香り、42歳の主婦。今日は夫・たけしの弟、かずやの結婚式だった。親族席で祝福の笑顔を浮かべていると、突然あの男が立ち上がった。
「皆さん、聞いてください。俺も重大発表があります」
たけしの腕には派手なドレスを着た若い女が抱きついてる。私じゃない。
「お前とは近々離婚する。こちらは俺の最愛のパートナー、リナちゃん」
会場が凍りついた。義母が震える声で止めようとしたが、彼は笑い飛ばして離婚届にサインしろと私に迫った。私は静かに見つめ返すだけだった。反論する気すら起きなかった。
「お前は毎日すっぴんで家事しか脳がない。40過ぎて女を捨てたようなお前には、俺みたいな男はもったいないんだよ。慰謝料なんて払わないからな」
侮辱の言葉が響く中、その女も笑っていた。「おばさん、かわいそうに。愛されないのにしがみつくのは見苦しいですよ」
誰もが息を飲む中、新狼のかずやが静かに立ち上がった。マイクを手に、冷たい視線を女に向ける。
「兄さん、その女性、うちの会社から1000万円を横領して、昨日警察に被害届が出された元派遣アシスタントの木下さんですよね」
女の顔から血の気が引いた。彼女は「人違いだ」と悲鳴を上げ、入場料の飾りを蹴飛ばして逃げ出した。
「おい、待て」とスタッフが止めようとしたが、彼女は突き飛ばして扉の向こうへ消えた。
取り残されたたけしは口を半開きにしたまま茫然と立ち尽くしていた。
「お前が連れてきた女は泥棒じゃないか。かやの結婚式をぶち壊した上に警察沙汰だと恥を知れ」と義父が怒鳴った。
「ち、違う。俺は騙されたんだ。リナは親の借金で苦労してるって」
かずやがため息をつく。「彼女の親は資産家です。横領した金はすべてホストクラブに注ぎ込んでいた。兄さんもいいカモにされてたんじゃないですか」
会場中の視線が哀れみと軽蔑に変わる中、私は静かに席を立ち、たけしに歩み寄った。彼はすがるような目で私を見た。
「香り、助けてくれ。俺は騙されてたんだ」
「騙されてたなら、不倫をしていい理由になるの? あなたは今しがた自分で言ったでしょう。私とは離婚してあの女と再婚するって。慰謝料も払わず私を追い出すとも言ったわ」
追い詰められた彼は言った。「うるさい。お前が地味で女として魅力がないから、俺はあんな女に引っかかったんだ。全部お前のせいだ」
私は心の中で冷たく笑った。もっと吠えなさい。その言葉が後でどうなるか、あなたは知らないのだから。
その時、会場の扉が開き、初老の男性が現れた。銀色の髪を撫でつけ、仕立てのいいスーツを着たその男を見た瞬間、たけしの顔が青ざめた。
「大、大文字社長? どうしてここに」
それはたけしの勤める商社の社長だった。「前の予定が押して少し遅れてみれば、なんだこの騒ぎは。外にまで君の声が聞こえていたぞ。妻を追い出して新しい女と。しかもその女はかや君の会社から大金を横領して逃げ出した泥棒じゃないか」
「社長、誤解です。俺は騙されていただけで、決してそんなつもりは…」
「君の家庭の事情に会社が口を挟むつもりはない。だが、うちの管理職が弟の結婚式をぶち壊し、犯罪者を連れ込んだとなれば話は別だ。明日の朝一番に私の社長室へ来なさい。君の処遇についてじっくり話そう」
たけしは膝から崩れそうになり、必死にテーブルにすがりついた。
「お前のせいだ。お前がサインしないからこうなったんだ。社長の前で土下座して、全部私が悪いって説明しろ」
彼は私を指差して「こいつは結婚してから10年間、1円も稼いだことがない。完全に俺に寄生しているだけの無能な女だ」と吠えた。
私は言葉を返さなかった。ただ静かに彼の堕落を見届けていた。
「おい、聞いてるのか。いつもみたいにおどおどして謝れよ」
怒りに任せて拳を振り上げた彼に、親族から悲鳴が上がった。その時だ。
「小岸さんに指一本でも触れたら、私が絶対に許しません」
新父のさおさんが私の前に立ちはだかった。純白のウェディングドレス姿で。
「さ、さおりさん、なんだお前」
