「おばあちゃん、これ持って帰ってもいい?」
元日の昼下がり、おせち料理を前に、6歳のみゆうが震える声でそう言った。その瞬間、私の胸に鋭い痛みが走った。小さな手にはタッパーが握られていて、必死に黒豆や伊達巻きを詰め始めたのだ。
みゆうは痩せていた。去年のお正月に着ていた晴れ着は明らかにきつくなっているのに、同じものを無理やり着せられている。食べ物を前にした時の、まるで飢えた小鳥のような必死な眼差しが、私の心を締めつけた。
「みゆう、余計なことを言わないの!」
嫁のとみが鋭い声で叱りつけ、息子のり介も苦い顔をした。
「ごめんなさい…でもお正月のご馳走、お家でも食べたくて…」
小さな謝罪の声を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れていった。41年間銀行で培った観察力が、激しく警報を鳴らした。この子に一体何が起きているのか。なぜ正月のご馳走を、こんなに必死にタッパーに詰めなければならないのか。
私は加藤じ子、64歳。41年間銀行員として働き続けてきた。夫を早くに亡くし、女手一つで息子のり介を育てあげた。支店長代理まで登り詰めた経験が私の誇りだ。
り介の教育費には1000万円をかけた。私立大学から大学院まで、一切妥協しなかった。塾や参考書代も惜しまず、全て私が負担した。そして結婚資金として300万円、マイホームの頭金に800万円。総額で2100万円。全て私が銀行員として必死に働いて貯めたお金だった。
「お母さんのおかげで今の生活がある。本当にありがとう」
り介はいつもそう言って感謝してくれていた。とみも「お母さんには本当に感謝しています」と笑顔で答えてくれていた。孫のみゆうが生まれてからは、みゆうの教育資金として毎月10万円の仕送りを6年間も続けた。さらに来年度から使うランドセルや学習机、小学校で必要な用具も全て私が買い揃えた。
でも今日のみゆうの様子は何かがおかしい。痩せた頬、小さくなった晴れ着、そしてタッパーに料理を詰める必死な姿。あの子はなぜあんなに怯えた目をしていたのだろうか。私の心に言い知れない不安が広がっていった。
正月三日が過ぎ、息子夫婦が仕事始めなので、みゆうの面倒を見るため私は息子の家に来ていた。
「みゆうちゃん、おばあちゃんとお話ししましょう」
私はみゆうを膝の上に座らせて、優しく語りかけた。
「ねえ、みゆうちゃん。お正月のご馳走、お家でも食べられるの?」
みゆうは俯いたまま、小さく首を横に振った。
「お正月なのにお餅も食べさせてもらえないの。朝ご飯はコンビニのおにぎり1個だけ…」
私の手が震えた。
「夕ご飯はママとパパが食べた残り物でも、ほとんど残ってない時もあるの。お腹が空いて夜中に目が覚めちゃうんだ…」
6歳の子供の口から出る言葉とは思えなかった。
「幼稚園の給食とおばあちゃんのご飯が1番楽しみなの。お腹いっぱい食べられるから。お腹が空いて眠れない日もあるんだ。だからおばあちゃんの家に来る日が本当に楽しみなの」
みゆうの小さな体を抱きしめると、骨が浮き出ているのが分かった。明らかに痩せすぎている。
「みゆうちゃん、お部屋を見せてくれる?」
みゆうの部屋に入った瞬間、私は息を飲んだ。古びた布団、破れた服、ボロボロのぬいぐるみ。暖房もついておらず、部屋は冷え切っていた。6歳の女の子の部屋とは思えない光景だった。
「冬は寒くて眠れない日もあるの。でもママは我慢しなさいって言うんだ」
対照的に、息子夫婦の部屋を覗くと、最新の大型テレビ、ブランドのバッグが何個も並び、高級そうな化粧品がずらりと並んでいる。クローゼットを開けると、とみの服で埋め尽くされている。どれも高級ブランドばかりだ。
「ママの新しいバッグ、50万円だって聞いたよ。パパの時計も100万円以上するんだって、パパが自慢してたもん」
みゆうが小さな声で教えてくれた。私が毎月送っている10万円は、一体何に使われているのか。
「みゆうちゃん、新しい服は買ってもらえるの?」
「うん…この服、去年のお正月のと同じ。もうきつくて苦しいんだ。友達はみんな新しい服を着てるのに…」
