「下受けの出る膜か」――22年間一度も放送を止めたことのない俺が、38万円の交換部品を『駆け捨てだ』と却下され、9月に契約を切られた。新しい業者は月11万で請け負い、俺が東京で腕によりをかけて出した報告書は、読まれもせず机の端へ滑らされた。そして12月、本番5分前、副調整室のモニターが真っ黒に落ちた。焼けた接触器を握って機械室から戻った俺に、編成局長はそう言った。その時、俺は決めた。国が、決…

「下受けの出る膜か」――22年間一度も放送を止めたことのない俺が、38万円の交換部品を『駆け捨てだ』と却下され、9月に契約を切られた。新しい業者は月11万で請け負い、俺が東京で腕によりをかけて出した報告書は、読まれもせず机の端へ滑らされた。そして12月、本番5分前、副調整室のモニターが真っ黒に落ちた。焼けた接触器を握って機械室から戻った俺に、編成局長はそう言った。その時、俺は決めた。国が、決...

「下受けの出る膜か」

その声を聞いた時、俺はまだ軍手をはめたままだった。副調整室にいる誰一人、俺の方を見ていない。本番まで5分を切ったところで、この番組の絵は一度消えている。

38万円。たった一枚の紙が読まれもせずに机の端へ滑っていったのは、3ヶ月前の昼のことだ。

俺はこの建物の設備を22年見てきた。その22年で、放送を止めたことは一度もない。だが今日、俺の首から下がっているのは期限の欄に今日の日付だけが手書きで入った入館証だ。

床に置いた台車の上で、搬出用の伝票が空調の風に揺れている。

俺はもうこの局の業者ではない。今日は22年分の道具を運び出しに来ただけだった。

外に出ると鉄塔の唸りが風に乗って届いていた。正門から続く並木は9月の光をまだ青いまま返していて、色づく気配はどこにもない。風の強い日だった。

俺の名は明谷に実る。今年で55になる。放送設備の保守を受け負う明谷電気サービスの代表で、社員は他に一人しかいない小さな会社だ。

朝一番に屋上へ上がって空中線設備を見るのが、この局に通うようになってからの決まりだった。手すりの金具の緩みと並木の根元のボルトの締まりを、屋上を一周しながら一つずつ確かめていく。同軸ケーブルの接続部を指の腹で押し、「異常なし」と手帳に書いてから鉄の階段を降りた。踏む度に低く響くその音が、年々確実に重くなっていく。自分の体を毎回同じ段で思い出させた。

技術棟の重い扉を開くと、油と埃り、それに電気が流れ続けるものだけが持つ乾いた熱の匂いが押し寄せた。天井の蛍光灯が2呼吸遅れて灯り、床のリノリウムを白く照らす。換気ファンの唸りにリレーが切り替わる乾いた音が混ざっていた。

電源盤は12面。壁際に隙間なく並び、扉の把手にはそれぞれ小さな封印シールが貼ってある。先月俺が貼ったシールに割れや切れ目のないことを一枚ずつ確かめながら、端の一面から順に進んでいく。

無停電電源装置のバッテリー表示が緑に灯っているのを一面ずつ確かめ、その並びを通り過ぎた。棚の上には俺が22年の間休まず付けてきた青い表紙の点検簿が22冊並んでいる。背表紙の色は年ごとに少しずつ違うが、中の書式だけは一度も変えていない。55になる指で背表紙の年を一つずつ名乗りながら、どの一冊にも事故の記録が一行もないことを確かめる。

TKの並びまで来て足が止まった。こちらはAスタジオの照明とカメラとマイク、それに時局の番組を送り出すローカル送出装置を受け持つ系統で、無停電電源装置はついていない。商用電源に直結の裸のままの並びだ。

順に扉を開けていって、主幹端子の樹脂カバーの縁が薄く茶色に変色しているのに気づいた。顔を寄せると、焦げた樹脂の匂いが鼻の奥に触れた。

またここか。

接触器の銘盤には昭和の刻印が薄く残っていて、あの交換で入れた時のままだ。懐中電灯を当てると接点にも細かい黒ずみが散っている。放射温度計を当てると左の端子が36℃、右は61℃を示した。指先一つ分の距離で25℃も違う。隣の並びの同じ位置を測ると左右とも34℃で揃っていた。

工具箱の中でこのトルクレンチだけは10年以上使い込んで、握りのゴムが黒く光っている。規定の値に合わせて端子のネジにかけたが、カチッとなるはずの音がならなかった。角度と力の入れ方を変えて何度か試しても、規定のトルクで座らない。端子台ごと接触器ごと、もう持たなくなっている。

もう持たないな。

声に出しても、この部屋で返事をするのは換気ファンの唸りだけだ。数字と匂いだけは嘘をつかない。この部屋で俺が覚えたのは結局それだけで、後は全部その2つの言い訳を紙に移す作業だった。

棚の閉地から一番古い一冊を抜き出し、表紙の年を確かめてからBK系統の項を辿っていく。紙は乾いていて硬くなり、めくる度に乾いた音を立てた。交換の年の記録には主幹の接触器を新品で換えたと当時の俺の字で書いてある。その次の年もその次も交換の欄は空白のまま。2冊目、3冊目と抜き出しては同じ項を追い、5冊目で数えるのをやめた。この接触器は替えた日から一度も変わっていない。替えた本人が22年変えずに来たということであり、その事実の重さは閉じの厚みそのままだった。

古い土地を棚へ戻し、一番新しい一冊を作業台へ置く。点検簿を取り出して今日の日付と測った数値を書き込むと、複写の下敷にボールペンの跡がデコボコになって伝わってきた。

点検を終えた11面には新しい封印シールを貼り、BK系統の一面だけは風をしないまま扉を閉じる。書き上げた一枚にしばらく目を落としていた。

この数字を持って、今月こそ上に行かなければならない。

機械室から技術部のフロアへ上がると、蛍光灯の白さばかりが目についた。床の面積が人の数に対してどうしようもなく広く見える。デスクは窓際まで長い列を作っているが、明りのついたパソコンが並ぶのは手前の3列だけで、奥の列は椅子までもが等間隔に空いている。島の端には名前の抜けた名札差しだけが残った机があり、41人いた当時と同じ列数の椅子がそのまま余っていた。今この部署にいるのは9人だ。

壁のフロア案内板には古いプラスチックの文字が並んでいて、「技術局」と刻まれた場所だけが四角い跡を残して剥がされている。その下に「技術部」と書かれた新しいプレートが、心なしか小さいサイズで貼り足されていた。

受付カウンターへ進んで報告書を差し出すと、机の端の分厚い受付簿が開かれた。今月のページを目で追うと、俺の提出前の記入はまだ2件しかない。月に入って5日で2件は、去年までの半分にも満たない数だ。

9月5日の日付欄にスタンプが押される乾いた音がして、受付第309号という番号が書き込まれていく。その下の件名欄に「BK主幹端子及び接触器要交換の件」と記された。その番号を俺は自分の手帳にも書き移した。

ト倉が奥の席から立ち上がり、猫背のままゆっくりとカウンターまで歩いてきた。胸ポケットの3本のペンが歩みに合わせて小さく揺れている。差し出した報告書の端を受け取る指先は俺の指と違って、爪の周りまで白く綺麗だった。工具ダコのない、もう何年も机の上だけで動いてきた手だ。

「上げられない。今はちょっと時期が悪いんだ」

「温度差が25℃あります。増し締めでは座りません。端子台ごと買えないといずれ焼けます」

ト倉は報告書の数値の欄を目で追ったが、それは読むというより視線の置き場所を探しているだけの動きだった。

「分かってる。分かってるよ、あんたの言うことは。ただ今年はどこの部署も新規の支出は止まってる」

「じゃあ、いつなら通りますか?」

「上に聞いてくれ」

「上」という言葉が引っかかった。俺が22年この紙を持って上がってきた先は、いつでも技術局長の部屋だった。

「なんで設備の話が編成局長のところへ行くんですか?」

ト倉はすぐには答えず、ペン立てから飛び出していた一本を意味もなく押し込んだ。

「2年前に技術局長のポストがなくなった。技術部は編成局の下に入って、今俺の上が編成局長だ。委託契約の決済もそっちに一本化されてる」

「盤を見たことがある人が判を押すんですか?」

「悪いな」

ト倉はそれだけ言うと、俺の返事を待たずに自分の席へ戻っていった。

編成局長室のドアをノックすると、返事より先にフロアの空調とは違う静かな音が耳に触れた。分厚い絨毯と磨かれた木目の大きなデスクだけが、蛍光灯ではなく間接照明の色をゆっくりと映している。軍事は椅子に座ったまま眼鏡越しに一度だけこちらを見て、そのまま手元の書類へ視線を戻した。

「ああ、出入りの人」

デスクの前には来客用の椅子が見当たらず、立ったままメガネの上からこちらを見上げる軍事の視線と向き合う形になった。

俺は点検報告書を差し出したが、軍事はそれを受け取るそぶりも見せず、指先だけでデスクの端まで滑らせた。紙が滑っていく乾いた音だけが、夜けに静かなその部屋の中でいつまでも小さく響いた。表紙すら開かれないまま、俺の報告書はデスクの隅で他の書類の山にすぐ埋もれていく。

「で、いくら?」

「38万です」

軍事は数字を聞いても眉を動かさず、眼鏡の縁を指先で押し上げただけでしばらく黙っていた。

「今まで何かありましたか?」

「まだありません」

俺が短く答えると、それだけで十分だというように軍事の口の端がわずかに上がった。

「なら大丈夫でしょう。要望保全は保険でしょ。保険は駆け捨てだ。来年でいい」

「駆け捨てで済んでいるのは、掛けてきたからです」

言ってしまってから、これは通らない言い方だと分かった。軍事の目はもう次の書類に落ちていて、俺の声が届いた形跡はどこにもない。

「来年また来てください」

書類を置いたままの机へ一礼し、部屋を出た。

夕方、機材の定期確認を兼ねて副調整室へ行くと、フロアとは違う張り詰めた空気に迎えられた。低く一定の調子を保った声が卓の中央から次々に飛び、周りのスタッフがそれぞれの画面に集中している。音声、映像、送出、それぞれの持ち場に張り付いた背中の数だけ、声にならない緊張が狭い部屋の温度を静かに上げていた。

「今時、紙で点検ってまだやってる人いたんですね」

番組の送出が落ち着いた隙に、早坂が横から覗き込むように立った。

「機械は書いた分しか覚えないからな」

「その紙、誰が読んでるんですか?」

答えは持っていなかった。俺は手元の点検簿を閉じ、工具箱の蓋を閉じる音だけを返事の代わりに残した。

日輪電気の支社に着くと、通された応接室には紙とインクの匂いだけが来客用のソファーにまで深く染み込んでいた。壁の時計の下には、この支社が手掛けた工事の進行写真が色あせた額に並んで掛かっている。

寺田の作業ジャケットの袖口が分厚いファイルを抱えて入ってきて、椅子を引く硬い音を一つ立てる。俺の向かいに座るなり、開口一番に数字を口にした。

「摩耗量は基準値の3倍です。破断の耐久試験でも同じロッドの3個が同じ箇所から傷んでいます。同型は県内にまだ6台残っていますが、うちとしては全数交換を推奨します」

「3倍か」

「3倍です。焼けるとしたら、まず端子台の側から来ます」

丸メガネの奥の目は、俺が持ち込んだ報告書の数値が並ぶ一点からほとんど動かなかった。ファイルの表紙に貼られた納品番号のラベルを寺田が指先で軽く示す。

「5年でこれが81個目です。明谷さん、もう余白がありませんよ」

「余白はまだ紙の上にはある」

寺田はメガネを押し上げる仕草を一つ挟んでから、いつもより低い声で続けた。

「あの交換からの付き合いですからね。私もあの現場にはいましたから」

それ以上、寺田は語らなかった。

局へ戻ると、寺田の回答書を添えて2通目の点検報告書を受付に提出した。受付簿には新しい番号が振られたが、件名の欄には1通目と同じ文言がそっくり引き移されている。違うのは日付の数字だけだ。

技術部フロアの廊下を帰りに通ると、開いたドアの隙間から軍事がト倉を手招きしているのが見えた。軍事の机の脇の書棚には綴じが隙間なく並んでいて、そのうちの一冊をト倉の手に押し付けるように渡している。ト倉はその綴じを両手で受け取りながら、何度も小さく頷き返していた。

