夕食の後、静かなリビングで、息子の司が突然言った。「母さん、決めてくれ。嫁の言うことを聞くか、出ていくか。」
私は手に持っていた湯飲みを置くことさえできなかった。隣では嫁の希恵が腕を組み、当然のように私を見下ろしていた。「お母さん、私たちも夫婦なんです。世代が違えば価値観も違いますから。」
その声には、申し訳なさのかけらもなかった。
私は水田さ子、67歳。夫を10年前に亡くし、息子夫婦と同居して3年になる。息子のために尽くしてきた日々が、まるでなかったかのような扱い。胸が締め付けられた。
「母さん、返事は?」司がせかす。その目に、もう私への愛情は感じられなかった。
私は深く息を吸い、二人の顔をじっと見つめた。そして、驚くほど冷静な自分の声が聞こえた。「わかりました。お望み通りにします。」
その瞬間、夫婦の顔に一瞬の戸惑いが浮かんだ。まさか、こんなにあっさり受け入れるとは思っていなかったのだろう。
しかし、彼らはまだ知らなかった。この瞬間から、私の本当の反撃が始まることを。
私は静かに立ち上がり、自分の部屋へ向かった。廊下を歩きながら、これまでの日々が走馬灯のように頭を巡る。
司が大学に進学する時、私は教育費として800万円を工面した。結婚する時には、新居の頭金400万円も喜んで出した。銀行員として必死に働いて貯めたお金だ。
「母さんのおかげで今の僕がいる。」大学の卒業式の日、司は涙を流しながらそう言ってくれた。あの時の感謝の言葉は、一体何だったのか。
同居が始まってからの3年間、私は朝早く起きて朝食を作り、掃除、洗濯、夕食の準備まで、すべての家事を引き受けてきた。
「お母さん、この味付けは濃すぎます。もっと薄味にしてください。」
「掃除の仕方が雑ですね。ちゃんとできないんですか?」
希恵からの小言は、日に日にエスカレートしていった。私が40年間銀行で支店長まで勤めた経歴など、彼女には何の価値もないようだ。
「お荷物」「邪魔物」「価値のない人間」。最近では、そんな言葉を平気で口にするようになった。司も妻の言葉を止めるどころか、同調するばかりだ。
「母さんも年だし、そろそろ施設を考えた方がいいかもしれない。」先週、二人がひそひそと話しているのを偶然聞いてしまった。
私は部屋の扉を閉め、ベッドに腰を下ろした。悔しさと悲しみで胸がいっぱいだったが、不思議と涙は出なかった。
翌朝、私はいつものように朝食の準備をしていた。台所で包丁を握りながら、昨夜の出来事がまだ夢のように感じられる。
「おはようございます。」私が挨拶をしても、司も希恵も返事をしない。まるで私が存在しないかのような扱いだ。
朝食を並べ終えると、希恵が眉をひそめた。「お母さん、また同じようなおかずですね。もう少し工夫とかできないんですか?」
私は黙って頭を下げた。反論する気力もない。
その日の午後、私が洗濯物を畳んでいると、隣の部屋から希恵の電話の声が聞こえてきた。
「そうなの?うちの義母、本当に困ってるの。いつまでいるつもりなのかしら。」
私は手を止めて、思わず聞き耳を立ててしまった。
「ホームに入ってくれれば楽なんだけどね。お荷物を背負ってる気分よ。」
胸が締め付けられるような痛みを感じた。お荷物。私は彼女にとって、ただの重荷でしかないのか。
「それにね、認知症の兆候もあるみたい。同じこと何度も聞いてくるし、物忘れもひどいのよ。」
そんなことはない。私の記憶力は、銀行員時代から変わらず鮮明だ。
夕方、司が仕事から帰ってきた。「母さん、ちょっと話があるんだ。」
リビングに呼ばれた私は、嫌な予感を抱きながら腰を下ろした。
「実は希恵の体調があまり良くなくてね。母さんがいるとストレスを感じるらしいんだ。」
「ストレス?」私は驚いて聞き返した。
