「これで母さんの遺産は全部俺たちのものになるってわけだ。」
病室のベッドで横たわる私の耳に、信じられない言葉が飛び込んできました。花屋の片付けを終えて駆けつけてくれたはずの息子夫婦の口から出た言葉に、私は耳を疑いました。
「ようやくこれで楽になれるわね。30年もあの花屋に縛られて、やっと解放されるのね。」
私は目を閉じたまま、できる限り呼吸を整えました。先ほどまで心配そうに私の手を握っていたのが、こんなことを考えていたなんて。
「医者に聞いたら、意識が戻る可能性はほとんどないって。」
拓也の声には、むしろ安堵の色さえ感じられます。
「これで面倒な手続きも楽になるな。」
胸が締めつけられるような痛みを感じました。30年間、朝から晩まで働いて、あなたを医者に通わせたのに。花の香りに包まれながら、お客様の笑顔のために頑張ってきたのに。
でも、私はじっと耳を済ませ続けました。真実を知ることが、今の私にできる唯一のことだったからです。
私が花屋を始めたのは、今から30年前のことでした。夫が突然の病で亡くなり、当時8歳だった拓也を抱えて途方に暮れていた時、夫が残してくれた小さな店舗で花屋を開いたのです。
「母さん、僕は絶対にお医者さんになる。」
幼い拓也が言った言葉を胸に、私は必死で働きました。朝は4時に起きて市場へ仕入れに行き、夜は遅くまで配達や観葉植物の準備。手は常に土と水で荒れていましたが、息子の夢のためなら何でもできました。
拓也の学費は6年間で1200万円以上。私は一輪、一輪の花を大切に育て、お客様に誠実に向き合い続けました。「原田さんの花は長持ちする」と評判になり、少しずつ常連客も増えていきました。
拓也が医者になってからも、私は花屋を続けました。今でも月に8万円の仕送りをしています。
「新しい医療機器の勉強会があって」「学会の参加費が」
そんな理由をつけてはお金を無心してくる息子。でも、医者として成長してくれるならと、老後の蓄えを崩してでも応えてきました。
「お母さん、いつもありがとうございます」
拓也はいつも笑顔でそう言ってくれていました。でも、今病室で聞こえてくる本音は、全く違うものでした。
私の人生は、一体何だったのでしょうか?
病室の空気が冷たく感じられる中、息子夫婦の会話は続いていました。私は呼吸を一定に保ちながら、全ての神経を耳に集中させていました。
「でも、本当に10億もあるの?」
由香の声には疑いの色が混じっています。
「間違いないよ。この前、偶然母さんの書類を見つけたんだ」
拓也の声は興奮気味でした。
「花屋なんて表向きの顔で、実は大手企業の大株主なんだよ。亡くなった親父が残した株をずっと隠していたんだ」
私の心臓が大きく跳ねました。どうして知っているの? あれは誰にも言っていないはずなのに。
「あんな小さな花屋で毎日土いじりして」
由香の声には軽蔑が滲んでいました。
「私たちには月8万円だけで、自分は億万長者だったなんて、全くだよ」
「俺が医大に通ってる時も、お金がないって泣き言ばかり」
拓也の怒りが伝わってきます。
「朝から晩まで働いてるふりして、実は金持ちの道楽だったんだ」
違う。違うんです。株は確かにありますが、それは最後の最後の備えとして、誰にも頼れなくなった時のために取っておいたものです。花屋の収入だけで必死にあなたを育ててきたのです。
「これからどうする?」
由香が囁きました。
「お母さんの意識が戻らないうちに手続きを進めた方がいいんじゃない?」
「そうだな。まず主治医に相談して、延命治療は最小限にしてもらおう」
拓也の声は冷徹でした。
「医療費ももったいないし、長引かせる意味もない」
医療費がもったいない。私の命の話をしているんですよ。
「それから財産管理の手続きね」
由香が続けます。
「成年後見人の申請をして、私たちが管理できるようにしましょう」
