母さん、そういうの感じが悪いよ。息子からそんな言葉を投げかけられるなんて、夢にも思わなかった。その瞬間、私の心は凍りつき、まるで冷たい水を浴びせられたような衝撃が全身を駆け巡った。
その日は息子の誕生日だった。私は朝から張り切って裕介の大好きな唐揚げを揚げ、手作りのケーキまで用意していた。約束の時間は午後六時。でも時計の針は七時を回り、八時を過ぎても息子夫婦は現れなかった。テーブルに並んだ料理はすっかり冷めてしまう。何度電話をかけても誰も出てくれない。不安と寂しさが胸を締めつける中、私はただ待ち続けるしかなかった。
そして午後八時半、玄関のドアが開く音が聞こえた。ようやく帰ってきたと安心したのも束の間、リビングに入ってきたのは息子夫婦と、そして義母の姿だった。
「お母さん、今日は本当に楽しかったです」
床華の明るい声が響く。三人ともとても満足そうな表情を浮かべていた。
「あら、せ子さん、まだいらしたの?」
義母が少し驚いたように私を見つめる。
「今日は裕介の誕生日だから、お料理を作って待っていたのよ」
私がそう答えると、裕介は小さくため息をついた。
「母さん、感じが悪いよ。せっかくお母さんが祝ってくれたのに、そういう言い方ないでしょ」
その言葉に、私は言葉を失った。感じが悪い。一体私の何が感じが悪いというのだろうか。
思い返せば、裕介が結婚したばかりの頃はこんなことはなかった。あの日の結婚式、純白のウェディングドレスを着た床華が私の手を握りながら言ってくれた。
「お母さん、これから家族になれて本当に嬉しいです」
その笑顔は本当に輝いていた。
新居に家具を運び込んだ日のことも鮮明に覚えている。夫の正弘と二人で一日中汗を流しながら手伝った。マンションの頭金として五百万円、家具家電で百万円、結婚資金で二百万円。私たち夫婦は息子夫婦の新生活を全力で支援した。
「母さん、父さん、本当にありがとう。二人のおかげだよ」
裕介は何度も頭を下げて感謝の言葉を口にしてくれた。あの頃は家族四人で食卓を囲むのが何よりの楽しみだった。
でも変化が訪れたのは半年前のことだ。床華の母親、つまり義母が頻繁に訪れるようになってからだった。
ある日曜日、私たちは裕介の家を訪ねる約束をしていた。手土産のケーキを買い、楽しみに車を走らせていた時だ。
「母さん、ごめん。今日、床のお母さんが急に来ることになって」
電話口の裕介の声はどこか申し訳なさそうだった。
「でも私たち、先に約束していたわよね」
「うん。でもお母さんの予定が急に開いたらしくて」
「そう。じゃあまた今度ね」
電話を切った後、正弘が心配そうに私を見つめる。
「せ子、大丈夫か?」
「ええ、仕方ないわ。息子夫婦が幸せならそれでいいの」
でもそれは始まりに過ぎなかった。それから同じことが何度も繰り返されるようになる。ゴールデンウィークの旅行計画、母の日のランチ、夏祭りへのお誘い。全て義母の予定が優先された。まるで私は後回しにされることが当たり前の存在になっていた。
三ヶ月前、私たちの結婚記念日が近づいていた時のことだ。
「裕介、来週の土曜日、私たちの結婚記念日なの。一緒に食事しない?」
電話口で少し間が開く。
「土曜日か。ちょっと待って」
向こうで床華と相談する声が聞こえてきた。
「母さん、ごめん。土曜日は床のお母さんと食事の約束があるんだ」
「そう。じゃあ金曜日は?」
「金曜日はお母さんの誕生日会の準備で」
「日曜日は?」
「日曜日もお母さんと出かける予定が」
私は静かに受話器を置いた。隣で聞いていた正弘の表情が見る見る曇っていった。
「ふざけるな。俺たちの記念日だぞ」
「いいのよ。二人で行きましょう」
正弘の怒りは当然だった。でも私は息子を責めたくなかった。
そして二ヶ月前、孫の蓮が一歳の誕生日を迎える時のことだ。
