静上はしゃがんでアイロンの底を確かめた。汚れはない。温度のメモリを綿の位置に合わせ、スラックスの折り目を丁寧に当てた。シュッという蒸気の音が静かな室内に広がった。ブラウスも襟と袖を特に念入りに伸ばした。着てみると多少くびれているが、きちんとして見える。靴はいつもの運動靴ではなく、黒い革靴にした。底のゴムが少し減っているが、表面は布で拭けばそれなりに光る。静上は台所の付近で靴の表面を拭き、少し光沢が出たのを確認してから靴箱に戻した。
朝食は昨日と同じ水で薄めたお粥だった。今日は塩の代わりに、残っていた梅干を1粒乗せた。梅干は市販の安いものだったが、赤い色が白いお粥の上に映えた。静上はそれを眺めながら、少しゆっくり食べた。
区役所が開くのは午前8時半だった。家から歩いて20分ほどかかる。静上は7時50分に部屋を出た。6月の朝はすでに蒸し暑かった。梅雨の合間の晴れ間というわけではなく、雲が厚く垂れ込めたままの空だった。日差しはないが湿度が高く、少し歩くと首筋に汗が滲んだ。静上は折りたたみ傘を持ち、黒い革靴で団地の坂道を降りていった。革靴の踵が地面を叩く音が、朝の静けさの中で一定のリズムを刻んだ。
区役所へ向かう道は、一度大きな幹線道路を渡らなければならない。歩道橋を使う方法もあるが、静上は段差の少ない横断歩道を選んで遠回りをした。交差点の信号が青になるのを待ちながら、ふと向かいの歩道に立っている老人と目があった。静上は目をそらした。互いにどこへ行くのかは知らない。それがこの年齢の人間同士の礼儀のようなものだと、静上は思っていた。
区役所は商店街の外れにある4階建ての建物だった。外壁が薄く汚れていて、正面の自動ドアのガラスに名称と営業時間が張り紙で示してある。静上は自動ドアが開くのを待って、ゆっくりと中に入った。冷房が効いていた。汗ばんだ首筋に冷たい空気が当たった。1階のロビーはすでに人でいっぱいだった。開庁直後だというのに、プラスチックの椅子が並ぶ待合スペースの半分ほどが埋まっていた。ほとんどが静上と同じかそれ以上の年齢の人間だった。皆、番号札を手に持って黙って前を見ている。誰も隣の人と話さない。誰も携帯電話を見ていない。ただ静かに自分の番を待っている。その静けさは、沈黙というより息を潜めているという感じに近かった。
入り口の近くに案内の係員が立っていた。30代くらいの女性で、名札に「宮田」と書いてある。静上は宮田に声をかけ、家賃の減額相談と生活支援の窓口を尋ねた。宮田は手際よく「4番窓口へどうぞ」と教えてくれ、番号発券機の場所を差し示した。番号札を引くと42番だった。現在の呼び出し番号を示す電光掲示板を確認すると17番だった。静上は開いている席を見つけて腰を下ろした。窓の列の壁に近い場所だった。隣には80代とおぼしき男性が座っていた。杖を膝の間に立てて、両手でそれを握ったまま目を閉じている。眠っているのか、たた目を閉じているのか分からなかった。その隣には60代後半の女性が、薄いコートを膝の上に畳んで置いていた。コートの生地が古く、袖口がほつれていた。女性は手の甲をじっと見ながら、時々指を組み換えた。静上は膝の上に置いたハンドバッグを両手でそっと抑えた。バッグの中には、相談用になると思って自宅から持参した書類が入っている。年金の振り込み通知書の直近3ヶ月分と、パートの給与明細、通帳のコピー、そして昨日来た家賃改定の通知書だ。役所の窓口というものは書類を求められるものだと、静上は知っていた。何も持たずに行って「書類を持ってきてください」と言われ、また出直すことになる人を、静上は若い頃に何度か見てきた。
電光掲示板の数字がゆっくりと進んだ。20番、21番。静上は視線を手元に落とし、ハンドバッグのホックを指先でなぞった。23番。ロビーの天井の空調が一定の音で回り続けている。24番。隣の老人が席を1つずらした。静上は少し身体をずらして、老人から遠ざかるように座り直した。30分ほどが経った頃、静上は背中がうっすらと痛くなってきた。椅子の背もたれが硬く、腰の部分に当たる場所が合っていない。それでも姿勢を正したまま、膝を揃えて待った。30番、31番。電光掲示板が進むたびに、待合の人数が少しずつ入れ替わる。帰って行く人がいて、新しく入ってくる人がいる。静上はそれを目の端で追いながら、視線は手元か床に向けていた。自分が誰かにじろじろと見られるのが嫌だったし、同時に、自分の方から人をじろじろ見ているように思われるのも嫌だった。
1時間が過ぎた。38番、39番。静上は膝の上のハンドバッグの位置をわずかに直した。冷房の冷気が、長く座っているうちに足首の辺りから染み込んでくるように感じられた。40番、41番、42番。電光掲示板に自分の番号が出た瞬間、静上は反射的に立ち上がった。それから一拍置いて、ゆっくりと4番窓口へ向かった。急いでいるように見せたくなかった。
4番窓口の椅子に腰を下ろすと、アクリル板の向こうに1人の女性職員が座っていた。30代後半くらいだろうか。「温田」と名札に書いてあった。髪を後ろでまとめ、薄い色のフレームの眼鏡をかけている。目の下にうっすらとくまがある。デスクの上には書類の束がいくつかあり、ディスプレイの画面が彼女の顔の横で光っていた。静上が席についても、温田はディスプレイから目を離さず、一度だけ静上の方を見てからまた画面に視線を戻した。
「少しお待ちください」と温田は言った。声は穏やかだが事務的だった。静上は待った。カチカチとキーボードを打つ音が続いた。1分ほどして、温田は画面の操作を終え、静上の方を向いた。
「本日はどのようなご相談でしょうか」と温田は言った。
静上は少し背筋を伸ばした。準備していた言葉を頭の中で確認してから、口を開いた。
「先日、市の住宅管理課から家賃改定の通知書が届きまして」と静上は言った。「来月から月額で2300円ほど上がるということで、それが少し、何と言いますか、生活の方が、その、難しくなってきましたので、何か減額のご相談ができればと思ってまいりました」
言いながら、静上はハンドバッグの中から書類を取り出し、アクリル板の下の隙間から温田の方へ差し出した。温田は書類を受け取り、1枚ずつ確認し始めた。年金の通知書を見た時、わずかに眉が動いた。給与明細を手に取り、金額の欄を確認した。通帳のコピーを最後に手に取り、残高の欄に視線を止めた。
「松崎様は現在公営住宅にお住まいで、パートのお仕事もされているということですね」と温田は言った。
「はい」と静上は答えた。
温田はキーボードに向かい、いくつかの項目を入力し始めた。画面の中でマウスが動いているのが、アクリル板越しに少しだけ見えた。入力が一段落したところで、温田は再び静上の方を向いた。
「少し確認させていただきたいのですが」と温田は言った。「ご世帯の状況について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
静上は頷いた。温田は現在の同居人の有無、家族の状況、他の収入源の有無などを順番に確認していった。静上は1つ1つに答えた。10年前に夫をなくしたこと。子供は息子が1人いて、東京で暮らしていること。収入は年金とパートのみであること。温田は全てを入力しながら、時々確認の言葉を返した。その表情は穏やかだが、業務的な距離感を保っていた。疲れているのが目元のわずかな緩みから分かった。おそらくこの種の相談を1日に何件もこなしているのだろう。
入力が終わったところで、温田は画面を確認してから静上の方を向いた。
「松崎様、通帳のコピーを拝見しますと、現在普通預金に30万円ほどの残高がございますね」と温田は言った。
静上の背中が少しだけ硬くなった。「はい」と静上は言った。
温田は続けた。「現在の規定では、家賃の減額申請や生活困窮世帯への支援制度の対象となるためにはいくつかの条件がございます。その1つが預貯金の保有額に関するものでして、30万円の残高がある場合、現時点では対象となる基準に達しておりません」
静上はその言葉をゆっくりと咀嚼した。「対象にならないということですか」と静上は言った。
温田は「はい」と答えた。声には、いつもこの種の説明をしている時のわずかな緊張感が混じっていた。「申し訳ないのですが、現在の残高では難しいということです」
静上はしばらく黙った。その30万円が何のお金なのかは言わなかった。言えなかった。夫が亡くなってから10年間、静上は毎月少しずつ積み立ててきた。パートの給与の中から食費を削り、電気代を節約し、外出を控え、それでも毎月少しずつその口座に入れてきたお金だった。使うためではなく、使わないために貯めてきたお金だった。自分が死ぬ時、葬儀の費用を息子に負担させたくなかった。それだけのために10年かけて積み上げてきた30万円だった。しかしそれを説明することは、静上にはできなかった。
温田が何か別の方法を提示するような素振りを見せた。温田はキーボードの横にある書類の束から1枚を取り出し、アクリル板の隙間から静上の方へ差し出した。
「松崎様、もし今後さらに生活が厳しくなった場合、生活保護の申請という制度がございます」と温田は言った。「いわゆる生活保護、生活扶助の申請です。こちらのパンフレットに概要が書いてありますので、よろしければご覧ください」
静上はパンフレットを受け取った。ただ、温田は続けた。「生活保護を申請する際には、いくつかの手続きがございます。その中に扶養義務者への照会というものがありまして」
「照会」と静上は繰り返した。
「はい」と温田は言った。「松崎様の場合、お子様がいらっしゃいますね。東京の方に。申請を受理した場合、こちらからお子様の住所へ、扶養できる状況にあるかどうかを確認する書類をお送りすることになります。これは法律上の義務でして、私どもとしても省略することができない手続きです」
書類を送る。息子に。静上の頭の中で、その言葉がゆっくりと形を持ち始めた。温田は淡々と説明を続けていた。「もちろん、お子様が扶養できる状況にないと判断された場合は、申請が進みます。ただ、まずその確認のステップが必要になるということです」
静上はパンフレットを膝の上に置き、その表面をしばらく見た。扶養照会という言葉を、静上は知っていた。正確に知っていたというわけではないが、それがどういうことを意味するのかは、体の感覚としては分かった。役所が息子の住所に手紙を送る。封筒を受け取った息子が開ける。中には「お母さんを養えますか」という意味の書類が入っている。静上はその場面を想像した。亮平が郵便受けから封筒を取り出す。区役所からという差出人を見る。首を傾げながら封を開ける。書類の内容を読む。そこから先を、静上は想像したくなかった。
温田がまだ何かを言っていた。静上にはよく聞き取れなかったが、書類の準備についての説明のようだった。静上は頷いた。ただ頷いた。それから静上は立ち上がった。動きは突然だったが、慌てているようには見せたくなかった。立ち上がる時、少しもたついて、膝の上のパンフレットが床に落ちた。静上は腰を曲げてそれを拾い、アクリル板の隙間から戻した。