翌朝、局に入ったついでに技術部の受付へ寄る。

「9月5日に出した1通目の控えをもらえますか?」

ト倉が奥の席から立ち上がってくるまでに、妙に長い間があった。受付の記録に目を落としたまま、ト倉が口を開いた。

「あの番号の綴じは、今は局調預かりになってる」

「控えも出せませんか?」

「預かりになってるんだ」

同じ言葉をト倉は少しだけ強く繰り返した。「局長預かり」という言い方をト倉の口から聞くのは、この22年の付き合いで今日が初めてのことだった。

夜、作業場へ戻るとオレンジのベスト姿のままの杉尾がまだ工具の手入れを続けていた。天井から下がった裸電球が一つだけ、油と金属の匂いのする狭い作業場をぼんやりと照らしている。

「親方、遅かったすね。局の方はどうでした?」

「進展なしだ」

杉尾は磨いていた工具を置き、油で汚れた手を布で拭いてから、こちらの顔を下から覗き込むような角度で見上げてきた。

「いくら言われました?」

「読まれてない」

工具箱を床の机に置き、その顔から目をそらして事務机の電話を取った。寺田を呼び出し、在庫の接触器を1個わけてもらえないかと頼んだ。電話の向こうで寺田が少しの間黙り、在庫の数を確かめるような間を置いてから答えた。

「在庫はあと3つです。今回だけですよ。次は正式に発注通してくださいね」

一礼を言って電話を切る。帳面の仕入れ欄に4万2000円と書き込み、翌日届いた接触器を工具箱の底に収めた。

工具箱の中を覗き込んだ杉尾が首をひねりながら、少し大きな声をあげた。

「あの局、そんなに危ないんですか?」

「危ないのは局じゃない。盤の一面だけだ」

杉尾は工具を布に置き、こちらを見上げた。

「22年同じ場所を見てきた。悪くなる順番だけは分かる」

「じゃあ、その順番、局の人は知らないんですか?」

「紙には書いてある。書いてあるのに」

杉尾はそれ以上を聞かず、納得したのかしていないのか分からない顔で自分の工具に視線を戻した。

それから先、この接触器だけは一度も出番のないまま工具箱の底に入りっぱなしになる。蓋を閉めると、思ったより少しだけ重い音がした。

正門を抜けると警備員に来賓用のゲートへ回るよう指示された。大会議室には長机がロの字に並べられ、数分の椅子がきっちり置かれていた。清掃、警備、設備、中継車の整備。普段は顔を合わせない業種の人間が同じ部屋にこれだけ集まる場面は珍しかった。配られた資料の表紙には「コスト改革推進委員会」という飾り気のない文字が並んでいる。

登壇したのは常務取締役の舞阪豊春で、恰幅が良く顔色も良く、名札を見るそぶりも見せないまま段の中央に立った。仕立てのいいノーカラーのスーツから白いポケットチーフが覗いている。

「3年で固定費を1億2000万削る。技術部は年間2400万円。これは決定事項として聞いてもらう」

「機械は壊れる前に教えてくれないからな」

誰も反応しなかった。

説明は淡々と続き、最後に二つだけ付け加えられた。

「来期からの保守契約は、前向きで相見積もりを取らせてもらう。見積もりの提出期限は追って文章で通知する」

局調室のドアを開けると、軍事はもう椅子から腰を上げていて、デスクの上には今日も書類の山一つ見当たらなかった。

「来期の保守契約は、前で相見積もりを取ることになりました」

「うちも対象ですか?」

「もちろんです。例外はありません」

「評価の基準は何になりますか?」

「価格と実績を総合的に見るということです」

答えになっているようで、実のところ何も答えになっていない言い方だった。俺は「分かりました」とだけ返し、見積もりの締め切りを手帳に書き移した。数字は9月末。

夜、事務所に戻ると杉尾が電卓を片手に帳面を睨んでいた。

「親方、他社の相場調べたんですけど、うち結構高いっすよ。年に何回も行かない業者なら半分以下で受けてるとこもあります」

俺は工具箱を机に置き、杉尾の弾いた数字にざっと目を通した。いつもの見積もりの下書きには、次点検の項目がびっしり並んでいる。屋上の空中設備、盤の12面、中継車の整備、それに緊急時の呼び出し。一つ一つにこれまでの現場で覚えた数字が紐づいている。どの数字も、他人に説明したことのないだけの基準として、年々積み上げてきた数字だった。

「削るところはない」

「削らないと勝てないですよ」

杉尾の声が珍しく尖っていて、不安を先に口にするいつもの調子とは違う響きがあった。

「勝つための値段じゃない」

「じゃあ、何のための値段なんですか?」

「恥ずかしくない値段だ」

杉尾は口をつぐみ、電卓のボタンから指を離した。

見積もり書を封筒に入れ、翌朝提出する分として自分の机の隅に立てておいた。宛名にはこれまでと同じ編成局長の名前を書いた。

控室のドアを開けると、椅子が小さく軋んだ。パイプ椅子が4つと丸テーブルが一つだけの殺風景な部屋だった。隅の椅子にはト倉と若手の一人が既に座っていて、目が合うと向こうが先に小さく一礼した。壁の掲示板には来月の全体会議の案内が貼られたままだった。

日焼けした肌に開襟シャツ。その上から仕立てのラフなジャケットを羽織った男が遅れて入ってきた。背後には社名入りのポロシャツを着た部下が2人控えている。

「クレスト設備の江藤です。よろしく」

名刺を両手で差し出してきたが、受け取ると江藤はすぐにズボンの尻で自分の両手を拭った。紙の匂いよりも先に整髪料の匂いが鼻をかすめた。差し出された名刺には太い書体で会社名と携帯番号だけが刷られている。事務所の番号すら乗っていなかった。

「うちは月11万でやらせてもらいます」

数字だけが狭い部屋の空気を先に埋めていき、綴じの資料をめくっていたト倉たちの手がそこで止まる。

「法廷点検を済ませます。ご心配なく」

聞かせるつもりで言ったのだと、こちらへ向いた目の動きで知れる。ト倉の肩がほんのわずかに強張り、隣の若手も同じ一瞬ペンを止めた。

「明谷さんでしたっけ?長いことお疲れさんです」

軽く肩に触れられ、俺は短く頷くだけで応じた。

「これからはうちにも顔出してくださいよ」

社交辞令なのか本気なのか、口ぶりからは判断がつかない。11万と28万。同じBK系統を指して並べれば、誰の目にも安い方が正しく見える数字だった。だが28万の中に何が入っているかを、あの部屋の誰も尋ねなかった。11万で受けるということは、どこかで爪を隠しているはずだった。尋ねれば答えられる人間はここにいる。

局調室のデスクの前に立つと、軍事は普段と同じ声で切り出した。

「来期からは、別のところにお願いすることになりました」

想像はしていたはずなのに、耳に届いた瞬間、指先の感覚だけがすっと冷たくなった。

「長い間お世話になりました」

「了解しました」

それだけを返し、深く頭を下げた。頭を上げると、軍事はもう次の書類に手を伸ばしていた。軍事はデスクの引き出しから茶封筒を出し、両手で差し出してきた。「契約解除通知書」の文字が表を向いている。

「今までの記録はどこかに残りますか?」

「規定通り保管はします」

「引き継ぎはいつまでに済ませればいいですか?」

「今月中に。次の業者はもう決まっていますので」

もう決まっているという一言が、今日という日をあらかじめ用意されていたものに変えた。

封筒を受け取って一礼し、局調室を出た。エレベーターを待つ間、封筒の中身を確かめようと厚みに指を這わせた。通知書の下にもう一枚、社内の決済経路の写しが紛れ込んでいる。誤って同封されたものらしかった。編成局長の欄の上に、常務決済の欄が重ねて押されていた。局調止まりの案件のはずが、その一枚だけがまるで違う話をしていた。

技術部フロアの受付カウンターに引き継ぎ書を差し出した。件名の欄には「BK系統主幹端子及び接触機の要交換」の一文をそのまま書き移しておいた。図面の写しとこれまでの測定値の一覧も控えとして添えてある。これを渡してしまえば、もう俺の手元には何も残らない。

ト倉が奥から出てきて書類に目を通す。胸ポケットの3本のペンが、めくる指の動きに合わせて小さく揺れた。半紙の奥から主文を取り出し、判を押す手が一瞬だけ止まった。紙に残ったのは、いつもよりわずかに滲んだ印影だった。ト倉は何も言わず、控えを俺の手元へ滑らせて返す。控えの余白には、次の業者の名前を書き込む欄があらかじめ用意されていた。

その足で機械室に降りると、裸電球の下で油と埃りの匂いが変わらず出迎えた。12面の扉を順に開け、古い封印シールを剥がしていく。一面ごとに扉の内側の端子とコネクターの並びを目で追ってから、貼り直した。新しいシールを一枚ずつ貼り、貼付日の欄に10月26日と書き、自分の名前を添えた。シールを押さえる指の腹に、のりが張り付いた。

廊下から足音が近づき、作業の途中で早坂が湯呑み片手に入ってきた。

「そんなの、シール貼って何になるんすか?」

「これが破れていなければ、誰も開けていない。それだけの意味だ」

早坂はコーヒーの湯を傾けたまましばらく黙って列を眺めていた。

「破れてるかどうかなんて、誰がわざわざ見るんですか?」

「見る人間がいなくてもある」

俺はそれ以上説明せず、次の面のシールに手を伸ばした。早坂は胸ポケットからメモ帳を出し、貼付の手順を書き取り始めた。素直に頷いたわけではなかったが、それでも手だけは動いている。

クレスト設備の活動は10月27日からで、引き継ぎの立ち合いには作業員が2人来た。どちらも30前後で、揃いの社名入りポロシャツの上にジャンパーを羽織っている。

機械室の入り口で、俺は12面の盤の順番から説明を始めた。

「番号は左から1号盤です。図面の並びと逆なので、そこだけ気をつけてください。月次で見るのは増し締めと熱と振動の3つです」

「はい。増し締めと熱と振動ですね」

返事だけが滑らかだったが、バインダーの上のペンは最後まで動かなかった。トルクレンチを出して締め付けの値を実際にかけて見せる。

「この値です。トルクは利きません。座った音が違います」

「ああ、はい。写真撮っときますね」

携帯を構えた方が盤の中を一枚だけ撮ったが、一枚で足りるはずがない。放射温度計を渡して左右の端子を測る位置を指で示した。

「同じ高さで同じ距離から測ってください。角度が変わると5℃は動きます」

最後にBK系統の一面の前で足を止める。

「この盤だけは、月に一度必ず開けて熱を見てください。引き継ぎ書にも書いてあります」

「開けるんですか?」

「開けないと熱は測れません」

短い沈黙の後、バインダーの方が初めてペンを動かした。書いたのは一行だけで、それが何の一行だったのかはこちらからは見えない。

12月11日。この日が俺があの機械室に立つ最後の日になるはずだった。

12月11日の朝は風のない曇り空だった。正門の並木は枝だけになり、根元に吹き溜まった落ち葉が薄く霜をかぶっている。受付の窓口で入館証の申請用紙に必要事項を書き込む。所属、用途の欄には「貸出品搬出」とだけ記した。時間帯の指定は9時から17時まで。返却時刻の欄にはト倉の印がすでに押されている。赤い縁取りのある入館証を首から下げると、歩くたびにそれが作業服の胸で軽く跳ねた。

工具箱はいつも通り右手に下げていて、そこには油紙に包んだ接触器が一つ。9月からずっと入ったままだ。

ト倉がエレベーターの前で待っていた。

「リストはこれだ。14点ある。全部あんたのところの貸出品で間違いないな」

「間違いありません」

「3点は機械室、残りは倉庫の脇でしたね」

ト倉は一息置いてから頷いた。

「ああ、変わってない」

搬出の対象は予備の測定機と絶縁抵抗計、それに脚立だった。機械室の分は俺が扉を開けて立ち合う。中には一人で入れるな。

「分かってます」

3点とも棚の奥にあって、取り出すには盤の並びのすぐ脇を通らなければならない。ト倉は扉の内側に立ったまま動かず、腕時計に目をやる仕草を2度だけ見せた。せかしてはいない。ただ、長くいて欲しくないだけだ。

台車に乗せて廊下へ出すたびに、床のリノリウムが低く鳴る。早坂が向こうから来て台車の上を横目で見ながらすれ違いかけて足を止めた。

「これ、まだこんな形式使ってたんですね。うちの新人研修で見たやつより2世代前じゃないですか」

「まだ動く」

「新しいの買った方が結局は安いですよ」

早坂はこれ以上取り合わず、軽く肩をすくめただけだ。

「やっと片付くんすね」

3回目に機械室の前を通った時、足が止まった。扉は閉まっている。それでも、扉の下の隙間から流れてくる空気にあの匂いが混じっていた。樹脂が焼ける時の、甘さの混じった刺すような匂いだ。台車を廊下の端に寄せ、扉の前に顔を近づけて鼻から短く2度息を吸った。9月は扉を開けて初めて分かる程度だったのに、今日は廊下にまで漏れていた。壁に手の甲を当てると、他の場所より明らかに暖かかった。敗線がどこか近いところまで来ている証拠だった。