「来週、蓮君の誕生日をお祝いしたいんだけど」
「あ、誕生日会はお母さんが企画してくれてて」
「そうなの? じゃあ私も参加できるかしら?」
「えっと、ちょっと床に聞いてみる」
数分後、裕介から返事が来た。
「母さん、ごめん。お母さんが身内だけでやりたいって」
その言葉に、私は思わず聞き返した。
「私も身内じゃないの?」
「いや、そうなんだけど。向こうの親戚も来るから人数制限があって」
「分かったわ。プレゼントだけでも届けてもいい?」
「あ、それなら大丈夫。後で取りに行くよ」
電話を切った後、私は丁寧にプレゼントを包んだ。高級なチークガンダムと可愛い服。合わせて四万円ほどだった。
「せ子、お前は優しすぎるんだ」
正弘が悲しそうにつぶやく。
「孫は可愛いもの。仕方ないわ」
「仕方なくなんかない。義母は招待されて、お前は除外されるなんて」
数日後、私は偶然インターネットで義母の投稿を見つけてしまう。蓮を抱いて楽しそうに笑う義母の写真。そこには「最高の誕生日会でした」というコメントが添えられていた。私は何なのでしょうか。そんな思いが胸の奥で静かに広がっていく。
一ヶ月前のことだ。私は思い切って提案した。
「裕介、夏に家族で温泉旅行でもどう? 私たちが費用を出すわ」
「夏は、実はもう予定が入ってて」
「どこか行くの?」
「うん。お母さんと一緒に沖縄旅行」
「そう。じゃあ私たちも一緒に」
「え、それはちょっと」
「どうして?」
「だってお母さんが企画してくれた旅行だから」
「私が費用を出すと言ってるのに」
電話の向こうで床華の声が聞こえてくる。
「裕介、お母さんが気を使うからって」
「母さん、そういうことだから」
費用を出すと言っても拒否される。気を使う。一体誰が誰に気を使っているのだろうか。
その夜、正弘の怒りが爆発した。
「いい加減にしろ。俺まで出すと言ってるのに」
「正弘、やめて。息子を責めないで」
「せ子、お前本当に平気なのか?」
私は小さく首を横に振った。
「平気じゃないわ。でも息子の幸せが一番だから」
そして三週間前、裕介から電話がかかってきた。
「母さん、頼みがあるんだけど」
「何?」
「お母さんが最近体調悪くて、病院の送迎を手伝ってもらえないかな?」
「でも私、毎日仕事があるのよ」
「え、でもパートでしょ。休めるでしょ」
「正社員よ。薬局に三十六年勤めているの」
「あ、そうなんだ。じゃあ土日だけでも」
私は深く息を吸い込んだ。
「裕介、あなたと床華さんは?」
「俺は仕事あるし、床は育児で忙しいから無理」
「私だって仕事があるし、忙しいのよ」
「でも母さん、もう六十過ぎてるんだから、そろそろ仕事やめてもいいんじゃない」
その言葉に私は言葉を失った。
「それにお母さんの面倒を見るの、義務でしょ? 家族なんだから」
「裕介、お母さんは私の家族じゃないわ。あなたの義理の母でしょう」
「冷たいこと言うね。家族なんだから助け合うのが当然でしょう」
「じゃあ私が助けを求めた時は?」
それは別の話でしょう。でも私への配慮は別の話。このダブルスタンダードに、私の心は深く傷ついた。
そして運命の日がやってくる。裕介の誕生日の一週間前のことだ。
「明日は裕介の誕生日だから、手料理を作りに行こうと思うの」
買い物から帰る車の中で、私は正弘にそう伝えた。
「せ子、また裏切られるぞ」
正弘の声には明らかな不安が滲んでいた。
「大丈夫。今回は事前に確認したから」
「本当に大丈夫か?」
「裕介は私の息子よ。きっと喜んでくれるわ」
その日の午後、私は丁寧に準備を始める。裕介の大好きな唐揚げ、煮物、サラダ、そして手作りのケーキ。デパートで見つけた高級な腕時計も八万円だったが、迷わず購入した。これできっと喜んでくれる。そんな期待を胸に、私は裕介に確認の電話を入れた。
