高橋弁護士が静かに口を開き、分厚い茶色い封筒を机の上に置いた。ごとりという重い音が調停室に響いた。夫の浩司は腕を組んだまま鼻で笑った。
「高橋先生、昔から親父さんに世話になっていたのは知っていますが、時代は変わったんですよ。あなたが何を出そうと、のり子が会社の金を横領した事実は変わりません。」
数分前まで、夫は私に向かってこう言い放っていた。「お前には1円も渡さない。この家から手ぶらで出ていけ。」そして、私名義の口座に会社の資金が流れた記録が印刷された紙を机に滑らせ、私を横領犯に仕立て上げようとしたのだ。調停委員の2人は困惑したように私を見た。私は膝の上のバッグの中で、半年前に亡くなった父が残してくれた古い印鑑入れを静かに握りしめていた。
夫は私が何も知らない世間知らずの専業主婦だと見下している。自分の不倫も、裏で進めている工場の売却話も、全て完璧に隠し通せていると信じきっている。その顔には、もうすぐ手に入る莫大な金と新しい生活への期待が隠しきれないほど現れていた。
「法的には難しい主張ですが」と調停委員の男性が慎重に言葉を選んだが、夫は鼻で笑って遮った。「法的にはでしょう。でもこいつには受け取る権利がないんですよ。俺の会社の金を無断で使い込んだのはこいつなんですから。」
その言葉が落ちた瞬間、調停室の空気がぴたりと止まった。夫が私を犯罪者に仕立て上げるための嘘。それが今、この場で調停委員という第三者の前で堂々と提出された。私は反論しなかった。反論しないのは証拠がないからではない。むしろ逆だ。夫がこの公の場で嘘を突き通せば突き通すほど、後で逃げ道がなくなる。私はずっとこの瞬間を待っていたのだ。
夫は得意げに身を乗り出し、私を脅すように低い声を出した。「どうだ、のり子。お前がやったという証拠は揃っている。これ以上争うなら、俺はお前を横領で訴える。そうなれば刑務所だぞ。手ぶらで離婚届に判を押すなら、見逃してやってもいい。」
私はわざと少し怯えたふりをして視線を落とした。夫はこれで勝負がついたと確信したのだろう、大きく背もたれに寄りかかり足を組み替えた。私が反論しないのは、夫がこの場で偽造された証拠を提出する瞬間を待っていたからだ。ここで嘘を突き通せば突き通すほど、後で逃げ道がなくなる。隣の席でずっと黙っていた、私の代理人である高橋弁護士がゆっくりと姿勢を正した。
「ご主人の主張は分かりました。」
私が静かにそう言うと、夫は満足そうに頬を緩めた。「最初からそうやって素直に認めればよかったんだ。お前の父親が残したあの古臭い工場も、俺がうまく処分してやるから安心しろ。」
父が人生をかけて守ってきた油の匂いのする工場。それを「ガラクタ」と呼んだ夫の言葉に、私の心の中の最後の糸がプツリと切れた。もうこの男に情をかける必要はない。私は顔を上げ、初めて夫の目をまっすぐに見つめ返した。私の冷静すぎる視線に、夫がほんのわずかに戸惑いの色を見せた。
「では、こちらからも1つよろしいでしょうか?」
高橋弁護士が静かな声で口を開き、自分の分厚い鞄の中から茶色い封筒を取り出した。その封筒の束の厚さに、調停委員の目の色が変わった。夫はまだ余裕の表情を崩していない。しかし、その封筒の中に、夫が愛人と立てた完全犯罪を根本から覆す、父からの最後の贈り物が隠されていることなど、知るよしもなかった。
私はこの日のために、長い間準備をしてきた。夫が私を追い出すために作った偽の通帳。勝手に持ち出した私の身分証。そして、偽造された抵当権の書類。それら全てが1つの線で繋がる時が来たのだ。
高橋先生は封筒から古ぼけた分厚い書類を取り出した。「浩司さん、あなたはご自分が会社の代表取締役だから工場を売却して借金を返す権利があるとおっしゃいましたね。これはお父様が亡くなる3ヶ月前に私と共に作成した構成資産書です。この工場の土地、建物、そして会社の全株式。その全ての所有権は、すでにのり子さんに生前贈与されています。」
「な、なんだと?」夫の顔からさっと血の気が引いた。「嘘だ。そんな話、俺は1度も聞いていない。」
