「泥のついた作業着で、株主総会に来るなんて、間違いもいいところだわ。貧乏人は帰ってください」 受付でそう言われたのは、二十四歳の私だった。祖父が残してくれた三十三パーセントの株式と、九百九十九億円の遺産。でも私は、その日の朝まで同じ建設現場で働く作業員だった。泥だらけの安全靴で床に小さな土を残しながら、私は静かに受付に立った。そして淡々と答えた。 「では、お望み通りに」…

「泥のついた作業着で、株主総会に来るなんて、間違いもいいところだわ。貧乏人は帰ってください」 受付でそう言われたのは、二十四歳の私だった。祖父が残してくれた三十三パーセントの株式と、九百九十九億円の遺産。でも私は、その日の朝まで同じ建設現場で働く作業員だった。泥だらけの安全靴で床に小さな土を残しながら、私は静かに受付に立った。そして淡々と答えた。 「では、お望み通りに」...

午前五時、アラームが鳴る前に美は目を覚ました。薄暗い六畳のアパートに、早朝のトラックの音が遠くから届いていた。今日も現場だ。着替えて弁当を詰めて、水筒にお茶を入れる。毎朝と同じ支度を終えると、美は作業着に身を包んだ。

美が働くのは市内の中堅建設会社、吉村建設。入社三年目の現場作業員として、足場を組み、コンクリートを打つ。泥にまみれ、汗をかいても、美は現場が好きだった。この日も朝六時には現場に入っていた。

「押野さんはいつも一番早く来るな。二年間、一度も遅刻したことがない」
「現場が好きなんです。ここにいると、じいちゃんを思い出すから」

美は小さく微笑み、泥だらけの手でヘルメットをかぶり直した。

美の祖父は星野慶造。去年、八十二歳でこの世を去った。半年ほど前のことだ。急性心筋梗塞だった。現場で倒れ、作業服のまま硬い地面で息を引き取った。それがじいちゃんらしかった。

葬儀の日、美は一度も声をあげて泣かなかった。ただ胸の奥で何かが固まっていくような感覚があった。

慶造は戦後の焼け野原から建設業で財をなした実業家だった。十六歳で奉公に出て、二十歳で独立し、四十年かけて星野ホールディングスを築いた。工事一つ一つを誠実にこなし、絶対に手を抜かなかった。手を抜かない。それがじいちゃんの仕事だった。

その過程で、地域の金融機関、生和銀行の創業を資金面で支えた。創業当時、百億円を出した。誠実に働く人に融資できる銀行を作りたい。地域に生きる農家、漁師、職人、建設業者のための銀行だった。

美は小学生の頃、慶造によく連れられた。建設現場、農家の畑、漁港、商店街。どこへでも一緒に行った。

「ここで働く人たちのために、じいちゃんは銀行を作った。絶対に忘れるな、みお。誠実に働く人を大切にしない銀行は腐る」

美が十八歳の時、慶造に連れられて初めて株主総会へ行った。スーツ姿の大人たちに囲まれ、美は小さくなっていた。でも慶造は堂々と前の席に座り、美の肩に手を置いた。

「いつかここに自分一人で来い。この銀行を守れるのはお前だけだ」

当時は意味が分からなかった。今は分かる気がした。半年ほど前、弁護士から告げられた遺産に、美は言葉を失った。生和銀行株三十三パーセント。時価九百九十九億円相当。星野ホールディングスの代表権と不動産も数十億円あった。

「じいちゃん、こんなに持ってたの?」

美は弁護士事務所のソファーでしばらく動けなかった。九百九十九億という数字が、まるで現実に思えなかった。なぜ生きている間に教えてくれなかったのか。でもすぐに分かった。教えたら、美の生き方が変わってしまう。じいちゃんは作業員として誠実に生きる美を見ていたかったのだ。大金持ちになって現場を知らない人間にだけはなりたくない。

美はそのまま現場の仕事を続けることを決めた。母の和子は今も病院にいた。肺の疾患で長期入院中だ。ある夜、美は仕事帰りに病院へ寄った。廊下を歩きながら、鼻の奥が少し痛くなった。消毒液の匂いがする静かな夜の病棟だった。

