軽自動車のハンドルを握り、俺は田んぼに囲まれた一本道を走っていた。助手席には往診カバン。カーラジオから流れる演歌を聞き流しながら、古い木造の平屋の前に車を止めた。
「先生、いつもありがとうございます」
「こんにちは。ご主人の調子はいかがですか?今日は採血も少しさせてください」
布団に座って待っていた男性に、俺は世間話を挟みながら心音を確認する。
「先生、孫がな。来月結婚するんだわ」
「それはおめでたい。式までは元気でいないといけませんね」
そう返すと、男性はくしゃっと笑った。その笑顔を見ているだけで、今日もここに来てよかったと思えた。
俺の名前は太田ハルト。42歳、独身だ。かつては都内の大学病院で働いていたが、今は地方都市の桜在宅クリニックで訪問診療をしている。大きな病院で最先端医療に携わっていた頃とは全く違う働き方だが、俺はこの仕事に誇りを持っていた。
午後、クリニックに戻ってカルテをまとめていると、院長の高瀬が声をかけてきた。
「太田君、ちょっといいかな?新しい在宅患者さんなんだが、少し難しい方でね、君にお願いしたいんだ」
「難しいというのは病状ですか?」
「それもある。病状もそうだが、ご本人の気性もなかなかでね。前の主治医がやりにくかったらしい」
そう言って高瀬は穏やかに笑った。俺は資料を受け取り、表紙をめくる。患者の名前を見た瞬間、手が止まった。
原田高。
その4文字が、10年前の記憶を一気に呼び起こした。俺は資料を閉じ、しばらく動けなかった。
「どうかしたかね」
「いえ、少し知っている名前だったもので」
「おお、知り合いか」
「昔、大学病院で世話になった方のご家族です」
高瀬はそれ以上は聞かなかった。
10年前、俺は都内のある大学病院に勤める32歳の医師だった。朝から晩まで白衣のまま走り回り、患者一人に何時間でも向き合った。患者からの評判は良く、看護師たちもよく俺を頼ってくれた。院長の原田太からも、何かにつけて声をかけてもらっていた。
「太田、君は将来この病院を背負う医者になるぞ」
院長は廊下ですれ違うたびにそう言った。次期院長候補だと噂されることもあった。俺自身は出世など望んでいなかった。ただ目の前の患者をきちんと見たかっただけだ。
しかし、その状況を面白く思わない人間がいた。院長の息子、原田高だった。俺より3つ年上で、同じ内科にいた。幼い頃から病院を継ぐことを期待され、本人もそのつもりで医者になった人だ。それなのに「太田の方が腕がいい」「太田の方が患者に好かれている」と影口を叩かれる。彼にとっては耐えがたい屈辱だったのだろう。
最初は些細な嫌がらせだった。カルテの記載を勝手に書き換えられたり、当直の予定が一方的に変更されたり。俺は気づかないふりをした。正面からぶつかっても得るものは何もないと思っていた。
しかし、高の嫉妬はやがて暴走する。ある患者の急変を巡り、医療ミスがあったとされた。俺は処置の手順を間違えていない。カルテにも看護記録にも、それは残っていたはずだった。しかし気づいた時には、書類はすり替えられていた。
調査委員会の場で、俺は弁明の機会さえ十分に与えられなかった。院長は病で倒れ、判断の場にいなかった。責任を問われた俺は、辞表を書いた。真実を知る者はほとんどいなかった。
病院を出る日、俺は誰にも見送られなかった。それから1年、どこの病院にも就職できなかった。
声をかけてくれたのが高瀬だった。学生時代に世話になった先輩で、地方で在宅クリニックを開いていた。
「太田、こっちに来い。仕事ならいくらでもあるぞ」
その一言で俺はこの町に来た。以来10年、一度も都内に戻っていない。
翌週の午後、俺は原田家の前に車を止めた。住宅街の奥にある、落ち着いた佇まいの一軒家だった。インターホンを押すと、若い女性の声が返ってきた。
「太田先生ですね。お待ちしておりました。娘の彩佳と申します」
「初めまして。今日からお父様の主治医を担当します」
彩佳は丁寧に頭を下げ、俺を奥の和室へ案内した。廊下の途中で、40代半ばとおぼしき女性がエプロン姿で出てきた。
「太田先生、本日はわざわざありがとうございます。妻の美佐です」
俺はその顔を見て、曖昧に微笑み返した。どこかで会ったような気もしたが、思い出せなかった。
襖を開けると、布団に横たわる男の姿があった。俺は思わず息を飲んだ。そこにいたのは、かつての原田高ではなかった。頬はこけ、髪には白いものが混じり、首筋には点滴の跡が残っていた。昔の彼は背筋を伸ばして堂々と廊下を歩き、その存在だけで空気が張り詰めるような男だった。それが今は布団の上で、目をうっすらと開け、ゆっくり俺の方を見ている。
