「父さんの手術なのに、一体どこにいるんだ?」
突然の怒鳴り声に、心臓が凍りついた。 午前五時。 夫の正彦の朝食を用意していたところだった。 三十二年、介護士として働いてきた私の朝はいつも早い。 今日も一日頑張りましょう、と声をかけると、正彦は優しく微笑んだ。 結婚して三十八年、こんな穏やかな朝が私たちの日常だった。 その静寂を破ったのは、息子の剣からの着信だった。
母さん、今すぐ病院に来い。 なんで連絡もよこさないんだ。
スピーカーから響く剣の声に、私は困惑した。 け、何を言っているの?お父さんなら、ここで朝食を食べているわよ。 正彦を見つめながら言葉を続けたが、剣の怒りは収まらない。 父さんは今から病院で手術を受けるところなんだぞ。 お前、何をボケたこと言ってるんだ? とにかく今すぐ来い。 金も持ってきてくれ。
電話の向こうから、嫁のリナの声も聞こえてきた。 お母さん、うちのお父さんの手術なのに、なんでそんなに呑気なんですか?お母さんも介護士でしょう。 プロなんだから、すぐに来てください。
私と正彦は顔を見合わせた。 リナの父親?一体何が起きているのだろうか。
俺の義父が手術なんだぞ。 嫁の親なのになんで知らないんだ?剣の怒鳴り声がさらに大きくなった。 岐阜のリナさんのお父さんのこと?私は困惑しながらも、冷静に確認しようとした。 そうに決まってるだろ。 なんで他人ごとみたいに言うんだ?
け、落ち着いて。 私たちには何も連絡がなかったけど…。 連絡?そんなの必要ないだろ。 親なんだから察しろよ。
剣の言葉に、私は言葉を失った。 嫁の父親の手術を、なぜ私たちが察しなければならないのだろうか。
お母さん、今度はリナの高い声が響いた。 うちのお父さんが大変な時なのに、なんでそんなに冷たいんですか?お母さんも介護師でしょう。 プロなんだから、すぐに来てくださいよ。 でもリナさん、私たちは何も聞いていませんし、と言いかけると、言い訳はいいから、とにかく今すぐ五十万円持って病院に来て。 手術費用が足りないの?五十万円。 私と正彦はまた顔を見合わせた。 親なんだから当然でしょ。 グダグダ言わないで、早く来てください。
リナの不尽な要求に、正彦も電話に耳を傾けてきた。 みさ子、これは…。 正彦の顔にも困惑と怒りが浮かび始めていた。
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その時、私の中でこれまでの記憶が蘇ってきた。 三十二年、私は介護士として朝から晩まで働き続けてきた。 認知症の方の排せつに付き添い、深夜の緊急コールにも駆けつけ、時には暴言を浴びせられながらも、笑顔を絶やさずに…。 そんな激務の中で、息子の剣のためなら、どんな無理もしてきたのだ。。
剣が大学に進学する時、私は必死に貯めた五百万円を学費として差し出した。 ばあさん、本当にいいの?老後の資金は大丈夫?あの時の剣の心配そうな顔を、今でも覚えている。 あなたの将来のほうが大切よ。 お母さんは介護の仕事があるから大丈夫、そう言って笑顔を作ったが、実際は退職金を前借りし、生命保険も解約しての工面だった。 十年ローンを組んで毎月の返済に苦しんだことは、剣には言わなかった。
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剣が就職し、結婚する時には、さらに五百万円の援助をした。 お母さん、一生恩を忘れません。 こんなに尽くしてくれているのに、深々と頭を下げていた。 お母さんのおかげで素敵な結婚式ができました。 介護師として人を支える仕事をされているお母さんを尊敬します…。