「お母さん、入るよ」

病室のドアを開けると、和子が窓の外を見ていた。ベッドに横たわる和子の手は以前より細くなっていた。美はその両手をそっと包み込んだ。

「美、ごめんね。お金のことばかり心配かけて」
「心配しなくていいよ。私には現場がある。それにじいちゃんが守ってくれてるから」

和子の目から静かに涙がこぼれた。夜の病室に温かい沈黙が広がった。

帰り道、美は香川証券の会長、香川竜三郎に電話した。香川は七十二歳。祖父の生前からの盟友で、半年間全てを支えていた。

「慶造さんは美ちゃんに全てを残した。これは信頼の証だよ。私が全力でサポートする」
「香川さん、一つお願いがあります。今年の総会が終わったら、動いてほしいことがあります」

美は声を低くして、半年かけて温めてきた計画の最終確認をした。

「分かった。準備しておく。あとは美ちゃんの判断だ」

今年の株主総会では、有馬が押す新方針が議案に上がっていた。中小企業への融資を絞り、大企業だけを優遇する内容だった。じいちゃんが守ろうとした銀行が変わってしまう。それだけは止めなきゃ。大株主として反対すれば注目を浴びる。黙れば意志が踏みにられる。どちらも選べないなら、第三の道を行くしかない。

今日は現場の作業が長引いた。着替える時間もなかった。このまま行くしかない。作業着のまま、美は総会会場へ向かった。

電車の中で美はスマートフォンを握りしめた。香川からのメッセージが届いていた。準備は整っています。いつでも動けます。美はその文面を読み、深く息を吐いた。じいちゃんの言葉と今日の行動が一つに繋がる日が来た。

生和銀行本店の大会議室に、株主たちが着席していた。スーツや礼服の株主が百名以上。受付の前に、泥のついた作業着の若い女性が静かに立っていた。星野美、二十四歳。安全靴の先だけが床に小さな土を残していた。

「泥の靴で総会なんて」
「間違いもいいところだ。受付で追い返せばいいのに」

誰もが美が顔を赤らめて逃げ出すのを待っていた。しかし美は怒鳴ることも泣き叫ぶこともしなかった。ただ静かに一礼し、受付の前に立ち続けただけだった。

「一応、株主なんですが」
「大株主?笑わせるな。証拠もないくせに。全株売ってみれば?どうせ数百万だろ」
「では、お望み通りに」

美は聞き返したが、受付係はすでに席へ向かい、静かに着席した。作業着の裾を一度整え、ポケットにそっと手を当てた。じいちゃんの言葉はまだここにある。私は逃げない。だがこの時、美だけが知らなかった。見下した一言が翌朝、この銀行を揺がすことになる。

有馬孝介、三十五歳。東大法学部で海外の経営学修士号も持つ取締役だ。融資部長を兼ね、この日の議長として壇上に立っていた。高級なスーツをまとい、整えられた髪で自信満々の立ち姿だった。

「それでは、第五十期定時株主総会を開会いたします」

確固たる口調で有馬が議事を進め始めた。第一議案は新融資方針改革だった。中小企業向けの審査を厳しくし、大企業向けの優遇枠を新設する内容だった。

「地域の産業競争力を高めるための施策です。ご承認をお願いいたします」

一部の大口株主から賛成の拍手が上がった。取締役も満足げに頷いていた。質疑応答の時間になった。会場の後方で美が静かに手を上げた。

「後ろの方、どちら様でしょうか?招待者でなければ退席を」
「株主です。質問があります」
「株主?失礼ですが、株主証明書はお持ちでしょうか?」

受付で大株主だと名乗った女を、有馬はまだ信じようとしなかった。周囲の株主たちも作業姿の美を物珍しそうに見ていた。美は鞄から株主証明書と身分証明書を静かに取り出した。

「少々お預かりします」

受付係が証明書を受け取り、確認を始めた。数秒後、受付の顔色が変わった。慌てて有馬の元へ駆け寄り、小声で耳打ちした。有馬が証明書を受け取り一瞥した。三十三パーセント。筆頭株主。

「これ、本物ですか?」
「え?三十三パーセント?筆頭ってこの方?」

会場がざわめいた。取締役の柏木が顔色を変えた。相続確認がされていなかったのか。柏木は悔しそうに顔を歪めた。有馬は一瞬の動揺を見せたが、すぐに立て直した。

「えー、それが仮に本物だとしても、本日の議事を優先します。株主総会は適正に進行しております。問題はありません」
「では、一点だけ確認させてください。この提案に私が反対票を投じた場合、決議条件はどうなりますか?」
「あなたが三十三パーセント持っていても、残りは六十七パーセントある。普通決議なら出席株主の過半数で通る。余裕ですよ」