「お友達に何か言われたりする?」
「うん…『みゆうちゃんの服、いつも同じだね』って言われる。恥ずかしいけど、言えないの…」
机の引き出しを整理していると、1冊のノートが目に入った。みゆうの日記だった。手が震えながらページをめくる。
12月20日。今日も給食だけしか食べられなかった。お腹が空いて泣いてしまった。
12月25日。クリスマスだけどプレゼントはもらえなかった。ママは自分の新しいバッグを自慢していた。私には何もない。サンタさんは私のこと嫌いなのかな。
12月28日。今日もお腹が空いた。朝ご飯はまたコンビニのおにぎり。夕ご飯は残り物のカップラーメン。お湯も少ししか入れてくれなかった。
1月1日。おばあちゃんの家でお正月のご馳走を食べた。お腹いっぱい食べられて幸せだった。タッパーに詰めて持って帰りたかったけど、ママに怒られた。でもおばあちゃんが優しく笑ってくれたから嬉しかった。
1月2日。パパとママが話しているのを聞いてしまった。「みゆうは邪魔だ」って言っていた。私は邪魔な子なんだ。生まれてこなければよかったのかな。
涙で文字が滲んで、見えなくなった。さらにページをめくると、もっと衝撃的な言葉が並んでいた。
おばあちゃんの家だけが、私がお腹いっぱい食べられる唯一の場所。おばあちゃんに会える日が来るまで、私は我慢する。我慢すれば、いつか幸せになれるかな? ママはおばあちゃんは「金づる」だって言ってた。「金づる」って何だろう? でもおばあちゃんは優しいから、金づるじゃないと思う。おばあちゃん大好き。
パパが「早く遺産が欲しい」って言ってた。「遺産」って何だろう? おばあちゃんが死んだらもらえるものらしい。おばあちゃんに死んで欲しくない。ずっと一緒にいたい。
ノートを持つ手が激しく震えた。41年間銀行で培った冷静さが、音を立てて崩れていくのが分かった。
「おばあちゃん、どうして泣いているの?」
みゆうが心配そうに見上げてくる。
「なんでもないのよ、みゆうちゃん。おばあちゃんが必ず守ってあげるからね」
私はみゆうを強く抱きしめた。この子を絶対にこんな環境から救い出さなければならない。そして息子夫婦には必ず報いを受けさせる。
キッチンに戻り、冷蔵庫の中を確認した。みゆうの食べるものは少ない。あるのは息子夫婦が食べる高級食材だった。和牛、高級魚、輸入チーズ、高級ワイン、デパ地下の惣菜。一方、みゆうの食べるものは安いパンとカップ麺だけ。賞味期限が切れかけているものまであった。私が援助している月10万円は、全て息子夫婦の贅沢に消えていた。
さらに、みゆうの健診記録を見つけた。予防接種の記録がない。引き出しの奥から幼稚園からの通知を見つけた。健康診断の未受診、歯科検診の未受診を知らせる文書が何枚も重なっていた。
これは虐待だ。明らかなネグレクトだ。私の中で怒りが激しく燃え上がっていった。
その夜、夫婦が帰宅した。私は冷静に、しかし確信を持って切り出した。
「り介、とみさん。みゆうちゃんのことで話があるの」
ダイニングのテーブルを挟んで、私たちは向かい合った。
「みゆうちゃんへの仕送り、月10万円は何に使っているの?」
り介の顔が一瞬強張った。
「何を言ってるんだ、母さん? ちゃんとみゆうの教育費に使ってるよ」
「本当に?」
私はみゆうの日記をテーブルに置いた。
「これを読ませてもらったわ」
とみの顔色が変わった。
「勝手に人の家のものを漁ったんですか? 信じられない。プライバシーの侵害ですよ」
「あんたたち、自分の娘を虐待してるのよ」
「虐待? 何バカなことを言ってるんだ」
り介が鼻で笑った。その態度に私の怒りが一気に頂点に達した。
「みゆうちゃん、毎日コンビニのおにぎり1個だけしか食べさせてもらえないって言ってたわ。夕ご飯は残り物か、ほとんど食べられない。お腹が空いて夜中に目が覚めるって。これが虐待じゃなくて何なの?」
「それはみゆうが勝手に言ってるだけでしょう。子供の言うことを真に受けるんですか?」
とみが動揺を隠せない様子で言った。