「当然です。お父様はあなたに絶対に知られないように極秘に手続きを進めました。そしてのり子さんの手元にある本物の印鑑を使って、所有権の移転登記を完全に終わらせていたのです。」
夫は信じられないという顔で机の上の書類を覗き込んだ。そこに記された現在の所有者の欄には、間違いなく「佐藤のり子」と記されていた。
「あなたは工場を担保に入れて8000万円を借りたと言いましたね。そして同意書にのり子さんの署名と印鑑をもらったと。しかし、あなたが使ったあの印鑑はただの三文判です。のり子さんの本当の印鑑は、お父様が亡くなる直前にのり子さんに託され、ずっとこのポーチの中にありました。」
私は膝の上に置いていた古ぼけた革のポーチを静かに机の上に置いた。そのポーチを見た瞬間、夫の目は恐怖に見開かれた。
「所有者であるのり子さんの本物の印鑑が押されていない抵当権設定契約書など、法的には全くの無効です。つまり、あなたは他人の土地を所有者に無断で、しかも書類を偽造して担保に入れ、銀行から8000万円を騙し取ったことになります。横領どころの話ではありません。金融機関に対する明らかな詐欺と私文書偽造という重罪です。」
夫が私を犯罪者に仕立て上げようとした結果、自分自身が本物の犯罪者になってしまったのだ。
「そんなバカな。俺は社長だぞ。銀行も俺の言うことを信じて金を貸したんだ。」夫の声はもう先ほどの威勢の良さを完全に失い、ひどく掠れていた。
「ええ、信用金庫の担当者も、まさか長年付き合いのある会社の社長が妻の同意書を偽造するとは夢にも思わなかったのでしょう。しかし、今日の午前中、私から信用金庫の支店長に全ての事実と証拠を提出いたしました。担保が無効となれば、銀行は直ちに融資の一括返済を求めてきます。もちろん会社にではありません。書類を偽造して金を引き出した、あなた個人に対してです。」
夫はがたっと音を立てて椅子から立ち上がろうとしたが、膝から力が抜け、そのままどすんと座り直した。手は小刻みに震え、ネクタイを緩めようとする指先が空を切っている。
「工場を売って返せばいいと言っていましたが、その工場を売る権利を持っているのはあなたではなくのり子さんです。そして、のり子さんは工場を売る気など一切ありません。」
夫はすがるような目で私を見た。「のり子、嘘だろうな。お前、俺を助けてくれるよな。長年連れ添った夫婦じゃないか。お前が工場を売るのに同意してくれれば、この話は丸く収まるんだ。」
数分前までは「泥棒女に1円もやらない」と喚いていた男が、今は哀れな声で命乞いをしている。その姿を見て、私は静かに息を吸い込んだ。
「あなたは私に突きつけた離婚届の中で、こう言いましたよね。『もうお前の役目は終わったんだよ』と。だから私も決断しました。私とあなたの夫婦関係は、今日で終わりです。あなたの8000万円の借金は、あなた自身でどうにかしてください。愛人の伊藤美香さんに助けてもらえばいいのではありませんか。」
その名前が出た瞬間、夫は絶望に顔を歪めた。伊藤美香はお金目当てで夫に近づいた女だ。夫が8000万円もの個人的な負債を抱え、工場の売却も不可能になり、さらには詐欺の疑いまでかけられていると知れば、真っ先に逃げ出すのは火を見るよりも明らかだ。
夫はまだ諦めきれない様子で、震える手でスマートフォンを取り出した。「まだだ。俺はまだ終わっていない。ミカがいる。MKホールディングスの口座には、俺が少しずつ移した数千万円の金が残っているはずだ。あの金があれば借金の一部は返せる。」
高橋先生はそんな夫を止めることもなく、静かに言った。「電話をかけてみるといいでしょう。彼女が今どのような状況にあるか、ご自身の耳で確かめるのが一番です。」
夫はスマートフォンをタップし、耳に押し当てた。数回のコールの後、電話が繋がった。夫の顔に一瞬希望の光が差した。
「ミカ、よかった。出てくれて。今すぐMKホールディングスの口座から現金を全額引き出してくれ。色々と計算が狂って――」
しかし、スピーカー越しに聞こえてきたのは、夫の言葉を鋭く遮る氷のように冷たい女の声だった。
「あなた、自分が何をしたか分かっているの?」