「や、それより先に花屋を処分しよう」
拓也が提案しました。
「土地も含めれば5000万にはなる。すぐに現金化できる」
「でも、お母さんが30年も続けてきた店でしょう」
由香の言葉には、偽りのためらいがありました。
「何を今更」
拓也が笑いました。
「あんな古臭い店は時代遅れだよ。ネットで花なんていくらでも買える時代に、わざわざ店舗なんて必要ない」
私の目から涙が一筋、枕に落ちました。でも、気づかれないようにそっと顔を動かしました。
「そういえば」
由香の声が明るくなりました。
「お母さんの通帳、もう確認したわ」
「ああ、病院に運ばれた時の荷物から見つけた」
拓也が答えます。
「番号も誕生日だったから、簡単だったよ」
私の荷物を勝手に。しかも通帳まで。
「今のうちに生前贈与の手続きもしておきましょう」
由香が提案しました。
「お母さんの意識がはっきりしない。今なら私たちの都合のいいように進められるわ」
「でも、それって法的に大丈夫なのか?」
拓也が心配そうに聞きました。
「大丈夫よ。あなた、医者でしょう」
由香の声には悪意が潜んでいました。
「認知症の兆候があったって診断書を書けばいいのよ。最近もの忘れがひどかったとか、判断力が低下していたとか」
「なるほど。その手があったか」
拓也が感心したように言いました。
「確かに医者の診断書があれば、後で問題になっても言い訳できる」
認知症。私はまだ68歳です。花の名前も、お客様の好みも、全て完璧に覚えています。
「母さんには悪いけど」
拓也の声が急に低くなりました。
「俺たちだって生活があるんだ。由香の実家にも顔向けできない」
「そうよ。私の父は上場企業の部長なのに」
「あなたはまだ勤務医」
由香が攻めるような口調で言いました。
「いつになったら開業できるの?」
「資金がないなら無理でしょう」
「分かってる。だから母さんの財産が必要なんだ」
拓也が苦しそうに答えました。
でも、あなたには十分な収入があるはずです。なぜ私の財産を当てにするのですか?
「30年も花屋で働いたんだから、もう十分でしょう」
由香が冷たく言い放ちました。
「これからは私たちの時代よ」
その時、看護師が病室に入ってきた気配がしました。息子夫婦の会話が途切れます。
「いかがですか? お変わりありませんか?」
看護師の優しい声が聞こえました。
「ええ、まだ意識は戻らないようです」
拓也の、医者らしい冷静な声で答えました。
「このまま植物状態になる可能性もありますか?」
「まだ分かりませんが、ご家族の声かけは大切ですよ」
看護師が励ますように言いました。
看護師が出ていった後、しばらく沈黙が続きました。
「本当に聞こえてないわよね」
由香が不安そうに囁きました。
「大丈夫だ。脳波を見る限り、深い昏睡状態だ」
拓也が断言しました。
「でも、念のためあまり大きな声では話さない方がいい」
そして2人はより小さな声で陰謀を続けました。でも、私にははっきりと聞こえていました。愛する息子が私を金銭としか見ていないという残酷な現実が。
次の日の午後、私はまだ目を閉じたままベッドに横たわっていました。体中が重く感じられましたが、意識ははっきりしています。そこへ複数の足音が近づいてきました。
「失礼します。弁護士の中川と申します」
見知らぬ男性の声が聞こえてきました。
「お忙しい中、ありがとうございます」
拓也の声は妙に丁寧でした。
「母の件でご相談したいことがありまして」
「お母様の容体はいかがですか?」
弁護士が訪ねました。
「残念ながら、意識が戻る見込みは薄いようです」
拓也が深刻な口調で答えました。
嘘です。私の意識ははっきりしています。ただ体が動かないだけなのです。
「それで、財産管理についてご相談を」
由香が切り出しました。
「お母さんの財産を、私たちが適切に管理できるようにしたいんです」