「さっきから何してるんだ?」

「匂いを確かめてました。9月の時とは明らかに違います」

「匂いだけでそこまで分かるものか」

「ト倉さん、BK系統の盤を見せてもらえませんか?」

台車の把手を握ったまま言うと、ト倉の肩が小さく上がった。

「何を言ってる?」

「匂いがします。扉の外まで来てる。3分でいい」

ト倉は廊下の先と手元の書類を交互に見て、それから首を振った。

「あんたはもう業者じゃない。入館証の用途は搬出だ。それ以外で盤に触ったら俺の首が飛ぶ」

「触らなくていい。扉を開けて俺に見せてくれるだけでいいんです。ト倉さんも匂いには気づいてたんじゃないですか」

ト倉は答えるまでに一呼吸分の間を置いた。

「気づいてないとは言ってない」

ト倉は書類を持つ手に力を込めて、視線を廊下の奥へ逃した。

「だめだ」

短い一言だった。

「クレストが来月に来る。定期点検の契約はあっちに移ってるんだ。月末まで持たない」

「クレストの名前を出す時、ト倉の声が心なしか軽くなっていた。向こうは向こうで点検はしてるはずなんだ」

「点検簿は見せてもらえるんですか?」

ト倉が答えにつまる間を、廊下の時計が埋めた。

「それは俺の判断じゃ出せない」

「ト倉さんの判断で出せるものが、そのうちなくなりますね」

搬出の最後の往復がちょうど夕方の本番前に重なった。副調整室の前の廊下はこの時間だけ人の流れが早くなる。台車を壁際に寄せて待っていると、開いた扉の向こうにモニター壁の青白い光が見えた。壁の時計は17時55分を差していて、副調整室に流れる空気もいつもこの時間だけ張り詰める。

CMアップ完了。1本目、いつでも出せる。副調整室の空気が本番前特有の針を帯びていった。俺は台車の把手に手を置いたまま、その列をぼんやりと眺めていた。

音が先に消えた。一拍遅れて、スタジオのフロアが暗くなった。モニター壁の左半分、スタジオのカメラが並ぶ列が上から順に真っ黒に落ちていった。副調整室の天井灯だけが、何事もなかったかのように白く点いている。誰もすぐには声を出さなかった。数秒の沈黙の間、卓の上でタイムコードの数字だけが規則正しく進んでいく。

「マスター、マスター聞こえる?ローカル出てない」

早坂の声は大きくなかったが、部屋の中の全部の音を押しのけて通った。

「モニター生きてるのはキー局の回線だけです」

「分かった。それを使う」

スタッフの一人が卓のフェーダーを上下させ、別の一人が受話器を握ったまま立ち上がる。早坂が椅子を鳴らして立ち上がり、廊下へ走り出した。ト倉が壁際の電話に飛びついたが、受話器を握ったまま何も言えずに立っていた。

「ト倉さん、電話じゃなくて人をやって」

「BKと前段です。技術棟に人をやって」

技術のスタッフが一人、卓の下に潜り込んで配線を確かめている。

「キー局の番組で繋いで、今すぐ手動で切り替えて」

誰の許可も持たずに出た指示だった。ト倉が何か言いかけたが、早坂はもう次のスタッフへ顔を向けている。技術島にいるのは、今、俺しかいない。

「本番の尺は変えない。18時いつも通りに戻す。それまでにローカルを生き返らせて」

「技術棟には誰を?」

早坂はそれには答えず、視線をわずかにこちらへ向けただけだった。答えは十分だった。

その視線を背中に受けながら、俺は台車を置いた。工具箱の把手を右手で握り直し、二段飛ばしで踊り場を回りながら途中で懐中電灯を先につける。軍手を外し、工具箱の底に入れてある絶縁手袋に変え、指の先まできっちり収まる感触を確かめた。何が焼けたのかは、匂いを嗅いだ時点でもう分かっている。

機械室の扉を引いた瞬間、匂いが顔にぶつかってきた。非常灯の緑が壁を照らして、盤の並びの半分が影に沈んでいた。換気ファンの音がいつもより低く鈍っている。

扉の把手に貼った封印シールに懐中電灯を当てると、10月26日の日付と自分の署名が張った時のまま残っている。親指の腹でその風を横に切った。扉を開ける前に主幹のブレーカーを落とす。検電器の先端を端子に当てて針の動かないことを確かめ、もう一度別の端子でも確かめた。省いたことのない手順だった。

扉を開けると、熱が顔に触れる。主幹の接触器の樹脂ケースが黒く歪んで、端子の一本が銅の素肌まで焼けていた。9月に温度を測ったのと同じ場所だ。焼け跡の縁を懐中電灯で辿ると、隣の端子の樹脂には触れていない。炎症はここで止まっていた。

工具箱を床に置いて蓋を開け、底の油紙を掴むと、包みを解く手つきは自分でも意外なほど普段通りだった。急いでいるはずなのに、指先はいつもの速さでしか動かない。

4万2000円。9月に仕入れて、帳面の仕入れ欄に書いて、それきり一度も出番のなかった接触器が油紙の中で冷たいままそこにある。新品の接触器を手の中で軽く振ってみて、中の部品が遊んでいないことを確かめる。型番の刻印を確かめて、焼けたものと同じだと2度見比べた。

ドライバーで固定ネジを4本、順に外す。焼けた接触器を引き抜くと、指先が触れたケースはまだ熱を持っていて、樹脂の一部が指紋の形にへこんだ。新しいものを差し込み、爪の噛み合う手応えを確かめてから、同じ4本のネジを締めていく。締める順番はいつもと同じ、奥から手前へ。トルクレンチをかけると、規定の値で乾いた音が一度だけ鳴った。それは9月には鳴らなかった音だった。

盤の前まで来て、主幹を上げた。盤の中でリレーが奥から手前へ順番に落ちていく音がして、足元の床がわずかに震える。隣の盤の無停電電源装置からも、聞き慣れた低い唸りが一瞬だけ強くなって、すぐに元へ戻った。この部屋に画面はない。自分が何を戻したのかを、ここで確かめる方法はなかった。

焼けた接触器を左手に握ったまま、工具箱を右手に下げて階段を上がった。

副調整室に戻ると、部屋の空気が変わっていた。モニター壁にはキー局の番組が流れていて、誰も椅子に座っていない。タイムコードの間を何度も往復している。軍事が入り口を塞ぐように立って、部屋の中へ向かって声を張っていた。いつもの穏やかさはどこにも残っていない。

「2分だぞ。2分10秒。うちの絵が飛んだんだ。誰が説明するんだ?これを」

「原因はBK系統です。技術島の電源が落ちました」

早坂の答えは短く、事実だけを積み上げる言い方だった。軍事はその速さを歯がゆく思ったらしかった。

「電源が落ちたなんてのは結果でしょう。私が聞いているのは、誰の担当だったかということです」

「クレスト設備さんにはたった今」

早坂は語尾を濁したまま、それ以上の言葉を告げなかった。

「またそれで間に合うと思ってるんですか?」

「復旧の目は?」

「報告書は誰が書くんです?」

誰もすぐには答えず、副調整室の空調の音だけが妙に大きく聞こえた。

「私が書きますので」

「あなたが?原因も分からないのに、何を書くんです?」

ト倉が何か言い返そうとして、結局は口をつぐんだ。

「原因究明が先です。犯人探しは後にしてもらえますか」

軍事はそれにはすぐ答えず、話の矛先を変えた。

「高校君主への説明をどうするんです?スポンサーですよ。スポンサー」

「差し替えの枠の調整はもう編成に回しています」

早坂の声には、もう答えたはずだという苛立ちが混じり始めていた。

「回してますじゃない。私が編成局長です」

ト倉が何か言い返そうとして口を開きかけた。早坂がそれを制した。

「早坂さんの言う通りです。まず直すことが先だと思います」

軍事の視線が壁際に立っているト倉から、その奥へ移っていく。工具箱を下げたまま扉のそばに立つ俺の姿を、軍事の目がようやく捉えた。作業服に手には焼けた黒い塊。視線が上から下へ一度動いて、口の端が持ち上がる。

「下受けの出る膜か」

部屋の中の何人かが俺と軍事を交互に見た。早坂も卓から顔をあげた。俺は左手の中のものを少しだけ持ち上げる。

「もう直したけど」

誰もすぐには俺の方を見なかった。先に動いたのは卓の端に座っていた若いスタッフの手で、フェーダーに置かれていたその指が止まる。それから一人、また一人と、部屋にいる全員の顔がモニター壁の方へ向いていった。

黒く落ちていたはずのスタジオのカメラの列が、上から順番に青白い光を取り戻していく。1番、2番、3番。無人のスタジオが映る3つの画面を見つめたまま、早坂の手は送出を出す位置で止まっていた。

「出る、出ます。時間に間に合います」

ト倉は受話器を中に浮かせたままモニター壁を見上げていた。軍事の口はまだ半分開いたままだった。その目だけが、俺の顔ではなく左手に握られたものの上で止まっている。黒く歪んだ樹脂と、銅の素肌まで焼けた端子。9月に俺が38万で買えたいと言い、「駆け捨てだ」と言われて机の端へ滑らせられた、その部品の成れの果てだ。読まずに机の端へ滑らせたあの紙に何が書いてあったのかを、軍事の目が今になって読んでいた。

本番、10秒前。

その声で部屋が動き出した。

「端子台はまだ焼けたままです。今月中に変えないと、また落ちます」

軍事は床に手をついたまま、顔をあげなかった。

「男子だ。分かった。聞いた。俺があげる」

答えたのは、決済権を持つ局調ではなく、判を押せない技術部長のト倉だった。

番組が終わるまでの1時間、俺は機械室に降りて待った。待っている間にやることは決まっている。焼けた接触器を作業台の上に置き、携帯を構えてまず全体を一枚撮った。次に端子の焼けた部分を寄りで一枚、盤の内側の焦げの跡をもう一枚。角度を変えながら撮っていく。それから扉の把手に残っている封印シールを撮った。親指で切った風の破断面と10月26日の日付、それに自分の署名が同じ画角の中に収まるように角度を調整する。一枚撮る直後に、画面の撮影時刻を確かめた。全部で9枚。撮り終えるまでに2分とかからなかった。

ト倉が階段を降りてきたのはそれから10分ほど後だった。その後ろに軍事がいて、眼鏡はもうきちんと両耳にかかっていたが、歩き方だけが副調整室にいた時より硬い。

「その盤、今日誰が開けましたか?」

「俺です」

短い答えに、軍事は眼鏡の縁を指先で押し上げただけで、しばらく次の言葉を探していた。

「一人で?」

「一人です」

「その割には随分手際がいい」

「長くこの建物の設備を見てきましたので」

「立ち合いにも呼ばず、証人もいない。話だとは思いませんか?」

「他に誰も機械室へ行こうとはしませんでした」

軍事はそれには答えなかった。盤の前まで来て扉を開け、中を覗き込む。覗き込んだというより、覗き込む形をしただけで、目は何も見ていない。

「立ち合いなしで技術の設備に触っただけだ。あなたはもう部外者ですよ」

「番組が飛ぶところでした」

短く返した俺の声に、感情は載せなかった。

「番組が飛びかけた原因を、あなたが作ったんじゃないとどうやって証明するんですか?」

「開けたのは落ちた後です。それを見ていた人がいますか?」

いなかった。ト倉は副調整室にいて、俺はあの部屋に一人だ。

「立ち合いなしで触った盤がたまたま治ってた。都合が良すぎると思いませんか?」

「番組が飛ぶところでした」

同じ言葉を、俺はもう一度だけ返した。

その夜のうちに、搬出済みの14点は全て技術部のフロアへ戻された。台車ごと廊下の隅に寄せて、上から青いビニールシートがかけられると、焼けた接触器も俺の手からその上へ移される。ト倉が管理番号を振った札を一点ずつ品物に結んでいく。札の理由欄には「調査のため」とだけ書かれていた。ト倉の手が他の品物の時より明らかに遅く、管理番号を一度書き間違えて札を丸ごと変えた。