「勝手にあの子の部屋を見せてもらったわよ。古い布団、破れた服、暖房もない。冬なのに凍えるような部屋で寝かせて。一方であんたたちの部屋には最新の高級家電、そして50万円のバッグに100万円の時計。冷蔵庫には和牛に高級ワイン。これをどう説明するの?」
沈黙が流れた。り介ととみが顔を見合わせた。そしてり介が口を開いた。
「母さん、正直に言うよ」
その声には、もはや私への敬意も、感謝も感じられなかった。
「母さんなんて金づるでしょ。銀行員だったんだから、金はあるはずだ。退職金も年金もたっぷりあるんだろう?」
私は耳を疑った。
「あなた、今なんて言ったの?」
「聞こえなかったの? 金づるだよ、金づる。母さんは俺たちにとって、金を出してくれる便利な存在ってことさ」
り介が開き直ったように言い放った。
「41年も銀行で働いてるんだから、退職金だって2000万円以上入るだろうし。それに父さんの遺産もある。土地だって持ってる。どうせ使い道もないんだから、俺たちに回すのが当然じゃないか」
とみが畳みかけるように言った。
「そうですよ。お母さんなんてATMみたいなものでしょ。必要な時にお金を出してくれればいいんです。それ以外に価値なんてありますか?」
ATM。私は金を出す機械だというのか。41年間必死に働いて、息子を育てた母親を。みゆうちゃんへの愛情はないのか?
「愛情? 笑わせないでくださいよ。正直に言いますね」
とみが嘲笑した。
「みゆうなんて出来損ないですよ。勉強もできない。運動もできない。何の取り柄もない。教育費の無駄なんです。あんな子に月10万円も使うなんて、勿体ない。それにみゆうがいるから自由に遊べないんだ。友達と旅行にも行けない。高級レストランにも気軽に行けない。邪魔なんだよ。はっきり言って」
り介が吐き捨てるように言った。私の手が震えた。
「あんたたち、本気でそう思ってるの? 自分の娘に対して」
「本気ですよ。お母さんだって邪魔だわ。早く死んで、遺産だけ残してくれればいいんです。64歳なんだから、いつ死んでもおかしくないでしょう?」
とみの言葉に、私の中で何かが完全に切れた。
「そうだよ。母さんがいなくなれば、土地も家も全部俺のものだ。売れば5000万円にはなる。それに退職金と預金を合わせれば7000万円以上。それだけあれば、俺たちは一生遊んで暮らせる。それに、みゆうも施設に預けるつもりなんです」
「自動用語施設なら、月々の費用も安い。そうすれば私たちは完全に自由になれます。お母さんの遺産で、家だって買えますしね」
2人が笑いながら言った。
「遺産? 私がまだ生きてるのに、遺産の話?」
「だってもう64歳でしょ。あと10年もすれば…」
「いや、もっと早く死んでくれた方がありがたい。正直、早く死んで欲しいんですよ」
とみが冷たく言い放った。
私は立ち上がった。全身が震えている。怒りなのか悲しみなのか、もはや自分でも分からなかった。
「分かったわ。あなたたちの本音が聞けてよかった」
私は静かに言った。
「母さん、分かってくれたんだね? じゃあこれからも毎月10万円、いや、15万円に増額してくれないかな?」
り介が図々しく言った。
「それと、みゆうの施設の費用も出してくださいね。お母さんの孫なんですから、責任を持ってください」
とみが顔に笑みを浮かべた。
私は2人の顔をじっと見つめた。41年間、この息子のために全てを捧げてきた。夫を失った悲しみをこらえながら、必死に働いた。自分の人生を犠牲にして、息子の幸せだけを願ってきた。でもその結果がこれだった。金づる。ATM。早く死んでほしい。
「分かったわ。あなたたちの望み通りにしてあげる」
私は静かに微笑んだ。
「本当か? 母さん、分かってくれて嬉しいよ」
り介が満面の笑顔を浮かべた。
「ただし、1つだけ条件がある」
「条件? 何ですか?」
とみが警戒した表情で聞いた。
「覚悟しなさい。必ず代償を払わせてあげるから」
私はそう言い残して、みゆうの手を引いて家を出た。背後から2人の声が聞こえたが、もう振り返らなかった。この瞬間、私は決めた。息子夫婦に必ず報いを受けさせる。そしてみゆうをこの地獄から救い出す。41年間銀行で培った知識と人脈を、今こそ使う時が来た。
