午後二時四十五分、私は十五年間仕えてきた会長を車に乗せて、屋敷を飛び出した。バックミラーに映るのは、追いかけてくる警備員たちの怒声。隣の後部座席では、日本を代表する巨大企業の会長、佐藤県一が、震える声で繰り返していた。「ここから出してくれ。頼む、ここから出してくれ」十五年間、一度も弱音を吐いたことのない男が、涙を流しながら私に縋りついていた。なぜ、家族ではなく一介の運転手である私に助けを求め…

午後二時四十五分、私は十五年間仕えてきた会長を車に乗せて、屋敷を飛び出した。バックミラーに映るのは、追いかけてくる警備員たちの怒声。隣の後部座席では、日本を代表する巨大企業の会長、佐藤県一が、震える声で繰り返していた。「ここから出してくれ。頼む、ここから出してくれ」十五年間、一度も弱音を吐いたことのない男が、涙を流しながら私に縋りついていた。なぜ、家族ではなく一介の運転手である私に助けを求め...

「ここから出してくれ。頼む、ここから出してくれ」

帝国グループ会長、佐藤県一の悲痛な叫びが部屋に満ちた。日本を代表する巨大企業を率い、誰もが尊敬の眼差しを向ける男の目から、涙が止めどなく溢れていた。全身に繋がれた医療機器と点滴のラインが彼をベッドに縛りつけていたが、最も恐ろしいのはそれらではなかった。十五年間、彼のそばに仕えてきた運転手、高橋誠は、震える会長の手を握りながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。生涯、一度も弱音を吐いたことのなかった男が、無力な子供のように助けを求めているのだ。

邸宅の厳重な警備を掻い潜り、密かに忍び込んだ誠に、県一は最後の希望にすがるように必死で縋った。一体、誰が、なぜ、この巨大な帝国の皇帝を、こんな状態に追い詰めたのか。そして、なぜ県一は、自身の家族ではなく、一介の運転手に救いを求めるのか。

東京、高級住宅街に佇む帝国グループ会長の邸宅は、早朝から奇妙な緊張感に包まれていた。午前六時、誠はいつものように会長を送迎するため、邸宅の正門に到着したが、何かが違うとすぐに察知した。警備員たちの表情は硬く、普段は挨拶を交わす相手も、誠と目が合うと、どこか落ち着かなげに顔を背けた。十五年間この場所に出入りしてきて、一度も感じたことのない冷たい空気が、邸宅全体を覆っていた。

「本日は会長の外出のご予定はございません」

秘書室からの連絡を受けても、誠はすぐには引き下がれなかった。三日前から会長の健康状態が急激に悪化したという知らせは受けていたが、その間、一度も会長に直接会うことが許されなかったのだ。専属の運転士として、会長の全てのスケジュールを共にしてきた誠にとって、こんなことは初めてだった。

誠は運転席に座り、携帯電話を取り出した。妹の美咲からのメッセージが入っていた。『お兄ちゃん、会長の様子がおかしい。担当医が処方した薬の量が多すぎるの』

二年前、誠の推薦で会長の専属看護師になった美咲は、医療の専門家として、何かがおかしいと直感的に気づいたのだろう。誠は素早く返信した。『俺も来ている。何か怪しい。気をつけろ』

一時間経っても、邸宅の中からは何の連絡もなかった。誠は車を降りて、庭の周りをゆっくりと歩いた。本館にある会長の寝室の窓を見上げると、カーテンが固く閉ざされていた。普段、会長は朝の陽光を好み、いつもカーテンを開けているはずなのに。

「ここで何をされているんですか?」

突然の声に誠が振り返ると、警備員の山本が立っていた。いつもとは違い、その目には鋭い警戒心が宿っていた。

「会長のご様子が気になりまして。もしかして、本当に今日はご予定がないのでしょうか?」

「そのようなことは、運転手の方に知ることではありません。お早くお帰りになった方がよろしいでしょう」

山本の冷たい態度に、誠はますます不安を感じた。しかし、表向きは平然としたふりをし、頭を下げて車に戻った。エンジンをかけ、邸宅を出ていくふりをしながら、誠は近くの路地に車を止めた。

午後二時、美咲から緊急の連絡が入った。『お兄ちゃん、今、昼の交代時間よ。職員用の出入り口に来て。私が案内するから』

誠は慎重に邸宅の裏手へ近づいた。職員用の出入り口で、美咲が苛立った表情で待っていた。白い看護服を着た美咲の顔は青ざめている。

「お兄ちゃん、大変なの。会長に投与されている薬、普通の鎮静剤のレベルじゃない。この量だと、ずっと意識を失わせることもできる」

美咲は誠の手を取り、館内へと導いた。廊下を進みながら、美咲が囁いた。

「さっき、担当医が薬をさらに増やすように指示したの。このままじゃ……」

美咲の目に涙が浮かんだ。誠は妹の肩を抱いた。

「大丈夫だ。俺たちで会長を助けないと。手伝ってくれるか?」

「当たり前でしょ。お兄ちゃんが会長をどれだけ尊敬しているか知ってるもの。私も二年間お世話になったわ」

二人は慎重に会長の寝室へと向かった。幸い、医療スタッフの交代時間で廊下は閑散としていた。美咲が先に部屋の中を確認し、誠に手招きした。ベッドに横たわる県一の姿に、誠は息を飲んだ。普段は精悍で威厳のある会長の顔は青白く、全身には様々な医療機器が繋がれていた。特に、点滴のラインからは得体の知れない薬物が絶えず注入されていた。

「会長」

誠が恐る恐る近づき、手を握ると、県一の目がかすかに震えた。美咲が素早く点滴のラインを操作した。

「ひとまず薬の投与を止めるわ」

そして美咲はポケットから小さな薬瓶を取り出した。

「これは覚醒剤。救急にこっそり持ってきたの。会長の意識を取り戻せるはずよ」

美咲は手慣れた手付きで県一に覚醒剤を投与した。五分ほど経つと、県一の目がゆっくりと開いた。焦点の合わなかった瞳が誠を認識した瞬間、県一の唇が震え始めた。

「誠……か?」

「はい、会長。誠です。美咲もおります」

県一の目から涙がこぼれ落ちた。震える手で誠の手を固く握りしめ、絞り出すように言葉を続けた。

「ここから出してくれ」

その切実な声に、誠と美咲は顔を見合わせた。美咲がきっぱりとした表情で頷いた。

「人が来る前に、こっそり抜け出さないと」

二人は力を合わせ、県一をベッドから起こした。足に力が入らずふらついたが、誠が背負った。美咲が先頭に立ち、道を案内した。

「こっちは火災の避難経路だから、監視カメラはないわ」

非常階段を降りる間、県一は誠の背中で荒い息を繰り返していた。三階まで降りた時、突然、上の階から怒鳴り声が聞こえてきた。

「会長がいないぞ! 全員探せ!」

美咲の顔が真っ白になった。誠はさらに早く階段を駆け降りた。

「県一を背負ったまま、職員駐車場から車で出るのよ!」

一階に到着するや、警報音が鳴り響き始めた。邸宅中が大騒ぎになったのだ。誠はありったけの力で走った。美咲も後を追った。

「あそこ! お兄ちゃんの車、見える!」

職員駐車場に止めてある誠の車までは五十メートルほど。後ろから警備員たちの足音が近づいてくる。

「お前はここに残れ。俺が手伝ったことがバレたらまずい」

誠は車のドアを開け、県一を後部座席にそっと横たえた。

「でも、お兄ちゃん……」

「大丈夫だ。後で連絡する」

「会長の薬は私が持ってきたから」

「ありがとう、美咲」

美咲は涙をこらえ頷いた。誠がエンジンをかけた瞬間、警備員たちが駐車場へと駆け込んできた。

「あそこだ! 車を止めろ!」

誠はアクセルを床まで踏み込んだ。タイヤが甲高い音を立てて滑り、車は弾丸のように駐車場を抜け出した。バックミラーを見ると、山本が無線機に向かって叫んでいる姿が見えた。誠は入り組んだ路地を駆け抜け、なんとか追跡者を振り切った。都心を横切り、三十分ほど走った末、やっとの思いで自分の小さなアパートに到着した。都心の古いアパートだったが、今のこの瞬間だけは、どこよりも安全な避難所だった。

県一をそっと家の中へ運び込み、誠はようやく安堵のため息をついた。県一は誠が用意したベッドに横たわり、荒い息を繰り返していた。

「もう安全です。会長、私が必ずお守りします」

県一が震える手で誠の手を握った。その目には、感謝と申し訳なさ、そして、まだ言葉にしていない何かが宿っていた。

「誠に話が……」

「今はお休みください。良くなられてから、ゆっくりお話しください」

誠は県一の額に流れる汗を拭った。誰が会長をこんな目に合わせたのか。なぜ、こんなことが起こったのか。必ず突き止めると誓いながら。そして何よりも、会長が自分にしようとしていたその話が何なのか、気になった。