あの頃のリナの言葉が、今思えば全て嘘だったのだろうか。 その後、マイホーム購入時には頭金八百万円。 これは私の実家を売却して作ったお金だった。 両親から受け継いだ唯一の財産だったが、息子の幸せのためなら、と思い躊躇なく差し出した。 これで孫も安心して育てられます。 母さんは本当に偉大だ、と剣の嬉しそうな顔が、私の全てだった。 孫が生まれてからは、保育園の送り迎え、病気の時の看病、習いごとの費用まで、月々十万円以上を、五年間続けてきた。 おばあちゃん大好き、いつもありがとう、孫のその笑顔のために、私は六十五歳を過ぎても働き続けているのだ。
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しかし、最近の剣夫婦の態度は明らかに変わっていた。 去年の法事で、親戚たちと話しているリナの声が聞こえてきた。 最近の親って本当に何もしてくれないのよね…。 うちの義母なんて、まだ働けるのに援助もしないのよ。 しかも介護士って給料も安いし、使えないったらありゃしないわ。 隣にいた剣も頷いていた…そうだよな…昔の親はもっと子供に尽くしたもんだ…うちの母親は中途半端なんだよ…。
私は耳を疑った。 総額に千四百万円以上援助しているのに、まだ足りないというのだろうか。 そして先月、偶然見つけたリナのSNS投稿にはこんなことが書かれていた。 義母が介護士で全然役に立たない…。 プロなんだから、もっと気を利かせてくれてもいいのに…。 正直期待はずれだわ…。 その投稿には、剣のいいねがついていた…。
現実に引き戻されたのは、剣の怒声だった…聞いてるのか?今すぐ五十万持って来いって言ってるんだぞ…。 け?私たちだって生活があるのよ…。。 生活?介護士の安月給で何を偉そうに…。。 そんな底辺の仕事で稼いだ金を出すなんて、親として最低だわ…。
私の手が怒りで震え始めた…介護師の仕事だなんて…。 私が誇りを持って続けてきた仕事を…。。 お母さん、三十二年も介護士やってて、まともな貯金もないんですか?リナの侮辱的な声が追い打ちをかけた…母親失格どころか人間失格じゃないですか?自分の息子の義父の手術費用も出せないなんて、恥ずかしくないんですか?…リナさん、それは言いすぎでしょ…。。 何が言いすぎですか?うちの両親は私たちに毎月十万円も援助してくれているんですよ…。。 それに比べてお母さんは…たった十万?笑わせないでください…。
剣がさらに声を荒げた…そうだよ…親の資格もない…俺たちに散々迷惑かけてるくせに…いざという時に何もできないなんて…。。 お前なんか母親じゃない…。。 迷惑…。。 お前…。
私は言葉を失った…誰が誰に迷惑をかけているのだろうか…。 ㇺもういいよ…こんな使えない親…。。。 剣の冷たい声が響いた…稲の親だけが本当の親だ…母さんなんて他人以下だ…。。 もう二度と連絡してくるな…。
正彦の顔が怒りで真っ赤になっていた…みさ子、こんな侮辱を聞く必要はない…。。 しかし私は電話を切らなかった…何か決定的な真実がこの先にある気がしたのだ…。
電話の向こうで、リナが剣から電話を奪い取る音がした…お母さん、剣はちょっと感情的になってるだけですから…。。 でも、うちの父の手術費を出してくれますよね…。。 リナの声は表面的には落ち着いていたが、そこに冷たい計算が透けて見えた…私はスピーカーにして、正彦にも聞こえるようにした…皆さん、お父様の手術と聞いて心配していますが、具体的にはどんな状態なんですか?…心臓が悪くて、お医者様から手術が必要だって言われているの…。。 リナの声になぜか含み笑いのようなものが混じっていた…それは大変ですね…。。 でも急に五十万円と言われても…。。 五十万円?それは頭金の分だけよ…。。 トータルで百万円は必要になるわ…。。 金額が急に跳ね上がった…正彦が息を潜めている…二百万円?保険は効かないんですか?…特別な治療だから、保険だけじゃ足りないの…。。 お母さん、三十二年も介護士やってるんでしょ?それくらいの貯金はあるはずよ…その言い方に、私は違和感を覚えた…まるで私の貯金額を探っているような…その時、電話の向こうで小さな笑い声が聞こえた…リナが誰かと話している様子だ…大丈夫よ…ちょろいから…。