息子夫婦の家を出た私は、みゆうを連れて自宅に戻った。
「おばあちゃん、もうパパとママのところには帰らなくていいの?」
みゆうが不安そうに聞いてきた。
「ええ、もう帰らなくていいのよ。これからはおばあちゃんと一緒に暮らしましょう」
私はみゆうを抱きしめて、優しく頭を撫でた。
その夜、私は41年間銀行で培った知識を総動員して、証拠の整理を始めた。まず、みゆうの日記を丁寧にコピーして保管した。1ページ1ページ、全てが重要な証拠になる。次に、息子夫婦との会話を録音していたスマートフォンのデータをパソコンに移した。
「金づる」「ATM」「早く死んで欲しい」「みゆうは出来損ない」「施設に預ける」
全ての暴言がクリアな音声で記録されていた。録音時刻も日付も、全て記録されている。
銀行時代の後輩で、今は弁護士をしている山田君に電話をかけた。
「加藤さん、久しぶりですね。どうされましたか?」
「山田君、緊急の相談があるの。明日朝一で行ってもいいかしら?」
「もちろんです。お待ちしてます」
翌朝、私は山田君が務める法律事務所を訪れた。全ての証拠を見せると、山田君は深刻な表情で何度も頷いた。
「これは完全にネグレクトですね。児童虐待防止法違反です。それに、贈与預金の返還請求も明確に認められます」
「贈与預金の返還請求?」
「加藤さんが毎月援助されたお金は、みゆうちゃんのためという名目でしたよね。でも実際には息子夫婦の贅沢に使われていた。高級ブランド品、高級レストラン、海外旅行の計画。これは完全に詐欺的行為に当たります」
山田君が資料を広げながら丁寧に説明してくれた。
「毎月の仕送り10万円×6年間で、720万円の返還請求が可能です」
私は息をのんだ。
「それだけじゃありません。精神的苦痛に対する慰謝料も請求できます。この6年間の内容なら、100万円は堅いでしょう」
「つまり総額820万円…」
「はい。しかも、みゆうちゃんの親権も取れると思います。この証拠があれば、家庭裁判所も加藤さんの主張を認める可能性は高いです」
山田君が力強く言った。
「すぐに内容証明郵便を送りましょう。それと同時に、児童相談所への正式な通報も必要です。私が全面的にサポートします」
私は頷いた。
次に、みゆうを小児科に連れて行った。30年の付き合いがある小児科医の佐藤先生が診察してくれた。診察した先生は、驚きと怒りの表情を浮かべた。
「加藤さん。これは栄養失調の一歩手前です。6歳の女児の標準体重を大きく下回っています。このままでは成長に深刻な影響が出ます。発達の遅れにも問題が出る可能性があります」
先生の診断書を受け取った。これも重要な証拠になる。
午後、児童相談所を訪れた。担当者に全ての証拠を提示した。
「ネグレクトの疑いが濃厚です。食事を適切に与えない。医療を受けさせない。予防接種も受けさせない。これは明らかな虐待です」
相談員はみゆうの日記のコピーと録音データを聞いて、顔色を変えた。
「これはひどい…。すぐに調査を開始します。緊急性が高いケースです。早急に家庭訪問を実施します。場合によっては一時保護も検討します」
さらに、私は銀行時代の人脈を使って、息子の調査を依頼した。信頼できる調査会社に連絡を取ると、驚くべき事実が次々と判明した。
「加藤涼介さん。勤務先の会社で経理の不正を疑われています。まだ表面化していませんが、内部調査が進んでいるようです。金額は300万円程度と見られています」
「とみさんはカードローンで500万円の借金を抱えています。ブランド品の購入やエステ代、高級レストランでの飲食で膨れ上がったようです。返済が滞り始めているという情報もあります」
調査報告書を読みながら、私は全ての点が線で繋がっていくのを感じた。息子夫婦は私からの援助なしには、もはや生活が成り立たない。だからこそ、私を金づる扱いし、早く死んで欲しいと願っていたのだ。
私は銀行の元同僚たちにも連絡を取った。
「加藤さん、それは許せませんね。何か協力できることがあれば、遠慮なく言ってください。私たちはいつでも加藤さんの味方です」
