「え、整備士がその格好で来たの?受けるんだけど。」合コンの席で、初対面の連中にそう言われた瞬間、俺はこの場に来たことを心底後悔した。友人の頼みで渋々参加しただけなのに、ブランドバッグを弄る女と、スーツを着た御曹司は、俺のツナギ姿を見てクスクス笑う。「車いじりが好きなんだ。へえ。」「でもそれってちゃんと稼げてるの?」彼らの冷たい視線が全身に突き刺さる。俺は「用事を思い出した」と席を立ち、駐車場…

「え、整備士がその格好で来たの?受けるんだけど。」合コンの席で、初対面の連中にそう言われた瞬間、俺はこの場に来たことを心底後悔した。友人の頼みで渋々参加しただけなのに、ブランドバッグを弄る女と、スーツを着た御曹司は、俺のツナギ姿を見てクスクス笑う。「車いじりが好きなんだ。へえ。」「でもそれってちゃんと稼げてるの?」彼らの冷たい視線が全身に突き刺さる。俺は「用事を思い出した」と席を立ち、駐車場...

「え、整備士がその格好で来たの?受けるんだけど。」

その一言で、週末の合コンに参加したことを心底後悔した。友人の大輔に「人数が足りない」と頼まれて、渋々顔を出しただけなのに、初対面の連中からいきなりダメ出しを食らうとは思わなかった。

「車いじりが好きなんだ。へえ。」
「でもそれってちゃんと稼げてるの?オイルまみれでやばそうだよな。」

一人はブランド物のバッグを弄りながら鼻で笑い、もう一人は俺のツナギ姿を上から下まで眺めてはクスクスと笑う。目の前にはカクテルやワインが並んでいるが、全く喉を通りそうにない。彼らの冷たい視線が全身に突き刺さり、背筋が凍りついていく。

「悪い、ちょっと用事を思い出したんで帰るわ。」

席を立つと、金持ち連中は面白がって俺の後をついてきた。

「どんなボロ車乗ってるのか見てやろうぜ。」

しかし、俺がとある高級車の前で足を止めると、彼らは顔を真っ青にさせた。

「ま、マジかよ。なんでお前がこんな車に…」

俺の本当の姿を知った金持ちたちは震え上がるのだった。だって、俺の正体は…。

俺の名前は高村シンヤ。今、都内の小さな車の整備工場で働いている。朝から晩まで油にまみれ、工具を握りしめてはエンジンを覗き込む日々。いわゆるメカニックってやつだ。

幼い頃から車が大好きで、「どんな車でも俺が蘇らせて見せる」って息巻いていた時期もあった。実際、エンジンから微かな異音が聞こえても、ひたすら原因を突き止めるまで諦めない。調子を取り戻した車が再び快音を響かせる瞬間は、何度味わっても飽きることがないんだ。

整備工場の空気には独特のオイルの匂いが染みついている。朝の冷たい空気を吸い込みながらシャッターを開ける時は、「今日も気合い入れていくか」と自然に胸が高鳴る。手が汚れようが服が油まみれになろうが、どこか誇らしい気持ちになるんだよな。車を愛してるって、こういうことなんだと思う。

俺の仕事は外から見れば肉体労働だし、キラキラした職種じゃない。しかし、俺にはこの仕事にこそ誇りを感じている。地味な修理や細かいメンテナンスの繰り返しでも、エンジン音が変わるたびに車の声を聞いている気分になる。そうやって1台1台を大事に仕上げ、オーナーの元へ戻す瞬間が心の底から嬉しい。

その日、昼休憩にコンビニ弁当を温めようとレンジの前で待っていたところ、スマホが震えた。画面に映った名前は樋口大輔。高校時代からの付き合いで、最近は少し疎遠になっていたが、俺にとっては数少ない友人の1人だ。

「おい、シンヤ、元気にしてるか?」
「まあな。どうした?」

電話越しの大輔は、んだ声で週末時間があるかと尋ねてきた。俺が特に予定はないと答えると、「実はちょっと人数合わせの合コンに来てくれないか」という。合コンなんて柄じゃないし、こういう場はどうにも苦手だ。だが、「頼むよ。誰も捕まらなくてさ。気楽な飲み会だし、みんなで盛り上がればいいから」と懇願されると、なかなか断れない。俺は少し迷いながら「まあいいけどよ」と返事をした。すると大輔は「助かる。場所と時間はメールするから頼むな」と満足そうに言い、電話を切った。

合コンという響きに不安がなかったわけじゃないが、とりあえず週末の予定が1つ埋まったという事実だけが残った。

迎えた合コン当日、俺はいつものように朝から整備工場で作業していたのだが、想定外のトラブルが立て続けに起こり、予想以上に時間を取られてしまった。時計を見ると、合コン時刻まであと30分もない。いくらなんでも、今から一度家に戻って着替えたりしていたら完全に遅刻だ。

「すまん、大輔。今からだと間に合いそうもない。やっぱり今回は辞退させてくれないか?」

電話越しの大輔は、予想していたのか「いや、そんなこと言わず来てくれよ。すでに人数分の席取ってあるし。お前が来ないと困るんだって」と懇願してくる。合コンなんて行きたくない気持ちは山ほどあったが、ここまで言われては仕方がない。渋々承諾の返事をすると、大輔は安堵のため息を漏らしてから「何も気にせず、そのまんまの格好でいいからさ」と付け加えた。

とはいえ、工場から直接向かうとなれば、油やグリスで汚れた作業着のまま参加することになる。さすがにそれはまずいだろうと、作業場のロッカーを引っかき回すと、ちょうど新品のツナギが1枚残っていた。

「お、ラッキー」

と呟きながら袖を通すと、作業用とはいえ新品のツナギは意外にも悪くない着心地だった。作業着姿で高級レストランへ向かうなんて、自分でも冗談じゃないと思う。だが、大輔のためにも人数合わせに一肌脱ぐと決めた手前、ここで投げ出すわけにはいかなかった。少しでも汚れが目立たないようにつなぎを整えながら、俺は高級感溢れる都心の街へと急いだ。

指定された店は、普段俺が縁のないようなおしゃれなダイニングバーだった。表のガラス張りの扉を開けると、店内は落ち着いた照明で、スーツを着た人々が並ぶバーカウンター越しに、磨かれたグラスが並べられている。俺は場違いな気分に少々緊張しながら、大輔に聞いていた個室へと通された。

扉を開けると、そこにはすでに男女数名が着席していた。大輔が俺を見つけ、「おう、こっちこっち」と手招きする。その声を目印に視線をやると、何やらドレスアップした華やかな女性たちがずらりと並んでいるではないか。

「よろしくお願いします」

とぎこちなく頭を下げる俺。思っていたより、いや想像以上にお嬢様感が漂う連中ばかりだ。髪から爪の先、バッグやアクセサリーまで完璧な統一感がある。こんな人たちと俺が同じテーブルにいるのは、どうにも落ち着かない。

どうやら大輔の取引先関係で知り合った女性グループらしい。高級ホテルでパーティーを開催するような、そう言えばイメージが伝わるだろうか。男性側は大輔の他にもう1人だけいて、そいつはスーツをばっちり着こなし、ネクタイの色やポケットチーフまで完璧にコーディネートしていた。しかも、その男は俺の方をチラチラ見ながら、何かにつけて嫌味を言っているように見える。多分、俺の服装のせいだろう。

俺が席につくや、テーブルの向こうにいた1人の男性が、あからさまに顔をしかめた。

「大輔、こいつ誰だよ。こんなん連れてくるなんて聞いてねえんだけど。」
「いや、確かに誰でもいいから連れてきてくれとは言ったけどさ、人間違えてねえか?」

見下すようなその口調を耳にして、俺は思わず目をそちらへ向ける。スーツ姿で髪型もきっちり決めている。いかにも育ちの良さそうな男だが、その瞳にはプライドと傲慢さが滲み出ていた。大輔が小声で「シンヤ、あいつ、日立大和。取引先の御曹司なんだ」と説明してくる。大輔は苦い顔をして、慌てて頭を下げるようにして謝っている。