その場にいる株主の半分より多ければ通るという意味だった。

「分かりました」

美は静かに頷き席についた。採決が行われた。美が反対票を投じたが、案は可決された。

「ご覧の通り、多数決で可決です。三十三パーセントでは何もできませんよ。次からは事前にご連絡をいただけますと助かります」

その言葉に周囲の一部が笑った。柏木取締役が視線をそらした。

「さあ、お帰りください」
「ところで、先ほどの言葉、もしよかったら全株売ってみてください。私たちが買い支えますよ。お気軽にどうぞ」

また笑いが起きた。有馬の顔には完全な余裕が浮かんでいた。自分が今、自らに罠をかけたことをまだ知らなかった。

美は静かに立ち上がり出口へ向かった。廊下に出たところで立ち止まり、スマートフォンを取り出した。一つの番号を押す。呼び出し音が一度だけ鳴った。

「美ちゃん、終わりましたか?」
「香川さん、全部売ってください」

一瞬の沈黙があった。

「分かった。全部市場に出す」

電話が切れた。美が窓の外を見た。秋の空が広がっていた。じいちゃん、ごめん。一度だけ、あの人の言葉通りにする。しかし美の目には迷いがなかった。半年も前から、この日のために準備してきた。全部売ってくださいの一言が、生和銀行の運命を変える。全部売る。それがじいちゃんを守る道だ。

帰りの電車の中で、美は一度だけスマートフォンを取り出した。祖父・慶蔵の写真を見た。建設現場で撮られた作業姿の写真だった。泥だらけのヘルメットと荒れた手が映り、目だけは力強く前を向いていた。あなたのような人のための銀行を守る。それが今の私の仕事だ。じいちゃん、やるよ。覚悟を決めたよ。

翌朝九時ちょうど、東京証券取引所の取引が開始された。生和銀行の株式に、開始直後から売り注文が殺到した。画面に売り気配の表示が出た。買い手がつかず、値段が決まらない状態だった。

「ちょっと、これ、どうなってる?」
「何があったんだ?」

市場参加者たちが急激な売りの動きに首をかしげた。生和銀行社内、株価モニターの前に社員たちが次々と集まってきた。不安が広がり始めた。そこへ経営企画部から緊急報告が飛んだ。

「有馬部長!星野ホールディングス名義で大売り注文が!全保有分、三十三パーセントです!市場への一括放出です!」
「全保有分……あの作業着の女が、本当に……」

有馬の声がわずかに震えていた。株価はマイナス十五パーセントへ。続いて二十二パーセントへ。機関投資家も不安売りに加わり始めた。

柏木取締役の元に緊急報告が届いた。

「なんだと?昨日、相続確認をきちんとしていれば……なんということを」

取締役が頭を抱えた。有馬が美の携帯に電話をかけた。繋がらなかった。何度かけても応答がなかった。

「嘘だろ?あの女、本気でやったのか?」

有馬は壁に手をついた。背中から冷たい汗が流れた。有馬は香川に電話した。

「売却を止めてください。昨日のは冗談で、行き違いがあって申し訳ありません」
「美さんの正式な指示に基づいた取引です。問題はございません」

電話が切れた。有馬の顔から完全に血の気が引いた。「くそ、なんで……なんで作業着の小娘に、こんなことが」

株価はマイナス二十八パーセントに達した。有馬の手元で株価ボードの数字が赤く点滅していた。あの作業着の女に、全部やられたのか。

生和銀行大株主が全株売却か、という速報が経済ニュースに流れた。有馬の携帯に関係企業の担当者から電話が相次いだ。どういうことですか。有馬はその全てに出られなかった。画面には着信が積み上がっていった。

「信用不安だ。このままでは取り付け騒ぎになるぞ」

しかしその時だった。市場に新たな動きが起きた。

「どこの大口が、複数の口座から同時に入っています!香川証券グループが生和銀行株を大量に買い始めています!」

有馬が青ざめた顔でモニターを見つめた。画面の数字が、底値から一気に塗り替えられていった。そしてもう一つのグループが動いていた。中小企業支援株主連合。美が半年かけて組織した投資家の集まりだ。全国の中小企業経営者三十社が参加していた。美は半年も前から、一社一社に直接会いに行って説明してきた。作業姿で手土産も持たず、ただ祖父の思いを語った。じいちゃんは誠実に働く人のために銀行を作った。その銀行をもう一度、そういう銀行に戻したい。その言葉に三十社の経営者が心を動かされた。