「大丈夫です」と静上は言った。声が少し震えた。「まだ自分でやっていけますので、ご心配なく。お手数をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
温田が何か言いかけたが、静上はすでに立ち上がり、ハンドバッグの持ち手を両手で握って椅子を引いていた。「ありがとうございました」ともう一度言って、深く頭を下げた。それから、できるだけ自然な足取りで窓口から遠ざかった。
廊下を歩きながら、静上は息をゆっくりと吐いた。胸の奥で何かが波打っていた。恥ずかしいという感覚と、惨めだという感覚と、それらを悟られたくないという感覚が入り混じって、どれがどれか分からなくなっていた。出口に向かう途中、待合スペースの前を通った。先ほど自分が座っていた窓際の席には、別の老人が座っていた。杖をついた女性で、膝の上に番号札を握っている。静上は視線を正面に固定したまま、その横を通り過ぎた。
自動ドアを抜けると、外の湿った空気が顔に当たった。先ほど感じた冷房の冷気が一瞬で溶けていった。静上は区役所の建物の前に立ち、しばらく動けなかった。どこか日陰に行こうと思い、近くにあった自動販売機の横の、わずかに日陰のある場所まで歩いた。自動販売機の脇に立ち、鞄の中に書類をしまい直した。年金の通知書、給与明細、通帳のコピー。1枚ずつ折り目を合わせて封筒に入れた。丁寧にやらなければと思うほど、指先が言うことを聞かなかった。通帳のコピーを封筒に入れる前に、一瞬だけ残高の欄に印刷された数字を見た。30万円。自分の葬式代だと静上は思った。もし私が明日死んでも、息子に1円も出させないために10年かけて作った30万円だ。その30万円があるから、支援は受けられない。その30万円を使い果たしたら、支援を受けられる。しかしそのためには、息子に手紙を送ることになる。静上は封筒を鞄の中に入れ、ファスナーを閉めた。自動販売機の前を通りかかった男性が何かを買おうとして立ち止まり、静上の存在に気づいてから、少し遠慮がちに小銭を入れた。静上はすぐにそこを離れた。
帰り道は来た道とは少し違う道を通った。理由はない。ただ来た道をそのまま帰るのが、なんとなくできなかった。どこかへ向かいたいわけでも、寄り道をしたいわけでもなかった。ただ同じ道を踏み返して家に帰るということが、今は難しかった。商店街の端を通り抜けた。午前の商店街はまだ人が少なく、八百屋の店先に積まれたキャベツが湿った空気の中で青々としていた。静上は歩きながらその値段を横目で確認した。1玉128円。先週より10円安い。しかし今日は買う予算がない。ただ確認しただけだった。
薬局の前を通った時、ウィンドウに貼り出された案内に目が止まった。血圧計の無料測定コーナー。毎週火曜日と木曜日、午前10時から午後まで。今日は火曜日だった。静上は立ち止まり、ウィンドウのガラスを通して店内を確認した。椅子と測定機が1台置いてある。誰もいない。静上は店に入った。血圧を測りたいという動機が本当にあったわけではなかった。ただ座れる場所に行きたかった。無料の椅子があれば、理由なく立ち寄ることができる。店員は奥でレジに立っている20代の女性だけで、静上が入ってきたことに気づいていなかった。静上は奥に声をかけることなく、測定コーナーの椅子に腰を下ろし、測定機に腕を入れた。ボタンを押すとカフが膨らんで締めつけてきた。それがゆっくりと緩んでいく感覚を、静上は黙って感じた。測定結果が表示された。上の血圧が132、下が79。少し高めだが、静上には以前からのことで、驚くような数字ではなかった。静上はその椅子にもう少しだけ座っていた。店内の冷房は穏やかで、区役所のそれより優しかった。
団地に戻ったのは正午を少し過ぎた頃だった。エレベーターを使った。今日だけはと思って、階段を登る気力が今は出なかった。部屋に入ると、朝のままの空気が残っていた。アイロンをかけた後の、かすかな熱と布の匂いがした。静上は革靴を脱ぎ、水色のブラウスとスラックスを丁寧に脱いでハンガーにかけた。皺を手で伸ばし、衣装ケースの横にかけた。普段の綿パンツとシャツに着替えてから、やっと息をついた。台所で麦茶をいっぱい飲んだ。冷蔵庫の中の麦茶は、昨日作ったものが残っていた。コップを両手で包んで、立ったまま飲んだ。冷たい液体が食道を通っていく感覚が分かった。
昼食を作る気になれなかった。冷蔵庫に卵が2個あった。それだけだった。目玉焼きを作って食べることもできたが、それをする手順を考えるとなぜか億劫だった。結局、乾いたクラッカーを食器棚から取り出して食べた。お茶と一緒にゆっくりと噛んで飲み込んだ。食べながらこたつ台の前に座って、区役所でもらったパンフレットのことを思い出した。あれは温田に返してしまった。いや、正確には落としたものを温田が受け取ったのだ。手元には何もない。ただ、あそこに書いてあったことの輪郭だけが頭の中に残っていた。生活保護、扶養照会。息子への書類。静上はクラッカーの最後の1枚を口に入れ、よく噛んだ。窓の外では雲が低く垂れ込めたままだった。梅雨の曇り空で、部屋の中は昼間だというのに薄暗かった。静上は電気をつけようかと思ったが、やめた。
その後数日が経った。静上は何も買えなかった。区役所での相談をなかったことにしようとしていたわけではない。ただ、あそこで提示された選択肢がどれも自分には取れないものだったという事実が、ただそこにあった。パートは続けた。毎朝決まった時間に起きて、白いシャツにアイロン掛けして、自転車預かり所に出勤した。雨の日も曇りの日も、夕方の湿気の中で、静上は決まった場所に立って決まった仕事をこなした。
ある日の昼休み、山田が新しいコンビニのおにぎりの話をした。限定の具材が入っているらしく、150円するがうまいのだと言った。静上は「そうですか」と相槌を打ちながら、心の中で計算していた。150円は、今の自分には中食1回分の予算より高い。別の日には、若い女性のパートスタッフが来月からシフトを増やして欲しいと主任に話していた。静上はその会話を耳の端で聞きながら、自分もシフトを増やして欲しいと言えないだろうかと一瞬考えた。しかし言えなかった。74歳の自分が「もっと働かせて欲しい」と言うことが、管理者にとって迷惑にならないかどうか分からなかった。
夜は薬を飲んで早めに布団に入った。眠れる夜と眠れない夜が続いた。眠れない夜は計算をした。数字を頭の中で並べ、削れるものを探した。電気代、水道代、食費。どれもすでに限界に近い。30万円のことは毎晩考えた。その30万円に手をつけることを、静上は感情として考えたくなかった。感情としてというのは正確な表現かもしれない。感情的な執着というよりも、もっと奥の方にある、論理を超えたところにある種の決意だった。あのお金は自分が生きている間は使わない。死んだ時のために置いておく。それが静上の中で10年かけて固まったルールだった。
しかし月末に通帳を確認すると、残高が少しずつ減っていた。節約しているにも関わらず、光熱費と薬の支払いで毎月小額ずつ預金が削られていた。このまま行けば、いつかその30万円も底をつく。その時、静上はもう一度あの窓口に行かなければならなくなる。そして温田はまた扶養照会の話をするだろう。
ある夜、静上は布団の中で携帯電話を持った。先日と同じように、亮平の番号が画面に呼び出した。今回は通話ボタンを押す前に、しばらくその番号を見つめた。亮平が最後に送ってきたメールは3週間前だった。内容は短く、「体は元気か」という一文と、「仕事が落ち着いたら電話する」とそれだけだった。静上はそのメールを何度か読み返し、返信に何を書けばいいか分からなくて、結局「元気です」と3文字だけ打って送った。息子に電話して、何を言うつもりだろうと静上は思った。お金が足りないとは言えない。生活が苦しいとも言えない。区役所に行ったが、扶養照会が必要だから断ってきたなどとは、絶対に言えない。では、何のために電話するのか。声を聞くためという答えが、しばらく経ってから浮かんできた。ただそれだけのために電話することが、母親として情けないことなのかどうか、静上には判断できなかった。画面を消した。携帯電話を枕元に置き、布団を引き上げて目を閉じた。
朝は5時半に目覚める。お粥を作る。薄い塩味をつけて食べる。テレビをつけてすぐ消す。アイロンをかける。靴を確認して出かける。仕事場で自転車を拭く。利用者に頭を下げる。雨の日はカッパの袖の亀裂から水が入る。昼休みに水筒のお茶を一口飲む。夕方に終わる。スーパーによる。8時を待って半額シールを探す。必要なものだけを買う。家に帰る。食べる。薬を飲む。布団に入る。その繰り返しが続いた。
ある晴れた朝、駐輪場の屋根からツバメが飛び立つのを見た。巣は梁の上にあって、ひなの声が聞こえた。静上はしばらく見上げていたが、それだけだった。何かが解決したわけではなかった。何かが動いたわけでもなかった。ただ毎日が過ぎていった。そして通帳の残高は、少しずつ確実に減り続けていた。
8月に入ると、空気がまるで変わった。梅雨の間中続いていた湿気が7月末を境に乾いた熱へと置き変わり、アスファルトの上に立っているだけで足の裏から熱が登ってくるような日が続いた。駅前の自転車預かり所には屋根があったが、それは日差しを遮るだけで、熱気そのものを防ぐ力はなかった。風が止まると、静上の首の後ろに汗が流れ、シャツの襟の裏側が濡れた。
管理会社からの連絡が来たのは7月の最終週だった。所長の中野という50代の男性から電話で、手短に、事務的に告げられた。来月から駅前の自転車預かり所の運営委託先が変更になる。新しい業者がコスト削減のため、スタッフのシフト数を見直すことになった。「松崎さんには、週5日から週2日のシフトに変更をお願いしたい」静上は電話を持ったまま、しばらく黙った。中野の声は申し訳なさそうではあったが、決定事項を伝えているだけの声だった。変更の余地はないということが、その声の平坦さから伝わってきた。静上は「分かりました」と言った。「よろしくお願いします」と言った。電話を切ってから、携帯電話をテーブルの上に置いた。週5日が週2日になる。月に換算すると、パートの給与がおよそ3分の1以下になる。数字を頭の中で並べるまでもなく、それが何を意味するかは体で分かった。先月まで薄氷の上を何とか踏み渡っていた生活が、今度こそ本当に破れなくなる。静上は手帳を取り出した。いつもの計算をした。年金と新しいシフトでの給与を足して、家賃と光熱費と薬と通信費を引いた。手元に残るのは、計算上ではマイナスだった。鉛筆を置いて、しばらくテーブルの上の手帳を見た。数字に間違いはない。計算が合っているということが、間違っていて欲しかった。
8月が始まった。静上はまず昼食を抜くことにした。朝食を薄いお粥にして、乾いたクラッカーと一緒に入れて、午後まで持つことは分かっていた。空腹は最初の2日ほどは気になったが、3日目以降は慣れてきた。胃が空っぽの時に感じる、薄い吐き気が広がるような感覚を、静上は意識しないようにした。仕事中は動いているので、むしろ空腹を感じにくい時間があった。仕事のない日の昼間だった。テレビをつけると料理の映像が流れることがある。それを見ていると胃の奥から何かが動き始めた。静上はそういう時に限ってチャンネルを変えた。