私と正彦は顔を見合わせた…リナさん、今誰かいらっしゃるんですか?…え?いいえ…誰もいませんよ…。。 しかし背後から男性の声が聞こえてきた…リナ、うまくやれよ…金もらえるまで本当のことは言うなよ…本当のこと?どういう意味でしょうか?…リナさん、今の声は…。。 テレビよ、テレビの音…リナが慌てたように言った…でも明らかに嘘だった…。。 とにかくお母さん、父がかかっているのよ…それなのにお金を出さないなんて、人間としてどうなんですか?…出さないとは言ってない…。。 じゃあ出してくれるのね…リナの声が獲物を狙う獣のように鋭くなった…お母さんも介護師でしょう…人の命の大切さは分かるはずよ…。。 それとも、買って口だけの仕事なの?…介護師への侮辱が始まった…リナさん…。。 それはね、実は前から思ってたんだけど…リナの声が急に軽蔑に満ちたものになった…介護士って誰でもできる仕事よね…特別な技術もいらないし…。 私の手が震え始めた…それは違います…介護は専門的な知識と技術が…。。 知識?技術?…リナが嗤った…高が老人の世話でしょ?そんなの私でもできるわ…正彦の顔が怒りで赤くなっていった…その時、電話が剣に変わった…母さん、リナの言うことも一理あるんだよ…剣の声はもはや息子のものとは思えないほど冷たくなっていた…どうせ介護で稼いだ金だろ…そんな底辺職の金なんて、大した価値もない…俺たちが使った方が有意義だ…変色…。。 私が誇りを持って続けてきた仕事を、息子はそう呼ぶのか…それに母さんの金は、いずれ俺のものになるんだ…相続ってやつでさ…今もらうか後でもらうかの違いだけだろう…。 剣、あなた本気で言っているの?…本気だよ…母さんはもう六十五歳だ…あと何年生きるつもり?俺たちにはまだ三十年以上の人生があるんだ…。。 どっちが金を必要としてるか、分かるだろう…。
私の心の中で、何かが音を立てて壊れた…俺たちにも分ける義務があるんだよ…剣は続けた…だって俺がいたから、母さんも頑張れたんだろ?俺の存在が母さんの働く原動力だったんだから…その金の半分は、俺のおかげで稼げたようなもんだ…。。。 それに母さん、剣の声は冷たかった…介護師なんて仕事、誰でもできる単純労働だろう…排せつ物の処理をして、食事の世話をして…そんな仕事で稼いだ金に価値なんてない…。。 その瞬間、リナが口を挟んだ…そうそう…お母さん、三十二年も同じ仕事してて、よく飽きないわね…私なら三日でやめるわ…汚いし、臭いし、惨めな仕事…。。 二人の笑い声が電話から響いてきた…。。 とにかく早く五十万円用意しろ…剣の声が命令口調になった…できなければ、もう二度と孫には合わせないからな…それだけじゃないわよ…リナが脅すように言った…私たち、お母さんの認知症のこと、地域包括支援センターに相談しようと思ってるの…最近もの忘れがひどいって…介護士なのに認知症なんて、職場にもいられなくなるんじゃない?…これは明らかな脅迫だった…正彦が私の肩に手を置いた…その手は怒りで震えていた…私は静かに言った…分かりました…よく分かりました…じゃあ金を…。。 いいえ…私の声は不思議なほど落ち着いていた…もうあなたたちには一円も渡しません…。。 なんだって?!ふざけるな!お前に拒否する権利なんてない!親なんだから死ぬまで金を出すのが当然だ!剣の声は、もはや息子のものではなかった…私は静かに電話を見つめ、心の中で決意を固めた…この屈辱は必ず晴らして見せる…介護士としての誇りにかけて、正義は必ず勝つ…そう信じて…
ふざけるな、という剣の怒鳴り声が響いた後、私は深く息を吸い込んだ…怒りで震えていた手が、いつの間にか静まり返っていた…。 私の声は、急に落ち着きを取り戻していた…分かりました…お父様の病院名と病室を教えてください…すぐに向かいます…。 電話の向こうで、剣とリナが慌てたような気配がした…え、本当に?リナの声に疑念が混じっている…はい…大切な家族の一大事ですから…。。 どちらの病院の何号室ですか?…あ、えっと…中央総合病院の五階の五一二号室よ…。。 分かりました…すぐに準備して向かいます…五十万円も用意しますね…。。 本当か!剣の声が弾んだ…はい…ただ、病院で直接お渡しします…。。 わ、分かった…じゃあ待ってるから…。
