窓口の前で、すり切れた作業服の神座武郎は静かに一礼をした。古い傘を脇に置き、対面には制服を整え、化粧も濃い篠原という銀行の係員が座っている。78歳の神座は、たった100円の手数料を相談するために訪れていた。だが篠原は、その老人の姿を一瞥し、鋭い口調で言い放った。
「勇さん、お先が短い方への貸し付けはできません。時間の無駄です。2度と投稿に足を運ばないでください」
周囲の客も、他の行員も、誰もがこの老人がその場で泣き崩れるのを待っていた。しかし神座は怒鳴らず、泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに頭を下げただけだった。その背筋は、最後までまっすぐに伸びていた。
篠原は涙を見せない老人に一瞬だけ目を細めた。そして、差し出された100円玉を指先で弾いた。硬貨は床に転がり、乾いた音を立てて静かに止まった。神座の表情は、その屈辱によっても全く揺れなかった。
窓口の外でこの一部始終を見ていたのは、制服のスカートを履いた15歳の少女、神座ゆりだった。彼女は祖父が黙って膝をつき、床に落ちた100円玉を静かに拾い上げる背中を見つめながら、小さな拳をぎゅっと握りしめた。目の奥が熱くなったが、周囲で声を上げる者はいなかった。
誰も知らなかった。この日が、何か大きな歯車の始まりだったことを。見下した行員たちが、その後、何を失うことになるのかを。そして、この老人が本当は何者なのかを、誰も知らなかったのだ。
時は数時間前に遡る。夕方、東京都中野区の住宅街に、古い木造の家が静かに佇んでいた。玄関先には植木鉢が並び、縁側からは古い茶箪笥が見える。神座武郎と孫娘のゆりが暮らす家だ。ゆりは学校指定の古びた制服を着て、使い古したリュックを背負っていた。鉛筆は最後まで使い切る質素な暮らしだったが、彼女が一度も「貧しい」と感じたことはなかった。祖父がいてくれれば、それだけで十分だと思っていたからだ。
その日の夕食時、質素な味噌汁とご飯が食卓に並んだ。ゆりは恐る恐る尋ねた。
「おじいちゃん、今日、大丈夫だった?」
神座はゆっくりと箸を置き、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ。気にしなくていい」
しかし、ゆりは気づいていた。祖父が味噌汁を持つ手が、ほんのわずかに震えていたことを。
神座の口癖は「お金は人のためにある」だった。地位や財力を誇らず、質素を好む。それが神座武郎の生き方だった。彼は戦後間もない昭和の時代に生まれ、貧しい家庭で育った。10代から働きながら貿易を学び、30代で小さな会社を立ち上げ、半世紀をかけて成長させた。その会社は今や、国内有数の総合商社グループ「池田財閥」となっていた。10年前、神座は経営権を後継者に譲り、この中野の古い家に戻り、ゆりと二人で静かに暮らしていた。
ゆりが泣いていた日も、神座はそっと隣に座るだけだった。何も言わず、ただ背中をゆっくりと撫でた。両親を亡くした夜も、学校で一人ぼっちだった日も、祖父の大きな手だけがゆりの隣にあった。「おじいちゃんがいれば大丈夫」。それがゆりの10年間の支えだった。
明光銀行中野店と神座との付き合いは、30年以上に及んでいた。銀行の設立時、資本の一部を提供したことが縁で、長年にわたる取引が続いていた。個人口座と池田財閥グループ関連口座を合わせて、実に8つの口座。その残高の合計は、999億円を超えていた。しかし、その事実を中野店で知る者は、もはや一人もいなかった。30年前の担当行員はすでに異動しており、今の支店長も篠原も、その事実を知らなかったのだ。
神座が勇者相談の窓口に来たのには、ゆりにすらまだ話していない深い理由があった。その夜、ゆりが二階に上がった後、神座は電話を手に取った。相手は「神田法律事務所」の代表弁護士、神田。池田財閥の顧問を30年以上務める老練な弁護士だった。
「神田さん、少し相談があります。口座の整理を」
その声は、感情的な怒りによるものではなく、深く考えた末の静かな決断のように聞こえた。二階の廊下に立っていたゆりは、その言葉を耳にした。「口座の整理」という言葉の意味を、彼女は直感で理解した。
「おじいちゃん……」