「裕介、明日六時頃行くわね」
「うん、分かった」
「本当に大丈夫? 予定ない?」
「大丈夫だって。じゃあね」
当日の午後三時、私は裕介のマンションに到着する。合い鍵を使ってキッチンに入り、料理の準備を始めた。揚げたての唐揚げの香りが部屋中に広がる。テーブルには心を込めて作った料理が並んだ。
午後六時。約束の時間だ。でも誰も帰ってこない。六時半。まだ。七時。不安が胸を締めつけ始める。電話をかけても誰も出てくれない。メッセージを送っても既読にすらならない。七時半、料理はすっかり冷めてしまった。八時、私の心も料理と同じように冷たくになっていく。
そして八時半、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「お母さん、今日は本当に楽しかったです」
裕介の明るい声が響く。
「次はもっと豪華なレストラン予約しますね」
床華のはずんだ声も聞こえてきた。
「ありがとう。本当にいい子たちね」
義母の満足そうな声。三人ともとても楽しそうだ。
リビングに入ってきた三人は、私の姿を見て一瞬動きを止めた。
「あ、母さん。まだいたの?」
裕介の第一声はそれだった。まだいたの。まるで私がいることが予想外だったかのような言葉。
「裕介、今日はあなたの誕生日だから、お料理作って待ってたのよ」
「あ、そうだったっけ?」
そうだったっけ? まるでどうでもいいことのような言い方だった。
「連絡したわよね。六時に行くって」
「そういえば」
床華が申し訳なさそうに言う。
「あ、そうでしたっけ。でもお母さんとのディナーが先に入っちゃって」
「でも私の方が先に約束していたわよね」
「うん。でもお母さんがサプライズでフレンチを予約してくれて」
私は静かに尋ねた。
「じゃあ私には何も言わないの?」
裕介は大きくため息をついた。
「母さんが悪いよ。空気読んでよ」
その言葉が私の心を深く傷つける。感じが悪い。私が感じが悪い。感じが悪いだって。
「せっかくお母さんがお祝いしてくれたのに、文句言うなんて」
「私は文句なんて」
床華が取り成すように言う。
「お母さん、少し落ち着いてください」
「私のお母さんの行為を悪く言わないで」
義母が穏やかに微笑む。
「まあまあ、いいじゃない。次の機会にしましょう」
裕介も同調した。
「そうだよ、母さん。また今度でいいでしょ」
また今度。何度この言葉を聞いただろうか。私は最後の力を振り絞って尋ねた。
「裕介、私は今まであなたに何をしてきたと思う?」
「え、急にどうしたの?」
「結婚式に百万円、マンションの頭金に五百万円、家具家電で百万円」
「それはまあ、親なんだから当然でしょう」
当然。その一言が私の心を凍らせる。
床華が口を挟んだ。
「お母さん、お金の話するなんて下品ですよ」
義母も頷く。
「そうね。親が子供に援助するのは当たり前のことだわ」
裕介が嫌な顔をして言う。
「母さん、何が言いたいの? 恩着せがましいよ」
恩着せがましい。八百万円以上の援助をしてきて、恩着せがましいというのだ。
「だってお母さんは、何も要求しないで色々してくれるのに」
床華が得意げに続ける。
「私のお母さんは本当に優しいんです」
義母が謙遜するように言った。
「まあ、家族なんだから当然のことをしてるだけよ」
裕介が私に言う。
「母さんも、もっとお母さんを見習ったら」
見習う。義母を見習えというのだ。
「いつも文句言わないし、俺たちの予定に合わせてくれるし」
床華が嬉しそうに付け加える。
「お母さんは本当に感じのいい人なんです」
感じのいい人。つまり私は感じの悪い人間だということだ。
私は何も言えなくなった。八百万円以上の援助を当然と言い、私の気持ちを恩着せがましいと切り捨て、義母を見習えという。これが私が愛して育てた息子の言葉なのだろうか。
