「お前の親父の遺産5億円、全部うちの母さんの名義に変えておいたから。お前はもう用済みだ。さっさとこの家から出て行け。」
その一言で、温かかったはずのリビングの空気は一瞬にして凍りついた。だが、この時、目の前で下劣な笑みを浮かべる夫と義母は、全く気づいていなかった。数日後、自分たちが全てを失い、絶望のどん底で這いつくばって泣き叫ぶことになるという事実に。
最愛の父がこの世を去ってから一か月半が過ぎていた。49日の法要も無事に終わり、ようやく少しだけ肩の荷が下りた気がしていた週末の午後だった。秋の深まりを感じさせる冷たい風が窓を揺らし、西日がリビングの床に長く伸びた影を落としていた。私はキッチンに立ち、冷え切った体を温めるために温かいほうじ茶を入れていた。湯気がふわりと立ちのぼり、香ばしい香りが鼻をくすぐる。少しだけ心が安らぐ、そんなささやかな時間だった。
ドスドスという遠慮のない足音が廊下から響いてきた。足音の主は夫の健一だった。その後ろからは、こそこそ足のような独特の足音を立てて義母の枡が続いている。2人はリビングに入ってくるなり、ドカッとソファに腰を下ろした。まるで自分たちがこの家の絶対的な支配者であるかのような、ふんぞり返った態度だった。健一はテーブルの上にどさりと分厚い茶封筒を投げ出した。
「おい、お茶はまだか?さっさと持ってこい。」
顎で足を使う健一の目は、異常なほどギラギラと怪しい光を放っていた。義母もまた、口元を手で隠しながら、まるで何かを企んでいるような薄気味悪い笑いを浮かべている。私は無言のまま3つの湯のみをお盆に乗せてテーブルへと運んだ。健一の前に湯のみを置いた瞬間、彼は待っていましたとばかりに口を開いた。それが冒頭の一言だった。
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。父が遺した、一代で築き上げた会社の株や不動産、そして預貯金。その総額がおよそ5億円になることは私自身も弁護士から聞かされていた。しかし、なぜそれが義母の名義になっているというのか。健一は投げ出した茶封筒の中から数枚の書類を引っ張り出して、見せびらかすようにヒラヒラと振った。
「親父さんが亡くなる直前に書いた遺言状だよ。あのボケかけた頭で、俺たちに財産の管理を任せるってサインしたんだ。ま、ちょっとした細工はしたけどな。有能な知り合いに頼んで、法的に完璧な手続きを踏ませてもらった。もうお前の権利は完全にうちの母さんのものだ。」
義母の堪えきれないといった様子で、宝くじに当たったかのような甲高い声で笑い出した。
「本当に健一は賢い子に育ってくれたわ。あんたみたいなどん臭い女に、あの莫大なお金を管理できるわけがないもの。私がしっかり管理して、これからは健一と2人で優雅な老後を送らせてもらうわ。あんたはもう、この立派な家にはふさわしくないわね。」
私はただ静かに2人を見つめていた。怒りや悲しみよりも先に、あまりの浅ましさに呆れ果て、言葉を失っていたのだ。私の沈黙を、彼らはショックで声も出ないのだと都合よく解釈したようだった。健一の侮辱の言葉はさらに勢いを増していった。
「なんだよ。泣く気力もないのか。お前みたいにただ親の金にしがみついているだけの寄生虫は、世間の冷たい風にでも当たって苦労してみろ。着の身着のまま今すぐ出て行け。ああ、離婚届は俺が書いておいてやったから、後はハンコだけを押しておけよ。」
健一はポケットから折りたたまれた離婚届を取り出すと、見下すような目で私に投げつけた。ヒラヒラと舞い落ちた紙切れが冷たい床に転がる。義母も意地悪な目を細めて追撃してくる。
「そうね。駅前のボロアパートでも借りて、スーパーのレジ打ちでもして細々と生きていきなさいな。あんたのそのさえない顔じゃ、再婚なんて絶対に無理だろうしね。」
2人の下品な笑い声がリビングに響き渡る。まるで自分たちが世界の頂点に立ったかのような、完全な勝利を確信した笑いだった。しかし、彼らは知らなかった。私はゆっくりと息を吸い込み、床に落ちた離婚届を拾い上げた。そして背筋を真っ直ぐに伸ばし、彼らの顔を正面から見据えた。
「わかりました。喜んで離婚します。」
私の静かで一切の未練もないはっきりとした声に、2人の笑い声がぴたりと止まった。健一の顔に一瞬だけ戸惑いの色が浮かぶ。もっと泣き喚いてすがりついてくると思っていたのだろう。
「なんだと?強がるのもいい加減にしろよ。追い出されて困るのはお前なんだぞ。」
健一は焦りを隠すように声を荒げたが、私はすでに心の中で冷たく微笑んでいた。
「ええ、一向に構いません。ただ、あなたたちは1つだけ大きな勘違いをしているようですが。」
私はそこまで言うと、わざとらしく言葉を切った。窓の外ではカラスが不吉な鳴き声を上げて飛び去っていく。私が背負っていたものの正体を彼らが知った時、果たして今のその余裕の笑みを保っていられるだろうか。
「大きな勘違い?何の強がりだ。さっさと荷物をまとめて出ていけ。」
健一の怒鳴り声を背に、私は自室へと向かった。引き出しから印鑑を取り出し、乱暴に投げつけられた離婚届に迷うことなく印肉の跡を残す。身支度は驚くほど早く終わった。この家で私が自分のものであると主張できるものは、本当に少なかったからだ。数着の衣服と父と一緒に撮った古いアルバム、そして私の人生において最も重要な意味を持つ黒い手帳。それらを小さなボストンバッグに詰め込むと、私はぐるりと部屋を見渡した。
健一と結婚して15年。思い返せば息の詰まるような日々だった。私と健一は知人の紹介で知り合った。当時の彼は大手企業の営業マンとして働いており、人当たりも良く真面目そうに見えた。しかし結婚して数年後、彼は人間関係に疲れたと言ってあっさりと会社を辞めてしまった。無職になった夫を見かねた父は、自身が経営する建設会社「大藤建設」に拾ってくれた。それが全てのボタンの掛け違いの始まりだった。
社長の娘婿という肩書きを手に入れた健一は、あっという間に本性を表した。現場の仕事には一切出さず、役員室にふんぞり返ってネットサーフィンをする毎日。そればかりか、会社の経費で高級車を乗り回し、夜な夜な飲み歩くようになったのだ。父は何度も健一を叱責したが、その度に健一は「私は社長の娘婿として外で人脈を作っているんです」と言い訳した。
さらに地獄だったのは、結婚後3年目に義母の枡が「1人暮らしは寂しい」とこの家に転がり込んできたことだ。
「あんたは専業主婦なんだから、家のことは全部やって当たり前でしょう。健一は外で身を粉にして働いているんだからね。」
そう言って義母は私を火事場の馬鹿力のようにこき使った。健一が会社でどれだけ怠けているかを知りながら、息子を擁護するわ、現実から目を背けるわ、私への嫌がらせに精を出した。私は何度離婚を考えた。だが、その度に父が止めた。
「すまない。あのバカ婿を会社に入れたのは私だ。お前に辛い思いをさせて申し訳ないが、今はまだ耐えてくれ。会社のためにも。」
父がなぜそこまでして無能な健一を会社に置いていたのか、当時の私にはその本当の理由が分からなかった。しかし、半年前に父が末期の癌を宣告され、ベッドに伏せるようになってから状況は一変した。それまで父を煙たがっていた健一たちが、手のひらを返したように父の病室に日参するようになったのだ。
「社長、会社のことは俺に任せてゆっくり休んでください。」
「お父さん、何か食べたいものはありますか?私が作ってきますよ。」
猫撫で声で父にすり寄る2人の目的は、火を見るよりも明らかだった。遺産だ。大藤建設の株式、複数の不動産、そして莫大な現金。それらをどうにかして自分たちのものにしようと、必死に機嫌を取っていたのだ。そして今日、彼らはついに目的を果たしたと信じ込んでいる。父が意識を混濁させていた時期を見計らい、自分たちに都合の良い遺言にサインさせ、財産の名義を義母に変更したのだろう。
「おい、いつまで手間取ってるんだ。早く出て行け。」
1階から健一の苛立った声が聞こえてきた。私はボストンバッグを手に取り、静かに階段を降りた。玄関では腕組みをした健一と、勝ち誇った顔の義母が立ちふさがっていた。
「やっと出てきたわね。ほら、鍵を置いていきなさい。あんたはもうこの家の人間じゃないんだから。」
義母が冷たく言い放つ。私は無言のまま玄関の靴箱の上に家の鍵を置いた。
「いいか?もう2度と俺の前にそのしけた面を見せるなよ。俺はこれから大藤建設の社長として忙しくなるんだからな。」
健一が私の顔を覗き込みながら笑う。その目には勝利への優越感と私への軽蔑だけが映っていた。
「社長ですか?私は思わず小さく吹き出してしまった。」
「なんだその態度は。悔しくて頭がおかしくなったか。」
健一が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「いえ、ただこれからのあなたの社長業がどれほど大変なものになるのかと想像したら、少しだけかわいそうになりまして。」
「負け惜しみを言うな、この寄生虫が。さっさと消えろ。」
私は深く一礼すると、ドアの取っ手に手をかけた。外に出ると冷たい秋の風が頬を撫でた。15年間閉じ込められていた鳥かごから、ようやく解き放たれたような爽やかさだった。背後で、重厚な玄関のドアがバタンと勢いよく閉まる音がした。ガチャンと鍵をかけられる音まで丁寧に聞こえてくる。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、1つの番号をタップした。呼び出し音は数回鳴っただけですぐに相手が出た。
「もしもし。お嬢様、お待ちしておりました。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、父の右腕であり大藤建設の専務を務める黒木の声だった。
「黒木さん、今家を出ました。」
「ええ、あいつらは予想通り食いつきましたよ。」
「それではいよいよ、計画の第2段階に入りますね。」
「ええ、準備はいいわよね。」
私は振り返ることなく、夕暮れの町へと歩き出した。健一たちは5億円の遺産を手に入れたと狂喜乱舞しているが、彼らはまだ気づいていない。あの5億円が、父と私が仕掛けたとてつもなく恐ろしい罠であるということに。
