私の妻は本当に愚かな女だ。何も知らずに、私のためにパートまで始めて。今日も帰りが遅くなるらしいから、ゆっくり楽しもうぜ。[笑い]
私の夫も同じよ。私が妹の夫と浮気してるのに、全然バレないし。
ハートを押して、実家に設置してあるペットカメラを確認すると、夫の洋一と姉の都が映っていた。実家には誰もいないのに、それをいいことに二人は密会していた。ペットカメラの映像を見て、鳥肌が立った。でも、私に驚きはなかった。だって、夫と姉の関係はすでに知っていたから。
バカなのはどっちだろうか。全然バレてないなんて、私たちを舐めているにも程がある。そのまま動画を録画し、私は計画を実行することにした。
数時間後、実家の前に着いた私は、早速夫に電話をかけた。
「もしもし。今日は急に電話だなんて。どうしたんだ?」
「あなた今どこ?お母さんから電話があったんだけど」
「え、そ、そうなのか。その、今は出張中だから、落ち着いたら折り返すって言っといてくれ」
夫は明らかに動揺した様子で、口調もどもっている。それでとっさに嘘が言えるくらいには、こちらのことを小馬鹿にしているらしい。
「出張?そういえば朝そんなことを言っていたわね。最近増えてるわね。以前はそんなことなかったのに」
「最近仕事の方が忙しくてね。人手が足りてないから、あちこちに行かなきゃいけないんだ。分かったら切るぞ。忙しいからな」
「ねえ、本当に出張なの?正直に答えて」
「なに?出張でないなら何だって言うんだ。まともに働いたこともないくせに、人の仕事を疑うようなことを言うなんて最低だぞ」
夫の声が目に見えて強まった。痛いところを突かれたと思っていることだろう。夫は昔から、痛いところを突かれると、それを隠そうと相手に難癖をつけるのだ。
「そう。まあ、そういうことにしておくわ。それじゃあ、お姉ちゃんがどこにいるか知ってる?うちのお母さんが探しているのよ」
「お前バカか?出張中の俺が知るわけないだろ。もう切るぞ。出張中は忙しいんだから、電話かけてくるな」
スマホからはツーツーっと通話終了後の機械音が鳴り響く。私はため息をついた。これがラストチャンスだったのだ。ここで素直に認めて謝ってくれれば、まだやり直す道も残されていたけれど、そのわずかな細道も、今完全に塞がれてしまったのだ。
私はメッセージアプリを確認した。どうやら計画は順調に動いているらしい。一度動き出した針は、もう止めることができない。私は今一度大きな深呼吸をすると、鍵のかかっていない扉を大きく開いて突入した。
靴を揃えることなく脱ぎ捨て、階段を上がってまっすぐに姉の部屋へと向かう。私も姉もとっくに実家を出た身だが、両親は「寂しくなるし、いつでも帰る場所はあるという証だ」と言って、私たち姉妹の部屋を残していた。まさかそれが浮気に使われるとは思ってもいなかっただろう。
勢いよくドアの取っ手を回して開け放つと、二人はちょうど服を着替えたところだった。
「え、今日はパートに行ったんじゃなかったのか」
「ちょっと、なんであんたがここにやってくるのよ」
まばたきも忘れて固まる二人の様子に気をよくした私は、にやりとして理由を話してやる。
「実は今日は大事な用があって、パートを休んできたの。それで、二人はここで何をしていたの?洋一はさっき電話で出張中って言ったばかりよね。お姉ちゃんの居場所も知らないって、そういう話だったじゃない」
夫はしばし目を伏せ、口を閉じる。額から一筋の汗が流れ落ちている。きっと今この瞬間に、この場をどう乗り切るか脳みそをフル回転で計算しているのだろう。どうやら答えは出たようだ。夫は人の良さそうな笑顔を貼り付けて顔を上げる。
「実は急に出張がキャンセルになったんだ。それで時間ができたから、前々から聞いていたお姉さんの相談に乗ることにしたんだ」
「それなら、私に嘘をつく必要はないんじゃない?」
「誤解されたくなかったんだ。いくら姉妹とは言えど、夫が他の女と一緒にいる状況に、いい気のする妻はいないだろう」
「そうね。なぜかリビングではなく密室で過ごしていたみたいだしね」
密室という言葉を強調して言うと、夫の頬が少し引きつった。形勢が悪いと感じたのか、姉も突然、作り笑いのスマイルで語りかけてくる。
「そうなのよ。男性の心理についての相談だったから、身近な親族に聞くのが近道だと思ったの。私の部屋を使ったのは悪かったわ。長年使った場所だから、ここが一番落ち着いて話せると思ったの」
「身近な親族なら、お父さんがいるじゃない。血も繋がってるから、普通はお父さんが一番近しい人でしょ」
「デリケートな問題だったから、距離のある関係性の方が淡々と話せると思ったのよ。夫婦のことだからね」
姉は急に悲しそうに俯いて、目をうるませた。夫も口をへの字に曲げ、横目で姉を凝視している。これで何でもない関係とは驚きだ。
「どんな問題だったの?こんな状況になった以上、身の潔白のためにもはっきり答えてほしい」
「そうね。実は夫のハルトが全然家に帰ってこないのよ。私、日に日に不安になってきて、藁にもすがる思いで洋一君を頼ったの」
「そうなんだ。仕事が忙しいだけじゃなくて、ハルトさんって仕事でとても忙しくされてるんでしょ?」
私が冷ややかな目を向けると、姉の美しい笑顔がわずかに引きつる。
「それはそうなんだけどね。でも私一人では、それが真実か分からないでしょう」
「そうね。それは今の私の立場的に大いに同意できることだわ」
「おいおい、なんだよ、その言い方。お前、俺たちのこと疑ってんのか?」
大げさに頭を抱えて見せる夫を、私は無言で睨みつけた。姉も素早く夫を援護する。
「もう今日は帰ったら?考えすぎよ。私たちは姉妹なのよ。最愛の家族を裏切るような真似するはずないじゃない」
「へえ。そう。今の言葉、しかと聞いたからね」
私は二人を冷たく見つめながら、ポケットの中のスマホを取り出した。アプリを起動させ、最大音量でペットカメラが捉えた映像を流す。
「え、待って。この声って」
「お、お前、なんでこんなものを」
二人の青ざめた表情を見ると、私は満面の笑みをもらした。
「さあ、なんでだと思う?ご名答」
「俺がこの世で最も愛しているのは、今日だけだ」
「そうよ。私にだって夫がいるわ。夫への不安を相談しに来たけれど、心の中では愛しているのよ」
切羽詰まった声で言い訳してくる二人を無視して、私は引き続きスマホを操作する。
「もしもし。オッケーよ。入ってきて」
「お、おい。大事な時に誰に連絡してるんだ?」
「そうよ。まずは私たちの言うことを」
姉の言葉が最後まで紡がれる前に、再び部屋の扉が開かれた。その先には義兄と、私の両親と義両親がいる。そして順番に怒声をあげた。
「都、お前の言い訳なんて聞く価値ないよ」
「全く、わしの家でとんでもないことをしてくれたもんだ」
「ペットを見守るためにあちこちに置いたカメラだったのに、とんでもないものを映させてくれたわね」
「洋一、お前、自分が何をしたのか分かってるのか?」
「こんなことの対処で、よその家に上がらせてもらうなんて情けない」
次々とやってくる親戚たちに、夫と姉はあっけに取られて口が利けない状態だった。
「な、なんだ、この状況は」
「都、ちょっと説明してちょうだい」
「ペットカメラの浮気映像を録画して、親族全員に送ったの」
「ぜ、全員ですって?正気なの?」
金切り声をあげる姉の前に、父が仁王立ちした。義父も静かに威圧感を与えている。
「都、どういうことか詳しく説明してもらおうか。言い訳次第では、顔の形が変わることを覚悟しておけ」
低く恐ろしい声色に、夫と姉の二人はすぐさま叫ぶようにしてまくし立てた。
「一時の過ちだったんだ。誓ってパートナーへの愛は失っていない」
「不安な気持ちが勝って、つい過ちを犯してしまったの。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「ということだそうですよ。ハルトさん」
義兄は一歩前に進み出ると、無言で数枚の書類と写真を夫と姉に向かって放り投げた。