夕食は続けた。ただし1食の量をさらに絞った。鮭のアラや切り落とし肉の安いのを半額で買って、大根や豆腐と一緒に煮込んだ。その煮物を翌日の夕食にも使う。2日分にする。1鍋を2日で食べ終えれば、食材費が半分になる。その計算通りに実行すると、1日の食費が60円前後に収まる日もあった。大根は1本買うと長持ちする。豆腐は小さいパックより大きいパックの方が割安だが、1人では食べきれないので小さいパックにする。もやしは1袋35円で、炒めると量が増える。卵は6個入りのパックを買って、1日1個以内に収める。静上は買い物の度にそういった計算を頭の中でしていた。計算そのものはもう何年もやっていることで、慣れた作業だった。ただ以前は計算の中に少しだけ余裕があった。安売りの日にまとめて買うとか、好きな種類の豆腐を選べるとか、それくらいの余裕だ。今はその余裕が完全になくなった。
夜になると空腹感が戻ってきた。布団の中で胃が鳴ることがあった。静上はその度に水をいっぱい飲んだ。水道水は無料だった。いっぱい飲んで横になると、胃の動きが少し落ち着いた。そのまま目を閉じた。眠れる夜は眠った。眠れない夜は、水をもういっぱい飲んだ。
薬の量が気になり始めた。就寝前に飲む市販の睡眠補助薬は、一袋6錠入りで1600円していた。以前は月に1袋あれば足りていたが、眠れない夜が続くと1ヶ月持たなくなってきた。節約のために、1日に飲むのを試みた。しかし薬を飲まない夜は2時間おきに目が覚めて、夜明け前には完全に覚醒してしまった。翌日の仕事中に眠気が来て、判断が鈍くなった。自転車を整列させる時、列が少し曲がっていることに気づくのが遅れた。結局、薬は毎晩飲むことにした。ただし1錠を1/2に割って服用した。錠剤を包丁の背で割るのは難しく、2回に1回は粉々になった。粉々になった薬は、湿った指先で掻き集めて口に入れた。
8月の半ばを過ぎると、連日の最高気温が36度を超えた。駅前の自転車預かり所は東向きに開いた作りになっていて、午前中は日が当たらないが、午後になると西日が横から差し込んできた。屋根があっても風がなければ熱気がこもった。静上は週に2日しか出勤しなくなっていたが、その2日がたまたま午後のシフトに集中していた。仕事に来ているのは、もう1人のパートの五藤という60代の男性と、新しく入った若い女性だけだった。五藤は静上と同じくらいの時間から働いていたベテランで、2人は無言のうちに仕事の分担を理解し合っていた。若い女性は覚えが早く、静上が説明する前に動くことが多かった。
ある昼過ぎ、静上が濡れたタオルで自転車のサドルを拭いていると、視界の端がぼんやりとしてきた。最初は日差しのせいだと思った。目を細めて日陰の方を向いた。しかしぼんやりとした感覚は消えなかった。それどころか、少しずつ広がっていった。足元が遠くなるような、地面から切り離されていくような感覚が、じわじわと体の下から登ってきた。静上は濡れタオルを持ったまま、近くにあった柵に手をかけた。頭が重い。耳の奥で低い音がしている。心臓が普段より少し早く打っている。静上はそれを感じながら、深呼吸を一度した。大丈夫だと自分に言い聞かせた。少し立ちくらみがするだけだ。水分が足りないのかもしれない。水筒を取りに行こうとして、一歩踏み出した時、膝から力が抜けた。床に手をついたのか、それとも柵を掴んだのか、静上にはよく分からなかった。気づいた時、自分が自転車預かり所の隅のコンクリートの床に横向きに座り込んでいた。
「松崎さん」五藤の声が聞こえた。「大丈夫ですか?」若い女性の声も聞こえた。静上は声を出そうとしたが、最初は声にならなかった。唇が乾いていた。「大丈夫です」とようやく出た声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。五藤が腕を支えてくれて、静上は立ち上がろうとした。しかし膝に力が入らず、一度では立てなかった。五藤が引き上げてくれた。静上は恥ずかしかった。こんなことでと思った。ただの立ちくらみなのに。
スタッフ用の休憩室は建物の裏側にある狭い部屋で、折りたたみ椅子とプラスチックのテーブルが置いてあった。五藤が冷たい麦茶を持ってきてくれた。静上はそれをゆっくりと飲んだ。冷たい液体が喉を通ると、少しずつ視界が戻ってきた。
「大丈夫ですか」と五藤が再び言った。
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」と静上は言った。「今日、帽子を被り忘れてしまって。それだけで」と続けながら、無理に笑みを作った。帽子が原因ではないことは、静上には分かっていた。今朝、食は乾いたクラッカーを2枚食べただけだった。昨夜はほとんど眠れなかった。水分も午前中に水筒のお茶を半分飲んだだけで、補給が足りていなかった。その積み重ねがあの瞬間に出てきた。でもそれを五藤に言う必要はなかった。
五藤は「そうですか」と言って、麦茶の入ったコップをテーブルに置いた。「しばらく様子を見た方がいいですよ」と言い、若い女性に仕事を任せて、自分も少し休憩室に残ってくれた。五藤はタバコを1本取り出し、「外で吸ってきます」と言い残して出ていった。気を遣ってくれているのだと静上には分かった。1人にしてあげた方がいいと判断してくれたのだ。
休憩室の壁にシフト表が張ってあった。先月まで静上の名前が週5日並んでいた場所に、今は週2日しか名前がない。その横の欄に、新しいスタッフの名前が週4日埋まっていた。静上はコップの麦茶を最後まで飲み、折りたたみ椅子の背に凭れた。天井の蛍光灯が白く光っている。目を閉じると、まぶたの裏が赤かった。
管理者の主任が様子を見に来た。30代の男性で、名前は橋本と言った。「大丈夫ですか?今日は上がっていいですよ」と言った。
「いいえ」と静上は言った。「あと1時間で終わりますので、続けます」
橋本は少し困ったような顔をしたが、「無理しないでください」と言い残して出ていった。静上は5分ほど休んでから立ち上がった。足元はしっかりしていた。顔が熱いのはまだ続いていたが、動けないほどではない。休憩室を出て、仕事に戻った。若い女性が静上を見て「いいんですか?」と声をかけた。「ええ、もう大丈夫です」と静上は答えた。「ありがとうございます」と付け加えた。残りの1時間を、静上は壁際で自転車の鍵の管理をする作業に集中した。体を動かす必要が少ない仕事だった。
仕事が終わり、帰り道を歩いていると、足が重かった。炎天下の下を歩くのとは違う重さで、関節ではなく体の芯の部分が疲れている感覚だった。静上はいつも20分かけて歩く道を、今日は少し時間がかかりそうだと感じた。歩道の日陰の部分を選んで、ゆっくりと歩いた。団地の坂道が見えてきた時、目を細めた。建物の入り口の前に人が立っていた。男性だった。こちらに背を向けて、タバコを持っている。その立ち方に静上は覚えがあった。肩の落ち方と、足を開いて立つ姿。亮平だった。
静上は足が止まった。3年ぶりだった。最後に顔を見たのは3年前の正月で、その時も亮平は1泊だけして東京に帰った。今回は何も連絡がなかった。メールも電話もなく、突然ここに立っている。亮平がタバコの煙を吐き出しながら振り返った。母親の姿を見て、一瞬だけ表情が動いた。痩せたと思ったかどうか、静上には分からなかった。
「母さん」と亮平は言った。
静上は歩き出した。胸の中で何かが動いたが、それを表に出す隙間はなかった。まず疲れを見せてはいけない。体の様子を悟られてはいけない。仕事から普通に帰ってきた母親でなければならない。
「亮平」と静上は言った。「いつの間に。連絡してくれればよかったのに」
「急に思い立って」と亮平は言った。声は低く、くもっていた。顔色が悪かった。頬がこけていて、顎に数日分の無精髭が生えている。目の下のくまが深い。
「上がって」と静上は言った。部屋のドアを開けた時、静上は一瞬、室内を意識的に見回した。汚れているわけではない。毎日掃除している。しかし、殺風景だということは分かった。こたつ台の上に手帳と薬の袋が出ている。冷蔵庫の扉に今月の光熱費の請求書がマグネットで止めてある。電気を節約するために昼間もカーテンを半分閉めているので、室内がやや薄暗い。静上はすぐに動いた。手帳と薬の袋を引き出しの中に入れた。請求書を冷蔵庫から剥がして、衣装ケースの上のファイルに挟んだ。カーテンを少し開けて、部屋を明るくした。麦茶を冷蔵庫から出してコップに注ぎ、亮平の前に置いた。
亮平は部屋を見回しながら、椅子に腰を下ろした。こたつ台に肘をついて、手を組んだ。指の関節が白くなるくらい強く組んでいた。
「仕事はどう?」と静上は聞いた。声を明るくした。自分でも少し作り物のような明るさだと感じた。
亮平はコップを手に取り、麦茶を一口飲んだ。それから答えた。「まあ」と言っただけだった。
「食事は?」と静上は言った。
「食べてる」と亮平は言った。
静上は亮平の顔を見た。頬骨が前より出ている。首が細い。3年前より確実に痩せている。
「ご飯食べていきなさい」と静上は言った。亮平は頷いた。
静上は財布を取り出した。今月の残りの現金を確認した。1万円札が1枚、5000円札はない。1000円札が2枚。合計1万2000円。これが今月残りの全生活費だった。静上はそれを見つめてから、1万円札を取り出した。
「近くのスーパーまでちょっと行ってくる」と静上は亮平に言った。
「俺が行くよ」と亮平が言いかけた。
「いいの」と静上は言った。「すぐ戻るから」亮平は止まらなかった。
外に出ると、日差しはまだ強かった。夕方の5時を過ぎていたが、8月の西日は容赦がなかった。静上は早足でスーパーへ向かった。先ほど倒れかけたことを、足は覚えているようだった。少し歩くと、膝の裏側に力が入りにくい感じがある。それを無視して、静上は歩き続けた。スーパーの入り口に入ると、冷房の空気が体を包んだ。静上は一度深呼吸をして、売り場を歩いた。今日は半額シールを待たなかった。まだ夕方の早い時間で、精肉コーナーの商品には値下げのシールしか貼っていない。静上はそれでも構わなかった。いや、正確に言えば、構っている場合ではなかった。亮平のために、ちゃんとしたものを出したかった。マグロの中トロのパックを手に取った。1300円だった。普段なら絶対に手が届かない値段だ。静上はそれをカゴに入れた。隣のスペースにあったサーモンの握り寿司のセットも見た。980円。それもカゴに入れた。ビールを買わなければと思い、飲料コーナーへ向かった。亮平はビールが好きだった。以前からそうだった。缶ビールの6本パックを1つ取った。合計でレジで3500円を超えた。静上は1万円札を出した。釣り銭を受け取って財布に入れながら、今月の残りがいくらになったか自動的に計算した。計算しなければよかったと思ったが、もう計算してしまっていた。