41年間かけて築いてきた信頼関係が、今まさに力を発揮しようとしていた。
そして、全ての書類が完璧に揃った。内容証明郵便の文面、児童相談所への正式な通報書、親権変更の申し立て書、贈与金返還請求書。
「みゆうちゃん。おばあちゃんが必ず守ってあげるからね」
私は静かに誓った。明日から反撃が始まる。41年間銀行で培った知識、人脈、そして経験。その全てを使って、息子夫婦に正義の鉄槌を下す。金づると呼んだこと、ATM扱いしたこと、みゆうを虐待したこと。その全てに、必ず代償を払わせる。
私は書類を見つめながら、静かに微笑んだ。準備は整った。戦いの幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
翌朝、午前9時。平日のこの時間、り介はすでに会社に出勤していた。家にはとみだけが残っている。インターホンが鳴った。
「何ですか? こんな朝早くから」
「加藤様、内容証明郵便です。受け取りのサインをお願いします」
郵便局員の声に、とみが不機嫌そうに玄関を開けた。封筒を受け取ったとみは、中を確認して顔色を失った。
「贈与金返還及び損害賠償請求通知書」
山田弁護士の名前が大きく記されている。
「貴殿に対し、過去に贈与した金銭720万円の即時返還及び精神的苦痛に対する慰謝料100万円、合計820万円の支払いを求める。虚偽を用いて贈与預金を詐取した行為は詐欺的行為に該当する。みゆうのためにと称して受け取った金銭を、自身の贅沢のために使用した事実が証拠により明らかである。本状到達後14日以内に全額支払いなき場合は、訴訟を提起し、財産の差し押さえを含む法的措置を取る」
とみの手が激しく震えた。820万円。そんなお金、あるわけない。慌ててり介の携帯に電話をかけた。
「り介、大変なの! お母さんから弁護士を通じて820万円の請求が来たわ」
「だって? 今会議中だから、後で」
「後でじゃないのよ! 今すぐ帰ってきて!」
とみが半狂乱になって叫んだ。その時、再びチャイムが鳴った。今度は児童相談所の職員だった。
「加藤とみ子様ですね。児童相談所のものです。みゆうちゃんの件でお話を伺いに来ました」
2人の職員が家に上がり込んできた。
「ご主人は仕事で、今は私しかいません」
「分かりました。まず、みゆうちゃんの部屋を確認させてください」
職員たちはみゆうの部屋に入った。
「これはひどいですね。この環境で6歳の子供が生活しているんですか? 古びた布団、暖房設備もない。冬の寒さの中、こんな部屋で寝かせていたんですか?」
職員は写真を撮り、詳細な記録を取り始めた。
「クローゼットも確認させてください」
開けると、破れた服が数枚だけ。
「これだけですか? 6歳の女の子の服が、これだけ」
とみの顔が青ざめた。
「冷蔵庫も確認させてください」
冷蔵庫を開けると、高級食材が並んでいた。和牛、高級ワイン、輸入チーズ、デパ地下の惣菜。一方で、お子さん用の食材がほとんどありませんね。あるのは賞味期限切れのパンとカップ麺だけ。これは一体どういうことですか? 義母の加藤じ子さんから毎月10万円の仕送りを受けていたはずですが、みゆうちゃんのために使われていませんね」
職員が厳しい口調で問い詰めた。
「それに、対照的にあなたの部屋にはブランドのバッグ、高価な化粧品、最新の家電製品。これでみゆうちゃんのために使っていたと言えるんですか? ネグレクトの疑いが濃厚です。食事を適切に与えない。医療を受けさせない。これは明らかな虐待行為です」
とみが慌てて言い訳を始めた。
「誤解です! みゆうにはちゃんと食事を与えています。お母さんが勝手に騒いでいるだけです!」
「では、なぜみゆうちゃんは栄養失調寸前なんですか? 小児科医の佐藤医師の診断書がここにあります。標準体重を大きく下回り、このままでは成長に深刻な影響が出ると明記されています」
職員が書類を見せると、とみは言葉に詰まった。
「この録音を聞いてください」
スマートフォンから流れる音声。とみの声だった。