「きゃっ。何を出したの?」
「こ、これは、なんで俺たちの映った写真が大量に?」
「何でも何も、調査したからに決まってる」
冷やかに話す義兄に、姉は青を通り越した土色の顔を向けた。
「なんで調査なんかしようと思ったのよ」
「それはね、私、前から姉が浮気してるって知ってたの。相手が相手だから、私一人の手に追えないと思って、ハルトさんにも相談していたのよ」
「俺も、姉さんに相談される前から、お前の様子は疑ってた。だから自分で調査していたんだ」
「ま、まさか、ハルトが家に帰ってこなかった理由って、仕事じゃなくて調査のためだったの?」
義兄は静かに頷いた。
「写真の日付を見てみろ。今から三年前のものだ」
「三年前って、都もまだ結婚してないじゃない?まさか交際中から浮気してたということなの?」
義兄は黙って頷くと、拳を力強く握りしめた。あまりに強く握るものだから、爪がくっきりと浮かび上がっている。
「まさかこんなにも長く裏切られているとは思わなかったよ。どんな気持ちだったんだ?気づかない俺を内心嘲笑っていたのか」
夫も姉も何も言えなかった。ただ黙って床を凝視している。
「なんてことをしてくれたんだ、お前たち。浮気された当事者だけじゃない。お前たち夫婦を祝福した私たちの気持ちまで踏みにじったんだぞ。不倫は誰も幸せにしないと言うが、まさか兄弟姉妹同士で行うとは。家族全員がどれだけ傷つくか、少しも考えなかったのか」
部屋に両家の大黒柱の怒号が響き渡る中、今度は姉が視線を落としたままポツリポツリと話し始めた。
「誘惑されたのよ、私」
「へ?なんだって?聞き間違いだよな」
「私は洋一君に誘惑されただけよ。悪くなんかないわ」
姉は急に体を起こすと、義兄にきつくしがみついた。
「ごめんなさいね。あなたなら分かってくれるでしょ?私のこの細腕じゃ、迫ってくる彼を追いやることなんてできない。流されるしかなかったの。でも私が愛してるのはハルトだけよ。だから離婚だけは嫌。反省してるから、何でもするから、別れることだけはしないで」
「ふざけんな。何が誘惑されただ。それを言うなら、俺の方こそ誘惑されたんだ。二人きりになった時、自ら服を脱いできたのはそっちじゃないか。出鱈目言って、自分だけ助かろうとすんな」
「何よ。あんたなんか離婚されたって痛くも痒くもないでしょ。また独身に戻って女を漁ればいいじゃない。私は違うのよ。ハルトに捨てられたら終わりなの。それだけは絶対に避けなきゃいけないの」
「姉さん」
「も、もう姉さんも言い争っていて見えないが、確実に両家の親の怒りは最高潮に達しようとしていた」
「皆さん、落ち着いてください。姉さんも、早とちりして取り乱さないでくれ。俺は一言も離婚だなんて言ってない」
「え、じゃあ許してくれるのね。ありがとう。ハルトのこと信じてたわ。もう洋一君とは一切関わらないから。元から本気じゃなかったのよ。私にはハルトだけだもの」
「確かに離婚はしないよ。ただし、お前のことは一生許すつもりはない。俺の近くに置いて、ずっと監視する。覚悟しとけよ」
感情のない義兄の声は、聞いているだけで背筋が凍ってしまいそうだった。姉は義兄の腰に回していた手をほどき、そっと後ずさる。そして体の向きを変え、夫に笑顔を振りまいた。
「洋一君、やっぱりこの結婚は間違いだったわ。あなたこそ運命の人よ。分かってくれるわよね」
「さあ、全然分かんないな。この短い時間に態度を二転三転させるような奴に、運命の二字も感じないし、もし赤い糸が繋がっていたなら、ちょん切ってやるよ」
夫に見下すような視線を向けられながらも、姉はめげなかった。今度は別の方向へ向けて、今度は大粒の涙をこぼしながら膝をついた。熟年女優真っ青の名演技だ。
「お父さん、お母さん、不義理な娘でごめんなさい。でも私、やっと謝りの気持ちに気がついたの。これからは素直な娘に戻るわ。お父さんとお母さんももう年だし、実家に娘がいると何かあった時安心でしょ。どうかこの私を家に置いてちょうだい」
「そうか。謝りの気持ちに気づいたなら何よりだ。そのまま迷惑をかけた本人の希望に沿って、全身全霊で尽くしなさい。それが償いというものだ」
「私たちの年齢を気遣ってくれるなら、そもそもそんな問題を起こさないでちょうだいね。堪えて今にも倒れそうよ。だから今すぐ出てってちょうだい。原因が取り除かれたら、元気になれると思うから」
両親にも痛烈な言葉を並べられ、姉の表情は凍りついた。しばらくそのまま固まっていたかと思うと、のろのろと動き出す。ついに姉は私の前に膝をつき、頭を床に擦りつけた。
「本当にバカなことをしてごめんなさい。反省してます。だから助けてください」
「謝るのは浮気だけなの?」
予想もしていなかった質問なのだろう。姉が顔を上げて、呆けた表情でこちらを見ている。私は呆れたように小さく笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんは子供の頃から私のことを見下してたよね。新しいおもちゃを手に入れたら、私に自慢しながら、一回も私には使わせなかった。でも私のおもちゃは、私が使う前から貸してって奪い取って、二度と返してくれないの。そういうマウントの取り方、成長してからも続いてたもんね。私、忘れてないから」
「初めてできた彼氏をお姉ちゃんに紹介したら、姉だからってさりげなく近づいて、いつの間にかお姉ちゃんの彼氏になってたわ」
「そ、そんなこと、初耳だぞ」
そんな私たちの前ではすごく仲のいい姉妹だったのに、両親は初めて知る真実に身を震わせている。
「お姉ちゃんは外面が良かったから、周りの人はみんなお姉ちゃんを褒めそやしたわ。美人で賢くて性格もいい完璧な女の子ってね。でも私は正反対で、地味で容姿も悪くて、ちょっと暗い女の子。私の自己肯定感はどんどん低くなっていったわ」
「そ、そんな昔のこと、覚えてないわ」
「別に期待してないから。覚えてても謝るような人じゃないし。それでも私にも縁があって、夫と結婚し、幸せになれると思ってたの。残念ながら神様は残酷だったみたい。今回もお姉ちゃんに奪われて、台無しになったわ」
「今日から、俺は本当にお前のことを」
「あなたは黙って」
私は夫の言葉を遮った。
「私、お姉ちゃんのこと、許さないわ。子供時代を訴えることはできないけど、今回の件は違う。できる限り高額の慰謝料を請求するつもりよ。それともう、あなたは姉でも何でもないから、二度と私の前に姿を表さないで」
姉は言葉を失ったようで、唇を震わせながら俯いた。すると今度は夫が私の前に出てきて、土下座し始める。
「今日から本当にすまなかった。こんなに傷ついていたなんて、自分の想像力のなさが恨めしいよ。もうこんな過ちは犯さない。だから、もう一度やり直してくれないか?」
髪もボサボサになりながら、瞳を潤ませて訴えてくる夫の姿は、事情を知らない人の心を動かすには十分だった。室内に沈黙の空気が漂う中、私は両親に向き直る。
「皆さん、聞いてください。私の夫は本当にバカな男なんです。私が何も知らないと思って、姉と浮気していました。それだけでなく、出張先で他の女も作っていたんです」
「な、なんだって?どういうことなんだ?」
「私、おかしいと思っていたのよ。だってお姉ちゃんと浮気するだけなら、出張までは必要ないし。うちと実家は自転車で行ける距離なんだもの。もちろん出張が嘘の時もあったけど、大抵は本当のことだった。その答えは、浮気調査の過程で知ることになったわ。洋一は現地妻に会っていたのよ」
洋一の一言に、この場にいる人間がポカンと大口を開けていた。姉でさえ、だらしなく開いた口を閉じる気配がない。
「ちょっと、言葉が出ないわね。バカだと思ってはいたが、ここまで節操なしだったとは」
「もう怒りも通り越して、呆れるしかないわ」
「俺も協力していく中で知って、言葉が出なかったよ」
皆が口々に感想を述べる中、姉が立ち上がった。夫の前に立ち、勢いよく平手打ちを繰り返す。特大のビンタを食らったような大きな音が室内に響いた。
