「こんな単純なところでミスって契約をぶち壊しにされたら困るんだよね。もうお前に仕事は任せられないわ。だからもう会社やめなよ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中のどこかの糸がプツっと切れたような気がした。それは、ずっと小林係長との間で張り詰めていた糸だった。
俺の名前は酒井シ太、30歳のサラリーマン。グローバル企業である今の会社に中途で採用してもらった。海外との取引も多く、社員は英語が話せる者が多い。部下や同僚たちは皆真面目で、なんでも相談し合える良い環境だ。ただ1人、上司である小林健太郎係長を除いては。
小林係長は有名な私立大学を卒業したことを自慢にしていて、何かにつけてそのことをひけらかしてきた。上から見下したような態度で部下に接し、嫌みや罵声を浴びせることも多い。俺も度々彼から言われのない誹謗中傷を受けていて、苦手な人物だった。
現在、俺はある大口契約に向けて商談を進めていた。一緒に働くのは、入社して数年の若手社員、姿達也。彼は若いが仕事に対して非常に熱心で、将来が有望な社員の1人だ。今回の商談は彼の勉強も兼ねて、俺が指導しながら姿にほとんどの作業を任せていた。
「負担じゃないか?」と尋ねたことがあるが、彼は「色々な経験をさせてもらって感謝しています。先輩がいるから僕も安心して進められます」と言ってくれた。
姿の努力もあり、契約は良い方向にまとまりつつあった。しかし小林係長はそのことをよく思っていないようだった。話が進むにつれ、彼は俺に対して難癖をつけることが増えてきた。
そんなある日、小林係長が自分のデスクに俺を呼びつけた。今日の小林係長はどこか楽しそうだ。嫌な予感がしながらも、俺は彼に声をかけた。
「お呼びでしょうか?」
小林係長はニヤニヤしながら、一冊の資料を俺の前に突き出してきた。それは俺と姿が作った資料だった。今回の商談相手へ渡すためのプレゼンの下書きのようなもので、一応上司である小林係長に事前に提出してあったものだ。
「ここ見てみろよ。この部分、おかしくない?なんでこんな数字になってんの?」
そこには、今回の契約が成立した際の、今後の先方への経済的利益を予想した内容が書かれていた。現在の業績も記載されているのだが、その部分が実際のものよりも低く書かれている。あまりにも実際のものとかけ離れすぎていて、俺や姿ならすぐに間違いだと気づけるようなものだった。資料を作る際に何度も見直している。絶対に俺たちのミスではない。
「向こうの業績をこんな過小表記していたら、向こうも機嫌を損ねるよな。よかったな。渡す前に俺が気づいて。」
相変わらずニヤニヤしながら小林係長は話している。そういえば、今まで彼がプレゼン資料をじっくり読んでいることなどあっただろうか。渡したとしても適当にあしらわれ、机の上に積み重ねられていつの間にか姿を消していた。なんで今回だけ?と思いつつ、ここで逆らっても面倒なことになるなと思考を巡らせていると、係長の言葉が続いた。
「こんな単純なところでミスって契約をぶち壊しにされたら困るんだよね。もうお前に仕事は任せられないわ。だからもう会社やめなよ。」
その言葉を聞き、俺は考えるよりも先に食ってかかっていた。
「それは俺たちが作ったものではありません。それに、今このタイミングで解雇されては契約に響くと思います。」
「じゃあ俺が作り替えたとか言うの?っていうかさ、今後こんなミスをされたら困るわけだから、お前はクビ。今すぐ出てってよ。まあ、今の商談は姿が可哀想だから俺が入るからさ、安心して。」
ここでやっと、そういうことかと思った。小林係長は目障りな俺を排除し、代わりにこの大口契約をまとめて自分の手柄にしようとしているのだ。俺たちが必死で作ってきた資料を改ざんしてまでも。どこまで傲慢な男なのだろうか。
その時、俺の中のどこかの糸がプツっと切れた。それは今まで小林係長と接する中で伸びに伸ばされた糸だった。今回の契約を自分の手でまとめたい、姿にもその達成感を味わってほしい。会社のため。様々な気持ちが肉付けされ、なんとか意図としての形状を保っていた。ただ、その糸は小林係長の言葉でついに限界を超えてしまった。
「分かりました。失礼します。」
一礼し、俺は自分のデスクやロッカーにある荷物をまとめ始めた。振り返ってみたわけではないが、きっと小林は勝ち誇ったような顔をしているのだろう。
