「お前がいなくても会社は回るんだからな」
新社長に就任した弟が、無慈悲にそう言い放った。周囲のざわめきが遠くに聞こえ、風景が歪んで見える。そんな時、はっきりと頭の中に響いたのは亡き父の言葉だった。その一言が、俺の決断を後押ししてくれた。
俺の名前は正。45歳だ。父親が経営する広告関連の会社で、営業一筋に働いてきた。気がつけば営業部の部長を任されるまでになっている。父が社長だから、と思う者もいるかもしれないが、大口の取引先から長年にわたって信頼を築いてきた実績は偽りではない。
忘れもしない、10年前のことだ。売上の三割を占める大口の取引先が、競合他社に流れかけた。価格面での提案が競り負けていたのだ。俺は三ヶ月間、毎週欠かさず先方に足を運んだ。そして価格勝負ではなく、納期トラブルの際の即時対応体制と、媒体ごとの効果測定報告を毎月無償で行うという提案に切り替えた。
数字の安さより、任せて安心できる相手かどうか。先方の担当部長が定年退職される日には、花束を持って挨拶に伺った。「あんたになら、次の担当も安心して引き継げるよ」という一言とともに、あの会社との契約はずっと続いてきた。
営業とは足で信頼を稼ぐ仕事だ。今までの努力の結果だと自負している。仕事には不満などなかった。やりがいもある。うちは頑張れば頑張るほどインセンティブがつく。結果に応じて給料に上乗せされる報酬のおかげで、実に充実した毎日を送っていた。
家庭にも恵まれていた。唯一の悩みは、弟の裕二とその母のことだ。
複雑な話になるが、父と母は再婚で、裕二は母の連れ子である。父の再婚は、俺が中学生、裕二が小学生の頃だった。実母が亡くなって数年後のことだ。つまり、俺と血のつながりがあるのは父だけだ。
とはいえ、俺は血の繋がりを気にしたことはなかった。母とも裕二とも、仲良く暮らしていきたいと思っていた。今思えば、かなり父にべったりだった。父親がいなかった分、甘えたいのだろうと思っていたが、それだけではなかったのだ。
「お前なんかいなければよかったのに」
子供心にひどく傷ついた記憶がある。その言葉を口にした時の裕二は、敵意に満ちた目をしていた。母も、父の見ていないところでは俺を邪魔者扱いし、敵意を向けてくる。それは大人になった今も続いている。
「調子に乗るなよ」と吐き捨てるように言っては、暴言を重ねてくる。根も歯もない噂を流されたこともあった。
ただし、仕事の面で本格的に足を引っ張られたことはない。俺が失敗すれば父のメンツに関わることを、裕二は理解しているからだ。だからこそ、裕二の嫌がらせはいつも子供じみたものだった。母も同じで、裕二と揃って、父の見ていない時を狙っては嫌がらせをしてくる。
おそらく、再婚した時から父の実子である俺が疎ましくて仕方なかったのだろう。俺も腹が立たないわけではない。しかし感情的になれないのは、経緯や感情はどうあれ、俺たちは家族だからだ。いつか分かり合えるのではないか。そう信じたいからだった。
裕二は俺とは違い、熱心に経営について勉強し、父の教えに耳を傾けている。俺は営業としての仕事のほかに、得意先や同業の会社の上役との食事会に父に同伴するなど、会社同士の繋がりを重視していた。中でも沢社長という方とは、父は特に気が合っていたようだ。
裕二はそういう場は「くだらない」と言って、あまり顔を出さない。俺は社長の座に興味はないが、父の守ってきたこの会社を守りたいと思っている。理想としては、裕二と手を取り合って会社を盛り上げていくことだ。だが、今のままだと望みは薄い。
そんな悩みを抱えていたある日、たまたま父と二人で話す機会があった。
「お前が俺や会社のことを考えてくれているのはよく分かっている。だけど結局は自分自身の幸せが一番大切だ。俺にとってもな。それを絶対に忘れないでくれ」
その言葉を聞いた時は深く考えなかった。しかし今にして思えば、父は俺と裕二、それから母の間に流れる不穏な空気を感じ取っていたのかもしれない。
「分かってるよ、父さん」
俺がそう言った時、父は小さく微笑むだけだったのを覚えている。
それから二ヶ月後、父は急逝した。脳梗塞で、本当に突然のことだった。
父の葬儀から数ヶ月が経った今でも、信じられない思いだ。遺言らしい遺言もなかったことから、後継者を決める話し合いは荒れた。俺を押す声と裕二を押す声で、役員たちが対立したのだ。