「ト倉さん、手伝いましょうか?」

「いや、これは俺の仕事だ」

立ち合いの控えを一枚もらえるか。ト倉は複写の2枚目を切り取って渡してくれた。立ち合い人の欄にはト倉の名前と印がある。その紙を俺は手帳の間に挟んだ。

「ト倉さん、もう一つ、書面で出したいことがあります」

「なんだ」

「止めおいた接触器を日輪電気へ解析に出してください。うちが依頼するんじゃありません。局の名義で出すんです。うちともう1社。立ち合いは3者で」

ト倉の手が止まった。

「解析なんて、そんな話、俺の一存じゃ決められない」

「決めるのはト倉さんじゃなくていい。上にあげてください」

ト倉は返事の代わりに、手にした札を迷うようにもう一度見つめた。

「摩耗で焼けたのか、誰かが手を入れたのか、中を見れば分かります。俺の潔白のためだけじゃない。原因が分からないと、端子台の交換の決済も通らないでしょう」

「分かった。書いてくれ」

短いやり取りの中で、ト倉の判断は決まったらしかった。その場でシャープペンを借りて、申し入れの文面を裏に書いた。1行目に日付け、2行目に日輪電気への解析依頼を記す。3行目には立ち合いを局のテレビと明谷電気サービス、日輪電気の3者とすること。4行目には費用を局の名義で行うことを書いた。4行で足りた。ト倉はそれを一度読み、紙の端っこで指を止め、もう一度頭から読み返している。シャープペンを一度置き、自分の胸ポケットの黒いボールペンに持ち替えてから、判を一つ押した。機械の一枚を自分の分として差し出してくる。受け取った紙も、いつもの手帳の間に挟んだ。

翌日の夕方、止め置き品の確認のために呼び出されて、ロビーの長椅子で1時間待たされた。エレベーターが開いて降りてきたのは、白いポケットチーフを挿した、恰幅のいいノーカラーのスーツの男だった。説明会の時と同じ歩き方で、前は軍事を従えてロビーを横切っていった。

「CMは何本落ちた?」

「3本です。スポンサーは3社」

「差し替えの枠は」

「今週中に埋めます。頭を下げに回っております」

数字が出るたびに、前の指がもう一本静かに折れていく。

「詫び状は3社分、明日の朝までに」

前はそれ以上を待たず、間を置くこともせずに次の数字へ話を進めた。

「社長会での報告と、監査が入った時の費用も見ておけ」

「スポンサーは3社とも継続か」

「一社は検討中です」

前の声がそれまでより一段低くなり、室温までが下がったように感じられた。検討中は切れるということだ。

「保証と差し替えでまあ700は見ておけ。監査が入ればその倍だ」

「原因は」

保守業者の管理不足かと。切り替えたばかりでまだ手が回っていないようです。責任の所在を、軍事は業者の名前を出すことでかわそうとしていた。

「管理不足というのは、そちらの管理不足でもあるでしょう」

「申し訳ございません」

前はその謝罪には興味がないというように、すぐ次の言葉を繋いだ。

「帰ろう。1年で2度も飛ばすところはいらん。安いところが安く済まないなら意味がない」

そこで初めて、前の目がこちらへ向いた。正確には、こちらの作業服の胸元を、椅子の柄でも見るように通り過ぎた。

「その人は」

軍事が一瞬だけ言葉を選ぶ間を置いた。

「前の業者です」

「前の」という一言に、軍事はわずかに力を込めた。

「ああ」

会話はそこで途切れ、前は名前を聞かず、軍事は名前を言わなかった。38万を惜しんだ判断の先に、700という数字が置かれるまで3ヶ月かかった。その3ヶ月の間、俺の名前は一度も呼ばれていない。

入れ替わりに早坂が階段の方から降りてきた。インカムは外していたが、首の後ろにその跡が赤く残っている。

「明谷さん、昨日はありがとうございました。間に合ってよかった」

「体の方は大丈夫ですか?」

早坂は少し間を置いてから、すぐに答えた。

「平気です。こういうのには慣れてます」

早坂は俺の隣に立ったまま、しばらく黙っていた。手には紙が一枚あって、その端を親指の腹で何度も折り返している。

「事故報告書、私が書いたんです。局内向けの宛先は」

「聞かれると思ってなかったのか」

早坂は一瞬だけ答えに詰まった。

「編成局長と常務と、あと総務に一部。今日の朝までに出す決まりでした」

「原因の欄に何を書くかで、一晩迷った。でも、書き直せとも、こう書けとも言われたわけではない。ただ、原因を書けば誰かの名前が出ると気づいた瞬間、自分の手が勝手に『調査中』という3文字を選んだ。それ以上書けなかった」

「それでいい。今はそれしか書けないのが正しい」

早坂は驚いたように少しだけ黙り込んでから、紙の端を折り返していた指を止めて、初めてこちらの顔を見た。その時、ト倉が受付の方から早足で来て、俺たちの前で足を止めた。

「明谷さん、総合通信局から連絡が入った」

「事故の報告ですか?」

ト倉は首を横に振って、手にした紙をこちらへ向けた。

「いや、それだけじゃない。この1ヶ月半の障害の件数を全部出せと言ってきてる」

ト倉の手にある紙には、提出書類の一覧が箇条書きで並んでいた。点検記録と故障記録、保守契約の写し、それに委託業者の選定経緯まで求められている。提出先は総合通信局の担当窓口で、原本ではなく写しでいいとだけ救いがあった。期限は今週一杯だと、ト倉は紙を見ないまま口にした。

「うちにも同じ資料を出せと」

ト倉は紙から顔をあげて、力なく首を振った。

「求められたらいつでも出します」

「ああ、そうしてくれると助かる。局から出す分はあんたんところとはまた別だ。とにかく、立ち入り検査だ」

呼び出しの文書が届いたのは事故から2日後だった。差出人の欄には「社内調査担当」とだけ書かれていて、個人の名前はどこにもない。局から届く文書はいつも点検の依頼か支払いの通知で、呼び出しという形式は初めてのことだった。

技術棟のロビーを抜ける時、入館証を提示する手続きがいつもより機械的になっていた。指定の時間より10分早く着き、大会議室の前の廊下で壁の時計を見ながら待った。呼ばれて中へ入ると、長机がコの字に組まれ、こちら側の椅子は一つだけ用意されていた。向かい側には3人分の椅子が並んでいたが、埋まっているのは両端の2つだけだ。机には入退室記録の写しと監視カメラの静止画を並べた紙が置かれている。

「17時57分に技術棟を1階へ入館し、17時58分には機械室の扉が開閉した記録が残っている。19時10分に退館するまで、俺以外の入退館記録はなく」

「その時間、俺は一人でした」

否定はしなかった。否定する理由がなかった。盤を開けてから閉じるまでの動きを一つずつ順番に話すよう求められ、まるで数字を読み上げるように手順を答えていった。綴じをめくっていた軍事が、そこで初めて顔をあげた。

「工具箱に交換用の部品が入っていたそうですね。事故の前から用意していたと聞きました」

「9月に仕入れて、ずっと工具箱に入れていました。それだけです」

「用意周到だという人もいるでしょうね」

「9月の見積もりを却下したのは目の前のこの男で、その男が今、俺の用意周到さを疑っている」

それ以上は何も言わず、鞄から携帯を出して、事故当日に撮った写真を机に並べて見せた。焼けた接触器、盤の内側の焦げ、破断した封印シール。3枚とも事故直前に自分で撮った動かし難い記録で、画面の隅には18時52分と18時53分の表示が残っている。

「盤を開けたのは電源が落ちた後です」

「携帯の時刻は変えられる」

短い一言だった。

「変えていません」

「変えていないと、この場の誰が言えるんですか?」

廊下に出たところで、ト倉が壁に寄りかかって待っていた。

「自己調査委員会が正式に立った。それで」

ト倉は視線を廊下の先へ逃してから、声を落として言葉を選んでいる。

「委員の一人に、軍事さんが入ってる」

言葉がすぐには意味を結ばなかった。疑いをかけた人間が、疑いをさばく側の椅子にも座る。そんな仕組みに、俺の入る余地はない。

「委員会はいつまで続くんですか?」

「決まってない。長引くと聞いた」

数日後、正式な委員会が同じ部屋で開かれた。前回と同じ長机だったが、並ぶ顔ぶれは増えていた。中央に前が座り、両端に見覚えのない役員が2人、書類には目を落とさないまま並んでいる。向かいに座らされた俺の前には、苗字だけが印字された一枚だけが置かれていた。

「原因は保守業者の管理不足で見て間違いないでしょう」

現場を一度も見ていない人間の言い方だった。

「クレストに変わってから、警備上の障害が11件です。管理が行き届いていない証拠でしょう」

「11件という数字は俺も数えていた数字だったが、それを言い出したのは前の方が先だった。切り替え前の22年間、この数字は0だったことに、誰も触れなかった」

「保守業者という4文字の中に俺の名前は溶けて見えなくなっている。その時、向かいに座らされた椅子から少し離れた場所で、椅子を引く音が短く響いた。早坂が立っていた。黒縁の眼鏡の奥の目がまっすぐ前の方を向いている。

「あの人は、私の番組の技術者さんです」

早坂の一言は短く、それ以上の理由を続けないまま、椅子に座り直した。

「感情論は結構です。ここは事実を扱う場所でしてね」

「事実を出します」

早坂は手元の紙を配り、画面のタイムコードを指した。

「これが復電の時刻です。モニターの絵が戻った瞬間、局のシステムが自動で記録しています」

指の先がもう一枚の紙へ動く。

「こちらは副調整室の入室記録です。彼が戻ってきたのは、絵が戻った後です。復電が先で、俺が現れたのはその後だ。事前に細工していたのなら、こんな順番にはならないはずだった」

前は差し出した紙を一瞥しただけで、それ以上を見ようとはしなかった。軍事が何か言いかけたが、前が手のひらでそれを制した。

「お留とします。結論は次回に持ち越しましょう」

晴れたわけではなかった。保留という意味は、疑いが消えたことと同じ意味ではない。それでも、部屋を出るまでの間、誰も俺の方を向いて笑わなかった。

技術部フロアの受付は以前と変わらない蛍光灯の白さで俺を迎えた。前の晩、事務所の机で請求書を書いた。宛先と日付、それに根拠になる条文の番号まで控えを取りながら清書した。カウンターにその一枚を置くと、3つの項目が並んでいる。入退室記録の写し。当日の設備ログ。それに、受付第309号の綴じの写し。

ト倉は請求書を受け取り、3つの項目を順に指で押さえていった。

「入退室記録とログは出せると思う。っちは」

ト倉の指が3つ目の項目の上で止まり、その止まり方だけで答えの検討がついた。

「それは社内文書だから」

「社内文書というのは、誰が読んでいいかを局が決めるという意味ですか?」

ト倉は答えず、請求書をカウンターの端へ寄せた。紙が滑っていく音もその先の机の隅も、9月に見た時とそっくり同じだった。違うのは、黙って引き下がるつもりが今日はないという一点だけだ。

「上に確認してからだ。少し時間をくれ」

「いつまでですか?」

ト倉はすぐには答えを返さず、請求書の余白へ目を落としたまま指先でカウンターの淵を意味もなく叩いている。

「分からない」

分からないという言葉に、怒りは湧かなかった。俺の潔白と軍事の罪を同時に証明できる紙が、この男の手の届く範囲にありながら、それを出せずにいる。目の前で目をそらし続けるこの男を見ていると、隠していたのは自分の判断が間違っていたという一点だけなのだと分かってくる。

夜の底に沈んだ作業場の中で、裸電球の周りだけがぽつんと明るかった。作業場の扉がノックされたのは9時を回った頃だった。開けると、早坂が立っていた。耳のイヤホンは外され、ジャンパーのポケットに押し込まれている。

「あんたが盤に触ったせいで、技術部が全員疑われてるって知ってますか?」

声には怒りとも焦りともつかない色があった。

「入退室記録を出せって、俺にまで言われました。あんたが何をしたのか、みんな知りたがってます」

「点検もしない業者に変わったのはこっちのせいじゃない。なんで技術部が割を食うんですか?あんたが黙って直したりするから、こういうことになるんですよ」

黙って聞いていると、早坂の声は次第に早くなり、途中で言葉の順番が崩れていく。

「会議室に一人で入ったことも、もう外に知られてます。事故の前から何かしてたんじゃないかって、そんな話まで出てるんです」

途中で自分の言葉につまずいたように、早坂は口をつぐんだ。

「何の話をしに来たのか、自分でも分からなくなりました」

部屋に沈黙が落ちた。しばらくして、早坂が工具箱を床に下ろし、蓋を閉じたまま両手を離す。

「点検報告書に、俺、立ち合い委員をしているんです」

その声はさっきまでとは違う低さだった。

「クレストが実地点検をやったことにして、俺が立ち合った形になっている報告書です」

「その道具箱、古いな」

早坂は何も言わなかった。しばらくの間、その沈黙だけが部屋に落ちていた。

数日後、早坂がまた作業場に来て、今度は最初から鞄の中の何かを机に出そうとしていた。出てきたのは、携帯の画面を印刷した12枚の写真で、一枚ずつ盤の扉の把手が映っている。

