私は61歳。39年間、夫を支え続けてきた。浮気3回も許し、借金2000万円も肩代わりした。そんな私に夫が言った。「お前なんかよりずっといい女と、明日再婚する。家柄も性格も金も最高の女性だ」そして離婚届を叩きつけた。でも、私は涙を拭う代わりに、腹を抱えて笑った。夫は言った。「何がおかしい!」私は笑いながら、こう言った。「本当に、本当に最高よ。健二さん」夫は、私がその「最高の女性」の正体を知って…

私は61歳。39年間、夫を支え続けてきた。浮気3回も許し、借金2000万円も肩代わりした。そんな私に夫が言った。「お前なんかよりずっといい女と、明日再婚する。家柄も性格も金も最高の女性だ」そして離婚届を叩きつけた。でも、私は涙を拭う代わりに、腹を抱えて笑った。夫は言った。「何がおかしい!」私は笑いながら、こう言った。「本当に、本当に最高よ。健二さん」夫は、私がその「最高の女性」の正体を知って...

「お前なんかよりずっといい女と、明日再婚する」

夕食の準備をしていた私の手が止まった。振り返ると、そこには見たこともない冷たい表情で私を見下ろす夫、健二の姿があった。

私は加藤さと子、61歳。39年間銀行員として働きながら、この男を支え続けてきた。今日もいつものように疲れた顔で帰ってきて、「飯はまだか」と催促するから、急いで支度をしていたところだった。

「何を言っているの?」私の声は震えていた。信じられない。いや、信じたくなかった。

「聞こえなかったのか。離婚だよ。離婚。もう決めたんだ」

健二は書類を机に叩きつけるように置いた。離婚届。そこにはすでに健二の署名と印鑑が押されていた。

「相手はな、お前とは比べ物にならない女性だ。家柄も最高。性格も最高。その上金も持ってる。お前みたいな平凡な女とは格が違うんだよ」

耳を疑った。39年間、浮気を3度も許し、2000万円の借金を肩代わりしてきた。それでも支え続けてきた私に向かって、この男は今、何を言っているのか。

胸の奥で何かが音を立てて崩れていく感覚があった。しかし、なぜだろう。その瞬間、私の頭の片隅にある考えが浮かんでいた。

健二は勝ち誇ったような笑みを浮かべながらソファに深く腰を下ろした。まるで勝利宣言でもするかのように両手を広げて私を見上げた。

「相手の名前は松永玲子。名門・松永家の令嬢だ。都内に複数の不動産を所有していて資産は5億を超える。教養も品格もお前とは天と地の差だよ」

私は黙って聞いていた。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない感情が渦巻いていた。

「39年間我慢してきたんだ。お前の貧乏臭い実家。センスのない服装。つまらない会話。銀行員だからって偉そうにしてるけど、所詮は庶民じゃないか」

健二の言葉は鋭い刃物のように私の心を切り裂いていく。

「玲子さんはな、フランス留学の経験もある。ワインの知識も豊富で芸術の話もできる。お前みたいにスーパーの特売品の話ばかりする女とは違うんだ」

私の手が小刻みに震え始めた。毎朝5時に起きて弁当を作り、残業で遅くなっても温かい夕食を用意し、休日も家事に追われながらこの家庭を守ってきた。その全てが今、ゴミのように扱われている。

「明日には籍を入れる。もう全て決まってるんだ。慰謝料?そんなものいらないだろう。39年も一緒にいられたんだから感謝しろよ」

その瞬間、私の中で何かがふつふつと湧き上がってきた。それは怒りでも悲しみでもない。もっと別の何かだった。

私は深く息を吸い込み、健二の顔をじっと見つめた。39年前、お見合いで出会った頃の優しかった夫は、もうどこにもなかった。

思い返せば、結婚してすぐに健二の本性は現れていた。新婚3ヶ月目、私の給料日に「さと子、今月も頼むよ」と手を出してきた。当時、健二は小さな商社に勤めていたが、給料は私の半分以下。生活費のほとんどを私が負担していた。