部屋に戻ると、亮平は同じ姿勢でこたつ台に肘をついていた。静上は台所に立ち、買ってきたものを並べた。寿司のパックを皿に移し、マグロの中トロを小皿に並べた。ビールを冷蔵庫に入れて、一本取り出して亮平の前に置いた。
「食べましょう」と静上は言った。
亮平はビールのプルタブを引いた。一口飲んでから、ため息のような息を吐いた。2人はこたつ台の前に向かい合って座った。静上は箸を取り、寿司を亮平の方へ向けた。「どうぞ」と言った。亮平は1つ取って食べた。しばらく2人は黙って食べた。静上は亮平のコップが空になるとすぐに気づいた。次のビールを取り、コップに注いだ。亮平は何も言わなかった。
「最近どう?」と静上は言った。「東京は暑いでしょう」
「暑い」と亮平は言った。
「仕事は変わりなく?」と静上は言った。
亮平は少し間を置いた。「まあな」と答えた。
「体は元気?」と静上は言った。
「うん」と亮平は言った。言葉の応答はそれだけだった。テレビをつけなかったので、2人が食べる音と、缶ビールをテーブルに置く音だけが部屋に流れた。窓の外から夕方のセミの声が聞こえた。静上は亮平の顔をできるだけ見ないようにしながら、様子を観察していた。箸の動きが重い。食べているが、味を感じていないような食べ方だ。ビールを飲む速度は早い。3本目を開けた。亮平が食べる量は多くなかった。半分以上残した。静上は自分の分として取り分けた寿司をゆっくりと食べながら、何も言わないことにした。亮平が何かを言いに来たのは分かっていた。急に思い立ってくるような用事が息子にあるとしたら、いい用事のはずがないことも分かっていた。ただ静上は待つことにした。亮平が話す準備ができるまで、待つことにした。
ビールの4本目が開いた。亮平がビールを飲み干し、空缶をテーブルに置いた。そのままテーブルの表面を見つめていた。しばらく沈黙が続いた。静上は箸を置いた。亮平が顔を上げずに、ゆっくりと口を開いた。
「母さん」と言った。声が少し変わっていた。喉の奥から出てくるような、押し殺した声だった。
「何?」と静上は言った。声を平静に保った。
「金、貸して欲しいんだけど」と亮平は言った。テーブルの上の空缶が、セミの声の中に浮いているようだった。静上は動かなかった。動けないのではなく、まず一拍置くことにした。亮平は続けた。「30万」と言った。声が低くなった。「契約社員の契約が今月で切れた。更新してもらえなかった。それでクレジットカードを生活費に使ってて、それが限界になって。来週、取り立てが部屋に来て、連絡が来た」亮平が顔を上げた。目が赤かった。「それだけじゃなくて」と亮平は続けた。「家賃も2ヶ月滞納してる。大家に言われてる。来月払えなかったら出て行ってくれって」
静上は亮平の目を見ていた。
「30万あれば、まずカードの方を片付けて、あとは家賃の1ヶ月分は払える。残りは次の仕事が決まるまでの生活費にする。絶対返す。次の仕事が決まったら、必ず返す」亮平がまた目をそらした。テーブルの上を見た。
静上はその顔を見ながら、手の中の箸のことに気づいた。箸を持ったまま、指に力が入っていた。手がわずかに震えているのは、疲れているからか、それとも別の理由からか、自分でも分からなかった。部屋の中が突然静かに感じられた。セミの声が遠くなった。静上の頭の中に数字が浮かんだ。30万円。通帳の中にあるあの30万円。10年かけて積み上げてきた、自分が死ぬための準備金。そして今月の残り生活費。スーパーで使った3500円を引いた後の数字。静上は箸を置いた。亮平が静上の方を見た。静上は息子の顔をもう一度見た。頬の削げ具合、目の下のくま、無精髭の伸び方。ここまで来るのに、何週間ためらったのだろうと思った。来るまでに、どれだけのものを抱えていたのだろうと思った。自分の今日の倒れかけたことは、亮平には分からない。昼食を抜いていることも、薬を半分に割って飲んでいることも、先月の家賃通知のことも、区役所の窓口で断ってきたことも、何も亮平には言っていない。
「分かった」と静上は言った。亮平がゆっくりと顔を上げた。「通帳から下ろしてくる」と静上は続けた。声が揺れないように注意しながら、普通に言った。「明日、銀行が開いたら行ってくる」
亮平の口が少し開いた。それから閉じた。また開いて、「ありがとう」と言った。それだけ言った。静上は頷いた。それから箸を手に取り、皿の上の残った寿司を1つ、手元に引き寄せた。
「食べなさい」と言った。「冷めないうちに」
2人はまた黙って食べた。
亮平は夜の9時過ぎに部屋を出た。最終の新幹線に間に合わせなければならないと言った。静上は玄関まで送り、ドアを開けた。亮平は廊下に出てから振り返って、静上の顔を見た。
「体、大丈夫か?」と亮平は言った。
なぜそれを聞くのだろうと思ったが、静上は顔に出さなかった。「大丈夫よ」と言った。「元気にやってる」
亮平は少し何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。「うん」とだけ言って、廊下を歩き出した。静上はドアが閉まるまで、廊下の方を見ていた。亮平の背中がエレベーターのところで止まり、ボタンを押し、扉が開いて、その中に消えた。静上はドアを閉めた。
部屋に戻ると、こたつ台の上に空缶が4つ並んでいた。皿の上に食べ残しの寿司が3個ある。買ってきた1万円分の食事が、半分以上残っている。静上はまず缶を集めて、きれいに洗った。潰してから、缶のゴミ袋に入れた。皿の残りは蓋をして冷蔵庫に入れた。明日の夕食になる。台所を片付け終えてから、静上は椅子に座った。財布を取り出した。今月の残りの現金を数えた。1万円を使ったので、2000円しかない。残り2000円で月末まで乗り切らなければならない。明日、銀行に行く。30万円を下ろす。それを亮平に渡す。渡した後、通帳の残高は0になる。静上はしばらく財布の中の2000円を見ていた。怒りがあるかと言われたら、ないとは言えなかった。しかし怒っているという感覚とも、少し違った。自分の体の奥底にある何かが、静かにずれていくような感覚だった。10年間少しずつ積み上げてきたものが、一晩で消える。それを自分の手で決めた。決めたのは自分だ。亮平に頼まれたのは本当だ。しかし渡すと決めたのは自分だ。渡さないという選択肢もあった。しかし静上にはそれができなかった。できなかった理由を言葉にするとしたら、何と言えばいいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、あの目を見たら、渡さないという言葉が出なかった。それだけだった。
薬を飲む時間だった。静上は引き出しから薬の袋を出した。いつものように錠剤を包丁の背で半分に割ろうとした。しかし今日は割らずに、そのまま一錠飲んだ。今夜だけは、ちゃんと眠りたかった。布団を敷いて中に入った。天井を見上げながら、静上は明日の銀行までの手順を確認した。朝9時に開く。家から10分ほど歩く。通帳と印鑑を持っていく。30万円を下ろす。それだけだ。それだけのことだ。目を閉じると、今日倒れかけた時の感覚が少し戻ってきた。床に手をついた時のコンクリートの冷たさ。膝から力が抜けていく感覚。大丈夫だと静上は思った。明日は銀行だけ行けばいい。仕事はない。ゆっくり行けばいい。薬が効いてきた。意識がゆっくりと薄れていった。外は静かだった。セミの声はもう止んでいた。どこか遠くで電車の走る音がした。それが次第に遠ざかっていくのを、静上は聞きながら眠りに落ちた。
翌朝、静上は7時に目が覚めた。昨夜より随分眠れた。体が少し軽かった。顔を洗い、薄いお粥を作って食べた。食べながら、通帳と印鑑の場所を確認した。通帳は衣装ケースの2段目に、布の巾着袋に入れて保管してある。印鑑はその隣の小箱の中だ。9時少し前に家を出た。銀行は商店街の途中にある地方銀行の支店だった。外壁が白く、入口のガラスに青いロゴが貼られている。朝の9時の開店直後は、手続きをする高齢者が多く、ATMも窓口も混む。静上は数年前からそのことを知っていて、9時の5分前に着くようにしていた。ガラス越しに中の従業員が準備をしているのが見えた。9時になると、自動ドアがゆっくりと開いた。静上はATMの前に立った。通帳を入れ、暗証番号を押した。引き出し金額の入力画面が出た。「30万円」と静上はボタンを押した。機械が少し間を置いてから、確認画面を表示した。「30万円の引き出し。はい」と静上はボタンを押した。お札が出てくる音がした。静上は封筒に入った紙幣の束を受け取った。100枚、1枚、1枚が1000円札ではなく、1万円札だった。30枚で30万円。静上はそれを財布に入れた。財布が膨らんだ。残高確認のボタンを押した。画面に表示された残高は347円だった。静上はその数字を見た。347円。手数料などが引かれた後の、本当の残高。通帳を取り出して、機械から離れた。後ろに人が並んでいた。静上は「ありがとうございました」とATMに向かって頭を下げてから、出口の方へ歩いた。
その日の午後、亮平が再び団地に来た。昨日と同じ服を着ていた。泊まる場所がなかったのか、あるいはどこかで夜を過ごして朝から来たのか、静上には聞かなかった。静上は財布から紙幣の束を取り出し、亮平の前に置いた。
「数えて」と言った。
亮平は封筒を受け取り、机の上で数えた。「30枚」と言った。
「30万」と静上は言った。
亮平は封筒を鞄の中に入れた。それから手を膝の上に置いて、静上の方を向いた。「ありがとう」と亮平は言った。声が少し詰まっていた。「絶対返す」と続けた。静上は頷いた。
「いいのよ」と静上は言った。「困った時のためにあるお金だから」
亮平は何かを言いかけた。唇が動いたが、言葉にならなかった。それからまた頭を下げた。
「気をつけて帰ってね」と静上は言った。
亮平は部屋を出た。今日は昨日より早かった。静上はドアが閉まる音を聞いた。廊下の足音が、エレベーターの方へ遠ざかっていった。静上は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
夜、静上は通帳を手帳の横に置いた。開いて、残高のページを見た。347円。手帳を開いた。今月の残り日数。来月の年金振り込み日。パートの次のシフト。年金が振り込まれるまで、まだ3週間ある。財布には、今日ATMから出なかった残りの2000円がある。合計で2347円が、手元にある全財産だった。食費、電気代の日割り、水道代の日割り。来月の家賃は年金から払う。ギリギリではあるが、不可能ではない計算だった。ただし、また昼を抜いて、薬を半分にして、スーパーの半額シールを待って、それを全て続けることが前提の計算だった。静上は手帳を閉じた。いつかは底をつく。以前から思っていた。通帳の30万円を使えば、支援を受けられると温田は言っていた。使い果たしたら、また窓口に行ける。今度は拒否する理由がない。しかしそのためには、扶養照会が来る。亮平への手紙が、区役所から届く。30万円を受け取ったばかりの亮平のもとに、区役所から「お母さんを養えますか」という書類が届く。静上は目を閉じた。考えたくないことは、考えないことにした。今夜は考えないことにした。