ゆりは小さくつぶやき、もう一度拳を握りしめた。神座が寝室へ向かった後、ゆりは居間に一人残った。茶箪笥の上には、古い家族写真が飾られていた。両親の隣で笑う5歳の自分と、その肩を抱く祖父の姿があった。ゆりは写真を見つめながら、目を細めた。
「お父さん、お母さん、おじいちゃんのことは、私が守るから」
誰もいない部屋に、ゆりの小さな声が消えていった。
一方、翌朝の明光銀行中野店では、篠原が得意気に後輩行員たちへ語っていた。
「効率よく仕事をするには、見込みのない案件を早く切ることが大事なの。高齢者の小口融資なんて、費用対効果がゼロ。時間を奪われるだけよ」
後輩たちは熱心にメモを取っていた。支店長の長沼肖像も、その様子を満足げに見つめていた。彼らにはまだ、何も知らされていなかった。
その日の午前中、神田法律事務所では、解約通知書の文面が整っていた。宛先は明光銀行中野店、依頼人は池田神座武郎。神田はそれを丁寧に封筒へ納めた。昨夜、神座はこう指示していた。
「急ぐ必要はない。正式な手続きを踏んで、静かに進めてほしい」
感情的な報復ではなく、法的に正当な解約であることを明確にするためだった。解約対象は、個人名義の口座と財閥グループ関連口座を合わせた8つの口座。合計残高は999億2300万円。これは、明光銀行全体の預金残高の約8. 7%に相当する金額だった。
同じ頃、中野店では、篠原が平然と窓口業務をこなしていた。午前の窓口には、高齢者が数名並んでいた。篠原は彼らを後回しにし、スーツ姿の若い男性を先に呼びつけた。
「お待たせしました。大口のお客様はこちらへどうぞ」
高齢者たちは黙って順番を待つしかなかった。篠原は気にせず、笑顔で対応を続けた。しかし、誰も知らなかった。その時すでに、支店の外では大きな歯車が静かに動き始めていたことを。
数日後、明光銀行本部の法人営業部。時ハセモはデスクに届いた一枚の書類を手に取った。書類には「池田神座武郎様 口座解約通知書」と記されていた。春部の手が止まった。彼は20年前、池田財閥グループの担当営業行員だった。今は本部勤務だが、池田財閥の管理責任者として、唯一の連絡窓口を担っていた。
「池田会長が解約だと?」
春部は震える手で、すぐに神田法律事務所へ確認の電話を入れた。
「池田様の意向で、全口座の解約を正式にご依頼いただいています。理由はお伝えできませんが、正規の手続きを進めてください」
電話を置いた春辺の顔は、青ざめていた。全口座、999億円。春部は直属の融資部長に緊急報告を申請した。
「重要顧客、池田神座様より全口座解約。原因不明。緊急対応を要請します」
報告は直ちに頭取室へ届いた。頭取の瀬川道夫が書類に目を通した瞬間、大型の机に書類を叩きつける音が会議室に響き渡った。
「999億円だと?中野店の池田様に、一体何があった?」
頭取の命令で、中野店への緊急監査が即座に発動された。監査チームが直近の顧客対応記録を洗い出す作業を開始し、支店内に緊張が走り始めた。防犯カメラ映像の提出を求める手続きも、静かに進められていった。
その日の放課後、ゆりは学校の廊下で一人考えていた。クラスメイトたちの笑い声が遠くから聞こえてくる。しかし、ゆりの頭の中には、あの日の窓口の光景が繰り返し浮かんでいた。祖父が膝をついて、床の100円玉を拾い上げる姿。あの背中が、ゆりの胸から離れなかった。
「おじいちゃんは、絶対に怒っていた。ただ、表に出せなかっただけだ」
ゆりは唇を噛んだ。家に帰ると、神座は縁側で植木の手入れをしていた。
「お帰り。今日は学校どうだった?」
「普通だった。おじいちゃん、今日は体の調子は?」
「大丈夫だよ。ゆりの方が、心配そうだな」
神座が優しく笑った。ゆりはその笑顔を見て、また胸が熱くなった。この人は、いつも自分のことより相手を気にかける。しかし、春部が動き出した監査の手は、確実に伸びてきていた。
防犯カメラ映像の分析が完了した日、春辺の顔から表情が消えた。映像には、窓口番号3番で、篠原が100円玉を弾く瞬間と、後輩行員の笑い声がはっきりと残っていた。春部は震える手で、何度も再生ボタンを押した。それは怒りではなく、長年尊敬してきた人物が、支店の行員に傷つけられた悲しみだった。
「池田会長が、なぜ解約されるのか、わかりました」
