嫁が置いていった一枚のメモが、私の人生をすべて変えた。
「お母様へ。お盆休みは家族で沖縄旅行に行きます。8月11日から8月16日までです。お1人で退屈でしたら弓娘の家にでも行ってきてください。」
短く、不躾なメモだった。お盆に、先祖を迎えるこの時期に、72歳の母親を一人残して家族旅行。私は何も言わなかった。すでに3年前から、この家は戦場だったから。
息子の剣一は私を見ようともしない。嫁のエミは冷たい眼差しで私を睨みつける。孫たちは私を無視する。
出発の朝、息子が言った。
「母さん、今時誰がそんなこと気にするんだよ。時代が違うんだって。それに母さん1人でやったって仕方ないだろう。海の家にでも行ってなよ。」
その言葉を聞いた瞬間、私は涙をこらえるのがやっとだった。玄関のドアがバタンと閉まる音が響き、彼らは旅立っていった。私は一家の食卓に一人で座り、冷めた卵焼きを見つめながら思った。もう、我慢しなくていいんだ。
私は決心した。この家を売ること。40年間住んだこの家を。夫と共に小さなアパートから始めて、1円2円と貯めて手に入れたこの家。子供を育て、夫を見送り、一人で守ってきたこの家を。
同居を始めてから、私は無料の家政婦だった。エミの要求はエスカレートし、孫たちは祖母を嘲った。風邪で寝込んでも、誰も見舞いに来なかった。2021年、エミが私の死んだ後の相続の話をしているのを聞いた時、背筋が凍った。彼女たちは私が死ぬのを待っていたのだ。
そして、昨年の正月、酔った息子が言った。
「母さん、そろそろ俺たちも楽させてくれないかな?母さんも年だし、良い老人ホームを探してあげるよ。」
その瞬間、ついに彼らの本音が見えた。私はこの家族のために全てを捧げてきた。その報いが、これか。
2024年8月10日、息子たちが沖縄へ旅立った後、私は不動産屋に電話した。
「うちの家を急ぎで売りたいのだけど。」
担当者は驚いた。「奥様、あの家をですか?駅近で高く売れるはずなのに、急ぎで売ると損をしますよ。」
しかし、私の決意は固かった。「早く処分したいんです。1週間以内で。」
その日のうちに、担当者が家を見に来た。「本当に手入れが行き届いていますね。築40年の家とは思えませんよ。」
私は寂しげに笑った。「毎日掃除して手入れしてきましたから。私の人生が全てここにあったんです。」
相場は8500万円。私が思っていたよりもずっと高額だった。
翌日、若い夫婦が契約を申し込んだ。奥さんは妊娠していた。彼らを見ていると、私の若い頃が思い出された。
私は言った。「どうぞ、お幸せに。」
若い奥さんが私の手を握った。「お母様、大切な家を私たちに譲ってくださってありがとうございます。」
私は手紙を書いた。
「剣一へ。お前がこの手紙を読む頃、母さんはもうこの家を出ています。家は売りました。お前が受け継ぐと思っていたあの家を。探さないでください。連絡もしないでください。母さんはこれからは自分のために生きてみようと思います。72歳ですが、まだ遅くないと信じています。」
鍵を置き、小さな旅行かばん一つを持って、私は家を出た。
タクシーに乗って東京駅へ向かった。新幹線に乗り、窓の外で遠ざかっていく東京を見つめた。40年住んだ町がだんだん小さくなっていく。
熱海に着くと、塩の香りが鼻先をくすぐった。私は25平米のワンルームを契約した。窓から海が一望できる、小さな部屋だった。
その夜、ワンルームの窓辺に座り、夕日が沈む海を眺めた。赤く染まった空と海を見ながら、私は初めて自由を感じた。携帯電話の電源を切り、機内モードに設定した。彼らからの連絡を受けたくなかったのだ。
翌朝、久しぶりに携帯の電源を入れると、不在着信が87件、メッセージが43件入っていた。息子から、嫁から、孫たちからも。私は息子にだけ短いメッセージを送った。「生きています。心配しないでください。時間が必要です。」
すぐに電話がかかってきたが出なかった。代わりに娘の弓に電話をかけた。
「お母さん、どこにいるの?お兄ちゃんが大騒ぎよ。」
「私は大丈夫よ。熱海にいるの。少し休みに来たってお兄ちゃんに伝えてちょうだい。」
その夜、警察から電話があった。「ご子息から行方不明の届け出がありまして、確認のためにご連絡いたしました。」
私は冷静に答えた。「行方不明ではありません。私自身の意思で出てきたのです。人が自分の意思で引っ越すことが罪になるのですか?」