「星野さんの話なら乗ろう。祖父さんが守った銀行を戻したい」

全員がこの日のために準備していた。そして今、その準備が実を結ぼうとしていた。株価が底値に達したその瞬間、連合が一斉に買い付けを開始した。

市場が閉まる頃、最終報告が上がった。

「星野ホールディングス及び関連グループの合計保有比率、五十二・三パーセントです。過半数を超えました」

過半数とは、会社の方針を決められるだけの株を持ったという意味だった。

「五十二パーセント……過半数を超えた?完全に支配権を持たれた。なんでだ?なんでだ?昨日まであの女は作業着の貧乏人だったじゃないか。なんでこうなった?どこで間違えた?買い戻せ!こちらで全部買い戻す!値段は言い通りにする!」
「もう市場は閉じています。支配権は確定です」

柏木が椅子にへたり込んだ。会議室に重い沈黙が降りた。

その夕方、生和銀行宛てに一通の書面が届いた。差出人は星野ホールディングス代表、星野美。法律に基づき臨時株主総会の招集を請求すると書いてあった。一定の株を持つ株主は、臨時の総会を開くよう会社に請求できる。議案は取締役全員の解任についてだった。有馬の手が書面を握りしめて震えた。貧乏人と笑った女が、すべてを一瞬で掌握していた。

臨時総会まで二週間。有馬が美を直接訪ねてきた。場所は建設現場だった。美が汗を流しながら足場の点検をしていた。スーツ姿の有馬が現場には不釣り合いな格好のまま、深々と頭を下げた。

「星野さん、先日の総会では大変失礼いたしました。謝ります。本当に申し訳ありませんでした。解任だけは……お金なら用意します。条件は何でも聞きます。お願いします」

美が足場から降りてきた。汗と泥が染みついた作業着だったが、目は静かだった。

「有馬さん、あなたは今、私が筆頭株主だと分かったから頭を下げているんですか?」
「それは……」
「あの時、私が証明書を出す前から、あなたは私に謝りましたか?」

有馬が黙った。返す言葉がなかった。

「有馬さん、あなたは言葉通りのことをしただけです。私も言葉通りのことをしただけです。それだけのことです」

有馬が何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。しばらくして静かに立ち去った。

「さっきのスーツの人、誰だ?」
「ついこの前まで、私を貧乏人と呼べた人です」

森は何も言わなかった。ただ美の方を一度だけ見た。

臨時株主総会当日、銀行本店の大会議室。あの時とは空気が違った。会場に再び作業姿の美が現れた。今度は誰も笑わなかった。受付の係員が深々と頭を下げた。

「星野様、どうぞお通りください」

新しい株主たちが静かに美を見つめた。蒼白な顔の柏木取締役が最前列に着席していた。有馬は視線を落としたまま、隅の席に座っていた。二週間前とは全てが逆になっていた。美が壇上に立った。一瞬、会場が静まり返った。

「私の祖父は、この銀行を作る時に約束しました。誠実に働く人を大切にする銀行を作ると。五十年前のことです。今日、その約束を取り戻しに来ました」

美の声は静かだったが力があった。美の代理人弁護士が立ち上がり、資料を配布し始めた。タイトルは「有馬孝介氏の融資業務における不正行為について」。告発内容は三点だった。

一点目。有馬は関係企業三社に対し、基準外の優遇融資を実行していました。根拠となる内部資料と融資決済記録を証拠として提出します。基準を外れた貸し付けを特定の会社へ回していたという意味だった。資料をめくる音が静かな会場に響いた。数人の株主が有馬を見た。

二点目。その代わりに有馬個人が受け取った謝礼金は、合計三千八百万円です。銀行口座の入金記録と振り込み人名義の確認書を証拠として提出します。有馬が口を開こうとした。しかし隣の弁護人が制した。

三点目。柏木取締役はこの事実を知りながら、二年間に渡り黙認していました。二年間も前から続くメール記録と取締役の証言書類を証拠として提出します。

会場がざわめいた。数人の株主が顔を見合わせた。その時、会場の後方で一人の若手行員が立ち上がった。田辺健二、三十歳。内部から事実を告発した行員だ。両手が小刻みに震えていた。

「もう黙っていられない」

立ち上がった後、一瞬だけ有馬と目があった。有馬は厳しい視線を向けた。しかし田辺は立つことをやめなかった。

「私は二年も前から、有馬部長の指示に疑問を感じていました。でも怖くて言えなかった。ずっと黙ってきた。それが苦しかった。星野さんが立ち上がってくれたから、私も言えるようになりました。有馬部長が関係企業の担当者から謝礼を受け取っていた現場を、私は直接目撃しています。私はこの銀行が好きです。だから真実を言わなければならない」