窓の外が暗くなっていた。団地の街灯が点って、廊下の光が窓ガラスにうっすらと映り込んでいた。静上は薬を半分に割った。今夜からまた節約だ。包丁の背で静かに押すと、今日はうまく割れた。錠剤を水と一緒に飲み込んだ。布団を敷いて横になった。天井の染みを見ていると、その形がいつの間にか少し変わったように見えた。気のせいかもしれない。雨の音はしなかった。風もなかった。夜の団地は静かだった。静上はゆっくりと息を吸い、吐いた。今日1日が終わったと思った。明日も来る。
9月になった。亮平が部屋を出てから、もう3週間が経った。あの日以来、連絡はない。メールも電話も。静上も、亮平の方からもかけなかった。かける理由が思い当たらなかった。30万円を渡したこと。それについて何か言葉のやり取りをする必要があるとは思わなかった。渡すと決めたのは自分で、亮平は「ありがとう」と言った。それで終わりだ。
9月の空は8月の空より少しだけ高くなる。風に、夏とは違う乾いた感触が混じり始める。それでも日中はまだ暑く、昼過ぎの日差しはアスファルトの上で揺れていた。静上は週2日のパートを続けた。月に8日だけの出勤で、給与は月2万円を切った。以前の3分の1以下だった。年金と合わせて、合計でギリギリ10万円をわずかに超える程度の収入になった。家賃と光熱費と薬代と通信費を引くと、手元にはほとんど何も残らない。食費は月に5000円以内に収めることを、静上は自分に課した。1日あたり160円。その計算をしてから、静上は鉛筆を手帳に戻した。160円でどう食べるかを、また頭の中で組み立て始めた。
朝食は毎日、水で作る薄いお粥だった。米を少量だけ解いて、水を多く入れて炊く。そうすると少ない米で量を増やすことができる。塩を少し振る。梅干は1粒を3回に分けて使う。1粒を半分に割り、その半分の半分を粥に乗せて食べる。残りはラップで包んで冷蔵庫に入れる。翌朝また使う。梅干1粒で3日分になった。昼食は引き続き抜いていた。水を飲むことにした。仕事のない日は、コップに麦茶を入れてゆっくり飲みながら、午後をやり過ごした。お腹が鳴っても、次の食事は夕食と決めていた。腹が鳴る音を聞きながら、何か別のことを考えた。掃除をする。手帳の整理をする。先月の光熱費の請求書をファイルに挟み直す。どれも大して時間のかかることではなかったが、やることがあるだけでいくらか気が紛れた。
夕食は、スーパーの半額シールを待って買った食材を使った。もやしは1袋35円で、炒めると量が増える。大根はまとめて煮て、3日かけて食べた。鮭のアラが安い時は買った。豆腐は小さいパックより大きいパックが割安だが、1人では食べきれないので小さいパックにした。冷蔵庫の温度を一番弱くして、食材をできるだけ長持ちさせた。
ある日、いつも行くスーパーの閉店間際に寄った時、弁当コーナーの棚が空になっていた。売れ残りがなかったのか、それとも早めに引き上げられたのか分からなかった。仕方なく、隣の棚にあった乾麺の袋を1つ買った。素麺だった。108円、7束入っている。これを3日に分けて食べれば、1食36円になると静上は計算した。その晩、素麺を茹でて、醤油と少しのすりごまで食べた。量は少なかったが、温かい茹で汁を飲むと胃が少し落ち着いた。
9月の末、携帯電話の料金を払えなかった。支払日は毎月25日で、口座振り替えだった。しかし口座には残高がなかった。通帳の残高は347円のまま、1ヶ月が経っていた。年金の振り込みが月始めにあったが、その月の家賃が先に引き落とされて、手元に残ったのは光熱費と薬だけをかろうじて賄える額だった。2日後、スマートフォンの画面に「未払いによる一時停止の通知」が表示された。静上はその通知を読んだ。「支払いが確認できない場合、本日より当社は通信サービスを一時停止いたします」電話は使えなくなった。最初の1日は、それほど不便を感じなかった。パートの連絡は出勤日に直接確認すれば済む。緊急の用事があれば、近くの公衆電話を使えばいい。2日目から、静上は公衆電話の場所を改めて確認した。駅前に1台、商店街の入り口に1台、区役所の入り口にも1台あったはずだ。10円玉を多めに財布に入れておくことにした。亮平への連絡が取れなくなった。ということの意味を、静上は改めて理解した。亮平が電話をかけてきても、繋がらない。静上が連絡を取りたくなっても、公衆電話からかけなければならない。亮平から連絡が来ることは、あの日以来なかった。だから実際には、電話が止まっても何も変わらなかった。ただ、繋がる手段が1つ消えたということだけが変わった。
10月に入ると、電気代の引き落としも通らなかった。電力会社からの書面が届いた。未払いの電気代についての請求書だった。前月分と今月分が重なっている。合計額が記載されていて、その下に「指定日までに支払いがない場合、送電を停止する」旨が書いてあった。指定日は10月10日だった。静上はその日付を手帳に書いた。何ができるかを考えた。年金の次回振り込みは月始めで、先月分はすでに家賃と薬代に消えていた。手元の現金は、食費を切り詰めて残してきた1200円だった。電気代の未払い分は2ヶ月合わせて4500円を超えていた。1200円では払えない。静上は電力会社の窓口に電話しようとして、携帯電話が止まっていることを思い出した。公衆電話を使うことにした。コートを着て、駅前の公衆電話まで歩いた。窓口のオペレーターに繋いでもらい、事情を説明した。分割払いを相談した。オペレーターは丁寧だったが、「すでに2ヶ月未払いの場合、最低でも1ヶ月分は先に入金いただく必要があります」と言った。「それでも入金がない場合は、規定通り停電の措置を取らざるを得ない」とも言った。静上は「分かりました」と言って、電話を切った。
帰り道、静上はコンビニの前で少し立ち止まった。ATMで残高を確認する必要があったわけではない。手帳の中に答えはある。ただ、体が少し重かった。
10月10日、電気が止まった。夕方、スイッチを押しても部屋の照明がつかなかった時、静上はしばらくその場に立っていた。窓から外の光が差し込んでいる。まだ暗くない。日没まではいくらか時間がある。静上はカーテンを全開にした。外の光を最大限に取り込んだ。冷蔵庫も止まっていた。扉を開けると、内部の照明がつかない。残っていた大根の残りと、麦茶のペットボトルを取り出した。麦茶はまだ冷えていたが、これから冷やす手段がない。暗くなる前に夕食を食べた。冷蔵庫の残りの大根を、ガスコンロで煮た。ガスはまだ使えた。明かりはないが、コンロの火が薄く台所を照らした。その光の中で、静上は食事をした。食べ終えると、部屋は暗かった。懐中電灯を探した。衣装ケースの引き出しを探ったが、見つからなかった。ロウソクも持っていない。仕方なく、窓際の椅子に座って、外の街灯の光を頼りに過ごした。9時になると、その日の体の疲れが来た。布団を敷いて横になった。暗い中で目を開けていると、天井の形が目に慣れてきた。暗闇に慣れるのは、それほど時間がかからなかった。
電気のない生活が数日続いた。暗くなると何もできなくなるので、静上は日中のうちに翌日の食材の下ごしらえをしておくことにした。午後の光がある時間に、野菜を切って鍋に入れておく。夕方の暗くなる前に火を入れる。食べ終えたら、後は寝るだけ。電気がないと、時間の流れが変わった。夜の長さが、以前より長く感じられた。布団の中で目を閉じていても、なかなか眠れない夜がある。薬を半量に戻していたので、眠りが浅かった。
ある夜、廊下の外からドアを叩く音がした。静上は布団の中でその音を聞いた。夜の10時を過ぎていた。こんな時間に訪ねてくる人間には、心当たりがなかった。自治会の人か、それとも別の誰か。「松崎さん」という声が聞こえた。女性の声だった。隣の部屋の笹本さんという60代の女性の声だった。静上はドアを開けた。笹本が小さな懐中電灯を持って立っていた。その明かりが廊下を照らしていた。
「電気、止まってるみたいだったから」と笹本は言った。「昨日の夜から部屋が暗かったから、心配で」
静上は「ありがとうございます」と言った。声が少しかすれた。「ちょっと事情がありまして。もうすぐ解決します」
笹本はしばらく静上の顔を見てから、「これ」と言って、ラップに包んだおにぎりを2つ差し出した。「夕飯のあまりで」と言った。静上は受け取った。それから数秒、静上は何か言おうとして、何も言えなかった。「ありがとうございます」と言った。また頭を下げた。笹本は「何かあったら言ってね」と言い残して、自分の部屋に戻っていった。
静上はドアを閉めた。手の中のおにぎりを見た。ラップ越しにごまが見えた。白いご飯の、ごまのおにぎり。静上は椅子に座って、おにぎりを1つ食べた。暗い部屋の中で、窓の外の灯りだけを頼りに、ゆっくりと食べた。塩加減がちょうど良かった。もう1つは、翌朝まで取っておいた。
パートの出勤日は、静上にとって食事の確保という点でも重要な日になっていた。駐輪所の休憩室には、昼休みに弁当を食べるスタッフがいる。五藤は毎日コンビニのおにぎりを2個と缶コーヒーを持ってきた。若い女性は色々と変わる弁当を自炊していた。静上は休憩時間、お茶だけを持って過ごした。五藤が「ご飯、食べないんですか」と一度聞いた。「朝ご飯を食べてきたので」と静上は答えた。「そういう年になりました」と笑いながら言った。五藤は特に追求しなかった。ただ、次の週から五藤は自分の弁当を少し多めに作ってきて、「余った」と言っては静上に分けるようになった。静上は最初の1回は断った。2回目も断ろうとしたが、五藤が「捨てるのはもったいないですから」と言って、弁当箱の蓋に入れた一口分を置いていった。3回目からは、黙って受け取った。その一口分が、その日の唯一のまともな食事であることがほとんどだった。五藤は何も聞かなかった。静上も何も言わなかった。それで良かった。
10月の中旬から、夜の気温が急に下がり始めた。電気が止まっているため、暖房が使えない。ガスファンヒーターも持っていなかった。静上の部屋にある暖を取る手段はこたつだけだったが、電気がないのでこたつも動かない。布団を2枚重ねにして寝ることにした。夏物の薄い布団と、秋冬用の厚い布団を引っ張り出して、両方をかけた。それでも夜中に目が覚めると、足先が冷えていた。
ある日、スーパーへの帰り道に、ダンボール箱が数枚、ゴミとして積み上げてあるのを見た。静上は少し立ち止まった。ゴミの日ではなかった。誰かが引っ越しか何かで出したのだろう。まだきれいなダンボールが3枚あった。静上は周囲に誰もいないことを確認してから、その中の一番大きなダンボールを1枚持ち上げた。歩きながら、なぜこれを持って歩いているかを考えた。床に引けば、コンクリートからの冷気を少し遮断できる。それだけの理由だった。なのに、持って歩いていることが恥ずかしかった。誰かに見られたらと思った。誰かに見られて、何を思われるだろうと思った。誰にも会わないまま、団地まで持って帰った。部屋のフローリングに、そのダンボールを広げて敷いた。布団の下になる部分だ。ダンボールを踏むと、わずかに弾力があった。床からの冷気が、少しだけ遮断された。その夜、足先が冷える時間が前日より少し遅かった気がした。