結局、母が裕二を押す役員を味方につけ、「夫が自ら教え、経営を学んできたのは裕二です。正さんは確かに会社を支えてくれましたが、あくまで営業畑の人間ではないかしら」と周囲を説き伏せた。
俺自身、社長の座に固執してはいなかった。まだ互いに分かり合えないけど、時間をかけて手を取り合えるようになれればいい。今にして思えば、俺は甘かったのかもしれない。何にしても、その気持ちは本物だった。
裕二が正式に新社長に就任してから、およそ一ヶ月後のことだ。後から聞いた話だが、裕二は就任直後から俺を押してくれた役員たちと衝突を繰り返していたらしい。俺の存在そのものが、目上の瘤だったのだろう。
その日、俺はいつものように部署で朝礼をしていた。朝礼が終わり席に戻ろうとした時、誰かが言った。
「社長、どうしてこちらに?」
部下の声を皮切りに、部署内にざわめきが起きる。視線を向けると、裕二がこちらに歩み寄ってくるところだった。周りの空気が張り詰めるのが分かる。なぜ急にここへ来たのだろう。疑問に思いながらも、俺は前に進み出て頭を下げた。
「社長、おはようございます」
裕二は俺を見て鼻を鳴らした。表情にはうら笑いが浮かんでいて、一目で嫌な予感がする。裕二が自分から俺に接してくる時は、大抵ロクな理由ではない。経験がそう語っていた。
「新社長に就任したばかりでバタバタしていたが、少しずつ落ち着いてきたんでね。今日は社長として、お前に直接いい知らせを持ってきたんだよ」
裕二は兄の俺に対して、「兄さん」とも名前とも呼ばない。いつも「お前」と呼ぶ。俺は違和感を覚えた。裕二がこうして露骨な敵意を向けてくる時は、いつも周りに人がいない時や、自分を出しても構わない場面のみだったのに。部下たちが困惑した表情で俺たちを見守っている。
俺はひとまず冷静に切り返すことにした。
「いい知らせですか?」
「ああ、そうとも」
裕二は前髪をかき上げると言った。
「お前の今後の給料は二十五万固定だ。報酬は今後一切認めないから」
一瞬で頭の中を疑問が埋め尽くす。俺は今まで部長としての給料のほかに報酬を得ることで、毎月の平均月収百二十万を得ていた。二十五万。頭の中を、娘の塾の月謝、住宅ローン、そして妻の顔が順に駆け巡っていく。これは単なる減給ではない。俺の四十五年分の人生と、家族の暮らしを踏みにじる宣告だ。
「あの……それは、減給通告ということでしょうか?」
どこがいい知らせだというのだろう。俺の疑問に答えるように、裕二が吹き出した。
「まあ、すまん。俺にとってのいい知らせ、という意味だ。父さんの残した会社で引き続き働けるんだ。それだけでも嬉しいだろう。それともやめるか? それもいいな。いっそやめたらいい。お前がいなくても会社は回るんだからな」
べらべらとよくもまあ。その一言しか出てこない。お前なんかいなければよかったのに。お前がいなくても会社は回る。ああ、こいつは子供の頃から何ひとつ変わっていない。
部下たちの困惑とショックによるざわめきが、なんだか遠くに聞こえた。目の前のうら笑いを貼り付けた裕二の顔だけが鮮明で、他が歪んで見える。
つまり、裕二が新社長になった今、目障りな俺を排除しようということだろう。減額した二十五万を受け取るなら、コスト削減につながり、なおかつ俺を労働力として酷使できる。俺が会社を去ることを選べば、願ったり叶ったりといったところか。
本来、本人の同意もない一方的な大幅減給など、法的に通るはずがない。争えば、まず間違いなく俺が勝つだろう。だが、こんな会社に法で縛りつけられてまで残る価値が本当にあるのか。
俺が黙り込んだ短い時間の中に、小さな頃から現在までの様々な記憶が浮かんでは消える。
「結局は、自分自身の幸せが一番大切だ」
一瞬、大きく父の言葉が頭の中に響いた。
「絶対に忘れないでくれ」
そこまで思い出した時、俺は自然と口を開いていた。
「やめていいんですね」
そう切り返すと、裕二の眉がぴくりと動く。こうもあっさりやめる方を選ぶとは思わなかったらしい。怒りや悲しみが一切ないと言えば嘘だ。俺は今まで母や裕二に対して歩み寄ってきた。それなのに、いつまでも敵意を剥き出しにして、差し出した手を振り払ってきたのは、紛れもなく裕二自身だ。もう我慢の限界だった。できることなら、父が大切にしてきたこの場所にいたかった。だけど、こうまでされて残ることに意味があるのだろうか。自分の幸せを、妻や子供の幸せを考えたら、自然と答えが出た。