「す、すみません。ちょっと人数合わせが間に合わなくて、急遽呼んだんです。そいつは高校の同級生で…」

しかし、大和はまるで聞く耳を持たない。

「まあ、座れば。せっかく来たんなら盛り上げてくれよ。」

と、どこか小馬鹿にした調子で言い放つ。向かい側では、ドレスアップした女性たちが俺を一目見てクスクス笑っているのが分かる。

「悪い」と小声で大輔が耳打ちしてくる。「ちょっとだけ我慢してくれ。2時間もすりゃ解散できると思うから。それまでなんとか耐えてほしい。埋め合わせはするからさ。」

俺は苦笑いを浮かべて「気にすんな」とだけ返事をした。すでにこの場に座るだけで相当な気まずさを感じるが、数合わせとして呼ばれた以上、今更帰るわけにもいかない。肩身が狭い合コンの席に腰を下ろしながら、できれば早くお開きになってほしいと心の中で願うしかなかった。

だが、その直後、軽い自己紹介タイムが設けられた。

「そんじゃあ改めて自己紹介でもするか。俺は日立大和。日立コンセルンの御曹司ってやつだな。親父の会社を継ぐために色々と勉強中さ。」

続いて女性陣が名乗り始めると、その会社名や家柄はどれも耳慣れたものばかり。死ニ舗チェーンの一人娘や大手企業の役員令嬢、リゾート開発企業の社長令嬢。どの名前もテレビや雑誌で見かける有名なものだ。彼女たちは当然のように自分たちのステータスをひけらかし、マウントの取り合いが始まる。口調こそ上品に取り繕っているが、その内容は「どこの国のリゾートが良かった」とか「父の会社が急成長している」とか、互いの浮世離れした世界を張り合うような自慢話だ。

やがて一息ついた女性が「じゃあ、そちらの方は?」と俺を指差す。

「高村シンヤです。車の整備工場で働いてます。」

それだけを述べると、待ってましたとばかりに女性陣はクスクス笑い声を交わす。どこか上品ぶった仕草でグラスをいじりながら「へえ、大変そう」などと、興味のなさそうな感想ばかり。

自己紹介が一通り終わり、やや静寂が落ちると、再び大和が声を張り上げて話題を振り始める。

「ところでさ、整備士って普段どんな仕事してんの?この場の女性陣はさ、そういう泥臭い世界に触れる機会がないから、ちょっと興味あるっていうかねえ」

と、わざとらしく令嬢たちに同意を求める。その瞬間、クスクスという笑いがまた戻ってきた。

「まあ、興味といえば興味だけど、私たちには遠い世界だよね。」
「でも、体は強いんじゃない?どうなの?」

笑い混じりの会話が続く中、俺は大輔が真顔で「本当すまん」と無言の謝罪を繰り返すのを横目で見ながら、ますます早く終わってくれと心の中で叫ぶしかなかった。合コンなんて呼ばれ方をしていたけれど、これは一体何の茶番なんだろう。そんな虚しさばかりが募っていく。

それから1時間ほどが経った。盛り上がっているのは一部のメンバーだけで、俺は全く会話に入れない。無理に話を振られても、どう返せばいいのか分からない。大輔は俺の窮状を察して何度か声をかけてくれたが、結局「ちょっと、もう帰らせてもらうわ」という言葉を止めることはできなかった。

「悪いな、俺、明日の朝も早いし」

と適当に理由をつけて席を立とうとすると、大和が鼻で笑って「そりゃ、お前にはここは場違いだろうよ」と言い放った。その目はまるで汚いものを見るかのようで、俺の神経を逆撫でする。一方、令嬢たちも「え、もう帰るの?」とか「せっかくなんだから、もう少しいればいいのに」と形式的に言うだけ。さすがにこういう空気に居続けるのは疲れる。

「悪いな、大輔。後で連絡するわ。」

そう言い残し、俺は個室を出た。大輔のために数合わせで来ただけとはいえ、こんな目に遭うとは思わなかったなと、少しがっかりした気持ちを抱えながら店の外に出る。駐車場に戻って愛車の元へ向かおうとすると、後ろから数人の笑い声が聞こえてきた。振り返ると、店の扉付近に大和や大輔、それから令嬢たちが出てきていて、こっちを指差している。

「おい、あいつの車見物じゃないか。せっかくだから、どれだけ見窄らしいか拝ませてもらおうぜ。」

大和は皮肉たっぷりにそう言うと、取り巻きたちも面白がるように笑う。大輔だけは気まずそうな顔をしていたが、口を挟めないようだ。俺は正直うんざりしたが、ここまで言われたら逆に見せてやろうという気分になり、無言のまま駐車場の奥へ歩き出した。

青く塗装されたスポーツカーが、控えめな街灯に照らし出される。ドアの丸みと滑らかなボディラインは、フェラーリの中でも比較的新しいモデルだ。

「あ、フェラーリだ!」
「嘘でしょ?こんな作業服の整備士が…」

大和や令嬢たちは明らかに衝撃を受けている。さっきまでの調子が嘘のように、一瞬静寂が落ちる。俺はドアロックを解除し、運転席に滑り込む。すると、駆け寄ってきた大和が半ば叫ぶように問いかけた。

「お、お前、なんでそんな車に乗ってるんだ?一体何者だよ。」

俺はキーを回してエンジンをかけた。低く重厚なサウンドが闇に響き渡る。ウィンドウを下ろし、大和に視線を向ける。

「別に隠してたわけじゃないさ。俺はただ車の整備が好きで工場で働いてるだけだ。けど、実は自動車整備会社の社長でもあるし、産業廃棄物処理やら何社か経営に関わってる。社長って言っても、現場が好きだからこうして作業してるだけなんだけどな。」

大和は言葉を失ったまま、「わっ」と唇を震わせている。令嬢たちも「え、社長?嘘…」と信じられないと混乱気味だ。俺はゆっくりと続ける。

「俺は金の話を人にひけらかすつもりはないし、そういうの興味もない。でも、わざわざ人を呼んで見下すのは最低だな。お前がどんな御曹司だか知らんが、そっちの方がよっぽど場違いじゃないか。」

大和はさっきまでの余裕が一瞬で崩れ去り、顔を真っ青にさせ、脇にいた令嬢たちも気まずそうに顔を見合わせている。

「じゃあな、大輔。この埋め合わせは今度してもらうからな。」

そう言い残し、俺は軽くアクセルを踏む。甲高い排気音が暗い路地にこだまし、フェラーリはスムーズに駐車場を後にした。ルームミラー越しに見えるのは、呆然と立ち尽くす大和や令嬢たちの姿。あれだけ馬鹿にされた俺が、実は複数の会社を経営する社長だと知り、頭の中が真っ白になっているのだろう。心の底からスカッとしたわけではないが、一矢報いたとは思う。

車が夜の大通りへと滑り込むと、エンジンの鼓動が心地よく響く。怒りと屈辱で煮え立っていた胸が、少しだけ晴れたような気がした。

それから数日後、いつものように早朝から工場のシャッターを開け、まだ寝ぼけまなこのまま工具を手に取って点検作業を始めていたら、外で車のエンジン音が聞こえた。最初はただの業者か何かだろうと気にも止めなかったが、そのエンジン音がやたらと静かで、しかも高級車特有の低く滑らかな響きがあった。思わず手を止め、半分開いたままのシャッター越しに視線を向けると、真っ白な車体が光を反射していた。