「太田、お久しぶりです。原田先生。今日からこちらに伺うことになりました。よろしくお願いします」
俺は鞄を置き、高の枕元に座った。高の視線がしばらく俺の顔を捉えて離れなかった。何か言いたげに口を動かしたが、結局言葉にはならなかった。
美佐と彩佳が心配そうに俺たちを見比べている。俺は表情を変えず、ゆっくりと聴診器を取り出した。
「では、お体を見させてください。少し胸を開きますね」
心を落ち着け、いつも通りに診察を始める。胸の音は弱く、呼吸は浅かった。病状は資料以上に進行している。過去の恨みを言葉にすることは、今ここでは何の意味も持たない。俺は一人の医師として、ただ目の前の患者の体に向き合った。
診察を終え、俺は廊下に出た。美佐が深々と頭を下げる。
「先生、夫、どうかよろしくお願いいたします」
「できる限りのことはさせていただきます。ご家族の不安も、いつでも聞かせてください」
その言葉に美佐はもう一度頭を下げた。彩佳も頭を下げていた。
玄関を出ると、夕方の風が冷たかった。俺は車のドアに手をかけ、振り返って原田家を見上げた。10年という歳月が、あの男から何を奪い、何を残したのか。そしてこれから俺は、何のためにこの家に通うのか。答えはまだ出ていなかった。
原田家への往診は週に2度になった。火曜日と金曜日、午後2時。彩佳はいつも玄関で俺を迎える。看護学校で学んでいるという彼女は、診察の時も俺の隣に座り、父親の様子を真剣に見ていた。
「先生、昨日の夜、父の咳がいつもより長くて。お薬の量、変えた方がいいでしょうか?」
「咳の出方を教えてもらえますか?乾いた咳か、痰が絡む咳か。それで対応が変わってきます」
彩佳はメモを取りながら丁寧に答える。質問の仕方も観察の視点も、看護学生としてはよく勉強している方だった。
美佐はいつも台所からお茶を運んでくる。そのお茶を飲みながら、俺は高の血圧や酸素飽和度を記録する。高は最初の頃、ほとんど口を開かなかった。俺の顔を見ては目をそらし、診察が終わると壁の方を向いてしまう。
無理もないと俺は思っていた。かつて自分が追放した相手に、毎週体を見られているのだ。俺は何も言わなかった。過去のことを切り出すつもりは、最初からなかった。
ある日、高がぽつりと口を開いた。
「太田、お前、よくここに来てくれてるな」
「仕事ですから。それに、患者さんを途中で投げ出すのは医者として一番してはいけないことだと思っています」
高は何か言いかけて、また黙った。布団の上で、痩せた手をゆっくり握り直していた。
その日の帰り際、彩佳が俺を玄関まで送ってくれた。
「先生、父が先生のことを少しずつ話すようになりました。昔、同じ病院にいたって」
「ええ、10年ほど前に少しだけご一緒したことがあります」
「父は仕事の話を家ではほとんどしない人だったんです。私が物心ついた頃から、家にいる時間も短くて」
彩佳は静かに言った。
「でも、病気になってから変わったんです。私や母と過ごす時間を大事にしてくれるようになって」
俺は黙って彩佳の話を聞いていた。
「お父様はいいご家族をお持ちですね」
「はい、私もそう思います」
帰りの車のハンドルを握りながら、俺は自分の中の何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。10年間、心の奥に固く張り付いていた怒り。それは消えたわけではない。ただ、少しずつ形を変えていた。
3月の初めだった。その日の診察を終え、俺が玄関で靴を履いていると、美佐が後ろから声をかけてきた。
「先生、少しだけお時間よろしいでしょうか?」
普段は控えめな彼女の声が、いつもより硬かった。俺はもう一度、居間に通された。
「先生は覚えていらっしゃらないと思うんです。私のこと」
「どこかでお目にかかりましたか?」
「18年前です。先生がまだ研修医をされていた頃のことです」
俺は記憶をたどった。18年前といえば、俺は24歳。内科を回り始めたばかりで、毎日のように当直に入っていた頃だ。
「覚えていますか?救急に搬送された女性がいたことを。睡眠薬を大量に飲んで運ばれて」
俺の手が止まった。
「私です」
その一言が静かな居間に落ちた。
「家のことで色々ありまして。生きていることがもう苦しくて。死ねなかった自分が惨めで仕方なかったんです」
美佐は静かに続けた。
「胃を洗って処置をされて。先生方も看護師さんも皆さんお忙しくて、誰も私の顔をまともに見てくれませんでした。当然です。私は自分で命を粗末にした人間でしたから」