「では、上司に引き継ぎなどをいたしますので。ああ、退職届もすぐにご用意します」
俺が言うと、「部長、そんな……」と部下たちの声が聞こえてくる。俺が裕二に背を向けた瞬間、裕二が俺の肩を乱暴に掴んだ。
「お前、調子に乗るなよ。ちょっと来い」
「は? え? ちょっと」
裕二は無理やり俺を社長室へ連れて行く。二人きりになると、俺はため息をつき、家族としての口調に言葉を戻した。
「今度は一体何なんだ? みんなの前で減給を言い渡したり、やめればと言ってみたり。母さんの入れ知恵か?」
裕二の肩が一瞬揺れた。やがて、堰を切ったように裕二は話し始めた。
「登場のつもりか? 父さんと血の繋がりのない俺が新社長になって、自分がすんなり身を引くことで俺を悪者にしようって算段なんだろう」
「お前がこんな真似をしなければ、俺はそのまま働いてたよ。俺がいなくても会社は回るんだろ。だったらそれでいいじゃないか」
呆れた口調で返すと、裕二はさらに眉を吊り上げる。裕二はいつもこうだ。俺相手だとすぐに感情的になり、話の収拾が難しくなる。
「お前が……お前がいる限り、俺はずっと偽物の息子なんだ」
この裕二の言葉に、すべてが集約されている気がした。
「裕二、お前のそういう感情はひしひしと感じてたよ。俺だってお前と同じ立場なら、そう思うかもしれない。それでお前の気が済むなら、と思うてきたつもりだったんだが」
「お前のそういうところが大嫌いだったんだ」
裕二がそう声を張り上げ、そばにあった棚を殴りつけた。鈍い音がして、並べられていたバインダーなどが地面に落ちる。俺は小さく笑った。
「とにかく、お望み通り俺はいなくなる。これでお前は満足だろう」
一瞬、部屋の中が静かになる。
「今までありがとうな」
あえて俺は感謝の言葉を添えた。退出する瞬間、裕二の顔がくしゃりと歪んだように見えたが、どんな感情から来る表情なのかは分からない。扉を閉めると、「くそっ」という苛立たしげな裕二の声と、ガシャンと何かが割れるような大きな音が聞こえてきた。
その夜、俺は妻にすべてを話した。妻は静かに聞き終えると、こう言った。
「あなたが決めたなら、私は何も心配していないわ」
その一言がどれだけ心強かったか。俺は改めて、自分の決断は間違っていないと確信した。
退職届を出した翌日も、俺は仕事で取引先を訪れていた。引き継ぎなどもあるが、立場上即日退職というわけにはいかない。取引先のロビーから出ようとした時、聞き覚えのある声がした。
「正君、器遇だな」
声の正体が分かり、俺は慌てて姿勢を正した。
「沢社長、ご無沙汰しております」
声の主は六十代後半くらいの男性だった。うちとは長年ライバル関係にある会社の、あの沢社長だ。仕事などで何度もお会いしているが、ほがらかでさっぱりとした気のいい人柄である。どうやら今日来ていた取引先は、沢社長の会社と共通の取引先だったらしい。
「本当に偶然ですね」
俺がそう笑うと、沢社長は俺の顔をじっと見て、少し前を潜めた。
「なんだか随分ひどい顔しているな。何かあったのかい?」
「いえ、そんなことは……」
退職の決断に後悔はないが、心に負担がないわけではない。その心労が顔に出てしまっていたのだろう。俺はすぐに否定したが、沢社長は少し考えてこう言った。
「ちょっと付き合ってくれないか? 昼食でもどうかな?」
そう頼まれ、俺は断れずに近くの店の個室で昼食を取ることになった。沢社長に促されるまま、俺は経緯をぽつぽつと語っていく。
話を終えると、沢社長はしばらく考え込み、やがて静かに口を開いた。
「君の親父さんとはなあ、何度殴り合うような競り合いをしたかわからん。だが、あの人は一度も卑怯な手を使わなかった。精々、堂々と真っ向勝負だ。俺はいい競争相手を失ったよ」
その言葉に、俺は思わず目頭が熱くなった。そして沢社長は俺の目をまっすぐ見て言った。
「現状の月収の五倍でどうだろう? 契約金としてすぐに払うから、すぐにうちに来てくれないか? 他の条件に関しても、今までよりもいい条件を用意するつもりだ」
「え?」
あまりのことに、俺は目を丸くしたまま固まった。そんな俺の様子がおかしかったのだろう。沢社長は軽く笑う。
