息子の結婚式のスピーチで、「俺に母親はいない」と聞こえた瞬間、私は凍りつきました。100人以上の参列者がいる華やかな会場の、一番末席で。デパートの制服を脱ぎ、精一杯のフォーマルドレスを選びました。35年間、毎月コツコツと貯めたお金で買った、少し古いけれど品のあるドレス。それが私の晴れ着でした。
夫が亡くなったのは、ともきが3歳の時。それから私は、母であり父であり続けました。朝は早起きしてお弁当を作り、保育園に送り、デパートで立ちっぱなしの接客。夜は内職の手作業。週末も公園に連れて行き、手作りのおもちゃで遊びました。服はデパートの処分品。外食は年に数回もありませんでした。でも、ともきの笑顔が見たくて、それがすべての力になりました。
中学生になれば塾代、大学では学費。いつも足りないお金を何とか工面して、私は決して不自由をさせませんでした。「母さん、ありがとう」と言ってくれる息子が、私の誇りでした。
就職して、ともきが「仕事をやめたら」と言ってくれた時は本当に嬉しかった。けれど、まだ働けるから大丈夫と断りました。その頃から、少しずつ息子との距離を感じ始めていたのは、気のせいだと思いたかった。
「母さん、紹介したい人がいるんだ」
そう言って、みきという女性を家に連れてきました。初対面でしたが、私を見る彼女の目に感じた違和感は、すぐに現実のものとなりました。
「母さん、俺たち結婚したら一緒に住まないか? 母さんが心配だし、みきも賛成してくれてるんだ」
一緒に暮らせる。孫の顔も見られる。嬉しくて、つい涙が出ました。しかし、隣にいたみきさんの顔には、笑顔がありませんでした。あの時、気づくべきだったのです。
結婚の3ヶ月前、新しいマンションでの同居が始まりました。「こちらが岡さんのお部屋です」と、みきは私を「お母さん」とは呼びませんでした。それから、日常の小さな違和感が積み重なりました。私がソファに座れば微妙な顔をされ、置いた物はいつの間にか片付けられ、食卓では私の箸だけが別の場所に置かれる。ともきは何も気づかないか、気づかないふりをしていました。
ある日、夕食にともきの好きなから揚げを作りました。すると、みきが口を挟みました。「あら、とゆきさん、最近はから揚げよりヘルシーな料理が好きなんです。時代遅れの料理ばかりだと健康に悪いですから」。息子は何も言い返しません。
掃除をしていれば、「やり方が違うんです。私たちと」と言われます。「ここは私たちの家ですから」。私たちの家。一緒に住んでいるのに、私は含まれていない。
ある夜、寝室から聞こえてきた声に、全ての現実が決定的になりました。
「ねえ、お母さん、いつまでいるの?」
「みき、そんな言い方…」
「だって窮屈なのよ。デパートの販売員なんて、大した収入もないでしょ。私たちの負担になってるだけじゃない」
全て聞こえていました。でも、ともきは何も言い返してくれませんでした。
結婚式の2週間前、みきの両親が訪ねてきた時もそうでした。私が挨拶しようとすると、みきが遮ります。「あ、お母さんは用事がありましたよね。今日は私の両親との大事な打ち合わせですから」。息子は「母さん、ごめん、ちょっと席を外してくれる?」とだけ言いました。
後日、みきとその母親の会話を聞いてしまいました。「どんな方なの?」「デパートの販売員を長年やってる方よ。経済的には私たちの負担にしかならない、お荷物って感じね。とゆきさんが優しいから、仕方なく同居してるの」「大変ね。でも、初詮収入の少ない人なんだから、あまり気を使わなくていいのよ」
私は、これまでの人生を否定された気がしました。身を粉にして働いてきたのに、「収入の少ない人」としか見られていない。怒りで体が震えました。
結婚式の1週間前、ともきが言いました。「母さん、結婚式の席なんだけど、真石でいい? みきの親戚が多くて席が足りないんだ。母さんなら分かってくれるよね」
私は、来たくない客のように扱われるのだと、理解しました。
そして、式当日。私は、末席で一人、黙って座っていました。隣の席の親戚が彼らの家族の話で盛り上がる中、私はフレームの外。新郎側の紹介はなく、もちろん私の名前も呼ばれませんでした。ケーキカットでは、ともきはみきの母にケーキを食べさせ、みんなが「ご家族写真です」と笑顔で写真に収まる。私は存在しないかのようでした。
ともきが末席の私のもとに来て、お車代の入った封筒を渡しました。「遠くから来てくれたから」と。同じマンションに住んでいるのに、私は招待客なんだ。そう思うと、涙も出ませんでした。
ふと気づくと、私は会場を出て廊下に立っていました。中からは笑い声と拍手が聞こえます。35年間、誰よりもこの子を愛して、全てを捧げてきた。なのに、私は母親ではない。そう宣告された。私の存在は、何だったのでしょうか。