「なるほど。成年後見制度の利用をお考えですね」
弁護士が理解を示しました。
「はい。実は母は以前から認知症の兆候がありまして」
拓也が説明を始めました。
「花屋の経営も最近、採算が合わず、私たちが手伝わないと回らない状態でした」
何を言っているのですか? つい3日前も、大口の注文を完璧にこなしたばかりです。お客様からは「原田さんのセンスは素晴らしい」とお褒めの言葉をいただいたのに。
「そうですか。医師の診断書はありますか?」
弁護士が確認しました。
「私が主治医と相談して、準備させていただきます」
拓也が自信に答えました。
「それともう1つ、お願いがあります」
由香が声を潜めました。
「実はお母さんには、隠し財産があるようなんです」
「表向きは小さな花屋を経営していますが」
拓也が説明を続けました。
「実際には父が残した株式を大量に保有しているようなんです。おそらく時価で10億円以上の価値があると」
「それはかなりの額ですね」
弁護士も驚いたようでした。
「問題は、母がその存在を私たちにも隠していたことです」
拓也の声には怒りが滲んでいました。
「息子である私にさえ、真実を話さなかった。これは明らかに判断力の低下を示していると思います」
隠していたのには理由があります。あなたたちが私を金銭としか見ていないことを、薄々感じていたからです。
「確かに、そのような多額の資産を適切に管理できていないとなれば」
弁護士が同意しました。
「後見人の必要性は高いと言えますね」
「ところで、先生」
由香が甘い声で訪ねました。
「もし後見人になった場合、財産の処分なども可能でしょうか?」
「もちろん、本人の利益になることであれば」
弁護士が説明しました。
「例えば、介護費用の捻出のために不動産を売却するなどは認められます」
「花屋の土地もですよね」
拓也が確認しました。
私の大切な花屋を、もう売るつもりでいるのですね。
「お母さん、聞こえてる?」
突然、由香が私の耳元で囁きました。私は必死で呼吸を一定に保ち、反応しないようにしました。
「あなたって、本当に哀れな人ね」
由香の声は氷のように冷たかったです。
「息子のために全てを捧げて、でも結局は私たちに利用されるだけ。哀れだわ」
「由香、やめろ」
拓也が静止しました。
「もし本当に聞こえていたら」
「聞こえてないわよ。見て、全く反応がない」
由香が私の手を強く握りました。
「ほら、刺激にも反応しない」
爪が食い込む痛みを、必死で我慢しました。今反応したら、全てが水の泡です。
「先生、正直に申し上げて」
拓也が弁護士に向き直りました。
「母の延命治療についても、私たちに決定権はありますか?」
「それは医療の問題ですから、主治医との相談になりますが」
弁護士が慎重に答えました。
「もちろん、母の尊厳は大切にしたいと思っています」
拓也が付け加えました。
「ただ、無意味な延命は母も望まないと思うんです」
無意味な延命。私はまだ生きています。意識もはっきりしています。
由香が夫の腕に手を置きました。
「お母さんのためを思うなら、苦しみを長引かせない方がいいんじゃない?」
「そうだな。植物状態で何年も。それは母さんも辛いはずだ」
拓也が同意しました。
2人の話を聞きながら、私の心は凍りついていきました。息子は私の死を望んでいる。それも、財産のために。
「ところで、弁護士費用はどのくらいになりますか?」
由香が現実的な質問をしました。
「後見申し立てと財産調査を含めて、約100万円ほどです」
弁護士が答えました。
「100万… 」
由香が渋い顔をしました。
「それは大丈夫だ」
拓也が自信を持って言いました。
「母さんの通帳から下ろせばいい。意識が戻らないんだから、使い道もないだろう」
私の通帳から。それは窃盗ではないですか?