「このクズ!あんたみたいに顔も金も平均値の男が、私みたいな上玉の相手になれたのよ。それなのに、他に何人も女がいるとか、どういうことよ。私を馬鹿にしてるの?」
「なんだと?いくら昔は綺麗だったとはいえ、もうとっくに下り坂に入っただろう。顔はシミだらけだし、目元の小じわは消えないし。鏡を見たことあるのか?」
「な、なんですって!このハゲマッスル気取りのクズ男!」
私は大きく手を叩いて、二人のやり取りを遮った。またもやヒートアップしたら面倒すぎる。私は一秒でも早く、この二人と縁を切りたいのだ。
「喧嘩は二人でやって。もう現地妻の旦那さんたちとも接触は済んでるから。みんな真っ赤な顔になって、とても仲良く会いたがっていたわよ。これからどんな日々になるか、楽しみにしていてちょうだいね。もちろん、私からも離婚と慰謝料を要求するわ」
「そうしなさい。好きなようにすればいい。私たちは全面的にお前の味方だ」
「もちろん、私たちも姉さんとは縁を切らせてもらうわね」
「姉さんは俺が一歩も外には出さないので、安心してください」
「当然ながら、洋一が我が家の敷居をまたぐことは禁止だ。一生な。揉め事にならないように、後でその旨を一筆書いてもらいましょう」
きっぱりと明るく言い放つ私や両親たちを前に、夫と姉は完全に沈黙するしかなかった。
その後、夫は会社も辞めることになった。浮気自体は個人の問題だが、現地妻の旦那たちが会社に乗り込んできて「夫を出せ」と大暴れする大騒動に発展したのだ。夫は完全に会社での立場をなくしてしまい、自主退職するしかなかったのだ。夫は姉や現地妻たちにお金を貢いでいたため貯金がない。だが、浮気相手の配偶者たちから次々と慰謝料を請求され、借金だけが膨らんでいく。今は狭いアパートに住み、日雇いの仕事で慰謝料を払うだけの日々を送っているそうだ。
一方、姉は離婚は免れたが、宣言通りハルトに監視されながら日々を過ごしている。買い物一つ行かせてもらえず、トイレに行くのにもハルトの許可を得なければならない。着るものも食べるものも、用意されたものしか使ってはならない。一切愛情の感じられない夫婦生活に、姉は精神的にボロボロになっていくのであった。
しばらくして。
「じゃあ、結局ハルトさんも離婚したんですね」
「ああ、姉さんも精神的にどん底に達したからね。気が済んだよ。でも、君には悪いことをしたね。たった一人のお姉さんなのに」
「以前にも言いましたけど、私はもう姉を家族だと思っていません。それに、家族は血の繋がりが全てではありませんから。私は今も、ハルトさんのこと頼りになるお兄ちゃんだと思っています」
「姉さん、俺も君のことは可愛い妹だと思ってるよ」
「ありがとうございます。優しい両親に、素敵なお兄ちゃんもいることだし、当分はお一人様を楽しもうと思います」
そう答えた数年後、私は縁に恵まれ、結婚して幸せな家庭を築くことができた。それはまた別の機会に語ることにしよう。
ーーー
「夫のために尽くすのが嫁の勤めだろ。だから、お前のゴールドカード使わせてもらうわ」
私が出張してきた瞬間、夫からテレビ電話がかかってきて、わけのわからないことを言い出した。電話の向こうでニヤニヤとしている夫。今、夫は親族たちと大合併しているそうで、支払いは私のゴールドカードでするつもりらしい。だが、夫の思い通りにはさせない。そこで私は言い放った。
「え、もう私は独身だけど、支払いは愛人に請求しておくね」
「は?お前、何言って?」
「ちなみに、そのカードは解約済みよ。と、あなたには慰謝料300万円請求するつもり。大丈夫?そんなに大合併して」
「はあ?カードを解約しただと?それに慰謝料請求とか、ふざけんな」
驚きで大声をあげる夫の顔は真っ赤に染まった。そして、大声に反応して義両親が夫に近づいてきた。
「大きな声を出して、どうしたの?」
「いや、なんでもない。ただの夫婦喧嘩だよ。今日は義子さんも義男ちゃんも来てもらえなくて残念だったね」
義両親は画面のこちら側の私に気づくと、声をかけてくれた。
「ほら、義男も部活も勉強も忙しいし、義子は今日も出張だったからな。二人とも忙しいんだよ」
早く義両親を画面から離そうと、夫が慌てて取り繕ってくる。この親族たちとの合併を、夫が義両親に何と言っているのかは知らないが、私は画面の義両親に向かって話しかけた。
「さとるさん、私のカードを断りもなく持っていったんですよ。それって夫婦間だけど、盗まれたようなものじゃないですか。でもそのカードはもう解約済みだと伝えたら、ひどく怒り出しちゃって。あと、さとるさんには慰謝料300万を請求すると伝えました。払えないようでしたので、愛人に請求するって言ったんですけど」
「は?愛人だと?さとる、一体どういうことなの?」
「義子、お前、何を言ってるんだ?根拠のないことを言うなよ。父さんと母さんも、真に受けないでくれ」
私は普段からカードを使うことはないので、ドカードもキャビネットの引き出しに入れたままだった。出張ってキャビネットの中身を確認すると、予想通りカードがなくなっていた。夫の仕業だ。おそらく私がカードを使うことはないので、バレないと思ったのだろう。だが夫が持ち出すのは想定内のことで、持ち出すように場所を変えずにずっと泳がせていたのだから。夫が何件かこのカードで買い物をしたことを確認してから、私は解約しに行ったのだ。
何も知らない夫は、使えないゴールドカードを手に親戚一同を集めて合併を始めたようだが、義両親は私の話を聞いて呆気に取られている。夫は外面が良く、両親はもちろん、親族や友人たちにも「いい夫」だと評判が良かった。この場にいる誰もが、勝手に妻のカードを持ち出したり、ましてや浮気なんてするはずがないと思っているはずだ。
なんとなく騒ぎを聞きつけてか、画面の近くにいた親戚たちも集まり始めた。その上で、義父は改めて夫に問いかける。
「義子さんの言ってることは、本当なのか?」
「家計から出しているカードを借りただけで、盗んだなんて言いすぎだろ。それに、俺が浮気なんてするわけがない。義子、証拠あるのか?」
この場では自分の方が立場が優位だと思ったのか、夫は苛立ちを抑え、ゆっくりとした口調で問いかけてきた。おそらく周りからは、冷静さを保った妻を諭す夫に見えたことだろう。
「証拠は」
私が言いかけた時、部活から帰ってきた娘の義男が顔を覗かせた。テレビ電話に気づいて、すぐに近寄ってくる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、元気?」
「おう、義男か」
「話題がそれてほっとした表情を浮かべる夫。義両親も可愛い孫の登場に思わず笑顔になった」
「義男、お土産を買って帰るから、楽しみに待っててくれよな」
いい父親を演じながら言う夫に、義男はスマホを取り出して見せた。
「私もパパにお土産があるんだ」
そう言うと、娘はスマホに撮られた映像を画面に映し始めた。テレビ電話の画面越しに、向こうにいる人たちにもよく見えたことだろう。動画を見て義母が目を見開く。
「これは、いつ撮ったの?」
「そこには夫が愛人を自宅に連れ込む様子が映っていた。二ヶ月前、ママが出張に行ってた時だよ」
義両親は驚きで何も言えず、夫は額から吹き出る汗を拭くこともなく、じっと映像を見つめていた。
そこで私は深呼吸をし、義両親や親族たちにこれまでの夫について話を始めた。
「共働きの私たち夫婦は、結婚する時に家事の分担と生活費の出し方を決めていたんです。私は娘の出産前後のみを育児休業として取得し、早めに保育所を探して復職しました。おかげで仕事へのブランクは最小限に抑えられ、スムーズな仕事復帰ができたと思います。でも、さとるに変化が現れたのは半年前でした。残業や出張と言って、家に帰らない日がだんだんと増えてきたんです。分担していた家事は一切やらなくなり、とうとう生活費も入れなくなりました。さらにこの頃から、夫婦の共有の口座から勝手にお金を引き出すようにもなったんです。私は何度も頼みました。生活費を入れてほしい。勝手にお金を引き出さないでほしいと。でも、さとるは『夫のために尽くすのが嫁の勤めだ』と、聞く耳を持ちませんでした」