私は静かに立ち上がり、用意していたプレゼントをテーブルに置いた。
「プレゼント、ここに置いておくわ」
「あ、ありがとう」
裕介の返事はどこか上の空だった。私は何も言わずマンションを後にした。
外で待っていた正弘が、私の表情を見て全てを悟ったようだった。迎えに来てくれた車の中で、私はようやく涙を流した。
「せ子」
「正弘、私、感じ悪いんですって」
全てを話すと、正弘の拳が震えた。
「許さない。絶対に許さない。せ子、もう我慢する必要はない。俺が味方だ」
その温かい言葉に、私は初めて泣くことができた。そして決意したのだ。もう我慢しない。今度は私の番です。
帰宅後、私は静かにパソコンを開く。銀行のオンラインバンキング、裕介夫婦への定期援助口座。月々十五万円の自動振り込み設定。私は静かにクリックした。自動振り込み設定を解除しました。共同名義口座を凍結しました。画面に表示される文字を見つめながら、私は心の中でつぶやく。これで全てが終わります。
その夜、自宅のリビングで正弘と向き合う。
「本当にいいのか?」
正弘が心配そうに尋ねた。
「ええ、もう決めたわ」
「俺は賛成だ。あいつらは自分たちが何をしてるか分かってない。分からせてあげましょう」
私の声は驚くほど冷静だった。パソコンの画面にはこれまでの援助項目が全て表示されている。月々十五万円の生活費援助。マンション管理費の代理支払い月三万円。光熱費の一部負担月二万円。孫の蓮の習いごと費用月四万円。車のローン補助月三万円。合計月に二十七万円。年間にすると三百二十四万円だ。これでどれだけ私たちに依存していたか分かるでしょう。
一つずつ停止ボタンをクリックしていく。クリックするたびに確認画面が表示された。本当に停止しますか? はい。設定を解除しました。その文字を見つめながら、私は何も感じなかった。悲しくも怒りもない。ただ当然のことをしているという静かな確信だけがあった。
「当然の報いだ」
正弘が力強く言う。
次に私は過去三年間の記録を整理し始めた。薬剤師として三十六年働いてきた私は、記録の重要性を誰よりも理解している。援助の明細、全て保管してあった。銀行の振り込み記録、領収書、メールのやり取り。裕介たちがどれだけ私たちに依存していたか、全ての証拠がここにある。過去三年間の援助総額は千二百万円を超えていた。初期の結婚資金やマンション購入支援を含めれば、総額千八百万円近くになる。
キャンセルされた予定のメール履歴は二十四件。義母が優先された記録は十八件。約束を破られたり、後回しにされたのは十六件。これが私の三年間だ。
書類を整理している私を見て、正弘が悲しそうに言った。
「よく我慢したな」
「もう我慢しません」
私は正弘の目を見つめる。
「正弘、もし裕介から連絡が来ても、私は出ません。もし謝罪に来ても、許しません」
「当然だ。もし来てしがみついても、突き放せ。俺が一緒にいる」
夫の支えがあったからこそ、私は強くなれた。一人ではなかった。だから戦えるのだ。
翌朝、私はいつも通り出勤の準備をする。
「今日、裕介から連絡来るぞ」
正弘が言った。
「でしょうね。給料日前日だもの」
毎月二十五日、裕介の給料日の前日には必ず私たちからの援助が振り込まれていた。それが今日、初めて止まるのだ。
「どうする?」
「無視します」
「そうか」
私は薬局で働く。患者さんを優先する。それでいい。薬局に到着すると、いつも通りの朝が始まる。患者さんに優しく対応し、薬の説明をし、健康相談に乗る。この仕事を三十六年間続けてきた。
「せ子さん、いつもありがとうございます」
高齢の患者さんが笑顔で言ってくれる。
「いえいえ。お大事になさってくださいね」