「覚えてる?健二さん。あなたが会社をやめたいと言い出した時のこと」

私は静かに口を開いた。健二の表情が一瞬、強張った。

結婚5年目、健二は突然独立したいと言い出した。反対する私を押し切って会社を辞め、起業すると息巻いていた。結果は惨憺たるものだった。1年で500万円の赤字。その穴埋めをしたのは、他でもない私だった。

「それから、美咲さんのことも覚えてるわよね」

健二の顔が青ざめた。

結婚10年目。健二の最初の浮気相手、会社の後輩だった美咲さんと半年間も関係を持っていた。発覚した時、健二は土下座をして謝った。「もう2度としない」「小百合がいないと生きていけない」と泣きながら懇願した。

私は許した。子供たちのためだと自分に言い聞かせて。

でも、それは始まりに過ぎなかった。結婚15年目には取引先の受付嬢と、20年目には行きつけのスナックのママと。その度に健二は謝り、私は許した。なぜなら、私は健二を愛していたから。いや、愛していると思い込もうとしていたのかもしれない。

「2000万円の借金のことも忘れたの?」

私の言葉に健二はうつむいた。

結婚15年目、健二が友人の連帯保証人になったことで背負った借金。友人は夜逃げし、全額が健二にのしかかってきた。住宅ローンもまだ残っていた。我が家は破産寸前まで追い込まれた。

その時も私が動いた。銀行員としての信用と人脈を総動員し、低金利での借り替えを実現。さらに私の両親が残してくれた実家を売却し、1000万円を工面した。残りの1000万円は私が10年かけて返済した。毎月の返済額は10万円。私の給料の4分の1が消えていった。

「あの時、私の両親の前でなんて言った?『一生頭が上がらない』『絶対に幸せにする』って言ったわよね」

健二は不機嫌そうに顔を背けた。

「昔のことを持ち出すから嫌なんだよ、お前は」

私は微笑んだ。毎朝5時に起床し、健二と子供たちの弁当を作り、満員電車で1時間かけて銀行へ。1日中、数字と格闘し、クレーム対応に追われ、それでも定時で帰ることはできない。残業を終えて帰宅するのは夜9時過ぎ。そこから夕食の支度、洗濯、掃除。週末も休みなどなかった。健二の実家への顔出し、子供たちの学校行事、町内会の活動。自分の時間などほとんどなかった。

「さと子さん、最近疲れてるみたい」

同僚にそう言われたことが何度あっただろう。でも、私は笑顔で「大丈夫」と答え続けた。家族のために、健二のために。

そんな私に対して、健二は何をしてくれただろうか。結婚記念日を忘れ、誕生日には「忙しくて」の一言。母の日もクリスマスも、私への感謝の言葉ひとつない。それどころか「飯がまずい」「部屋が汚い」「もっと女らしくしろ」と文句ばかり。

「お前、本当に鈍いな。玲子さんはな、俺を理解してくれるんだ。俺の夢を応援してくれる。お前みたいに金のことばかり心配する女じゃない」

健二の言葉を聞きながら、私は静かに微笑んだ。この男は本当に何も分かっていない。

「それで、いつから松永玲子さんとお付き合いを?」

私は離婚届を手に取りながら、さりげなく訪ねた。健二の顔に得意げな表情が浮かんだ。

「3ヶ月前だ。高級ホテルのラウンジで偶然出会ってな。向こうから声をかけてきたんだ。「素敵な方ですね」って」

3ヶ月前。私は手帳を思い出していた。確かその頃、健二は急に見た目を気にするようになった。新しいスーツを買い、高級な腕時計を欲しがり、車も会社に乗り換えたいと言い出した。