黒木専務が手配してくれたビジネスホテルの部屋は、あの大邸宅に比べれば随分と質素だった。しかし、ここには私を怒鳴りつける夫も、嫌味を言う義母もいない。久しぶりに味わう本当の意味での静寂だった。窓から見える町のネオンをぼんやりと眺めながら、私はベッドに腰を下ろした。手元には家から持ち出したあの黒い手帳がある。父の筆跡で、大藤建設の真の財務状況と健一たちを追い詰めるための計画がびっしりと書き込まれた手帳だ。
その時、サイドテーブルに置いていたスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面に表示された名前は健一。家を出てからわずか数時間後のことだった。私は小さくため息をつき、通話ボタンを押して耳に当てた。
「おい、どういうことだ?金庫の暗証番号が変わってんじゃねえか。」
電話から鼓膜を突き破らんばかりの怒鳴り声が飛び込んできた。背後からはガチャガチャと何かを乱暴に漁るような音が聞こえてくる。どうやら父の書斎にある金庫を開けようとして失敗したらしい。私は言葉を発することなく、ただ冷ややかな沈黙を返した。
「おい、聞いてんのか?無視してんじゃねえよ。親父の隠し口座の通帳と印鑑はどこにあった?この泥棒猫、出ていくついでに金目のものをくすねたんだろう。」
一方的にまくし立てる健一の言葉は、どこまでも下劣で聞くに耐えないものだった。5億円の財産管理の移任と名義変更の書類は確かに彼らの手にある。しかし、それだけでは現金を引き出すことはできない。そのことにようやく気づき、焦り始めているのだ。
「泥棒猫とは随分な言いようですね。」
私が静かに口を開くと、健一はさらにヒートアップした。
「うるせえ。お前みたいな役立たずは、父の金がなきゃとっくに捨ててたんだよ。さっさと暗証番号を教えろ。俺はこれから忙しいんだ。」
その時だった。健一の怒鳴り声の奥から、高い甘ったるい声が聞こえてきた。
「健一さん、せっかくの高級シャンパンがぬるくなっちゃうよ。小母さんも待ちくたびれてるし。」
「あ、ああ、今行くよ。ルミちゃんごめんな。このバカ女がごちゃごちゃうるさくてさ。」
健一の声が一瞬にして、だらしない猫撫で声に変わった。ルミと呼ばれたその声の主には聞き覚えがあった。大藤建設の総務部にいる、まだ20代半ばの若い女性社員だ。なるほど。そういうことか。以前から健一の女癖の悪さには気づいていたが、まさか私が家を出たその日のうちに愛人を自宅に招き入れ、義母まで交えて5億円獲得の祝勝パーティーを開いているとは。彼らの底知れぬ浅ましさに、私は怒りを通り越して失笑さえ感じた。
「随分と楽しそうですね。総務のルミさんもご一緒ですか?」
「ち、聞こえてたか?ああ、そうだよ。お前みたいな色気も愛嬌もないババアとはおさらばだ。ルミちゃんは最高だからな。お前はもう用済みなんだよ。2度と俺たちに関わるな。」
「そうですか。では、その美味しいシャンパンを今のうちに存分に味わっておくことをお勧めします。明日からは、水さえ飲めなくなるかもしれませんから。」
「なんだと?負け惜しみも大概にしろよ。この貧乏人が。」
健一が何かをまくし散らす前に、私は静かに通話を切った。彼らが美酒に酔いしれるのは今夜が最後だ。明日になれば、彼らの見ているバラ色の世界は音を立てて崩れ去ることになる。
翌朝。秋晴れの高い空の下、健一はま新しいブランド物のスーツに身を包み、大藤建設のオフィスビルへと意気揚々と足を踏み入れた。社長室へ向かうエレベーターの中で、彼は自分の輝かしい未来を想像し、ニヤニヤと笑いが止まらなかったに違いない。邪魔な妻は追い出し、莫大な財産は手に入り、若い愛人もいる。これからは自分が会社のトップとして社員たちを顎で使うのだ。
「おはよう。今日から俺が社長だ。」
エレベーターの扉が開き、社長室のある最上階のフロアに降り立った健一は、大きな声で挨拶をしようとした。しかし、彼のその言葉は最後まで続かなかった。エレベーターホールには専務の黒木を始め、役員たちがずらりと並んで彼を待ち受けていた。だが、誰1人として「おはようございます」と頭を下げるものはいない。彼らの目は一様に冷たく、まるで汚いゴミでも見るかのような視線を健一に向けていたのだ。さらに奇妙なことに、黒木の横には会社の人間ではない、鋭い目つきをした3人のスーツ姿の男たちが立っていた。
「く、黒木。なんだこの出迎えは?それにこいつらは誰だ?」
健一は一瞬たじろぎながらも、強がったような声を出した。黒木はゆっくりと前に進み出ると、これまでに1度も見せたことのない氷のように冷たい声で言い放った。
「お待ちしておりましたよ。健一元部長。」
その一言が、健一の運命の歯車を狂わせる合図だった。
「元部長だと?ふざけるな、黒木。俺は今日からこの大藤建設の社長だぞ。」
健一の怒鳴り声が静まり返ったエレベーターホールにガンガンと響き渡った。秋の柔らかい日差しが最上階の大きな窓から差し込んでいる。しかし、そこに整列している役員たちの表情はまるで真冬の氷のように冷たく閉ざされていた。健一は苛立ったように新しいブランド物のネクタイを緩めると、黒木専務の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで一歩前に出た。
「お前ら、俺が親父さんから財産の管理を移任されたのを知らないのか?遺産だって全部うちの母さんの名義になってるんだ。つまり、この会社のオーナーは俺なんだよ。俺の言うことが聞けないなら、お前らみたいな無能な老体も今すぐ全員首にしてやる。」
唾を飛ばしながらまくし散らす健一。しかし、黒木は表情1つ変えることなく、毅然とした声で告げた。
「遺産の件は存じております。ですが、会社の人事は別問題です。昨夜の緊急取締役会におきまして、健一部長の解任が全会一致で決議されました。」
「はあ?解任だと?冗談じゃない。俺が社長だ。」
健一が逆上したその時、黒木の傍らに立っていた鋭い目つきのスーツの男が一歩前に出た。
「お見苦しいですね、健一さん。お噂通りの浅はかな方のようだ。」
「ああ?なんだお前は。警備員!さっさとこいつらをつまみ出せ。」
健一が喚くが、周囲の誰も動こうとしない。男は胸ポケットから名刺を取り出し、健一の顔の前に突きつけた。
「私は東京第一銀行融資部本部長の佐原と申します。そしてこちらは、御社の大口取引先である帝東建設の常務、及びの顧問弁護士です。」
その名を聞いて健一は一瞬たじろいだが、すぐに鼻で笑った。
「なんだ、銀行屋と下請けか。ちょうどいい。俺が新社長だ。これからは俺のやり方に従ってもらうからな。俺に偉そうな口を叩くなら、お前のところからの借金は全部別の銀行に借り替えてやる。帝東建設もだ。うちの仕事が欲しけりゃ、もっと頭を下げろ。」
その言葉に、役員たちは一斉に頭を抱え、深いため息をついた。メガバンクの本部長と業界最大手の常務を捕まえて「下請け」呼ばわりするその無知と傲慢さ。もはや救いようがなかった。黒木は懐からスマートフォンを取り出すと、画面を操作しスピーカー通話のボタンを押した。
「黒木さん、状況はどうですか?」
私の落ち着いた声がホールに静かに響き渡る。
「おい、お前、なんで黒木と繋がってんだ?」
健一がスマートフォンに向かって怒鳴りつける。私はホテルの一室で冷たいほうじ茶を口にしながら答えた。
「健一さん、あなたは自分が今どんな状況に置かれているか、全く理解していないようですね。」
「うるせえ。この貧乏神が。俺から遺産を奪えなくて悔しいからって、黒木たちと共謀して俺を嵌めようって魂胆か?お前みたいな中卒の底辺女が、俺の足を引っ張れると思うなよ。」
健一の口から私を貶める言葉が次々と飛び出す。15年間、私が家の中で聞かされ続けてきたあの見下しきった侮辱のセリフだった。私はあえて何も言い返さず、じっと黙り込んだ。スピーカー越しに、深い、深すぎる沈黙が流れる。それは、驚きを疲れたからではない。怒りで言葉が出ないからでもない。ただひたすらに、目の前の現実から目を背け虚勢を張ることしかできないこの男への、底知れぬ呆れだった。
「なんだ、沈黙を疲れて何も言えなくなったか?ははっ。いいか、俺には5億円の資産があるんだ。お前らがどうこうしようと、この会社は俺の金でどうとでもなるんだよ。」
沈黙を自身の勝利と勘違いした健一が、勝ち誇ったように高笑いをする。その笑い声が途切れた瞬間、私は静かに、しかし冷たく言い放った。
「ええ、そうですね。あなたには5億円がある。だからこそ、黒木さんたちは今日あなたを待っていたんです。」
「どういう意味だ?」
健一の顔からわずかに笑みが消える。黒木は手元にあった分厚い書類の束を健一の胸に強く押し付けた。
「健一元部長、先ほどあなたが誇示した5億円の財産についてですが、債権者及び全ての利害関係者を代表して、佐原本部長から1つ重要なご報告があります。」
「報告?佐原本部長が氷のような冷たい目で健一を見下ろした。その書類の3ページ目をご覧ください。あなたが換金できると思って義母様の名義に変更した、その財産の本当の明細です。」
健一は苛立ちながら乱暴に書類のページをめくった。
「何が明細だ?どうせ預金残高や株のリスト… 」
健一の言葉がふっつりと途切れた。そして、その数行の文字を目にした瞬間、健一の顔からさっと血の気が引いていくのが電話越しでも手に取るように分かった。
「ふ、ふざけるな。なんだこれは?借入金5億円だと。」
健一の裏返った悲鳴が、最上階のエレベーターホールに響き渡った。彼の手は小刻みに震え、持っていた分厚い書類がパラパラと床にこぼれ落ちる。電話越しに聞こえてくるその狼狽ぶりに、私は冷めたほうじ茶を一口飲み、静かに息を吐いた。
「どういうことだ、黒木?親父さんは金持ちだったはずだ。会社の株もあの豪邸も莫大な預金もあったはずだろうが。」
健一はすがるような目で黒木専務を睨みつけた。しかし、黒木は眼鏡の奥の目をわずかに細め、淡々と事実を告げた。