「お母さんなんてATMみたいなもの。必要な時にお金を出してくれればいい。早く死んで欲しい。みゆうなんて出来損ないですよ。勉強もできない。運動もできない。何の取り柄もない。教育費の無駄なんです。施設に預けるつもりなんです。みゆうがいるから自由に遊べない」
とみの顔が真っ赤になった。
「これは…その…あの時は感情的になっていて、本心じゃなくて…本心じゃないんです!」
「では、なぜ実際にみゆうちゃんを虐待していたんですか? 言い訳は結構です。みゆうちゃんは現在、祖母の加藤じ子さんの元で保護されています。適切な食事を与えられ、温かい環境で過ごしています。今後の処遇については、家庭裁判所で審理されます」
職員が厳しい表情で告げた。
「それと、みゆうちゃんの日記も読ませていただきました。『お腹が空いて泣いた』『給食だけが楽しみ』『ママ、私のことを邪魔だと言った』『生まれてこなければよかったのかな』。こんな記録が何ページにも渡って書かれている。6歳の子供にこんな思いをさせて、あなたは母親ですか?」
とみは床に崩れ落ちた。
「今後、定期的な家庭訪問を実施します。改善が見られない場合は、親権剥奪の手続きに入ります」
職員たちが帰った後、とみは再びり介に電話をかけた。
「児童相談所の人が来たわ。虐待で調査されてる。親権を剥奪されるかもしれない」
「なんだって?」
その後すぐ、り介の部署に1本の電話が入った。
「経理部の加藤さん。人事部長が呼んでいます。すぐに来てください」
人事部長室に入ると、そこには社長と顧問弁護士が待っていた。
「加藤君、座りなさい」
社長の声は氷のように冷たかった。
「経理の不正について、話を聞きたい。過去3年間、2300万円の使途不明金が発覚している。調査の結果、君が横領していた証拠が揃った。取引先への架空請求、経費の水増し、領収書の偽造。全て君の仕業だ」
り介の顔から血の気が引いた。
「それは違います! 誤解です! そんなことしていません!」
「証拠は全て揃っている。君の口座の入金記録、改ざんされた伝票。全てが君を指し示している。明日付けで懲戒解雇とする。退職金は当然なし。そして業務上横領罪で刑事告訴する。警察にもすでに通報済みだ」
「そんな…お願いします! 家族が…娘が…」
「君には、家族を語る資格はない。自分の娘を虐待していた男がな。児童相談所からも連絡があった。お前のような人間は、社会の外道だ」
社長の言葉に、り介は何も言えなくなった。
その日の夕方、家に戻ったり介を待っていたのは、次々と届く督促状だった。
「カード会社からの督促状。借入金100万円の返済が3ヶ月滞っています。一括返済を求めます。応じない場合は法的措置を取り、財産の差し押さえ、給与の差し押さえを実行します」
「別のカード会社からも200万円の滞納があります。即日返済してください。返済なき場合は、訴訟を提起します」
「そして銀行からも、住宅ローンの返済が2ヶ月滞っています。このままでは競売手続きに入ります」
「どうするの? 私たち、どうなるの?」
とみが泣きながら言った。
「俺も…今、首になった。300万円の横領で、刑事告訴される」
り介の声は絶望に満ちていた。
その夜、夫婦は私の家を訪れた。玄関の前で土下座する2人の姿があった。雨が降り始めていたが、2人は動こうとしなかった。全身ずぶ濡れになっている。
「母さん、お願いします。助けてください」
り介が泣きながら懇願した。
私は玄関のドアを開け、冷たい視線で2人を見下ろした。
「助けてほしい? あなたたち、私を何と呼んでいたかしら」
「それは…申し訳ありませんでした…」
「答えなさい。私を何と呼んでいたの?」
沈黙が流れた。雨の音だけが響いていた。
「金づるです…」
り介が絞り出すように言った。
「そう。金づるね」
「それから…ATMです」
とみが震える声で答えた。
「そうね。あなたたちは私を、必要な時にお金を出してくれる機械だと思っていた。それ以外に価値がないと」
私は静かに言った。
「それに、早く死んで欲しいとも言っていたわね。64歳なんだからいつ死んでもおかしくない。もっと早く死んでくれた方がありがたいって」