午前三時、誠は眠れずにリビングの窓の外をじっと見つめていた。邸宅から会長を連れ出してから十時間が経ったが、今のところ誰も尋ねてこない。しかし誠は分かっていた。この平穏が長くは続かないことを。誠の住所は、過去に提出したものから二度三度と引っ越しているため、しばらくは安全だろうが、彼らはいずれここも突き止めるだろう。

寝室から県一のうめき声が聞こえた。誠は素早く部屋へ向かった。県一は汗を流し、何かにうなされるように寝言を繰り返していた。悪夢を見ているようだった。

「会長、大丈夫ですか?」

誠が恐る恐る肩をゆすると、県一ははっと目を開けた。虚ろだった瞳が徐々に焦点を結んでいく。県一は荒い息をしながら周りを見渡した。

「ここは、どこだ?」

「私の家です。会長。昨日、邸宅からお連れしました。覚えていらっしゃいますか?」

県一は額を抑え、頷いた。しかし、表情は依然として混乱しているようだった。何かを必死で思い出そうとするかのように、目を閉じ、また開いた。

「誰かが、私を殺そうとしていた。しかし、誰だか……」

県一の声には深い絶望が滲んでいた。記憶の一部が濃い霧の中に閉ざされているかのようだった。誠は県一の手を握った。

「ゆっくり思い出してください。今は回復されるのが先です」

その時、誠の携帯電話が振動した。美咲からのメッセージだった。『お兄ちゃん、邸宅の監視カメラに、お兄ちゃんが会長を連れて出て行くのが映ってた。今、大騒ぎ。気をつけて』

誠の顔が強張った。予想はしていたが、こんなに早くバレるとは。

一方、帝国グループ会長の邸宅は大騒ぎになっていた。広大なリビングには、家族と主要な社員たちが集まっていた。長男の浩司は苛立った表情で部屋の中を歩き回り、妻の幸子はソファに座り、ハンカチで目元を押さえていた。

「一体、どういうことなんだ? 父さんが突然いなくなるなんて」

浩司の声には心配と怒りが混じっていた。彼は山本を睨みつけ、詰め寄った。

「お前が警備責任者だろう。どうしてこんなことが起こるんだ?」

山本は冷や汗を流し、頭を下げた。いつもの堂々とした態度はどこへやら、何かに追われるかのような不安な様子がありありと見て取れた。

「申し訳ありません。確かに、午後までは何の異常も……」

「監視カメラは確認したのか?」

秘書室長の斎藤がタブレットを手に進み出た。画面には、誠が県一を車に乗せる場面が鮮明に映っていた。

「高橋誠が会長をお連れして出て行ったものと確認されました。午後二時四十五分頃です」

幸子が驚いた顔で顔を上げた。その声は震えていた。

「誠さんが? あの人が? どうして、十五年も一緒に働いていたのに……」

浩司の目つきが鋭くなった。彼は拳を固く握りしめ、言った。

「何か企んでいたに違いない。すぐに警察に通報し、指名手配しろ」

「お待ちください」

その時、担当医の佐藤が手を上げた。その顔はいつもより青白く、声もかすかに震えていた。

「実は、会長のご容態について、お話ししなければならないことがあります」

全ての視線が佐藤に集中した。彼は乾いた唾を飲み込み、言葉を続けた。

「最近、会長が服用されていた薬が、通常より多かったのです。そのため、意識が朦朧とされていた可能性が……」

「どういうことですか?」

幸子が鋭く尋ねた。浩司が落ち着いた声で割り込んだ。

「佐藤先生、失踪される前の父のご様子はどうでしたか? 何か特別な症状や異常な兆候はありましたか?」

佐藤は一瞬浩司を見つめ、慎重に答えた。

「ここ数日、睡眠のパターンが不規則で、時折り意識が朦朧とされることがありました。ご高齢ということもあり、薬を調整していたところです」

浩司は頷き、心配そうな顔をした。

「そうですか。もし、そのような状態で急に移動されたとしたら、危険ではないでしょうか」

会話が続く間、山本は背後で不安そうに携帯電話をいじっていた。その額には玉のような汗が浮かんでいた。

一方、誠は急いで荷物をまとめていた。会長を連れて、別の場所へ移動しなければならない。県一はベッドの端に座り、依然としておぼろげな記憶を辿っていた。

「倒れる前、誰かが俺の部屋に入ってきたんだ」

誠は荷物をまとめる手を止め、振り返った。

「誰か、覚えていらっしゃいますか?」

県一は首を横に振った。その目には深い不安が宿っていた。

「顔は見えなかった。しかし、確かに知っている人間だった。声が、聞き覚えがあったんだ」

誠は県一のそばに座った。

「これは重要な手がかりになるかもしれません。どんな声でしたか? 男性でしたか? 女性でしたか?」

県一は目を閉じ、集中した。額にしわが寄り、指がかすかに震えた。

「男だったと思う。低く、落ち着いた声だった」

その瞬間、外から車の音が聞こえた。誠は素早く窓のカーテンをそっと開け、外を覗いた。黒いセダンが二台、路地の入り口に止まっている。

「会長、今すぐ出なければなりません」

誠は県一を支え、立たせた。あらかじめ準備しておいた帽子とサングラスを県一に被せた。裏口から出て、路地を通り抜け出す計画だった。入り組んだ住宅街の路地を、二人は素早く移動した。県一はまだ足に力が入らなかったが、誠に支えられながら必死で歩を進めた。

「すまない、誠……」

「おっしゃらないでください。会長、私がお救いするのは当然です」

十分ほど歩いただろうか。誠はあらかじめ連絡しておいた知人の車を見つけた。運転席には、誠の自衛隊時代の同期である竜二が座っていた。誠は県一を後部座席に乗せ、自分も乗り込んだ。

「ありがとう。説明は後でする」

「それで、どこへ行くんだ?」

誠は少し考えた。都心はもう危険だ。もっと遠く、もっと安全な場所へ行かなければ。

「群馬の山の方へ行ってくれ。そこに知り合いのペンションがある」

車が走り出すと、県一は後部座席に体を預け、目を閉じた。その口から低いつぶやきが漏れた。

「一体誰が…… なぜ私を……」

誠はバックミラーで県一を見つめた。会長をこんな目に合わせた人間を、必ず突き止める。そして、その人物は間違いなく、会長と親しい人物の一人のはずだ。

その頃、邸宅では浩司が誰かと電話をしていた。その声は低く、緊迫していた。

「ええ、必ず見つけなければなりません。生きていようと、死んでいようと」

電話を切った浩司の表情は複雑だった。心配と焦り。そして、その奥に隠された、また別の感情が顔に浮かんでいた。

幸子は執務室で何かを燃やしていた。暖炉に投げ込まれた書類が、勢いよく燃え上がっていた。その目は冷たく、断固としていた。

群馬へ向かう車の中で、誠は美咲にメッセージを送った。『俺たちは安全な場所へ行く。会長の血液サンプル、保管しておいてくれ。後で必要になるかもしれない』

すぐに返信が来た。『分かった。でも、こっちの雰囲気、変。みんな何か隠してるみたい。お兄ちゃんも気をつけて』

誠は携帯電話を置き、正面を見つめた。これから起こるであろうことが、決して簡単なことではないと直感していた。しかし、会長を守らなければならないという使命感が、彼をさらに強くさせた。

県一は眠っているようだったが、時々、寝言のように呟いた。

「みさ子…… ごめん……」

みさ子。誠はその名前を心に刻んだ。県一が無意識のうちに呼ぶ、その名前が何か重要な手がかりになるかもしれないと思った。

群馬の山奥にある小さなペンション。午前五時、誠は眠れずに窓の外を眺めていた。霧が深く立ち込め、山の向こうから淡い光が差し込み始めていた。県一はベッドで深い眠りに落ちていた。薬の影響が徐々に抜けてきているのか、顔に少しずつ血色が戻ってきていた。

誠の携帯電話が振動した。美咲からのメッセージだった。『お兄ちゃん、大変! 警察が来た。家、大騒ぎ』

誠の心臓が激しくなり始めた。予想はしていたが、こんなに早く大々的な捜索が始まるとは。彼は恐る恐るテレビをつけた。ニュース速報が流れていた。

「帝国グループ佐藤県一会長が昨日午後、自宅から行方不明になった事件で、警察は専属運転手の高橋誠容疑者を緊急指名手配しました。高橋容疑者は、監視カメラに佐藤会長を車に乗せる姿が最後に捉えられています」

誠はテレビを消した。自分は今や、全国に指名手配された犯罪者。十五年間、忠実に仕えてきた会長を誘拐した犯罪者として、追われる身となったのだ。

東京の帝国グループ会長の邸宅は、早朝からパトカーと民間の警備会社の車両でごった返していた。浩司はリビングで警察の幹部たちと対策会議を開いていた。その表情は悲壮で、声には切迫感が滲んでいた。