「12面全部取ってきました」

「並べてみろ」

早坂が写真を順番に机へ並べていく手付きは、あの現場と違って落ち着いていた。一枚手に取っては確かめ、また次の一枚を出す。写真の順番は盤の並びと同じ左から右で、教えた通りの角度で、どの一枚にも管理番号と日付が同じ画角に収まっている。裸電球の下で、11枚に同じ日付が読めた。10月26日。俺の字で書いた署名が、張った時のまま残っている。破れているのは最後の一枚。俺が事故の直前に親指で切った、BK系統の一面だ。

12枚を並べ終えても、早坂はしばらく写真から目を離さなかった。

「クレストは稼働してから45日、盤を一回も開けてないってことですよね」

「そうなる」

「警備上の障害があの45日で11件も続いた理由が、そのまま机の上に並んでいる」

「開けてないのに、点検報告書には毎月『異常なし』と書いてあります」

早坂の声がそこで一度途切れると、言葉の続きを自分でも探しあぐねているような長い間になった。

「その報告書の立ち合いに、俺の判があります」

「江藤さんから電話がありました。なんて言われた?」

「盤の枚数を聞かれたこと、写真を撮っているかと聞かれたこと。答えずにいたら、声の調子が変わって。最後にこう言われました。『余計なことを言うな』」

その一言だけを、早坂は俺の目を見て言った。

「他にはそれだけです。でも、それだけで十分でした」

夜、作業場のテレビをつけたまま2人で工具の手入れを続けていた。テレビの音量をいつもより少しだけ大きくしてあった。ニュースの画面に、舞阪の顔が映る。局のロゴが入ったバックパネルの前で、前は原稿らしきものを一度も見ずに話し続けていた。

「今回の事故は、保守業者の管理不足によるものと認識しております」

局名も業者名も出ていないが、この業界にいる人間なら誰のことかはすぐに分かる文言だった。杉尾の手が止まり、リモコンへ伸びかけた。

「最後まで見る」

杉尾の手が、リモコンの手前で止まる。

朝の冷え込みの名残りがまだ廊下の空気にわずかに残っていた。技術フロアの前で待っていると、地味な紺のスーツを着た男が書類鞄を下げて現れた。

「明谷さんですね。総合通信局の社代です」

社代の靴は雪道を歩いてきたにしては、汚れ一つなかった。感情の起伏がまるでない声で、社代のような人間と話すのはこれが初めてだった。

「お伝えしたいことが、一つだけあります」

「どうぞ」

「9月5日、受付第309号という番号でこちらに点検報告書を提出しました。件名は『BK等主幹端子及び接触機交換の件』です」

「中身が今は俺の手元にありません。番号と日付だけお伝えします」

「番号と日付があれば、こちらで綴じを得ます。委託先の業者は『法廷点検を済ませている』と説明しているそうですね」

「そう聞いています」

社代はファイルの表紙から目を離さないまま、一呼吸だけ間を置いた。

「法廷点検と日常点検は別物です。電波法に基づく定期検査は無線設備について年に一度です。電源設備の月次点検は、電気事業法の保安規定で定められた別の義務になります。両方を済ませたことは、まだ誰も証明していません」

社代の言葉には感情の起伏が最後までなく、だからこそその一言は言い訳の余地なく耳に残った。

「近く立ち入り検査に入ります。記録はこちらでも取ります」

「よろしくお願いします」

それだけを言って一礼すると、社代はファイルを鞄に戻し、留め具が小さく金属音を立てて閉じた。去っていく後ろ姿の鞄が、灰色の廊下で一つだけ黒く見えた。

日輪電気の支社に着くと、紙の匂いは9月と変わっていなかった。寺田がいつもの分厚いファイルを抱えて入ってきた。丸メガネのブリッジを指で押し上げてから、向かいの椅子に腰を下ろす。

「2つ頼みたいことがある」

「行ってください」

「1つは、局から3者立ち合いで送った接触器の解析だ。もう1つは、うちが5年間頼んできた解析回答書の控えを、局へ提出してほしい」

「記録の保存年限は10年です。控えは年ごとにファイルしてあります。接触器の解析は、もう届いています。人員は開けてあるので、10日もあれば結果が出ます」

丸メガネの奥の目が、初めて書類から俺の顔へ動いた。

「摩耗による焼けか、人の手が入ったものか。うちの機会は嘘をつきません」

その断定に迷いは一切ない。

「5年間同じような依頼を繰り返してきた末に出てきた、実感のこもった一言だった」

夜、事務所の電話が鳴る。

「ト倉だ。自己調査委員会の最終報告会が決まった。来週だ。あんたにも出席の通知が行く」

「系列キー局という執行役員が来る。総合通信局からは社代さんだ」

「準備はできてるか?」

ト倉の声には、先日の時にはなかった硬さがあった。

「できています」

大会議室の窓の外に、葉を落とし切った並木が並んでいた。長机に組まれた札の立った席が壁際まで続いている。俺は向かいに案内され、「参考人」という札の下に自分の名前だけを見つけた。机の上には各社の点検報告書と、閉じられた資料の束が積まれている。9時、舞阪を先頭にして編成局と技術部の幹部たちが次々に入ってきた。軍事とト倉が続き、早坂は少し遅れて片隅の椅子に座る。江藤は部下を2人連れて最後に腰を下ろした。寺田は日輪機械の腕章をつけたまま、分厚い資料を胸に抱えている。高之巣と社代は来賓用の椅子に並んで座った。

「時間ですね」

軍事が小声で促すと、前は頷いて委員長の中央に立ち、卓上のマイクを指先で軽く鳴らした。

「これより、12月11日の放送停止事故に関する調査委員会の最終報告会を始めます」

前の声には迷いのかけらもなかった。

「結論から申し上げます。原因は、保守業者の管理不足。委員会としてはこのように取りまとめます」

まだ一枚の資料も開かれていないうちに、結論だけが先に部屋の空気を占めていく。

「結論を先に置くのは、事実の確認が終わってからでも遅くないのでは?」

「委員会の進行は、委員長の私が決めます」

社代はそれ以上を続けず、手元の資料を静かに開いた。異を唱えるものは誰もいなかった。前が座ると、江藤が立ち上がり、手元の報告書を両手で持ち上げる。

「弊社の点検実施記録をご報告いたします。規定通り、毎月実施しております」

江藤の声は落ち着いていて淀みがなかった。

「増し締め、絶縁抵抗の測定、目視点検。いずれも毎月欠かさず行っております。不具合の兆候があれば、その都度報告書に記載する運用です」

江藤は報告書のページをめくり、一枚の表を掲げるようにして続けた。差し示す先には、記入のない空欄だけがずらりと並んでいるのが見えた。

「受託してから今日まで、記載した件数は0です」

「毎月、12面全てを御社の担当者1名で回ってるんですか?」

「はい。慣れたものですので」

委員長から見て、それ以上の質問を続ける気配はなかった。

「結構です」

「委員長、この印の押し方について確認したいことがあります」

「後にしてください。今は江藤さんの報告の途中です」

俺は以上を続けず、静かに口を閉じた。江藤が席に着くと、軍事が初めて口を開いた。

「委員長、よろしいですか?先住に、出入りの業者が座っています。参考人としての同席に、法的な根拠はあるのでしょうか?」

部屋の視線が一斉に俺の方へ集まった。答えたのは、意外にも社代だった。

「参考人として、私が指名しました」

短い一言で、それ以上の説明はなかった。軍事の眉がわずかに動く。

「行政の方が、なぜ一介の業者を同席させるんですか?」

「一介の業者かどうかは、これから明らかになります」

社代は書類から目を上げないまま、感情の起伏のない声で答えた。軍事はその言い方に、わずかに口を閉ざした。

ト倉の隣に座っていた早坂が、資料の束を抱えたまま静かに立ち上がる。

「技術部から資料を配らせてください」

早坂は束を抱え、テーブルの端から一枚ずつ丁寧に配っていった。紙には12面の電源盤の一覧表と、扉に貼られた封印シールの写真が並んでいる。俺の手元にも一枚が置かれた。破れた一面だけが、切り口の形が他の11面とは違っている。

「先週、私が全面を回って撮影しました。破損は1面のみです。残る11面は、契約終了時の状態のままでした」

早坂の声は固かったが、揺らいではいなかった。

「その写真が事故と何の関係があるんですか?」

「関係があるかどうかは、これから示します」

江藤はそれ以上を続けず、隣に座る部下の方を見たが、部下も目を伏せたまま、何も言い返そうとはしなかった。その短い沈黙を先に破ったのは、委員長に座った前の方だった。

「続けてください」

昼の休憩を挟み、会議は点検の実施記録に移っていく。社代が技術棟の入退室記録を印刷した紙を配らせると、機械的な日付と時刻がびっしりと並んでいる。

「クレスト設備さんの点検報告書には、12面全ての実施が記録されています。ですが、入退室記録では滞在時間が30分前後でした」

「12面を30分ですと、1面あたり2分半です。増し締めと熱測定を含めて、それで足りますか?」

「経験のあるものが回れば、それくらいで済みます」

江藤の口調は変わらなかったが、隣に座る部下の肩がかすかに強張るのが見えた。

「熱測定は放射温度計を1面ごとに構え直す必要があります。2分半では、機材を取り出す時間もないはずです」

江藤はそれには答えず、資料の別のページへ視線を逃した。社代は何も言わず、次の紙のページをゆっくりとめくった。

「別の者が別の入り口から入っている可能性もあります」

「その方の入館の記録を教えていただけますか?同じ時刻に御社の登録は2名分しかありません」

「御社は当初、『法廷点検は済ませます』と説明されていましたね」

「はい。それは間違いなく」

江藤の即答に迷いが見えなかったが、それこそが社代の待っていた一言でもあった。社代は手元の書類をゆっくりと机の上に差し出しながら、次のページへ指をかけた。

「法廷点検と呼ばれているのは、電波法に基づく無線設備の年次検査です。電源盤の月次点検は、電気事業法の保安規定で定められた、全く別の業務になります。御社が省略していたのは、後者です。契約上の任意ではありません」

江藤は口を開きかけたが、言葉にならなかった。日焼けした顔から、いつもの愛想笑いが完全に消えている。

江藤が黙り込んだ流れを打ち切るように、軍事が椅子を引いて立ち上がった。

「江藤さん、契約の当事者はあなたで、指示系統も報告のルートも全て御社の中にあることです。責任の所在をはっきりさせないまま、この場を終わらせるわけにはいきません」

いつもの局内でなら十分に通る言い方だった。だがこの部屋には、軍事の役職も社内の力関係も届かない相手が座っていた。

高之巣が手帳を開いたまま、顔をあげずに静かに口を挟んだ。

「その盤の形式と、施工された年を教えてください」

「それは技術部の所轄です」

軍事の答えは、質問をそのまま押し返しただけだ。高之巣は表情を変えず、手帳のページを一枚めくった。

「では、直近5年の交換履歴は」

高之巣は手帳から顔をあげ、初めて軍事の顔をまっすぐ見た。

「形式も施工年も交換履歴も、担当役員が答えられないというのは珍しいことです」

軍事は何も言い返せず、視線だけを机の上に落とす。答えられるものは、その場に誰もいなかった。

「今は責任の話をしています」

軍事の視線が、味方を探すように部屋を一回りする。誰とも目が合わないまま、その視線は行場を失っていく。

「ト倉君。技術部長として、君からも何か言うことがあるんじゃないか」

ト倉は顔をあげないまま、資料の一点だけを見つめ続けている。

「今は聞かれたことに、お答えします」

「聞かれたら、何を答えるつもりだ?」

「責任は、事実が確定してから決まるものです」

社代の声は低く、それでいてよく通った。高之巣も手帳に目を落としたまま、系列各局の設備を見てきた者同士にしか通じない頷き方を一つ返す。いつもなら次の言葉を待つはずの沈黙が、今日はただ軍事一人を置き去りにしていく。