電話を切ると、正彦と意味深なアイコンタクトを交わした…正彦はスマートフォンを手に取り言った…みさ子、全部録音してあるよ…正彦がスマホの画面を見せてくれた…通話録音アプリに、先ほどの会話が全て記録されていた…ありがとう、正彦さん…これで証拠は揃いました…私は立ち上がり、仕事用の鞄を取り出した…みさ子、本当に病院に行くのか?…ええ…でもお金を渡しに行くわけではありません…私は携帯電話を取り出し、ある番号に電話をかけた…もしもし、安田です…施設長、実はご相談があって…。 私が三十二年間勤務してきた介護施設の施設長が電話に出た…安田さん、どうしました?…実は、医療制度の悪用に関する事案に遭遇しまして…詐欺の可能性があるんです…。。 施設長は真剣な声になった…それは大変だ…詳しく聞かせてください…私は簡潔に状況を説明した…施設長は怒りを露わにした…許せませんね…介護士を侮辱した上に詐欺まで…。。 安田さん、全面的に協力します…。。 ありがとうございます…実はお願いが…。。 次に私は別の番号にかけた…山田先生でしょうか…安田です…お願いしたいことがあって…。。 山田弁護士は、施設の顧問弁護士で、以前から親しくしていただいている方だった…安田さん、どうされました?…状況を説明すると、山田弁護士は即座に答えた…それは明らかな詐欺罪です…脅迫罪も成立する可能性があります…録音があるなら完璧です…。。 ありがとうございます…それともう一つ相談が…。。 私は重要書類を準備し始めた…通帳、三十二年分の給与明細、さらにこれまで剣夫婦に援助した金額の記録、銀行の振り込み明細、領収書の束…全てをファイルにまとめた…。 二千四百万円…正彦が書類を見ながら呟いた…みさ子、君は本当によく頑張ってきたんだな…全て剣のためだと思っていた…でも、それが間違いだったようだ…。。 私はもう一つ重要な書類を取り出した…それは私が個人的に加入していた医療保険の証書だった…みさ子、それは…。。 私の医療保険です…実は、癌保険と医療保険で、給付金が三千万円下りるんです…。。 正彦は驚いた…三千万円も?…はい…三十二年、毎月コツコツと掛け金を払ってきました…万が一の時のために…そして私は最後の準備として、ある書類を作成し始めた…正彦さん、これから病院に行きますが、その前に一つお願いが…。。 何でも言ってくれ…。。 厚生省の書類の作成を手配してください…今すぐに…正彦は頷き、すぐに役所に連絡を取り始めた…。
午後七時…全ての準備が整った…録音データは山田弁護士にも送信済み…施設長からは、医療ソーシャルワーカーの知人を病院に向かわせるとの連絡が入った…みさ子、準備はいいか?正彦が心配そうに聞いた…はい…三十二年分の介護経験を、今こそ見せてあげましょう…私の顔に、もう迷いはなかった…介護師は底辺職じゃない…人の尊厳を守る誇り高い仕事だ…それを息子に教える時が来た…正彦が力強く頷いた…君一人で戦わせはしない…ありがとう、正彦さん…私たちは家を出た…夕の空が、まるで戦いの始まりを告げるように赤く染まっていた…
病院への道中、私の携帯に施設の同僚たちからメッセージが次々と届いた…安田さん、応援しています…介護士の誇りを見せてやってください…絶対に負けないで…。。 共に働いてきた仲間たちが、私の味方だった…みさ子、君は一人じゃない…正彦が優しく言った…ええ…今なら、どんな相手にも負けない気がします…中央総合病院の建物が視界に入ってきた…いよいよ反撃の時だ…。