「目の前で優秀な人材が身軽になったと言っているんだぞ。今捕まえなくてどうする? 正君の親父さんもそうだったが、自分の実力を過小評価しすぎだ」
そして沢社長は真剣な顔になり続けた。
「とにかく、今すぐお前が欲しいんだよ。うちで俺の力になってくれないか」
思えば生前の父と沢社長は、表向きはライバル同士でありながら、互いに互いを認め合う中だった。昔父と沢社長の食事会に何度か同席したことがあるからこそ分かる。
「もしや条件が低すぎたか?」
からかうような口調の沢社長に、俺は慌てて首を横に振った。沢社長の提案は具体的で、あらゆる面で悪くない話である。何より、父を認めてくれていたこの人の力になりたい。俺は沢社長の言葉に、そして気持ちに答えると決めた。
それからさらに二週間ほど経った頃のことだ。引き継ぎもスムーズに進み、もうすぐ正式に退職となる。そんなある日のこと。
「ただいま」
俺が玄関で靴を脱いでいると、妻が明らかに嫌そうな顔をしながら言った。
「あなた、裕二さんがお見えなんだけど」
急ぎ足で居間に向かうと、裕二は俺の顔を見るなり声を張り上げた。
「取引先から聞いたぞ。よりによってライバル社のスカウトを受けるなんて、何を考えてるんだ」
あまりに大きな声に、俺は慌てて妻の方を見る。妻が小さく首を横に振るのを見て、俺はほっとした。中学生の娘は今日塾の日だ。聞かれる心配はない。俺は裕二の前に座り、「仕事をやめると知って、声をかけてくれただけだよ」と説明した。
「この裏切り者が。父さんに悪いと思わないのかよ」
「裏切り?」
俺は静かに裕二を見据えた。
「皆の前で理不尽な減給を言い渡して、先に信義を破ったのは一体どっちだ?」
裕二は一瞬言葉に詰まったが、なおも食い下がる。
「父さんが憎む相手によくも尻尾を振りやがって」
「父さんたちは憎み合ってなんかなかったよ。互いに互いを認め合っていた。俺はそれをよく知っている」
俺が食事会に同行していたことを補足すると、裕二はわなわなと震えた。
「そんな話、父さんは一度も……」
「お前は食事会なんて無駄だと言っていたから誘えなかったんだろ」
裕二の顔は急速に真っ赤に染まった。
「ふ、ふざけるな。どこまでもバカにしやがって。父さんのライバルに利益を取られるわけには……」
ぶつぶつと呟く裕二を見て、母の顔が頭をよぎった。裕二の言動は、母親に大きく影響されてきたのかもしれない。だが、大人になりきれなかったのは裕二自身の責任だ。
「ライバル会社に行くくらいなら、戻ってこい。その方が父さんだって……」
「もう遅いよ、裕二」
俺は言葉を遮った。
「父さんが言ったんだ。自分の幸せを一番に考えろと。裕二、お前はどうなんだ? お前の行動は、お前の幸せにつながるのか?」
裕二が立ち上がった瞬間、妻の声が割り込んだ。
「あら、やだ。もうこんな時間。お話が済んだなら、お引き取りいただけますか?」
室内が静まり、重い空気が流れる。
「俺は……俺は間違ってない」
裕二は吐き捨てて部屋を出ていく。窓の外、遠ざかる後ろ姿は夕陽に照らされて、小さく見えた。
その後、俺は予定通り退職し、沢社長の会社へと移った。同じ業界にいる以上、嫌でも裕二の動向は耳に入ってくる。噂では、俺が十年かけて信頼を築いたあの大口取引先が契約を打ち切ったらしい。長年営業部を支えてきた課長も、後を追うように退職したと聞いた。母と裕二によるワンマン経営で、社員たちからの信頼も失いつつあるのだとか。
そして、その母にも報いは訪れていた。仕事への口出しが過ぎ、業績悪化の責任を役員たちから厳しく追求されているらしい。かつて母が味方につけた役員たちからも見放され、今や社内に居場所はないと聞いた。母から一度だけ電話があった。
「兄なら、裕二を支えるべきなんじゃないのかしら」
俺は黙って通話を切り、着信拒否した。家も引っ越したので、もう近寄っては来られないだろう。
新しい職場で、俺は水を得た魚のように働いている。沢社長は俺の提案に耳を傾け、正当に評価してくれる。足で信頼を稼ぐ俺の営業は、ここでも確かに通用した。妻と娘との三人で、笑顔の絶えない新生活を送っている。
「結局は自分自身の幸せが一番大切だ」
父の言葉を、今でも時折思い返す。父さん、俺は今確かに幸せだよ。胸を張ってそう報告できることが、何よりの親孝行なのだと今の俺は信じている。