「委員長、休憩を少しただけますか?」

「まだ15分しか経っていません」

15分の休憩が入り、会議室の扉が開いた。廊下へ出ると、技術部のフロアの奥に杉尾が立っていて、足元にボールの箱が一つ置いてあった。

「12月に車へ積んで、そのまま作業場の棚へ戻した箱だ」

「駐車場で待ってろって言われたんで持ってきたんですけど、警備の人が中まで運んでいいって」

「重かっただろう」

「思ったより軽かったです。中、何が入ってるんですか?」

俺は答えず、蓋の合わせに貼ったガムテープの端を指の腹で確かめた。5年分の重さというのは、持ってみるとこの程度でしかない。

会議室の扉の内側から椅子を引く音が聞こえてくる。俺は箱を抱えて扉の方へ戻った。椅子の足元に寄せていたダンボール箱を両手で持ち上げ、長机の上へ静かに置いた。

「何ですか、それは」

答える代わりに、俺は蓋を開けた。中には油紙にくるまれた部品がびっしりと詰まっている。一つずつ手に取ると、どれにも小さな封印タグが結びつけてあった。タグには日付と形式、それに手書きで何を思ったかを書いた短い言葉が、丁寧な字で並んでいる。一番古いものは5年前の日付で、紙の端がわずかに黄ばんでいた。

「5年間、外した部品は全て日輪電気へ送って解析してもらいました。タグはその控えです」

「5年分、全てですか?」

前の声にはわずかな驚きが混じっていたが、それもすぐに消えていった。

「一つ残らず、全てです」

俺は並べ終えると、鞄から一枚の紙を取り出し、机の中央に置いた。引き継ぎの控えだった。BK系統の要交換が明記された欄の脇に、受領印が一つ押されている。

「それは、業者が自分で作った紙でしょ」

短い一言だった。軍事の視線は紙の上を通り過ぎただけで、手に取ろうとはしなかった。

「その印が押してある紙だけが、局に届いた証拠になります」

「一枚の受領印で、何が証明できるんですか?」

「明谷さん、何が言いたいんですか?」

前の視線が初めて軍事から俺の方へ移り、値踏みするように動いた。

「その綴じ、開けてみてください」

「綴じの中身がどうあれ、業者の言に変わりはないでしょう」

「では、開いてから、そう言ってください」

その間、誰も口を挟まなかった。

「行政の方の前で、随分な言い方ですね」

「随分でも何でもなく、事実を言ってるだけです」

「参考人の分際で」

「指示はしていません。開いて欲しいと頼んでいるだけです」

その一言で、軍事はようやく口をつぐんだ。前が横目で軍事を見たが、軍事は何も答えなかった。前が身を乗り出し、総務課の担当者に何か短く、それでいてはっきりと指示を出した。担当者は無言のまま席を立ち、一礼をして静かに部屋を出ていった。

10分ほどして、総務課の職員が分厚い受付簿と一冊の綴じを台車で運んできた。綴じの表紙は、9月に局調室の書棚で見たものと同じ色をしていた。社代がそれを受け取り、机の上で受付簿のページを一枚ずつめくっていく。指先が9月のページの上で止まった。

「受付第309号、件名欄にはこう書かれています。『BK主幹端子及び接触機交換の件』」

社代は綴じの表紙をめくり、中の一枚を取り出して掲げると、紙を持つ指先が紙の端でぴたりと止まった。部屋の誰もがその手元から目を離せずにいる。

「ところが、綴じられている本文は、こうです。『異常なし』」

息を吸う音がいくつか重なって、それきり誰も動かなかった。社代は続けて、2通目の綴じも開いて見せた。

「2通目も同じです。件名は変わらず、本文だけが『異常なし』になっています」

「件名と中身が違う。その一点だけで、それまでの話の全部が決まった」

「本文を書いたのはどなたですか?」

「筆跡までは、この場では分かりません」

「では、指紋か何かで調べる方法はありますか?」

「必要であれば、後で検討します」

「私、報告書は受け取っていません」

短く冷たい否定だった。

「受け取っていないというのは、届いていないという意味ですか?」

軍事は早坂の方を見ようとせず、何も答えなかった。社代はその言葉を待っていたように、綴じの別のページを静かに開く。

「では、こちらの決済欄を。読んだ人間しか判を押さない欄だと聞いています」

社代の指が止まった先に、朱色の印が一つ残っていた。

「軍事さん、ここに押されているのは、あなたの印ですね」

軍事は口を開いたが、そこから先の言葉が出てこなかった。黙ったまま、印の押された紙から目をそらす。ト倉は隣の席で身じろぎもせず、その紙から目を離さずにいた。

長い沈黙の後、ト倉がゆっくりと椅子を引いた。猫背のまま何年も机に向かってきたはずのその背中が、この時だけ、まっすぐに伸びる。胸ポケットの3本のペンが、立ち上がった所作に小さく音を立てた。

「私が、本文を差し替えました」

部屋の全員がト倉の方を見た。

「誰に言われたかは申し上げません。差し替えたのは私です」

それ以上の言葉を続けなかった。誰が指示したかを言えば、この場でもう一段、罪が重くなる相手がいる。そのことだけは、猫背の男にもはっきりと分かるようだった。裏ポケットに手を入れ、白い封筒を取り出す指先が、小さく震えている。ト倉はその封筒を机の上にそっと置いたが、封はまだ閉じられていない。中の紙が白い封筒の隙間から少しだけ覗いていて、角に印刷された社名の下に「辞職」という文字がはっきりと見えている。前は封筒を一瞥しただけで何も言わず、軍事もそれを見ようとはしなかった。

空気が変わったところで、寺田が立ち上がった。

「日輪電気からもご報告します。まず、9月14日付けの解析回答書です。摩耗量は基準値の3倍。同型は交換を推奨するという結論です。発行元は当社の品質保証部で、宛名は局のテレビ様。日付は9月14日です」

丸メガネの奥の目が、一度もファイルから離れなかった。

「この回答は、うちの品質記録として保存する義務があります。棚から出すだけで済みました。局の綴じは差し替えられても、他社の品質記録の棚までは、軍事の手もト倉の手も届かない」

「この設備がここまで持ったのは、明谷さんが5年間、外した部品を毎回うちへ送って解析させていたからです」

「摩耗した接触器の解析結果です。3者立ち合いで実施しました。摩耗による接点の荒れと加熱。外部からの人為的操作の痕跡なし」

その一文で、事前に盤へ細工したのではという疑いが、正面から崩れていった。

疑惑が晴れたことは、前にとって別の的がいることを意味していた。前が初めて俺の方をまっすぐ見た。その目は俺の顔ではなく、コのジャケットの襟元当たりで止まっていた。

「明谷さん、契約を切られた恨みで、この局を落とし入れようとしているのではありませんか?」

部屋の温度がまた一段変わった。疑惑では崩せないと分かったからこそ、次の一手が動機に向かってきたのだと分かる。

「業者としての立場を失った人間が、正確な紙だけを都合よく残していた。そう考える方が自然でしょう」

俺は手帳を開き、自分の字で書いた日付を確かめてから、顔をあげた。

「受付第309号の受付日は、9月5日です」

「光森の号例が出たのは、9月22日でした」

前の表情にはまだ変化がなかった。

「それが何だと言うんですか?」

「受付第309号は、恨みが生まれる17日前に書いた紙です。短い間があった。前の視線が机の上に広げたままの手帳へゆっくりと落ちていく。恨みが生まれる前に描いた紙で、恨みを晴らすことはできません」

その言葉に、部屋の中の視線がいくつか前の方へ動いていく。前は口を開きかけたが、その先の言葉が出てこなかった。沈黙の間に、高之巣が手帳から顔をあげ、初めて低い声で言葉を挟んだ。

「日付は後から動かせるものではありません」

「私は、報告を受け取っていない」

低いが、はっきりとした声だった。「3年で固定費を1億2000万円削る」という号令をかけたのは、他ならぬ前自身だった。その号令の下で何が起きたかまでは、報告を受けていないという理屈だった。前がそう言い切った瞬間、部屋の何人かが小さく身じろぎした。

ト倉が辞職を置いたままの手でもう一枚の紙を鞄から取り出す。

「契約解除の決済書です。起案したのは私です。控えを持っています」

紙の上部には「決裁」という角印と複数の決済欄が並んでいた。起案者の欄にはト倉の印、その上には軍事の印、そして一番上に前の印がある。ト倉はその紙を社代の前にまっすぐ差し出した。紙を持つ手付きは、辞職を出した時よりもいくらか落ち着いて見える。もう失うものがないと分かった人間の、静かな手付きだった。

社代が受け取り、「技術部意見欄」と印所を指でなぞる。

「ここにこうあります。『受付第309号、BK系統主幹端子及び接触機要交換の件については、業者側の誇大見積もりと判断』」

件名が全文そのまま書かれていた。要交換という言葉ごと、前が決裁した印の上に残っている。

「では、この決裁の印は、これは舞阪様、ご自身のものです」

部屋の中に、紙をめくる音さえしなくなった。社代は決済欄の紙を一旦机に置き、決裁書の方を改めてゆっくりと持ち直した。

「前様、この決裁書に見覚えはありますか?」

前は、言わず。言おうとした形跡さえ、その顔には見当たらなかった。沈黙が長引くほど、その意味は誰の目にも明らかになっていった。

「技術部意見欄という小さな枠の中の、たった2行が、今この部屋の全部を決めていく。38万円を惜しんだ判断の結末が、別の紙の上でようやく数字になろうとしていた」

「危険だとは聞いていない」という一言を、前は最後まで口にしなかった。報告を受けていなかったのではなく、自分が判を押した決裁書を読んでいなかっただけだと、その紙が示している。

社代が手元の書類をまとめながら、行政としての所見を静かに述べていく。

「法定点検の形骸化と、設備管理体制の不備を認めます。行政指導の上、再発防止計画の提出を求めます」

書類を閉じかけた手がそこで一度だけ止まった。

「なお、12月11日に立ち合い人なしで盤が操作された件は、緊急避難として記録に残します。手順としては誤りですが、とがめる書き方はしません」

その一言で、俺の中に最後まで残っていた引っかかりも、紙の上に片付いた。

それまで黙って聞いていた高之巣が、分厚い手帳を閉じて、初めて立ち上がった。

「系列全体で設備監査を実施します。技術部門で削った額は、年に2400万円。今回の事故の直接損失は4800万円です。内訳はCMの返金と差し替え、お詫びの対応。それに全系統の緊急総点検と主幹設備の一斉更新、系列監査への対応です。削った額のちょうど倍になります」

「4800万円という数字は、どこから出したんですか?」

「先ほど提出された領収書と見積もり、それに寺田さんの解析費用を積み上げただけです」

前はもう、何も持ち合わせていない。

「駆け捨てだった保険料と、この請求書、並べてみてください。22年、放送事故は0件でした。45日で警備上の障害が11件、送出の停止が1件です」

前は、何も言い返さなかった。

「軍事さんの委員としての立場は、ここまでとします」

高之巣の決定が静かに告げられた。クレスト設備との契約は解除され、系列社での3年の指名停止が決まる。受託料の全額返還と、不正な請求についての刑事告訴の検討も合わせて告げられた。

「弊社としても、精一杯点検には務めておりました」

「務めた結果が、この記録です」

江藤は最後まで何も言い返さなかった。隣に座っていた2人の部下は、抱えた資料を膝の上で握り直したままだった。

高之巣が席を立ち、こちらへまっすぐ歩いてくる。

「明谷さん、うちの系列の設備も見てもらえませんか?」

分厚い手帳を小脇に挟んだまま、高之巣は返事をせかそうとしなかった。発注する側の人間が、「下受け」と呼ばれてきた俺に頭を下げていた。

「見させてもらいます」

「助かります。古い設備が多いので」

俺は右手を差し出し、工具ダコの残る指先に高之巣の手のひらの熱を感じた。高之巣がそれを両手で強く握り返してきた。

正門の並木は、枝という枝に雪をかぶっていた。軽トラックを来客用の駐車場に入れ、2台の荷台の煽りをゆっくり下ろした。測定機の箱と脚立、それに予備部品の棚1段分を台車に積み替えていく。12月に運び出したものを、また運び入れる日が来るとは思っていなかった。首から下げた入館証には赤い縁取りも期限の日付もなかった。顔写真の下には署名と登録番号だけが、以前より一回り小さな文字で記されている。歩く度に軽く跳ねるそれを、指先で一度だけ抑えた。

技術部のフロアへ上がると、以前より人の声が多い。奥の列の照明が久しぶりに端から端まで点いていた。見覚えのない顔が2人、隣り合った机で配線図を広げている。

「系列局からの応援だと後でト倉が教えてくれる。一人は無線の資格を持つ40絡みのベテランで、もう一人はまだ入って間もない若手だという」

ト倉が奥から歩いてきて、台車の上の荷物の数を目で数えた。

「机が足りなくてな。悪いが、ここで少し待っててくれ」

「構いません」

ト倉が受け取り書を差し出し、品目の欄を上から順に目で追って確かめていった。漏れがないことを確かめると、俺はその下の欄に押印だけを書き出す。受け取った受け取り書をト倉はクリップボードごと胸に抱えた。受取書の控えを、俺も自分の手帳の間に挟んでおいた。機械室へ続く廊下の方から、換気ファンの低い唸りだけがかすかに届いていた。扉を開けることはせず、そのまま廊下の入り口だけを見て確かめて済ませる。あの部屋の点検は、もう俺の仕事ではなくなっている。