「念のため、遺言も作成しておきましょう」
弁護士が提案しました。
「後々のトラブルを避けるために」
「でも、本人は署名できない状態ですが」
拓也が困ったように言いました。
「医師の診断書があれば、緊急措置として認められることもあります」
弁護士が説明しました。
その時、私は決意しました。もうこれ以上、黙って聞いているわけにはいきません。でも、まだ動く時ではない。証拠を集め、味方を見つけ、確実に反撃する準備が必要です。
「先生、今日はありがとうございました」
由香が弁護士を見送る準備を始めました。
「近いうちに、正式に依頼させていただきます」
「はい。必要書類のリストをお渡ししますので」
弁護士が鞄から書類を取り出しました。
3人が病室を出ていく気配がしました。ドアが閉まる音を確認してから、私はゆっくりと目を開けました。天井を見つめながら、涙が頬を伝っていきました。でも、これは悲しみの涙ではありません。怒りと、そして決意の涙です。
愛する息子よ。あなたは母親を完全に敵に回してしまいました。これから、その報いを受けることになるでしょう。
深夜2時過ぎ、病院の廊下が静まり返った頃、私はそっと体を起こしました。3日間も寝たふりを続けていたので、体中が強張っていましたが、意識ははっきりしています。ベッドサイドに置いてあった私物から携帯電話を取り出し、まず信頼できる友人の和子に連絡を入れました。
「みよ子? こんな時間にどうしたの?」
心配そうな和子の声が聞こえてきました。
「和子、お願いがあるの。今から話すことを、落ち着いて聞いてちょうだい」
私は小声で、でもはっきりと話し始めました。息子夫婦の裏切り、財産を狙う陰謀、そして私が寝たふりをして全てを聞いていたことを説明すると、和子は息を飲みました。
「まさか… 拓也が… 信じられない」
和子の声は震えていました。
「私も信じたくなかった。でも、これが現実なの」
私は涙を拭いました。
「それで、お願いがあるの。弁護士の宮脇先生に連絡を取ってもらえる?」
宮脇弁護士は亡き夫の友人で、私たち家族のことをよく知っている信頼できる人物です。
次の日の午後、和子の手配で宮脇弁護士が病院を訪れました。もちろん、息子夫婦には内緒です。
「みよ子さん、大変でしたね」
宮脇弁護士は優しい笑顔で私を見つめました。
「和子さんから概要は聞きました。まず、録音データはありますか?」
「はい」
私はスマートフォンを取り出しました。息子たちが来るたびに録音していました。
宮脇弁護士は録音を聞きながら、時おりメモを取っていました。
「これは、かなり悪質ですね」
弁護士は深いため息をつきました。
「第三者目的で成年後見制度を悪用しようとしている。しかも、医師という立場を利用して虚偽の診断書を作成しようとしている」
「私はどうすればいいでしょうか?」
「まず、正式な遺言書を作成しましょう」
宮脇弁護士が提案しました。
「それともう1つ、大事なことがあります」
「みよ子さんが本当に大株主だということを、きちんと証明する必要があります」
弁護士が真剣な表情で続けました。
「株券はどこに?」
「実は…

」
私は声を潜めました。
「自宅の床下金庫に保管してあります。夫が絶対に誰にも言うなと言っていたので、拓也にも話していませんでした」
「賢明な判断でした」
弁護士が頷きました。
「では、その株券を確認して、正確な資産価値を算出しましょう」
その後、和子と弁護士の協力で、私の資産の全容が明らかになりました。
「みよ子さん」
宮脇弁護士が驚きを隠せない様子で報告しました。
「あなたが保有している株式の現在の時価総額は、約70億円です」
70億。私も改めて聞くと、その金額に圧倒されました。
「はい。亡き夫は本当に先見の明がありました」
弁護士が感心したように言いました。
「30年前に購入した株が、これほどまでに値上がりするとは」
夫は言っていました。私は昔を思い出しながら話しました。
「みよ子、何があってもこの株だけは手放すな。いつか必ず、お前を守ってくれる」
「そして、今まさにその時が来たわけです」
宮脇弁護士が力強く言いました。
「この財産を、息子さんたちから守りましょう」