「そう。医者からも環境を変えた方がいいって言われてる。」希恵が横から口を挟む。「お母さんのせいで私、不眠症になっちゃって。前に頭痛もするんです。」
彼女の顔色は確かに優れないが、昨日まで元気に友人とランチに出かけていたはずだ。
「だから母さん、そろそろ別々に暮らすことを考えてもらえないか。」
司の言葉に、私は息を飲んだ。「でも、この家は私も住んでいるのよ。」
「分かってる。でも、これは希恵の健康の問題なんだ。」
まるで私が病原菌のような扱いだ。
その夜、私は一睡もできなかった。天井を見上げながら、これまでの人生を振り返る。
夫が亡くなった時、司は「母さんは一人にしない」と言ってくれた。同居を提案してきたのも、司の方からだった。「母さんと一緒に暮らせるなんて幸せだよ。」あの言葉は何だったのか。
数日後、私が買い物から帰ると、リビングで司夫婦が何やら書類を見ていた。
「あ、母さん、ちょうど良かった。」司が立ち上がり、パンフレットを差し出してきた。「この施設、どう思う?」
それは高齢者向けの介護施設のパンフレットだった。
「個室だし、食事も美味しいらしいよ。」希恵も笑顔で付け加える。「お母さんの年金で十分払えますし、私たちも時々会いに行きますから。」
まるでもう決定事項のような口ぶりだ。
「私はまだ元気よ。施設に入る必要なんて…」
「でも母さん、最近物忘れも多いし。」
「そうですよ。この前なんて、ガスの火を消し忘れてましたよね。」
「そんなことはありません。私は必ず確認してから台所を離れます。」
「それにお母さんがいると、結斗も友達を呼びづらいって言ってるんです。」
孫の結斗は、私を「里ばあちゃん」と呼んで慕ってくれていたはずだ。結斗が「友達に古臭いおばあちゃんがいるって言われるのが嫌だ」と言ったと聞き、胸が痛んだ。あんなに可愛がっていた孫まで、私を疎ましく思っているなんて。
翌日、希恵の母親が遊びに来た。
「あら、さ子さん、お元気?」希恵の母は私より5歳若いだけなのに、まるで私を年寄り扱いしてくる。「ええ、おかげ様で。でも無理は禁物よ。年齢には勝てないから。」
「お母さんを若々しくて羨ましいわ。お母さんとは大違い。」希恵が母親に寄り添う。二人は顔を見合わせて笑った。
私はただ黙って紅茶を運ぶしかなかった。
夕食の準備をしていると、司が台所にやってきた。「母さん、明日施設の見学に行こう。」
「明日?」
「うん。もう予約も取った。」
私の意見も聞かずに、勝手に決めてしまったようだ。
「司、私はまだ…」
「母さん、これは皆のためなんだ。分かってくれ。」
皆のため。その中に、私は含まれていないのだろうか。
その夜、私は荷物の整理を始めた。もうこの家に、私の居場所はないのだ。
施設見学の朝がやってきた。私は朝食の支度を終え、リビングで息子夫婦を待っていた。
「母さん、準備はできた?」司がドアを閉めながら聞いてくる。まるで私が施設入所を望んでいるかのような口調だ。
「行く必要はないわ。」私ははっきりと答えた。
司と希恵は顔を見合わせる。「母さん、もう決まったことだよ。」
「誰が決めたの?私の人生なのに。」
希恵がため息をついた。「お母さん、わがまま言わないでください。私たちだって苦渋の決断なんです。」
苦渋の決断。彼女の顔に、そんな苦悩は微塵も見えない。
「じゃあ、はっきり言いましょう。」私は二人の顔をまっすぐ見つめた。「私はこの家を出ません。ここは私の家でもあるんです。」
司の表情が変わった。「母さん、勘違いしないで。この家は俺と希恵の家だ。」
「私も一緒に住んでいるでしょう。」
「それは俺たちの好意で住まわせてあげてるだけだ。」
住まわせてあげている。その言葉に、私の心は凍りついた。
希恵が追い打ちをかける。「そうですよ。お母さんは何様のつもりですか?遺産目当て?」