会社を辞めることへの悔しさはあったが、今はただあの男が哀れでしかなかった。離れたところから一部始終を見ていた姿が、俺の元に寄ってきた。
「先輩、本当にやめちゃうんですか?僕、今後どうやって進めていけばいいのか不安ですよ。やめないでください。」
「ごめんな。でも姿、大丈夫だよ。愚痴くらいなら聞くから、何かあれば連絡して。」
元々私物はあまり置いていなかったため、荷物整理は思ったよりも早く終わった。そして俺は会社を後にした。
その後、姿は小林と組むことになった。俺と組んでいた時も姿がメインで動いていたため、周りから見れば姿が全て自分で動いているように見えたのだろう。小林は「後のことはお前に任せた」と言ったきり、それ以来指導らしい指導もしなかったらしい。
あとはほとんど本契約を残すのみではあったが、これほどの契約をまとめるのは姿にとっては大きなプレッシャーだっただろう。持ち前の実直さで他の社員に聞きながら準備を進めていた。もちろん、このことは小林に悟られないように。小林の目にはなんなく進めているように見えたのだろう。たまに進捗を確認される程度で、口出しもされなかったとのことだ。
そんな小林の傲慢さが引き金となり、事件が起こった。ついに迎えた本番当日のことだった。
先方の会社へ向かうため、小林と姿が会社を出ようとした際、小林は橋本部長から声をかけられた。橋本部長は小林の肩を両手でガシッと掴むと、こう言った。
「この契約はうちの会社にとってもかなり重要なものだ。しっかりやってきてくれよ。」
「任せてください。」
小林はそう強く頷いて見せた。部長に見送られながら2人は会社を後にした。姿が車の運転席に乗り込もうとしたところ、小林が口を開いた。
「ああ、お前もういいよ。適当に時間潰してて、俺1人で行くから。」
どうやら小林は自分1人の手柄にするため、姿までも邪魔物扱いしたのだ。これまで姿に任せきりで、ろくに資料に目を通したこともないくせに。
「でも、先方は日本語ではなく海外の会社なんだろう。英語くらい俺でも話せる。」
そう言うと小林は姿が持っていた車の鍵を奪い、姿の返事も聞かずに1人で先方の会社へ向かっていった。
小林は1人で先方の会社の受付へ向かい、待ち合わせの部屋まで向かった。まだ待ち合わせまで少し時間がある。彼としては一応目を通しておくか程度だったのかもしれない。そこで初めて、小林は今回実際に使われる資料を目にしたのだった。
資料を見た小林は真っ青になった。それもそのはず。資料は全てヒンディー語で書かれていたのである。
会社に戻っていた姿の携帯電話が鳴った。
「おい、どういうことだ?資料が全然読めないぞ。」
姿は呆れた声を隠すこともなく答えた。
「知らなかったんですか?今回の相手はインドの会社との共同でのシステム開発の話なのは、もちろんご存知ですよね。」
「あ、ああ…」
力なく答える小林に、姿は続けた。
「先方への敬意を払うという意味も込めて、今回の話は全てヒンディー語で進めていたんです。僕は少ししか話せないので、酒井先輩が資料作成や商談の大部分は進めていたんですよ。」
それを聞いた小林の声には怒りが滲んでいた。
「そんなの聞いてないぞ。」
「今までお渡しした資料に目を通していれば、気づけたのではないでしょうか。」
「もういい。」
電話を切った小林が次に電話をかけてきたのは、なんと俺だった。正直もう小林と話したくはなかったが、今日が本番の日だと知っていた俺は電話を取った。
「今どこにいるんだ、お前?ヒンディー語話せるんだろう。今から本番始まるから来い。」
小林の大声が耳を劈いてくる。相当焦っているのが伝わってくる。しかし俺はもう会社を辞めた身だ。いや、今助けを求めている男に辞めさせられたという方が正しい。
「俺はもう会社を辞めた身です。もう御社とは関係ございません。」
俺が淡々と言い放ったためか、小林は激昂した。
「ふざけるな。この商談がどれだけ大事なものか、お前だって分かっているだろう。」
商談が大事なことは理解しているつもりだ。しかし、会社を辞めたことも本当のことだし、準備を姿に任せて何もしてこなかった小林の確認不足ということも本当のことだ。しかも、会社を辞めた原因を作ったのはこの男。俺が助けてくれると本気で思っているのだろうか。