「先代社長が築き上げた財産は、確かにかつては存在しました。しかし、ここ数年の建設不況と、ある役員の放漫な経費の使い込みにより、我が社の経営は火の車でした。先代は会社と社員を守るため、資産を全て売却して会社の運転資金に当てていたのです。」
「そ、そんなバカな。」
「それでも足りず、東京第一銀行様から追加融資を受けるため、先代はご自身の名義で5億円の連帯保証の判を押されました。つまり、先代が残した遺産の実態は、プラスの財産ではなく5億円という莫大な負債だったのです。」
健一の顔から見るみるうちに血の気が引いていく。まるで幽霊でも見たかのように、口をパクパクとさせている。そこに銀行の佐原本部長が、氷のような声で追撃した。
「健一さん、あなたは先代が亡くなる直前、ご自身の口車で一歳の財産の管理権限を、小母様である枡子様に移任させましたね。そして今の専門家を使って法的に完璧な名義変更の手続きを行った。ということは、現在この大藤建設が抱える莫大な借金の保証人は、あなたのお母様ということになります。」
「ち、違う。俺は預金と株をもらうつもりで、借金なんて一言も聞いてない。」
「遺言書には、はっきりと『一切の負債を含む』と記載されていましたよ。あなたがご自身で『有能な知り合いに頼んで完璧にした』とおっしゃっていたではありませんか?債権者としては、法的な保証人である枡子様並びにその実施であるあなたに対し、本日を持って5億円の一括返済を求めます。」
「一括返済… 5億円。」
健一は完全に腰を抜かし、大理石の床にへたり込んだ。昨夜、高級シャンパンで乾杯した豪邸が、実は自分たちの首を絞めるためのロープだったとようやく理解したのだ。しかし、健一のような男が素直に自分の愚かさを認めるはずがなかった。恐怖は一瞬にして逆上へと変わった。
「ああ。ああ。そうか、分かったぞ。床に這いつくばったまま、健一はスマートフォンのスピーカーに向かって狂ったように叫び始めた。お前だ。お前、全部知ってて俺たちに押し付けたな。この期に及んで、自分の親の借金を夫と義母に押し付けて逃げる気か。この極悪人が。ふざけるな。」
私が15年間彼らから受け続けてきた理不尽な非難の集大成だった。
「お前みたいな中卒のバカ女に、許されると思うなよ。裁判で訴えて、詐欺罪で刑務所にぶち込んでやるからな。」
私はまたしても深い沈黙で応じた。電話越しに彼の怒声を聞きながら、私の心はどこまでも冷え切っていた。私の沈黙を恐怖で声が出ないのだと勘違いした健一は、さらに卑劣なカードを切ってきた。
「はっ、ビビって言葉も出ねえか?いいか、お前がどうあがいても逃げられない理由を教えてやる。お前、さっきルミちゃんのことを言ったよな?ルミはな、総務部にいる俺の愛人だ。ルミちゃんの実家はな、その筋じゃ有名なヤクザの家系なんだよ。彼女の親父さんに頼めば、お前を海の底に沈めることなんて造作もないんだ。分かったら今すぐ俺の前に来て土下座しろ。そして、この5億円の借金はお前が払うっていう念書に判を押せ。」
「ヤクザ… 」
その言葉に、黒木専務たちも一瞬だけ眉を潜めた。健一は本気で私を物理的に追い詰め、暴力の恐怖で支配しようとしていたのだ。
「どうした?命が惜しかったら、今すぐ這って来い。このクズ女が。」
健一の怒号が響き渡る中、私はゆっくりと息を吸い込み、口を開いた。
「ヤクザですか?それは本当に恐ろしいですね。」
「そうだ。怖くなったか。さっさと来い。」
健一は勝利を確信したように声を弾ませた。私を脅し落とすことに成功したと思い込んでいるのだ。
「ええ、わかりました。そこまで仰るのなら、私も覚悟を決めるしかありませんね。」
「はっは。最初からそうやって俺の言うことを聞いていればいいんだよ。」
狂笑する健一の声を背に、私は静かに電話を切った。そして手元にある黒い手帳を開き、あるページに挟んでいた1枚の写真をすっと抜き出した。そこには、健一が自慢に語った愛人、ルミの誰も知らない本当の顔が映っていた。健一は、自分の隣で甘い声を出す女が一体何者なのかを、全く分かっていない。私を追い詰めた気になっている彼こそが、本当の意味で逃げ場のない地獄の真ん中にいるのだ。私は手帳を閉じ、冷たくなったほうじ茶を一気に飲み干した。
「さて、いよいよ第3段階の幕開けだ。」
スマートフォンがけたたましい通知音を連続で鳴らしていた。画面には健一からのメッセージが滝のように流れ込んできている。
「おい、クズ女、いつまで待たせる気だ?ルミちゃんの親父さんが怒ってるぞ。若い衆をホテルに向かわせるって言ってるからな。命が惜しけりゃ今すぐ会社に来て俺の靴を舐めろ。5億円の念書にサインしろ。」
画面に踊る悪辣な言葉の数々を一瞥し、私は音を立てずにスマートフォンの電源を切った。彼が必死にすがりついている「ヤクザの親分」という幻想。それがどれほど滑稽で哀れなものかを知れば、健一は今度こそ本当に発狂するかもしれない。
私はホテルの部屋を出て、タクシーに乗り込んだ。向かった先は、健一が待つ大藤建設のオフィスではなく、都内でも有数の高級ホテルのラウンジだった。重厚な絨毯が敷き詰められた静かなラウンジの奥。そこにはすでに1人の女性が待っていた。グレーのシックなパンツスーツに身を包み、知的な銀縁の眼鏡をかけたその女性は、私が近づくとすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お待たせいたしました。奥様。」
「ありがとう。大変だったわね、ルミ子さん。あんな下劣な男の相手をさせるなんて。」
私が労いの言葉をかけると、彼女は眼鏡の奥の目を細め、ふふっと上品に微笑んだ。
「とんでもございません。これも仕事ですから。それに、あの男が自分の首を絞めていく様を間近で観察するのは、なかなか興味深い経験でした。」
彼女の名前は雪美子。つい数時間前まで、電話で健一の隣に座り、甘ったるい声で「ルミちゃん」と名乗っていた女の本当の姿である。彼女はヤクザの娘などではない。私が個人的に雇った、企業調査や身辺調査を専門とするフリーランスの敏腕エージェントだ。
ことの始まりは半年前、父が末期の宣告を受けた時に遡る。父は自分の死後、無能で強欲な健一と義母が会社を食い物にすることを確信していた。しかし、健一を無理やり会社から追い出せば、彼らは逆上して嫌がらせを繰り返し、社員たちに迷惑がかかる。そこで父と私は、彼らを法的に、そして社会的に完全に破滅させ、2度と立ち上がれないようにするための罠を仕掛けることにしたのだ。その手駒の1つとして、私が白羽の矢を立てたのが雪美子だった。彼女には総務部の派遣社員として大藤建設に潜り込んでもらい、健一の女癖の悪さを利用して近づき、彼の行動を全て私に報告させていた。
「それで、健一の様子はどう?」
私が尋ねると、ルミ子さんは呆れたようにため息をついた。
「滑稽としか言いようがありません。5億円の借金を奥様に押し付ける完璧な計画を思いついたと、本気で信じ込んでいますよ。私が『実家はヤクザだから、お父様に頼んで奥様を脅してあげる』と吹き込んだら、涙を流して喜んでいました。」
「そう。本当に救いのない男ね。」
私は冷めた紅茶に口をつけながら、15年連れ添った男の底知れぬ愚かさに、静かな絶望感を覚えていた。
「ところで、奥様。ルミ子さんが少し声を潜めた。本当にあの5億円の融資は、奥様ご自身のポケットマネーだったのですね。先代の社長からお話は伺っていましたが、実際に裏付けの書類を見た時は震えました。」
「ええ、父には内緒にしていたのだけれど、まさかこんな形で役に立つとは思わなかったわ。」
そう、これが健一たちは愚か、会社の役員たちすら知らない私の秘密だった。健一は私のことを「親の金にしがみついているだけの無能な専業主婦」と侮り続けていた。しかし現実は全く違う。私は大学時代から独自に株式投資と資産運用を始め、結婚後も自宅のパソコン1つで莫大な利益を生み出し続けていた。現在、私が個人で保有している資産は優に数十億円を超える。海外の投資家たちの間では、私の旧姓をもじった「マダム大藤」という名前で、ちょっとした有名人になっていたほどだ。大藤建設の経営が傾き、銀行からの融資が打ち切られそうになった時、私は裏から手を回し、自分の資産を担保にして東京第一銀行からの融資という形で5億円を会社に注ぎ込んだのだ。つまり、健一が義母の名義で引き継いだ莫大な借金の本当の債権者は、他でもないこの私自身だった。
「さて」私はテーブルの上に置かれた黒い手帳に手を置いた。「これで証拠は全て揃ったわ。健一の横領の記録も、義母が父を騙してサインさせた遺言の裏付けも。」
「ええ、いつでも警察と国税局を動かせる状態です。」
ルミ子さんが力強く頷く。その時、再び私のスマートフォンが震えた。画面には健一の文字。私はゆっくりと通話ボタンを押し、耳に当てた。
「おい、てめえ、どこほっつき歩いてんだ。ルミちゃんの親父の若い衆が、もうお前を探しに動いてるんだぞ。殺されたくなかったら、今すぐ俺の前に来て土下座しろ。」
電話から響く、恐怖と焦りが入り混じった金切り声。私は隣に座るルミ子さんと顔を見合わせ、声を出さずに冷たく笑った。そして、かつてないほど低く、氷のように冷たい声で健一に告げた。
「ええ、わかりました。今からそちらに向かいます。」
「は、やっとことの重大さが分かったか。はい、急いでこい。」
「はい。あなたたちの用意した地獄の審判にね。」
私はそのまま電話を切り、立ち上がった。
「さあ、15年分の未払いのツケを一括で精算する時間だ。」
最上階にある社長室は、かつて父が威厳を持って座っていた場所だ。しかし、今そこは責め合いにも似た、不毛な罵詈雑言の坩堝と化していた。
「どういうことなの?5億円の借金が私の名義になってるって、何かの間違いでしょう。あんた、私に『絶対安心な株と預金が手に入る』って言ったじゃない。」
義母の枡は、先ほど銀行員から突きつけられた書類を握りしめ、顔面を蒼白にしながらヒステリックに叫んでいた。その声は裏返り、上品ぶった普段のおかみさん然とした態度は微塵もない。
「うるせえな。俺だって今考えてるんだよ。あのクズ女、絶対にあいつが裏で糸を引いてるに決まってる。」
健一は髪を振り乱し、ま新しいブランド物のスーツをくしゃくしゃにしながら、苛立ちを隠せない様子で室内を歩き回っていた。彼は何度もスマートフォンを耳に当てていた。