それはかつて工場の事務室で甘く笑っていた女性と同じ声とは思えなかった。高くヒステリックで、明らかな怒りと焦りに満ちていた。
「金なんて引き出せるわけないでしょう。突然銀行から連絡があって、会社の口座が全て凍結されたのよ。弁護士名義で財産の保全手続きがされたって。私のマンションにも裁判所から書類が届いたわ。あなた、工場の土地は自分のものだって言ってたじゃない。奥さんは何も知らないただのバカだって。そう言ってたじゃない。全部嘘だったのね。」
私は隣に座る高橋先生をそっと見上げた。先生は表情を変えず、静かに頷いた。先生は夫の不正の証拠を銀行に提出しただけではない。同時に、工場の資金が不正に流されたMKホールディングスの口座に対しても、法的な凍結手続きを完了させていたのだ。
夫は震える手でスマートフォンを握りしめ、必死に取り繕おうとした。「ち、違うんだ。ミカ。これは手違いで、俺が何とかするから。少しだけ待ってくれ。」
「ふざけないで。私はあなたのお金と地位に付き合ってあげていただけよ。8000万円もの借金を抱えた詐欺師の初老男になんて、何の用もないわ。警察には私があなたに騙されて無理やり名前を使われたって証言するから。2度と私に連絡してこないで。」
ぶちっという無情な音が鳴り、通話は一方的に切られた。ツーツーという電子音だけが虚しく響き続けている。夫の口は半開きになり、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。そして、スマートフォンを握っていた指から力が抜け、音を立てて机の上に転がった。
夫は声を出して泣き叫ぶことも、土下座をして許しを乞う気力すら残っていなかった。ただ抜け殻のように椅子に深く沈み込んだ。少し前まで「お前には1円も渡さない」と勝ち誇っていた男の姿は、そこにはなかった。欲望にまみれ、全てを失った、ひどく小さくて哀れな一人の初老の男が、ただ息をしているだけだった。
調停委員の男性が重苦しい沈黙を破るように口を開いた。「佐藤さん、あなたが自分で置かれている状況を完全に理解できましたね。あなたが奥様を横領犯に仕立て上げようとした計画は完全に失敗しました。逆に、あなた自身が会社の資金を横領し、書類を偽造して多額の借金を作った事実が明白になったのです。」
委員の女性も冷静な口調で言葉を継いだ。「奥様はあなたに1円も財産分与をする必要はありません。むしろ、あなたが奥様と会社に与えた損害を全額賠償する義務があります。そして、信用金庫を騙して引き出した8000万円は、会社ではなくあなた個人の負債としてのしかかってきます。」
私は机の上に置かれた、夫が用意した離婚届に視線を移した。そして自分のバッグから1本の万年筆を取り出した。
「浩司さん。あなたが用意したこの離婚届に、私は判を押します。ただ、条件は全てこちらが決めさせていただきます。この家と工場は、私が父から正式に受け継いだ私のものです。あなたは今日中に、このまま出て行ってください。慰謝料や損害賠償については、全て高橋先生を通して請求させていただきます。あなたの8000万円の借金に、私や義母を巻き込むことは絶対に許しません。」
私は夫が用意した偽の三文判を机の端に押しやった。そして、父が残してくれたあの古い革のポーチから、本物の印鑑を静かに取り出した。朱肉にしっかりと押し当て、離婚届の妻の欄にゆっくりと力強く印を押した。鮮やかな赤い印影が緑色の枠の中にくっきりと浮かび上がった。それは私の30年間の我慢の終わりであり、新しい人生の始まりの印だった。
「これで全て終わりです。」
私が静かに告げると、調停委員の2人は深く頷いた。夫はただ呆然と、赤い印影が押された離婚届を見つめていた。自分が勝ち誇って突きつけたその紙が、自分の人生の完全な終わりを告げる宣告書に変わってしまった。その現実に打ちのめされ、椅子から立ち上がる力すら残っていないようだった。
私は印鑑を丁寧に拭き取り、再びポーチにしまった。そして高橋先生と共に静かに席を立った。
「失礼いたします。」