パート先で五藤から食事を分けてもらうようになって以来、静上は自分の体の中で何かが変わったことに気づいた。以前は、人から何かをもらうということに強い抵抗があった。もらうことは負けることだと思っていた。誰かの施しを受けることは、自分がそれだけ落ちたということを証明することだと感じていた。しかし、今はその感覚が少し鈍くなっていた。鈍くなったというのは、諦めたということとは少し違う。ただ、おにぎりを1つ受け取ることの意味が、以前よりも小さくなった。受け取らないことの方が体に悪いと、分かってきた。おそらく体が限界に近づいているからだと、静上は思った。
ある朝、冷蔵庫の中を開けた。冷蔵庫はまだ電気が止まったままで、保冷の役割を果たしていない。ただの箱だった。その中に残っているのは、乾燥しかけた大根の切れ端が1つと、麦茶の空のペットボトル、それから味噌が少しの残りだった。食料が尽きていた。財布の中を確認した。10円玉が3枚と5円玉が1枚、1円玉が6枚。合計で41円。次の年金振り込みは11日後だった。静上はしばらく冷蔵庫の前に立っていた。大根の切れ端を手に取って、匂いを嗅いだ。まだ食べられそうだった。それを薄切りにして、味噌汁を作ることはできる。しかし翌日以降の食事が、どこからも来ない。立ったまま、部屋の中を見た。6畳の狭い部屋に、ダンボールを敷いた床と布団とこたつ台と、何も映らない消えたテレビがある。電気のない部屋は、昼間でも窓際以外は薄暗い。静上はコートを手に取った。区役所に行くと思った。今度は断れない。断っている場合ではないと、初めて自分の中で言葉にした。
区役所の入り口を入った時、静上の頭の中では何も整理されていなかった。前回のように服を選ぶ余裕も、書類を揃える余裕も、今回はなかった。来ているのは普段のシャツとスラックスで、髪は櫛で溶かしただけだ。ハンドバッグの中には、通帳と印鑑だけ入っていた。番号を引いた。今日は37番だった。待合スペースに座った。前回と同じ場所に、同じ種類の沈黙が満ちていた。皆、目を伏せている。誰も話さない。今日は待っている間に、何も考えなかった。考えようとしても、頭が動かなかった。体が空っぽだった。昨日の夕食が大根の薄切りだけだったので、体の中に燃料がほとんど残っていなかった。
37番が呼ばれた。4番窓口に向かうと、前回と同じ職員が座っていた。温田は静上の顔を見て、一瞬だけ何かを読み取ろうとするような表情を見せた。それから、いつもの事務的な顔に戻った。
「前回ご来庁を頂いた松崎様ですね」と温田は言った。
「はい」と静上は言った。
温田はキーボードを叩いて、静上の情報を画面に呼び出した。前回の相談内容も記録されているのだろう。画面をしばらく確認してから、静上の方を向いた。
「今日はどのようなご事情でしょうか」と温田は聞いた。
静上は少し間を置いた。「生活保護の申請をしたいのですが」と静上は言った。声が、自分でも聞いたことのないくらい平たかった。
温田は一度頷いた。「それでは、確認させてください」と言って、また書類を準備し始めた。前回との違いがいくつかあった。貯金残高が347円になっていたこと。携帯電話が止まっていること。電気代が未払いで送電が停止していること。温田はそれらを1つ1つ入力した。顔には何も映っていなかった。ただ入力していた。
「申請を受理いたします」と温田は言った。「ただ、手続きの中で、先ほど説明しなければならないことがあります」
「分かっています」と静上は言った。温田が少し止まった。「照会のことですね」と静上は続けた。「息子に書類が届くということ」
「はい」と温田は言った。声がわずかに低くなった。「法律上、省くことができない手続きです。松崎様のお子様、東京にお住まいの松崎亮平様に、扶養できる状況かどうかを確認する書面をお送りします」
静上は頷いた。「今回は、止めません」と言った。温田は静上の顔を見た。1秒ほど見てから、また画面に視線を戻した。「かしこまりました」と温田は言った。「では、必要書類をご準備いただきます」
区役所を出たのは正午を過ぎだった。外の空気は冷えていた。10月の風が、コートの合わせから入り込んできた。静上は片手でコートの前を合わせながら、団地への道を歩いた。歩きながら、頭の中に何も浮かんでこなかった。前回ここを出た時は、胸の中に色々なものがあった。恥ずかしさ、惨めさ、それを見せたくないという焦り。今回はそれがなかった。ただ疲れていた。疲れているということだけが、体の中にあった。商店街を通り過ぎる時、八百屋の店先のキャベツが目に入った。1玉120円。先週より少し安い。静上は財布の中の41円を思い出して、通り過ぎた。
帰り道に公衆電話があった。静上はその前に立ち止まった。亮平に電話するべきかと考えた。書類が届く前に伝えるべきか、それとも何も言わずに届かせるべきか。伝えることに、何の意味があるのかを考えた。謝るために電話する。知らせるために電話する。どちらの意味でも、かけなければならない気がした。しかし、謝ることも、知らせることも、亮平にとって何かの助けになるとは思えなかった。公衆電話の前に立ったまま、静上は動かなかった。財布から10円玉を1枚取り出した。受話器を持った。亮平の電話番号は覚えていた。ボタンを押した。呼び出し音が鳴った。1回、2回、3回。繋がらなかった。留守番電話に切り替わる音がした。静上は少し待った。ピッという音の後、メッセージを残すように案内する声が流れた。静上は何も言わなかった。10秒ほどそのまま持っていてから、受話器を戻した。10円玉は戻ってこなかった。公衆電話の前を離れた。
その日から5日が経った。10月の下旬、静上は駅前の公衆電話の近くで、買い物の帰りに立ち止まった。スーパーで半額になった豆腐の小さなパック1つを買ってきたところだった。財布の中の10円玉が2枚になっていた。五藤が食事を余分に持ってきてくれた日が2日あり、それで今週は少し持ちこたえられていた。
公衆電話が鳴った。静上は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。公衆電話が鳴ることがあるのかと思った。しかし確かに、金属的な呼び出し音が鳴り続けていた。以前にこの電話番号から亮平に発信していた。着信履歴があれば、折り返しをかけることはできる。静上は受話器を取った。
「もしもし」と言った。電話の向こうで、一瞬だけ間があった。それから、亮平の声が聞こえた。ただし、静上が知っている亮平の声ではなかった。
「母さん」と亮平は言った。その声には、怒りと混乱と、何か別のものが混ざっていた。息を荒くする音が聞こえた。「何をやってるんだよ」と亮平は続けた。声が上ずっていた。静上は受話器を握った。「区役所から手紙が来た」と亮平は言った。「うちの大家が先に受け取ってたんだよ。郵便受けに入れてくれたけど、大家が見てる前で開けなきゃいけなかった。扶養義務者への照会とか書いてある封筒を、大家の前で開けたんだよ」静上は口を閉じていた。「中に何が書いてあったと思う?」と亮平は言った。「母さんが生活保護を申請した。母さんを養えるか確認したい。って書いてある。そういう書類だぞ。大家の前でそれを読んだんだよ。大家がどんな顔で見てたと思う?母さん、俺がどんな気持ちだったか分かるか?」
静上は息をゆっくりと吸った。亮平の声が上がった。「母さん、俺に電話してくれたらよかったじゃないか。なんで黙ってたんだよ。苦しいなら苦しいって。なんで言ってくれないんだよ」
言えなかった。静上は思った。言葉は出てこなかった。亮平は続けた。声が怒りから別の何かへ動き始めていた。「俺が最低なのは分かってる。30万もらっておいて、母さんに何もしてなかった。それは分かってる。でも、なんで教えてくれなかったんだよ。ずっと1人で抱えて、区役所まで行って、俺に何も言わないで」
受話器の向こうで、亮平が息を整える音がした。それから声が変わった。「母さん、そこまで追い詰められてたんなら、なんで俺のところに金を貸してくれたんだよ」と言った。「俺が来た時、母さん、倒れそうだったんじゃないのか。顔色が悪かった。あの時、気づいていたのに、俺は金のことしか考えてなかった」
静上は受話器を耳に押し当てたまま、動かなかった。公衆電話ボックスの中は狭く、外から人が通る気配がした。亮平が声を震わせた。「俺、母さんに顔向けできないよ。大家に見られたことが恥ずかしいんじゃない?母さんがそこまで追い詰められてるのに、俺が何もできてなかったことが恥ずかしい」
静上の目の奥が熱くなった。「亮平」と静上は言った。声が細くなった。「何も心配しないで」と静上は言った。亮平が小さく息を吐く音がした。「本当に心配しなくていいの。生活が通れば、ちゃんと生活できるから」
「でも」と亮平は言いかけた。静上は遮った。「あなたは自分の生活を立て直しなさい。仕事を探して、ちゃんと食べて。それだけでいい」声を作ったつもりだった。平静を保とうとしていた。しかし言葉を出した時、喉の奥で何かがひび割れる感覚があった。亮平が黙った。しばらく電話の向こうで、静かな時間があった。
「母さん」と亮平はまた言った。今度は先ほどとは違う声だった。「ずっと1人だったんだな」
静上は何も答えなかった。答える言葉を探したが、見つからなかった。見つかったとしても、今それを言うと、言ってはいけないものが一緒に出てきそうだった。公衆電話の外を、自転車が1台通り過ぎた。車輪の音がしばらく続いて、消えた。亮平が言った。「ごめん、母さん」それだけだった。静上は受話器を握った手を、少し強く握り直した。目の奥の熱が、まぶたの縁まで来ていた。それを超えないように、静上は息を止めた。
「いいの」と静上は言った。声が揺れた。「あなたは悪くない」それ以上は言えなかった。亮平も、それ以上は言わなかった。電話の向こうでまた間があって、それから通話が切れた。静上は受話器を戻した。公衆電話ボックスの中に、しばらく立っていた。外から夕方の商店街の音が聞こえた。誰かが通り過ぎる足音。遠くで子供の声。静上は目を閉じた。まぶたの裏に、何も浮かばなかった。思うことがないのではなく、あまりに多くのことがあって、どれも言葉にならなかった。目を開けると、ガラス越しに夕暮れの商店街が見えた。店の明かりがともり始めていた。静上はボックスを出た。豆腐の入ったビニール袋を左手に持ち直し、コートの前を合わせた。団地への坂道を、ゆっくりと歩き始めた。足が重かった。体の中が空洞のようだった。泣きたいという感覚はなかった。ただ空洞だった。亮平が謝った。静上は「あなたは悪くない」と言った。それが本当かどうか、静上には分からなかった。悪いとも思っていなかった。ただ何かを言わなければならなくて、それが出てきた言葉だった。
坂の途中に街灯が1本あった。その下を通り過ぎる時、足元に自分の影が伸びた。影は細く、少し前傾になっていた。静上は影を見た。それから前を向いた。団地の入り口が見えてきた。明日、区役所から書類が来るかもしれない。生活保護の申請が進む。電気代の支払い猶予を相談できる。携帯電話の復旧は、まだ先になるだろう。食料は、五藤から何か分けてもらえれば、あと数日は持つかもしれない。1つ1つ考えるのは、明日でいい。今夜は豆腐を温めて食べる。それだけでいい。静上は団地の入り口の階段を、1段ずつ上がった。