春部は、20年前に初めて池田神座に会った日のことを思い出した。神座は当時から質素な服装で、銀行の会議室に現れた。
「春部君、銀行員は数字だけを見てはいけないよ。お金の向こうにある、人の顔を見なさい」
その言葉が、春部の20年間の銀行員人生を支えてきた。春部は深く息を吸い、頭取室への詳細な報告書を書き始めた。
「これが事実です。映像で確認しました。速やかな対応をお願いします」
翌日の朝、篠原はいつも通り中野店に出勤した。エレベーターを降り、フロアに入ると、何人かの行員が目をそらした。
「なんだか今日は雰囲気が変だな」
しかし、篠原は気にしなかった。今月の融資実績は支店トップ。来月には主任の候補に上がると聞いていた。篠原は窓口に座り、いつも通り業務を始めた。その頃、本部では、春辺の報告書と映像の確認を受け、頭取が動いていた。
「篠原を今すぐ呼べ」
中野店に電話が入り、本部は篠原に頭取室へ向かうよう命じた。篠原は電話を切ってから、隣の行員を見た。
「何かあったの?私、何かしたかしら?」
まだ事態を理解していなかった。本部に到着した篠原が、頭取室のドアを開けると、役員たちが並んで座っていた。全員が、冷たい目で篠原を見つめていた。
「何かご用でしょうか?今月の実績は支店一ですが」
誰も笑わなかった。篠原はまだ平然と立っていた。瀬川頭取が、静かにモニターの再生ボタンを押した。自分が100円玉を弾く瞬間が、目の前の画面に映し出された。後輩の笑い声まではっきりと残っていた。篠原の顔が、瞬時に青ざめた。
「これは、私は、その方が大口顧客だとは知らず……」
「池田神座様を知らなかったことが問題ではない。あなたが銀行員として、人間に向けた行為が問題だ。老い先短いと笑った相手が、誰だったのか」
篠原の喉が震え、次の言葉が続かなかった。
「効率を考えただけです。小口融資は、上司の方針でもありました」
「効率のために、硬貨を弾き、客を笑わせたのか?」
篠原は返す言葉を失い、膝の上で指を固く組んだ。
「池田神座様は、当行の大口預金者です。しかし、それより重要なのは、30年間この銀行を支えてくださった方だということです。私はその方に、20年間ずっと頭を下げて仕事させていただいてきた」
春部の声が、わずかに震えていた。
「でも、私一人で判断したわけではありません。後輩も、あの場では何も言わなかったじゃないですか」
「後輩の同調と笑いも、映像と監査記録に残っている。あなたが作った空気まで含めて、調査する」
星原の体がぐらりと揺れ、足先が小さく震え始めた。
「解約の規模を報告しろ」
融資本部長が書類を広げた。
「個人口座及び関連口座、合計8口座。残高合計、999億2300万円」
数字を聞いた瞬間、篠原の膝から力が抜けた。
「999億円……」
自分が切り捨てた老人の背中と、999億という数字が重なった。
次に、長沼肖像支店長が頭取室に呼ばれた。
「部下の不正を把握していたのか?」
長沼は目を泳がせ、しばらく沈黙した後に白状した。
「報告は受けておりました。高齢者を後回しにした件です。しかし、実績を優先して、篠原のやり方を見逃していました」
「実績を優先?顧客への侮辱を見逃すことが、実績か」
瀬川の声は低かったが、怒りが滲んでいた。
「支店長も『見込みのない案件は早く切れ』と……」
「篠原君、余計なことを言うな」
長沼が遮った瞬間、篠原の声はさらに裏返った。
「私は言われた通りにしただけです。私だけの責任では……」
「責任のなすり合いをしている場合ではない。その姿勢自体が、中野店の管理不全を示している」
「申し訳ございません」
長沼は頭を下げたまま動けなかった。
「星原、長沼、二人とも職務から外す。処分内容を検討し、業界団体への報告も進める」
篠原の唇は震えたが、もう言い返す言葉は出なかった。
その情報はすぐに中野店全体に広まった。行員たちが互いに顔を見合わせ、支店内に重い緊張が漂った。普段から篠原の効率主義を支持していた後輩たちも、初めて不安そうな顔をしていた。午後の窓口業務は、ほとんど止まっていた。
頭取室を出た篠原は、廊下の壁に背を預けた。
「999億円……」
その言葉が頭の中で繰り返されていた。
「あの老人が、まさか……」