田辺の声は震えていたが、目に強い光があった。

「出鱈目だ!証拠を捏造している!私はこの銀行のために……」

しかし有馬の言葉は続かなかった。目の前で反論する言葉がなかった。

「私も知っている。有馬に関係企業を紹介されたことがある。この書類が本物なら、もっと早く声を上げるべきだった。申し訳ない」

柏木取締役も俯いたまま何も言えなかった。

「私は有馬に騙されていただけだ。全て有馬の独断だ」
「黙認していたのはあんただろうが」

共犯同士がその場で責任のなすり合いを始めた。会場にどよめきが広がった。その空気の中に、長年の怒りと悲しみが詰まっていた。

「売れと言ったのはあなたです。でも、買い戻すとは言いませんでしたよね」

有馬の顔が音を立てるように青ざめた。美は泥のついた安全靴を一度見下ろし、静かに続けた。

「貧乏人と笑ったこの靴で、私はここまで来ました。あんたには、この泥の一つも見えなかった」

決議が始まった。

「有馬孝介氏の取締役解任について採決を行います。賛成五十二パーセント超で可決しました」

柏木氏の解任について採決を行います。賛成五十二パーセント超で可決しました。関与した取締役五名も全員解任された。

「解任に続き、損害賠償の手続きに入ります。有馬氏と柏木氏は、その日のうちに職を失うことが決まりました。優遇で生じた損害について賠償請求を行います。金融庁への報告と刑事告発も検討します」

「待ってくれ。隠居も人脈も全部なくすのか」

会場から誰も有馬をかばう声は出なかった。有馬が退場させられる瞬間、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。

「俺は……俺はただ銀行を守ろうとしただけだ」

その声に応じるものはいなかった。有馬がドアを開けた瞬間、廊下の向こうに報道カメラが待ち構えていた。フラッシュが光った。かつて帰れと笑った男を、誰も見送らなかった。

その夜、銀行では新経営陣の就任が行われていた。新しい取締役には、地域の中小企業融資に長年取り組んできたベテラン行員が選ばれた。現場を知る人が、やっと役員に並ぶのか。取締役には農業、漁業、建設業の現場経験を持つ人材が選ばれた。美が壇上に立ち、作業着のまま新経営方針を発表した。泥のついた安全靴のままだった。会場の誰もそれを笑わなかった。

「生和銀行の新方針として宣言します。中小企業、農家、漁師、職人、建設業で働く全ての方々への融資を最優先にします。審査基準を学歴や肩書きではなく、その人の誠実さと可能性で判断します」

会場から拍手が起きた。地域の中小企業経営者たちの目に涙が光っていた。

「やっと……やっと変わってくれた」

声に出して泣いている男性がいた。農家の老人が長年握りしめてきた拳をゆっくりと開いた。漁師が隣の人と目を見合わせ、力強く頷いた。

「この方針は、五十年前に私の祖父、星野慶造が生和銀行に込めた夢です。今日、ここにその夢を取り戻します」

会場が大きな拍手に包まれた。美の目に涙が浮かんだ。じいちゃん、見てる?作業着のまま壇上に立っていたのは、二十四歳の筆頭株主だった。その姿が全てを物語っていた。これがじいちゃんの夢だったんだ。

翌朝、生和銀行不正問題当事者解任、という見出しが新聞を飾った。それから三ヶ月が過ぎた。有馬は都内の古びたアパートの一室にいた。窓の外は曇り空だった。かつて住んでいた高級マンションはもうなかった。あの頃の生活はもう戻らない。交流サイトには銀行不正の言葉と共に有馬の名前が広がっていた。コメント欄には「見た目で人を差別した罰だ」という言葉が並んでいた。有馬は画面を見ることが怖くなっていた。

銀行業界の人脈に不正行為の詳細が広まっていた。

「有馬?ああ、あの件の人ね。採用は難しいですね」

転職活動は三十社以上にエントリーした。全て不採用だった。「申し訳ありませんが、今回は見送らせていただきます」というメールが三十通以上届いた。見た目で人を見下した男は、今度は書類の段階で門前払いされた。東大と経営学修士号の学歴も、不正の汚名には何の力もなかった。学歴ももう何の意味もない。