まず工場の前に止まったのは、大輔が普段使っているワンボックスカー。続いて、少し遅れてもう1台、高級車が滑り込むように止まった。運転席から降りてきた大輔が手を振る。その隣の高級車のドアが開き、すらりと伸びる美脚を包んだ上品なドレス姿の女性が現れた。先日の合コンで、あの傲慢な御曹司の隣で見かけた姫川レナだ。

「おう、どうしたんだ、お前ら。」

俺は作業着の胸元を手で軽く払いつつ、彼らに近寄る。大輔は罰が悪そうに視線を落とし、頭をかきながら口を開いた。

「悪かった。この間は本当にすまなかった。あそこまで大和がやるとは思ってなくてさ。お前に不快な思いをさせてしまったこと、改めて謝るよ。」

その言葉は、合コンの席で散々見下された俺に向けたものであるのは間違いない。大輔が頭を下げる姿を見て、俺も少し胸がちくりとした。別に奴が全部悪いわけじゃないのに。律儀にこうして謝りに来る辺り、やっぱり昔からの友人だ。俺は工具を脇に抱え直し、わざと明るい声で応じる。

「いいって。人数合わせだろ。仕方なかったんだろう。まあ、その代わり今度なんか奢れよ。腹いっぱい焼肉とか、車のパーツとか、俺が選んだら高いぜ。」

冗談めかして俺が言うと、大輔は「それくらい構わん」と苦笑しながらも力強く頷く。彼の目尻が、少し安心したように緩んで見えた。

一方、レナは俺に一礼し、「この間は突然失礼な場面に巻き込んでしまって、ごめんなさい」と丁寧に頭を下げてくる。合コンの時は周囲の目もあってか、彼女自身もどこか遠慮がちに見えた。しかし、こうして目の前で話すと、その澄んだ瞳やしなやかな姿勢には真の強さが感じられる。令嬢らしい繊細なオーラはあるが、決して嫌味な感じではない。むしろ、目線を合わせ真摯に言葉を紡ぐ様子に好感を抱いた。

「いや、姫川さんが謝ることじゃないだろう。俺は気にしてないって。要件は何だ?まさかまた合コンってわけでもないんだろう。」

そう促すと、レナは少し笑顔を見せ、車のボディを一瞥してから口を開いた。

「実は、車の定期点検をお願いしたくて。いつもはディーラーに任せていたんだけど、シンヤさんがエンジンのことをすごく大切に考えているって大輔さんから聞いて。私も大事にしている車だから、信頼できる人に見て欲しいの。」

その言葉には、一種の熱意さえ感じられた。ディーラーなら手間なく丁寧にやってくれるし、彼女の家柄を考えればVIP待遇で受けられるはずだ。それでも、わざわざこんな小さな整備工場を選んで足を運んできたってことだよな。俺は思わず胸が高鳴る。車への情熱を認めてもらえたような気がして、嬉しさが込み上げる。

「そりゃありがたい申し出だな。俺でよけりゃ、喜んでやらせてもらう。見たところ、この車エンジンはV型だよな。まだ年式も新しいし、大きな不具合はないと思うけど、細かい部分はしっかりチェックしたい。メーカー純正の診断ツールもあるし、部品取り寄せのルートも一応持ってるから、何でも言ってくれ。」

そう言いながら、俺はもう心の中で構造図を思い浮かべ始めていた。欧州車特有の電子制御系とサスペンションの状態、ブレーキパッドの磨耗具合。やりたいことはいくらでもある。高級車だからこそ、部品の1つ1つにこだわりが詰まっていて、その分やりがいも大きい。大きな修理じゃないなら、急ぎで終わらせることも不可能じゃない。

「もし急ぎなら、すぐにでも取りかかるぜ。」

そうすると、レナは短く頷き、「じゃあ、お願いするわ。私、急いで帰る用事はないし、ここで待っていても大丈夫かしら」と遠慮がちに尋ねる。工場の中はオイルやグリスの匂いがこびりついているし、休憩所もプレハブ小屋のように無機質な部屋だ。長時間過ごすには正直ほど遠い環境だけど、それでも構わないというのだろうか。

「いいけど、あんまり快適じゃないぞ。作業の音もうるさいし、下手すりゃ服に汚れが飛ぶかもしれない。」

俺がそう言うと、レナは「あら、大丈夫よ。そういうのをあんまり気にしないタイプだから」と笑った。その様子を見た大輔が「じゃあ、俺はそろそろ会社に戻るよ。レナさん、本当にここにいて平気か?」と心配そうに声をかける。しかし、レナは控えめな笑顔を浮かべつつ「ええ、大丈夫。大輔さんはお仕事があるんでしょ?私はシンヤさんに車のこと色々教えてもらいたいし」と微笑んだ。大輔は「分かった。頼むわ」とだけ言って、深々と頭を下げると、自分の車に乗って帰っていった。

その背中を見送りつつ、俺はつい先日の合コンの光景を思い出し、「こんな展開になるとは、人生分からないもんだな」としみじみ思う。さて、2人きりになってしまった工場には、俺の愛する車たちとオイルの匂い、そして見慣れぬ高級車と令嬢がいる。場違いどころか、これほど不思議な組み合わせはなかなかないだろう。しかし、俺の胸は期待で膨らんでいた。なかなかお目にかかれない高級車を自分の手でメンテナンスし、しかもオーナー本人もその作業に興味を示してくれている。

「よし、じゃあ早速始めるか。とりあえずボンネット開けるから、そこに立っててくれ。説明しながらやってみせる。」

ボンネットを持ち上げると、ピカピカに磨かれたカバーが目に飛び込む。大型のエンジンが収まる広い空間に、無数のパイプやホースが綺麗に這わされている様子は、芸術品にも近い。レナは吸い込まれるように覗き込みながら、俺は目視点検を開始した。

「やっぱりすげえな。あ、いや、失礼。でも、こういう車って本当に作りが丁寧なんだよ。ほら、この配管の精密さ。日本車とはまた違う美しさがある。こういうの興奮するんだよな。」

思わず独り言のように漏らした言葉に、レナはくすっと笑った。

「うちの父も同じようなことを言ってたわ。車は芸術だって。」

その言葉を聞くと、一瞬だけ俺の心が温かい何かに包まれた気がした。

「そいつは好みが合いそうだな。じゃあ、しっかり調子を整えて、最高の状態にして返すとするよ。」

そう宣言して、俺は工具を手に取り、油にまみれる覚悟で作業用の手袋をはめた。

作業に没頭していたら、いつの間にか午後も遅い時間になっていた。気づけば日が傾き、工場の外からは赤色の光が差し込み始めている。点検は概ね完了し、残るは細かい仕上げだ。エンジンルームの奥深くまで覗き込んでいた俺は、ふと視線を感じて顔を上げると、入り口の方で控えめに立っているレナの姿を見つけた。

「ああ、悪い。ずっとここにいたのか。作業に熱中しすぎて、レナがいるのをすっかり忘れてた。」

「うん。気にしないで。シンヤさんの仕事ぶりを見てるとなんだか引き込まれちゃって。」

レナは恥ずかしそうに微笑んでいた。ドレスアップした華やかな姿も似合っていたが、こうしてシンプルなワンピース姿で工場に佇んでいると、どこか儚げな雰囲気もある。薄汚れた作業場と彼女の精錬なオーラが対照的だけど、不思議と嫌味は感じない。

「もう少しで終わるから、悪いけど待っててくれ。あんまり大した休憩スペースもないけど、疲れたらあそこの丸椅子にでも座ってていいからさ。」

「ありがとう。でも、もうそろそろ片付きそうなんだよね。」

「ああ、あと洗車して仕上げるくらいで完了だ。エンジン周りの消耗品はちゃんと交換しておいたし、オイルも全部新品。かなり調子が良くなってると思うぞ。」

そう言って、俺は雑巾で軽く手を拭いてから、通り道に置いてあった工具を片付け始めた。すると、レナが静かに口を開く。

「シンヤさん、この間本当にごめんなさい。大和さんは昔からあんな感じで、私や大輔さんを含めて周りの人間はあまり逆らえないっていうか、何かと恩や取引が絡んでいるし、相手は大きなグループの御曹司だから。でも、だからってあそこまで失礼なことをしていいわけないのに。」