「父は心臓が良くないんです。一日も早く見つけなければ。あらゆる手段を動員してください」

警察官部は頷いた。帝国グループの影響力を無視することはできなかった。

「高橋に関わる全ての人物を捜査線上に乗せ、操作しています。すぐに捕まるでしょう」

その時、秘書室長の斎藤が慌てて入ってきた。その顔は焦りに満ちていた。

「副会長、高橋誠のアパートを捜索しましたが、すでにもぬけの殻でした」

浩司の目が鋭くなった。拳を固く握りしめ、唸った。

「やはり計画的だったか。別の隠れ家があるはずだ。彼の全ての繋がりを調べ上げろ」

一方、会長夫人の幸子は執務室で静かに電話をしていた。声は低く、落ち着いていたが、指はかすかに震えていた。

「…全ての書類は処理しました。誰にも分かりません」

邸宅の医務室では、美咲が薬品の在庫整理をしていた。その時、山本がふいに進入してきた。美咲は驚いて薬瓶を落としそうになった。

「君か。昨日の会長への薬物投与の記録はあるか?」

山本の目は疑念に満ちていた。美咲はできるだけ平静を装い、答えた。

「はい。こちらに。正常に投与しました」

山本は記録を丹念に調べた。美咲が改ざんした記録だったが、完璧だった。しかし、山本は簡単には引き下がらなかった。

「しかし、おかしいな。昨日の午後、君が会長の部屋にいた時、薬の残量はそのままだったぞ」

美咲の背中に冷や汗が流れた。しかし、表向きは堂々とした態度を崩さなかった。

「その時は会長が拒否なさいましたので、少ししてから再度投与いたしました」

山本は意味深な表情で美咲を見つめ、背を向けた。ドアを出る際、低い声で呟いた。

「気をつけた方がいいぞ」

美咲は山本が去った後、ようやく大きく息を吐いた。すぐに誠にメッセージを送った。『お兄ちゃん、山本が疑ってる。気をつけた方がいいと思う』

群馬のペンションで、誠は県一の朝食を準備していた。県一はリビングのソファに座り、窓の外を眺めていた。昨日よりずっと意識ははっきりしているようだった。

「誠には、大きな荷物を背負わせてしまったな」

誠は岡ゆの器を置き、首を横に振った。

「いえ、会長。私がすべきことをしただけです」

県一は岡を口にし、深くため息をついた。その目には、何かを必死で思い出そうとするかのような焦りがあった。

「俺の記憶がバラバラになっているようだ。確か、何かあったはずなんだが……」

その時、誠の携帯電話が鳴った。竜二からだった。

「おい、お前、今ニュース見たか? 全国に指名手配されてるぞ。警察が俺のところにも来た」

誠は眉を潜めた。すでに自分の人脈にまで捜査の手が及んでいる。

「すまない、竜二。巻き込んでしまったな」

「いいや、いいんだ。でも、冗談じゃないぞ。俺がお前の自衛隊の先輩だってことも、すぐにバレる」

誠は県一を見つめた。また移動しなければならない。しかし、会長の健康状態が心配だった。

東京では、大々的な捜索作戦が展開されていた。浩司は民間の警備会社の代表と共に、作戦地図を広げていた。

「高橋誠のクレジットカードの使用履歴と、携帯電話の位置情報は?」

「カードは昨日以降、使用記録がありません。携帯電話は電源が切られています。しかし、最後に電波が捕捉されたのが、群馬方面でした」

浩司は地図を指で叩いた。その目には執念が宿っていた。

「群馬全域を隈なく探せ。特に、人里離れたペンションや別荘地を重点的にだ」

その頃、医務室で佐藤は薬品の在庫確認をしている最中、奇妙な点に気づいた。特定の薬物の数が合わないのだ。彼は素早く周りを見渡し、引き出しの奥深くに書類を隠した。

群馬のペンションで、誠は再び荷物をまとめ始めた。県一は不安そうな顔で尋ねた。

「また行くのか」

「はい、会長。ここももうすぐ危険になります」

県一は頷いた。その時、突然何かがひらめいたように、誠の腕を掴んだ。

「待て、俺の執務室だ。執務室に重要なものがある。秘密の金庫に……」

しかし、言葉を最後まで結べなかった。遠くから車の音が聞こえてきたのだ。複数の車両がペンションへ登ってくる音だった。誠は素早く窓の外を覗いた。黒いSUVが三、四台、曲がりくねった山道を登ってきていた。時間がなかった。

「会長、裏口から出ます」

誠は県一を支え、ペンションの裏手へ向かった。鬱蒼とした森が彼らを待っていた。徒歩で山を超えなければならない。

車両がペンションの前に止まった。民間の警備員たちがどっと降りてくる。その中に、山本の姿もあった。彼は他の警備員とは違い、裏手の森をじっと見つめていた。そして、わざと別の方向を指差し、警備員たちを誘導した。

「あちらは私が確認します」

山本の行動に誰も気づかなかった。森の中を彷徨っていた誠と県一は、険しい丘に突き当たった。県一は息を切らし、へたり込んだ。

「すまない…… もう歩けない……」

誠は県一を背負った。そして、ありったけの力で振り絞り、丘を登った。

一時間ほど山を彷徨っただろうか。誠は小さな山小屋を見つけた。ドアは閉まっていたが、仕方なく窓を割って入った。県一を安全な場所に寝かせ、誠は疲れた体を椅子に預けた。携帯電話を確認すると、美咲からのメッセージが届いていた。

『お兄ちゃん、ここで変なことが起きてる。誰かが医療記録を改ざんしようとしてる。それに、幸子様が何かを燃やしてたって』

誠は返信した。『証拠を確保しろ。気をつけて。俺たちは安全だ』

県一が囁くように口を開いた。

「誠よ、俺は真実を知らなければならない。誰が俺を殺そうとしたのか。そして、なぜ……」

誠は県一の手を固く握った。もはや、ただ逃げているだけではいけない。真実を明らかにしなければ。

山小屋で夜を明かした誠は、午前四時に目を覚ました。窓の外の森は、依然として深い闇に包まれていた。県一は簡易ベッドで規則正しい寝息を立てて眠っていた。薬の影響からはほぼ抜け出したのか、顔色も随分と良くなっていた。誠は恐る恐る携帯電話を確認した。美咲からのメッセージが届いていた。

『お兄ちゃん、私の知り合いに信頼できる探偵がいるの。元刑事で、高山さんって言うんだけど、私の患者さんだったのよ。退職して今は探偵をしているわ』

誠は少し悩んだ。全国に指名手配されている状況で、誰かを信じるというのは危険なことだった。しかし、このまま隠れているだけではいけない。真実を明らかにするためには、専門家の助けが必要だった。

午前八時、誠は美咲が教えてくれた番号に慎重に電話をかけた。太く落ち着いた中年の男性の声がした。

「はい、高山です」

「私、看護師の高橋から紹介されたものです」

電話の向こうでしばらく沈黙が流れた。そして、高山の声が低くなった。

「高橋誠さんですね。美咲さんから大体のことは伺っています。ここでお会いしましょうか」

誠は周りを見渡した。その時、隣でじっと聞いていた県一が携帯電話を取り上げた。

「ここにずっといるわけにはいかない。ここからそう遠くない場所に、私だけが知っている隠れ家がある」

四時間後、古びた乗用車が田舎の小さな家の前に止まった。五十代半ばに見える男性が降りてきた。引き締まった体に、鋭い目つき。元刑事らしい慎重な足取りで周りを見渡し、家の中へ入ってきた。

「高山です。美咲さんからくれぐれもと頼まれましてね」

誠は高山を中に案内した。県一はリビングのソファに座っていた。依然として青ざめてはいたが、目はしっかりとしていた。

「佐藤県一会長…… 本当に助けていただけますか?」

県一の声は切実だった。高山は真剣な顔で頷いた。

「まずは状況を正確に把握しなければなりません。最初から順を追ってお話しいただけますか?」

その後の一時間、誠と県一は邸宅で起こったことを詳細に説明した。薬物の過剰投与、意識が朦朧としていた状態、そして劇的な脱出まで。高山は手帳に細かく記録を取りながら、時折り鋭い質問を投げかけた。

「会長。お倒れになる前に、何か特別なことはありませんでしたか。普段とは違う人物に会ったとか」

県一は額を抑え、記憶を辿った。その目元に深いしわが寄った。

「あの日の朝…… 浩司が何か書類を持ってきたんだ。そして……」

県一の声が震えた。何か重要なことを思い出そうともがいているようだった。

「コーヒーを飲んだ。浩司が直接入れてくれたコーヒーを」

高山の鋭い視線が光った。彼はペンを止め、県一を見つめた。

「普段から、息子さんがコーヒーを入れて差し上げるのですか?」

「いや、初めてだった。あの日だけ、妙に親切だったんだ」

誠と高山は、意味深な視線を交わした。最初の手がかりが出たのだ。

高山は鞄からノートパソコンを取り出した。そして、帝国グループの邸宅の見取り図を画面に表示させた。

「事前に少し調べておきました。邸宅の構造と監視カメラの配置図です。ご覧ください。会長の部屋へ続く道は三つ。正面の階段、職員用の階段、そして非常階段。美咲さんはどのルートで?」