私が朝から晩まで家事をこなし、この家を支えてきたのに。
「司、本気で言っているの?」
息子は目をそらした。「本気だよ。母さんには、はっきり言わなきゃ分からないみたいだから。」
そして、深呼吸をしてから続けた。「希恵の言うことを聞くか、出ていくか選んで。」
あの言葉が、再び投げかけられた。
「希恵は俺の妻だ。妻の意見を尊重するのは当然だろう。」
「じゃあ、私は?私はあなたの母親よ。」
「だからこそ、理解してくれると思ったんだ。」
希恵が勝ち誇ったような顔で言う。「お母さん、もう十分でしょう。今まで面倒を見てもらったんだから。」
面倒を見てもらった?逆ではないだろうか。
「私たちだって自由に生きたいんです。いつまでも親に縛られたくない。」
司も頷く。「そうだ。俺たちにも俺たちの人生がある。もう母親なんていらないんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて壊れた。
「母親なんていらない。」
「言い方が悪かった。でも、もう俺も40過ぎだ。いつまでも親離れできないのは恥ずかしい。」
希恵が畳みかける。「友達にも『まだ姑と同居してるの?』って呆れられるんです。時代遅れって言われて、恥ずかしい思いをしてるんですよ。」
私は深く息を吸い込んだ。もう何を言っても無駄なのだろう。
「分かったわ。」
二人の顔に安堵の色が浮かぶ。「じゃあ、施設の見学に…」
「いいえ。」私は静かに首を横に振った。「出ていきます。あなたたちの望み通りに。」
司が慌てたように言う。「いや、だから施設を…」
「施設には入りません。私は私の道を行きます。」
希恵が眉をひそめた。「どこに行くつもりですか?」
「それは私の問題です。」私は立ち上がり、二人を見下ろした。「縁を切りたいんでしょう。お望み通りにしてあげます。」
司の顔が青ざめた。「縁を切るって…そんな大げさな…」
「大げさ?『母親なんていらない』と言ったのは誰?」
二人は言葉に詰まった。
「明日出ていきます。もう二度と会うこともないでしょう。」
そう言い残して、私は自分の部屋へ向かった。背後で司が何か言っていたが、もう聞こえない。
部屋に入ると、私は静かに微笑んだ。彼らはまだ知らない。本当の地獄が、これから始まることを。
部屋の扉を閉めると、私はすぐにクローゼットの奥から大切な書類ケースを取り出した。息子夫婦が知らない、私の本当の姿がここにある。
まず手に取ったのは、複数の通帳だ。
水保銀行、残高3200万円。三菱優婦銀行、残高2800万円。悠銀行、残高1500万円。これらは全て、40年間の銀行員生活で貯めた私の資産だ。支店長まで務めた私の退職金は、想像以上の金額だった。
次に取り出したのは、亡き夫が残してくれた書類だ。夫は大手商社の役員だった。その遺産と生命保険金を合わせると、さらに5000万円になる。
「いざという時のために、全て君の名義にしておいた。」夫の遺言書にはそう書かれていた。まさかこんな形で「いざという時」が来るとは思わなかったが。
そして、最も重要な書類。それは、この家の登記簿だった。
所有者、水田さ子。
そう、この家は私の名義なのだ。司は知らないだろうが、住宅ローンの頭金だけでなく、残りのローンも私が一括で支払っていた。彼には「ローンは自分で払う」と言わせたが、実際には私の口座から引き落とされていたのだ。
なぜそんなことをしたのか。それは、息子家族の幸せを願ってのことだった。でも、もうその必要はなさそうだ。
私は携帯電話を取り出し、長年の友人であり顧問弁護士でもある松尾先生に連絡を取った。
「さ子さん、お久しぶりです。どうされました?」
「松尾先生、実は相談したいことがあるんです。」
私は簡潔に状況を説明した。