ここには私を必要としてくれる人がいる。息子夫婦が私を感じが悪いと言おうと、私の価値は変わりません。
同僚の薬剤師が声をかけてきた。
「せ子さん、今日はなんだか雰囲気が違いますね」
「そうかしら」
「何というか、吹っ切れたような」
私は小さく微笑む。
「少し自分を大切にすることにしたの」
昼休み、私は裕介たちの家計を冷静に分析していた。裕介の月収は三十五万円。床華に収入はない。マンションローンが月十二万円、生活費が約十五万円。光熱費や通信費で三万円。車のローンが三万円。孫の習いごとが四万円。その他雑費で三万円。合計すると月四十万円の支出だ。収入三十五万円に対して支出四十万円。本来なら毎月五万円の赤字のはずだった。しかし私たちからの月二十七万円の援助があったため、実質的には毎月十二万円の黒字だった。その援助が止まれば、すぐに崩壊する。正弘が言った通りだ。でもそれが現実。私たちの援助があったからこそ、息子夫婦は余裕のある生活ができていた。義母との外食、旅行、プレゼント。全て私たちの援助の上に成り立っていたのだ。
夕方になっても、私は裕介からの着信に一切応答しなかった。スマートフォンの画面には次々と通知が表示される。着信、LINEも五件。でも私は患者さんとの対応に集中していた。仕事が終わる頃には着信は二十件を超えていた。
帰宅すると、正弘が報告してくれる。
「家の電話にも十回以上かかってきた」
「そう、全部無視した?」
「ああ」
「ありがとう」
私たちは静かに夕食を取る。久しぶりに二人だけの穏やかな時間だった。
「せ子、後悔はないか?」
「全くないわ」
「そうか」
正弘が優しく微笑む。
「明日からが本当の始まりだな」
「ええ、楽しみだわ」
私は本当にそう思っていた。息子夫婦が現実を知る瞬間を、私は冷静に待っていたのだ。
翌日の午前十時、裕介の職場で最初の異変が起きていた。スマートフォンの画面に表示された銀行アプリの通知。自動振り込みが実行されませんでした。共同口座のアクセスが拒否されました。裕介は慌てて銀行に電話をかける。
「共同名義口座についてお伺いしたいのですが」
銀行員の声が冷静に答えた。
「こちらの口座は、もう一方の名義人様によって凍結されております」
「凍結? いつですか?」
「おとといの夜、二十一時に手続きされています」
「解除できますか?」
「両名義人様の同意が必要となります」
電話を切った裕介は、すぐに床華に連絡する。
「大変なことになった。母さんが口座凍結した」
「え、なんで?」
「分からない。昨日のことかな?」
「昨日? ああ、誕生日の」
「でも、あれくらいで」
その時、マンションの管理会社から電話がかかってきた。
「裕介様、今月の管理費の振り込みがまだですが」
「いつも自動で振り込まれてるはずですが」
「振り込み設定が解除されているようです。自己負担で支払いください」
続けて電力会社、ガス会社からも同様の連絡が入る。全ての代理支払いが停止されていた。裕介の顔から血の気が引いていく。
「全部止めたのか」
昼休み、裕介は必死に母親に電話をかけ続ける。一回、二回、三回、十回を過ぎても誰も出てくれない。
「母さん、何してんの? 早く電話して」
留守番電話にメッセージを残しても返事はない。LINEも既読にならない。
「母さん、口座凍結って何? お願いだから出て。これは冗談だよな。そうだよな」
焦りと不安が裕介の心を蝕んでいく。
午後三時、私の薬局には四十件の着信履歴が残っていた。でも私は患者さんへの対応を優先する。
「せ子さん、電話すごいですね」
同僚が心配そうに言う。
「ええ、でも今は患者さんが優先ですから」
「何かあったんですか?」
「少し息子に現実を教えているだけです」
同僚は何かを察したようで、それ以上は聞いてこなかった。