「くそ。なんで繋がらないんだ。ルミちゃん、早く電話に出てくれ。」
健一は愛人であるルミの「ヤクザの父親」という架空の権力にすがりつこうと必死だった。ルミの父親の力を使えば、銀行員を脅して借金をチャラにさせ、私を拉致して全てを片付けさせることができると本気で信じ込んでいるのだ。しかし、ルミ子はすでに私の隣で優雅に紅茶を飲んでいたのだから、電話が繋がるはずもない。
「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか…

」
という無機質なアナウンスが、健一の焦燥感をさらに煽る。
「健一!早くそのヤクザの親分さんに連絡して、あの生意気な嫁を脅してもらいなさいよ。そして5億円はあいつに払わせるのよ。あんな価値のない寄生虫。海の底にでも沈めてもらえばいいわ。」
義母の金切り声が部屋に響く。そこへ、ノックもなしに社長室の重厚なドアが開いた。黒木が数名の役員を引き連れて、氷のように冷たい顔で立っていた。
「何のようだ、黒木?俺は今、ルミちゃんの親父さんと重大な話をしてるんだ。お前らみたいな無能な老体は引っ込んでろ。」
健一が虚勢を張って怒鳴るが、黒木は全く動じない。
「健一元部長、あなたには5億円の借金以外にも、重大なご報告があるのをお忘れですか?」
黒木は手にした分厚いファイルをデスクの上にドンと叩きつけた。
「これは、あなたが過去5年に渡って会社の経費を不正に流用した証拠書類です。架空の外注費の計上、水増しされた接待交際費、そして会社の金で購入した高級車。総額で1億2000万円に上ります。」
「で、出たらめだ!俺は親父さんから経費の使い道を一任されてたんだ。」
「先代が、あなたの愛人との高級ホテルへの連泊や、銀座のクラブでの豪遊を許可するはずがないでしょう。これは明白な業務横領です。すでに警察の捜査には相談を済ませ、証拠も提出してあります。」
「警察… 」
その言葉に、義母がビクっと肩を振るわせた。
「警察?健一!あんた、会社の金に手をつけてたの!?冗談じゃないわよ。私はそんなこと何も知らないからね。」
つい数時間前まで「本当に賢い息子」と、5億円の遺産を共に喜んでいた義母が、手のひらを返したように健一からじりじりと距離を取り始めた。
「ふざけんな、母さん。親父さんの全財産移任にサインしたのは母さんだろ。会社の責任も母さんが追うんだよ。俺の借金じゃない。母さんの借金だ。」
「何言ってるのよ。あんたが騙してサインさせたんでしょう。この親不幸者!」
見苦しい責任のなすり付け合い。自分の保身のためなら、実の親子であっても簡単に切り捨てる。彼らの醜い本性が、これ以上ないほど露わになっていた。その時、再び社長室のドアが開いた。
「随分と賑やかなようですね。」
私が静かに足を踏み入れると、社長室の見苦しい言い争いはぴたりと止まった。健一は私の姿を見るなり、顔を真っ赤にして飛びかかってきそうな勢いで怒鳴った。
「お前、よくもまあ、この場に顔を出せたな。てめえのせいで俺がどれだけ… 。ちょうどいい。今すぐここで5億円の念書にサインしろ!」
義母もまるで鬼のような形相で私を指差す。
「そうよ。あんたみたいな疫病神が来るから、こんなことになるのよ。中卒の底辺女のくせに偉そうに。さっさと借金を片付けなさいよ。ヤクザにでも売られちまいなさい。」
15年間、数えきれないほど浴びせられてきた侮辱の言葉。しかし、今の私にはそれほどのダメージもなかった。私はただ、床に散らばった横領の証拠ファイルと、泡を食ってまくし散らす2人の顔を交互に見比べ、冷やかな沈黙を保った。私のその見下すような視線に、健一はさらに苛立ちを募らせた。
「黙ってんじゃねえ。いいか、お前がいくら強がっても無駄だ。ルミちゃんの親父の若い衆が、もうビルの下まで来てるんだ。逃げられると思うなよ。」
得意げな顔でスマートフォンを突きつけてくる健一。その滑稽さに、私は思わずふっと小さく笑い声を漏らしてしまった。
「なんだと?何がおかしい?」
「いいえ。あなたがそこまで頼りにしているルミちゃんですが、あいにく実家はヤクザなどではありませんよ。」
「はあ?何を出たらめ言ってんだ。」
「出たらめかどうかは、これを見れば分かります。ルミちゃん。雪美子さんからあなたへの伝言と、預かり物です。」
私はバッグから1枚のま新しい名刺と、黒いUSBメモリを取り出し、デスクの上に滑らせた。それを見た瞬間、健一の目が大きく見開かれ、全身が小刻みに震え始めた。その名刺に書かれた肩書きが、彼の泣けなしの希望をこなごなに打ち砕くことになる。
「雪美子… 、総合身辺調査、企業信用調査、認定エージェント…
」
健一は大理石のデスクの上に滑らされた名刺を手に取り、震える声でその文字を読み上げた。何度も何度も目をこすりながら名刺の文字を凝視している。しかし、何度見直しても、そこに「ヤクザの組長」などという恐ろしい肩書きは書かれていなかった。
「どういうことだ?ルミちゃんは、泣く子も黙る極道の娘じゃなかったのか?俺に嘘をついていたっていうのか。」
健一の顔面から見るみるうちに血の気が引いていく。私は彼の手からこぼれ落ちそうになっているその名刺を、冷やかな目で見つめた。
「ええ、その通りです。彼女は私が個人的に雇ったプロの調査員。あなたと義母さんの素性を徹底的に洗うために、半年前に総務部の派遣社員として潜り込ませたのです。」
「お、お前が雇っただと?ふざけるな!じゃあ、ルミちゃんが俺に惚れてたっていうのは… 」
「全部、仕事ですよ。あなたのような浅はかな男に近づき、警戒心を解かせ、証拠を握るためのね。彼女は毎晩のようにあなたの愚痴や自慢話を聞かされて、本当にうんざりしていましたよ。」
健一は「ああ… 」と情けない声をもらし、その場に膝から崩れ落ちた。彼が自分の命綱だと信じてすがりついていた強大な権力は、最初から存在すらしていなかった。ただ、私が仕掛けた蜘蛛の巣の上で、いいように踊らされていたのだ。
「そんな… 。じゃあ、ヤクザの若い衆が迎えに来るっていうのも…
」
「もちろん、嘘です。あなたを最後までビクビクさせて、この場に留まらせるための、ちょっとした演出ですよ。本当にヤクザが来ると思って、ブルブル震えながら待っていたんですか?」
私が軽く小首を傾げて尋ねると、健一は顔を真っ赤にして床を殴りつけた。
「騙したな!この小賢しい女!お前みたいな血も涙もない悪魔、絶対に許さねえ。」
健一の咆哮が社長室に響き渡るが、もはやその声に威勢はない。ただの負け犬の遠吠えだった。
「騙されたのは、どっちかしら?黒木さん、そのUSBメモリを。」
私はデスクの上に置いていた黒いUSBメモリを指差した。黒木専務が無言でそれを拾い上げ、社長室の巨大なモニターに接続する。画面に映し出されたのは、数えきれないほどの音声ファイルと動画ファイルのリストだった。
「ルミ子さんがあなたと過ごした時間の中で収集した成果です。再生をお願いします。」
黒木専務がマウスをクリックすると、スピーカーから聞き慣れた男の、甘ったるくそして下劣な声が流れ出した。
「ルミちゃん、俺さ、親父が死んだら、この会社の金全部好きに使えるんだよね。そうしたら、ルミちゃんにはマンション買ってあげるよ。あのうるさいババア妻は、一文無しにしてポイ捨てしてやるからさ。義母さんも、ちょろいもんさ。遺産はあんたの名義にするって言えば、ホイホイ遺言にサインしたよ。まあ、いざとなったら、あの老いぼれも老人ホームにでも放り込んでやるけどな。ははは。」
音声が流れるたび、健一の顔は蒼白から土気色へと変わっていった。そして、その後ろで呆然と立ち尽くしていた義母の枡が、ついに堪えきれなくなったように悲鳴をあげた。
「け、健一!あんた、私のことを『ちょろい』とか言って、老人ホームに放り込むってどういうことなのよ!」
義母は鬼の形相で健一に詰め寄り、彼の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。
「やめろ、母さん!それはその… 酒の席での冗談で。」
「冗談でこんなこと言うわけないでしょう!この親不幸者!私を騙して5億円の借金を押し付けた上に、捨てる気だったのね。許さないわよ。絶対に許さない!」
義母の平手が、乾いた音を立てて健一の頬を打った。健一も逆上し、「うるせえ!離せ!」と義母を突き飛ばす。床に転がった義母は「人殺し!自分の母親に手をあげるなんて!」と泣き喚く。健一は頭を抱え「もう嫌だ。誰か助けてくれ!」と叫び声をあげる。数時間前まで5億円の遺産を手に入れて高笑いしていた2人が、今や互いに罵り合い、憎み合い、床に転がって見苦しい争いを繰り広げている。黒木専務を始め、周囲を取り巻く役員たちは、あまりの醜態に軽蔑の目を向けることすらやめ、ただ冷ややかに見下ろしていた。私はその地獄絵図を静かに見つめながら、15年間の鬱憤が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。しかし、これで終わりではない。
「見苦しい争いは、それくらいにしていただけますか?」
私の静かな、しかし凛とした声が、阿鼻叫喚の社長室に響き渡った。2人は動きを止め、恨みがましい目で私を睨みつける。
「なんだよ。まだ何かあるっていうのか。俺たちはもう、何もかも失ったんだぞ。」
健一が乾いた声で怒鳴る。
「ええ、あなたたちは全てを失った。でも、1番重要な真実をまだ1つだけ理解していません。」
「1番重要な真実?」
私は彼らに向かってゆっくりと歩み寄り、冷たく告げた。
「その莫大な借金、一体誰に返済しなければならないのか、お忘れですか?」
その言葉に、健一と義母の顔がさらに深い絶望へと歪んでいった。
「借金を返す相手?どういう意味だ?銀行に返すんじゃないのか?」
健一は焦点の定まらない目で、私と銀行員の佐原本部長を交互に見比べた。その顔には、これ以上悪いことなど起きるはずがないという、現実逃避の浅ましいすがりつきが見て取れた。佐原本部長は、感激のかけらもない毅然とした声で真実を告げた。