私たちは綿密な計画を立てました。
「まず、新しい遺言書を公正証書で作成します」
弁護士が説明しました。
「内容は、息子夫婦への相続を最小限にし、残りはみよ子さんが本当に信頼できる人や団体に寄付する形にしましょう」
「花を愛する若者たちのための奨学金団を作りたいです」
私は前から温めていた構想を話しました。
「花屋を継ぎたいけれど、資金がない若者たちを支援したいんです」
「素晴らしい考えです」
弁護士が賛同しました。
「では、そのような内容で作成しましょう」
「それと、花屋のことですが」
私は大切なことを思い出しました。
「息子たちが勝手に売却しないように、何か手立てはありますか?」
「すでに信託という形にしておきましょう」
弁護士が提案しました。
「そうすれば、あなたの許可なく処分することはできません」
準備は着々と進みました。和子は私の代理人として動いてくれ、必要な書類を集めてくれました。
「みよ子」
和子が心配そうに言いました。
「でも、拓也君にはいつ真実を告げるの?」
「もう少し待ってください」
私は決意を固めていました。
「息子たちが本心を完全に現すまで、そしてもう後戻りできなくなるまで、待ちます」
3日後、息子夫婦が再び病室を訪れました。今度は、先日の弁護士が作成した書類を携えていました。
「母さん、今日も意識はないみたいだね」
拓也が私の顔を覗き込みました。私は必死で無表情を保ち、規則正しい呼吸を続けました。
「早く手続きを進めましょう」
由香がせかしました。
「もう準備は整ったんでしょう」
「ああ。後見人申し立ての書類も、財産目録も完成した」
拓也が得意げに答えました。
その時です。私は心の中でつぶやきました。もうすぐよ、拓也。あなたたちの野望が完全に砕け散る時が。母親を裏切った報いを受ける時が、もうすぐやってくるわ。
期日の朝、私は宮脇弁護士と和子に付き添われて、病室のベッドに座っていました。まもなく、息子夫婦が来る予定です。
「みよ子さん、準備はよろしいですか?」
宮脇弁護士が確認しました。
「ええ、大丈夫です」
私は深呼吸をしました。
「全ての証拠も揃っていますね」
「完璧です。録音データ、偽造しようとした診断書の下書き、通帳から無断で引き出した記録、全てあります」
弁護士が書類を確認しながら答えました。
ドアがノックされ、拓也と由香が入ってきました。2人は、私が普通に座っているのを見て、一瞬固まりました。
「母さん… 意識が戻ったの?」
拓也の顔から血の気が引いていきました。
「おはよう、拓也、由香さん」
私は穏やかに微笑みました。
「実は、ずっと意識はあったのよ」
「それは… いつから?」
由香の声が震えていました。
「最初からよ。あなたたちが『10億は俺たちのもの』と言った時から、全部聞いていました」
拓也と由香は、まるで石になったように動けなくなりました。
「座りなさい」
私は2人に椅子を勧めました。
「大事な話があります」
2人は恐る恐る腰を下ろしました。その様子は、まるで裁判所の被告席に座らされたようでした。
「まず、これを聞いてもらいましょうか」
私はスマートフォンを取り出し、録音を再生しました。
「医療費ももったいないし、長引かせる意味もない」
「認知症の兆候があったって診断書を書けばいいのよ」
「母さんの通帳から下ろせばいい。意識が戻らないんだから」
自分たちの声が病室に響き渡ると、2人の顔は真っ青になりました。
「母さん、これは… 誤解だ」
拓也が必死に弁解しようとしました。
「誤解?」
私は冷たく言い放ちました。
「では、私の通帳から勝手に200万円を引き出したのも、誤解かしら」
「それは…
宮脇先生、説明してください」
私は弁護士に話を振りました。
「私は原田みよ子さんの代理人弁護士です」
宮脇弁護士が立ち上がり、威厳を持って話し始めました。
「あなた方の行為は、窃盗罪、詐欺罪、そして成年後見制度の不正利用に当たります」
「ちょ、ちょっと待ってください」
由香が慌てました。
「私たちは家族として、お母さんのことを心配して… 」
「心配?」
私は遮りました。
「『30年も働いたんだから、もう十分でしょう』と言ったのは誰かしら」
2人は言葉を失いました。