篠原は震える手でスマートフォンを取り出した。しかし、電話すべき相手が誰もいなかった。効率主義を支持してくれた後輩に電話すべきか。しかし、何を言えばいい?999億円の客を追い返したと。友人に電話すべきか。しかし、今の状況を説明できる言葉がなかった。篠原は廊下の窓の外を見た。東京の空は青かった。いつもと変わらない空だった。しかし、篠原の世界は、あの映像が映し出された瞬間から、完全に変わってしまっていた。
その夜、ゆりは祖父に声をかけた。
「おじいちゃん、銀行から連絡来た?」
「来たよ。頭取が会いに来たいとのことだ」
「会う必要ないと思う」
ゆりの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。しかし、神座は静かに首を横に振った。
「最後に話すことはある」
「わかった。おじいちゃんがそう言うなら」
ゆりは初めて、祖父の本当の強さの意味を理解しかけていた。その夜、ゆりは布団の中で天井を見つめながら、祖父の言葉を思い返した。「お金は人のためにある。人のためにならないお金は、ただの紙切れだ」
翌朝10時、明光銀行の黒塗りの車が中野区の住宅街に静かに停車した。降りてきたのは、頭取の瀬川道夫と春部守の二人だった。瀬川は高級スーツ姿で、春部は普段より表情が硬かった。門の玄関先に出てきたのは、作業服姿の神座と、制服を着たゆりだった。二人は並んで立ち、静かに来客を見ていた。
瀬川は玄関先で立ち止まり、深々と頭を下げた。
「この度の行員の行為は、いかなる理由も言い訳もございません。心より深くお詫び申し上げます」
瀬川が一歩前に出た。
「池田会長、お久しぶりです。私は春部です。20年前にお世話になりました」
春部の目が赤くなっていた。
「ああ、春部君か。大きくなったね」
神座は穏やかに微笑んだ。
「まあ、入りなさい」
四人は古びた畳の居間に通された。小さな茶箪笥と年季の入った座布団が置かれ、壁には古い家族写真があった。ゆりが5歳の頃の写真と、神座が若い頃の写真が並んでいた。質素だが、温かみのある空間だった。
瀬川は部屋に入るなり、ひざまずいて両手を畳についた。
「本当に申し訳ございませんでした」
頭取が土下座した。ゆりは黙って祖父の隣に座っていた。しかし、神座は静かに瀬川を見つめ、穏やかに言った。
「頭取、頭を上げてください」
瀬川はゆっくりと頭を上げた。目が赤くなっていた。
「私が求めているのは、お金ではありません。借りたかったのは、わずかな額でした。孫娘の高校進学費用を、自分の名前で借りて、自分で返したかった。それだけのことです」
瀬川と春部が顔を見合わせた。
「なぜ、ご自身の口座から下ろさずに?」
「口座から下ろせばいいと思うでしょう。でもね、私はゆりに教えたかったんです。借りたものは、ちゃんと返すこと。人に頭を下げて助けを求めることを、恥と思わないこと。そういうことを、体で教えたかったんです」
春辺が半ば慌てて目を抑えた。瀬川の目にも涙が浮かんでいた。
「それほど深いお考えを持って来てくださった方に、行員が……」
声が詰まり、瀬川は言葉を続けられなかった。ゆりが初めて口を開いた。
「頭取、おじいちゃんは怒ってないんです。ただ、悲しかっただけだと思います。長年お金を預けていた銀行で、人として扱ってもらえなかったことが」
居間に、小さな沈黙が広がった。神座はゆりの言葉を聞きながら、穏やかな目でゆりを見た。「よく言えたね」というように、静かに頷いた。
「銀行というのはね、お金だけを守る場所じゃない。お金の向こうにある、人の夢や生活や尊厳を守る場所でなければならない。そう信じて、この銀行と30年付き合ってきました」
瀬川は静かに聞いていた。
「私の解約は、お金の問題ではない。銀行が銀行であってほしいという、最後の願いです。もし、本当に変わる気があるのなら」
神座は少し間を置いた。瀬川はうなずいた。
「変わります。変わって見せます。具体的な改革案を必ず作ります」
神座はゆっくりと頷いた。
「では、三つお願いがあります」
神座が三つの条件を述べた。一つ目は、高齢者・低所得者向けの無担保小口融資プログラムの設立。二つ目は、窓口での暴言・差別行為の再発防止研修を、全行員に義務づけること。三つ目は、利益にならなくても、人の役に立つ融資を行うことを方針に明記すること。
「全て、受け承ります」