私の話に親族たちは戸惑いの表情を浮かべた。まだ信じられないといった様子だ。私はもう一度深呼吸をして、浮気のことについても話をする。
「私が悩んでいる時、娘から動画を見せてもらうことになりました。さとるが若い女性と腕を組み、鼻の下を伸ばしながら自宅に入っていく。そこに映る夫の姿は、おぞましさすら感じました」
私が言い淀むと、代わりに娘が口を開いてくれた。
「部活がなくなって早めに家に帰ったら、パパと知らない女の人が一緒に帰ってきたの。だから私、ママに伝えなきゃと思って」
私と娘の言葉に、親族たちのざわめきがさらに大きくなっていく。そこに割り込んだのは義両親だった。
「浮気相手を家に連れ込むなんて。お前は義子さんの留守中に何をしているんだ。しかも、実の娘の目の前で堂々とこんな姿をさらすなんて」
娘が撮った浮気の証拠動画を見せられ、義両親は激怒した。だが、夫は簡単に浮気を認めようとはしない。
「浮気相手だなんて言いがかりだ。会社の新入社員が相談に乗って欲しいって言ったから、仕方なく」
「お前は、部下の相談に乗るのに自宅に呼ぶのか」
「う、うるさい。大体、子供が撮った動画なんて証拠にならないだろう。今の中学生なら、いたずらでこのくらいの動画いくらでも作れるじゃないか」
夫は苦しい言い訳を続け、だんだんと形勢が悪くなっていく。仮に夫が言っていることが本当だとしても、若い女性を自宅に招く時点で下心が見え見えだ。それは義両親も分かっているので、二人の怒りは収まらない。
「義男ちゃんが、こんなものを作って一体何の得があるというのよ」
「父親のこんな姿を見て、傷つかないとでも思ってるのか」
どうしても義両親の怒りが収まらないので、夫の矛先は私に向けられた。
「お前の教育が悪いから、こんなことになるんだ。ちゃんとした証拠を出してから文句を言え」
「分かったわ」
そう言われて、私は画面越しに一枚の書類を見せた。その書類を見た途端、強気だった夫の表情はみるみる曇っていった。私だって、娘の動画だけで法的な証拠になるとは思っていない。だが、浮気を確定するには十分だ。確実に浮気していることが分かれば、証拠集めはプロに任せればいい。娘から動画を見せられた後、すぐに探偵事務所で調査を依頼していた。さすがプロの仕事。集まった証拠の数々は、目を覆いたくなるようなものもあった。決定的だった。
「お望みの『ちゃんとした証拠』よ。あなたは今日、私が出張に行ってると思っていたでしょうけど、実際は探偵事務所に調査報告書をもらいに行っていたのよ」
その調査書と一緒に、数枚の写真をビデオ電話に映してやる。それを目の当たりにし、義両親はますます激怒した。
「なんて節操がないんだ」
「いつから、こんなことをしていたんだ?」
そこには、娘が撮ったものとは比較にならないほど決定的な場面が映っていた。言い逃れできない状況で、夫は青ざめた顔のまま少し震えている。これでも「妻は嘘をついている」「義男が嘘つきだ」と言えるか。そこでようやく認めた夫が、娘に謝罪した。
「義男の動画をいたずらなんて言って悪かった。本当に反省しているし、これからはいい父親になるから、許してほしい」
夫は深く頭を下げるが、その謝罪は全く娘には響かない。娘は夫が心から謝罪をしていないことを見抜いているようだ。
「ママが許すなら仕方ないけど、私はもうパパのことは気持ち悪くて、同じ空気を吸うのは嫌だから」
冷たく言われて、さすがの夫も落ち込んでいたが、自業自得だと思った。年頃の娘からしたら、愛人を招き入れる父親の姿なんてトラウマだろう。拒絶されて当然だ。娘はそのまま自分の部屋に行ってしまった。
「そういえば、忘れているかもしれないけど、あのゴールドカードは解約済みだからね。あれで支払おうとしないでよ」
私に言われて、夫はポケットからカードを取り出した。
「使われたくないからって嘘をついているんだろ。昨日も試しに使ってみたが、何ともなかったからな」
私が嘘をついてると思っている夫に、ついでにカード解約の書類も見せてやった。
「それも、今日解約してきたのよ」
「くそっ。余計なことを」
最近は家に入れるお金も、全て愛人に貢いでいた。今の夫に現金の持ち合わせがあるとは思えない。当てにしていたカードが本当に解約されていると分かり、夫は義両親に泣きついた。
「どうかここの支払いをお願いします」
義両親に土下座をする夫の後ろ姿が画面に映し出される。親戚一同も、夫たちのただならぬ様子に相当ざわついているようだ。義父と義母は何やら二人で相談すると、夫に「分かった」と告げた。喜んで立ち上がる夫を制するように、義父の声が続く。
「借用書を書いてもらう」
「借用書?」
「そうだ。返済期限を決めて、公的に通用する借用書を書いてもらう。そうしたら、ここの支払いは替えてやる」
「他人でもあるまいし。なんでそんなもん書かなきゃならないんだよ。ちゃんと返せばいいんだろ。俺たち、家族じゃないか」
「その家族観で、盗みを働いたのはお前だろうが」
「人聞きの悪い。ちょっと借りただけだって」
持ち出したことに関しては、全く悪いとは思っていないらしい。まだ戸籍上は夫婦なので、私が盗罪だと訴えても夫は罪にはならないが「あなたには、それだけ信用がないってことよ」と、夫は泣く泣く借用書を書くことを承諾した。そうするしか、今この場を切り抜ける方法もない。
電話をかけてきた時の意気揚々とした様子が嘘のように、すっかり大人しくなった夫は「帰ったら話がしたい」と言ってきた。私も「話し合いたいことがある」と伝え、テレビ電話を終了する。この時の夫は、ひとまずこの場を切り抜けられたことに少しだけ安堵した様子だった。でも、私の反撃はまだ終わりではない。この後すぐ、それを夫は思い知ることになる。
「なんで、お前がここにいるんだ?」
帰宅した夫は、私が招いておいた客人を見て、これまで見たことがないくらい動揺していた。
「あなたが『自宅に招いて相談に乗ってあげた』新入社員の方よね」
実は先に夫の浮気相手と接触していた私は、夫が帰ってくる前に家に呼んでいた。あの時言ってたように、相手は今年入社したばかりの新入社員で、レミという名前だった。
「慰謝料の件もあるし、三人で話をする方が早いと思って」
俯いて座っていたレミが、慰謝料という言葉に反応する。
「私、そんなお金ありません」
「これは、あなたがしたことの代償なの。お金がないから払えないじゃなくて、法律で決められた義務なのよ」
レミは再び俯く。夫の顔も青ざめていたが、私は容赦なく言葉を続けた。
「私はこの人と離婚するので、その後あなたたちが付き合っても結婚しても関係ないけど、それ以前に受けた精神的苦痛に関しては、あなたから慰謝料をもらう権利があるわ。不倫も、相手がいないとできないわよね。当事者の自覚、ある?」
「違うんです。私も、あなたのご主人に騙された被害者です」
どうしても慰謝料を払いたくないのか、レミは事実と違うことを言い始めた。
「適当なこと言うな。元々はお前から誘ってきたんだろうが。責任逃れできると思うなよ」
「レミの分も、さとう君が払ってよ。私は悪くないんだから。奥さん、聞いてください。私は、あなたのご主人から『仕事のミスをばらされたくなかったら付き合え』って脅されて」
「正直、あなたたちの濡れ衣なんて、私には興味ありませんから。あなたたちは何度も私を裏切る行為を重ねてきた。その事実だけで十分なの」
「でも、脅されてたんですよ。同じ女性として、かわいそうとか思ってくれないんですか?」
「嘘か本当か、分からない」
私がそう言うと、レミの発言に夫も反論を始めた。
「奥さんと別れて結婚してくれないと会社にばらすと脅してきたのは、そっちの方だろうが」