警察官は呆れたように「そうですか。確認が取れました」と言って電話を切った。
数日後、息子から長いメッセージが届いた。「母さん、お願いだから連絡をください。僕たちが間違っていました。どうして家を売ったんですか?あれは僕たち家族の遺産なのに。母さん1人が決めることじゃないでしょう。今すぐ帰ってきてください。全部許しますから。」
許す?私は返信を送った。「私の家を私が売ったのが罪なの?あなたたちが私を老人ホームに送ろうとしたのは間違いではないの?これからはそれぞれ生きていきましょう。干渉しないで。」
10月になると、息子の家族が私の部屋に押しかけてきた。エミが叫んだ。「お母様、あの家は健一さんが相続するはずだったじゃないですか。どうして相談もなしに売ったんですか?」
私は笑を遮った。「あなたたちが私を老人ホームに入れようとした時、私に相談したの?私が家政婦のように働かされていた時、あなたが私にお金を貸してくれと言った時、あなたは私に相談したの?」
エミは口を閉ざした。剣一が言った。「母さん、俺たちが本気で老人ホームに入れようとしたんだよ。ただ口にしただけじゃないか。」
「口にしただけ?じゃあ、あの遺言書は何だったの?私の財産管理人。私がバカだと思ってるの?」
その瞬間、剣一の顔が青ざめた。バレたという表情だった。
エミが最後に毒づいた。「いいですよ。じゃあそうやって生きてください。その代わり後で病気になったり困ったりしても私たちに連絡しないでくださいね。お母様が選んだことなんですから。」
私は笑った。「心配しないで。あなたたちのお世話になることは決してないから。」
彼らが去った後、私は海岸のベンチに座ってしばらく泣いた。悲しいからではなく、これまで自分がどれほど愚かだったかを悟ったからだった。
その後、娘の弓が言った。「お母さん、私が言わなかったことがあるの。実は去年お兄ちゃんの家に行った時、偶然聞いてしまったの。エミさんが自分の母親と電話で『しず子さん結構財産があるみたい。認知症の診断さえ受ければ私たちが管理できる』って話しているの。」
それを聞いて、私は3年前の日記帳を開いた。そこには、エミが私の通帳をこっそり見た記録、そして直後に息子が私に受けさせた健康診断の記録があった。あれは認知症の検査を受けさせるための罠だったのだ。
さらに、息子の職場の同僚が訪ねてきて、剣一が会社で「お母様が認知症にかかって家を売ってしまった。自分が面倒を見ようとしたのに逃げてしまった」と話していると教えてくれた。
私は病院で検査を受け直した。結果は、認知機能は完全に正常。むしろ同年代より優れていると医者は太鼓判を押した。
私はその診断書を写真に撮って息子に送った。「あなたたちが望んだ検査結果よ。私は正常。もう私を苦しめるのはやめて、それぞれ生きていきましょう。」
エミは私を名誉毀損で訴えた。「カフェで公然と恥をかかせた」という理由だった。私は警察署で、その日の会話を録音したファイルを聞かせた。先に私を侮辱し、彼女自身が真実を告白したのはエミの方だった。結局、彼女の訴えは棄却され、私は精神的苦痛に対する慰謝料を請求できるという助言を受けた。
そして、エミと剣一の離婚訴訟では、エミが結婚前から私たちの財産を狙っていたという証拠が明らかになり、エミは財産分与どころか慰謝料を支払うことになった。
12月、孫の健太が手紙を送ってきた。「おばあちゃん、お母さんとお父さんが離婚するんだって。僕はおばあちゃんに会いたいです。昔おばあちゃんに意地悪してごめんなさい。」
クリスマス、健太と娘の弓が熱海の私の部屋に来てくれた。完全ではないけれど、それで十分だった。
私は日記を元に本を書き始めた。タイトルは「72歳、私の独立宣言」。出版社から興味を持たれ、本は予想以上の反響を呼んだ。
現在、私は74歳。相変わらず熱海の小さなワンルームで暮らしている。この25平米の空間が、40年間住んだ大きな家よりもずっと心地よい。朝起きると海を見ながらストレッチをし、浜辺を散歩する。週に3回は図書館で子供たちに勉強を教え、週に2回は「海を抱く月」という高齢者の会で仲間たちと過ごしている。若い頃、夫が言った言葉を思い出す。「しず子さん、あまりお人好しばかりいてはだめよ。時には自分のために生きなさい。」
その言葉の意味が、ようやく分かった気がする。私は生まれ変わったのだ。72歳で。これからが、本当の私の人生だ。