「そして、今日は重大な発表があります」
私は立ち上がりました。
「私の本当の財産について」
「本当の… 財産?」
由香が息を飲みました。
「あなたたちは10億と言っていたけれど」
私はゆっくりと言いました。
「実際は、70億円です」
「な… 70億…
」
由香の目が飛び出しそうになりました。
「はい。夫が残してくれた株式は、30年で大きく成長しました」
私は淡々と説明しました。
「でも、あなたたちには関係のない話です」
「どういう意味だ?」
拓也が苦い顔で聞きました。
「すでに公正証書を作成しました」
宮脇弁護士が書類を取り出しました。
「原田さんの全財産は、花を愛する若者たちのための奨学金団に寄付されます」
「そんな… 」
由香が立ち上がりました。
「私たちは家族でしょう」
「家族?」
私は由香を見つめました。
「医療費がもったいないと言った人が、家族を名乗るの?」
「母さん、お願いだ」
拓也が土下座をしました。
「確かに言い過ぎた。でも、本心じゃないんだ」
「本心じゃない?」
私は録音を再度再生しました。
「母さんには悪いけど、俺たちの人生の方が大事」
拓也の言葉が、無情に響きました。
「それから、続けます」
私は言いました。
「花屋も、すでに信託にしてあります。もう、あなたたちが勝手に売却することはできません」
「でも、母さん」
拓也が必死に訴えました。
「俺は母さんの息子でしょう。血のつながった」
「血のつながり?」
私は悲しそうに首を振りました。
「血のつながりがあれば、親の死を願ってもいいの? 財産を奪ってもいいの?」
私は息子の目をまっすぐ見つめました。
「私は30年間、あなたのために全てを捧げてきました。でも、あなたは私をお荷物と読んだ」
「あれは… 」
「もう言い訳は聞きたくありません」
私は手を上げて静止しました。
「これからのことを話します」
2人は怯えたような目で私を見つめました。
「まず、毎月の仕送り8万円は、今月で終わりです」
「え?」
由香が声をあげました。
「それじゃ、住宅ローンが… 」
「それは、あなたたちの問題です」
私は冷たく言いました。
「医者の給料があるでしょう」
「でも、学会費とか研修費とか…
」
拓也が慌てました。
「それも、自分でなんとかしなさい」
私は突き放しました。
「私はもう、あなたたちの財布ではありません」
「お母さん、ちょっと厳しすぎない?」
由香が抗議しました。
「厳しい?」
私は笑いました。
「意識のない母親から財産を奪おうとした人が、よく言えたものね」
「それから」
宮脇弁護士が付け加えました。
「原田さんの通帳から無断で引き出した100万円は、直ちに返金していただきます」
「100万円なんて… 」
由香が青ざめました。
「応じない場合は、刑事告訴も辞しません」
弁護士が厳しく言いました。
その時、由香が突然立ち上がり、私に詰め寄ってきました。
「お母さん、こんなひどいことして、後悔しますよ」
「後悔?」
私は由香を見上げました。
「後悔しているのは、あなたたちを信じたことだけです」
「私たちだって、お母さんのために色々してきたじゃないですか」
由香が叫びました。
「何をしてくれたの?」
私は静かに聞き返しました。
「月8万円もらって、それで何をしてくれたの?」
由香は答えられませんでした。
「お盆も正月も、忙しいと言ってこない」
私は続けました。
「誕生日も母の日も、メール1つよこさない。それで、何をしてくれたの?」
「母さん… 」
拓也が最後の訴えをしました。
「俺が悪かった。心から謝る。だから、もう1度チャンスを… 」
「チャンス?」
私は首を横に振りました。
「あなた、医者でしょう。患者を見る時、その人の財産のことを考えるの?」
拓也は何も答えられませんでした。
「医者として、人として、息子として」
私は立ち上がりました。
「全てにおいて、あなたは失格です」
そして、私は最後の言葉を告げました。
「もう、私に連絡しないでください。あなたたちは、もう私の家族ではありません」
拓也と由香は、まるで魂を抜かれたように、力なく病室を出ていきました。
ドアが閉まった後、和子が私の手を握りました。
「みよ子…