「弊行が先代社長に融資した5億円。それは弊行のプロパー融資ではなく、ある個人投資家様の資産を完全担保とした、信託形式の融資でした。つまり、弊行は単なる窓口に過ぎず、あなた方が5億円を返済しなければならない本当の債権者は、別にいらっしゃるということです。」
「こ、個人投資家… 。」
健一の口がだらしなく開く。
「はい。海外の金融市場では『マダム大藤』という名で知られる、辣腕の機関投資家様です。そして、その方の本名は… 」
佐原本部長はうやうやしく私の方へと向き直り、深々と一礼をした。
「こちらにいらっしゃる、先代社長のご令嬢。つまり、あなたの奥様です。」
その瞬間、社長室は水を打ったような静寂に包まれた。健一も義母も、まるで雷に打たれたかのように硬直し、息をするのすら忘れているようだった。
「は…
?な… なんだって?」
数十秒の沈黙の後、健一が絞り出すような声をあげた。
「聞こえなかったのかしら?」
私はゆっくりと健一の目の前に立ち、彼を見下ろした。
「あなたが押し付けられた莫大な借金。その本当の貸主は、他でもない。この私を、あなたが見下し、中卒の底辺だと侮り続けた、この寄生虫の私がね。」
「嘘だ!嘘に決まってる!お前みたいな中卒のババアが、5億円も持ってるわけがないだろうが!」
健一が乾いた目で叫び、立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らないのか、再び無様に床に崩れ落ちた。
「嘘だと思うなら、佐原さんに確認なさい。私が結婚前から株式投資を始め、独自の資産運用で数十億円の財産を築いていたことを、銀行は全て把握しているわ。」
佐原本部長が静かに頷く。
「奥様の資産残高証明書は、厳重に保管しております。先代社長の会社が傾いた際、奥様がご自身の資産から5億円を拠出し、会社を救ったのです。あなたは、その御仁の奥様を家から追い出し、恩人であるご自身の借金の債権者に対して、暴言を吐き続けていたのですよ。」
その事実が脳内で処理された瞬間、健一はガタガタと全身を激しく震わせ始めた。
「そ、そんな… 。じゃあ、俺は… 俺の一生は…
」
健一の頭の中で、これまでの自分の行動が走馬灯のように駆け巡っていたに違いない。自分よりも圧倒的な財力と権力を持つ妻を蔑ろにし、あろうことかその妻に莫大な借金を押し付けようと、ヤクザの嘘までついて脅迫したのだ。自分の愚かさが、取り返しのつかない巨大な絶望となって、彼に重くのしかかる。そして、その絶望をさらに加速させたのは、隣で聞いていた義母の言葉だった。
「健一!あんた、どういうことなのよ!あんたの奥さんがそんな大金持ちなら、なんで借金なんて押し付けたの!?謝りなさい!今すぐ奥さんに土下座して、借金をチャラにしてもらいなさい!」
義母は狂ったように健一の背中を叩き、私に向かって必死に媚を売り始めた。
「あ、奥さん!違うのよ!私は健一に騙されて遺言にサインしただけで、あなたのことは本当の娘みたいに思ってたのよ!ねえ、お願い!あの借金の話は、なかったことにしてちょうだい!」
手のひらを返す速度に、私は呆れ果てて言葉も出なかった。つい先ほどまで「ヤクザにでも売られちまいなさい」と罵っていた口で、よくもまあそんな白々しい嘘がつけるものだ。
「義母さん。あなたが私をどう思っていようと、法的な保証人があなたであるという事実は変わりません。そして、私はあなたたちからの返済を免除する気は一切ありません。」
私の氷のように冷たい言葉に、義母は「ひっ」と短い悲鳴をあげて後ずさりした。健一はついに完全に心が折れたのか、大理石の床に額を擦りつけ、泣き叫びながら土下座を始めた。
「ごめんなさい!俺が悪かった!浮気も横領も、全部謝る!だから頼む!5億円なんて返せない!俺を破産させないでくれ!見捨てないでくれ!」
男のプライドも何もなく、ただ涙と鼻水にまみれて命乞いをする健一。15年間、私を見下し続けてきた男の、それが真の姿だった。しかし、私の心には微塵の同情も湧かなかった。15年間、私が流した見えない涙の量に比べれば、彼のその涙など一滴の価値もない。
「泣いて済む問題ではありませんよ、健一さん。」
私は土下座する彼を冷たく見下ろしたまま、最後通告とも言える言葉を突きつけた。
「私が用意した地獄は、これだけではありませんから。」
「ええ…. ?」
顔を上げた健一の目に、新たな恐怖の色が浮かぶ。
「莫大な借金と横領による逮捕。それはあくまで結果です。あなたたちには、これから1番大切なものを失ってもらわなければなりません。黒木さん、次の方を。」
私の指示に、黒木専務が社長室のドアを開けた。そこへ入ってきたある人物の姿を見た瞬間、健一と義母は、今度こそ言葉にならない絶叫を上げることになる。
「神崎… !神崎!」
社長室のドアが開き、入ってきた人物の顔を見た瞬間、健一は素頓狂な悲鳴をあげた。入ってきたのは、小太りで神経質そうな金縁メガネをかけたスーツの男だった。その後ろには、体格の良いスーツ姿の男が2人、まるで影のように無言で立っている。
「どなたですか?あの方は。」
黒木専務がわざとらしく私に尋ねた。私は冷たく笑い、健一の顔を見据えながら答えた。
「健一さんが以前、自慢気に語っていた『有能な知り合い』ですよ。父の遺言を偽造し、5億円の負債の名義変更を完璧に行ったという、悪徳弁護士の神崎さんです。」
神崎は、すがりつくような健一の視線と目を合わせようとせず、深くうつむいている。
「おい、神崎!なんでお前がここにいるんだよ!ちょうどいい!お前が作ったあの遺言、俺たちに借金を背負わせるなんて聞いてないぞ!今すぐ無効だって証言しろ!」
健一は這いつくばったまま、すがるように神崎のズボンの裾を掴もうと手を伸ばした。しかし、神崎はその手を汚いものでも見るかのように、冷たく振り払った。
「やめてくれ、健一。もう、全て終わったんだ。」
「はあ?終わったって、何がだ!」
健一が間の抜けた声をもらす。神崎は重い口を開き、静まり返った社長室に真実を響かせた。
「奥様の雇った調査員、雪美子さんから、全て証拠を突きつけられたんだよ。お前が会社の金を横領していたこと。そして、あの遺言が、意識のない先代の手を無理やり握らせて描かせた、偽造であることもな。」
「な、バカ野郎!お前も共犯だろうが!」
「ああ、そうだ。だから私は、自分の罪を少しでも軽くするために、弁護士を通じて奥様に全面協力することにしたんだ。健一、私はあの日の病室でのやり取りを、お前たちが私を裏切った時のために、隠しボイスレコーダーで録音していたんだよ。」
健一と義母の顔が一瞬にして凍りつき、まるで石像のように固まった。神崎が胸ポケットから取り出した小型のレコーダーの再生ボタンを押すと、生々しい音声が流れ出した。
「母さん、親父さんの手をしっかり抑えて。」
「ちょっと、健一。本当に大丈夫なの?バレたら刑務所行きよ?」
「あのバカな嫁には絶対にバレない。あのクズ女は、どうせ資産のことなんて何も分かってないんだから。これで5億円は俺たちのものだ。さあ、早く判を押せ。」
自分たちの下劣な会話が響き渡る中、健一は頭を抱えて「うわあああ!」と獣のような唸り声をあげた。
「… というわけです。」
神崎の後ろに立っていた体格の良い男たちが一歩前に出た。そして、懐から黒い手帳を提示した。
「警視庁捜査2課のものです。書類偽造及び同行使、並びに詐欺未遂の容疑で、お2人に同行をお願いしたい。もちろん、会社の資金1億2000万円の横領の件についても、たっぷりとお話を伺いますよ。」
「警察官…
」
その絶対的な権力と、「逮捕」という現実の重みに、ついに義母の枡は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「ひいやああ!私じゃない!全部このバカ息子が勝手にやったことなのよ!私は無実よ!」
言葉にならない悲鳴をあげながら、義母は倒れ込んだまま健一の足を何度も蹴りつけた。健一はといえば、もはや人間としての尊厳すら失い、ガタガタと震えながら、床に水溜まりを作って失禁していた。ま新しいブランド物のスーツが、無惨に汚れていく。
「嫌だ!逮捕なんて嫌だ!刑務所なんかに行きたくない!母さん!母さんが無実だって言ってくれよ!俺のせいじゃない!」
親子による、この世の地獄のような醜悪な責任のなすり付け合い。自分の保身のためなら、肉親すら平気で生贄に捧げる。これが、私を15年間苦しめ続けてきた人間たちの本当の姿だった。私はその無様な光景を、ただ静かに、一切の感情を交えずに見下ろしていた。私からの義憤の込められた沈黙。それが、わめき散らす彼らにとっては何よりも恐ろしい圧力となっていた。
「連れて行ってください。」
私が警察官に短く促すと、彼らは健一と義母の両脇を力強く抱え上げて立たせた。ガチャリと痛ましい金属音が響き、健一の手首に手錠がかけられる。
「待て!待ってくれ!頼む!被害届けを取り下げてくれ!金なら返す!一生かけて奴隷になってでも返すから!俺にはまだ未来があるんだ!」
健一が狂ったように泣き叫ぶ。私は彼に向かってゆっくりと歩み寄った。
「健一さん。先ほど、これからあなたたちに1番大切なものを失ってもらうと言いましたね。」
「は?ええ、逮捕されて5億円の借金を背負わされて、それ以上に俺が何を失うって言うんだよ。」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにした健一が、擦りつくような声で問い返す。私は彼に背を向け、最上階の窓から見える真っ青な空を見つめながら、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「あなたが失うもの。それは、この15年間あなたがすがって生きてきた、あなた自身の『氏素性』ですよ。」
「俺の… 氏素性… ?」
健一の顔が恐怖と混乱で激しく引きつる。警察官に引きずられながらも、彼は私の言葉の意味を理解しようと必死に目を見開いていた。私が次に語る事実こそが、この狂った劇の根底を覆す、最大の事実であることを、彼はまだ知らない。
「俺の氏素性?どういう意味だ?答えろ!」