「非常階段です」

誠は見取り図を詳しく見た。十五年間出入りしてきた場所だったが、こんな風に分析的に見たのは初めてだった。

「監視カメラの死角が、ここにありますね」

「その通りです。会長の部屋の前の廊下の突き当たり。誰かが意図的にカメラを避けて接近できる区間です」

県一が突然、何かがひらめいたように体を起こした。

「そうだ。あの廊下の突き当たりにある物置きだ。あそこには古い家具を保管しているんだが、最近、誰かが出入りしたような痕跡があったんだ」

高山は素早くメモを取った。そして、新しい紙を取り出し、容疑者のリストを作成し始めた。

「会長に接近できる人物を整理してみましょう。まずご家族では、佐藤浩司副会長、妻のゆき子様。そして職員では、担当医の佐藤先生、警備責任者の山本市、秘書室長の斎藤氏」

リストを作成しながら、高山の表情はますます険しくなっていった。容疑者たちが、皆、会長と最も親しい人たちだったからだ。

「それぞれの動機を分析しなければなりません。佐藤浩司副会長の場合は、相続問題が考えられますし……」

「待ってくれ」

県一が高山の言葉を遮った。その顔には苦痛の表情が浮かんでいた。

「浩司は私の息子だ。だが、三十五年前から知っている……」

高山は慎重に言葉を続けた。

「申し訳ありません、会長。しかし、全ての可能性を視野に入れて調査しなければなりません」

その時、誠の携帯電話が鳴った。美咲からだった。

「お兄ちゃん、大変! 佐藤先生が急に辞表を出したの。それで、荷物をまとめて出て行くのを見たわ」

誠はスピーカーフォンに切り替えた。高山も集中して聞いた。

「どこへ行くか聞いた?」

「分からない。でも、すごく焦っているようだった。それに、薬品保管室から何かをこっそり持ち出していくのも見たわ」

高山が割り込んだ。

「美咲さん、高山です。その先生が持ち出したものが、何か確認できますか?」

「神経安定剤と…… ちょっと待って、確認してみるわ」

しばらくして、美咲の驚いた声がした。

「えっ、これ、致死量に近い量よ。どうしてこんなものを……」

誠と県一は顔を見合わせた。佐藤が証拠を隠滅しようとしているのか。それとも、誰かを口封じしようとしているのか。高山は素早く判断した。

「佐藤を追跡しなければ。美咲さん。その男の車のナンバーは分かりますか?」

美咲が車のナンバーを告げると、高山はすぐにどこかへ電話をかけた。まだ警察内部に繋がりがあるようだった。

「俺だ。車の追跡を頼む。いや、公式じゃない。内密に」

電話を切った高山が振り返った。

「ひとまず、佐藤の行方を追っています。その間に、他の容疑者も調査しなければ」

そして高山は県一を見つめた。

「そして会長。先ほど、漏れていました執務室の秘密の金庫ですが……」

県一の目が揺れた。彼は少しためらい、口を開いた。

「そこには重要な書類がある。過去の、とても古い出来事に関する……」

誠は県一の表情から、何か深い秘密が隠されていることを感じた。その秘密が、今回の事件と関連しているのではないかという不安が襲ってきた。

高山は調査計画をまとめながら言った。

「まずは佐藤を見つけ出す。同時に、邸宅内部の状況を引き続き探る。そして、可能であれば、その秘密の金庫の中身も確認しなければ」

誠が心配そうに尋ねた。

「しかし、私は指名手配されているので動きにくいのですが」

「私が直接動きます。お二人はここで安全にお待ちください。美咲さんが内部から協力してくれるはずです」

高山が去った後、隠れ家には重い沈黙が流れた。県一は窓の外を眺め、深い考えに沈んでいた。誠はそんな会長を心配そうに見守っていた。真実への第一歩を踏み出した。しかし、これから明らかになるであろうことが、恐ろしくもあった。

高山が去ってから二時間が経ったが、県一は依然としてリビングの窓際に座り、遠くの山を眺めていた。ここは彼が三十年前に密かに用意した隠れ家だった。いつか必要になる日が来るかもしれないと準備しておいた場所だったが、まさかこんな状況で使うことになるとは。誠はキッチンで簡単な食事を準備しながら、県一を心配そうに見つめていた。会長の方が、いつもよりずっと落ち込んでいるように見えた。重い秘密を背負った人間の、深いため息をついていた。

「会長、何か召し上がらないと」

県一はゆっくりと顔を向けた。その目元には深いしわが刻まれ、視線はどこか遠くを彷徨っていた。

「誠には、生涯隠してきた話がある」

誠は準備したおかゆをテーブルに置き、県一の向かいに座った。県一が何か重要な話を切り出そうとしているのが分かった。県一は震える手でスプーンを取り上げ、また置いた。そして、深く息を吸い込み、話し始めた。

「四十五年前、俺が二十七歳の時だ。帝国建設を立ち上げたばかりの頃だった」

県一の声には、懐かしさと痛みが同時に滲んでいた。誠は静かに耳を傾けた。

「みさ子という女性社員がいた。俺の最初の秘書だった。賢くて、真面目で、美しかった」

みさ子。県一が悪夢の中で呼んでいた、あの名前だった。誠は息を殺して聞いた。

「俺たちは愛し合っていた。心から」

しかし、県一の目に涙が浮かんだ。七十二歳の老人になっても、忘れられない恋だったのだろう。

「両親が反対したんだ。事業を大きくするためには、家柄の良い家の娘と結婚しなければならないと。それで、今の妻と……」

県一は言葉を最後まで結べなかった。罪悪感と後悔が、その顔に満ちていた。

その時、誠の携帯電話が鳴った。高山からだった。

「高橋さん、佐藤を見つけました。大阪駅の新幹線に乗ったようです。しかし、奇妙なことに……」

高山の声には緊張感が走っていた。

「山本も同じ時間に大阪へ向かっています。別々に動いていますが、目的地は同じです」

誠は県一を見つめた。二人が同時に大阪へ向かったというのは、偶然ではないだろう。

「追跡を続けています。それに、邸宅の方から知らせですが、妻のゆき子様がここ数日、執務室に頻繁に出入りしているそうです」

県一の表情が硬直した。書斎の、秘密の金庫を思い浮かべたようだった。電話を切った誠は、県一に状況を説明した。県一は不安そうな顔で、指を机に叩きつけた。

「大阪…… そこには、俺が隠したまた別の書類がある」

「どんな書類ですか?」

県一は少しためらい、口を開いた。

「みさ子に関するものだ。そして、浩司の出生に関する書類だ」

誠は驚いて県一を見つめた。浩司の出生に関する書類が、なぜ秘密裏に保管されているのだろう。

一方、東京の帝国グループの邸宅では、美咲が慎重に医務室を整理していた。佐藤が急いで去った後、薬品保管室は散らかったままだった。美咲はなくなった薬を確認しながら、記録を残していた。その時、誰かが医務室へ入ってきた。幸子だった。いつもの優雅な様子とは違い、どこか焦っているように見えた。

「あなた、佐藤先生がどこへ行ったか知っている?」

美咲は首を横に振った。幸子の目つきが鋭くなった。

「本当に知らないの? それとも、隠しているのかしら」

幸子の声には脅すような響きがあった。美咲は落ち着いて答えた。

「本当に存じ上げません。奥様。急に辞表を出して行かれましたので」

幸子は疑わしげな目で美咲を一瞥し、背を向けた。ドアを出る前に、低い声で呟いた。

「全てが狂ってきている」

美咲は幸子が去った後、急いで誠にメッセージを送った。『お兄ちゃん、幸子様が何か不安そう。佐藤先生の行方を聞いてきた。それにさっき執務室で何かを燃やしてた』

一方、大阪の古びたビジネスホテル。佐藤は苛立った表情で部屋の中を歩き回っていた。鞄の中には、病院から持ち出した薬がぎっしりと詰まっていた。その時、ノックの音がした。

「俺だ。山本だ」

佐藤はチェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開けた。

「どうして急に大阪まで……」

「中で話そう」

二人は部屋の中で向かい合って座った。山本の顔には、濃い影が落ちていた。

「佐藤先生、これからどうするつもりだ?」

佐藤は震える手で顔を撫でた。

「分からない。会長が生きている以上……」

「それで、この薬を持ってきたのか」

山本が鞄の中の薬を指差した。佐藤は呻いた。

一方、隠れ家では高山からのメッセージが届いていた。『二人は大阪、梅田近くのビジネスホテルで会っています。盗聴機を仕掛けましたので、もうすぐ会話の内容をお送りします』