私が調停室のドアに手をかけた時、背後から掠れた声が聞こえた。
「のり子……」
それはかつて私を見下していた傲慢な男の声ではなく、全てを失った哀れな老人のような響きだった。
「俺は……これからどうすればいいんだ。」
私はドアの取っ手から手を離さず、振り返ることもなく静かに答えた。
「ご自分で考えてください。これが、あなたの選んだ人生です。」
バタンと重いドアが閉まり、夫の姿は完全に視界から消えた。調停室の冷たい空気が遮断され、廊下の柔らかい空気が私を包み込んだ。足取りは羽が生えたように軽かった。
翌朝の空は雲一つない真っ青な日本晴れだった。私はいつものように早く目を覚まし、キッチンに立った。やかんでお湯を沸かし、急須に新しい茶葉を入れる。お湯を注ぐと、ふわっと広がるお茶の香りがいつもより深く優しく感じられた。30年ぶりに迎える、私一人だけの誰にも支配されない朝だった。
私は和室へ向かい、仏壇の前に座った。父の遺影に、自分用と父のための湯呑みを並べておく。シーンと、おりんの音を一度だけ鳴らした。
「お父さん、昨日、全て終わりましたよ。お父さんが残してくれたあの印鑑と、高橋先生のおかげです。お父さんは自分の命が長くないと知って、私が一人になっても大丈夫なように、最後まで守ってくれていたんですね。本当にありがとう。でも、少しだけ怒っていますよ。もっと早く私に全て話してくれても良かったのに。」
私は小さく笑い、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。悲しみの涙ではない。父の深すぎる愛情に胸がいっぱいになってこぼれた、温かい涙だった。
私は立ち上がり、動きやすいブラウスとスラックスに着替えた。バッグの中に父の印鑑が入ったポーチをしっかりとしまい、家を出た。向かった先は、もちろんあの油の匂いのする町工場だ。
重い鉄の扉を開けると、そこには沢山の職人さんたちが集まっていた。武田さんを始め、古くから父を支えてくれた顔ぶれが、不安そうに私を見つめている。私は彼らの前に進み出て、深く深く頭を下げた。
「皆さん、長い間本当にご心配をおかけしました。」
私が顔を上げると、武田さんがおずおずと前に出てきた。「奥さん、社長はどうなったんですか?」
「彼はもうこの工場には戻りません。全ての権利は父が私に残してくれていました。この工場は売却されることも、誰かに奪われることもありません。」
私の言葉に、職人さんたちの間にどよめきと安堵の吐息が広がった。「良かった。本当に良かった。大旦那の工場が無事で。」武田さんは太い手で目頭を押さえ、何度も何度も頷いていた。
「でも、これからのことが問題です。私は機械のことは素人です。経理しかやってきませんでした。だから皆さんの力が必要です。父が守り抜いたこの場所を、もう一度活気のある工場に戻したいんです。」
私の正直な言葉に、武田さんは力強く胸を張った。「任せてください、奥さん。技術のことなら私らが何とかします。大旦那の娘さんが社長なら、こんなに心強いことはありませんよ。」若い職人さんも明るい声で続けた。「そうですとも。明日からまたガンガン機械を回しましょう。」
工場の空気が一気に明るく温かいものに変わった。私は事務室に入り、長い間夫が座っていた社長席を見つめた。高級な革張りの椅子。私はその椅子には座らず、部屋の隅にあった父が使っていた古いパイプ椅子を引き寄せた。ギシッという小さな音が妙に心地よく響いた。机の上に、父が残したあの印鑑の入った革のポーチを置いた。
窓の外から、機械のエンジンを立ち上げる重く規則正しい音が聞こえ始めた。ガタン、ゴトンという力強い響き。それは父が愛し、私が誇りに思っていた家族のぬくもりの音だった。私は深く息を吸い込み、その油の匂いを胸いっぱいに満たした。
さあ、仕事だ。私は自分自身にそうつぶやき、山積みになった古い帳簿を開いた。30年間夫の影に隠れて生きてきた私は、もうどこにもいない。失いかけていた尊厳と自分の人生を、私は確実に取り戻した。これからの人生は誰のためでもない。私自身の足で歩いていくのだ。