「玲子さんはな、俺の内面を見てくれたんだ。「健二さんは本当は大物になれる器を持っている。今の環境が健二さんの才能を埋もれさせている」って」

私は健二の言葉を聞きながら、徐々に込み上げてくるものを感じていた。それは怒りでも悲しみでもない。もっと別の感情だった。

「彼女の実家は代々続く資産家でな、不動産収入だけで年間数千万。それに玲子さん自身も投資で成功していて、個人資産は5億を超えるそうだ」

5億。健二は高揚した表情でその数字を口にした。

「俺たちは来月、ハワイで式を挙げる。もちろん費用は全額玲子さん持ちだ。ファーストクラスで行って、最高級ホテルのスイートルームに泊まる。お前とは1度も行けなかった海外旅行だよ」

その瞬間、私の中で何かが弾けた。

「ぷっ」

最初は小さな笑い声だった。健二が軽蔑そうな顔で私を見つめる。

「あははは」

私は腹を抱えて笑い始めた。涙が出るほど笑った。テーブルを叩きながら、体を折り曲げて笑い続けた。

「おい、どうした?さと子」

健二が慌てて立ち上がった。

「本当に、本当に最高ね。健二さん、あなたって本当に……最高の選択をしたわ」

私は笑いながら涙を拭った。健二の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「何がおかしい。嫉妬で頭がおかしくなったのか。それとも悔しくて泣いているのか?」