誠は緊張した顔で録音ファイルを待った。県一は依然として、過去の記憶に沈んでいた。

「誠に、みさ子のことを話した後、俺は彼女を探そうとした。しかし、もうこの世にはいないと聞いた。交通事故だったそうだ」

誠の胸がドキリとした。自分も、母親を交通事故で亡くしている。しかし、母親の名前はみさ子ではなかったはずだ。

「みさ子は、子供を産んでいた。俺が別れた後…… 後になって知ったんだ」

誠の心臓が激しくなった。何か重要な秘密が明かされようとしていた。しかし、県一の声は続いた。

「しかし、もう遅かった。俺はゆき子と結婚し、みさ子は姿を消していた。そして三年後、俺は…… 浩司を養子に迎えた」

県一の声が震えた。過去の痛みが、再び蘇ってきたようだった。

「ゆき子とは、子供ができなかった。それで、浩司を養子に迎えたんだ」

その時、高山から電話があった。緊迫した声だった。

「大変です。佐藤と山本の会話を聞きましたが、彼らは佐藤浩司の指示を受けていたそうです」

誠は息を飲んだ。ついに犯人が明らかになる。しかし、もっと衝撃的なのは。

「しかし、もっと衝撃的なのは、妻のゆき子様も関与しているということです。むしろ、彼女が主導していた可能性が……」

県一が受話器を奪い取った。その顔は青ざめていた。

「何だと? ゆき子が……」

「録音を聞く限り、ゆき子様が全ての計画を指揮し、浩司副会長が実行を担当していたようです」

県一は電話を落とした。三十五年間、連れ添った妻が。そして、息子のように育てた浩司が。自分を殺そうとしていたという事実に、大きな衝撃を受けたのだ。誠は倒れそうな県一を支えた。県一の体が、ひどく震えていた。

「会長、しっかりしてください」

「どうして…… そんなことが……」

県一の目から涙がこぼれ落ちた。裏切りの痛みが、その心を引き裂いていた。高山の声が続いた。

「そして会長、もう一つあります。彼らが探している書類があるというのですが、みさ子という名前が何度も出てきます」

県一は目を閉じた。過去の秘密が、現在の陰謀と繋がっていた。そして、その中心には、四十五年前に別れた一人の女性の名前があった。

隠れ家のリビングには、重い沈黙が流れていた。県一は妻と養子の裏切りという衝撃から、まだ立ち直れずにソファに崩れるように座っていた。誠は会長に温かいお茶を差し出し、恐る恐る隣に座った。

「会長、ひとまず落ち着いてください。高山さんが、もっと詳しい情報を送ってくれるはずです」

県一は震える手で湯飲みを受け取った。その目は依然として混乱していたが、何かを決心したかのように深く息を吸い込んだ。

「さっき、みさ子の話をしただろう。実は、まだ続きがあるんだ」

誠は頷いた。みさ子という名前が、この事件の中心にあることは明らかだった。しかし、その名前が自分とどう関わっているのか、全く見当もつかなかった。県一は視線を窓の外へ向け、回想し始めた。その声には、深い懐かしさと後悔が滲んでいた。

「みさ子は、俺が出会った人間の中で、最も純粋で美しい魂を持った女性だった。俺たちは本当に愛し合っていた。しかし、家の反対で……」

県一は言葉を止め、ため息をついた。四十五年経っても、その痛みは依然として生々しいようだった。

「別れてから五年ほど経った頃か。彼女を探してみようとしたんだが、もうこの世にはいないと聞いた。交通事故だったそうだ」

誠の胸がドキリとした。自分も、母親を交通事故で亡くしている。しかし、母親の名前はみさ子ではなかったはずだ。その時、誠の携帯電話が鳴った。高山からだった。

「高橋さん、重要な情報を入手しました。佐藤が持っていた書類の中に、1980年代の病院の記録がありました。みさ子という女性の出産記録ですが……」

誠はスピーカーフォンに切り替えた。県一も耳を済ませた。

「出産日は、1980年3月15日ですね。男の子だとあります」

誠は息を飲んだ。自分の誕生日と、全く同じだった。県一が突然、誠を見つめた。その目には、奇妙な感情が宿っていた。

「誠君。君のお母さんも、一人で君を育てていて、交通事故で亡くなったと言っていたな。君の誕生日は、3月15日ではなかったか。生まれたのは何年だ?」

「1980年3月15日です。会長」

県一の顔が青ざめた。震える手で、誠の腕を掴んだ。

「まさか…… もしかしたら……」

高山の声が続いた。

「そして、奇妙なことに…… この記録を、なぜ佐藤が持っていたのかということです。間違いなく、何か理由があるはずですが」

誠は県一を見つめた。県一の目には、切実さと恐れが同時に宿っていた。

「誠君。君のお母さんの名前は、何だったかな?」

「高橋かず子です。高橋かず子でした。私が五歳の時に亡くなりました」

県一はがっかりしたように項垂れた。しかし、依然として何かを確かめたいような表情だった。

「もしかして…… DNA鑑定をしてみることはできるだろうか」

誠は驚いて県一を見つめた。会長がなぜそんな提案をするのか、理解できなかった。しかし、県一の切実な眼差しを見て、断ることはできなかった。

「はい、会長。そうしましょう」

一方、東京の帝国グループの邸宅では、美咲が密かに重要な作業をしていた。医務室のコンピューターで医療記録を確認している最中、奇妙な点に気づいたのだ。県一の最近の血液検査の結果が、改ざんされた痕跡があったのだ。美咲は素早く元のファイルをコピーし、自分のUSBに保存した。その時、廊下から足音が聞こえてきた。慌てて画面を閉じ、いつものように薬品を整理するふりをした。ドアが開き、浩司が入ってきた。その表情は、いつもよりずっと暗かった。

「君か。父の健康記録の原本はどこにあるか、知っているか?」

美咲は落ち着いて答えた。

「医務室のキャビネットに保管されています。どうかなさいましたか?」

浩司は鋭い目で美咲を一瞥した。

「確認したいことがあってな。鍵は、佐藤先生が持っていたはずだが、今はいないだろう」

浩司の顔が歪んだ。彼は拳を固く握りしめ、医務室を出て行った。美咲は彼が去った後、急いで誠にメッセージを送った。『お兄ちゃん、浩司さんが会長の医療記録を探してる。何か隠そうとしているみたい』

大阪のホテルでは、佐藤と山本が依然として話を続けていた。高山が密かに設置した盗聴機が、全てを記録していた。

「これからどうする? 会長が生きている以上……」

佐藤の声は不安でいっぱいだった。

「ひとまず証拠を消さなければ。俺が持っている書類。特に、あの出産記録だ」

山本の言葉に、佐藤は驚いたように声を上げた。

「どうして、それを……」

「あれは、ゆき子様が……」

「静かにしろ。壁に耳ありだ」

二人の会話はさらに低くなった。しかし、確かなことは明らかだった。みさ子の出産記録が、この事件の重要な鍵だったのだ。

隠れ家で、誠と県一は簡易のDNA鑑定キットを使っていた。美咲があらかじめ準備しておいてくれたものだった。結果は数日後に出る予定だったが、二人とも奇妙な予感に囚われていた。

「もし…… 本当に、万が一…… 俺が……」

県一は言葉を最後まで結べなかった。あまりに切実に願っていることだったが、同時に恐ろしかった。四十五年ぶりに、失われた愛の痕跡を見つけられるかもしれないという希望と、それがまた別の幻であるかもしれないという恐れが交錯していた。誠も複雑な心境だった。なぜ会長が自分とDNA鑑定をしようとしているのか。なぜ、みさ子という女性の話に自分が繋がるのか。理解できなかった。しかし、会長の切実な眼差しを見ると、何か重要な真実が隠されていることだけは直感できた。

その時、美咲からまた連絡があった。

『お兄ちゃん、うちの母さんに聞いてみたんだけど、みさ子っていう名前、知ってるかって』

誠の心臓が激しくなった。叔母がその名前を知っているとは、どういうことだろう。

『母さん、びっくりしてた。それが、お兄ちゃんのお母さんの元の名前よ。高橋かず子って、結婚してからの名前でしょ? 結婚前の名前が、みさ子だったんだって』

誠は携帯電話を落としそうになった。全身に鳥肌が立った。県一が話していた、みさ子。それが、自分の母親だったのだ。誠は震える声で県一を呼んだ。

「会長」

県一が誠を見つめた。誠の青ざめた顔を見て、県一も何かを感じ取ったようだった。

「みさ子が、私の母でした。結婚前の名前が……」

県一の目から、涙がこぼれ落ちた。震える手で、誠の手を握った。二人は言葉もなく、互いを見つめ合った。四十五年という時を超え、運命が彼らを再び巡り合わせたのだ。

隠れ家のリビングは、涙と沈黙に満ちていた。県一と誠は、互いの手を握りしめたまま、言葉を失っていた。四十五年の時を経て、巡り合った親子の最初の対面だった。県一の目からは絶え間なく涙が流れ、誠も、隠そうとはしなかった。

