部長、資料のご確認をよろしくお願いします。
俺はそう言って、帰議直前の書類を長沢部長のデスクに置いた。すると部長は、俺が差し出した書類の束に、いきなり手に持ったコーヒーをぶちまけたのだ。
「中卒が作った書類はゴミ以下だ。消えろ。」
ニヤニヤと笑いながら放たれたその言葉に、俺はその場で一瞬固まった。部署内の何人かの視線が、コーヒーまみれになった書類と、俺と部長の間に注がれる。
「部長、それには超重要書類が入っています。」
俺はできるだけ冷静に、声を押し殺すようにして伝えた。だが部長は、あごを上げて勝ち誇ったように鼻で笑う。
「はあ?お前に任せているのは小さな案件ばかりだ。何が超重要書類だ。笑わせるな。」
「それでは、その目で確認されてみてはどうですか。」
俺はコーヒーで茶色く染まった書類の束をめくり、部長の目の前に差し出した。すると、部長の顔色が一瞬で変わった。笑みが消え、目が泳ぎ、口元が引きつる。
「おい…なんだよこれ。重要案件の契約書じゃないか。お前にこんな案件任せた覚えはないぞ。」
この時、俺はようやく真実を告げる時が来たと感じた。
「この案件は、俺が社長から直接任されたものです。上層部との会議の前に、部長に確認していただきたかったのですが。」
「はあ…おい、どうするんだ。こんなの読めたもんじゃないだろうが。」
俺はタオルを取り出して、書類の水分を拭き取るが、書類はすでに茶色く汚れてしまっていた。間もなく、俺と部長は会議室へと呼び出された。北川さんが補助として同席することになっていた。
「木村君に預けていた案件の進捗を聞きたくてね。」
会議が始まると、社長はそう言って俺を見た。俺は社長の元へ歩み寄り、書類を提出した。しかし、その書類はひどい有様だった。案の定、社長は眉をひそめた。
「おい、これはどうなってるんだ?契約書や重要書類が、どうしてこんなことになってる?」
「それは…」
俺が口を開きかけたところで、長沢部長が恐ろしく落ち着いた声で割って入った。
「木村に管理させていたんですが、こいつがうっかりコーヒーをこぼしたらしくて。全く、超重要書類を何だと思ってるんでしょうね。これだから中卒は。」
俺は信じられないという目で長沢部長を見た。彼は俺の視線を無視して、ベラベラと続ける。
「社長を始め、上層部の皆さんがお集まりですから、申し上げますね。これを機に、この会社は学歴重視で採用するべきです。学歴のない奴は、こうやってひどいミスをするんですからね。そうでしょう。」
会議室に重い沈黙が訪れた。社長をはじめとする全員の注目が、一斉に俺に集まった。俺は何を言っても無駄だと悟った。部長の前で反論すれば、さらに罵倒されるだけだ。そう思っていた。
しかし次の瞬間、北川さんが口を開いたのだ。
「あの、部長。それは嘘をおっしゃっています。」
「北川、お前何を言い出すんだ?」
部長は目を見張ったが、社長が「君は黙っていなさい」と一言添えると、口をつぐんだ。北川さんは、落ち着いた口調で続けた。
「その書類を木村さんが確認してもらおうと思って持っていくと、長沢部長がわざとコーヒーをかけたんです。その時に、木村さんのことを『中卒だ』とか『消えろ』とか言っていました。」
「な、何を言っているんだね、北川君。これは嘘です。」
長沢部長が慌てて言葉を被せると、社長が静かに告げた。
「ほおう。長沢君は、私の名を嘘つきで出しゃばりだと言うのかね。」
「え、名…」
部長は目を見張ったが、俺も驚いていた。まさか北川さんが社長の親族だったとは。
実は、北川さんは社長の姪で、「おじ様が社長だってことは周りに伏せているし、私も入社試験を通って就職したから、周りには黙っててね。」と、あとでウインクしながら教えてくれた。俺はただ頷くことしかできなかった。
「木村君の言うことは本当なのかね。」
社長に確認され、俺は「はい」と短く答えた。すると社長は考え込むような表情を浮かべ、やがてゆっくりと部長を見た。
「長沢君、君は中卒だと木村君を馬鹿にしていたんだ。」
「え、だ、だって、中卒なんてこの会社にいるのは恥でしょ。」
「私も中卒なんだが。」
その一言で、会議室の空気が凍りついた。長沢部長は口を開けたまま固まっている。社長は淡々とした口調で語り始めた。
「私も家庭の事情で進学することが叶わず、中卒で働いてきたんだ。一生懸命に資金を貯めて、このTシャツを設立し、大きくしてきた。だから私は学歴にこだわらず採用を行っている。木村君は、俺の幼馴染みの会社で長年働いてきて優秀だったと聞いていた。入社試験も問題なく、実際、営業成績もかなり良かったはずだ。」
「な…それなのに君は、学歴だけで人を判断し、木村君を不当に扱っていたんだな。」
長沢部長はもはや言葉が出てこない様子だった。そこに、北川さんが再び口を開いた。
「長沢部長の問題行動は、それだけではありません。女性社員への嫌がらせの被害報告が、数多く上がっています。」