「なるほど。息子さんに縁を切ると言われたんですね。」
「ですから、私も本気で対応しようと思って。」
松尾先生は少し考えてから言った。「さ子さん、その家の名義はあなたですよね。」
「はい。間違いありません。」
「でしたら、法的にはあなたに有利です。むしろ息子さん夫婦の方が出ていくべき立場ですよ。」
私は静かに微笑んだ。「いえ、私が出ていきます。でも、ただでは出ていきません。」
「と言いますと?」
「この家を売却します。」
即座に、電話の向こうで松尾先生が息を飲む音が聞こえた。「本気ですか?」
「本気です。もう決めました。」
「わかりました。すぐに手続きを開始しましょう。」
私は次に、知り合いの不動産業者に連絡を取った。
「水田です。実家の査定をお願いしたいのですが。」
「さ子さん、お久しぶりです。査定ですか?ええと、できれば今日にでも。」
「今日?それは急ですね。」
「事情があるんです。売却も早急に進めたいので。」
相手は私の真剣な声を察したようだった。「わかりました。1時間後に伺います。」
電話を切ると、私は残りの重要書類も確認した。株式の証券、投資信託の明細、そして複数の定期預金証書。総資産を計算すると、約8000万円。
息子夫婦は私を「お荷物」と呼んだ。でも、このお荷物には、彼らが想像もできない財産があったのだ。
ドアをノックする音がした。「母さん、大丈夫?」司の心配そうな声が聞こえる。今更、何を心配しているのだろう。
「大丈夫よ。荷造りをしているから。」
「本当に出ていくつもり?」
「あなたたちが望んだことでしょう。」
ドアの向こうで、息を呑む気配がした。「話し合おうよ。」
「もう話すことはないわ。」私は冷たく答えた。「縁を切ると言ったのは、彼らの方です。」
1時間後、不動産業者が到着した。私は司夫婦に気づかれないよう、裏口から業者を招き入れた。
「この家、立地も良いですし、状態も素晴らしい。4500万円は確実につきますよ。」
「すぐに見つかりますか?」
「この条件なら、1週間もあれば…」
「もっと早くできませんか?」
業者は驚いた顔をした。「そんなにお急ぎですか?」
「ええ、できれば3日以内に。」
「それは…少し値段を下げれば可能かもしれません。」
「4000万円でも構いません。現金一括払いの相手を優先してください。」
私の早急な対応に、業者は目を丸くした。「本気ですか?」
「本気です。」
こうして、私の計画は着々と進んでいった。
夕方、私は最後の準備として銀行に行った。私の口座から司の口座への自動送金を、全て停止する手続きをするためだ。彼は知らないだろうが、住宅ローンだけでなく、光熱費も固定資産税も、全て私が援助していたのだ。
全ての手続きを終えて帰宅すると、司夫婦はリビングでくつろいでいた。
「あ、母さん。どこ行ってたの?」
「ちょっと用事よ。」
希恵が皮肉っぽく言う。「もう出ていく準備はできたんですか?」
「ええ、着々と進んでいるわ。」
二人は安心したような顔を見せた。愚かな人たち。自分たちの悲惨な運命も知らずに。
翌朝、私は早朝5時に起きて、最後の準備を整えた。スーツケース2つに必要最小限の荷物をまとめ、残りは全て処分することにした。朝食の準備はしない。今日で、全てが終わるのだから。
7時過ぎ、司夫婦が起きてきた。
「あれ、母さん。朝ご飯は?」
「今日からは、自分たちで作ってください。」
希恵が眉をひそめた。「あるうちは、ちゃんと仕事してくださいよ。」
私は静かに微笑んだ。「もう、私の仕事は終わりました。」
そして、ダイニングテーブルに封筒を置いた。
「これは?」司が不審そうに封筒を手に取る。
「読んでみてください。」
彼が封を開けると、中から数枚の書類が出てきた。不動産売買契約書。