瀬川は静かに、しかし確かに約束した。ゆりが祖父の手をそっと握った。
「ありがとう、ゆり」
神座の声は穏やかで、どこか解放されたように軽やかだった。
「銀行員として、恥ずかしい限りです。でも、今日、池田会長の言葉を聞いて、もう一度頑張ろうと思いました」
「春部君、あなたが頑張ってくれれば、それでいい。銀行は、あなたのような人間が支えるものだよ」
春部は涙をこらえながら、深く頭を下げた。居間に、温かい沈黙が広がった。
同日午後、篠原は人事部の会議室へ呼ばれ、処分通知を受け取った。
「顧客への侮辱行為と屈辱発言により、諭旨免職とします。退職金は全額不支給です。本日付けで、行施設への立ち入りも禁じます。業界団体への報告も行います。金融界での再就職は、極めて困難です」
「待ってください。私はもう一度だけ、池田様に謝罪を……」
「池田様への直接接触も禁止します。謝罪は、銀行が責任を持って行います」
篠原は処分通知を持つ手を震わせた。窓口で切り捨てた「時間の無駄」が、自分の未来へと返ってきた。勤務記録には、高齢者を後回しにした行為も複数残っていた。かつて篠原を支持した後輩も、彼女の前で口を閉ざした。
「私たちも、あの時に止めるべきでした」
篠原は返事ができず、視線を落とした。私物を箱に入れ、同僚に見送られずに支店を出た。解職は即日発令され、行内へ通達された。長沼肖像支店長も、同じ会議室で降格通知を受け取った。
「管理責任により、支店長を解く。給与は3ヶ月間減額です。不正を見て見ぬふりした、推薦責任も処分理由に含みます」
長沼は本部の事務部門へ移動となり、部下を持つ職務から外された。処分内容は金融業界に広まり、篠原の再就職の道は閉ざされていった。エリートと呼ばれた34歳の未来は、一夜にして変わった。
中野店では、全員集会が行われた。瀬川頭取の言葉が、支店内に静かに響き渡った。
「この店を失いかけたのは、999億円だけではない。顧客の信頼、そして銀行員としての誇りだ。今日から我々は変わる」
その言葉が、行員たちの胸に深く刻まれた。誰も、篠原のやり方を「効率的だった」とは口にしなかった。映像に残った笑い声は、全員の戒めとして、研修で共有された。篠原の後輩で効率主義を支持していた若者は、集会の後、窓口に戻って高齢者に静かに声をかけた。
「お待たせしました。どのようなご要件でしょうか?」
その笑顔は、これまでとは少し違っていた。
その日の夕方、ゆりは神座と二人で縁側に並んで座っていた。夕暮れの空が、遠くの屋根の向こうに広がっていた。二人はしばらく何も言わなかった。ただ、同じ空を見ていた。
「ゆり、今日は来てくれてよかったよ」
「私が来たかったんだよ。おじいちゃんの隣にいたかったから」
神座が静かに笑った。
「そうか。じゃあ、よかった」
ゆりは祖父の手を見た。年を重ねた大きな手だった。78年間働き、ゆりを育ててきた手だった。ゆりは自分の手を、その上に重ねた。
「ゆり、将来は何をしたい?」
「銀行員になりたいかもしれない」
神座が驚いた顔をした。
「おじいちゃんみたいに、人のためになる仕事がしたいから。でも、あんな銀行員じゃなくて、ちゃんと人のことを大事にできる銀行員に」
神座は静かに頷いた。
「それはいい。それはとてもいい」
夕暮れの空が、二人の顔を柔らかく照らしていた。あの日、握った拳は無駄じゃなかった。たった100円玉が弾かれた日から、全てが変わった。神座は人の尊厳が踏みにじられることに、静かに立ち向かった。その姿を、ゆりはこの目でしっかりと見ていた。
数日後、明光銀行は全国の支店に向けて通達を発した。通達は、年齢や資産規模による優先対応を一切禁止し、全ての顧客に平等かつ誠実に対応するよう求めた。30年以上続いていた効率主義の文化に、初めて公式なブレーキがかかった。一方、神座は解約を撤回することを正式に決断した。999億2300万円は、引き続き明光銀行に預けられることになった。しかし、神座はこう言った。
「預けているのは、信頼しているからです。その信頼に答えてもらえるかどうか。これからが本番ですよ」
瀬川はその言葉を胸に刻んだ。
「池田様の信頼に、今度こそ答えてみせる」
それが、明光銀行の新しいスタートだった。