「そんなこと言ってないもん。奥さんは同性だから、レミの気持ちが分かるはずよ。さとう君はいつも嘘ばっかりなんだもん」
二人の言い争いは、なかなか収まりそうにないどころか、こちらにも飛び火してくる。
「最初は一、二回付き合ってやったらやめるつもりだったんだ。だけどこいつがしつこく迫ってくるから、仕方なかったんだよ。俺だって迷惑してたんだ。許してくれ」
「自分だけ助かろうなんて、ずるい」
お互いに責任をなすりつけ合いながら、夫はまだ諦めずに復縁を望んでくる。もう今更遅いというのに。さとうがどうしようもない人間なのは、今回の件でよく分かったわ。でもレミさん、あなたにだっていい思いをしたでしょ。自分じゃ買えないような高級ブランド品、買ってもらったの?」
私がそう言うと、レミは唇を噛みしめて黙り込んだ。夫は最後の抵抗と言わんばかりに、私に泣きつく。
「俺は、さとる子と離婚するつもりはないから。頼む。考え直してくれ」
「私は、あなたとやり直すつもりなんてないから。さとう、以前あなたは私に『夫のために尽くすのが嫁の勤め』と言ったわよね」
「言ったかもしれない。よく覚えていないが」
「結局あなたにとって、私は便利な家具でしかないのね。しかも、義男の父親としてはもう終わってる」
「反省したから、これから俺が変わるから」
「何度言われても、無理なものは無理。私は義男と二人で生きていきますから。後のことは、弁護士さんを通してお願いしますね。私には絶対に許すことなんてできない。これ以上、私が話すことは何もない」
そう告げて、まだ言い争いが続く二人を家から追い出した。
その後も夫は散々ごねていたが、なんとか離婚が成立した。弁護士を通して慰謝料と養育費についても話はまとまった。夫は義両親から言われた通り借用書を書き、しばらくは毎月の返済などもそれに沿って行っていたようだ。これに関しては、かなり厳密に義両親にも管理されていたらしい。だがあの時の合併で義両親に立替えてもらったお金以外にも、浮気相手に貢いでいたことで借金まみれになっていたのだ。さらに社内で不倫していたことが会社にバレたので、仕事も首になった。そんな状況で借金だけが膨らみ、収入がなくなった夫は、危ないところからお金を借りて、今は逃げ回る身らしい。
浮気相手のレミも、元夫と一緒に懲戒解雇になっていた。自分の両親にも浮気をしていたことがバレて、家を追い出されたレミは、お金目当てに元夫を付け狙っている。多方面から追われている元夫が、今どうしているかは知らない。
私はと言うと、無事に新居への引っ越しも済ませ、娘と新しい生活をスタートさせている。元夫のことで、多感な年頃の娘にたくさん嫌な思いをさせてしまった。
「結果的に、義男を巻き込んでしまってごめんね」
「どうして謝るの?ママは悪くないじゃん。私はいつでもママの味方だよ」
「ありがとう。こっちこそ。いつもありがとう」
私が言うと、照れ臭そうに娘もそうしてくれる。私たちはお互いの存在に感謝し合い、大切に日々を過ごしている。
ーーー
「俺、飲みに行ってくるわ。ゆき子、車から降りて歩いて帰れ」
「飲みに行くって。私、妊娠九か月よ。それなのに、置き去りにする気?」
「え?妊娠九か月って病気なのか?違うよな。そもそも嫁は夫の奴隷みたいなもんだ。黙って従え。ちなみに電車には乗るなよ。金がもったいないから。まあ、三時間も歩けば着くだろう」
夫の春樹は駅まで迎えに来てくれたのだが、その結果がこれだ。私が出産した病院は隣駅にあるが、迎えに来てくれたのは病院だった。今思えば、それも私をいびるためだったのかもしれない。とんでもない仕打ちだが、私は至って冷静に返した。
「三時間って何?三分あれば十分よ。近くのタワマンに行くので」
そう言った後、私は忘れ物がないか確認し、車から降りる。夫は少し戸惑っていたが、何も言わなかった。きっと彼は私の言葉を真に受けてないのだろう。私は全て知っているというのに。
事前に子供は実家で預かってもらっている。こっちは準備万端なのよ。春樹、あなたは必ず後悔することになるわ。
春樹が車のエンジンをかけ、出発しようとしたその瞬間、現れたのは義両親だった。彼らの突然の出現に、春樹の手がハンドルから滑り落ちる。
「おい、なんで二人がここにいるんだ?」
春樹は驚きの声を漏らし、慌てて車から降りた。彼の動揺は隠せず、予想外の事態に困惑していた。春樹は義両親に「今日は別の予定で出かける」と聞かされていたからだ。しかし、私はその予定を密かに変更してもらっていた。春樹に一切悟られないよう、慎重に水面下で動いていたのだ。
義父が車の窓越しに近づき、厳しい顔をして冷静に、しかし鋭く言った。
「春樹、今の会話は全て聞いていたぞ」
その瞬間、夫が緊張した表情に変わる。まるで時が止まったかのように、春樹は目を見開き、何も言えずに硬直した。義父の顔はいつもの穏やかな表情とは違い、怒りが浮かんでいた。続けて義母が口を開き、声を荒げた。
「ゆき子さんは妊娠九か月でしょ。それを歩いて帰らせるなんて。あなた、何を考えているの?」
その言葉が春樹の耳に届いた瞬間、彼の顔色がさらに青ざめた。血の気が引いたように唇が震え、声が出ない様子だった。何か取り繕おうとしたが、義父の鋭い視線が彼を押しつぶすように圧倒していた。春樹はいつもなら堂々としているが、今はその自信を失い、逃げ場を失っているようだった。
「なんだよ、いきなり現れてさ。今日は旅行に行ってるはずじゃなかったのか」
軽い口調でなんとか場を収めようとする春樹だったが、その声は震えていた。義父の目は冷たく、今まで見たことがない表情だった。
「俺たちは、ゆき子さんから話を聞いていたんだ。お前がどれだけひどいことをしてきたか、全部な」
義父は静かに、だが確実に言い放った。その一言一言が春樹の余裕を徐々に奪っていく。その場の空気は重く、緊張が張り詰めた。
「お前の態度は許されるものじゃない。今までゆき子さんがどれだけ苦しんできたか、少しは考えたことがあるのか」
春樹は焦りながらも、必死に言い訳を重ねる。
「何を聞いたんだよ。ただ少し歩かせただけだろ。大したことじゃない」
その言い訳が虚しく響き渡ったその瞬間、義母は声を震わせながらも鋭く言い返した。
「少しって何よ?妊婦がどれだけ大変かも知らないで。ただでさえ、あなたの冷たい言葉や態度に傷ついて、心も体もボロボロになっているのに、それを少しだなんて」
義母は目に浮かんだ涙をなんとかこらえながら、春樹をじっと見つめた。その目には失望が色濃く現れていた。義母の涙は、ただの怒り以上のものを示していた。春樹はその視線に耐えきれず、うつむく。義母は呆れたように首を小さく振ってから続けた。
「春樹、ゆき子さんがどれだけ大変な思いをしてきたか知っているの?悪阻がひどくて何度も吐いて、夜も眠れずに苦しんでいたのよ。それでもあなたは一度も支えようとしなかった。そうね、あなたには人の心がないの?ゆき子さんがこれだけ辛い思いをしているか、全く理解していないのね」
義母の声が震え、言葉が感情に飲み込まれていく。激しい怒りと悲しみが混じり合い、まるで堰を切ったように彼女の胸の中から吹き出した。それはただの叱責ではない。母親として、息子がどうしてこんなにも無理解で無責任な態度を取るのか理解できないという叫びだった。ここまで怒っている姿を見るのは初めてだ。私はそう感じながら義母を見つめていた。
一方の春樹は、義母の言葉を受け止めきれずに動揺した表情を隠せない。彼はおろおろと視線を泳がせ、次に私へと目を移した。その瞬間、彼の心の中で何かが動いたのを感じた。彼は明らかに、私が義両親に何を話したのか気になっている様子だ。一体、ゆき子はどこまで話したんだと、内心で警戒し、頭の中で計算を始めているのだろう。けれど、そんなことを考えても無駄だ。私は全てを話しているのだから。
それでも私はわざと春樹の不安を煽るように、彼の疑問に対して冷静に口を開いた。
「春樹、ご両親が怒っているのは、嫁いびりだけじゃないわ。あなた、浮気してるでしょう。私が出産を控えていたというのに」