社長が詳細を尋ねると、北川さんは静かに続けた。
「指名してお酌をさせたり、お酌などの雑務ばかり振ったり、若い子を無理やり食事に誘ったり…みんな困っているんです。」
北川さんがそう言うと、長沢部長は青い顔になった。
「そんな…女性社員ってそういうものだろう。そのくらいで…」
すると社長は険しい表情になった。
「それはどう考えても問題だよ、長沢君。我が社では男女平等を目標としている。君は女性社員を見下した。そんな人間に管理職は勤まらないだろう。」
「え、そ、そんな。違うんです。」
部長はうろたえて言い訳をしようとしたが、上層部の全員が彼を白い目で見ていた。そこで社長は俺をまっすぐに見た。
「木村君、頼んでいたことはやってくれたかね。」
「はい、社長。資料は揃っております。」
俺は社長の元へ、幾つかの書類と写真が入ったファイルを持っていった。社長はそれを開き、中身を確認し始めた。
「これは、部長の経費の不正利用についての調査結果です。」
「はあ?お前、何を言ってる?」
そこに社長が、短く「私が頼んだんだよ。」と告げた。
「経理から君の経費の使い方がおかしいと報告を受けていてね。信用できる君に調査を頼んでいたんだ。」
俺は無言で、会議室のモニターに写真を映し出した。そこには、現在進行形で青ざめている長沢部長が、出張と称した日々に観光を楽しんでいる様子や、一人で高級レストランに入っていく姿が写っていた。
「これは、部長が出張とおっしゃっていた日の行動です。取引先との相談という名目での出張でしたが、取引先と会っている様子は見受けられませんでした。」
俺は次の写真をモニターに移した。さらに、夜になると会社で撮っているホテルに女性を呼び出していたようだ。どうやら奥様とは違う女性のようで、長沢部長がデレデレとした表情でホテルの部屋にその女性を招き入れる写真が映ると、会議室はざわめいた。
「そして、これが後日経理に提出された領収書です。接待費として計上されている食事と代行は、もちろん一人で楽しまれたもの。取引先へのお土産代として請求されているのは、女性へのプレゼント代だと分かっています。」
俺が淡々と説明すると、長沢部長の顔色はさらに青ざめていった。
「社員への嫌がらせ。女性社員への不当な扱い。それに加えて、経費の不正利用までしていたとは。君、これでは君を解雇にせざるを得ない。」
「ああ、このくらいで解雇だなんて、ありえません。俺は、この会社のために…」
「まだ自重を軽く見ているようだね。とりあえず君は今日から謹慎だ。処分は追って連絡する。」
顔面蒼白になった部長は、他の社員によって会議室から連れ出されていったのだった。
それからの長沢部長だが、正式に解雇が言い渡されることになった。長沢部長は、自分を入社させてくれた取引先の社長に泣きついたようだが、取引先の社長も彼がしたことにドン引きし、「社長に謝ってきた」という。さらに、会社からは不正に利用した経費の返還請求が行われた。
それが部長の奥さんにもバレたらしく、奥さんは会社に詳しい話を聞きに来たそうだ。そこで部長の浮気もばれ、激怒した奥さんは部長を追い出し、子供を連れて実家に帰ってしまったらしい。
一人になった長沢部長は就職活動をしようとしたらしいが、業界には彼のやったことが広まり、同じ業種には就職できなかった。経営者側から解雇されているという事情も、就職活動に響いたのは間違いないだろう。
どこにも雇ってもらえなかった長沢部長は、それでも奥さんに慰謝料と養育費を払わねばならず、現在はコンビニとファストフード店のバイトを掛け持ちしているのだとか。従業員の一人が、年下の店長に叱られながら働いているところを見たと言っていた。
全ては自業自得だろうと、俺は思っている。
一方の俺だが、長沢部長がいなくなったことで、平穏を取り戻すことができた。営業部には新しい部長がやってきたが、新しい部長は人格者で、俺に大きな仕事も任せてくれたのだ。その仕事でいい結果を出した俺は、なんと最年少で課長に昇進することになった。
「木村さん、昇進おめでとうございます。先越されちゃいましたね。」
「北川さん…あの時は助け船を出してくれて、ありがとうございました。俺たちライバルなのに、助けてくれるなんて感謝しています。」
俺がそう言うと、北川さんはいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今夜お礼に奢ってくれます?」
「うん、いいよ。」
「二人で食事しましょう。私、楽しみにしてますから。」
そう言った北川さんの頬は、ほんのり赤く染まっていた。俺はその可愛らしい表情に、自分の胸が高鳴るのを感じたのだった。
これからも、仕事も、プライベートも、充実させられるよう、前向きに頑張っていきたいと思う。