レナの声はどこか苦しげだった。日立コンセルンの御曹司である大和に逆らえず、あの傲慢な態度を止めることができなかった自分を責めているのだろう。彼女に非はないと思うけれど、令嬢という立場は立場で、しがらみが多いのかもしれない。

「気にすんなって。俺がむかついたのは事実だが、もう過ぎたことだし、あいつにどう思われようが痛くも痒くもない。」

そう言いながらも、俺があの場で感じた屈辱が完全に消えたわけではないけれど、正直なところ大和のことより、今は目の前の車とそのオーナーであるレナの気持ちの方が大事だ。俺の言葉に、レナは少しほっとしたように頷くと、視線を下に落とし、小さな声で呟いた。

「ありがとう。でも、実はシンヤさんが車をすごく大事にしている姿を見て、私はそれに惹かれているんだと思う。お金のためとかじゃなくて、好きだからこそ時間を惜しまず真剣に向き合うでしょ。そんなものに対する考え方が私には新鮮に映って、こんなの初めてかもしれない。」

俺は思わず目をまたかせる。

「私、昔から親の敷いたレールというか、お嬢様だからこうあるべきっていう期待にずっと答えようとしてきたの。周りから見れば恵まれているって分かってる。実際、家は大企業で裕福だし、何不自由なく育ってきたから。でも、自分の意思が入る余地はあまりなくて、自分がないみたいに感じることも多いの。」

俺は無言で耳を傾けながら、作業用の手袋を外した。こういう話は、いわゆるお嬢様にありがちな悩みとも言えるが、決して一笑に付すことはできない。人は誰でも、大なり小なり周りからの期待に縛られて苦しむことがあるだろうから。レナの声はだんだんと小さくなる。

「それに、私、小さい頃に母をなくしていて。母はすごく優しくて、でも病気で急にいなくなってしまったの。その時、大事な人を失うのって怖いって、幼いなりに強く感じたの。だから、それからあまり何かに執着したり情熱を注ぎ込むことを、意識的に避けてきたのかもしれない。大切にすればするほど、いなくなった時に耐えられなくなるって分かっていたから。」

彼女の声が震えたように聞こえ、俺は何とも言えない気持ちになった。愛する人を急に失う痛み。それは多分、想像を絶するものだろう。レナがそこからこだわりを持たずに生きてきたというのも、無理はない。

「でもさ、こだわらない人生って、本当にそれでいいのか?俺は何かを愛したり大切にしたりする喜びって、めちゃくちゃ尊いものだと思うんだよ。確かに失う怖さはあるけど、それよりも好きでいる時間の方が長いじゃねえか。」

俺は自分の気持ちを整理するように、ゆっくり言葉を選んだ。

「車が好きでメカニックになった。失うリスクは常にある。思い通りに直せないこともあるし、オーナーが廃車を決断することだってある。でも、それでも車を愛する幸せを捨てようとは思わない。」

俺の言葉に、レナは瞳を潤ませながら真剣な表情で耳を傾けている。

「勇気を出して、これが好きだとかこうしたいってこだわってみると、人生って違った景色が見えると思うぞ。まあ、偉そうに言ってるけど、俺もまだまだ発展途上だ。でもさ、何か1つでいいから、本気で大事にしてみて欲しいんだ。大事にした分だけ、きっと人生は色づくし、誰かにバカにされたって気にする必要なんかないんだから。」

そう言った瞬間、レナは小さく息を飲んだように見えた。

「私、私にも本当にそんな資格があるのかな?」

レナの声は微かに震えている。さっきまではあんなに凛としていたのに、その肩は少し小刻みに揺れていた。俺は瞬時に「姫川さん」と声をかけそうになるが、言葉がうまく続かない。もどかしいが、せめて真剣に向き合うしかない。

「資格なんて大げさすぎるさ。好きになることって、誰にだって許されてると思う。失うのが怖いのは当たり前だろ。でも、もし怖いからって何も大事にしないままだと、きっと寂しいじゃないか。手に入れた喜びを経験しないままで生きるのは、あまりにももったいないだろう。」

俺は自分でも不思議なくらい素直な言葉が出てきて、少し面映ゆいけれど、それが今の俺の本心だ。

「ありがとう。怖いけど、やっぱり私は私なりに大事にしたいものを見つけるべきなんだよね。」

レナが少し涙を拭うように目元に手をやりながら、微かな微笑みを浮かべる。その仕草がやたらと胸に響く。俺も釣られてか、微笑み返した。すると、レナは何か思い出したように軽く息をついて口を開く。

「実はこの車ね、母の形見でもあるの。正確には、この車の一部に母が大事にしていたパーツが組み込まれてるのよ。小さなカスタムパーツだけど。母がいつか自分の子供に渡したいって言ってたものなの。」

言葉の端々から、彼女の母親への思いが滲み出る。母が車好きだったというフレーズを聞いて、「ああ、だから彼女にとって車はただの乗り物じゃないんだ」と納得する。そこには家族の思い出や、消せないぬくもりが宿っているんだ。

「だから、この車だけは絶対に大事にしたいと思ってた。シンヤさんがエンジンのことをすごく大切にしてるって聞いて、この人ならきっと大切に扱ってくれるって、確信みたいなものがあったの。今日見てもらえて、本当に良かった。これからもお願いしていい?」

その問いかけには、迷いなんて微塵もなかった。

「もちろん。エンジンの不調だろうが、ちょっとした傷の修理だろうが、いつでも頼んでくれ。姫川さんの車の調子は、俺が責任持って最高の状態にしてやるよ。」

言い切った瞬間、レナの表情がパッと明るくなった。さっきまで涙ぐんでいたのが嘘みたいに、柔らかな笑顔が咲く。それはきっと彼女にとって大きな一歩。母の形見を正面から愛する決心を固めた瞬間の笑顔だと思うと、こちらまで胸が温かくなる。

「それと、車の整備以外でも、もしレナさんに会ってもいいかな。私のこだわりがまだはっきり形になっているわけじゃないけど、それでもあなたといると色々なものが見えてきそうで、ドキドキするの。」

まさか、こんな風に車のことだけじゃなく、プライベートでも会いたいと面と向かって言われるとは。

「え、えっと、それはもちろん構わない。俺はいつでも暇ってわけじゃないけど、どうにだって時間作るし。でも、俺普段こんなツナギ姿だし。会うって言っても、どんな場所行きゃいいんだ。いい服も持ってないし。」

言葉が妙に焦ってしまい、完全に動揺が声に出ている。令嬢の彼女と出かけるなんて、想像したこともない。高級レストランに行くのか、豪華なホテルラウンジでお茶するのか。考えるだけで場違い感がすごそうだ。そんな俺の様子を見て、レナはくすっと笑った。

「じゃあ、今度買いに行こう。お礼も兼ねて、似合う服をいくつか選んでプレゼントするわ。」

「え、それはちょっと悪いよ。俺の服なんて自分で払うから。」

「遠慮しないでよ。大切な車を整備してくれたお礼ってことでね。」

「分かった。お言葉に甘えさせてもらうよ。けど、その代わりメンテナンスはこれからも格安でやってあげるからな。お互い様ってことでいいだろ。」

言葉を交わし、お互いに笑う。レナは「ありがとう」と優しく笑ってくれた。

静まり返った工場の中で、俺たちはしばし言葉もなく向き合った。外の空気はすっかり夜の気配を帯びている。作業用の照明が車のボディに白い光を投げかけて、美しく反射する。どこか神聖な空気に包まれたようで、俺は少しだけ背筋を伸ばした。