「あなたは何も分かっていません。香りお義姉さんが何の取り柄もない専業主婦ですって? 笑わせないでください。この人が本当はどんな方なのか、あなたは何もご存じないのですね」
たけしは笑い飛ばした。「なんだよそれ。弟の嫁にもなって、こんな何の取り柄もないおばさんをかばうなんて」
かずやが「さおりは本当のことを…」と言いかけると、たけしは恥ずかしそうに耳を塞ぎ「こいつが何かすごい人間だなんて笑わせんな」と遮った。
「皆さん、聞いてくださいよ。こいつはね、結婚してからこの10年間、1円も稼いだことがない。朝から晩までよれよれの服を着て、パソコンを睨んでるだけ。俺が稼いだ金でネットショッピングでもしてるんでしょう」
私は心の中で笑った。ええ、確かにパソコンには向かってるわ。あなたが想像もできないような途方もない金額を動かしながら。
「大文字社長、あなたなら分かってくれるでしょう? こんな無能な女を養うために俺がどれだけ努力してきたか。俺が愛人を作ったのも、家に帰っても魅力ゼロの女しかいないからだ。つまり、俺が不倫をした原因は全部こいつなんですよ」
思い上がった彼は、スーツのポケットから書類を取り出した。「これを見ろ。お前がサインしないなら、かずやの結婚式をぶち壊してもいいんだぞ」
「離婚協議書及び損害賠償、慰謝料請求書」と書かれた紙には、私が10年間の生活費3000万円と精神的苦痛の慰謝料2000万円を支払えという内容と、財産放棄の条件が並んでいた。
「この書類にサインしないなら、入院してるお前の母さんに、お前が俺の金を盗んで浮気してるって電話してやるからな。昨日、もう電話しておいたんだ。本当に情けない親だよな」
その瞬間、私の頭の中で何かが切れた。母を脅迫した。私が唯一守ってきた大切な人を。私は初めて感情を込めて、氷のような声で言い放った。「そう。母を巻き込んだのね。私の稼ぎがないと言ったわね。私を、寄生してるだと、社会の底辺だと侮辱したわね」
スマホを取り出し、通話を開始した。「神崎さん、実行してください。大文字商事に対する全ての計画を」
電話の向こうから「承知しました。ただ今を以て、当方が保有する大文字商事の全株式を売却し、新規プロジェクトへの融資を引き上げます」と響いた。
大文字社長が立ち上がった。「神崎代表? なぜあなたが… かおり様、まさかあなたが、我が社の筆頭株主であり、3年前の経営危機の際に匿名で出資してくださった投資家なのですか?」
会場が揺れた。投資家階、それは経済界で知らない者はいない伝説的な個人投資家の呼び名だった。
大文字社長の電話が鳴り「株価が暴落している。神崎ファンドが全ての持ち株を市場に放出した」と響く。
私はたけしに向かって言い放った。「あなたがバカにしていた私のパソコン作業。あれは世界中の市場を相手にしたデイトレードよ。あなたが自慢していたタワーマンションも、あなたの給料だけでは審査が通らないでしょう。私が裏で頭金を払ったのよ。あなたの高級スーツも時計も、私の家族カードで買ったもの」
「あなたを課長に昇進させたのも、私が大文字社長に口を利いたからよ。あなたは自分の実力だと思って調子に乗っていたみたいだけど」
たけしの顔から表情が消えた。大文字社長は彼の襟を掴み、土下座して私に詫びた。「どうか、この愚か者の不始末をお許しください」
殴られたたけしは「社長、何を言ってるんですか。この女は俺に寄生してるだけの無能な女ですよ」と叫んだ。
「黙れ、この大バカ者。貴様のおかげで我が社は月曜日には倒産かもしれないんだぞ。今すぐ香り様に詫びろ」
その時、警察官が会場に入ってきた。「たけしさんですか。木下容疑者を業務上横領の疑いで確保しました。彼女はこう供述しています『横領の計画を立てて指示したのは、交際相手であるあなた』だと」
「俺は騙されていた被害者だ」とたけしが言いかけると、警察官は「嘘をつくのはやめましょう。あなたの送ったメッセージが証拠に残っています」と突きつけた。