ト倉が自分の机から、クリップで止めた紙の束を持ってきた。表紙には「再発防止計画」のことだけ書かれている。

「目を通してもらえるか。現場を知らない人間だけで作ると、また同じことになる」

受け取って窓際の椅子に座り、目次のページから順にめくっていった。点検体制の見直し、委託業者の選定基準、記録の保存年限、短い項目がいくつも並ぶ中に、「技術局の設置」という項目があった。

「これは」

「編成局から切り離す。設備の決済は、設備を知っている部署に戻す」

事務的な報告を読み上げる時と、全く同じ調子だった。さらにページをめくっていくと、点検の書式を統一するという項目に付箋が張ってあった。保守の委託先は「明谷電気サービスへ戻す」という項目も、当たり前のようにそこに並んでいた。委託業者の選定基準の方には、価格の欄と並んで「実施時間の記載義務」という一文が加えられていた。30分で12面を回ったことにする紙は、これでもう通らない。新人教育の予算という欄には、これまでなかった数字が新しく計上されていた。

「時間まで欠かせることになった。いいと思います」

ト倉はメモを取りながら、俺の答えを待たずに次のページへ移っていく。その間、頭を下げることも、詫びることも、一度もなかった。最後のページには提出期限と、責任者としてのト倉の名前だけが記されている。提出先の欄には系列キー局の「技術統括部」という宛名も新しく加えられていた。

窓の外は晴れているのに、フロアの蛍光灯は昼間から白く点ったままになっている。

台車を返しに正門まで戻ると、車寄せに黒い車が一台止まっていた。車体には見覚えがあり、以前、業者説明会の日にも同じ場所に止まっていた。エレベーターホールの方から、鞄を一つ下げた紺のスーツの男が歩いてきた。前だった。普段より足取りが遅く、鞄を下げた肩がわずかに傾いている。胸には白いポケットチーフがなく、鞄もいつものように誰かに持たせてはいなかった。自分の右手だけで鞄を下げていて、すれ違う寸前にはその足が半歩だけ止まった。何か言いかけたのが分かった。その先の言葉は、いくら待っても出てこない。名前をどうしても思い出せずにいるのだろうと、俺には分かった。この局に出入りしてきた20年あまりの間、前は俺の名前を一度も呼んだことがなかった。

前は結局何も言わないまま車へ乗り込み、ドアが閉まる音だけが静かな車寄せに小さく響いた。車が正門を出て、並木の向こうへ消えていくのを、俺はしばらく見送っていた。ト倉が横に並び、車が見えなくなるまで同じ方をじっと向いている。

「取締役で退陣という形になった。経営企画本部長を解任され、次の社長人事の話にはもう名前が出てこない」

「何も感じなかった。自分がそのことに気づいて、少しだけ驚く。胸のうちで数えていたはずの22年分が、指を折る前に終わってしまった」

事務所の扉をノックする音がしたのは、杉尾が帰ってすぐのことだ。ト倉がこの事務所を尋ねてくることは、これまでほとんどなかった。扉を開けると、私服姿のまま、傘も差さずに立っていた。ト倉のコートの肩には、まだ雪の粒がいくつも残っている。

「どうぞ。上がりますか」

ト倉は長椅子の丸椅子に浅く腰を下ろした。湯飲みを淹れて差し出すと、ト倉は両手でそれを包んだ。しばらく黙って、湯の立ち上るそれを見ている。

「20年前、俺は一度だけ、前さんの案に逆らったことがある」

ト倉はぽつりと続けた。36歳で技術部の主任だった頃、削減案にまとめて異を唱えたのだという。その年のうちに技術部から17人が移動と退職で消えたことも、順に話していく。

「俺のせいだとは、誰も言わなかった。誰も言わないまま、俺だけが残った。それから、逆らうのをやめた」

言い訳のつもりはないと、ト倉は前置きすらせず、それはこれまでのト倉からは聞いたことのない話し方だった。

「辞職は受け入れた。それでいいと思ってる」

「件名だけ残してましたね」

ト倉の手が、湯飲みの縁で止まった。

「本文は書き換えた。だが、受付簿の件名までには、どうしても消せなかった。あれが俺にできた、精一杯だった」

それ以上、ト倉は語らなかった。受領員の欄に残っていたあの滲みを思い出した。ト倉は湯飲みの中身を飲み干さないまま、椅子からゆっくり立ち上がる。半分近く残った湯飲みの中身が、静かに揺れて止まった。

「長い間、すまなかった。来ることはもうない」

扉を閉める音がいつもより静かだった。湯飲みには、口をつけた跡が一つだけ残っている。

早坂が作業場に通うようになってから、もう3週目に入り、仕事帰りに週2度ほどのペースで顔を出していた。その夜も、早坂は作業台に工具箱を置き、蓋を開けたままレンチを取り出した。小緑の塗装は角という角がすれて、地金の銀が所々覗いている。何気なく覗き込んだ蓋の裏で、手が止まった。変色して端の浮いた黒いテープが蓋の内側に張ってある。

「柏木」

「ああ、それ、親父の遺品なんです」

早坂はレンチを握ったまま、蓋の裏を見せずに答えた。

「うちの親、俺が中学の時に別れて、今は母方の姓を名乗ってます。親父は3年ほど前に亡くなりました。現場の人間で、若い頃に一度でかい現場を追われたって聞いたことがあります。理由までは知りません。それで現場が嫌いになったのかは分かりませんけど、親父は最後まで道具の手入れだけはやめませんでした」

早坂は俺が何者かを知らないまま、それだけのことを軽い調子で話していく。

「その現場は、ここだ」

早坂が顔をあげた。

「22年前、この建物の交換に、俺は日輪電気の技術者として入っていた。協力会社に、柏木さんという職人がいた。『この取り回しは危ない』と、俺に言った。俺はそれを、根拠のない現場屋の勘だと言った。最後まで聞かなかった。図面通りに押し通した。半年後、同じ箇所から火が出た。責任を追ったのは、柏木さんだった」

俺は椅子から立ち、早坂の前で頭を下げた。

「え、何それ」

「事実を言った」

早坂の声が、わずかに震えていた。

「今更言われて、俺はどうすればいいんですか?」

「どうもしなくていい」

早坂は何も言わなかった。長い沈黙だけが作業台の上に残り、工具箱の中の柏木のネームテープだけが、裸電球の明りの下で白く浮いて見えている。

数日後の夜、早坂がまた作業場に来て、今度は最初から鞄の中の何かを机に出そうとしていた。出てきたのは、携帯の画面を印刷した12枚の写真で、一枚ずつ盤の扉の把手が映っている。

「12面全部取ってきました」

「並べてみろ」

早坂が写真を順番に机へ並べていく手付きは、あの現場と違って落ち着いていた。一枚手に取っては確かめ、また次の一枚を出す。写真の順番は盤の並びと同じ左から右で、教えた通りの角度で、どの一枚にも管理番号と日付が同じ画角に収まっている。裸電球の下で、11枚に同じ日付が読めた。10月26日。俺の字で書いた署名が、張った時のまま残っている。破れているのは最後の一枚。俺が事故の直前に親指で切った、BK系統の一面だ。12枚を並べ終えても、早坂はしばらく写真から目を離さなかった。

「クレストは稼働してから45日、盤を一回も開けてないってことですよね」

「そうなる」

「警備上の障害があの45日で11件も続いた理由が、そのまま机の上に並んでいる」

「開けてないのに、点検報告書には毎月『異常なし』と書いてあります。その報告書の立ち合いに、俺の判があります」

「江藤さんから電話がありました。なんて言われた?」

「盤の枚数を聞かれたこと、写真を撮っているかと聞かれたこと。答えずにいたら、声の調子が変わって。最後にこう言われました。『余計なことを言うな』」

その一言だけを、早坂は俺の目を見て言った。

「他にはそれだけです。でも、それだけで十分でした」

翌日の昼過ぎ、配電盤の代理店へ部品を取りに行っていた杉尾が、いつもより早く戻ってきた。ヘルメットも脱がずに事務机の前へ来て、手袋を外しながら口を開く。

「親方、向こうの倉庫で、局のOBの人に会いました。技術部にいた人です。宿直が1人になったこと、新しい保守業者が夜に来ないこと。それに、技術部の誰かが機械室を『焦げ臭い』と言い出していること。その人、こう言ってました。『あそこはもう、誰も盤の中を見ていない』」

4日後の朝、技術部の前で待っていると、社代がまた現れた。

「明谷さん、総合通信局から、正式に立ち入り検査の通知が出ます。立ち会いをお願いできますか?」

「分かりました」

「それと、もう一つ。12月11日の、BK系統の一件について、局から改めての依頼が来ました。緊急避難としての記録に留めるという件で、あなたの処分はありません。記憶には、『緊急避難としての妥当性を認める』とあります」

「分かりました」

それだけを言って、社代は立ち去っていった。去っていく後ろ姿の鞄が、灰色の廊下で一つだけ黒く見えた。

夜、作業場のテレビをつけたまま、2人で工具の手入れを続けていた。テレビの音量をいつもより少しだけ大きくしてあった。画面がローカルニュースに切り替わり、司会者が原稿をめくる紙の音が小さく響く。ニュースの画面に、舞阪の顔が映る。局のロゴが入ったバックパネルの前で、前は原稿らしきものを一度も見ずに話し続けていた。

「今回の事故は、保守業者の管理不足によるものと認識しております」

「技術部門で削った額は、年に2400万円。今回の事故の直接損失は4800万円です」

音楽が流れ、次のニュースへ移っていく。ニュースが終わっても、誰も口を開かなかった。

翌朝、さほど寒くない曇り空の下、並木の枝先がひっそりと揺れていた。正門の警備員に一礼をしてゲートをくぐると、技術棟の玄関には見覚えのある白いポケットチーフを挿したノーカラーのスーツの男が立っていた。前だった。

「明谷さん、でしたか」

前が初めて、俺の名前を呼んだ。

「長い間、ご苦労さまでした」

「ありがとうございます」

前はそれだけを言うと、運転手が開けたドアへ、ゆっくりと歩いていった。車が正門を出て、並木の向こうへ消えていくのを、俺はしばらく見送っていた。ト倉が横に並び、車が見えなくなるまで同じ方をじっと向いている。

「取締役で退陣という形になった。経営企画本部長を解任され、次の社長人事の話にはもう名前が出てこない」

「何も感じなかった。自分がそのことに気づいて、少しだけ驚く。胸のうちで数えていたはずの22年分が、指を折る前に終わってしまった」

事務所の扉をノックする音がしたのは、杉尾が帰ってすぐのことだ。ト倉がこの事務所を尋ねてくることは、これまでほとんどなかった。扉を開けると、私服姿のまま、傘も差さずに立っていた。ト倉のコートの肩には、まだ雪の粒がいくつも残っている。

「どうぞ。上がりますか」

ト倉は長椅子の丸椅子に浅く腰を下ろした。湯飲みを淹れて差し出すと、ト倉は両手でそれを包んだ。しばらく黙って、湯の立ち上るそれを見ている。

「20年前、俺は一度だけ、前さんの案に逆らったことがある」

ト倉はぽつりと続けた。36歳で技術部の主任だった頃、削減案にまとめて異を唱えたのだという。その年のうちに技術部から17人が移動と退職で消えたことも、順に話していく。

「俺のせいだとは、誰も言わなかった。誰も言わないまま、俺だけが残った。それから、逆らうのをやめた」

言い訳のつもりはないと、ト倉は前置きすらせず、それはこれまでのト倉からは聞いたことのない話し方だった。

「辞職は受け入れた。それでいいと思ってる」

「件名だけ残してましたね」

ト倉の手が、湯飲みの縁で止まった。

「本文は書き換えた。だが、受付簿の件名までには、どうしても消せなかった。あれが俺にできた、精一杯だった」

それ以上、ト倉は語らなかった。受領員の欄に残っていたあの滲みを思い出した。ト倉は湯飲みの中身を飲み干さないまま、椅子からゆっくり立ち上がる。

「長い間、すまなかった。来ることはもうない」

扉を閉める音がいつもより静かだった。湯飲みには、口をつけた跡が一つだけ残っている。

早坂が作業場に通うようになってから、もう3週目に入り、仕事帰りに週2度ほどのペースで顔を出していた。その夜も、早坂は作業台に工具箱を置き、蓋を開けたままレンチを取り出した。小緑の塗装は角という角がすれて、地金の銀が所々覗いている。何気なく覗き込んだ蓋の裏で、手が止まった。変色して端の浮いた黒いテープが蓋の内側に張ってある。