静かな声に含まれる鋭い刃。それが突き刺さると同時に、春樹の表情は一瞬で硬直した。彼の顔色がみるみる青ざめていく。だが、そんな状態でも彼は必死に虚勢を張ろうとした。
「は、浮気だと?何を言ってるんだ、ゆき子。俺がそんなことするわけないだろう。根拠もないのに、変な言いがかりはやめてくれ」
彼の声は震えていたが、言葉の端々に挑戦的な響きが残っていた。だが、そんな薄っぺらな言い訳が通じるわけがない。私はゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出し、静かに画面をタップした。そして春樹に見せたのは、彼とある女性が映っている写真だった。その写真は少し遠くから撮影されており、女性の顔ははっきりとは見えなかったが、春樹が彼女を抱き寄せている姿は誰の目にも明らかだった。
その瞬間、彼の動揺は隠しきれないものとなった。
「根拠がない?よくそんなことが言えたわね。私が何も知らないと思っていたの」
春樹の唇が震え、何かを言い返そうとするが、声にならない。そこへ義父の厳しい声が重く響いた。
「俺たちは、事前に写真も見せてもらった。だから、お前の浮気も知っている。誰と浮気しているかもだ。この事実を否定したいなら、お前こそ根拠を示してみろ」
「いやいや、そんな遠くから撮った写真一枚で、浮気だなんてバカバカしいだろう。その女性は体調が悪かったんだよ。だから体を支えてあげただけだ。それだけのことで浮気だなんて、おかしいだろう。ゆき子も父さんも母さんも、早とちりしてるだけだ」
彼の声はどこか歯切れが悪く、言い訳が空虚に響く。本当にバカな人。私は心の中でそう呟いた。この時点で素直に嫁いびりと浮気を認めていたら、少しは彼の未来も違っていたかもしれないけれど、彼は最後の最後まで白を切り続けるつもりのようだ。
私は淡々と彼の言い訳を聞き流しながら、次の一手を打った。
「早とちりしているのは、あなたの方よ。写真一枚しか証拠がないと思った?残念だけど、証拠は全て揃っているの。ちなみに、証拠集めは案外簡単だったわ。嘘だと思うなら、ついてきて。私の新居までね」
「新居って、お前、マジで引っ越したのか?あれって嘘じゃないのか?」
未だに半信半疑だったが、義両親の鬼の形相を見た瞬間、新居への同行を了承した。体裁を立てたくないという心境だったかもしれない。だが、春樹を動かしているのは、どうせ「ゆき子には何もできない」という慢心だろう。私を完全に舐め切っているのだ。
まあ、正直、春樹が私の言葉を信じるか信じないかは、どちらでも良かった。だって私は事実を伝えているだけ。春樹がどれだけ白を切っても、その事実を変えることはできないから。私は春樹を静かに見つめ、心の中で誓った。これから全ての真実を暴き、春樹には必ず相応の報いを受けさせると。義両親と共に、私は復讐の第一歩を踏み出したのだった。
新居に向かう道中、春樹は何度も私の耳元で問いかけてきた。
「ゆき子、本当に新居なんてあるのか?どうせ嘘なんだろ。今ならまだ間に合うぞ。正直に話せ」
「慌てないでよ。もうすぐ着くから、黙ってついてきて」
私は冷静に答えた。その冷静さに、春樹は少しだけ焦りを見せる。そして数分後、彼の焦りはさらに大きくなった。
「ここが新居だって」
「ええ、そうよ。そして、中に入れば全てが明らかになるわ」
私たちの目の前には、立派なマンションがそびえ立っている。外観は洗練されており、まるで都会の真ん中に現れたオアシスのようだ。春樹はそのマンションを見上げ、信じられないといった様子で呆然としている。彼の表情には、どこか悔しさが浮かんでいるのが見て取れた。だが、まだ驚くのは早い。このマンションに私が引っ越した理由を知れば、彼はもっと大きな衝撃を受けるはずだ。
マンションのエレベーターに義両親、春樹、そして私が乗り込むと、静かな空気が流れた。誰も言葉をかわさないまま、新居の階まで登っていく。エレベーターの中の緊張感は、まるで張り詰めた弓のようで、これから何が起こるのかを予感させる。そして私の部屋の前まで来たが、そこで立ち止まることなく、隣の部屋の扉の前に立った。私はふうと深呼吸をし、これから始まる対決に向けて心を沈めた。胸の鼓動が高なり、静けさの中に潜む不安が影を落とす。
玄関の扉は鍵も閉まっておらず、そのままドアの取っ手を回し、扉を開く。音もなく開かれた扉の向こうには、一人の女性が立っていた。この女性とは、私の妹、智花だ。彼女の顔には驚きと戸惑いが交錯している。
「ち、智花?どうしてお前がここにいるんだ?」
彼の声は高く、驚きのあまり思わず叫んでしまったかのようだった。智花の姿を見た瞬間、春樹の顔が驚きに満ち、血の気が一気に引いていく。彼の目が泳ぎ、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「春樹、このマンションは智花の新居でもあるの。それを知った上で、私も同じマンションに引っ越したのよ。あなたのその血の気が引いた表情から察するに、何も知らなかったようね。智花は、あなたの浮気相手なのに」
私の言葉が、まるで鋭い刃物のように春樹の心に突き刺さった。彼は絶句した。ここまで大胆に私が浮気相手に近づいたとは、夢にも思わなかったのだろう。浮気を知った当初は、私も春樹が妹と浮気しているとは信じられない気持ちがあった。しかし、これは変えようのない事実であり、どんなに目を背けても否定できない。
言葉を失っている春樹に、私は鋭い視線を投げつけた。その瞬間、彼の表情には焦りと混乱が混ざり合った。自分の立場が最悪に向かっていると察した春樹は、なんとか状況を打開すべく口を開いた。
「智花が浮気相手だって?何をバカなことを。ゆき子が勘違いしているだけで」
直後、春樹の言葉を遮るように、私はバッグから探偵が集めた証拠資料を取り出して机の上にパンと置いた。
「私の言ってたこと、忘れちゃったの?全て揃っているのよ。浮気の証拠はね」
春樹がその資料を手に取り、一枚一枚確認していく。高級ブランド店やホテルに出入りする春樹と智花の姿が写真に納められていた。義父は冷たい表情で春樹の顔を見て、低い声で言った。
「春樹、この写真を見て、私たちに何か言うことはあるか?」
「いや、違うよ。まさか、そんなことするわけないだろ。考えてみてよ。智花はゆき子の妹なんだ」
春樹は必死に否定したが、私は冷静に続けた。
「春樹、ここに来る前に言ったでしょ?『証拠集めは案外簡単だった』って。その言葉で察しがつかなかった?あなたの浮気相手は私の妹だから、接触するのも住所の特定をするのも簡単だったって意味よ。妹と同じマンションに引っ越して、私は監視を始めた。結果、あなたの浮気の証拠写真も撮影できたというわけ。どう理解できたかしら?」
春樹はハッとした様子で押し黙る。私を侮り、ほいほい新居についてきてしまったことを後悔しているようだ。その場が一瞬静まり返った時、今度は智花が涙を浮かべながら震える声で言った。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「智花、あなたの謝罪は後でいいわ。今は、春樹に全てを認めてもらう必要があるからね」
私は冷たく言い放った。妹への怒りもあるが、まずは春樹だ。私の計画の邪魔はさせない。新居のリビングに漂う緊張感は、まだ容易に解けるものではなかった。私はこの緊張感を途切れさせることのないように、次の言葉を続けようとした。その矢先、春樹が遮るように口を開く。まだこの場を乗り切れると思っているようで、言い逃れを開始した。
「確かに智花と一緒に買い物に行ったとかはあったけど、ただ付き添っただけだし、ホテルに行ったのも、ただ相談を受けただけなんだよ。決して変な気持ちがあったわけじゃないさ。だって俺と智花は、義理とはいえ家族でもあるだろ。家族の相談に乗るのがおかしいことか?違うよな。何勝手に俺が悪いみたいな感じにしてんだよ」