12月に入った最初の週、松崎静上の郵便受けに一通の封筒が届いた。封筒は白かった。区役所の窓口の名前が左上に印刷されている。静上はそれを廊下で受け取り、部屋に戻ってから開けた。コートを脱ぐ前に、立ったまま開けた。生活保護の申請が承認されたという通知だった。支給開始日と、毎月の支給額が記されていた。住宅扶助と生活扶助を合わせた金額は、月に約12万円だった。静上は通知書を持ったまま、しばらく動かなかった。12万円という数字は、以前のパートと年金を合わせた収入よりも低い。しかし今の収入、週2日のパートと年金の組み合わせと比べれば、これで少し生活の余裕ができる。電気代を払える。携帯電話を復旧できる。食費にもう少し使える。それだけのことだ。静上は通知書を折りたたみ、封筒に戻した。それをこたつ台の上に置いて、コートを脱いで衣装ケースの横のハンガーにかけた。それから椅子に腰を下ろした。
部屋の電気は、先週の火曜日に復旧していた。区役所の担当者から申請が進んでいる旨の連絡があり、電力会社への分割払いの橋渡しもしてもらった。照明がついた時、部屋がいつもより明るく感じた。それだけで、少し違った。通知書を眺めながら、静上はもう1つの書類のことを考えた。申請が承認されるためには、亮平が扶養できる状況にないことを証明する書類が必要だった。区役所から亮平に届いた照会書に対して、亮平は返答を書いて送り返したはずだ。その書類の中で、亮平は正式に「母親を扶養する能力がない」と記した。それがなければ、この承認通知は来なかった。亮平が書いたそのことを、静上はずっと考えないようにしていた。考えても何も変わらないから、考えないと決めていた。しかし今、承認の通知を手にすると、自然とそこへ思考が向かった。亮平があの書類に書いたのは事実だ。今の亮平に、母親を養う経済力はない。だから書いたことは正しい。間違っていない。ただ、それが書類という形になって残ること。役所のどこかのファイルに閉じられることの意味を、静上は体の中でゆっくりと感じていた。感じていて、どうにかなるわけでもなかった。静上は立ち上がり、台所でお湯を沸かした。
最初の支給額が口座に振り込まれたのは、12月の初旬だった。朝、区役所から電話があり、本日付けで振り込みの手続きが完了した旨を告げられた。静上は「分かりました。ありがとうございます」と言って、電話を切った。電話は前の週に復旧させていたので、自分の部屋でその電話を受けることができた。昼過ぎに、静上は外へ出た。いつもと同じコートを着て、いつもと同じ靴を履いて、いつもと同じ道を歩いた。銀行によって、通帳記入をした。機械から吐き出された通帳の表面に、12万円という数字が印字されていた。残高の欄を見るのが怖い気持ちと、怖くない気持ちが混ざっていた。数字は確かにそこにあった。静上は通帳を鞄に入れて、スーパーへ向かった。
今日は夜の8時を待たなかった。午後の2時過ぎのスーパーは、まだ半額シールが貼られていない時間帯だった。精肉コーナーの棚には、定価の商品が並んでいる。総菜コーナーにも、作り立てのものが定価で置かれている。静上はそこを通り過ぎながら、足を止めた。ほうれん草が一袋198円で棚に並んでいた。静上はそれを手に取った。ためらいなく取った。カゴに入れた。次に豚肉のコーナーへ行き、薄切りのロース肉のパックを手に取った。260円だった。半額シールはない。定価だ。それもカゴに入れた。卵は6個入りのパックを取った。豆腐は中サイズの一丁。長ねぎを1本。レジに向かいながら、静上は自分のカゴの中を見た。緑色のほうれん草と、白い豆腐と、ピンクの薄切り肉。普通の、当たり前の食材が並んでいた。何も特別なものではない。しかし静上の手がそれらをためらいなく取ったのは、いつ以来だろうかと思った。
レジで合計が出た。782円だった。静上は1000円札を1枚取り出して、差し出した。釣り銭を受け取って、財布に入れた。手が震えなかった。後ろの人を気にしなかった。レジ係が次の客に向いている間に、静上はゆっくりとカゴから袋に荷物を移した。スーパーを出ると、冬の午後の光が低い角度で差し込んでいた。静上はビニール袋を手に持って、団地への道を歩いた。
部屋に戻って、コートを脱いで、台所に立った。ほうれん草を流水で洗った。根元の赤い部分を持ちながら、葉の1枚1枚に水を当てた。洗うという行為が、久しぶりに丁寧にできる気がした。以前は、何かを洗いながら、使う水の量のことを考えていた。水道代のことを。今日は考えなかった。ただ洗った。豆腐を切った。1cm幅に切って、水気を切った。長ねぎは斜め切りにした。薄切り肉を広げて、適当な長さに切った。鍋に水を入れて、火にかけた。沸騰してから、昆布と醤油で味をつけ、豚肉と豆腐と長ねぎを入れた。ほうれん草は別に茹でることにした。鍋でお湯を沸かして、根元から入れて、30秒ほどで引き上げた。水にさらして絞って、3cmほどに切った。
食卓に並べた。鍋の蓋を取ると、湯気が上がった。ほうれん草の小皿と、醤油の小瓶を隣に置いた。手を合わせた。「いただきます」と言った。豚肉を一切れ、箸で取って食べた。柔らかかった。薄切りのロース肉は、鍋の中でほぐれるように火が通っていた。味がついた汁が、肉の中に入っている。静上はそれをゆっくりと噛んだ。ほうれん草に醤油を少しかけて食べた。葉の苦みが舌の上で広がった。新鮮な野菜の、本来の味だった。食べながら、静上は何も考えなかった。考えないようにしていたのではない。ただ、この食事に集中していた。湯気の立つ鍋と、鮮やかな緑のほうれん草と、箸の感触と、口の中の温かさ。それだけがあった。食べ終えるのに、普段より時間がかかった。最後に、鍋の汁を杓子ですくってコップに注ぎ、飲んだ。薄い醤油の味がついた汁が、胃に落ちていった。「ごちそうさまでした」と言った。
空になった鍋と皿を洗いながら、静上はテレビをつけた。夕方のニュースが流れた。音量を少し上げた。食器を洗い終えて、台所を片付けてから、静上は引き出しから便箋と封筒を出した。便箋は薄い水色で、夫がまだ生きていた頃に買ったものだった。使わないまま引き出しの奥に入っていて、端が少し黄ばんでいた。封筒は同じセットのものだ。眼鏡を探した。衣装ケースの上に置いていた老眼鏡を手に取り、かけた。レンズに細かい傷が入っているが、まだ使える。椅子に座って、机の上に広げた。ペンを持った。しばらく白い紙の前で止まっていた。何を書くかは決まっていた。決まっていたというより、いつかは書かなければならないと思っていたことが、今日ようやく書ける気持ちになった。それだけだった。
書き始めた。「亮平へ」と書いた。書き出しをどうするかを少し考えてから、そのまま続けた。手紙を書くのは久しぶりで、文字が少し震えた。書き直そうかと思ったが、そのまま続けることにした。震えた字でも、自分の字だ。「母さんから手紙を送るのは久しぶりですね。メールや電話の方が早いとは思っているけれど、今日は手紙を書きたいと思いました」次の一節が出てくるまで、少し間があった。「先日、生活保護の承認がおりました。毎月のお金が支給されることになったので、食べることと電気代のことは心配しなくて済むようになりました。あなたのことを、あまり心配させてしまいましたね。申し訳なかったです」
1段落書いて、静上は手を止めた。窓の外で、風が木の枝を揺らす音がした。12月の夜は早く冷える。暖房をつけていないので、室内の気温が少しずつ下がっていた。静上はセーターを1枚羽織って、また椅子に戻った。ペンを持ち直して、続きを書いた。「あなたが区役所に返信を出してくれたことで、手続きが進んだのだと思います。あの書類に名前を書くのは、辛かったと思います。分かっています。でも、それがなければ、私はまだあのままだったかもしれません」そこで一度、ペンを止めた。書こうとして止まった言葉がいくつかあった。30万円のことを書こうとした。あのお金は葬式代だったと。しかし書くと、それは亮平への責めになってしまう気がした。責めるつもりはなかった。ただの事実を書いたとしても、読んだ亮平の心にどう響くかを考えると、書くべきではないと思った。決した代わりに、こう書いた。「あの30万円を持って行ってもらったことは、後悔していません。少なくともあなたの役に立てたと思うと、それで十分です」本当にそう思っているかどうか、静上には分からなかった。しかし嘘でもなかった。どちらでもある言葉だった。続けた。「これからは国が生活を支えてくれるので、あなたが私のことで頭を悩ませる必要はありません。仕事のことに集中しなさい。体に気をつけて」
そこまで書いたところで、静上はペンを持ったまま便箋を見た。書き足すことが、まだあった。しかしそれが何かを、言葉にするのが難しかった。「寂しい」と書くことはできなかった。書けば嘘になる。寂しいという感覚はあるが、それをあなたに伝えることで、何かを求めているわけではない。求めても仕方のないことだから。「会いたい」とも書けなかった。書けば、また亮平に何かを背負わせることになる。最後に、こう書いた。「元気でいてください。それだけです。母より」と書いて、ペンを置いた。
便箋を折りたたんで、封筒に入れた。封筒の表に、亮平の東京の住所を書いた。裏に、自分の住所を書いた。切手を1枚、引き出しから取り出して貼った。84円切手が数枚残っていた。封筒を机の上に置いた。明日、団地を出る時に、ポストに入れればいい。薬を飲んだ。今日は割らずに1錠飲んだ。久しぶりに1錠の量になった。体が少し楽になっているからかもしれない。あるいは、今夜だけはちゃんと眠りたかったからかもしれない。布団を敷いて横になった。暖房はまだつけていなかった。電気代のことを習慣で考えてしまって、スイッチに手が行かなかった。しかし今日からは、少しは使えるはずだ。明日からにしようと思った。それでも今夜は、布団を首まで引き上げて過ごすことにした。天井を見た。天井の染みは変わっていなかった。いつから同じ形をしているのか分からない染みが、蛍光灯の光の中で静かにある。静上はそれをずっと見ていた。今日の夕食のことを思った。ほうれん草を洗った時の水の冷たさ、豚肉を切った時の感触。鍋の湯気が顔に当たった温かさ。それらを順番に思い出した。食べるということが、ずっとこんなに重かったのかと、今になって気づいた。この数ヶ月、何かを食べるたびに、その食べ物の値段と、残りの食費の計算と、明日以降の見通しを、一緒に飲み込んでいた。食べながら、食べることに集中できなかった。今日はただ食べた。それだけだった。
目がじわりと暖かくなった。泣くつもりはなかった。涙が出るような出来事が今日あったわけではなく。ただ、体の中の何かが少し緩んで、それが目の端に出てきた感じだった。静上は目を拭わなかった。そのまま目を閉じた。まぶたの裏が温かかった。