「柏木」

「ああ、それ、親父の遺品なんです」

早坂はレンチを握ったまま、蓋の裏を見せずに答えた。

「うちの親、俺が中学の時に別れて、今は母方の姓を名乗ってます。親父は3年ほど前に亡くなりました。現場の人間で、若い頃に一度でかい現場を追われたって聞いたことがあります。理由までは知りません。それで現場が嫌いになったのかは分かりませんけど、親父は最後まで道具の手入れだけはやめませんでした」

早坂は俺が何者かを知らないまま、それだけのことを軽い調子で話していく。

「その現場は、ここだ」

早坂が顔をあげた。

「22年前、この建物の交換に、俺は日輪電気の技術者として入っていた。協力会社に、柏木さんという職人がいた。『この取り回しは危ない』と、俺に言った。俺はそれを、根拠のない現場屋の勘だと言った。最後まで聞かなかった。図面通りに押し通した。半年後、同じ箇所から火が出た。責任を追ったのは、柏木さんだった」

俺は椅子から立ち、早坂の前で頭を下げた。

「え、何それ」

「事実を言った」

早坂の声が、わずかに震えていた。

「今更言われて、俺はどうすればいいんですか?」

「どうもしなくていい」

早坂は何も言わなかった。長い沈黙だけが作業台の上に残り、工具箱の中の柏木のネームテープだけが、裸電球の明りの下で白く浮いて見えている。

数日後の夜、早坂がまた作業場に来て、今度は最初から鞄の中の何かを机に出そうとしていた。出てきたのは、携帯の画面を印刷した12枚の写真で、一枚ずつ盤の扉の把手が映っている。

「12面全部取ってきました」

「並べてみろ」

早坂が写真を順番に机へ並べていく手付きは、あの現場と違って落ち着いていた。一枚手に取っては確かめ、また次の一枚を出す。写真の順番は盤の並びと同じ左から右で、教えた通りの角度で、どの一枚にも管理番号と日付が同じ画角に収まっている。裸電球の下で、11枚に同じ日付が読めた。10月26日。俺の字で書いた署名が、張った時のまま残っている。破れているのは最後の一枚。俺が事故の直前に親指で切った、BK系統の一面だ。12枚を並べ終えても、早坂はしばらく写真から目を離さなかった。

「クレストは稼働してから45日、盤を一回も開けてないってことですよね」

「そうなる」

「警備上の障害があの45日で11件も続いた理由が、そのまま机の上に並んでいる」

「開けてないのに、点検報告書には毎月『異常なし』と書いてあります。その報告書の立ち合いに、俺の判があります」

「江藤さんから電話がありました。なんて言われた?」

「盤の枚数を聞かれたこと、写真を撮っているかと聞かれたこと。答えずにいたら、声の調子が変わって。最後にこう言われました。『余計なことを言うな』」

その一言だけを、早坂は俺の目を見て言った。

「他にはそれだけです。でも、それだけで十分でした」

翌日の昼過ぎ、配電盤の代理店へ部品を取りに行っていた杉尾が、いつもより早く戻ってきた。ヘルメットも脱がずに事務机の前へ来て、手袋を外しながら口を開く。

「親方、向こうの倉庫で、局のOBの人に会いました。技術部にいた人です。宿直が1人になったこと、新しい保守業者が夜に来ないこと。それに、技術部の誰かが機械室を『焦げ臭い』と言い出していること。その人、こう言ってました。『あそこはもう、誰も盤の中を見ていない』」

4日後の朝、技術部の前で待っていると、社代がまた現れた。

「明谷さん、総合通信局から、正式に立ち入り検査の通知が出ます。立ち会いをお願いできますか?」

「分かりました」

「それと、もう一つ。12月11日の、BK系統の一件について、局から改めての依頼が来ました。緊急避難としての記録に留めるという件で、あなたの処分はありません。記憶には、『緊急避難としての妥当性を認める』とあります」

「分かりました」

それだけを言って、社代は立ち去っていった。去っていく後ろ姿の鞄が、灰色の廊下で一つだけ黒く見えた。

夜、作業場のテレビをつけたまま、2人で工具の手入れを続けていた。テレビの音量をいつもより少しだけ大きくしてあった。画面がローカルニュースに切り替わり、司会者が原稿をめくる紙の音が小さく響く。ニュースの画面に、舞阪の顔が映る。局のロゴが入ったバックパネルの前で、前は原稿らしきものを一度も見ずに話し続けていた。

「今回の事故は、保守業者の管理不足によるものと認識しております」

「技術部門で削った額は、年に2400万円。今回の事故の直接損失は4800万円です」

音楽が流れ、次のニュースへ移っていく。ニュースが終わっても、誰も口を開かなかった。

翌朝、さほど寒くない曇り空の下、並木の枝先がひっそりと揺れていた。正門の警備員に一礼をしてゲートをくぐると、技術棟の玄関には見覚えのある白いポケットチーフを挿したノーカラーのスーツの男が立っていた。前だった。

「明谷さん、でしたか」

前が初めて、俺の名前を呼んだ。

「長い間、ご苦労さまでした」

「ありがとうございます」

前はそれだけを言うと、運転手が開けたドアへ、ゆっくりと歩いていった。車が正門を出て、並木の向こうへ消えていくのを、俺はしばらく見送っていた。ト倉が横に並び、車が見えなくなるまで同じ方をじっと向いている。

「取締役で退陣という形になった。経営企画本部長を解任され、次の社長人事の話にはもう名前が出てこない」

「何も感じなかった。自分がそのことに気づいて、少しだけ驚く。胸のうちで数えていたはずの22年分が、指を折る前に終わってしまった」

事務所の扉をノックする音がしたのは、杉尾が帰ってすぐのことだ。ト倉がこの事務所を尋ねてくることは、これまでほとんどなかった。扉を開けると、私服姿のまま、傘も差さずに立っていた。ト倉のコートの肩には、まだ雪の粒がいくつも残っている。

「どうぞ。上がりますか」

ト倉は長椅子の丸椅子に浅く腰を下ろした。湯飲みを淹れて差し出すと、ト倉は両手でそれを包んだ。しばらく黙って、湯の立ち上るそれを見ている。

「20年前、俺は一度だけ、前さんの案に逆らったことがある」

ト倉はぽつりと続けた。36歳で技術部の主任だった頃、削減案にまとめて異を唱えたのだという。その年のうちに技術部から17人が移動と退職で消えたことも、順に話していく。

「俺のせいだとは、誰も言わなかった。誰も言わないまま、俺だけが残った。それから、逆らうのをやめた」

言い訳のつもりはないと、ト倉は前置きすらせず、それはこれまでのト倉からは聞いたことのない話し方だった。

「辞職は受け入れた。それでいいと思ってる」

「件名だけ残してましたね」

ト倉の手が、湯飲みの縁で止まった。

「本文は書き換えた。だが、受付簿の件名までには、どうしても消せなかった。あれが俺にできた、精一杯だった」

それ以上、ト倉は語らなかった。受領員の欄に残っていたあの滲みを思い出した。ト倉は湯飲みの中身を飲み干さないまま、椅子からゆっくり立ち上がる。

「長い間、すまなかった。来ることはもうない」

扉を閉める音がいつもより静かだった。湯飲みには、口をつけた跡が一つだけ残っている。

新番組の初回、副調整室に入ると、端にパイプ椅子が一脚用意されていた。以前は立ったまま眺めていた同じ場所に、今日は座る場所がある。椅子の背もたれには、まだ新しいビニールの匂いが残っていた。

「明谷さん、どうぞ。ここ、今日は長丁場になるので」

一礼をして腰を下ろすと、送出ラックのランプが目の高さで並んだ。壁の時計は17時55分を差している。イブニングしのの目ではなく、聞き慣れない新しい番組名がモニターの壁の上に表示されていた。

「音声行くよ。カメラ1番寄って」

低く一定の調子を保った声が卓の中央から次々に飛んでいく。その張り詰めた空気は、この局へ通い始めた時からほとんど変わっていない。若いスタッフの一人が、通りすがりにこちらへ小さく一礼した。

「5秒前」

オープニング映像がモニター壁に一斉に映ると、部屋の空気がわずかに引き締まる。送出ラックのランプが規則正しく切り替わっていくのを、俺は変わらず目で追った。その規則性だけは、番組が変わっても、局が変わっても、これまで一度も裏切られたことはない。

本番が半分を過ぎた辺りで、早坂がこちらへ一度視線を寄越す。小さく頷くと、早坂も頷き返して、また卓へ向き直った。その一往復だけで、それ以上の言葉は交わさなかった。それで十分だと、互いに分かっていた。

エンディングのテロップが流れ終えると、卓のあちこちで椅子を引く音がいくつも重なった。

「お疲れ様でした。初回、無事に出せました」

その声に、誰かがぱらぱらと拍手を返す。俺は椅子から立ち、パイプ椅子を隅へ静かに戻した。廊下に出ると、まだ本番の余韻を残した空気が、フロア全体にうっすらと漂っていた。

事務所に寄ると、早坂が長椅子の隅で自分の点検簿を付け始めていた。仕事帰りにそのまま寄って、工具の手入れを手伝うことも、いつの間にか当たり前になっている。書式は俺のものと同じ複写式の2枚綴りだ。閉じの厚みもページ数も、俺が22冊分使ってきたものと全く同じ企画だった。赤黒2色のボールペンを使う手付きに、もう迷いがない。表紙の色を選んでいいと言われたので、緑にしました。いい色だ。早坂は少し照れたように、書き終えたばかりの一冊を持ち直した。

「親父のと同じ色ですよね」

書き終えた一冊を受け取り、棚に並ぶ22冊の隣に、ゆっくりと立てる。表紙を開くと、1ページ目の隅に丁寧な字で、今日の日付だけが書き込まれていた。

「これ、書き続けたらいつか誰かが読むんですかね?」

「読む日が来る」

早坂はペンを置き、しばらくページの余白から目を離さなかった。

「読まれて困ることは、書かないようにします」

「それでいい」

その日の午後、届け物のついでに局のテレビへ立ち寄り、系列局の監査で使う予備の絶縁抵抗計を渡した。局への道すがら、桜がもう散り始めて、葉の緑が透けているのが目についた。受付カウンターの脇で、見覚えのある背中が入館証に記入している。ノーカラーのスーツではなく、社名の入ったグレーの作業ジャンパーを着ていた。胸元の名札には、系列のメディアサービスという社名が刷ってある。顔をあげた、軍事と目があった。以前のきっちりした分け目は崩れ、白髪の混じり方が前より目立って見える。金縁の眼鏡だけは、あの頃と同じものを掛けたままだった。誰もいない廊下の向こうまで一度見渡してから、軍事が小さく頭を下げた。俺も同じだけ頭を下げ返す。軍事は入館証を首から下げ、エレベーターの方へ静かに歩いていった。あの頃のような硬い靴音は、もう聞こえてこなかった。

屋上に出ると、鉄塔の唸りが若葉の匂いに混じって届いた。手すりの金具の緩みを確かめる癖だけは、今もこの屋上に来る度、変わらずに残っていた。正門から続く並木を、ここからは緑の天蓋のつながりとして見下ろせる。空中線設備の点検表を手に、若い技術者がアンテナの根元にしゃがみ込んでいた。系列局からの応援で、この局へ来たばかりだと後で聞いた。手にした手帳にはまだ何も書き込まれておらず、放射温度計の使い方から順に教えていく。

「温度は時間帯で変わる。同じ時間でも朝と昼で書き分けろ。面倒でも書け。書いた分だけ、後で自分を助ける」

若い技術者は手帳を開いたまま、要領を得ない質問をいくつも重ねてきた。その一つ一つに、俺は答えを返していく。同じ質問が2度出てきても、面倒くさがらずに、同じだけ丁寧に答えた。途中で切り上げず、最後まで聞いた。風が強くなり、若葉をつけた枝が鉄塔の足元で一斉に揺れる。

「書いておけ。誰かが読む日が来る」

それだけを言って、俺は工具箱を下げ直した。若い技術者が手帳に何かを書きつけ始めるのを横目に、鉄塔の階段を降りていく。その足音は、以前より軽く感じられる。

技術部のフロアへ戻ると、窓の外の並木が若葉越しにゆっくり揺れていた。送信鉄塔の唸りだけが、変わらずどこまでも低く響いていた。

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