中央総合病院の五階、五一二号室の前に立った時、私の心は不思議なほど落ち着いていた…ドアをノックすると、リナが慌てたように顔を出した…あ、お母さん…本当に来てくれたのね…。。 お金は…。。 その前に、お父様の容体を確認させてください…。。 部屋に入ると、ベッドに横たわっているリナの父親が、テレビを見ながら洗礼を食べていた…とても手術を控えた患者には見えない…お父様、お加減はいかがですか?私が尋ねると、リナの父親は慌てて洗礼を隠し、苦しそうな演技を始めた…ああ、胸が苦しくて…。。 剣も気まずそうに立っている…それで五十万円は持ってきたんだろうな…剣が横柄な態度で言った…。。 その前に確認させてください…私は冷静に言った…心臓のバイパス手術とおっしゃいましたが、入院計画書と手術同意書を見せていただけますか?…え、それは…リナが口ごもった…。。 高額な手術なら、必ず医師からの説明書があるはずです…インフォームドコンセントは医療の基本ですから…。。 剣が嫌だったように言った…そんなもの今は関係ないだろう…金を出せばいいんだよ…底辺のくせに偉そうに…。。 底辺ですか?私は静かに介護施設の職員証を取り出した…私は三十二年、医療現場で働いてきました…医療制度については、あなたたちよりはるかに詳しいんです…そして私は続けた…手術の説明をお願いします…大きな手術でも、自己負担で五十万円はかからないはずです…医療保険制度をご存じないようですね…リナの顔が青ざめ始めた…それに、本当に心臓のバイパス手術なら、高額療養費制度が適用されます…年収によりますが、月額の自己負担限度額は、一般的な所得なら八万円程度です…限度額適用認定証の申請もしていないんですか?…そ、それは…剣が言葉に詰まった…。。 さらに言えば、心臓手術なら術前検査として心臓カテーテル検査、心エコー、血液検査など、最低一週間は必要です…でもお父様は、今朝入院されたばかりですよね…。。 その時、ドアがノックされ、白いワイシャツを来た女性が入ってきた…失礼します…医療ソーシャルワーカーの田中です…私が事前に連絡していた、施設の知人だった…患者様の医療費についてご相談があると伺いまして…。。 田中さんは、リナの父親のカルテを確認し始めた…あれ、こちらの山田様は、レントゲンと血液検査だけですね…しかも日帰り検査…手術の予定は一切入っていませんが…。。 リナと剣の顔が真っ赤になった…これはどういうことでしょうか?田中さんが厳しい表情で言った…虚偽の病情を申告して金銭を要求するのは、刑法二百四十六条の詐欺罪に該当します…十年以下の懲役ですよ…。。 ち、違います!勘違いです!リナが慌てて言い分けを始めたが、私は冷静に続けた…勘違い?でも電話では明確に、心臓のバイパス手術で二百万円必要、命に関わるとおっしゃいましたよね…そして私はスマートフォンを取り出した…実は全て録音してあります…剣とリナの顔が恐怖で歪んだ…さらに私は正彦を見合わせてから続けた…介護師は低変職…排せつ物の処理をする単純労働…そんな仕事で稼いだ金に価値はない…汚い、臭い、惨めな仕事…これらの暴言も全て記録されています…。。 田中さんが怒りを露わにした…医療従事者への重大な侮辱です…私たちがいなければ医療は成り立たないんですよ…その時、もう一人の訪問者が現れた…山田弁護士だった…失礼します…安田みさ子様の代理人弁護士の山田です…山田弁護士は厳格な表情で書類を取り出した…安田健、安田リナ様…これは内容証明郵便です…本日付けで正式に受け取っていただきます…。。 震える手で書類を受け取った剣の顔が、文字を追うごとに青ざめていった…詐欺罪、脅迫罪、名誉毀損…これらの容疑で刑事告訴を準備しています…また、民事でも損害賠償請求を行います…。。 そ、そんな…リナが泣き始めた…。。 さらに重要なことがあります…山田弁護士は続けた…過去の援助金について調査したところ、総額に千四百万円に上ることが判明しました…学費の五百五十万円、結婚資金五百万円、住宅購入、生活費などで六百万円…これらは全て安田様の介護士としての収入と、ご両親の遺産売却で賄われたものです…。。 