「いいえ、違うわ。本当に心の底からおかしいのよ」

私は一呼吸置いて、健二の目をまっすぐ見つめた。

「松永玲子さん、本当にお似合いの相手よ。まさに健二さんにぴったりだわ」

健二は眉を潜めた。

「何が言いたい?」

「言葉通りの意味よ。家柄最高、性格最高、お金持ち。まるで夢のような女性ね。3ヶ月で結婚を決めるなんて、よほど相性が良かったのね」

私はまた笑い始めた。健二の表情が困惑から苛立ちへと変わっていく。

「おい、いい加減にしろ。何がそんなにおかしいんだ」

「ごめんなさい。でも、本当に素晴らしいわ。63歳のあなたにそんな完璧な女性が現れるなんて、まるでシンデレラストーリーみたい」

私は離婚届を見つめながらペンを手に取った。

「健二さん、ひとつ聞いていい?玲子さんとはどんな話をするの?」

「はあ?色々だよ。ビジネスの話とか、投資の話とか」

「へえ。健二さんが投資の話?去年、株で100万円損したって泣いていたのに」

健二の顔が一瞬、強張った。

「あ、あれは運が悪かっただけだ。玲子さんは俺の可能性を信じてくれている」

「そう、よかったわね。ところで、玲子さんの投資先って具体的には何かしら?」

「えっと、まあ色々だよ。不動産とか株とか」

「具体的な銘柄は?」

「そんな細かいことは……」

私はまた笑い出した。39年、行員として働いてきた私には、健二が何も理解していないことが手に取るように分かった。

「さと子、お前は玲子さんに嫉妬しているんだ。認めたくないんだろう。自分より上の女性がいることを」

「きっとね。まさか。私は心から祝福しているの。だって、健二さんみたいな素晴らしい男性を見つけた玲子さんも、本当に見る目があるわ」

私の毒気に気づかない健二は得意げに胸を張った。

「そうだろう。俺もまだまだ捨てたもんじゃない」

「ええ、本当にそう思うわ。63歳、定年退職して年金暮らし、貯金もほぼゼロ。趣味はパチンコ。そんなあなたに5億の資産家がほれるなんて、まさに奇跡ね」

私の言葉に健二が一瞬言葉を失った。でも、すぐに強がりを見せる。

「金じゃない。愛だよ。玲子さんは俺の人間性に惚れたんだ」

「ああ、なるほど。浮気を3回して借金を作って、妻に全部尻拭いさせる人間性に惚れたのね。確かに、なかなか希少な人材だわ」

「うるさい!もういい。とにかくサインしろ」

健二が怒鳴った。

私は静かに、自分の名前を書いた。加藤さと子。この名前を書くのも、これで最後だ。

判を押し終えた瞬間、私はまた大笑いした。

「本当に、本当に最高だわ。健二さん、あなたは本当に幸せものね」

「当たり前だ。お前なんかより100倍も1000倍も素晴らしい女性と結婚するんだからな」

私は立ち上がり、健二に離婚届を差し出した。

「お幸せに。心から、本当に心からお幸せを祈っているわ」

そして私は最後にもう一度、腹の底から笑った。

離婚届を手にした健二は、誇らしげな表情で玄関に向かった。

「明日の朝一番に役所に提出する。お前の荷物は後で取りに来い。ああ、そうだ。家の鍵は置いていけ」

私は黙って鍵を外し、テーブルに置いた。39年間、毎日開け閉めしてきた鍵。もう、重みのないただの金属片になった。

「さ、最後に言っておく。お前には感謝している。今までありがとう。でも俺にはもっとふさわしい人生があるんだ」

健二が出ていった後、私は静かに携帯電話を取り出した。銀行の同僚、佐藤みな子の番号を押す。

「みな子?私の件、予定通りよ」

「え?本当に離婚したの?さと子さん、大丈夫?」

「ええ、むしろ清々したわ。それより、松永玲子のこと、調べておいてって言ったでしょ」

電話の向こうで、みな子が資料をめくる音がした。

「調査部からの報告書、今手元にあるわ。さと子さん、これ、本当にヤバイわよ。上層部も動き始めてる」

「詳しく聞かせて」

「松永玲子、本名は田中里子、48歳。過去5年間で少なくとも5件の結婚詐欺の前歴あり。被害総額は3億円超え。今回も同じ手口みたいね」

私は窓の外を眺めながら、静かに微笑んだ。

3ヶ月前、銀行の顧客データベースに不審なアクセスがあった。セキュリティ部門が調査したところ、ある女性が富裕層の個人情報を収集していることが判明した。その女性こそ、松永玲子だった。

彼女は巧妙だった。銀行員になりすまし、「資産運用セミナー」と称して顧客に接触。そこで得た情報をもとにターゲットを絞り込んでいた。

ただ、彼女は1つミスを犯した。私たちの銀行の顧客リストに、健二の名前があったのだ。もちろん、健二に資産などない。なぜ彼がリストに乗っていたのか?それは、私の配偶者として登録されていたからだ。

「さと子さん、あの女、健二さんのこと完全に勘違いしてるわよ。銀行員の配偶者で資産家だと思い込んでる。さと子さんの年収や退職金の額を、健二さんのものだと誤認してるみたい」