「よし、じゃあそろそろ仕上げの洗車でもするか。せっかくなら、姫川さんもやってみるか?」

思わずそんな提案をしてしまったのは、彼女自身も母の形見となったこの車に触れてみることで、何か得られるものがあるんじゃないかと思ったからだ。彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに「いいわね」と乗り気になってくれた。2人で並んで泡立てたスポンジを握るシーンなんて、俺の人生じゃ想定外だ。だけど、その光景を想像するだけでなぜか心が弾む。

「姫川さん、滑って転ばないように気をつけてくれよ。あと、服に水跳ねるぞ。」

「うん。覚悟はできてる。」

なんだか楽しそう。彼女の柔らかな笑顔が、工場の単色の照明の下でより一層輝いて見えた。俺は思わず心臓が高鳴るのを感じながら、泡だらけのスポンジを手渡す。母の思い出の詰まった高級車のボディを、2人で丁寧に撫でるように洗い上げる。その合間にかわす言葉は多くないけれど、確かに温かい絆が育ち始めている気がした。

夕闇が工場の窓から差し込み始めた頃、2人で丁寧に洗い上げた車は、まるで新品のように輝きを取り戻していた。水滴を吹き取るためにドアを開けたり、ボンネットを覗き込んだりと細かいチェックを続けていると、ひょんなことからとんでもない異変に気がついてしまう。

車体の裏側、さりげなく張り付いている小さな装置。最初は「なんだこれ」くらいの感覚だった。まるでキーホルダーみたいなサイズの黒いケースが、車の底面の目立たない場所に強力な粘着テープで取り付けられている。たまに整備する車の中には、セキュリティ用のパーツや特殊な機器がついていることもあるから、そういう類いかと思って指先でつまんだら、見覚えのあるアンテナモジュールが仕込まれていた。衛星と通信するGPSトラッカーの類いだ。

「姫川さん、これ、心当たりある?」

俺は慌てないよう気をつけながら、レナにひそひそ声で話しかける。すると、彼女は目を丸くして首を横に振った。

「GPS?そんなものつけた覚え、もちろんないわ。ディーラーに出しても、こんな装置は見かけなかったし。父が勝手につけるとも思えない。」

彼女の顔に不安が滲む。そりゃそうだ。自分の車に勝手に発信機なんて、普通じゃない。人によってはストーカー対策で自ら仕込む場合もあるけど、レナの反応を見ているとどう考えても違う。俺はとりあえずその装置を外し、車の下から出て彼女に見せる。

「最近、誰かに監視されてるとか、付け回されるような心当たりはない?」

自分でも陳腐なセリフだと思うが、こんな状況だと仕方ない。レナは暗い表情で少し考え込む様子を見せたが、すぐに「分からない」と首を振る。そりゃ、後継ぎの令嬢だ。寄ってくる連中は山ほどいるだろうが、まさかGPSを仕込むなんて悪質すぎる。

「何しろ危険だから、しばらくは気をつけた方がいいな。セキュリティを見直すか、警察に相談してもいいかもしれない。」

俺がそう言ったその時だった。

「こんなところにいたのか。」

不意に低い男の声が背後から響いた。工場の入り口付近に視線を向けると、そこには見慣れたスーツ姿の男。日立大和が、鋭い目つきのままこちらを睨んでいる。いつの間にシャッターをくぐったのか、足音を忍ばせていたらしい。

「大和さん、どうしてここに?」

レナがぎこちなく問いかけると、大和は肩を竦めるように笑う。鼻で笑っているようにも見える。

「どうして、お前がどこで何をしているか気になったからだよ。言うまでもないけどな。」

そんな言い方をされれば、誰だって嫌な予感がする。まさかこいつがGPSを…と、嫌でも頭に浮かぶ。そして、その悪い推測はあっさり当たった。

「お前たちが騒いでる。それ、GPSだろ?俺がつけたんだよ。」

大和はさも当然のように言い放ち、あろうことか開き直った。握りしめた俺の拳が、思わず硬くなる。許せない。レナも驚いた表情のまま、息を飲んでいた。

「なんでそんなこと?」

レナが声を震わせながら問い詰めるが、大和はまるで悪びれずに答える。

「お前に悪さをされないように見張ってただけさ。俺はお前の婚約者候補なんだぜ。親同士が決めたこととはいえ、お前は俺のものになる可能性が高い。だからこそ、勝手に男と会ってるんじゃないかとか、どこかで変な行動を取ってないか気にしてやってんだよ。」

そう言って、大和は預けるようにニヤリと笑う。言葉の端々から、レナを自分の所有物だと言わんばかりの歪んだ執着が伝わってくる。俺はもう黙っていられなかった。汚れた手を軽く拭いながら、大和に向き直る。

「人の車に勝手にGPSを仕込むのが、見張るって表現で済むか。お前、やってること犯罪スレスレだぞ。いや、もはや犯罪と言っていい。」

自分でも声に怒りが混ざっているのが分かる。だが、大和は鼻で笑って取り合わない。

「企業の顧問弁護士も、こっちには腐るほどいる。俺の家柄を知っていて、お前らが警察が動くと思うか?大した証拠があるわけでもなしに、心配のあまり情報を管理していたくらいで終わりだろう。」

この男、やはり根っから傲慢な上に、権力が自分を守ってくれるという自信がある。正直呆れ果てるばかりだが、こっちは黙って引き下がる気はない。レナの方に目をやると、その瞳に怒りと悲しみが混じり合ったような色が浮かんでいる。

「そんな、大和さん。あなたがそこまで卑劣だとは思わなかった。いくら親同士が決めた婚約候補だからって、人として最低よ。」

レナの口調は震えていたが、その声には確かな意思が宿っていた。すると、大和は渋い顔をして言葉を探すように一瞬黙り込む。それでも、諦める様子は微塵もなく、再びニヤリと笑って開き直った。

「まあ、黙ってたのは悪かったさ。でも、俺は本気でお前が好きなんだよ。逃さないためにGPSをつける。確かにやりすぎかもしれないが、俺はお前を守りたいだけだ。勝手に男に近づかれるのも気に入らないんだよ。何が悪い?」

どこまでも自分本意だ。レナが好きなのは嘘じゃないのだろうが、その方法があまりに歪んでいる。俺は言葉を失いかけたが、レナが静かに息をつき、そして毅然とした表情で言い放つ。

「大和さん、私たち親が決めた縁談の話があるのは事実だけど、私はまだ受け入れると決めたわけじゃない。さっきのGPSのことも含めて、今は少し時間をちょうだい。ちゃんと考えたいの。」

その言葉に、大和の表情が悔しそうに歪む。普段なら令嬢たちが大和に気遅れするところだろうに、レナは負けていない。小刻みに震えた拳を握りしめて、はっきりと「考えさせて欲しい」と告げたのだ。

「そうかよ。まあいいさ。」

一瞬、大和の口元が引き攣り、鋭い目つきで俺の方を睨む。視線には明らかな敵意が宿っていた。もしかすると、レナの決断に俺が影響を与えていると疑っているのだろう。あるいは、こいつを排除すべき存在と判断したのかもしれない。

「姫川も、日立家との結びつきを完全に断ち切れるほど自由じゃない。お前も分かってるだろう。まあ、そのうち気が変わるさ。」

そう吐き捨てると、大和は背を向けて工場のシャッター口へ向かっていく。背後から見ても、その足取りには怒りが滲み出ていた。

「勝手に人の敷地に入った挙句、よくもそんな台詞吐けるな。」

俺も思わず声をあげるが、大和はスーツの背を揺らすだけで振り返らない。気まずい空気が場に残る。やがて、シャッターをくぐり抜けた大和の姿が闇に溶けていく。工場の中には、俺とレナだけが取り残された。彼女は肩を震わせ、懸命に自分の感情を抑えているようだった。