「誠…… いや、息子よ」

県一の声は、震えでいっぱいだった。

「生涯、恋い焦がれたみさ子の息子が…… 隣で十五年間、自分に仕えてきた運転手だったとは」

運命のいたずらというには、あまりに残酷で、そしてありがたいことだった。誠はまだ現実感がなかった。自分は生涯、父親を知らずに生きてきた。しかし、父親がいた。それも、そばにいた。その事実が信じられなかった。その上、日本を代表する巨大企業、帝国グループの会長が、自分の本当の父親だとは。

その時、高山からの電話が鳴った。二人の感動的な瞬間を壊してしまうようで申し訳なかったが、緊急の状況だった。

「会長、申し訳ありませんが、重要な証拠を確保しました。佐藤浩司副会長が犯人と思われます」

県一は身を震わせた。養子として三十五年間育ててきた浩司が、自分を殺そうとしていたという事実は、依然として受け入れがたかった。しかし、証拠の前では否定できなかった。

「どんな証拠ですか?」

誠が代わりに尋ねた。もはや、単なる運転手ではなく、会長の息子として、父親を守らなければならないという責任感が芽生えていた。

「佐藤浩司が、佐藤医師と山本警備責任者に、大金を送金した記録を確保しました」

そして、高山は一瞬言葉を止めた。

「さらに、衝撃的な内容の録音ファイルもあります。佐藤浩司が二人に、会長をずっと意識不明のままにしておけ、と指示している内容です」

誠は拳を固く握りしめた。父親をあのような状態に落とし入れた張本人が、兄弟同然に過ごしてきた浩司だったとは。怒りが込み上げてきた。

東京、帝国グループ本社ビル。浩司は会長室に座っていた。父親が行方不明になった後、会社を引き継がなければならないという名目で、この場所を占拠していたが、その表情は不安でいっぱいだった。机の上の書類を漁りながら、何かを探していた。

「どこに隠したんだ……」

浩司が呟いた瞬間、会長室のドアが大きく開かれた。警官たちがどっと入り込んできた。その後ろに、高山の姿も見えた。

「佐藤浩司さん。殺人未遂の容疑で逮捕します」

浩司の顔が青ざめた。しかし、すぐに濡れ衣だと言わんばかりに声を張り上げた。

「何を言っているんだ? 私は父を探しているんだぞ!」

警察は浩司に手錠をかけながら、証拠を突きつけた。金融取引の履歴と、録音ファイルだった。浩司は証拠を見ても否定したが、もはや勝負はついていた。

大阪のホテルでも、同じようなことが起こっていた。佐藤と山本が逮捕される瞬間だった。佐藤は怯えた顔で、全てを自白し始めた。

「私は、言われた通りにしただけです。佐藤浩司副会長が金を渡して、会長に薬を……」

山本も、もはや耐えられなかった。彼は涙ながらに自分の罪を認めた。

「そうです。私も買収されました。しかし、会長を殺害するつもりはありませんでした。ただ、しばらく意識を失わせるだけで……」

警察は二人を連行し、さらに詳しい取り調べを行うことにした。

隠れ家で、県一と誠は高山の報告を聞いていた。高山はノートパソコンを開き、証拠を一つ一つ見せていった。

「佐藤浩司は、一年前から奇妙な行動を見せていたようです。会長の執務室に頻繁に出入りし、特に秘密の金庫の辺りをうろついていたと」

県一が、何かがひらめいたように言った。

「一年前…… あの時、俺はみさ子のことを再び調査し始めたんだ。古い記憶、彼女との思い出を整理して、執務室の金庫に保管していた」

誠は驚いて、父親を見つめた。ついさっき、互いが親子だと知ったばかりの二人には、まだ現実感がなかった。

「三年前、お前を運転手として採用した時から、おかしいとは思っていた。お前の顔が、若い頃の俺にあまりにもよく似ていたからな」

県一の目に、再び涙が浮かんだ。

「それで、一年前からみさ子のことを再び調査し始めたんだ。俺と別れてすぐに、息子を産んでいたことまで突き止めた」

県一は言葉を止めた。あまりに切実に願っていたが、下手に確認するのが怖かった。その気持ちを、どう説明すればいいのか分からなかった。

その時、高山が恐る恐る割り込んだ。

「しかし、驚くべき事実を発見しました。佐藤浩司が、一年前、会長に内緒でDNA鑑定を依頼した記録があります。会長と、高橋誠さんのサンプルで」

誠と県一が、同時に高山を見つめた。浩司が、彼らよりも先に真実を知っていたのだ。

「おそらく、佐藤浩司が会長の調査資料を見て、疑念を抱いたのでしょう。それで密かに確認し、自分の相続権が危ういと感じたのでしょう」

誠は複雑な心境だった。自分のせいで、父親が危険にさらされたのではないかという罪悪感。しかし、同時に浩司への怒りも大きかった。その時、美咲から連絡があった。

『お兄ちゃん、佐藤浩司副会長が逮捕されたわ。今、邸宅は大騒ぎ。でも、おかしいの』

誠は緊張しながら、次のメッセージを待った。

『幸子様が、あまりにも落ち着いているの。まるで、予想していたかのように。それに、部屋で何かをずっと燃やしているわ』

誠と県一、そして高山は顔を見合わせた。浩司が逮捕されても、まだ全ての真実が明らかになったわけではなかった。特に、幸子の奇妙な行動は、また別の秘密を暗示していた。

警察署の取り調べ。浩司は依然として濡れ衣だという表情で座っていた。しかし、証拠が一つ、また一つと提示されると、次第に焦り始めた。

「この送金の記録を説明してください。佐藤医師と山本警備責任者に、なぜ大金を送ったのですか?」

浩司は唇を噛みしめ、弁護士を要求したが、すでに状況は不利だった。

「私、一人でやりました。他のは、関係ありません」

刑事は意味深な顔をした。

「なぜ、急に一人でやったと主張するのか。誰かをかばっているかのようだ。本当に一人で計画したのですか? 他の共犯者はいないと?」

浩司はきっぱりと頷いた。

「はい。私一人です。父の財産を手に入れるために、愚かなことをしました」

しかし、刑事は浩司の言葉を信じなかった。何か、もっと大きな真実を隠しているという直感があった。

隠れ家に戻ると、県一は誠と共に座っていた。今では互いが親子だと分かっているが、依然として気まずい空気が流れていた。十五年間、上司と部下だった二人が、一日で親子になるというのは、簡単なことではなかった。

「誠…… すまなかった。今になって、お前を見つけて」

誠は首を横に振った。

「いえ、お父様……」

まだ、お父さんという呼び方が口につかなかった。県一は寂しそうに笑った。

「時間が必要だろうな。俺もそうだ。しかし、本当に良かった。俺が生きていて、お前が俺のそばにいてくれて」

二人は言葉もなく、互いの手を握った。四十五年ぶりの再会は、まだ始まったばかりだった。そして、まだ明らかにしなければならない真実が残っていた。

警察署の取り調べで、浩司の尋問が続いていた。刑事たちは、彼が誰かをかばっていると確信し、執拗に追求していた。浩司の額には冷や汗が浮かび、指はかすかに震えていた。

「佐藤浩司さん。本当に、一人で計画したのですか? こんなことを、一人で実行するには、あまりに無理がありますが」

浩司は唇を噛みしめ、頷いた。しかし、その目は不安でいっぱいだった。何かを必死で隠そうとする、人間の目だった。

一方、高山は帝国グループの邸宅周辺で、追加の調査を進めていた。彼は邸宅近くの監視カメラを確認している最中、興味深い場面を発見した。一年前から、浩司と幸子が定期的に、邸宅の外のあるカフェで会っていたのだ。高山はすぐにそのカフェへ向かった。カフェの主人は、二人を覚えていた。

「ああ、あの二人ですね。一週間に一度は必ずいらっしゃいましたよ。いつも隅の席に座って、何か真剣な話をされていました」

高山はカフェの監視カメラの映像を確認した。画面の中の幸子と浩司は、書類を広げ、何かを熱心に話し合っていた。特に、幸子が主導的に説明する姿が、頻繁に捉えられていた。

隠れ家では、県一と誠がDNA鑑定の結果を待っていた。すでにみさ子が誠の母親であることは確認済みだったが、公式な親子鑑定が必要だった。県一は不安そうに窓の外を眺め、誠はそんな父親を心配そうに見守っていた。

「会長、いえ…… お父さん、あまり心配しないでください。もう、全てうまくいきますから」

県一は寂しそうに笑った。まだ誠が自分を『お父さん』と呼べないのがもどかしかったが、理解できた。十五年間、上司と部下だった二人が、一日で親子になるというのは、簡単なことではなかったからだ。その時、美咲から緊急の連絡があった。