「そうでしょうね。健二も見栄を張って、大げさに言ったことでしょう」

私は健二の性格を知り尽くしていた。少しでも褒められればすぐに調子に乗る。ありもしない武勇を語り、実際の10倍も話を盛る。

「でも、さと子さん。なぜ教えてあげなかったの?詐欺だって」

「教える必要があるかしら?健二は私よりも素晴らしい女性を見つけたって、堂々と宣言したのよ」

「それはそうだけど……」

みな子の心配そうな声が聞こえた。

「みな子、私は何も悪いことはしていないわ。ただ、健二が選んだ道を尊重しているだけ。彼が本当の愛を見つけたというなら、私が口出しすることじゃない」

「でも、あの女の過去の手口、本当にえげつないわよ。結婚してすぐに共同名義の口座を作らせて、全財産を移動させた後、姿をくらますの。最短記録は2週間よ」

「へえ。手際がいいのね」

「さと子さん、冗談でしょ」

「でも、健二に奪わせる財産もないから、きっと長続きするんじゃない」

私は時計を見た。午後8時。健二は今頃、玲子と豪華なディナーでも楽しんでいるのだろう。

「ねえ、みな子。明日からしばらく有休を取るわ。39年間、まともに休んだことなかったから」

「そうね。それがいいわ。さと子さん、本当にお疲れ様。でも、健二さんのこと、大丈夫?」

「ええ、きっと健二は幸せになるわ。彼が望んだ通りの人生を歩めるはず」

電話を切った後、私は部屋を見回した。健二との思い出が詰まった家。でも、不思議と未練はなかった。

私はもう一度携帯を手に取り、今度は別の番号に電話をかけた。

「もしもし。山田弁護士ですか?加藤です。はい。予定通り離婚が成立しました。財産分与の件ですが……」

「ああ、加藤さん。その件なら心配いりません。ご主人は一切の財産を放棄すると言っていましたね。録音もありますし、書面にも残っています。ええ、慰謝料もいらないと。となると、加藤さんの退職金3000万円。ご両親から相続したとの土地、株式投資の運用益。全て加藤さん個人の財産として確定です。ご主人には1円も渡す必要はありません」

私は静かに息を吐いた。健二は知らない。私が密かに積み立てていた資産のことを。毎月コツコツと貯めた定期預金。親から受け継いだ土地の価値。全てを合わせれば、軽く5000万円は超える。でも、健二には1度も話さなかった。どうせ無駄に消えるだけだから。

「山田先生、もし健二から何か連絡があっても、対応しないでください」

「承知しました。ただ、ひとつ気になることが」

「何でしょう?」

「松永玲子という女性のこと、調べさせていただきました。かなり危険な人物のようです」

「ご心配なく。健二が選んだ女性ですから」

私は微笑んだ。

3ヶ月後の朝、私は優雅にコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。都心のマンションに移り住み、新しい生活を満喫していた。