それがどうした?親が子供に金を出すのは当然だろう!剣が叫んだ…。。 いいえ、贈与には贈与者の真意が必要です…今回のような詐欺的行為が発覚した場合、錯誤による贈与として取り消しが可能です…つまり返済を求めることができます…二千四百万円の返済…。。 剣が膝から崩れ落ちた…そんな金、あるわけない…。。 では、給与差し押さえや、不動産の差し押さえも検討せざるを得ませんね…私は静かに立ち上がった…剣、リナさん…私は三十二年、認知症の方、寝たきりの方、終末期の方々に寄り添ってきました…その全ての方の尊厳を守るために、不眠不休で働いてきました…私の声は凛として響いた…夜中の排せつに付き添い、暴言を浴びせられても笑顔を絶やさず、亡くなる方の手を最後まで握り続けた…それが底辺職ですか?剣もリナも下を向いたまま、何も言えなかった…介護師は、人の命と尊厳を支える崇高な仕事です…その誇りを、息子であるあなたに踏みにじられるとは思いませんでした…そして最後通告をした…今後一切の援助はしません…連絡も取りません…孫に合わせないという脅しも、認知症だと嘘の通報をするという脅迫も通用しません…全て証拠があります…。。 剣が顔を上げ、最後の悪あがきをした…待てよ!俺は息子だぞ!相続権があるんだ!…私は振り返った…ええ、法定相続人ですね…でも、今日の午後、厚生省を作成しました…剣の目が見開かれた…全財産五千万円を、介護副施設と、介護士を目指す若者への奨学金に寄付します…。。 五千万…そんな…リナが呆然と呟いた…はい…三十二年分の退職金、両親の遺産、そして医療保険の積み立て金です…でも、もうあなたたちには一円も渡りません…。。 山田弁護士が追い打ちをかけた…遺産分割調停を考えているなら、お勧めしません…詐欺罪と脅迫罪の証拠がある以上、相続欠格に該当し、相続権事態を失う可能性が高いですから…完全な敗北だった…
病室を出ると、廊下に数人の看護師と介護師が集まっていた…安田さん!若い介護師が涙を浮かべていた…私たちの仕事を守ってくれてありがとうございます…。 皆さんが深く頭を下げた…いいえ、私こそ…介護師という職業は、私にとって誇りですから…私も深く頭を下げた…病院を出ると、満天の星空が広がっていた…みさ子、君は本当に強いな…正彦が優しく言った…いいえ、強くなんかありません…ただ、三十二年分の介護士としての誇りが、私を支えてくれただけです…私は夜空を見上げ、心の中で呟いた…これで本当の意味で、私は自由になれた…ととして、母として、そして一人の人間として…
あの決定的な夜から三ヶ月が経ち、私は三十二年勤めた介護士の仕事を退職した…朝の光が優しく部屋を照らす中、私はゆっくりとコーヒーを入れていた…みさ子、今日の予定は?正彦が新聞を読みながら聞いてきた…午後から介護施設でボランティア…その後は、二人で温泉にでも行きましょうか…いいね…夫婦二人… 第二の人生を楽しもう…私たちは微笑み合った…剣夫婦との完全な決別の後、私たちの生活は驚くほど豊かになった…金銭的にではなく、精神的に…先月は北海道へ一週間の旅行に行った…三十二年、まともな旅行もできなかった私たちにとって、それは新婚旅行のようだった…みさ子、笑顔が増えたね…。。 正彦さんこそ、若返ったみたい…私たちは本当の意味で自由を手に入れたのだ…週に二回、私は地元の介護施設でボランティアをしている…給料はもらえませんが、利用者の方々の笑顔が何よりの報酬だ…安田さん、今日も来てくれたのね…認知症の田中さんが私の手を握って喜んでくれる…安田さんの手、温かくて安心する…ありがとうございます…田中さんの笑顔が、私の元気の源だ…施設長が私に言った…安田さん、介護士の誇りを守ってくれて、本当にありがとう…。。 若い介護師たちも私を頼ってくれる…安田さん、介護技術を教えてください…三十二年の経験を、私たちに伝えてください…私は喜んで実地指導を始めた…認知症の方への接し方、対処法のコツ、心のケアの方法…全ての知識を、次世代に伝えていく…介護は底辺の職業じゃない…人の尊厳を守る最も崇高な仕事よ…若い職員たちの目が輝く…はい!私たちも安田さんのような介護師を目指します!…