『お兄ちゃん、今、邸宅に高山探偵が来てるの。何か重要なことを発見したみたい。でも……』

美咲の声が震えていた。

『幸子様が、急にいなくなったの。部屋の荷物も、全部なくなって……』

誠と県一は顔を見合わせた。幸子が逃走したということは、彼女に隠したいことがあるということだった。高山が邸宅に戻った時、幸子の部屋はもぬけの殻だった。しかし、暖炉の中に、急いで燃やした書類の燃え残りがあった。高山は慎重にその燃え殻を集めた。その一部は、まだ読むことができた。

「これは…… 財産分与の計画書……」

高山の目が大きくなった。書類には、県一の死亡後、全ての財産をゆき子が一人占めにする計画が、詳細に記されていた。浩司には名目上の持ち分だけを与え、残りは全て自分が手に入れるという計画だった。さらに衝撃的だったのは、次のページだった。そこには『高橋誠、排除計画』という見出しが書かれていた。幸子は、誠が県一の本当の息子である可能性を、早くから疑っていたのだ。

警察署では、浩司に新たな証拠が突きつけられていた。カフェでの幸子との密会、そして財産分与の計画書。浩司の顔は、ますます青ざめていった。

「もう、隠しきれないようですね。妻のゆき子様と共に計画したのですね」

浩司は深くため息をついた。もはや、耐えきれないと悟ったようだった。

「母が…… 全て計画しました。私は、ただ……」

浩司の声が震えていた。三十五年間、自分を育ててくれた養父母だったが、結局、彼らに利用されたという事実が惨めだった。

「一年前、私が父の執務室で、みさ子に関する資料を発見しました。そして、高橋誠が父の本当の息子かもしれないと疑念を抱き、密かにDNA鑑定をしたのです」

刑事たちは息を殺して聞いた。

「結果が出た時、私は絶望しました。私が生涯信じてきた全てが、崩れ落ちるような気がしました。その時、母に相談したら……」

浩司は言葉を止め、目を閉じた。あの日の記憶が、まだ生々しいようだった。

「母は、すでに知っていました。いや、知っていたという方が正しいでしょう。そして言いました。『私たちが先に手を打たなければ』と」

隠れ家で高山の報告を聞いた県一は、衝撃で身を震わせた。三十五年間、連れ添った妻が、自分をそれほどまでに徹底的に利用し、裏切っていたとは。信じられなかった。誠は、父親の肩を抱いた。今では、自然に父親を慰めたいという気持ちが湧いていた。

「お父さん、あまり気を落とさないでください。もう、真実が明らかになったのですから」

県一は、誠が初めて自分を『お父さん』と呼んだことに、涙を流した。裏切りの痛みより、息子を取り戻した喜びの方が、大きかった。

警察は全国に幸子の指名手配を出した。しかし、彼女はすでに逃亡の準備をしていたようだった。海外の口座に大金を送金した痕跡が発見され、偽造されたパスポートも準備されていた。その二日後、幸子は成田空港で逮捕された。香港行きの飛行機に搭乗しようとした瞬間だった。彼女は逮捕される瞬間も、堂々とした態度を崩さなかった。

「後悔はしていません。私の人生を捧げて帝国グループを育ててきたのに、夫の隠し子に全てを奪われるわけにはいきませんでした」

幸子の冷たい声には、一点の罪悪感もなかった。むしろ、自分が被害者であるかのような態度だった。

裁判所で、県一と誠のDNA鑑定の結果が公式に発表された。99. 99%の確率で、親子関係が確認された。県一は会社の役員たちを集め、全ての真実を明らかにした。四十五年前のみさ子との出来事。そして、運命的に再会した息子、誠の話。多くの者が、感動の涙を流した。

「私は、四十五年間、間違った選択を後悔して生きてきました。しかし、運命は私に再びチャンスを与えてくれました。これからは、誠と共に、新しい帝国グループを築いていきます」

誠は父親の隣に立ち、決意を述べた。

「私も、突然のことに戸惑っていますが、これからは父を助け、正しい企業を作っていきたいと思います。それが、亡き母の願いでもあると信じています」

幸子と浩司の裁判が始まった。証拠は明白で、二人の罪は否定できなかった。特に、幸子が主導的に全ての計画を立てたという事実が明らかになり、彼女にはさらに重い刑罰が予想された。

東京地方裁判所の大法廷は、張り詰めるような緊張感に包まれていた。幸子と浩司が被告席に立ち、初公判が開かれる日だった。傍聴席には数多くの記者と市民が席を埋め、最前列には、県一と誠が並んで座っていた。裁判長が入廷すると、全員が起立した。幸子は依然として誇高な表情を崩さなかったが、数ヶ月に及ぶ勾留生活で、かつての優雅さは失われていた。一方、浩司はやつれた顔でいた。

「被告人、佐藤ゆき子。殺人未遂及び財産詐取の容疑により、懲役十五年に処する」

裁判長の声が法廷に響き渡った。幸子は表情を変えなかった。まるで予想していたかのように、冷たい表情を保っていた。

「被告人は、三十五年間、被害者の配偶者として暮らしながらも、財産を一人占めにするために計画を立案し、挙句の果てには、被害者の実の息子まで排除しようとした。材質は極めて悪質であり、省察の気配も見られないため、酌量の余地はない」

裁判長は続いて、浩司へと視線を向けた。浩司は震える足で、ゆっくりと立ち上がった。

「被告人、佐藤浩司を、懲役十年に処する。ただし、被害者である養父への心からの謝罪と、自白を酌量する」

浩司は判決を聞くや否や、膝から崩れ落ちた。そして、県一に向かって深く頭を下げた。涙が床にポタポタと落ちた。

「お父さん…… 申し訳ありませんでした……」

県一の目にも涙が浮かんだ。三十五年間、実の子として育ててきた情があっただけに、浩司の姿が痛々しかった。しかし、罪は罪だった。

一週間後、佐藤医師と山本警備責任者の裁判も開かれた。法廷に立った佐藤は、全身をブルブルと震わせていた。かつて医師として命を救う仕事についていた彼が、金に目がくらみ、患者を害そうとしたという事実に、多くの人々が憤慨した。

「被告人、佐藤。医師法違反及び殺人未遂の容疑により、懲役十年に処する。併せて、医師免許を永久に剥奪する」

佐藤は判決を聞くと、その場にへたり込んだ。医師免許の剥奪は、彼にとって死刑宣告と同然だった。生涯かけて築き上げてきた全てが、一瞬にして崩れ去ったのだ。山本の番になった。彼は比較的淡々とした表情で、判決を待っていた。

「被告人、山本。脅迫による共犯であり、自白した点を酌量し、懲役八年に処する」

山本は頭を下げた。他の者たちよりは軽い刑だったが、警備員としての資格は、永久に失うことになった。

裁判が全て終わった後、帝国グループは大々的な改革に着手した。県一は誠を副会長に任命し、経営全般にわたる刷新を断行した。幸子と浩司が不当に手に入れようとしていた財産は、全て元の場所へ戻された。特に、幸子が海外に持ち出そうとしていた資金も、全て回収された。その過程で、彼女がどれほど秘密に準備していたかが明らかになった。十年前から少しずつ横領していた会社の資金が、数百億円に達していたのだ。

誠は副会長室に座り、書類を見つめていた。まだ、現実が信じられなかった。わずか数ヶ月前まで、運転手だった自分が、今や大企業の後継者になったのだから。県一が入ってきた。今では自然に息子の名前を呼ぶ、父親の顔には温かい笑みがあった。

「誠、いや、お父さん」

誠も、今では気兼ねなく『お父さん』と呼べるようになっていた。二人は並んで座り、会社の未来を語り合った。

「我々が、新しく始めなければならない。透明で、誠実な経営でな」

県一の声には、決意が込められていた。誠も頷いた。

幸子は刑務所でも、反省の気配を見せなかった。面会に来た記者に、彼女は依然として堂々と言った。

「後悔はありません。私の人生を捧げて築き上げたものを、なぜ他人の子供に渡さなければならないのですか?」

彼女のインタビューが報道されると、さらに大きな非難が巻き起こった。一方、浩司は刑務所で心から反省する様子を見せた。彼は県一に手紙を送り、許しを乞うた。

『お父さん、私を三十五年間育ててくださった恩を、仇で返してしまいました。生涯、後悔して生きていきます。刑期を終えたら、罪を償う気持ちで生きていきます』

県一は手紙を読み、複雑な心境になった。憎むことも、許すこともできない。しかし、いつか和解する日が来ると信じたいと思った。

帝国グループは、誠の主導のもと、大々的な変革を遂げた。不正や腐敗を一掃し、透明な経営を実践した。特に、幸子と浩司に協力していた役員たちを全て解任し、新しい人材を登用した。会社の雰囲気も大きく変わった。権威的で閉鎖的だった文化が、水平的で開かれたものに変わった。社員たちは、新しい経営陣への信頼を寄せ始めた。