ある夜、スマートフォンにニュース通知が届いた。「作業着の大株主、星野美を地域一番の銀行に導く」という見出しだった。美が現場の仲間たちと笑っている写真が添えられていた。

「まだ作業着かよ」

有馬は画面を閉じた。見ていられなかった。しかししばらくして、また開いてしまった。美はあの時と同じ泥のついた作業着を着ていた。何も変わっていなかった。それがまた有馬の胸に刺さった。何も変わってない。俺だけが落ちたのか。

貯金が底をついてきた頃、有馬は公共の職業紹介所の窓口に並んでいた。かつて貧乏人と見下した姿が、今は自分の隣にある。俺が笑った側が、今は隣にいる。夜、狭い部屋でカップ麺を食べながら、有馬は長い時間をかけて考えた。あの時、あの女性に謝っていれば。見た目で人を判断しなければ。いや、もっと前、不正をしなければ。どこで間違えた?後悔が深くなった。有馬は自分をエリートだと思っていた。でも人間として最も基本的なことを、ずっとできていなかった。

そんなある日、コンビニで一人の男と鉢合わせした。生和銀行の若手行員、田辺健二だった。田辺は有馬を見て一瞬足を止めた。有馬は思わず目をそらした。かつて自分が恐怖で支配した男が、今は堂々と立っている。

「失礼します」

田辺はそれだけを言い、静かに頭を下げて店を出ていった。あの男は俺に怯えていた。俺が二年間、怯えさせていた。それが何か意味があることだと、当時の有馬は少しも思っていなかった。

そして解任から一年が経った。生和銀行は生まれ変わるように変わっていた。中小企業、農家、漁師、職人への融資件数が前年比で二倍以上になった。地域を守る銀行として再評価され、地元の報道にも広く取り上げられた。新規口座開設件数が過去最高を記録した。顧客満足度調査でも地域トップに躍り出た。

「この銀行が貸してくれたから、ビニールハウスが立てられた。本当に助かった」
「去年まで貸してもらえなかったのに、今年は話を聞いてくれた」
「この銀行が変わったと聞いて、同業者を三人紹介した。みんな助かったと言っている」

生和銀行は今、地域で最も信頼される銀行として知られるようになっていた。かつて有馬が壊そうとした、誠実な人への融資が、今や銀行の看板になっていた。

美は今も毎朝五時に現場に向かう。作業着を着て、仲間たちと汗を流す。午後になると、生和銀行の経営委員長として、作業着のまま会議に出席する。

「星野さん、本当に着替えなくていいのか?」
「着替える時間がもったいない。これが私のスタイルです」

美は笑った。作業着の筆頭株主として全国の報道に取り上げられるようになった。

「なぜ今も現場で働き続けるのですか?」
「見た目より中身を見てください、と伝えたいから。誰に対しても」

その言葉は多くの人の心に届いた。視聴率の高いテレビ番組にも呼ばれた。しかし美は全て断った。

「現場を離れる時間はない。それより、感謝される仕事を一件でも増やしたい」

その話が広まり、余計に有名になった。母の和子が退院し、美のアパートで一緒に暮らし始めた。ある朝、二人で食卓を囲んでいた。日差しの入る小さなダイニングだった。美が作った弁当が二つ、テーブルに置かれていた。昨日の残りの煮物と卵焼きが並んでいた。

「美、お父さんが喜んでるよ、きっと」
「うん。もう少し頑張ってみる」

美は微笑んだ。夕方、美とかず子は近くの公園を散歩した。体力の戻らない和子はまだゆっくりとしか歩けなかった。でも二人で並んで歩く時間が、美には何より大切だった。

「美、もし疲れたら現場だけでいいんだよ。銀行のことはもういい」
「お母さん、それは言えない。じいちゃんとの約束だから」

和子は何も言わなかった。ただ静かに笑った。

ある休日、美は一人で祖父の墓前に立った。手には野花を持ち、作業着のままだった。秋の空が広がっていた。雲一つない青い空だった。泥のついた手を合わせ、静かに語りかけた。

「じいちゃん、約束、守ったよ。ちゃんと守ったよ」

秋の風が吹き抜け、野花が揺れた。遠くから建設現場の音が聞こえた。誰かが誠実に働いている音だった。美は長い間、その場に立っていた。泥のついた手を合わせたまま目を閉じていた。風が吹く度に、祖父の声が聞こえるような気がした。

よくやった、美。それでいい。

美は目を開き、空を見上げた。秋の青い空が、どこまでも広がっていた。

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