「すまない。俺がもう少し早く気づいて、GPSなんかつけられてないか確認してれば…」

沈黙に耐え切れず、ついそんな言葉をもらす。実際、整備に来た時点でもっと徹底的にチェックしていれば、あんな卑劣な仕込みには気づけたかもしれないのに。しかし、レナは小さく首を振った。

「シンヤさんのせいじゃないわ。大和さんがやったこと、それだけよ。でも、本当に気持ち悪くて腹立たしくて。あんな形で見張られていたなんて。」

悔しさが混じった声を聞き、俺は思わず彼女の肩に手を置く。

「今はショックかもしれないけど、俺がついてる。姫川さんの車にはもう変なものはついてないし。これからはもっと気を配る。あいつが妙な真似しないように、こっちも何か考えないとな。少なくとも、大和に好き勝手されるわけにはいかない。どんな権力があろうと、俺は彼女をそんな危険にさらすつもりはない。」

レナは心なしか少しだけ表情を緩め、俺の方を見て控えめに頷いた。

「ありがとう。シンヤさんがいると心強いわ。だけど、あなたにまで迷惑をかけるのは申し訳ないわ。大和さんはきっとあなたのことを敵視してると思うし。」

「気にするな。どのみち、あの男の傲慢な態度は虫の居所が悪かったし、GPSなんかつけられて黙ってられねえ。俺の方こそ、逆にあいつが何を仕掛けてくるか楽しみなくらいだよ。とはいえ、姫川さんに怖い思いはさせたくない。何かあったらすぐ連絡してくれ。」

言いながら、俺はさっき外したGPSを睨むように見下ろす。こんなものがついてるなんて、どれだけレナを束縛したいんだ。愛情と呼ぶにはあまりにも歪んだ行為に、胸くそ悪さが込み上げる。

「分かったわ。それと、本当に考える時間が欲しいの。父の意向もあるし、日立家との繋がりをいきなり断つことは難しいかもしれないけど、それでも私は自分の意思で決めたい。母の形見の車を大事にしたいって思ったのと同じように、自分の未来も大切にしたいから。」

レナがしっかりと前を向いてそう言う姿を見て、俺の胸には不思議な安心感が広がる。彼女はきっと、本来は芯の強い女性だ。だからこそ、大和なんかに追い詰められながらも、一歩踏み出そうとしている。

「俺はいつでも姫川さんの味方だ。それだけは忘れないでくれ。」

もう一度誓うように言葉を口にすると、レナは「うん」と瞳をそっと閉じ、静かに頷いた。

「さ、とりあえず今日はもう遅い。車はばっちり調子を整えたし、GPSも外した。送っていくよ、姫川さん。」

そう言うと、レナは少し迷ったような顔をしたが、「ありがとう。でも、自分で運転して帰るわ」と微笑んだ。

「大丈夫なのか?まだ動揺してるだろうし。こんな時間だ。送っていくくらい任せてくれ。」

「ありがとう。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらおうかしら。」

俺の提案を受け入れて、レナは少しほっとした表情になった。きっと今、彼女の心にはいろんな感情が渦巻いているはずだ。そんな中で、少しでも寄り添えるなら、それだけで俺は救われる気がする。外したGPS装置をポケットにねじ込み、工場のシャッターを下ろした俺たちは、闇に溶け込むように車を走らせた。

浮かび上がる街の明かりを横目に、レナはシートに深く腰かけ、静かに息を吐き出す。わずかに震えていた肩も、少しずつ落ち着いてきたようだった。

「シンヤさん、本当にありがとう。もっと早く出会いたかったな。」

思いがけないその一言に、ハンドルを握る指先が微かに震える。目を向ければ、レナが微かな笑みを浮かべたまま、どこか遠くを見つめていた。まるで過去を振り返るように、あるいは未来を思い描いているようにも見える。その繊細な横顔に、胸が熱くなるのを感じながら、俺はそっとアクセルを踏み込み、闇の街を静かに走り抜けた。

あれから数日後、俺はいつものように工場で作業に没頭していた。朝早くからオイルにまみれ、ラチェットを握りしめてエンジンを覗き込む。頭の中で組み上げる構造図と自分の手の感覚を重ね合わせながら、車と対話するのが俺のライフワークだ。そろそろ昼休憩を取ろうかと腕時計に目をやった、その時だった。工場の入り口に、見覚えのあるスーツ姿の男が立っている。日立大和。

「どうした?何の用だ?」

俺は整備用の手袋を払いながら、大和の険しい表情をまっすぐ見返す。すると、大和は思いもよらない言葉を口にした。

「ちょっと話がある。悪かった。この前は俺がやりすぎた。あれでレナに嫌われたら元も子もないと分かったんだよ。」

そう言う彼の瞳には、わずかに気まずさが滲んでいた。まさか、あのプライドの塊が謝罪なんてするとは思っていなかったから、俺は一瞬言葉を失う。

「で、話ってのは?」

俺が促すと、大和は居心地悪そうに視線をそらしながら続けた。

「車の点検を頼みたい。最近どうも調子が悪くてな。ディーラーには持っていってるが、いまいち原因を突き止められないらしい。お前、車のことには詳しいんだろ。修理して欲しいんだよ。」

正直驚いた。あれだけ整備士を見下していた男が、自分から頭を下げてくるとは。

「あんた、本気で反省したってことか。」

信じきれない思いで問いかけると、大和はわずかに眉を潜めた。

「別にお前に興味はないが、レナに嫌われたくないって気持ちは本物だ。それに、修理にかかる金をケチるつもりはない。きちんと直してくれればそれでいいんだ。」

言葉の調子はぶっきらぼうだが、確かに謝意のようなものは感じられる。それに、金は出すと言っている点も嘘っぽくはない。どうする、俺?ここで突き放してもいいが、レナにとっては少しでも揉め事が減った方がいいかもしれない。

「分かった。整備を引き受けるよ。ただし、2度と俺やレナに対して失礼なことはするんじゃねえぞ。」

そう釘を刺すと、大和はふっと苦い表情を浮かべ、「言われなくても分かってる」とだけ返事をした。そして、後日車を持ってくると言い残し、そそくさと工場を後にする。その背中を見送りながら、俺はまだ拭いきれない不安を抱えつつ、とりあえずは作業に戻った。

その日の夕方、仕事を終えてロッカーでツナギを脱ぎかけたところ、スマホが震えた。表示されたのは姫川レナの名前。いつの間にか連絡先を交換してからというもの、ちょくちょくやり取りをしている。

「はい、もしもし。」

電話に出ると、最初に聞こえたのは少し戸惑いながらも、どこか弾んだような彼女の声だった。

「シンヤさん、今日は色々とあったみたいね。大和さんから修理を頼むことにしたって連絡が来たの。驚いたわ。」

俺は少しだけ苦笑いしながら、「正直まだ信用はしてないけどな」と応じる。レナも「そうよね」と苦い声を漏らした後、少し間を置いてから、どこか嬉しそうな響きを含んだ調子で言葉を継ぐ。

「それでね、実は今度改めてシンヤさんと話がしたいの。あの時一緒に服を買いに行きたいって言ったでしょ。この前デパートを回っていたら、シンヤさんにぴったりな服を見つけたの。すごく似合うって確信したのよ。だから、よかったら一緒に選びに行ってくれない?その、ほら、前にお礼がしたいって約束していたわよね。」

一気にまくし立てる彼女の声は、ほんの少し早口だ。そこで言い終えた後、自分の勢いに照れたのか、少し息を飲んでいるのが分かる。俺はその気持ちを感じ取りながら、笑みがこぼれそうになるのをこらえる。