俺は黙って聞いていた。
「でも、夜中になって。一人だけ若い先生が、私のベッドの脇に椅子を持ってきて座ってくださったんです」
俺の頭の片隅に、ぼんやりとした記憶が浮かんだ。処置の終わった女性の患者。病室の暗がり。泣くこともできずに、ただ天井を見ていた目。
「その先生は、私の話を何時間も聞いてくださいました。眠そうな顔をしながら。それでも一度も時計を見ませんでした」
俺はその夜、誰かの話を聞いた。名前も顔もはっきりとは覚えていない。ただ、朝まで病室にいた記憶だけが、うっすらと残っていた。
「先生は最後にこうおっしゃいました。『あなたが生きていてくれてよかったです』」
俺は何も言えなかった。
「私、その言葉だけを支えに家に帰りました。そして、生きてみようと思ったんです」
居間の柱時計が、こつんと音を立てた。美佐は話を続けた。
「それから少しずつ立ち直っていきました。アルバイトをしてお金を貯めて、看護学校に入りました。26歳の時でした」
俺は驚いた。彼女がそこから看護師を目指したという事実が、重く響いた。
「看護師になって、最初に配属された病院で夫と出会ったんです。当時の夫はまだ大学病院の若い医師で、研究で出張していました」
高と美佐の馴れ初めがそういう経緯だったとは知らなかった。
「結婚して彩佳が生まれて。普通の家庭を持てたんです。私みたいな人間が、人の母親になれたんです」
美佐の目から涙がこぼれた。
「先生。あの夜、先生が私の手を握ってくださらなかったら、私は今ここにいません。彩佳も生まれていません」
俺は深く息を吐いた。
「正直に申し上げると、私はあの夜のことをはっきりとは覚えていません。本当に申し訳ないんですが」
「いえ、いいんです」
医師として過ごしてきた20年近くの中で、俺は何百何千という患者の顔を見てきた。そのうちのどれだけを覚えているだろうか。覚えていなかった一人の夜が、誰かの人生を変え、家族を生んでいたという事実。それは俺の中の何かを揺さぶった。
「主人がしたことは、私も後から聞いて知りました。本当に申し訳ないと思っています」
「奥さんが頭を下げる必要はありません」
「いいえ、私が頭を下げないといけないんです。先生に命を救っていただいた人間ですから」
美佐は深く頭を下げた。畳に手をついて、長い間頭を上げなかった。俺は何も言えずにいた。ふと、襖の向こうでわずかに人の気配が動いた。彩佳が立っていたのか。あるいは高が布団の中でこの話を聞いていたのか。俺は確かめなかった。
帰りの車の中で、俺はしばらくエンジンをかけられなかった。ハンドルに額を付け、目を閉じた。
ここからは、彩佳が後に俺に話してくれたことだ。
美佐が俺に過去を打ち明けたその夜。美佐は高の枕元に座り、静かに口を開いたという。
「あなた。今日、太田先生に全部お話ししました」
布団の中の高は、目だけを動かして妻の顔を見た。
「18年前、私を救ってくださったお医者様の話。覚えていますか?前に一度だけ、あなたに話したことがありました」
それは結婚を決める前に、美佐が一度だけ打ち明けた話だったらしい。
「あの夜の先生が、太田先生でした」
美佐は襖の向こうで息を殺して座っていた。高はしばらく何も言わなかった。天井を見つめたまま、痩せた手が布団の上でゆっくりと震えていたという。
「そうか。そうだったのか」
その一言を絞り出すのに、長い時間がかかった。
「あなたが昔、病院で何があったのか。私、全部は知らないけど、少しは気づいていました。あなたが家で太田先生の名前を一度も口にしなかったから」
高は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って枕に落ちたという。
「俺は、取り返しのつかないことをしてきたんだな」
「あなた」
「美佐。お前と彩佳を俺に与えてくれた人を、俺はこの手で追い出したんだ」
彩佳は襖の影で口を両手で抑えた。父がそんな声を出すのを、生まれて初めて聞いたという。
それから3日後の金曜日。俺がいつも通り原田家を訪ねると、玄関に出てきた彩佳の表情がいつもと違っていた。
「先生。今日は、父が診察の後にお話したいことがあるそうです」
「わかりました」
「あの、私も同席させていただきたいと父が申しております」
俺は何も聞かずに頷いた。何が始まるのか、薄々分かっていた。
その日の診察はいつもより短かった。高の体はまた一段と痩せていた。聴診器越しに聞こえてくる呼吸音は、確実に弱くなっていた。高は布団の中で背を起こそうとした。