「何これ?」司の顔が青ざめていく。「本物物件とせが役…これ、うちの住所じゃないか。え、この家を売却した?」
希恵が立ち上がった。「売却って、何の冗談ですか?」
「冗談ではありません。この家は私の名義ですから。」
司が書類を震える手でめくる。「所有者、水田さ子…そんな、まさか。」
私はもう1枚の書類を取り出した。「登記簿です。これが証拠です。この家は最初から私のものでした。」
司は言葉を失い、へたり込んだ。「でも、俺がローンを…」
「あなたは1円も払っていません。全て私が支払っていました。」
希恵が叫んだ。「嘘よ!司さんが毎月払ってるって…」
「通帳を確認してみてください。引き落としの形跡はないはずです。」
司は慌てて財布から通帳を取り出した。そして、顔面蒼白になる。「本当だ…引き落とされてない…」
35年ローンのはずが、実は私が5年で完済していたのだ。
この時、玄関のチャイムが鳴った。
「失礼します。不動産会社の山中です。」
私が玄関を開けると、不動産業者と買主の方が立っていた。
「水田様、おはようございます。引き渡しの件で伺いました。」
息子夫婦が慌てて玄関に駆けつける。「ちょっと待ってください。話が違う。」
山中さんは困惑した表情を見せた。「申し訳ございません。どちら様でしょうか?」
「息子です。この家の住人です。」
「ああ、なるほど。水田様からお聞きしています。1週間以内の退去ということですので。」
希恵が悲鳴のような声をあげた。「1週間?そんな急に無理です!」
私は冷静に答えた。「私を追い出そうとした時は、『今すぐ』と言っていたじゃないですか。1週間もあれば十分でしょう。」
「母さん、こんなことして何になるんだ?」司が必死に訴える。
「これは正当な不動産取引です。何も問題ありません。」
山中さんが書類を取り出した。「売却代金4000万円は、本日水田様の口座に振り込まれます。」
「4000万円…」司は呆然とその金額を繰り返した。
買主の方が前に出てきた。「初めまして。来週から住ませていただく山本です。素敵な家ですね。」
「ありがとうございます。大切に使ってください。」私は山本さんと握手を交わした。
「母さん、待って。考え直してくれ。」司が私の腕を掴んだ。
「離してください。もう私たちは家族ではないのでしょう。」
「あれは言いすぎただけだ。」
希恵も泣きそうな顔で訴える。「お母さん、お願いします。謝りますから。」
「謝る?何を謝るんですか?」
「全部です。『お荷物』なんて言って、本当にごめんなさい。」
私は首を横に振った。「もう遅いです。縁を切ると言ったのは、あなたたちです。」
そして、もう1つの封筒を渡した。「これは光熱費と固定資産税の請求書です。今まで私が払っていた分です。」
司が中身を見て、顔色を変えた。「月々8万円も…」
「ええ、来月からは自分たちで払ってください。あ、でも、もうこの家には住めませんけどね。」
私はスーツケースを手に取った。「では、私はこれで。」
「待って!母さんはどこに行くんだ?」
「それは、あなたたちには関係ありません。」
玄関を出ると、高級ハイヤーが待っていた。運転手が降りてきて、荷物を積み込んでくれる。
「水田様、ホテルまでお送りいたします。」
「ホテル?」司が驚きの声をあげた。
「帝国ホテルのスイートルームを、1ヶ月予約してあります。」
希恵が息を飲んだ。「スイートルームって、1泊いくらするの?」
「心配しないでください。私のお金ですから。」
車に乗り込もうとすると、司が必死に呼び止めた。「母さん!」
私は振り返った。「『母親なんていらない』と言ったのは、誰でしたっけ?」
「あれは…」
「さようなら。」
車のドアが閉まり、ハイヤーは静かに走り出した。バックミラーに、呆然と立ち尽くす息子夫婦の姿が小さくなっていく。