「そうか。服か。どんなやつなんだ?俺に似合うかどうか自信ないけど。姫川さんが言うなら信じてみようかな。もちろん、一緒に行くのは大歓迎だよ。」

俺が軽く冗談めかしてそう返すと、レナは電話の向こうでくすっと笑う。

「絶対似合うわ。自信あるの。それともう1つ、大事な話もしたいの。車のこととは別に、私自身のこと、それからあなたとのこと、色々ちゃんと伝えたいんだ。」

胸が高鳴る。伝えたいこと。それが何であるか推測するだけで、心臓が忙しく打ち始める。俺はスマホを握りしめながら、落ち着かない声で応じる。

「そっか。分かった。いつでも時間を作る。連絡くれれば飛んでいくよ。」

「じゃあ、日程とか詳細はまた後で決めようか。うん。ありがとう。ごめんね、急にこんなこと言い出して。連絡するから待ってて。楽しみにしてるわ。」

レナがそう言い、軽い挨拶を交わすと通話は切れた。だが、俺の胸には妙な興奮と期待感が渦巻いていた。自然と笑みが漏れるのを止められないまま、俺はスマホをポケットにしまった。

翌週、大和が約束通り工場に車を持ち込んできた。黒のセダンは、外観こそ綺麗に磨かれているが、エンジンをかけると違和感がある。微妙に回転数が安定せず、金属が擦れるようなノイズが混じっている。これは確かに、一筋縄ではいかなそうだ。

「原因は何だ?ディーラーでもよく分からないで返されてるからな。」

大和が苛立たしげに聞いてくる。俺はひとまずテスターをつなぎ、エンジンルームを入念にチェックする。すると、どうやら電子制御周りの不具合が濃厚だが、特定にはもう少し時間がかかりそうだ。

「電子制御ユニットに怪しい信号が走ってる。部品交換も視野に入れて、時間をかけて調べさせてもらうぞ。」

大和は「頼む」とだけ言って、唇を噛しめるように頷く。その態度が少しばかりまともに見えて、複雑な気持ちになる。もしかして、本当に考えを改めたのか。そんな期待を微かに抱きながら、俺は作業を開始した。

ところが、作業を進めていく中で、俺は奇妙な違和感を覚えた。どうにも整備の手順を一歩進めるごとに、誰かの意図が見え隠れする。わざと接触部分を緩めた痕跡があったり、排気系統に妙な加工の跡があったりと、普通ならありえない形でいじられている形跡がある。こいつ、本当に直して欲しいだけなんだろうか。嫌な予感がして、いつもより神経質なほど慎重に車をチェックしたが、嫌な予感はその日の夕方に現実となる。

試運転のために車を工場の外へ出した時、わざわざ大和が現場に立ち合うと言い出してきた。俺が運転席に乗り込み、工場周辺をぐるりと一回りする。エンジンの調子は一見安定しているようだが、やはり妙な違和感がある。次の瞬間、アクセルを踏み込んだ時にガクンという強烈な振動が走り、警告灯が一瞬で真っ赤に点灯した。ブレーキに足をかけるも、どうにも効きが甘い。血の気が引く恐怖が全身を襲った。そのまま正面の壁に突っ込みそうになり、なんとかサイドブレーキを引き、ハンドルを切って縁石に乗り上げる形で車を止めた。激しい衝撃音と共に体が大きく揺れ、フロントは凹んでいる。一瞬ぐらりとして視界が白く霞んだが、どうやら命に別状はなさそうだ。

エンジンを切り、ドアを開けようとするものの、衝撃でうまく開かない。力任せに体重をかけてこじ開けると、冷たい外気と夜の街の明かりが一気に飛び込んできた。道路脇に転がり出るようにして地面へ両手をつくと、息を切らしながら額に浮かんだ汗を拭う。

「一体何が起きたんだ。」

呟きながら車のフロントを振り返ると、そこにスーツ姿でこちらを睨み下ろす大和の姿があった。まるで計画通りだと言わんばかりの薄笑いを浮かべている。頭に血が登りかけた俺が歯を食い縛りながら見上げると、大和はすっと目を細め、言いにくそうに見せかけて、わざとゆっくり言葉を吐き出した。

「どうやら、わざと仕込んだ細工がちゃんと効いたみたいだな。ブレーキ周りをちょっといじらせてもらったんだよ。こうなったのも自業自得じゃないか。」

「てめえ…」

怒りで言葉が出ない。やはり、こいつがわざと事故を仕込んだのか。悲鳴にも似た怒りを一生懸命に抑え込みつつ、俺は痛む体を引きずって立ち上がる。大和はその様子を見ても、まるで罪悪感を抱く気配がない。

「お前1人いなくなったところで、誰も困りはしないだろ。ま、もうちょい派手にやれると思ったんだが。渋いな。」

「ふざけんじゃねえ。」

あまりの傲慢さに、拳を握りしめて飛びかかりたくなる気持ちを何とか抑える。下手に手を出せば、今度はそこを挙げ足取られかねない。この男は一筋縄ではいかないと分かっている。そんな俺の耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。

「シンヤ、大丈夫か?」

そちらに振り向くと、慌てた様子の大輔が走ってくる。シャツの襟元を乱し、今にも息を切らしそうな姿だ。どうやら事故の音や衝撃に気づいたか、近くを通りがかって駆けつけたのだろう。大和は大輔の姿を確認するや、勝ち誇ったように口元を歪める。

「ああ、いいところに来たじゃないか。大輔、お前の会社、こないだ新規開発案件欲しがってたよな。あれくれてやるよ。条件は簡単だ。分かってるだろう。いつも通り、俺の言う通りにやれってことさ。そうすりゃ、お前はもっと上に行ける。悪い話じゃないだろ。」

見下すような笑みと共にそう言い放つ。すると、大輔は「したっ」と低く声をしながら、そっとポケットからスマホを取り出す。

「賢明な判断だな、大輔。」

大和は満足そうに頷き、ニヤリと笑を浮かべる。大輔がスマホを操作するのを横目でちらりと見た俺は、一瞬心臓が冷たくなるような感覚を覚えた。やがて、大輔は大和へ向き直り、改めて低く一礼する。その仕草に大和は満足そうに目を細めるが、大輔の指は素早くスマホの画面を操作していた。

「では、早速準備を始めます。」

静かな声と共に、大輔はスマホを少しだけ掲げるように持ち直す。

「やっぱりお前は利口だな。うちの案件が手に入れば、未来は明るい。シンヤなんて奴に肩入れするより、よっぽど得だろう。」

大和が満足そうにそう言う。

「お前も思い知ったか?お前が生意気に逆らうから、こうして痛い目を見ることになるんだよ。ざまあねえな。これに懲りたら、大人しく頭下げて俺の言うこと聞けよ。分かってんのか?会社ごと叩き潰されるのが嫌なら、2度と口応えなんざするんじゃねえ。特に、レナのそばをうろちょろするんじゃねえよ。お前とは住む世界が違うんだからな。」

大和の怒声が夜の空気を震わす。俺は歯を食い縛って立ち尽くしていたが、大輔と視線が交わると、わずかに頷く。

「大和さん、ちょっとだけ確認させていただきますよ。お忘れかもしれませんが、この男を痛い目に合わせろって言ったのは、あんたですよね。しかも、その交換条件に新規開発案件を用意すると。ええ、ちゃんと録画も配信もしてますよ。今、全国の人たちがあんたの言葉を聞いてます。」