突然、携帯電話が鳴り響いた。画面を見ると、見覚えのない番号。いや、よく見ると健二の番号だった。機種変更でもしたのだろうか。

「はい。加藤ですが」

「さ、さと子か?助けてくれ」

電話の向こうで、健二の泣き叫ぶような声が聞こえた。

「あら、健二さん。お久しぶりね。ハワイはどうだった?」

「ハワイなんか行ってない。全部嘘だったんだ。玲子は……玲子は詐欺師だった」

私は静かにコーヒーを一口飲んだ。

「詐欺師?まさか。あんなに素晴らしい女性が」

「素晴らしいもクソもない!全部嘘!名前も家柄も資産も、全部デタラメだったんだ」

健二の声は悲鳴に近かった。

「落ち着いて。順を追って説明してくれる?何があったの?」

「結婚して1週間は普通だった。いや、普通じゃなかった。金遣いが荒すぎた。高級レストラン、ブランド品、全部俺の金で」

「あら?資産が5億もあるのに、あなたのお金を使ったの?」

「最初は「今は現金が手元にない」って言われて、信じた俺がバカだった。全部使い切られた。200万だぞ、200万」

健二が隠し持っていた退職金の一部だろう。私には内緒にしていたお金。

「それで……それだけじゃない。共同で事業を始めようと言われて、俺の口座から残りの退職金も全部……300万、全部だ。合計500万。健二の全財産だった」

「まあ、大変ね。でも、玲子さんの5億があれば、そんなのは屁でもないでしょう」

「だから、それが全部嘘だったんだよ!」

健二の叫び声で、私は携帯を少し耳から離した。

「警察に行ったんだ。そうしたら、とんでもないことが分かった。松永玲子なんて人間、存在しない。本名は田中里子。48歳の結婚詐欺師だった」

「ああ、そうなの」

私は微笑みながら紅茶を一口飲んだ。

「さと子!お前、知ってたんじゃないのか?」

「どうして私が知っているの?健二さんが選んだ女性でしょう」

「でも、お前あの時笑ってた!腹を抱えて笑ってた!」

「だって、おかしかったんだもの。63歳のあなたに、完璧な女性が現れるなんて」

健二が絶句した。しばらくの沈黙の後、すすり泣く声が聞こえてきた。

「さと子、頼む。助けてくれ。もう1度やり直そう。俺が悪かった」

「やり直す?何を?」

「結婚だよ。もう一度結婚してくれ」

私は思わず吹き出してしまった。

「健二さん、私たちは離婚したのよ。あなたが望んだことでしょう」

「あれは間違いだった。玲子に騙されてたんだ。本当はさと子が一番だ」

「あら?でも3ヶ月前は、私のことを「平凡でつまらない女」って言ってたじゃない。それから「センスがない」「貧乏臭い」「庶民」とも言ってたね」

健二が黙り込んだ。

「ねえ、健二さん。ひとつ教えてあげましょうか?」

「な、なんだ?」

「私、玲子さんのこと、最初から知ってたの」

「やっぱり!やっぱりお前は知ってたんだ!なぜ教えてくれなかったんだ!」

「だって、あなた言ったじゃない。「玲子は俺を理解してくれる」「俺の可能性を信じてくれる」って。そんな素敵な出会いを、私が邪魔していいの?」

「でも、それは……」

「実はね、3ヶ月前、銀行のセキュリティ部門から報告があったの。顧客情報への不正アクセス。調べたら、結婚詐欺師が富裕層の情報を狙ってるって」

健二が息を飲む音が聞こえた。

「その時、リストにあなたの名前を見つけたの。私の配偶者として登録されてたから。でもね、面白いことに、彼女は勘違いしてた。銀行員の「高給の夫」だと思い込んでたみたい」

「じゃあ、お前は全部知ってて……」

「ええ。でも、止める理由があった?あなたは私より100倍も1000倍も素晴らしい女性を見つけたって言ってたし」

私は立ち上がり、窓の外を眺めた。

「それにね、健二さん。私から見れば、あなたも玲子さんも同じよ」

「なんだと?」

「だって、あなたも私を騙してたでしょう。浮気を3回。借金を隠して。退職金も内緒にして。玲子さんはお金を騙し取ったけど、あなたは私の人生を39年間騙し取った。それとこれとは違うの?」

「どう違うの?彼女は500万円を奪った。あなたは私の39年を奪った。どちらが重いかしら?」

健二が何か言いかけたが、私は続けた。

「でもね、感謝してるの。玲子さんのおかげで、私は自由になれた。39年間の束縛から解放されたの」

「さと子、金を貸してくれ。生活ができない」

「私の荷物には、お金はありませんよ」

私は、健二がかつて私に言った言葉をそのまま返した。

「そんな!頼む!」

「他人に頼むのはおかしいんじゃない?私たち、もう家族じゃないんだから。これも、健二さんの言葉よ」

「さと子、お前はそんな冷たい女じゃなかった」

「冷たい?39年間、あなたのために全てを捧げた私が?」

私は深呼吸をした。

「健二さん、最後にひとつ教えてあげる。私の退職金、3000万円あるの。両親の土地も、今なら8000万円で売れる。投資で増やした資産も合わせれば、1億は超えるわ」

「え?」

「でも、あなたは1度も私の話を聞かなかった。私が何を持っているか、何を考えているか、興味もなかった。だから、知らなかったのよ」

健二が絶句している間に、私は続けた。

「玲子さん。いえ、田中里子さんには、お礼を言いたいくらい。彼女のおかげで、私は本当の幸せを手に入れられたから」

「さと子……」

「さようなら、健二さん。どうぞお幸せに。ああ、そうそう。銀行のほうから連絡が行くと思うけど、詐欺の調査に協力してあげてね」

私は電話を切った。すぐに着信音が鳴ったが、番号をブロックした。

窓の外には、青く澄んだ空が広がっていた。

あれから半年が経った。私は今、湘南の海が見えるカフェでランチを楽しんでいた。有給を取った後、銀行を退職し、優雅な生活を送っている。

「さと子さん、今日も素敵ね」

隣に座るみな子が微笑んだ。彼女も最近退職し、一緒に旅行や食事を楽しむ仲間になっていた。

「みな子、そういえば聞いた?健二さんのその後」

みな子が含み笑いを浮かべた。

「ええ、風の噂で相当悲惨らしいわね。健二さんは詐欺に遭った後、生活保護を申請したそうよ。でも、離婚時に財産分与を放棄していたから、さと子さんに援助を求める権利もないし。息子さんたちも、父親の身勝手な行動に愛想をつかして、連絡を断ってたみたい」