夕方六時、裕介夫婦は床華の母親である義母を訪ねる。
「お母さん、大変なの。お母さんが全部止めちゃって」
義母が驚いた表情で聞き返した。
「どういうこと?」
「母さんが援助全部止めたんです。月に二十七万円の援助が」
「二十七万円も? そんなに援助してもらってたの?」
床華が必死に訴える。
「お母さん、少し助けてもらえないかな?」
「え、私が? お母さんなら余裕あるでしょう」
義母は困惑した表情を浮かべる。
「いや、でも私もそんなに余裕ないわよ」
「お願いします」
「ごめんなさい。月に数万円ならなんとかなるけど、二十七万円は無理よ」
義母は深刻な表情で尋ねた。
「ねえ、あなたたち。せ子さんに何をしたの?」
「いや、ちょっと」
「何をしたの?」
裕介は言葉に詰まる。義母が厳しい口調で続けた。
「せ子さんが怒るような理由があるんでしょう。正直に言いなさい」
でも二人は何も答えられなかった。
その夜、裕介夫婦は私たちの自宅に押しかけてくる。インターホンが何度も鳴り響いた。正弘が応答する。
「今取り込み中だ」
「父さん、母さんと話させて」
「母さんは疲れて寝てる」
「嘘だ。開けてよ」
「お父さん、お願いします」
床華の必死な声が聞こえる。
「分かった。少し待て」
正弘がドアを開けると、裕介が玄関に飛び込んできた。
「母さん」
「母さんは出てこない。俺が話を聞く」
正弘の声は冷たく低いものだった。
「どういうつもりだよ。いきなり援助止めて」
「いきなり? お前が言うか。お前が母さんに何をしたか分かってるのか?」
床華が反論する。
「私たち何もしてません」
「何もしてない? 「お前が悪い」って誰が言った?」
裕介が言葉に詰まる。
「それは、母さんはな、お前の誕生日に二時間半も待ってたんだ。手料理作ってな」
「でもお母さんが」
「義母が何だ? 母さんより義母が大事か?」
正弘の怒りが込み上げてくる。
「お前は母さんに何度約束を破った? 結婚記念日、誕生日会、旅行。全部義母を優先したよな」
床華が口を挟もうとした。
「でもそれは」
「黙れ。お前らは母さんを何だと思ってる? ATMか? 都合のいい時だけ頼る道具か?」
「そんなつもりじゃ」
「そのつもりだろう。「当然」「恩着せがましい」。お前の言葉だ」
その時、私が姿を表した。
「裕介」
「母さん」
裕介が駆け寄ろうとするが、私は冷静に言った。
「もう遅いわ」
「え?」
「私、感じ悪い母親なんでしょう?」
「それは言いすぎた。言いすぎた」
「三十六年間、私は真面目に働いてきました。あなたを育て、教育し、結婚資金もマンションの頭金も、全て援助しました。総額で千八百万円以上よ」
裕介は何も言えない。
「それなのに「当然」「恩着せがましい」「感じが悪い」。これがあなたの私への評価なの」
床華が慌てて言い訳する。
「お母さん、勘違いです。私たち、感謝して」
「感謝? 孫の誕生日会に祖母を呼ばないのが感謝? 結婚記念日をドタキャンするのが感謝? 義母の予定ばかり優先するのが感謝?」
「それは」
「もう結構です。あなたたちにはお母さんがいるでしょう。感じのいいお母さんに全て頼んでください」
裕介が必死に訴える。
「お母さん、それは無理だよ。お母さんには余裕が」
「私にも余裕はありません。私は感じ悪い、時代遅れ、恩着せがましい母親ですから」
「謝るよ。だから」
「謝罪は結構です。もう遅いわ」
正弘が強い口調で言った。
「帰って二度と来るな」
「父さん」
「お前たちのしたことは、取り返しがつかないんだ。分かるか?」
私は最後にこう告げる。
「私はもう二度と戻りません。感じ悪い母親として、あなたたちの前から消えます」
裕介夫婦は呆然と立ち尽くすしかなかった。門の外に出された二人。