ある日、県の介護福祉士会から講演依頼が来た…テーマは「介護職の誇りと尊厳」…私は壇上に立ち、語り始めた…介護職への偏見は、今も根強く残っています…しかし、私たちがいなければ超高齢者社会は成り立ちません…会場に集まった三百人以上の介護職員が、真剣に耳を傾けている…親を都合の良い扱いにする子供も増えています…私自身、息子から「底辺」と貶され、侮辱されました…会場がざわめいた…でも私たちには、立ち向かう勇気があります…知識があります…そして何より、誇りがあります…大きな拍手が湧き起こった…みさ子さんは、悪人に立ち向かう勇気を、全ての介護職員に与えてくれました…司会者の言葉に、私は深く頭を下げた…全国の介護職員の皆さんの支えがあったからこそです…講演会の後、たくさんの人が私の元に来た…私も家族から軽んじられています…給料が安いとバカにされます…でも安田さんの話を聞いて、誇りを取り戻しました…私は一人一人と握手をした…負けないで…私たちの仕事は、人の人生の最後を支える神聖な仕事…その誇りを忘れないでください…
夕方、正彦と二人で海辺を散歩していた…夕日が水平線に沈もうとしている…オレンジ色の光が、私たちを優しく包み込んだ…みさ子、後悔はないか?正彦が聞いてきた…全くありません…むしろ、解放されて感謝しています…剣のことは…息子は息子です…でも、もう私の人生の一部ではありません…。。 その時、正彦がポケットから封筒を取り出した…実はこれ、今朝届いていた…差し出し人は、剣とリナだった…手紙を開くと、謝罪の言葉が並んでいた…母さん、あの時は本当にすみませんでした…「底辺職」なんて言って、最低でした…今更ですが、お母さんの偉大さが分かりました…会社も首になり、家も差し押さえられました…どうか許してください…もう一度、親子として援助してください…。。 最後の一文で、本音が見えた…結局お金が目的なのだ…私は手紙を読み終えると、静かに海に向かって歩いた…みさ子…正彦さん、私は振り返った…お金より大切なもの…それは自分の尊厳と誇りです…それを踏みにじった人を、簡単に許すことはできません…手紙を丁寧に封筒に戻した…返事は必要ありません…彼らは自分たちの行いの報いを受けているだけです…正彦が優しく私の肩を抱いた…そうだね…過去は過去…私たちには素晴らしい未来がある…夕日が完全に沈み、一番星が輝き始めた…私は心の中で呟いた…三十二年分の介護士人生は、決して無駄ではなかった…たくさんの高齢者に寄り添い、見守りをし、数えきれない笑顔を生み出した…それが私の誇り…剣に使った千四百万円も、無駄ではなかったのかもしれない…なぜなら、そのおかげで本当に大切なものが何かを、知ることができたのですから…みさ子、明日は何をしようか?…そうね…介護福祉を目指す学生たちとの交流会があるの…私の経験を伝えたいと思って…素晴らしい…君の知識と経験は、次世代のものだ…それと、来月から介護福祉士の養成校で講義をすることになったの…本当か?それは素晴らしい…私たちは手を繋いで家路に着いた…五千万円の遺産は、全て介護の未来のために使われる…介護福祉を目指す学生への奨学金、介護施設の設備改善、介護職員の処遇改善運動への寄付…それが、三十二年介護士として生きてきた私の、最高の恩返しだ…歩きながら、私は思った…人生は長い…でも誇りを持って生きれば、どんな困難も乗り越えられる…介護士は低変ではない…人の心に寄り添い、最後まで尊厳を守る、世界で最も美しく崇高な仕事…その誇りを胸に、私はこれからも生きていく…正彦と共に、笑顔で前を向いて…。