「ふざけているのはどちらですか?自分で巻いた種なのですから、ご自分で解決なさってください。」
そう言って俺は電話を切った。
だんだんと後がなくなってきた小林が次に泣きついたのは、橋本部長だった。商談の日程を延期できないかと尋ねたのである。部長からすればそんなこと有り得ないだろう。しかし、そう告げる前に部長は小林に尋ねた。
「君はもう先方の会社へ到着してる時間だろう。なぜそんなことを言うんだ?」
ここで本当のことを言えば、自分が今回の商談の準備を何もしていないことがバレてしまう。小林が言葉に詰まっていると、部長の近くにいた姿が部長に声をかけた。
「僕が説明します。」
そう言うと姿は今回のことの顛末を部長へ伝えた。元々俺と姿が進めていたが、資料を改ざんされ、そのことを理由に俺が会社を辞めるように言われたこと。小林とペアになったが、彼はろくに指導もせず、資料を渡しても目を通さなかったこと。先方はヒンディー語が母国語であるため、それで資料を作成していたこと。資料作成や実際の会話は俺がしていたこと。小林がヒンディー語を使えないこと。そして、これまで小林が部下に対してひどい態度を取っていたこと。
その話は、受話器の向こうの小林にもうっすら聞こえていたのだろう。「違います。誤解です」という小林の声が漏れていた。話を聞いていた部長の顔がだんだんと赤くなってきている。部長からすれば、姿がメインで動いているとはいえ、まだ経験の浅い彼が1人でこなせるわけがなく、上司の小林がうまく指導しているだろうと考えていたに違いない。それが実際は何の指導も資料のチェックもせず、部下に丸投げして手柄だけ奪おうとしていたとは、考えてもいなかっただろう。
「小林君、どういうことだ?」
と言っても、今あまり問い詰めている時間はない。
「帰ってきたら話を聞かせてもらう。それによって今後のことを考えるから、覚悟しておくように。」
そう言うと部長は電話を切った。海外部署内にヒンディー語を話せる者はおらず、しかも今回の商談内容に精通している者もいない。部長が適任と考えたのは、俺だった。また俺の携帯電話が鳴る。
「突然すまない。話は全部、姿君から聞いた。何も知らなかったとはいえ、小林君のこれまでの言動を見過ごしてしまったこと、本当に申し訳ない。」
俺が何と言えばいいか戸惑っていると、部長の声が続いた。
「小林君には責任を取ってもらうことにした。本当に都合がいいこととは分かっているのだが、どうか君の力を貸してほしい。先方には少し待ってもらえないか伝える。どうか頼む。」
部長は所々言葉に詰まりながら、謝罪と商談への参加を伝えてきた。きっと電話の向こうで頭を下げているのだろう。部長は普段から多忙で、会うといつも忙しそうにしていた。入社してから何かと気にかけてくれていて、俺は部長のことを尊敬していた。そのような人に頼られるのは、とても嬉しいものだ。
「部長、ご心配なく。もう近くにおりますので、向かいます。」
部長の驚いた声が聞こえてきた。こうなるだろうと事前に考えていた俺と姿は、俺の退社後も連絡を取り合っていたのだ。車の前で追い返された時点で、姿から連絡が来ていた。「やっぱり先輩のお力が必要です」と。
その後、俺はすぐに待ち合わせの部屋へ向かい、無事に契約へと漕ぎ着けることができた。もちろん、本格的に商談が始まる前に、使い物になりそうにない小林のことは下がらせた。本番の日に、これまで関わっていない人間に来られたのでは、向こうも不審感を抱いてしまうだろう。開始時間は少し遅れてしまったが、元々の担当者である俺が入ったことで先方も安心してくれたのか、大きな問題もなく終了したのだった。なんとか、これまでお世話になった橋本部長の顔を立てることができた。
その後は、部長によって徹底的な小林に関する調査が行われた。他の社員たちからの証言もあり、小林は理不尽な態度や暴言を振りまいていたこと、普段からろくに部下の監督も自分の仕事もしないことなどが明らかになり、長会解雇処分となった。もし契約当日に呼び出されなかった場合、上司からの不当解雇理由で労基にでも駆け込もうかと考えていたが、そんなことにはならず安心した。
俺は小林の処分により空いた係長というポジションで、会社へ戻ることができた。この契約で姿も大きく成長しただろう。これからまた一緒に働けるのが、とても楽しみだ。