「本当に申し訳ありませんでした! あれは…失態というか…本心ではなくて…」
「失態? みゆうちゃんを出来損ないと呼んだことも、教育費の無駄だと言ったことも、施設に預けると言ったことも、邪魔だと言ったことも。全て失態だったの?」
2人は何も言えなくなった。
「お願いします! 820万円なんて払えません! どうか許してください!」
「母さん、俺たち本当に反省しています。許してほしい」
「では、みゆうちゃんはどうなるの? あの子が毎日お腹を空かせて泣いていたことは?」
「みゆうは…これからちゃんと育てます!」
「今更、金づるにはお金はありませんよ」
私は、2人がかつて私に言った言葉をそのまま返した。
「母さん…」
「それに、ATMは故障しました。もう2度と、お金は出ませんから」
「そんな…」
「外の人に頼むのはおかしいんじゃない? 私たち、もう家族ではないんでしょう。あなたたち自身が、そう言ったのよ」
り介が顔を上げた。目には涙が溢れていた。
「母さん、俺が間違っていました。どうか許してください。みゆうも…返してください」
「みゆうちゃんを返して欲しい? なぜ?」
「それは…娘ですから…」
「出来損ないの娘でしょ。教育費の無駄だと言っていたわね」
とみが泣き崩れた。
「お母さん、本当にごめんなさい! もう2度とあんなことは言いません! みゆうを愛します! ちゃんと育てます!」
「みゆうちゃんが聞いていたわ。『ママ、私のこと邪魔だって言ってた』って。あの子の日記に、何度も何度も書いてあった」
私の言葉に、2人は言葉を失った。
「これが、子供を虐待した報いです。これが、親を金づる扱いした報いです。これが、母親に早く死んで欲しいと言った報いです」
私は静かに、しかし断固とした声で告げた。
「もう帰りなさい。私はあなたたちの母親ではありません。みゆうちゃんの祖母であるだけです」
「母さん、お願いします!」
「2度とこの家の敷地をまたがないでください。これ以上近づけば、不法侵入で警察を呼びます」
私は玄関のドアを閉めた。背後で2人の泣き声が聞こえたが、もう振り返らなかった。
リビングに戻ると、みゆうが心配そうに見ていた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。もう誰もみゆうちゃんを傷つけることはないわ」
私はみゆうを抱きしめた。
翌日、家庭裁判所から審判の結果が届いた。
「みゆうの親権を、祖母である加藤じ子に変更することを認める」
完全勝利だった。
息子夫婦は職を失い、借金に追われ、マイホームを差し押さえられて家を失った。全てを失った2人は、とみの実家に身を寄せるしかなくなった。でも、とみの両親も2人を冷たく突き放した。
「自分たちでなんとかしなさい。こんな恥ずかしい娘は、もう知りません」
因果応報。人を金づる扱いし、娘を虐待した報いを、2人は完全に受けたのだった。
親権を獲得してから2ヶ月が過ぎた。私とみゆうの新しい生活が始まっていた。
「おばあちゃん、今日の朝ご飯は何?」
みゆうが笑顔で駆け寄ってくる。
「今日はフレンチトーストよ。みゆうちゃんの好きないちごも添えてあるわ」
「わあ、嬉しい!」
目を輝かせて椅子に座った。2ヶ月前とは別人のように、頬に肉がつき、血色が戻り、表情も明るくなっていた。
「おばあちゃん、お腹いっぱい食べられるって、こんなに幸せなことだったんだね」
みゆうの言葉に、私の胸が熱くなった。
毎朝、温かい料理。栄養バランスを考えた食事。夜は一緒に絵本を読み、温かい布団で眠る。当たり前のことが、みゆうにとっては初めての経験だった。
小児科の佐藤先生も、みゆうの回復に驚いていた。
「加藤さん、素晴らしいですね。みゆうちゃん、2ヶ月で3kgも体重が増えました。標準体重に近づいています。表情も明るくなって、本当に良かった」
「先生、ありがとうございます」
「これからもこの調子でいけば、みゆうちゃんは幸せそうですよ」
みゆうの新しい服も買い揃えた。可愛いワンピース、温かいコート、新しい靴。
「おばあちゃん、こんなに服をもらったの初めて。私、お姫様みたい!」