翌朝、静上は6時前に目が覚めた。昨夜より随分よく眠れた気がした。体が重くなかった。起きてすぐ、窓のカーテンを開けた。外は曇っていた。12月の空は低く、灰色の雲が団地の屋根の上に広がっていた。しかし雨は降っていない。風もない。静かな朝だった。顔を洗い、お粥を作った。今日は昨夜の鍋の残り汁で米を炊いた。豚肉の出汁が少し残っていて、普通のお粥より風味があった。ほうれん草の残りを小さく切って、混ぜた。食べながら、テレビをつけた。朝のニュースが流れていた。気象情報のコーナーで、今週末から本格的な冬の寒さが来ると言っていた。最低気温が氷点下まで下がる日もあるという。静上はお粥をすすりながら、暖房のことを考えた。今月から電気代を払えるようになった。エアコンを少し使ってもいい。設定温度を低めにして、1日のうち数時間だけつけることにしよう。そう決めた。
片付けを終えて、机の上に置いていた封筒を手に取った。亮平の住所が表に書いてある。手紙だ。コートを着て、外へ出た。廊下は冷えていた。手すりが冷たかった。階段を降りながら、足元に気をつけた。1階のポストは、団地の入り口にある。郵便受けを通り過ぎながら、静上は封筒をポストの口に差し込んだ。封筒がスロットの中に落ちていく音がした。ポストの前に、少しだけ立っていた。それから、外へ出た。
その日は、もう一度スーパーへ行った。午前中の早い時間だった。昨日と同じく、半額シールのない時間だった。今日買うものは決めていた。米が残り少なくなっているので、小さい袋を1つ買う。あとは味噌ともやしと卵。それだけでいい。売り場を歩きながら、静上はいつもと同じように値段を確認した。この癖は、これからも続くだろうと思った。値段を気にせずに何かを手に取るということは、おそらく今の静上にはできない。それで構わなかった。ただ、今日は値段を見て計算しながらも、「これでは足りない」という焦りがなかった。計算はしている。しかし計算の結果が、以前のように体を締めつけなかった。その違いが、静上には不思議だった。数字を見るという行為は同じなのに、その数字が持つ重さが変わった。同じ100円でも、手元が空になる方向の100円と、まだ続く方向の100円では、体への響き方が違う。レジで支払いを済ませて、外に出た。空が曇っていた。団地への道を歩きながら、静上は空を少し見上げた。雪が降るかもしれないと天気予報が言っていた。今年の冬は例年より寒いという。静上はコートの前を合わせながら、自分の部屋の暖房のことを思った。設定温度は18度にしておこう。それで十分温まるかどうかは分からないが、まず試してみればいい。
手紙を出してから10日ほどが経った、12月の中旬のことだった。郵便受けに、亮平の筆跡で書かれた封筒が届いていた。静上は廊下でそれを見つけ、部屋に持って帰るまで開けなかった。コートを脱いで、椅子に座って、それから開けた。中には便箋が1枚だけ入っていた。亮平の字は相変わらず雑だった。子供の頃から字を丁寧に書く習慣がなかった。静上は何度も直させようとしたが、結局変わらなかった。
「母さんへ」と書いてあった。「手紙をありがとう。こういう形で連絡が来るとは思わなかった」静上は続きを読んだ。「承認が降りたとのこと、良かったです。俺のせいで余計な手続きをさせてしまったかもしれない。ずっとそれが気になっていました。生活が少し落ち着いたなら、安心しました」一行開けてから、続きがあった。「あの30万円のことは、必ず返します。仕事は、今別の会社の採用試験を受けているところです。まだ決まっていないけれど、決まったら連絡します。とにかく返します」さらに一行開けて、最後の下りがあった。「来年、落ち着いたら行きます」それだけだった。
静上は手紙を膝の上に置いた。「来年、落ち着いたら行きます」その一文をもう一度読んだ。来ると書いた。約束ではないかもしれない。「来年」という曖昧な時間軸と、「落ち着いたら」という条件付きだ。実際に来るかどうかは分からない。しかし、来ると書いた。静上は手紙を折りたたんで、封筒に戻した。それを引き出しの中に入れた。以前の亮平からのメールの印刷が入っているファイルの隣に、立てて入れた。
12月の後半、静上の生活は少しずつ変わっていった。変わったというのは、大きく変わったということではない。毎朝起きる時間も、食事の内容の大まかな方針も、スーパーに行く習慣も、変わっていない。ただ、それらを続ける中での体の余白が、少しだけ戻ってきた。食事の量がわずかに増えた。以前、1食の食材費を60円以内に抑えようとしていた日があった。今は100円から150円ほどを使うことができる。倍以上になった計算だが、それでも世間一般から見れば十分に少ない。ただ静上にとっては、その差が大きかった。昼食を食べるようになった。毎日ではない。仕事のない日は、午後に何かを食べるようにした。前の日の残りの汁でうどんを作るとか、残りのご飯でおにぎりを握るとか、それくらいのものだ。しかしそれだけで、午後の体の動きが違った。薬を1錠ずつ飲めるようになった。割らなくていい。包丁の背で錠剤を押す必要がない。それだけのことが、寝る前の準備を少し楽にした。
五藤は相変わらず弁当を多めに持ってきた。静上が受け取る量は、以前より少なくなった。五藤は何も言わなかった。静上も何も言わなかった。ある日の昼休み、静上は自分のためのおにぎりを1つ、仕事に持参した。前の晩の残りのご飯を握って、梅干を入れた。ラップに包んで持ってきた。五藤がいつものようにコンビニのおにぎりを取り出した時、静上も自分のおにぎりを出した。
「今日はお弁当ですか」と五藤が言った。
「ええ」と静上は答えた。
五藤はそれだけ言って、自分のおにぎりを食べ始めた。静上も食べた。梅干の酸味が、米の甘みと合っていた。
12月30日、静上は部屋の掃除をした。年末の大掃除は、ここ数年やれていなかった。気力がなかったというよりも、掃除をする精神的な余裕が持てなかった。今年は、少しだけやることにした。まずこたつ台の上を全部どかして、拭き掃除をした。衣装ケースの側面の埃を払った。窓ガラスを内側から拭いた。古い雑誌をゴミ袋に入れた。靴箱の中の、もう履けなくなった運動靴を1足捨てた。掃除を終えると、部屋が少し広く見えた。広くなったわけではない。6畳はどこまで行っても6畳だ。ただ、物の配置が整って、視界が少し通った。静上はこたつ台の前に座り、温かいほうじ茶をいっぱい飲んだ。部屋の中が静かだった。外から、遠くで何かの音が聞こえた。近所の家で年越しの準備をしているのか、それとも別の何か。はっきりとは分からなかった。ただ、生活の音がどこかで続いている。それだけが聞こえた。
夕方近く、静上はベランダに出た。ベランダから見える景色は、いつもと変わらなかった。団地の棟が並んで、その向こうに線路が見える。線路の向こうに、低い住宅が続いている。空は灰色のままで、太陽は雲に隠れていた。静上は手すりに手をかけた。手すりが冷たかった。駅のホームから、電車のアナウンスが風に乗ってくる。どこかへ行く電車か、どこかから来る電車か。ここからは分からない。静上はしばらくそこに立っていた。今年のことを振り返るという作業を、意識的にしようとは思わなかった。しかし立っているうちに、自然と1月から12月までの出来事が断片的に浮かんできた。6月の雨の夜、1000円札1枚を3日分だと思いながら眺めたこと。スーパーで半額シールが貼られるのを、3人の老人と一緒に黙って待ったこと。区役所の4番窓口で、温田に向かって頭を下げて逃げ出したこと。8月の炎天下で倒れかけたこと。地面に手をついた感触。五藤の「多めに作ってきた」という弁当。亮平が突然現れた夜、1万円で買ったマグロの中トロ。30万円を渡した翌朝の、ATMの機械に表示された347円という残高。ダンボールを1枚、誰にも見られないように持って帰ったこと。電気のない部屋で、コンロの火を頼りに夕食を作ったこと。笹本さんが深夜に持ってきてくれた2つのおにぎり。公衆電話の受話器を握りながら聞いた、亮平の声。「ごめん、母さん」といった声。区役所の白い封筒と、12万円という数字。どれも、喜んで振り返りたい記憶ではなかった。しかし、どれも確かにあったことだった。
静上は手すりを握ったまま、目を細めた。空から何かが舞い降りてきた。白い、小さなものだった。雪だ。気づくまでに、少し時間がかかった。小雪だった。風があまりないので、まっすぐ落ちてくる。手すりの上に、白い粉が積もり始めた。静上は手を出して、手のひらを上に向けた。小雪がいくつか、手のひらの上に落ちてきた。体温で、すぐに溶けた。見ているうちに、雪は少しずつ密度を増した。団地の屋根に、白い薄幕が張り始めた。線路の向こうの住宅の屋根も、うっすらと白くなった。静上はそれを見ていた。
生活は形として整った。毎月お金が来る。食べられる。電気もある。薬も飲める。布団で眠れる。しかし、その整った形の外に、何もなかった。電話をかけてくる人はいない。尋ねてくる人はいない。笹本さんとは廊下で会えば挨拶をするが、それ以上ではない。五藤とは仕事の場でだけ言葉を交わす。亮平は「来年、落ち着いたら」と書いた。来年には、来年がどんな年になるか、想像がつかなかった。来年も、毎月お金が来て、食べて、眠る。それが続く。それだけだと思う。悪いことではない。悪いことではないと、静上は思った。食べられて、眠れる。それは確かに、悪いことではない。手のひらの雪が、また溶けた。静上は手を下げた。手すりから手を離した。部屋に戻ろうと思った。寒い。暖房をつけよう。ベランダのドアを閉めた。エアコンのリモコンを手に取った。電源ボタンを押した。エアコンが起動する音がして、しばらくすると暖かい風が出てきた。設定温度は18度にした。こたつ台の前に座った。ほうじ茶が少し冷えていた。電子レンジで温め直した。温まったお茶を、両手で包んだ。部屋の中が、じわりと暖かくなっていく。エアコンの風が壁を伝って、隅の方まで届いてくる。足元に、まだダンボールが敷いてある。電気があれば必要のないものだが、まだ片付けていなかった。明日、片付けよう。外では小雪が続いている。窓ガラスに、白い粒が少しずつ当たっていた。静上はお茶を一口飲んだ。温かかった。それだけだった。それだけで良かった。
夜、布団に入る前に、静上は薬を一錠飲んだ。水と一緒に、普通に飲んだ。割らなかった。布団を敷いて、横になった。エアコンは切った。その代わり、布団を1枚多めにかけた。天井を見た。染みは変わっていなかった。静上は目を閉じた。今日1日が、静かに終わっていった。掃除をして、ほうじ茶を飲んで、雪を見て、暖房をつけた。それだけの日だった。大きなことは何も起きなかった。誰も来なかった。電話もかかってこなかった。それでいいと、静上は思った。それでいいということが、今年の終わりになってようやく、体の中で静かに落ち着いた。目の奥が暖かかった。涙が出るほどではない。ただ温かかった。エアコンが止まった後の部屋が、少しずつ冷えていく。布団の中は温かかった。外の雪は、まだ続いているだろうか。朝になれば分かる。静上はゆっくりと息を吸って、吐いた。目を閉じたまま、眠りに落ちていった。