その時、私の携帯が鳴った。司からだ。着信拒否に設定した。
ホテルに着くと、広々としたスイートルームが私を迎えてくれた。窓からは皇居の緑が一望できる。
「ようやく自由になれたわ。」私は深呼吸をして、ソファに腰を下ろした。
1時間後、松尾弁護士から連絡があった。「さ子さん、全ての手続きが完了しました。」
「ありがとうございます。」
「それにしても、思い切ったことをされましたね。公開はしていません。息子さんから事務所に何度も電話がありましたが、全てお断りしました。」
「それで結構です。」
電話を切ると、私は優雅にルームサービスを注文した。
3週間後、松尾弁護士から興味深い報告があった。「さ子さん、息子さん夫婦の様子ですが…」
「どうかしましたか?」
「アパート探しに苦労されているようです。保証人もいないし、貯金もほとんどないようで。」
「そうでしょうね。今まで全て私に頼りきりでしたから。」
「それと、奥様の方が精神的に参ってしまったようで、実家に帰られたそうです。」
「あら、そう。」
「息子さんは会社も休みがちになり、反響状態だとか。」
「反響?自業自得というものです。」
「さ子さんに会いたいと、必死に探し回っているようですよ。」
「会う必要はありません。」
私は窓の外を眺めながら、静かに微笑んだ。「『いらない』と言った報いを、今頃思い知っているでしょう。」
あれから1ヶ月が経った。私は都心の高級マンションを購入し、新しい生活をスタートさせていた。リビングの大きな窓からは、東京の美しい夜景が一望できる。静かで落ち着いた環境は、まさに私が求めていたものだ。
「今日はお花のお稽古の日ね。」私は手帳を確認しながら、優雅なひと時を過ごしている。銀行員時代は忙しくてできなかった趣味に、今は思う存分時間を使えるのだ。
午後、お稽古教室から帰ると、管理人さんが声をかけてくれた。「水田様、またどなたかがお尋ねになっていましたよ。」
「そう。追い返してくださったんですね。」
「はい。男性の方でしたが、水田様の指示通りお断りしました。」
司だろう。もう5回目だ。いつまで諦めないのだろうか。
部屋に戻ると、留守番電話にメッセージが入っていた。知らない番号だったが、聞いてみることにした。
「お母さん、希恵です。お願いします。1度だけでも会ってください。」
希恵の声は、以前の傲慢な響きは消え、すっかり弱々しくなっていた。「司さんと別居することになりました。でも、それは私が悪かったんです。お母さんの大切さが、今になってわかりました。」
別居?そうですか。でも、もう私には関係のないことだ。
メッセージは続く。「お母さんは仕事もやめてしまって…私のせいです。私があんなひどいことを言ったから…」
今更、何を言っているのだろう。私は冷静にメッセージを削除した。
翌日、私は銀行時代の友人たちとランチを楽しんでいた。
「さ子さん、本当に生き生きしてるわね。ストレスがなくなったからかしら。」
友人たちは私の変化に驚いていた。「息子とは、最近縁を切りました。」
一瞬の沈黙の後、年配の友人が口を開いた。「それが良かったのかもしれないわね。さ子さん、前は本当に疲れた顔してたもの。」
「子供のために尽くすのが当たり前だと思っていました。でも、違ったんです。親にだって、自分の人生があるものね。」
友人たちは、理解を示してくれた。これが本当の友人というものだろう。
その夜、私の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。出てみると、司の会社の上司だという人だった。
「突然すみません。水田さんのご子息の件で…」
「申し訳ありませんが、もう息子はいません。」
「え?でも、司君が…」