美咲は、今や帝国グループの医療財団の理事になっていた。誠の妹であり、今回の事件の影の功労者であった彼女に、県一が特別に提案した役職だった。

「美咲がいなかったら、俺たち親子は本当に危なかった」

誠が感謝を述べると、美咲は明るく笑った。

「お兄ちゃんがお父さんと会えたのが、一番嬉しいわ。もう、本当の家族じゃない」

高山も、帝国グループのセキュリティ顧問として迎えられた。今回の事件を解決に導いた、決定的な役割を果たした彼の能力が認められたのだ。

半年後、帝国グループは全く新しい姿に生まれ変わっていた。株価は市場最高値を記録し、企業イメージも大幅に改善された。県一は会長室で窓の外を眺め、深い考えに沈んでいた。隣には、誠が立っていた。

「誠、これからが本当の始まりだ」

「はい、お父さん」

「お前のお母さんが、天国で見守ってくれているだろう」

誠は、父親の方に手を置いた。

「お父さん、母が誇りに思えるような会社にしていきます」

二人は並んで、東京の景色を眺めた。四十五年の痛みと裏切りを乗り越え、今や本当の親子として、新しい未来へ向かって歩み出していた。

その年の十二月のある日。東京、青山の一角にある青藤公園。朝の陽光が柔らかく降り注ぐ中、数人の人々が集まっていた。県一と誠が主催した、高橋みさ子の追悼式が開かれる日だった。四十五年ぶりに、公式に彼女の存在を世に知らしめる場だった。県一は黒いスーツを着て、壇上に上がった。その手には、古い写真が一枚握られていた。若い頃のみさ子が、明るく笑っている写真だった。

「本日、私は四十五年前に私が愛し、そして、今も愛している一人の女性を忍びたく参りました」

県一の声は震えていたが、断固としていた。参列者たちは、息を殺して聞いた。

「高橋みさ子。彼女は、私の人生の最初で最後の人であり、私の息子、誠の母親です。共に生きることは叶いませんでしたが、彼女が残してくれた最大の贈り物である誠を通じて、再び巡り合うことができました」

誠も、父親の隣に立った。その目には、涙が溢れていた。生涯、顔も知らずに生きてきた母親を、今ようやくきちんと追悼するのだ。式が終わった後、県一と誠はみさ子の墓を訪れた。県一が祭ってくれていた小さな墓だったが、これからは帝国グループが用意した、美しい霊園へ移される予定だった。

「お母さん、誠です。今頃になって来てすみません」

誠が墓石の前に跪いた。県一も隣に並んで跪いた。

「みさ子、すまなかった。あまりに遅すぎたな。でも、俺たちの息子を、立派に育ててくれてありがとう」

二人の親子は、しばらくの間、墓石の前で泣いた。四十五年の無念と恋しさが、涙となって溢れ出した。

一ヶ月後、帝国グループの大ホールでは、誠の公式な後継者指名式が開かれた。全社員と、主要な取引先の代表者たちが集まった。県一は誠に、会社の未来を託した。

「高橋誠は、私の実の息子であり、帝国グループの正当な後継者です。私は、彼に経営権を順次委譲していきます」

拍手の音がホールを満たした。誠は壇上に上がり、決意を述べた。

「重責を感じています。父が築き上げてきた帝国グループを、さらに発展させ、社会に貢献する企業にしていきます」

この日、誠は特別な発表をした。高橋みさ子財団の設立だった。

「母の名前を冠した財団を通じて、恵まれない子供たちの教育を支援していきます。特に、一人親家庭の子供たちが、夢を失わないように手助けをしていきます」

高橋みさ子財団は、年間百億円の予算で運営される予定だった。奨学金、放課後の教育メンタリングプログラムなど、様々な事業が計画された。

翌年の春、帝国グループ本社の屋上庭園で、特別な結婚式が開かれた。今や父親の跡を継いだ佐藤誠と、その秘書である小林恵の結婚式だった。恵は、誠が副会長になった後、新しく採用した秘書で、真面目で賢い女性だった。最初は仕事の関係だったが、困難な時期を共に乗り越えるうちに、互いに支えとなり、いつしか愛へと発展したのだ。何よりも、恵は誠の複雑な家族の歴史を偏見なく受け入れ、心から理解してくれる人物だった。

県一が証人を務めた。その顔には、幸せそうな笑みと共に、何とも言えない感慨が浮かんでいた。

「今日、この場に立ち、四十五年前のことを思い出します。私もかつて、愛する女性と共に生きたいと願いましたが、家の反対で叶いませんでした。しかし、誠と恵さんは、その愛を守り抜きました。副会長と秘書として出会い、真実の愛へと発展させたのです。これも運命なのかもしれません。心から、お祝い申し上げます」

県一の目元が潤んだ。みさ子との叶わなかった恋が、息子の代で実を結ぶかのようで、胸が熱くなった。恵は純白のドレスを着ていた。この純真な眼差しと温かい微笑みが、みさ子を思い出させた。名門大学の出身だが謙虚で、何よりも誠の複雑な過去を理解し、受け入れてくれた温かい人物だった。誠の叔父夫婦と、妹の美咲も参列し、祝福を送った。高山は誠の仲人を務めた。美咲は花嫁の付き添い人として立ち、彼女は心から兄の結婚を祝福した。

「お兄ちゃん、恵さんは本当に良い人よ。絶対に、幸せになってね」

今では家族同然の仲になった高山も、心から祝った。

「誠さん。いや、もう誠と呼んでもいいかな。本当におめでとう。恵さんもおめでとうございます。お二人、本当にお似合いですよ」

結婚式の後の披露宴で、県一は恵に特別に近づいた。

「恵さん、誠をよろしく頼む。君は、本当に誰かによく似ているな」

県一の目に、懐かしさが浮かんでいた。恵の純真な眼差しと温かい微笑みが、若い頃のみさ子を思い出させたのだ。もちろん、顔が似ているわけではなかった。しかし、その清らかで純粋な魂が、みさ子と同じだった。県一は、違う人間であっても、息子が愛する女性を通じて、みさ子の面影を再び見ているかのようだった。だから、県一は恵に初めて会った時から、特別な愛情を感じていた。そして、県一はサプライズ発表をした。

「私は、来年会長職を辞し、誠に完全に経営を任せる予定です。私は、高橋みさ子財団の理事長として、残りの人生を社会に捧げたいと思っています」

誰もが驚いたが、誠はすでに知っていた。父親と、十分に話し合った決定だった。

帝国グループは、誠の経営のもと、さらに発展した。透明な経営と倫理的な経営を実践し、業界の模範となった。特に、社員の福利厚生と社会貢献活動に力を入れ、働きたい企業の一位に選ばれたりもした。高橋みさ子財団も、大きな成果を上げた。初年度だけで千人以上の子供たちが恩恵を受け、多くの企業が賛同し始めた。県一は財団の仕事に情熱を注ぎ、新しい人生の意味を見い出した。恵も、財団の顧問として活動し、寄付を募った。

浩司は、模範囚として刑期を短縮され、八年で出所した。浩司は涙を流して許しを乞うた。県一は浩司を抱きしめたが、過去の親子の関係を完全には取り戻せなかった。浩司は小さな事業を営み、真面目に生きていった。以前とは違うが、時々県一を尋ね、近況を伝えた。幸子は、最後まで反省しなかった。面会さえも拒否し、一人だけの世界に閉じこもって生きていた。県一は時々彼女のことを思ったが、今では哀れみしか残っていなかった。

時は流れ、誠と恵の息子、健太が五歳になった。県一の名前から一文字取って、つけた名前だった。健太は、おじいちゃんが大好きだった。

「おじいちゃん、おばあちゃんは、どんな人だったの?」

県一は孫を膝に乗せ、昔話を聞かせた。七十七歳になっても、その目はみさ子を思い出す時、依然としてキラキラと輝いていた。

「おばあちゃんは、世界で一番美しくて、純粋な人だったんだよ。例え短い時間だったとしても、おじいちゃんの人生で、最も輝いていた時間だった」

誠と恵も、隣で一緒に聞いていた。今や帝国グループの会長となった誠も、妻となった恵も、依然として県一を尊敬していた。恵は、義父の初恋の物語を聞き、目を熱くした。彼女も、一児の母として、みさ子の気持ちを理解できた。美咲は、帝国グループの医療財団の中心的な役員として成長し、小児病院の建設事業を主導していた。

県一は窓の外を眺め、微笑んだ。みさ子の恋は叶わなかったけれど、誠という実を結び、今や健太という孫に繋がっている。五十年かけて完成した愛だった。

みさ子、俺たち、やったよ。俺たちの息子、誠と恵、そして孫の健太。幸せだよ。ありがとう。

県一の囁きが、春の風に乗り、天へと昇っていった。

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