「どうしよう。本当に援助なしじゃ生活できない」
床華の声が震えている。
「俺が悪かった」
「今更? あなたが「感じが悪い」なんて言うから」
「お前だって「恩着せがましい」って」
「じゃあどうするの? 毎月赤字になるのよ」
「分からない」
三日後、裕介の家には請求書の山が届いていた。管理費の督促状、電気代、ガス代、車のローンの延滞通知。床華が泣き崩れる。
「全部俺のせいだ」
裕介も初めて自分たちの過ちの重さを理解し始めていた。私たちの援助がどれだけ彼らの生活を支えていたか。そしてそれを失うことの恐ろしさを。
あの日から一ヶ月が経った。私たちの生活は驚くほど穏やかになっている。土曜日の朝、ゆっくりとコーヒーを入れる時間。窓から差し込む柔らかな光の中で、正弘と二人、静かに朝を迎える。
「せ子、今度の連休、温泉行かないか?」
「いいわね。どこがいい?」
「お前の好きな山の温泉」
「楽しみね」
正弘が優しく微笑む。
「せ子、笑顔が増えたな」
「そうかしら」
「ああ、前はいつもどこか悲しそうだった」
「我慢してたからね」
「もう我慢しなくていい」
月二十七万円の援助がなくなり、私たちには経済的な余裕が生まれた。旅行も趣味も、二人で楽しむことができる。何より心が軽くなったのだ。薬局での日々も以前より充実している。
「せ子さん、いつもありがとうございます」
高齢の患者さんが温かい笑顔で言ってくれる。
「いえいえ、お大事になさってくださいね」
同僚が声をかけてきた。
「せ子さん、最近生き生きしてますね」
「そうかしら」
「ええ、前より明るくなった気がします」
「余計なストレスがなくなったからかもしれないわね」
そして先週、薬局長から嬉しい知らせがあった。
「せ子さん、来年から管理薬剤師の副部長をお願いしたい」
「本当ですか?」
「三十六年の経験と信頼、あなた以外にいません」
「ありがとうございます」
私には私の価値があった。息子夫婦が認めなくても、ここには私を必要としてくれる人たちがいる。
一方、裕介たちは厳しい現実に直面していた。マンションを売却するかどうか検討し、車を手放すことを決め、床華もパートを始めることになったそうだ。義母との関係も以前ほど良好ではないと聞いた。あまりにも頼りすぎたため、義母も困惑しているようだ。
ある日、義母から私に電話がかかってきた。
「せ子さん、あの子たちが本当に申し訳ないことをしたと」
「もう過ぎたことですから」
「でも、せ子さんにあれだけ援助してもらっていたなんて、私も知りませんでした」
「いいんです。私は自分の人生を生きますから」
今回の出来事は私に多くのことを教えてくれた。理不尽に屈してはいけないこと。我慢することが美徳だと思っていたが、我慢にも限界がある。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことではないのだ。
息子夫婦は私たちの援助に依存しすぎていた。経済的な自立なくして、真の自立はない。親の援助を当然と思った瞬間、子供は大人としての責任を放棄している。家族だからこそ、お互いを尊重し合うべきだ。血縁があるからと言って、理不尽な扱いが許されるわけではない。親も一人の人間として、尊重されるべきなのだ。
ある夕暮れ、私は正弘に言った。
「正弘、ありがとう」
「何が?」
「いつも私の味方でいてくれて」
「当たり前だ。俺たちは夫婦だろう」
「そうね。これからも二人で歩んでいきましょう」
私は今、本当に幸せだ。息子夫婦との関係は断たれたが、後悔はない。なぜなら私には私の人生があるから。三十六年間築き上げてきた仕事があるから。そして、いつも味方でいてくれる夫がいるから。理不尽に屈しない強さを手に入れた。今、私は本当の自由を感じている。