私が妊娠中に苦しんでいる時は、一つも相談に乗ってくれなかったのに、何を言っているのだろうか。ただ、春樹が言っていることも、筋が通ってなくもない。証拠写真に映っていたホテルというのは、ラブホテルではないからだ。でも、全てを知っている私には、何を言っても無駄だ。しかし彼は、何も知らないので弁明しているうちに、調子づいてくる。
「というか、こんな探偵まで雇って、俺を疑って落とし入れようとして、何なんだよ。ゆき子が俺と別れたくて、こんなこと仕掛けてきたんじゃないのか。新居のことだって、俺に無断だった。勝手に引っ越すなんて、どうかしてる。こんなことされたら、逆に夫婦を続けることなんてできるわけないじゃないか。もう付き合ってられねえわ」
そう言い放った春樹は、私たちを残してリビングから立ち去ろうとした。しかし、義父が彼の肩を掴み、力強く引き止めた。
「春樹、まだ話は終わっていないぞ。ゆき子さんの話すことを、ちゃんと最後まで聞くんだ」
ここまで来て、簡単に逃すわけがない。義両親の気持ちは全く同じで、春樹を睨みつける。私もこの機を逃すまいと、バッグから小さな録音機を取り出した。これを春樹の目の前に突きつけるように差し出し、間を置かず再生ボタンを押した。春樹は顔をしかめながら後ずさった。そうしてまた静かになった部屋の中に、男女が話している会話が流れ始めた。
「なあ、智花、もう少しで二人で生活できる環境を整えられると思うんだ。ゆき子にはもう愛情が尽きた。もう少しで離婚できそうなんだ。そうすれば俺たちは自由だ。一緒に幸せになろう」
「本当にお姉ちゃんは、何も気づいていないの?」
「大丈夫だ。ゆき子はバカだから、絶対に気づいてないよ。それにバレたとしても、俺なら言いくるめられる。あいつは俺の言いなりだからな。この時のために資金も少しずつ貯めてあるんだよ。二人で遠いところに行けば、うまくやれるさ」
その言葉が響き渡ると、春樹の顔にも義両親の顔にも衝撃が走るのが分かった。義父は顔を歪め、拳を震わせていた。
「これは誰の声だ?春樹、お前と智花さんの声に聞こえるぞ」
その声には、怒りと失望が交錯していた。春樹はその言葉に驚き、状況を理解できずに恐れおののくばかりだった。私は泰然とした態度を保ち、真相を明かすことにした。
「これは、車の中に仕掛けていた盗聴機で録音したものよ。春樹が証拠写真を見せても言い逃れしようとするかもしれないと思って、準備していたの。まさか、あなたが言い逃れしようとしたから、使うことになるとは思わなかったけど。でも、無駄よ。これは、あなたが私を捨てて離婚しようとしていた証拠。この音声は、お父さんやお母さんにも聞かせていなかったけどね」
この盗聴機を回収したのは、春樹が私を車で駅に迎えに来た時のことだった。彼は私に「歩いて帰れ」と言って車から追い出したが、私は車内に忘れ物がないか確認するふりをして、後部座席からその盗聴機をこっそりと回収したのだ。
さすがに春樹は動揺を隠せず、さっきの居丈高な態度はどこかへ消えてしまった。笑える話だ。彼は絶対にバレてはいないと高を括り、私を言いくるめようとしていたのに、浮気が発覚してしまっただけでなく、春樹と妹の計画が丸ごと筒抜けになってしまった。結果として、彼は逆に追い詰められることになった。冷静でいられる方が不自然かもしれない。目の前の春樹には、もはや毛ほどの余裕もなかった。
この状況に追い詰められた以上、観念するしか道は残されていないはずだが、それでもなお彼は言い訳を始めた。
「いや、これは違うんだ、ゆき子。本当は、浮気をやめようと思っていたんだ。前は確かにそういったこともあったかもしれないが、今は後悔しているんだ」
「あなたの言葉は、全て嘘よ。元々あなたは、私を捨てる計画を立てていた。この音声の中であなた自身がそう言ってるじゃないの」
その言葉を放った瞬間、春樹の顔は青ざめ、言葉を失った。直後、義父が怒りに任せて春樹に掴みかかり、激怒した。
「春樹!俺たちは、事前に全部聞いていたんだ。嫁いびりに浮気。しかも、浮気相手がゆき子さんの妹だとな。お前は、何も知らなかったとはいえ、俺たちの前で平然と嘘と言い訳を並べた。自分がどれだけ愚かなことをしているのか、自覚はないのか」
室内がビリビリと震えるほどの怒声だった。春樹は時間が止まったかのように固まってしまい、まさに絶体絶命の状況に。義母は涙を浮かべながら、私に深々と頭を下げてくれた。
「ゆき子さん、本当にごめんなさい。こんなことになるなんて」
その謝罪を見ていた春樹は、下唇を噛みながら俯いていた。しばらくの間、沈黙が続いた。しかし春樹の心には、怒りと自己弁護の感情が渦巻いているようだった。彼は再び口を開き、今度は開き直った態度で話し始めた。
「もういいだろう。ゆき子、確かに俺は浮気をした。それは事実だ。でも、浮気される方にも問題があるんじゃないか」
私は、驚きと怒りが入り混じった表情で春樹を見つめた。義両親も、彼の開き直りに信じられないといった様子だった。義母は声を震わせながら言った。
「あなた、何を言っているの?ゆき子さんの気持ちも知らないで。ゆき子さんはずっと、耐え続けていたというのに」
義母の言葉に、私は春樹との結婚生活を振り返った。妊娠中の私を支えてくれたことは一度もなく、悪阻の辛い日々も、飲み会や出張と称して家を開けてばかりだった。検診で赤ちゃんの成長が遅れていると言われた時、彼は「心配するな。大丈夫だよ」と言ってくれたが、今思えばそれも他人事だったように感じる。私は体調が悪い中で仕事を続け、食べ物を口に入れることさえ努力し、少しでも休めるように心がけていた。義両親はその苦労を知ってくれている。彼らが何度も励ましてくれたことが、唯一の救いだった。
「ゆき子が大変だったことは分かっているさ。でも、俺だって完璧じゃない。妊娠してから、お前は俺を構わなくなった。それが寂しくなったんだよ」
「ゆき子さんは、あなたの子供を産み育てるために頑張っていたのよ。それを理解しないで、自分が寂しかっただなんて、情けないことだと思わないの?」
「情けない?俺だって努力してきたんだ。仕事でのストレス、家庭でのプレッシャー。誰が俺のことを理解してくれた?」
「春樹、お前の言い分は聞く価値がない。ゆき子さんを裏切ったことが問題なんだ。自分の行いを正当化するな」
義両親は、息子の春樹に分かってほしい一心だったのだろう。二人とも怒りを抑えながら、諭すような口調で言った。確かに、人は誰しも完璧ではない。だからこそ間違えることもあるだろう。しかし、取り返しのつかないことをしてしまったら、後悔し反省することができるはずだ。完璧でないからこそ、過ちを認めることが重要なのだ。しかし、春樹はそれを認めようとせず、さらにはとんでもないことを言い放った。
「正当化?何言ってんだ?はっきり言って、浮気される方が悪いんだよ。そもそも、俺がお前と結婚したのは、世間体のためだった。子供を作ったのも同じ理由で、愛情なんてかけらもなかったんだ。でも、智花と出会ってから人生が変わったんだ。智花と結婚できれば、それでいい。そのためなら、家族なんて捨てられるさ」
この時の春樹は、さも当たり前かのように平然とした態度だった。彼が過ちを認めなかったのは、意地やプライドを守るためではない。自分が悪いとは1ミリも思っていないのだから、謝る必要なんてないというわけだ。追い詰められているというのに、余裕の笑みすら浮かべていた。春樹は、私たちが思っていた以上に人間として腐っていたと思わざるを得なかった。
「世間のために結婚した。同じ理由で子供を作っただ。挙句の果てに家族を捨てるなんて。ゆき子さんは、お前の所有物とでも言いたいのか?」
「その通りだよ。ゆき子は俺のものなんだ。だから、どう扱おうが俺の勝手だろう。むしろ感謝して欲しいくらいだ。俺と結婚できて、いい夢を見れたんだからな」
そう言った瞬間、春樹は私の手にあった録音機を奪い取り、なんと窓から外に向かって放り投げた。