手錠をかけられた健一は、両脇を固める刑事の腕を振りほどと暴れながら叫んだ。その目は恐怖と憤怒で大きく見開かれ、まるで罠にかかった獣のようだった。床に転がったままの義母も、すがるような、そして憎悪の混じった目で私を見上げていた。私は彼らのその見苦しい顔を静かに見つめ返した。
「義母さん。あなたは幾度となく、私をこう罵りましたね。『中卒の分際で、うちの優秀な家系に入れただけでもありがたいと思いなさい』『結婚して何年経っても子供1つ産めない』『不妊症』『健一の優秀な遺伝子を残せない欠陥品』と。」
「事実じゃない!」
義母は、自分が逮捕される寸前だというのに、妙なプライドだけは捨てきれず、最後の反撃とばかりに甲高い声を荒げた。
「健一は一流大学を出たエリート!中卒のあんたなんかとはDNAの出来が違うのよ!あんたが不良品だから、私にはいつまで経っても孫の顔が見られなかったのよ!」
健一も母の言葉に乗っかるようにして叫んだ。
「そうだ!お前がいつまで経っても妊娠しないから、俺はわざわざ外に女を作ってやったんだ!俺の優秀な遺伝子を残すためにな!お前とは違うんだよ!」
秋の高い空から差し込む光が、社長室の大理石の床を冷たく照らしている。私は2人の浅ましい言い訳を遮ることなく、ただ深い、深い沈黙を保った。哀れだ。自分がどれほど無知で滑稽なピエロを演じているのか、この期に及んで全く気づいていない。私の沈黙を、驚きを疲れて言い返せないのだと勘違いし、一瞬だけ勝ち誇ったような顔をする健一が、ただただ滑稽だった。
十分な沈黙を置いた後、私はバッグからあの黒い手帳を取り出し、そのページに長年挟んでいた1枚の古い書類を抜き出した。
「結婚して5年目のことです。義母さんに毎日『早く孫を産みなさい』と攻め立てられ、私は1人で不妊治療の専門クリニックを受診しました。そこで、医師から『念のために夫の検査も』と勧められ、私はあなたが飲み干した紙コップから、こっそりと検体を採取して調べてもらったんです。」
健一の顔がキクッと引きつった。私はその古い診断書を、横に立つ黒木専務に手渡した。黒木専務は眼鏡の位置を直し、無機質な、しかしよく通る声でその内容を読み上げた。
「患者名… 健一様。検査結果…
無精子症。自然妊娠は愚か、顕微授精などの高度な治療を以てしても、患者様ご自身のお子様を授かる可能性は、限りなくゼロに近いと書かれています。」
社長室の空気がぴたりと止まった。健一の口がだらしなく開き、義母の目からすっと生気が抜け落ちる。
「な… なんだって… 。無精子症… ?俺が…
?」
「嘘よ!出たらめよ!」
義母が狂ったように金切り声をあげた。
「だって、健一は3年前に銀座のホステスを妊娠させてるのよ!その子を下ろすために、解決金として会社のお金から2000万円も払ったって… 。そうでしょう、健一!」
「あ、ああ、そうだ!俺は女を妊娠させたことがある!その手切れ金を払った!この診断書は、俺を落とし入れるためにお前が作った偽造だ!」
健一が乾いた目でまくし散らす中、後ろで控えていた雪美子がふっと冷やかな笑みをこぼして一歩前に出た。
「本当に、どうしようもない愛すべきお人よしですね、健一さんは。」
「なんだと、ルミ!てめえ、俺を裏切ったくせに偉そうな口を叩くな!」
ルミ子は持っていたタブレット端末を流れるような手付きで操作し、1枚の写真を社長室の巨大なモニターに映し出した。そこには、派手なドレスを着た若い女とホスト風の男が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて満面の笑みを浮かべている写真だった。背後にはハワイの青い海が広がっている。
「3年前にあなたが妊娠させたと信じ込んでいるホステスの、現在の姿です。彼女は当時、同棲していたこのホストの子供を妊娠していました。しかし、お金がなかったため、ちょうどお店で羽振りが良く、見栄っ張りであなたがカモを選んだんですね。ええ、あなたに『妊娠した』と嘘をつき、中絶費用と手切れ金の名目で、あなたから2000万円を騙し取った。そのお金で、彼女たちは今ハワイで優雅に子育てを楽しんでいますよ。」
「あ… あああ… 。」
健一の喉から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。彼が「自分の優秀な遺伝子を残した」と信じて、横領した会社の金まで注ぎ込んで守り抜いたプライドは、ただの悪質な詐欺だった。自分の子供ではない赤ん坊のために、会社から2000万円を横領し、それをホステスに貢いでいた。そして、ご自身が原因であるにも関わらず、何の問題もない奥様を『欠陥品』と罵り続けていた。
「調査員として数多くのクズを見てきましたが、あなたほどの底抜けのピエロは初めて見ました。」
ルミ子の氷のような事実の羅列が、健一の心臓を容赦なくえぐり取る。
「嘘だ!嘘だ!」
健一は手錠をかけられた両手で頭を抱え、大理石の床に頭をガンガンと打ち付け始めた。自分が「中卒の底辺」と見下していた妻は、数十億円を操る天才投資家。自分の命綱と信じていた愛人は、金と引き換えに寝返ったスパイ。自分が最も誇りにしていた「優秀な遺伝子」は、そもそも最初から存在すらしていなかったのだ。15年間、彼が虚勢を張って築き上げてきた虚構の誇りは、今、完全に音を立てて崩れ去った。
「け、健一!あんたが…
あんたが石男だったの!?じゃあ、私の孫は… 私の優秀な家系は、あんたのせいで終わりってこと!?」
義母は、全てを失った絶望とショックのあまり、ついに白目を剥いてその場に昏倒してしまった。
「連れて行ってください。」
私が静かに命じると、警察官たちは失神した義母と、泣き叫びながら床を転げ回る健一を、力づくで引きずり起こした。
「嫌だ!待ってくれ!母さん!ルミちゃん!神崎!誰でもいい!俺を置いて行かないでくれ!」
もはや人間の言葉の体をなしていない絶叫が、社長室に響き渡る。
「健一さん。」
警察官に引きずられていく彼の背中に向かって、私は最後にもう1つだけ声をかけた。彼が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をすがるように振り返らせる。
「まだ終わっていませんよ。あなたが1番知りたかった、最大の事実をまだ教えていませんから。」
「さあ、最大の事実… 。」
私は彼に向かって、この15年間で最高に冷静な微笑みを浮かべた。
「ええ。父がなぜ、無能なあなたを15年間もこの会社に置き続け、そして最後の最後に、あなたに全財産を委ねるような隙を見せたのか。その本当の理由をね。」
健一の目が限界まで見開かれた。そのまま彼は、ひと短い悲鳴を上げ、警察官によってエレベーターへと引きずり込まれていった。
数日後。どんよりとした鈍い雲から、冷たい雨がしとしとと降り続く午後だった。私は1人で都内の警察署にある面会室のパイプ椅子に腰を下ろしていた。無機質な白い壁と、目の前を遮り切る分厚いアクリル板。部屋には、埃と消毒液が混ざったような冷たい匂いが漂っている。重い鉄の扉が開き、1人の男が刑事に付き添われて入ってきた。その姿を見た瞬間、私は思わず目を疑いそうになった。
「来てくれたんだな。なあ、助けてくれよ。」
アクリル板の向こう側に座ったその男、健一は、つい数日前まで高級ブランドのスーツを着飾り、社長室でふんぞり返っていた男とはまるで別人だった。髪は油でベッタリと額に張り付き、頬はげっそりとこけ、無精髭がだらしなく伸びている。落ちくぼんだ両目は血走り、まるで怯えた小動物のように絶えずキョロキョロと動いていた。
「なあ、頼むよ。警察での取り調べ、もう耐えられないんだ。毎日毎日、横領の証拠を突きつけられて、俺はこのままじゃ頭がおかしくなっちまう。」
健一はアクリル板にすがるように両手を押し当て、涙声で哀願してきた。かつて、彼は私に向かってこう言い放っていた。「お前みたいな中卒の底辺女は、親父さんの金がなきゃとっくに捨ててたんだよ」「俺はお前とはDNAの出来が違うんだ」と。あの時、私を虫けらのように見下していた彼が、今はその「底辺女」に向かって、必死に命乞いをしている。私は冷え切った目で彼を見つめながら、ただ深い、深い沈黙を保った。
「黙ってないで、な、何とか言ってくれよ。お前、あの日言ってたよな。親父さんが俺を会社に置いてくれた理由があるって。最後に俺に全財産を委ねた理由があるって。親父さんは、俺の経営の才能を認めてくれてたんだろう?」
自分に都合の良いようにしか物事を解釈できない。その底抜けの愚かさに、私は静かにため息をついた。
「あなたにあるのは、底なしの強欲さと、見栄を張るための虚勢だけよ。」
私が冷やかな声で告げると、健一の顔がキクッと引きつった。
「15年前、あなたが初めて私の実家に結婚の挨拶に来た日のことを覚えているかしら?父はあの日、あなたの愛想の良い笑顔の裏にある本性を、一瞬で見抜いていたのよ。」
「本性… ?」
「ええ。父はすぐに興信所を使い、あなたの素性を徹底的に調査させたわ。その結果、あなたが消費者金融に多額の借金を抱え、複数の女性とトラブルを起こしている、最低の男だということが分かったの。」
健一の口がだらしなく開き、喉から「あ…
」と間の抜けた音が漏れた。
「なら、なんで… なんで親父さんは俺たちの結婚を許したんだよ?なんで、俺を会社に入れたんだ?」
「あなたを野放しにすれば、あなたは『大藤建設の社長の娘婿』という立場を利用して、外で取り返しのつかない大犯罪に手を染めるのが目に見えていたからよ。だから父は、あなたを役員室という檻に閉じ込め、手元で監視しながら飼い殺しにすることを選んだの。」
私はバッグの中から、あの日から持ち歩いている黒い手帳を取り出し、アクリル板越しに健一に見せた。
「あなたが会社の経費を横領し、愛人に貢いでいたことも、父は最初から全て見透かしていたわ。父がそれを黙認していたのは、いつか私があなたを見限った時、あなたを法的に完全に破滅させるための決定的な証拠として、あえて罪を重ねさせていたからよ。」
健一の顔から、見るみるうちに血の気が引いていく。彼は自分が「社長の娘婿」として会社を牛耳っていると信じていた。しかし、現実はただ証拠を集められるためだけに、狭い檻の中で餌を与えられ、踊らされていた猿に過ぎなかったのだ。