「70歳まで働かないと生活できないって、コンビニでバイトしてるらしいわよ」

「まあ、それも自分で選んだ道ですものね」

私は海を眺めながら、静かに紅茶を飲んだ。

実は、先月偶然健二を見かけたことがあった。コンビニの前で、必死に品出しをしている姿。髪は真っ白になり、背中も丸くなっていた。一瞬、声をかけようかと思ったが、やめた。彼は私に気づかなかった。いや、気づいても、もう声をかける資格がないことを知っているのかもしれない。

「さと子さん、後悔してない?」

みな子の問いに、私は首を横に振った。

「全く。むしろ、もっと早く決断すべきだったと思ってる。39年間、我慢し続けた日々。でも、それも私の人生の一部だ。その経験があったからこそ、今の幸せがより輝いて見える」

「さと子さん、来月のヨーロッパ旅行、本当に行くの?」

「もちろん。ファーストクラスで行くわ。自分へのご褒美よ」

健二が夢見ていたファーストクラスでの海外旅行。皮肉なことに、それを実現するのは私ひとりだった。

「あの時のさと子さんの笑い声、今でも覚えてるわ。腹を抱えて大笑いしてたんでしょう?」

「ええ。人生であんなに笑ったことはなかったわ。だって、詐欺師を最高の女性だと思って舞い上がってる夫の姿があまりにも滑稽だったから」

私たちは顔を見合わせて笑った。

その時、携帯にメッセージが届いた。息子からだった。

「母さん、元気にしてる?今度、孫を連れて会いに行くよ。母さんが自由になって、本当に良かった。あの人のこと、俺たちも許せない」

涙が込み上げてきた。子供たちは私の味方だった。健二の本性を見抜いていたのだ。

「さと子さん、泣いてるの?」

「嬉しいのよ。息子が会いに来てくれるって」

みな子が私の手を握った。

「良かったわね。本当の家族は、さと子さんを大切にしてくれる人たちよ」

そうだ。血の繋がりだけが家族じゃない。私を理解し、支えてくれる人たちこそが、本当の家族なのだ。

夕方、家に帰ると郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人の名前はない。開けてみると、震えた文字で書かれた健二からの手紙だった。

「さと子、俺が間違っていた。お前の大切さに気づくのが遅すぎた。玲子の一件は天罰だったのかもしれない。39年間、本当にありがとう。そして、ごめん」

私は手紙を見つめた後、静かにシュレッダーにかけた。もう過去は振り返らない。私には輝かしい未来が待っている。

来月のヨーロッパ旅行。その次は南米、そしてアフリカ。世界中を旅して、美味しいものを食べて、素敵な景色を見て、新しい友人を作る。61歳。人生はまだまだこれからだ。

窓の外では、夕日が地平線に沈もうとしていた。オレンジ色の光が部屋を優しく照らす。

「健二さん」

私は誰もいない部屋で、小さく呟いた。

「あなたが選んだ最高の女性は、確かに最高だったわね。あなたに最高の教訓を与えてくれたんだから」

そして、私はもう一度、心の底から笑った。今度は苦笑いではなく、本当の幸せを噛みしめる笑顔だった。

39年の献身を踏みにじった男への、これが私の最高の仕返しだった。

理不尽な扱いを受けた時、我慢し続ける必要はない。自分の価値を認めない相手に、尽くし続ける必要もない。人生は一度きり。自分を大切にしてくれる人と、自分が大切にしたい人と共に歩むべきなのだ。

Thumbnail