「こんなもので、人の会話を盗み聞きするようなことしやがって。やっぱり俺は間違ってなかったんだよ。出て行ってやる。どうせ出ていくつもりだったから、いいきっかけになったんだよ」
ありえない言葉の数々に、義両親の体はブルブルと震えていた。普通なら、嫁である私もありえないと声を荒げるところだろう。それでも私は冷静な表情を崩さなかった。春樹の行動はお見通し。何度も言うが、私は全てを知っているのだ。
「春樹、あなたは本当に救いようがないわね。これが最後の忠告よ。このまま出ていったら、あなたは必ず後悔するわ。それが嫌なら、全てを認めて謝罪して。私だけでなく、ご両親にもね」
「バカか。お前は、後悔するわけないだろ。救いがないのも後悔するのも、お前の方だ。まんまと俺に騙されていたくせに、偉そうにするなよ。先に言っておくが、二度と俺たちに関わるな。次に俺たちの前に現れたら、どうなるか分かってるよな」
春樹は冷笑を浮かべ、鋭い視線で威嚇しながら、智花の手を引いて出て行ってしまった。義両親は追いかけることもできず、呆然と立ち尽くした。
「ゆき子さん、本当に申し訳ないわ。春樹には、必ず報いを受けさせるから」
「大丈夫ですよ、お母さん。その必要はありません。もう、全てが終わりました。春樹は、必ず後悔することになります」
その声には確信が満ちていたので、両親は戸惑いの表情を浮かべていたのだった。
あれから一週間後、私は義実家で静かにその時が来るのを待っていた。しばらくすると、ドアが開く音がして、疲れ果てた様子の春樹が現れた。彼の顔には焦りと絶望が浮かんでいた。
「ゆき子、来てたのか。なあ、智花の行方を知らないか。どこを探してもいないし、連絡が取れないんだ。お前の妹だろ。何か口裏を合わせして、また俺を騙そうとしているんじゃないか」
春樹の声は震えている。彼が本当に困っていると、一瞬で察することができた。もちろん、私にとっては想定内の出来事。そこで私は冷静に答えた。
「智花なら、もうこの町にはいないわ。また新しいところに引っ越すと言っていたわ」
「そんな。どういうことなんだ?この間引っ越したばっかりの新居はどうすんだよ」
「やっぱり、聞かされてないのね。実は、智花には多額の借金があったのよ。智花は昔から付き合っていた男がいて、有名なホストらしいわ。彼にお金を貢ぐために、いろんなところに借金したりしてたみたい。それで、相当なお金を彼のために貢いで、ずっとお金に苦労していたの」
智花の良くない話は、私の両親からはなんとなく聞いていたわ。その時はまさか智花が春樹を騙そうとしているとは思わなかったけどね。春樹は愕然とした表情で私を見つめた。何も知らなかったのだから、その反応も無理はないだろう。私は最後の種明かしをするように、ゆっくりと語って聞かせた。
「あなたの浮気が分かって、しかも私の妹だなんて、どんな冗談かと思ったわ。あなたが憎らしいのと同様、智花がとても憎らしかった。問い詰めて、あなたと一緒に罪を償わせようと思ったわ」
春樹は、マンションでの私の追求を思い出し、またぞろ寒気を覚えているようだった。それでも構わず、私は淡々と事実だけを述べた。
「でもね、智花を問い詰めた時、こう言ってたわ。『遊びのつもりだった。お金欲しさに春樹を騙してしまった』って。これっぽっちも愛情なんかない。だから許してって、謝られたの。もちろん、そんなお詫び程度で許せるはずはないけど、話を聞いていると、智花はもうお金が回らなくなっていて、借金取りに追われて住所を転々と変えているらしかったわ。あのマンションは、そのホストから一時的に借りたマンションだったみたいよ。その時、こう思ったの。智花は、もう私が何をしなくても、罪を償う時が来るだろうって」
「そんな嘘だ。そんな素振りは、全く見せてなかったのに」
私は、自分の表情が少し含みを持った笑みに変わったのを感じた。これまで私を下に見ていた春樹が、確実にダメージを負っている。もう一巻の終わりという状況だ。
「智花は、もう余裕がない状態だったわ。まさに、さっきあなたがこのリビングに入ってきたような顔をしてた。だから、智花はきっとあなたに頼るはず。そして、頼られたあなたは智花を助けようとする。そうすると、智花はあなたにできるだけ負債を負わせて、また逃げるだろうなって」
私の言葉は、容赦なく春樹の心を抉った。今の春樹が置かれている状況は、まさに私が予言した通りになっていた。
「知ってるなら、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ。教えてくれたら、智花と浮気することなかったのに。それに、お前の妹だろう?告発していいのかよ」
「あれ?もしかして、後悔しているの?言ったわよね、あなた。『後悔なんかするわけないだろう』って。忘れたとは言わせないわよ」
春樹はその言葉に打ちのめされ、床に崩れ落ちた。涙が頬を伝い落ちる。
「ゆき子。もう一度、チャンスをくれないか。全部、やり直したいんだ」
義両親もその場に立ち尽くし、息子の無様な姿に呆然としていた。
「春樹、これがお前の選んだ道だ。今まで散々なことをやってきたんだ。自分でけじめをつけなさい」
「そんなこと言わないでくれよ。ゆき子、本当に申し訳ない。どうか、許してくれ」
春樹は涙を流しながら、深く頭を下げた。私は冷静な表情を崩さず、冷たく言い放った。
「許すつもりはないわ。これからあなたには、法的に責任を取ってもらう。慰謝料も請求するわね。あなたとの結婚生活は、これで終わりよ」
「どうかお願いだ。智花のせいで、金もないんだよ。頼むよ。俺たち、夫婦だっただろう」
「あなたは、自分の行動の結果を受け入れるべきよ」
泣き崩れている春樹を冷ややかに見下ろしながら、私は告げた。その声には、これまでの苦しみとこれからの決意が込められている。春樹のお望み通り、もう二度と彼には関わらないつもりだ。人を物のように扱い、家族を騙して捨てるとまで言い放ったのだ。そんなこと、簡単に許せるわけがない。許してはいけない。何より、春樹は世間体のためだけに私と子供を作った。彼は本当に、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。もし春樹が今までと同じように生きていくのなら、その先に明るい未来なんてない。それだけは確信しているのだった。
それから、義両親の協力のもと、弁護士と共に離婚手続きを進め、春樹に対して慰謝料を請求した。春樹は全てを失い、義両親の監視のもとで生活を続けることになった。彼が逃げ出さないよう、厳しい目が常に見張っている。かつては温かかったであろう家庭の変わり果てた姿に、いくらか胸を締めつけられる思いもあった。春樹は、うちには私と娘が幸せに暮らしていることを知り、深い後悔の中に生きていくことになった。
智花と言うと、さらに深刻な状況に陥っていた。同じ手口で複数の男性からお金を騙し取っていたことが露見し、詐欺の容疑で逮捕されていた。智花は春樹のお金だけでなく、同様の手口で他の男性たちからもお金を集めていたのだ。智花はどん底に落ちるはめとなるが、それも仕方ないだろう。全ては自分で巻いた種。自分の行いについて、相応の報いを受けるべきだ。
私は自分の実家に戻り、両親と共に新しい生活を始めた。温かい家族のサポートのもと、娘と共に穏やかな日々を過ごしている。子供の笑顔を見つめながら、心の中で新たな決意を固めた。これからは、私たち二人で幸せな未来を築いていくわ。もう誰にも邪魔させない。
「お母さん、見て。ブランコに乗れるようになったよ」
「本当に上手ね。お母さんも嬉しいわ」
ある日、緑豊かな公園の中で、子供たちの笑い声を聞いていた。その中で娘が友達と一緒にブランコに乗って、嬉しそうにアピールをしている。私はその光景を見ながら、心の底から幸せを感じていた。でも、これからが本当のスタートだ。娘には、絶対に幸せな未来を与えたいから。