「じ、じゃあ… 親父さんが最後にボケたふりをして、俺たちに財産の管理を移任したのも… 」
「ええ、父の最後の仕事よ。」
私は手帳をしまい、冷酷な事実を突きつけた。
「父は自分が末期で長くないと知った時、最後の仕上げに取りかかったの。あなたたちに完璧な罰を与えるためにね。だから、わざと意識が混濁しているふりをして、義母さんが用意した遺言にサインした。あの5億円の借金を、あなたたちに背負わせるために、命をかけて芝居を打ったのよ。」
「じゃあ、あの5億円の遺産っていう甘い餌は…
!」
「その通りよ。父と私が仕掛けた罠。あなたたちは見事に食いつき、自分から進んで首に縄をかけたのよ。これが、父があなたを15年間生かしておいた、最大の理由よ。」
健一は両手で顔を覆い、「うわあああ!」と獣のような絶叫をあげた。全てを悟ったのだ。自分が最初から最後まで、手のひらの上で転がされるだけの滑稽なピエロであったことを。
「親父さんは… 俺を最初から… 。」
「父は私を守るために、自分の命と会社をかけたの。あなたたちのような寄生虫から、私を完全に解放するためにね。だから、私があなたの被害届けを取り下げることなど、天地がひっくり返ってもありえないわ。」
私の氷のような宣告に、健一はパイプ椅子から崩れ落ち、床に這いつくばって泣き叫んだ。
「許してくれ!俺がバカだった!もう2度とお前の前に姿を見せないから!一生かけて罪を償うから!だから、助けてくれ!」
私はゆっくりと立ち上がり、冷たく言い放った。
「ええ、一生かけて償ってもらうわ。5億円の借金は、自己破産しようが免除されないように、法的な手続きは全て済ませてあるから。」
私は面会室の出口に向かって歩き出し、ドアの取っ手に手をかけた。そして、最後に1度だけ振り返り、泣き喚く健一に向かってこう告げた。
「でもね、健一さん。あなたの本当の地獄は、まだこれからよ。」
「ええ… ?」
健一が、涙と鼻水にまみれた顔を上げる。
「あなたと一緒に逮捕された義母さん。彼女が今、警察署の別の取調室で、あなたについて何を証言しているか、知りたいかしら?」
健一の乾いた両目が、限界まで大きく見開かれた。
「母さんが…
俺について、何を言ってるって… 。」
アクリル板の向こう側で、健一はガタガタと震える唇から、掠れた声を絞り出した。その顔は恐怖に歪み、今にも泣き出しそうな子供のように引きつっている。私は冷たい雨が窓ガラスを叩く音を聞きながら、静かに、そして容赦なく事実を告げた。
「『私は何も知らなかったんです。全部、あの恐ろしい息子が仕組んだことで、私は無理やり従わされただけなんです』そう言って、泣き喚いているそうよ。」
健一の目が、限界まで大きく見開かれた。
「さらに義母さんは、こうも証言しているわ。『あの子は、言うことを聞かないと老人ホームに放り込むと私を脅しました。遺言のサインも、あの子が私の手を取って、無理やり判を押させたんです。私は、あの恐ろしい息子に支配された、哀れな被害者なんです』ってね。」
健一の喉から、空気が漏れるような音が鳴った。自分が主犯として重い罪に問われるのを恐れて、私に全ての罪をなすりつけようと、必死に作り話をしているのだ。
「身の母親に、完全に見捨てられた気分はどうかしら?」
数秒の空白の後、面会室に鼓膜が割れるほどの絶叫が響き渡った。
「あのクソババア!ふざけんな!最初から親父さんの遺産を狙って、俺を嗾けたのはあのババアの方じゃないか!自分が助かるために、俺を売る気か!」
健一は立ち上がり、手錠をかけられた両手でアクリル板をガンガンと狂ったように叩き始めた。
「刑事さん!呼んでくれ!今すぐあのババアをここに連れてこい!ぶっ殺してやる!俺を裏切るなんて、絶対に許さねえ!」
後ろに立っていた刑事が暴れる健一を力づくで押さえ込む。しかし、健一は錯乱状態に陥り、口から泡を飛ばしながらまくし散らした。
「おい、頼む!お前からも警察に行ってくれ!あのババアが無実だって!俺は騙されたんだ!俺だって被害者なんだよ!」
かつて私を「中卒の底辺女」と見下し、莫大な遺産を手に入れたと高笑いしていた男の、慣れの果て。自分の保身のためなら、実の親すら「ぶっ殺してやる」とまくし散らす。これが、彼が15年間隠し続けてきた、本当の「DNA」の出来だった。私は彼の見苦しい命乞いを遮ることなく、ただ深い、氷のような沈黙で応じた。いくら泣き叫ぼうが、いくら土下座をしようが、私の心には微塵も響かない。その絶対的な拒絶の沈黙が、健一にとっては何よりも残酷な拷問となっていたはずだ。
「あなたたち親子は、本当にそっくりね。」
私が静かに口を開くと、健一はぴたりと動きを止めた。
「自分の欲望のためなら、平気で他人を騙し、踏みにじる。そして、自分が不利になれば、今度は肉親すら平気で裏切り、生贄に捧げる。あなたたちがこの15年間、私にしてきたことの報いを、今度は自分たち同士で味わうのよ。」
「ま、待ってくれ… 。」
「私と、これ以上あなたが話すことは何もないわ。冷たい鉄格子の向こう側で、お互いを憎み合い、呪い合いながら生きていきなさい。」
私は席を立ち、冷たく言い放った。
「さようなら、健一さん。もう2度と、私の人生に関わらないでちょうだい。」
「待て!行かないでくれ!頼む!俺を1人にしないでくれ!」
背後から聞こえる健一の絶望的な叫び声を背に、私は1度も振り返ることなく、重い鉄の扉を開けて面会室を後にした。廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。15年間、私の心に重くのしかかっていた黒い泥のような感情が、秋の雨と共に洗い流されていくような気がした。
それから半年が過ぎた。季節は厳しい冬を超え、柔らかな春の日差しが降り注ぐ季節となっていた。東京地方裁判所の法廷。私は傍聴席の1番後ろに座り、目の前で唸る2人の被告人の後ろ姿を静かに見つめていた。証言台の前に立たされているのは、健一と義母の枡だった。半年間の拘置所生活で、2人はすっかりやつれ果て、かつての傲慢な面影は微塵も残っていなかった。健一は髪が抜け落ちて白髪混じりになり、義母は腰が曲がり、絶えず手をこすり合わせるように動かしている。
裁判の過程は、まさに地獄絵図だった。2人は少しでも自分の罪を軽くしようと、法廷の場で見苦しい責任のなすり付け合いを展開した。息子に脅された母が無実だと、公衆の面前で互いの非を暴露し合ったのだ。しかし、私が雪美子や神崎から集めた完璧な証拠と録音データの前では、彼らの見苦しい言い訳など一切通用しなかった。
「主文。被告人、健一を懲役6年。被告人、枡を懲役4年に処する。」
裁判長の重々しい声が法廷に響き渡る。その瞬間、健一は「ああ… 」と力なくその場に崩れ落ち、義母は「いやあ!私は悪くないのに!」と泣き喚きながら法廷の床に突っ伏した。彼らの罪は文書偽造や詐欺未遂だけではない。大藤建設の資金1億2000万円の横領についての民事訴訟も並行して行われており、彼らには莫大な損害賠償の支払い義務が科せられていた。さらに、私個人に対する5億円の借金の返済義務も、法的に完全に確定している。彼らが刑期を終えて出てきたとしても、待っているのは自己破産すら許されない、一生終わることのない借金地獄だ。2度と這い上がることはできない。完全なる破滅だった。判決を告げる声と共に、刑務官に引きずられるようにして法廷を後にする2人。健一は、去り際に一瞬だけ傍聴席の私の方を振り返った。その虚ろな目には、もはや私に対する憎しみすら残っておらず、ただ圧倒的な絶望だけが張り付いていた。私はそんな彼を、完全に透明な空気のように無視し、静かに席を立った。
外に出ると、春の温かな風が桜の花びらを舞い上げていた。全てが終わった。父が命をかけて仕掛けた罠は、見事に彼らを葬り去り、私を自由にしてくれたのだ。しかし、私の本当の人生はこれから始まる。あの場所へ向かうために、私は待たせてあった黒塗りのハイヤーに乗り込んだ。
黒塗りのハイヤーが滑り込むようにして停車したのは、大藤建設のオフィスビルの正面玄関だった。春の穏やかな日差しが、ガラス張りのビルをキラキラと照らしている。私が車を降りると、そこには黒木専務をはじめとする全役員と、大勢の社員たちがずらりと整列して待ち構えていた。
「おはようございます。社長!」
彼らの力強い、そして敬意に満ちた挨拶が響き渡る。かつて健一が社長気取りで出社した日、誰1人として頭を下げなかったあの寒々しい朝とは、まるで正反対の光景だった。私は真っ白なパンツスーツの襟を正し、彼らに向かって深く、静かに一礼した。今日、この瞬間から、私は「無能な中卒の専業主婦」という15年間の仮面を完全に脱ぎ捨てる。個人投資家「マダム大藤」として、そして大藤建設の新たな代表取締役社長として、この会社を生まれ変わらせるのだ。
本社の大会議室で行われた就任式で、私は全社員に向けて宣言した。
「先代である私の父が残したこの会社を、私は私の全財産をかけて守り抜きます。横領によって失われた資金は、すでに私の個人資産から補填しました。これからは、不正や隠蔽のない、社員全員が誇りを持てる会社に再建することをお約束します。」
私の言葉に、会議室は割れんばかりの拍手に包まれた。健一の独裁とパワハラに苦しめられてきた社員たちの顔には、希望の光が宿っていた。私はその拍手を全身で受け止めながら、心の中で父に報告した。
「お父さん、見ていてね。ここからが、私の本当の恩返し。」
同じ頃。高いコンクリートの壁と鉄条網に囲まれた、とある刑務所の作業場。そこには、大理石の社長室ではなく、埃と機械油にまみれた薄暗い空間で、ミシンに向かって作業服を縫い続ける1人の男の姿があった。
「おい、新入り。何ちんたらやってんだ。縫い目がガタガタじゃねえか。」
作業班の班長を務める初老の受刑者が、健一の頭を容赦なく小突いた。
「いっ…
痛えな。俺を誰だと思ってんだ。俺は、少し前まで年商数十億の建設会社の社長だった男だぞ。」
健一が顔を真っ赤にして怒鳴り返す。しかし、班長の男は鼻で笑い、健一の顔に唾を吐きかける勢いで言い放った。