それから半年が過ぎた。明光銀行中野店に、シニアサポート窓口が新設された。担当行員は笑顔で対応し、月に200件以上の相談が寄せられた。「初めて銀行で笑顔で迎えてもらえた」という声も届いた。銀行が設立した「希望のかけ橋融資」プログラムは、初年度に450件の融資を実行した。地域金融機関として初めて、社会貢献融資賞を受賞した。春部守は、その表彰式のスピーチでこう語った。
「この改革のきっかけは、一人の老人と、15歳の孫娘が教えてくれたことです。銀行は、人の尊厳を守る場所であるべきだという言葉を、忘れません」
一方その頃、篠原は自宅のデスクに、履歴書と採用通知の山を積み上げていた。「書類選考で不採用」という通知が30通を超えた頃、篠原はようやく気づいた。顧客侮辱で諭旨免職という事実は、金融業界のどこにいても届いていた。事務職や販売職にも応募したが、面接まで進めない日が続いた。履歴書の退職理由を書くたび、篠原は手を止めた。かつて「篠原さんみたいになりたい」と憧れていた後輩行員たちも、SNSのフォローを次々と外していった。誰も連絡をくれなかった。ある日、駅のホームで元同僚と目があった。相手は一瞬だけ視線を止めた後、無言で人混みの中に消えた。効率主義の篠原さんを誰よりも支持していた、あの若者だった。篠原は声をかけることができなかった。
やがて、篠原は都内の小さなコールセンターでアルバイトを始めた。かつて「時間の無駄」と切り捨てた仕事を、今は自分がしていた。時給1100円。かつての月収の3分の1にも満たなかった。ある日、電話口の向こうで、高齢者の声がした。
「操作が分からなくてすみません。何度も聞いてしまって」
「いいえ、大丈夫です。ゆっくりで構いませんよ」
自然と言葉が出ていた。同じ説明を3回繰り返し、相手の沈黙を待った。電話の向こうの女性が、安心したように息をついた。篠原は初めて、急かさず待つことが、誰かを救うことを知った。電話を切った後、篠原はしばらく手を止めた。あの日の老人の顔が、頭の中に浮かんだ。あの日、床の100円玉を静かに拾い上げた背中が浮かんだ。
「100円一枚の対応が、自分の全てを変えた。あの時、もし私が普通に接していたら……」
答えのない問いが、篠原の心の中でいつまでも響いていた。効率を極めようとした代償は、あまりにも大きかった。
神座は翌春、穏やかな日常に戻っていた。近所の顔馴染みたちが、笑顔で手を振る。ゆりは翌春、第一志望の高校に合格した。進学費用は、神座が明光銀行で正式に融資を受けて賄った。「借りたものは必ず返す」という祖父の教えを、ゆり自身も受け継いでいた。
「おじいちゃん、ここの制服見て」
ゆりが新しい制服姿で居間に飛び込んできた。
「よく似合うよ。本当によく似合う」
神座の目が、優しく細くなった。ゆりは入学後の作文で、「私の一番尊敬する人」という題で、祖父について書いた。作文には、祖父の教えがこう記されていた。
「お金がいくらあっても、人への敬意がなければ、何も持っていないのと同じです。おじいちゃんは、それを体で教えてくれました」
担任教師は、その作文を読みながら、目を潤ませた。
ある秋の日、明光銀行中野店の窓口に、一人の老婦人が来た。杖をつきながら、恐る恐る入ってきた。以前ならば、篠原のような行員に後回しにされていた客だった。しかし、その日、窓口の行員が真っ先に立ち上がった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
行員がゆっくりと席まで案内した。老婦人は少し驚いた顔をして、小声で言った。
「こんな温かい対応は初めてです。銀行って、怖いところだと思ってたんですけど」
「いいえ、いつでも来てください。お手伝いします」
窓口の外からその様子を見ていた春部が、静かに微笑んだ。神座が教えてくれたことが、確かに息づいていた。
今日も、神座武郎はゆりと共に公園を歩く。鳩に餌をやりながら、「じいさん」と声をかけられる。「お金は人のためにある」という信念を持って、静かに生きている。78歳の神座と、高校へ通うゆりが、100円玉一枚で買えたもの。それは、銀行だけではなく、この町に生きる人々の心だったのかもしれない。人の尊厳は、お金では測れない。その当たり前のことを、二人は体で示してくれたのであった。