本当に良かったの?」
「ええ」
私は微笑みました。
「これで、やっと本当の意味で自由になれました」
窓から差し込む朝日が、新しい人生の始まりを告げているようでした。
あれから3ヶ月が経ちました。私は南フランスのニースに、小さな花園を開いていました。地中海の青い海と温暖な気候、そして花を愛する人々に囲まれて、第二の人生を謳歌しています。
「ボンジュール、マダム原田」
近所の青年が、カフェで挨拶をしてきました。彼は私が設立した奨学金の第1号受給者で、今は立派な花屋を営んでいます。
「ボンジュール、ピエール」
私も笑顔で答えました。
「お店の調子はどう?」
「おかげ様で順調です。日本の生け花の技術が、こちらでも大人気なんです」
そう、私は日本の花文化を世界に広める活動も始めていました。週に1度、地元の若者たちに無料で生け花教室を開いています。
携帯電話が鳴り、画面を見ると和子からの国際電話でした。
「みよ子、元気そうね」
和子の明るい声が聞こえてきました。
「ええ、毎日が充実しているわ」
私は花園を映しながら答えました。
「こちらの花は、日本とはまた違った美しさがあるの」
「それは良かった。ところで… 」
和子が少し声を潜めました。
「拓也君たちのこと、聞いた?」
「いいえ。どうかしたの?」
「実は、かなり大変なことになっているみたい」
和子が心配そうに続けました。
「住宅ローンが払えなくなって、家を手放したらしいわ」
私は複雑な気持ちになりました。息子とはいえ、自業自得です。でも、やはり心の片隅には。
「それに、由香さんと離婚協議中だって」
和子が付け加えました。
「お金がなくなったと分かって、由香さんの態度が変わったらしいのよ」
「そう… 」
私はため息をつきました。
「拓也君、今は地方の小さな病院で働いているそうよ」
和子が続けました。
「でも、真面目に働いているみたい」
その時、私の元に一通の手紙が届きました。差出人は、拓也でした。
震える手で封を開けると、そこには息子の手書きの文字が並んでいました。
「母さんへ
突然の手紙を許してください。
あれから、毎日後悔の日々を送っています。お金に目がくらみ、最も大切なものを失いました。
今更ですが、母さんが30年間どれだけの愛情を注いでくれていたか、やっと分かりました。
許しは求めません。ただ、心から謝罪したくて筆を取りました。
母さん、本当にごめんなさい。
拓也」
私は手紙を読み終えて、静かに涙を流しました。
「どうしたの?」
和子が心配そうに聞きました。
「拓也から…
謝罪の手紙が来たの」
私は涙を拭いながら答えました。
「それで、どうするの?」
「どうもしないわ」
私は手紙を大切にしまいました。
「でも、いつか本当に心を入れ替えたなら、また会う日が来るかもしれない」
その後、私は設立した奨学金団の理事会に出席しました。
「すでに50人の若者が支援を受けて、花の道を歩み始めています」
理事の一人が報告しました。
「今年も多くの応募がありました。皆、花への情熱に満ちています」
「それは素晴らしい」
私は心から嬉しく思いました。
「私の財産が、こうして若い人たちの夢を支えることができて、本当に幸せです」
夕方、私は海辺のカフェでお茶を飲みながら、日本にいる友人たちとメッセージのやり取りをしていました。花屋の常連さんたちは、今でも私のことを気にかけてくれています。
「みよ子さん、お元気ですか? お店がなくなって寂しいです。でも、みよ子さんが幸せなら、それが一番です。いつか南に遊びに行きますね」
温かいメッセージに、心が満たされていきます。
振り返れば、息子夫婦の裏切りは確かに辛い出来事でした。でも、そのおかげで私は本当の自由を手に入れることができました。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。そして、本当に花を愛する人たちと共に歩む。
人生には、必ず意味がある。
私は地中海に沈む夕陽を見つめながら、つぶやきました。
苦しみも裏切りも、全ては今の幸せのための道のりだった。私は、いつまでも花を育て続けるでしょう。自分自身のために、そして花を愛する全ての人たちのために。