「寝言は寝て言え、このクズが。お前が横領で捕まったアホ社長だってことは、もう知られてんだよ。お前、俺の顔に見覚えはないか?」
「はあ?誰だ、お前なんか知るか。」
「3年前、お前が『下請けのゴミは黙って俺の言う通りに安く仕事しろ』ってな、一方的に取引を切った山根工業の社長だよ。おかげでうちの会社は倒産して、俺は借金まみれでここにいるんだ。」
「や、山根… !まさか… 。」
意外な人物との再会に、健一の顔から血の気が引いた。
「ここじゃ、外の肩書きなんかクソの役にも立たねえんだよ。お前みたいな底辺のゴミは、這いつくばって俺の命令を聞いてりゃいいんだよ。ほら、さっさと手を動かせ。」
班長に蹴り飛ばされ、健一はコンクリートの床に無様に転がった。かつて「中卒の底辺女」と妻を侮辱し続けてきた彼が、今、かつて自分が踏みにじった男から「底辺のゴミ」と罵られ、泥水をすら飲まされている。見事な因果応報だった。
その日の昼休憩。食堂の隅で、健一が味気ない麦飯をかき込んでいると、壁に設置された古いテレビから聞き慣れた名前が聞こえてきた。
「続いてのニュースです。経営不振がささやかれていた中堅ゼネコンの大藤建設ですが、本日、新社長の就任会見が行われました。新社長は、先代社長のご令嬢であり、海外では天才的な個人投資家として知られる… 」
テレビの画面に、フラッシュの光を浴びて堂々と立つ、真っ白なスーツ姿の女が映し出された。
「あ…
あいつ… 。」
健一の持っていた箸が、カランと音を立てて床に落ちた。画面の中の私は、かつて健一が見下していた地味で冴えない女ではなかった。自信に満ち溢れ、洗練されたカリスマ性すら感じさせる、圧倒的な存在感を放っていた。リポーターがマイクを向けて、意地悪な質問を投げかける。
「新社長。ご主人が多額の横領で実刑判決を受けたばかりですが、その点についてのお気持ちは?」
画面の中の私は、一瞬だけ深い沈黙を落とした。健一はテレビにすがりつくように、画面を見つめた。泣いてくれ。恨み言を言ってくれ。そうすれば、まだ自分があいつの心の中に存在していると思えるから。しかし、私が沈黙の後に見せたのは、春の陽だまりのような、一切の翳りのない美しい微笑みだった。
「過去のゴミは、すでに綺麗に清掃を終えました。今の私の目に映っているのは、この会社と社員たちの輝かしい未来だけです。終わった人間の話に割く時間は、私には1秒たりともありません。」
完全なる無視。絶対的な拒絶。私にとって健一は、もはや憎む価値さえない、道端の石ころ以下の存在へと成り下がっていたのだ。
「うわああああ!」
食堂に、健一の鼓膜を破るような絶叫が響き渡った。彼は頭を抱え、自分の愚かさと、永遠に手の届かない高みへ行ってしまった妻の姿に、発狂したように泣き叫んだ。しかし、周囲の囚人たちは「またあのバカが騒いでるぜ」と冷ややかな目を向けるだけで、誰1人として彼に手を差し伸べるものはいなかった。冷たいコンクリートの壁の中で、彼は一生、その後悔と絶望の炎に焼かれ続けるのだ。
こうして、私を縛りつけていた全ての鎖は断ち切られた。就任式を終えたその日の夕方、私は黒木の運転する車で、郊外にある静かな霊園へと向かっていた。
「社長、本当にお疲れ様でございました。」
黒木専務が、バックミラー越しに優しい目を向けてくれる。
「ありがとう、黒木さん。でも、これで終わりじゃないわ。最後に、1番大切な報告をしに行かなくちゃ。」
オレンジ色に染まる夕焼け空の下、私は父の眠る墓へと歩みを進めた。玉砂利を踏む静かな足音が、夕暮れの霊園に吸い込まれていく。どこからか、かすかに沈丁花の香りが漂ってくる。春の風が、ほてった私の頬を優しく撫でた。
「お父さん。全て、終わらせてきたわよ。」
心の中でそう語りかけながら、父の墓石が見える角を曲がった。しかし、そこで私は思わず足を止めた。父の墓の前には、すでに1人の人物が立っていた。背筋をピンと伸ばした白髪の初老の男性。彼が手向けたのだろう、墓前には父が1番好きだった見事な白い菊の花束が供えられていた。足音に気づいたその男性が、ゆっくりとこちらを振り返る。その顔を見た瞬間、私は驚きのあまり小さく息を飲んだ。
「佐々木副社長… 。」
そこに立っていたのは、紛れもなく意外な人物だった。佐々木さんは、父が会社を立ち上げた時からの右腕であり、私が幼い頃から本当の親戚のように可愛がってくれた人だ。しかし3年前、社長気取りで暴走し始めた健一と衝突し、会社を去っていたはずだった。
「お久しぶりです、お嬢様。いや、今日からは社長、とお呼びすべきですね。素晴らしい就任会見でした。先代も、草の陰でさぞお喜びでしょう。」
目尻に深い皴を寄せ、佐々木さんは昔と変わらない温かく優しい笑顔を向けた。
「佐々木さん… 。どうしてここに?健一に会社を追い出されてから、ずっと連絡が取れなかったのに。」
私が尋ねると、佐々木さんは静かに首を横に振った。
「私は、あの男に追い出されたわけではありません。先代であるお父様から、ある命令を受けて、あえて健一の前から姿を消し、裏で動いていたのです。」
「父からの、命令?」
佐々木さんは懐から、古びた一通の封筒を取り出した。表には、見慣れた父の力強い筆跡で、私の名前が記されている。
「お嬢様が全ての荷物を下ろし、社長として会社を救ってくれたその日に、これを渡すようにと先代からお預かりしていた、最後の手紙です。」
私は震える手でその封筒を受け取った。封を切り、中に折りたたまれた便箋を開く。そこには、病床で力を振り絞って書かれたであろう、父の最後の言葉が並んでいた。
「愛する娘へ。お前がこの手紙を読んでいるということは、あの愚かな男たちを綺麗に掃除し、大藤建設の社長に就任してくれたのだろう。15年間、お前には本当に辛い思いをさせた。父親として、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。健一がお前を指して『中卒の寄生虫』『何も生み出せない欠陥品』と侮辱するたび、私は腸が煮えくり返る思いだった。今すぐあいつを殴り飛ばし、会社から叩き出してやりたかった。しかし、お前は決して声を荒げることなく、ただ静かに、毅然とした沈黙を守り続けていたね。お前のその沈黙を見るたび、私はお前の心の奥底にある、知れ渡ることのない強さを感じていたのだ。」
手紙を持つ私の手に、じわりと汗が滲む。父は、私の苦しみを全て知っていてくれたのだ。
「何を隠そう、私は知っていたんだよ。お前が自分の部屋でパソコン1つで何十億もの資産を動かす天才的な投資家、『マダム大藤』であることを。」
その一文を読んだ瞬間、私の目からポロリと1粒の涙がこぼれ落ちた。私自身、父にも完全に隠し通せていると思っていた最大の秘密。しかし、父の目は誤魔化せていなかったのだ。
「お前が沈黙していたのは、弱いからではない。言い返せないからでもない。あの愚かな男を泳がせ、会社と社員を完璧に守り抜くための、周到な罠を張る準備をしていたからだということも、私には痛いほど分かっていた。だからこそ、私は安心して、あの5億円の借金という最後の大芝居を打つことができた。お前なら、必ず私の残した『負債』という名の罠を利用し、あいつらに完全な罰を与え、会社を正しい道へと導いてくれると信じていたからだ。」
あの莫大な借金の罠は、父が仕掛けたものではなかった。私という人間を心の底から信頼し、私の能力の全てを理解していた父が、私に託した最高のバトンだったのだ。これが、父が残した最大の、そして最後の逆転劇だった。
「佐々木には、あいつらが会社を食い物にしても、絶対に社員たちが路頭に迷わないよう、裏で受け皿を作る準備をさせていた。お前が『マダム大藤』としての資金を投入するまで、佐々木が防波堤になってくれていたのだよ。お前は、私の誇りだ。これからは、もう誰も偽らず、お前の本当の力で、お前の好きなように生きていきなさい。お前の幸せな未来を、ずっと見守っている。愛しているよ。」
手紙を読み終えた時、私の視界は完全に涙で滲み、何も見えなくなっていた。15年間、誰にも本音を明かさず、感情を殺して毅然と生きてきた。健一たちを地獄に突き落とした時でさえ、私の心は氷のように冷たく乾き切っていた。しかし、今、父の底知れぬ愛情と絶対的な信頼に触れ、私の心の中で凍りついていたものが、音を立てて溶け出していくのが分かった。
「お父さん…
。お父さん… 。」
私は手紙を胸に強く抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。憎しみも、怒りも、復讐の執着も、全てが涙と共に洗い流されていく。ただ、父の愛に包まれた1人の娘として、子供のように泣きじゃくった。佐々木さんは、何も言わず、ただ優しく私の肩に手を置いてくれていた。
どれくらい泣き続けただろうか。気がつけば、西の空に沈みかけていた太陽は完全に姿を消し、深藍の美しい夕闇が霊園を包み込んでいた。私はゆっくりと立ち上がり、乱れたスーツを整え、袖口で涙を拭った。
「佐々木さん。長い間、父と私を支えてくださって、本当にありがとうございました。」
私が深々と頭を下げると、佐々木さんは目を細めて微笑んだ。
「お礼を言うのは、私の方です。社長。どうか、もう一度、大藤建設で働かせていただけないでしょうか?微力ながら、あなたの右腕として、この命を捧げる覚悟です。」
「もちろんよ。あなたがいなくては、お父さんに怒られてしまうわ。」
私がそう答えると、少し離れた場所に車を止めて待っていた黒木専務が、静かにこちらへ歩いてきた。黒木専務と佐々木副社長。かつての父を支えた最高の両輪が、今、私の元で再び揃ったのだ。
「さあ、行きましょうか。私たちの、新しい会社へ。」
私がそう言うと、2人は力強く頷いた。振り返ると、父の墓石が、夕闇の中で優しく微笑んでいるように見えた。私を縛りつけていた鎖は、もう何1つない。これからは、愛する父が残してくれたこの場所で、私を信じてくれる仲間たちと共に、光の当たる道を堂々と歩いていくのだ。夜風が心地よく吹き抜ける中、私たちは並んで霊園を後にした。明日から始まる新しい日々は、きっとこの空のように、澄み切って美しいものになるに違いない。