「縁を切りましたので。失礼します。」
私は電話を切った。会社にまで迷惑をかけているようだが、それも自業自得だ。
1週間後、驚くべき人物から手紙が届いた。希恵の母親からだ。
「さ子様、突然お手紙を差し上げる無礼をお許しください。娘の希恵が大変なご迷惑をおかけしたと聞きました。」
手紙には、希恵が実家で泣き暮らしていること。私への謝罪の言葉を繰り返していることが書かれていた。
「さ子様がどれほど司さんと希恵のために尽くされたか、今になって娘から聞きました。8000万円も資産をお持ちだったとは、私たちも知りませんでした。」
そして最後に、こう書かれていた。「娘は『お母さんは宝物だった。それを粗末に扱った自分が許せない』と申しております。」
宝物?今更そんなことを言われても、もう遅いのだ。私は手紙を丁寧に折りたたみ、引き出しにしまった。返事を書くつもりはない。
ある日、私が美術館からの帰り道、偶然司の姿を見かけた。やつれた顔、よれよれの服。まるで別人のようだった。私を探して、この辺りをうろついているのだろうか。
私は気づかれないよう、反対方向へ歩き始めた。すると、背後から声が聞こえてきた。「母さん!」
振り返ると、司が走ってくる。「母さん、やっと見つけた。」
「どちら様でしょうか?」私は冷たく言い放った。
「母さん、俺だよ。司だよ。」
「申し訳ありませんが、人違いです。」
「母さん!」司は私の前に膝をついた。公衆の面前で、40過ぎの男が膝をついているのだ。「お願いだ。許してくれ。俺が間違ってた。」
「何のことか分かりません。」
「母さんがいないと、何もできないんだ。仕事もやめちゃって、希恵とも別れて…」
それがどうしたというのだろう。
「毎日が地獄なんだ。母さんに会いたくて、探し回って…」
「ですが、私には関係ありません。」
司は泣き始めた。「お金なんていらない。家もいらない。ただ、もう一度『母さん』と呼ばせてくれ。」
私は司を見下ろした。哀れな姿だ。でも、同情する気持ちは湧いてこない。
「あなたは『母親なんていらない』と言いました。その言葉通り、私はもうあなたの母親ではありません。」
「あれは希恵に言わされて…」
「言い訳は無用です。」
「母さん、お願いだ!」
司の叫び声を背に、私は歩き続けた。振り返ることはない。
マンションに戻ると、私は大きく深呼吸をした。ようやく、本当の意味で過去から解放された気がする。
夕暮れ、私はバルコニーでワインを楽しんでいた。眼下に広がる東京の街並みは、宝石箱のように輝いている。
これが私の選んだ人生。8000万円の資産は、私の自由を保証してくれている。毎月の配当収入だけで、優雅な生活を送るには十分だ。
時々、司のことを思い出すことがある。でも、もう心は痛まない。親を「お荷物」と呼び、「いらない」と切り捨てた報い。それを今、彼は味わっているのだ。
私には新しい友人もでき、趣味の仲間も増えた。私の過去を詮索することなく、今の私を受け入れてくれている。
先日、お花の先生がこんなことをおっしゃった。「水田さんは、本当に美しい生き方をされていますね。」
「ありがとうございます。やっと、自分の人生を生きられるようになりました。」
「お子様は?」
「いません。」私は微笑みながら答えた。嘘ではない。もう、私に息子はいないのだから。
司の反響の日々は、まだ続いているようだ。でも、それは彼らが選んだ道の結果だ。親の愛情を当たり前と思い、感謝を忘れ、最後には存在さえ否定した。その代償がどれほど大きいか、今頃思い知っているだろう。
私は立ち上がり、部屋に戻った。明日は友人たちと温泉旅行だ。
「自由って、素晴らしいわ。」
鏡に映る私の顔は、かつてないほど輝いていた。これが、理不尽に屈しなかった者だけが手にできる、真の勝利なのだ。