途端に、大和の表情が凍る。スマホの画面越しには、続々とコメントが流れているのが見えた。「マジ?こいつ犯罪だろ?」「弁護士」「全世界配信」…。

「おお、勝手なことしやがって。ネットで拡散したところで、こっちには潰す手段がいくらでも…」

激昂しながら大和は俺たちを睨みつける。だが、大輔は一歩も引かない。

「潰す?お前がどう動こうと、この映像は一生残るんだ。弁護士が整備士を狙って事故を引き起こしたなんてスキャンダル。いくら金や権力を使っても、完全には消せないぜ。」

まくし立てる大輔の言葉に、大和は「わっ」と拳を震わせる。

「このクソが。お前なんか、俺の会社の取引先から外してやる。経済的に締め上げてやるぞ。」

夜の冷たい空気を切り裂くような大和の怒鳴り声に、一瞬その場の空気が凍りついた。だが、次の瞬間、大輔がすっと前へ踏み出す。その瞳は、今まで見たことがないほど鋭い光を帯びていた。

「どうぞご自由に。取引先を外すなら外せばいい。金と権力で人を踏みにじるのが日立家のやり方だって言うなら、こっちもそれなりに構えるまでだ。」

大和がギラリと大輔を睨みつけるが、大輔は全く怯まない。むしろ、怒りを称えたままの静かな口調で、さらに言葉を続ける。

「勝手にしろよ。俺は別にお前のご機嫌取りで会社を経営してるんじゃねえんだ。もうこりごりだ。何が日立家だ?何が権力だ。そんなもん振りかざして、他人を傷つけていい理由になるわけがない。」

大和の表情が、はっきり分かるほど引きつる。歯を食い縛りながら肩を震わせ、その目には微かな動揺が見え隠れしていた。追い打ちをかけるように、大輔はスマホを掲げて画面を大和に突きつける。

「それに、お前が取引先を切るぞって息巻いてるところも、ちゃんと記録されてる。今までは黙って付き合ってやったが、もうこれ以上、誰もお前の傲慢に振り回されたくないんだ。俺だってそうだし、シンヤだってそう。レナさんもきっと同じだろうな。」

その言葉が決定打になったのか、大和は明らかに焦りの色を浮かべるけれど、彼のプライドがそれを素直に認めるはずもない。ギリギリと奥歯を噛みしめながら、開き直った口調で吐き捨てる。

「お前ら全員、後悔させてやる。」

大和はそう言い残し、拳を握りしめたまま踵を返して闇の向こうへ去っていった。立ち去る背中には、ひどく揺らぎながらも捨てきれない傲慢さが滲んでいる。

「ふう。」

大輔は深く息をついて、肩の力を抜く。俺は痛む体を支えながら、彼の横顔を見つめた。いつも穏やかな大輔が、ここまで強く立ち向かうとは思わなかった。だが、その胸の内に秘めていた真の勇気が、今こうして大和の傲慢に一矢報いたのだ。

「大輔、助かったよ。ありがとうな。」

俺が礼を言うと、大輔は少し照れたように微笑む。そして、笑顔をすぐに引き締め、まっすぐこちらを見据えていった。

「礼を言うのは俺の方だ。今まで大和の圧力に屈してきたけど、これで目が覚めたよ。もう2度と、あいつの好きにはさせない。シンヤ、お前には悪いことをした分も含めて、これからは俺も全力で戦う。」

拳を合わせるでもなく、ただ互いを見つめ合う。様々な思いが去来するが、少なくとももう大和の金と権力に振り回されることはないだろう。と思うと、俺の胸には奇妙な安堵が芽生えていた。外の空気は相変わらず冷たいが、2人の心には確かな熱が灯っている気がする。俺は大輔と顔を見合わせ、深く息を吐いた。

その翌日、SNSの世界はちょっとした祭り状態になっていた。大和が事故を仕組んだ上に、俺と大輔を脅迫するような発言をした一部始終が拡散され、あっという間に炎上。日立コンセルンの御曹司としての名前と顔が、世間の好奇の目にさらされることになったんだ。さらに、日立グループ本社も状況を重く見たのか、後継者候補の大和を表舞台から外し、事実上の更迭処分という形で動いたらしい。テレビやネットの記事には「日立大和、長期休養」「コンセルン後継は別人」なんて見出しが踊っている。あれだけ大口を叩いていた男の転落ぶりに、少なからず複雑な思いもあるが、これが彼の選んだ末路だ。

俺は工場でいつものように整備の仕事に勤しんでいた。肩の怪我もまだ完治とは言えないが、日に日に回復している。大輔は「しばらくは大人しくしてろ」と心配してくれるものの、俺は車の前に立つと、どうしてもエンジンを覗き込みたくなるんだ。

と、声シャッターの向こうから足音が聞こえた。

「シンヤさん、よかった。無事だったのね。」

その声に振り向くと、そこにはレナの姿があった。彼女はもう涙をこぼしきれないのか、潤んだ瞳で俺に駆け寄り、思わず肩を抱きしめてくる。

「レナ、ごめん。心配かけて。俺は大丈夫だから。」

そう言いながら、彼女の背中にそっと手を回すと、キュッと強く握り返される。SNSを見て駆けつけたのだろう。大和の陰謀が明るみに出たことで、レナ自身も色々な重圧から解放されつつあるはずだ。その泣き顔を見ていると、俺の胸にも込み上げるものがあった。

「ごめん。私、あんなことが起きてるなんて知らなくて。大和さんのことをはっきり拒絶できなかったから、シンヤさんを危険にさらすことになったんじゃないかって。」

レナの声は掠れていたが、その言葉に込められた思いは痛いほど伝わる。俺は首を振って、その瞳をまっすぐ見つめた。

「誰のせいでもないさ。大和が勝手に暴走しただけだ。俺は、姫川さんが自分の意思を貫いてくれたことが嬉しい。もう決まったレールなんて気にしなくていいんだ。自分の道を自由に選んでいい。」

すると、レナは瞳からこぼれる涙を拭いもせず、少しだけ笑った。

「うん。ありがとう。シンヤさん、あなたが支えてくれたおかげで、私も勇気が出せた。これからは、レナって呼んで。シンヤ。」

声が震えたまま、その顔は真っ赤に染まっている。俺は照れ臭い気持ちを抑えながら、彼女の両肩に軽く触れた。

「もちろんさ、レナ。こうしてちゃんと呼び合うの、初めてだな。」

2人で顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。静かな工場の空気の中で、その笑顔は何よりも鮮やかだった。俺はもう一度そっと彼女を抱き寄せる。車のオイルの匂いに混じって、彼女の香りがほんのり鼻先をくすぐる。まるでずっとこうしたかったかのように、2人の距離は近づいていった。

その後、SNS拡散の影響で、俺の整備工場はちょっとした話題のショップになっていた。元々秘密に近い部分もあって、あまり表に出ない仕事が多かったが、「御曹司の妨害を跳ね返したメカニック」「正義感の強い職人」として取り上げられ、インフルエンサーやマスコミの取材が舞い込むようになった。もちろん、俺としてはこれまで通り黙々と整備を続けたいだけだ。しかし、話題になったおかげで新しい取引先の問い合わせも増え、工場の稼働率は格段に上がった。今まで試行錯誤してきた経営ノウハウや、自分で立ち上げた別事業との連携もスムーズに動き出し、完全に好調だ。

一方、大輔も大和の悪習から解放され、きっぱり取引を断ち切った。新規プロジェクトは一旦振り出しに戻ったらしいが、彼は今度は純粋に実力で勝負すると張り切っている。やはり、彼自身、学生時代から熱いものを胸に秘めていた。大和の影響で一時は道を誤りかけたが、それもようやく断ち切れたのだ。

悪意や権力に振り回されるだけの人生なんて、真っ平ごめんだ。たとえ、どんなに強大な壁が立ちはだかっても、仲間と支え合いながらなら乗り越えられる。この先何が待っていようと、もう恐れるものはない。俺は整備士として、経営者として、そしてレナを支える男として、胸を張ってこの道を歩いていくんだ。

そう決意して、ふと浮かんだ笑みを隠すことなく、作業台へと足を運んだ。

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