みゆうが鏡の前でくるくる回る姿を見て、私は微笑んだ。
ピアノ教室にも通い始めた。
「みゆうちゃん、音感がいいですね。とても上手ですよ」
先生の言葉に、みゆうは照れくさそうに笑った。
「おばあちゃん、私、ピアノが大好き。毎日練習する!」
夜ご飯の後、みゆうが宿題をしている横で、私は紅茶を飲みながら穏やかな時間を過ごしていた。
「ねえ、おばあちゃん。パパとママは、どうしてるの?」
みゆうが小さな声で聞いてきた。私は少し考えてから、優しく答えた。
「パパとママは、今自分たちの人生をやり直しているのよ」
「私のこと、嫌いだったの?」
「そんなことないわ。ただ、パパとママは、大切なことを忘れていたの。でも、今は分かったと思う」
みゆうは頷いた。
「私ね、おばあちゃんと暮らせて本当に幸せ。毎日ご飯が食べられて、温かくて、笑っていられる。これが本当の家族なんだね」
私はみゆうを抱きしめた。
「ええ、そうよ。みゆうちゃんは、愛されるべき子供なの。おばあちゃんが一生守ってあげるからね」
一方、息子夫婦のその後を、私は風の噂で聞いていた。り介は横領の罪で執行猶予つきの有罪判決を受けた。前科となり、再就職は困難を極めているようだ。とみも借金の返済に追われ、パートで必死に働いている。マイホームは競売にかけられ、2人は安アパートで暮らしているらしい。とみの実家も2人を見放した。
「親として恥ずかしい。2度と顔を見せないで欲しい」
完全に孤立した2人は、今頃何を思っているのだろうか。
先日、一通の手紙が届いた。り介からだった。
「母さん。本当に申し訳ありませんでした。俺たちは最低なことをしました。みゆうを虐待し、母さんを金づる扱いし、早く死んで欲しいなんて言って。今になって、全てが間違っていたと分かりました。みゆうは元気ですか? 笑っていますか? どうかみゆうを幸せにしてあげてください」
私は手紙を静かに引き出しにしまった。返事は出さなかった。今更、何を言われても遅いのだ。
ある日、銀行の元同僚とランチをした。
「加藤さん、本当に良かったわね。みゆうちゃんを救えて」
「ええ。あの子は今、本当に幸せそうよ」
「息子さんは、もう関係ないの?」
「ええ、もう関係ありません。私には、みゆうちゃんがいるから」
私は静かに微笑んだ。41年間銀行で働き、息子のために全てを捧げた人生。でも今、私は本当の幸せを手に入れた。みゆうという、愛すべき孫との生活。これこそが、私が求めていたものだった。
夕暮れ時、みゆうと2人で公園を散歩していた。
「おばあちゃん、見て! 夕日が綺麗!」
「本当ね。みゆうちゃんと一緒に見る夕日は、特別に綺麗だわ」
みゆうが私の手を握った。小さな温かい手。この手を、私は一生離さない。
理不尽に屈しないこと。自分の尊厳を守ること。そして何より、愛するものを守り抜くこと。41年間の人生経験が、最後に私に教えてくれた大切なこと。金づる扱いされても、ATM扱いされても、私には守るべきものがあった。それは、みゆうの未来だった。
今、みゆうは毎日笑顔で過ごしている。タッパーに詰めなければならなかった正月料理。今では毎日、出来たての温かい料理をお腹いっぱい食べている。これが本当の幸せなのだと、みゆうは知った。そして私も知った。本当の家族とは何か。本当の愛情とは何か。血の繋がりだけでは、家族にはなれない。愛情と信頼があって、初めて家族になれるのだ。
息子夫婦は、その大切なことを忘れていた。だから、全てを失った。因果応報。これが、理不尽に立ち向かった者の勝利なのだ。
「おばあちゃん、大好き」
みゆうが私を見上げて言った。
「おばあちゃんも、みゆうちゃんが大好きよ」
私たちは手を繋いで、家路に着いた。新しい人生が、今始まったばかりだった。
もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、1人で我慢し続ける必要はありません。正当な権利を主張し、自分と大切な人を守る勇気を持ってください。正義は必ず勝利します。あなたにもきっと、素晴らしい勝利の日が訪れますように。