その時、私は決めました。私は静かに涙を拭い、会場を後にしました。タクシーに乗り込み、二度と振り返らないと決めました。
翌日、私は行動を開始しました。まず携帯電話ショップで新しい番号を契約し、息子たちの連絡先を全て削除。そして、銀行へ向かいました。
「23年前から積み立ててきた株式投資を、全て売却したいのです」
銀行員は驚いていました。評価額は、なんと8250万円。23年もの間、月1万円から始めた投資。食費を削り、美容院を諦め、古い服を着続けてコツコツと積み上げたお金。それは、いつか私が倒れた時、息子の足しにしようと考えていた資産でした。しかし、もう、その意味はなくなりました。私は、その全額を新しい口座に移しました。
「相続の際は、この口座が相続放棄になる手続きをお願いしたいのです」
私は弁護士事務所を訪れ、遺言書の作成を依頼しました。全財産を慈善団体に寄付し、息子への相続を完全に拒否する内容です。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「息子が結婚式で、私を『母親ではない』と公言しました。100人以上の前で」
弁護士は了承し、法的に完璧な手続きを整えてくれました。
その後、マンションの部屋に戻り、荷物を整理しました。35年分の写真アルバム、息子の成績表、私への手紙、思い出の品。全てをダンボールに詰め、ゴミ捨て場に置きました。「さようなら」と、小さくつぶやきました。
机上には、鍵と手紙を残しました。
「とゆきへ。結婚おめでとう。あなたの望み通り、母親は消えます。これからは、みきさんのご両親を大切にしてください。さようなら。おかやさちよ」
そして、スーツケース一つを手に、私は新たな人生へと踏み出しました。
高級老人ホームの見学をし、都心の高級マンションを契約。月30万円の家賃は、今の私にとっては自由の代償でしかありません。窓から見える東京タワーを眺めながら、私は、ようやく自分の人生を生き始めました。
その後、デパートの元同僚から、息子が捜していると連絡がきました。銀行からも、口座について問い合わせがあったと報告されました。2週間後、元同僚が私の新しい電話番号を教えてしまったと、泣きながら謝ってきました。
電話が鳴りました。深呼吸をして、出ました。
「…母さん? 俺だ、とゆきだ」
「どちら様ですか?」
「母さん、ごめん…」
「謝罪は結構です。要件は何ですか?」
「会いたい。話がしたいんだ」
「お話しすることは、何もありません」
「母さん、お願いだ…」
「とゆきさん、あなたは結婚式で、『俺に母親はいない』と100人以上の前で言いましたよね。ならば、今更『母』を求めないでください。矛盾していますよ。それに、私は『お荷物』で『初詮収入の少ない人』でしたからね」
「…聞いてたのか?」
「全部聞いていました。あなたの妻と、そのご両親の会話も全部。でも安心してください。その資産は、あなたには関係ありません。母親がいないなら、遺産もない。当然のことです。これからは、みきさんのご両親を大切になさってください。本当の『親』だそうですから」
電話を切りました。心は、静かでした。あの日の言葉で、確かに何かが壊れた。でも、そのおかげで、私は自由を手に入れたのです。
それから3ヶ月。私は朝、目覚まし時計も、誰かの気遣いもなしに目覚めます。豆から淹れたコーヒーを飲み、高級スーパーで値段を気にせず買い物をし、月に一度の美容院に通い、ヨガ教室や英会話、油絵と、我慢してきたことを全部、取り戻しています。
デパート時代の同僚とのランチでは、「本当に変わったわね、輝いてる」と言われました。私は「そう?」と微笑むだけです。かつて、家族同然だった人々との関係は、既に過去のもの。今は、ボランティアで新しい友人ができ、穏やかな日々を過ごしています。
あの結婚式の日、息子は「俺に母親はいない」と言いました。その瞬間から、私は「岡さちよ」としての人生を、自由に生き始めたのです。息子からの着信は50件を超え、留守番電話も何度も入っていましたが、私は見もせず、聞きもせず、消去しました。弁護士からは、息子が「相続放棄の撤回」を求めてきたと連絡がありましたが、当然、断ったと伝えました。
窓の外には、夕日に照らされた東京タワー。私は静かに微笑みました。失ったものは二度と戻らない。でも、後悔はありません。むしろ、感謝しています。あの結婚式がなければ、私は永遠に、誰かのためにだけ生きていたでしょう。
今、私は本当に自由です。明日は油絵教室。来週は友人との温泉旅行。来月は英会話のレベルアップコース。やりたいことが、数えきれないほどあります。
母親がいないと言われたその日、私は自分自身を取り戻しました。完全な因果応報だという彼らの言葉は、もう、私の耳には入りません。私は、静かにベッドに入り、この幸せな人生に、深く安堵のため息をつきました。