「会社の金を適当にごまかして引き出せ。金さえあれば今の嫁を捨ててお前と結婚してやる——見覚えがありますね」
たけしは私にすがった。「香り、助けてくれ。お前、金を持ってるんだろう。俺たち夫婦じゃないか」
私は冷たく笑った。「夫婦? いいえ、私たちはもう赤の他人よ。あなたが自分で用意したあの離婚協議書、私がサインすれば成立するのよ。私に何の財産も認めない代わりに、あなたの借金も私は負担しない。あなたが私を追い出すために用意した書類が、今は私を守る盾になってるのね」
宣誓書にサインをして彼に見せた。「これで終わりよ。さようなら、たけしさん。残りの人生は、冷たい鉄格子の向こうで自分の愚かさを噛みしめて生きてなさい」
警察に連行されていく彼の絶叫が遠ざかっていった。
私は深呼吸した。ここからは私の番だ。司会者のマイクを手に取り、会場の中央へ歩み出た。
「皆様、本日は私の元夫がとんでもないご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。ですが、このまま悲しい顔でお二人を送り出すわけにはいきません。実はこのホテルの最上階のスカイバンケットを貸し切っております。予定を変更して、皆様、二度目の祝福をしませんか? 費用は私が全て持ちます」
かずやとさおさんの顔に、涙と笑顔が戻ってきた。
数週間後、警察署の取調室で、たけしは私に電話をかけてきた。「香り、助けてくれ。弁護士を頼んで、金を出してくれ。俺はお前を愛してるんだ」
私は静かに言った。「たけしさん、あなたはまだ状況を理解していないようね。私があなたを見限ったのは、あの女を連れてきたからじゃないの。もっと前から準備してたのよ」
「あなたが会社の金を横領しようと計画していたこと。その証拠を大文字社長と警察に匿名でリークしたのは、他でもないこの私よ」
彼の声が震えた。「お前が警察に…」
「ええ、そうよ。あなたは私が無能だとバカにしてたけど、私はプロの投資家よ。あなたが作ってた裏帳簿なんて、子供の落書きレベルだったわ」
「お前、夫のプライバシーを覗き見たのか。犯罪だぞ」
その時、刑事が電話口で言った。「お前さん、よく聞け。奥様が提出した内部告発の資料は、完璧なものだった。全て公開された情報と、会社の正規の監査システムを通したデータだけで構成されてた。お前の幼稚な横領手口を見抜き、合法的に追い詰めたのは奥様だ。愛人にいい顔をしたいがために会社の金を盗み、挙げ句に彼女に罪を被せられようとしている。どちらが無能か、火を見るより明らかだろう」
私は最後の真実を突きつけた。「たけしさん、あなたがリナという女に貢ぐために借金をした金融業者。その親会社がどこだと思ってる? 今この瞬間から、あなたの借金は全て、この私が所有する債権回収会社に移管されたのよ。あなたが借りた相手こそが、あなたが最も見下していた私自身だったのよ」
彼は絶望の悲鳴を上げた。
かずやから後日聞いた話だ。リナの本名は黒崎リナ。彼女の父親は、かつて私の父の会社を倒産に追い込み、無理心中させた男だった。彼らは私が投資家として成功していることを掴み、たけしに近づいてきた。彼を骨抜きにして私を孤立させ、資産を奪う計画だった。
たけしは最初から最後まで、彼らの都合のいいカスだったのよ。
彼は横領と共犯の罪で実刑判決を受けた。会社を首になり、親族からも縁を切られ、私が所有する債権回収会社から、一生かかっても返せない賠償金を請求されている。黒崎親子も組織的詐欺や不正融資の罪で完全に崩壊した。
かつて父から全てを奪った男は、最後には自分が育てた欲に飲み込まれて消えていった。
最高の復讐とは、相手を打ち負かすことではない。相手がどこまで手を伸ばしても届かないほど、自分自身が誰よりも幸せになることだ。
かつて何の取り柄もない主婦だと笑われた私は、今、誰よりも自由で、誰よりも満たされている。私の本当の人生は、あの日あの結婚式で、かつての自分を脱ぎ捨てた瞬間から始まったのだ。