「無理をなさらないでください。横になったままで構いません」
「いや、これだけはちゃんと座って話したい」
美佐と彩佳が両側から高の背中を支えた。痩せた体が座布団の上にゆっくりと収まる。俺は座り直し、高と向き合った。
「太田。10年前のことだ」
その声は細かったが、まっすぐだった。
「あの医療ミスは、お前のせいじゃない。書類をすり替えたのは、俺だ」
美佐と彩佳が息を飲んだのが、視界の端で分かった。
「カルテも看護記録も、俺の指示で書き換えさせた。父が倒れて調査委員会が混乱している、その隙に。全部、俺が仕組んだことだ」
俺は黙って聞いていた。
「お前の腕も人柄も、本当はずっと前から認めていた。父が太田を後継にしたいと言い出すんじゃないかと怖かった。怖くて、たまらなかった」
高は一度咳き込んだ。彩佳が背中をさすった。
「俺は嫉妬に負けた。医者として、人として、一番やってはいけないことをやった。お前の10年を奪った」
高は深く頭を下げた。
「すまなかった。本当に、すまなかった」
その肩が震えていた。
「俺は、家族を与えてくれた人を傷つけてしまった。命を救ってくれたのがお前だったなんて、知らなかった。彩佳が今この世にいるのも、お前のおかげだったんだな」
彩佳は父の背中に手を添えたまま、涙を流していた。美佐は両手で顔を覆っていた。
10年間、心の奥に置き続けた怒り。誰にも言えなかった悔しさ。その全てが、今、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「原田先生。顔を上げてください」
高はなかなか顔を上げなかった。俺はもう一度、静かに繰り返した。
「顔を上げてください。そのままだとお体に触ります」
高がようやく顔を上げた。涙で濡れた目が、俺をまっすぐに見ていた。
「正直に申し上げます。この10年間、私はあなたを恨んでいました。一度も忘れたことはありませんでした」
高の目がわずかに揺れた。
「ですが、この家に通ううちに。奥様と娘さんと、そしてあなたと向き合ううちに、私は気づいたんです。医者の仕事というのは、目の前の患者を見ることだけじゃない。その人の人生に関わることなんだと」
俺は一度息を整えた。
「奥様の話を伺った時、私は震えました。覚えてもいなかった一晩が、こうして家族につながっていたことが。医者として、何よりも嬉しかったんです。だから、もういいんです」
高は唇を噛んだ。
「私のことよりも、これからの時間をご家族と過ごしてください。それが私への一番のお返しになります」
美佐が声を上げて泣いた。俺はゆっくりと頭を下げた。
それから1ヶ月後。その日、俺は朝から原田家にいた。高瀬院長も駆けつけてくれていた。高は布団の中で、美佐と彩佳に手を握られていた。俺が枕元に座ると、高はうっすらと目を上げた。
「太田。一つだけ、頼みがある」
「はい。聞かせてください」
「親父が守ろうとした地域の医療を、お前に続けてほしい。俺にはできなかった。お前ならできる」
俺は高の手をそっと握り返した。
「お引き受けします。約束します」
高は安心したように、かすかに笑った。美佐が夫の額を撫でた。彩佳が父の手に頬を寄せた。
それから1時間ほどして、高は息を引き取った。窓の外で、最後の桜の花びらがひらりひらりと落ちていた。
葬儀の後、彩佳が俺の元を訪ねてきた。看護学校の制服姿だった。
「先生。私、看護師の勉強を続けて、それから医学部を受け直そうと思います」
「医者になるのですか?」
「はい。父と母と、先生を見ていて決めました。私も、人の人生に寄り添える医者になりたいんです」
俺は目の前の真っすぐな瞳を見つめた。
「大変な道です。それでも進むなら、私にできることがあれば何でも力になります」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
彩佳は深く頭を下げて帰っていった。
数ヶ月後のある午後。俺はいつも通り軽自動車のハンドルを握っていた。助手席には往診カバン。カーラジオからは今日も古い演歌が流れている。田んぼの一本道に、夏の風が吹き抜けていた。
人を救うということ。それは、その人の命を救うことだけではない。この先に続く人生、家族、生まれてくる子供。そのまた次の世代。巡り巡って、誰かの未来を支えることだ。
俺はアクセルを少し踏み込んだ。次の患者の家まで、あと15分。フロントガラスの向こうに、夏空が広がっていた。



