夕食の後片付けをしようとしたその瞬間、夫の口から信じられない言葉が飛び出しました。三十五年来の沈黙を破る、氷のように冷たい声音でした。
「り子、俺はもう疲れたんだ。この生活から解放されたい。」
心臓が止まる思いでした。朝五時に起きて弁当を作り、アイロンをかけ、夫を送り出す。図書館での仕事を終えて帰宅し、夕食を作る。それが当たり前だった日常が、音を立てて崩れていくのを感じました。
「三十五年前から一緒にいたが、残りの人生は自分のために生きたい。悪いが、離婚してくれ。」
申し訳なさのかけらもない、むしろすっきりとした表情でした。私は震える手でテーブルを支えながら、静かに頷きました。
「わかりました。」
夫は驚いた顔をしました。「え、それだけか?もっと何か言うことはないのか?」
その夜、私は一人でアルバムを開きました。結婚式の写真、子供たちの成長記録、家族旅行の思い出。三十五年前、私はこの家庭を守ることに全てを捧げてきたのに。
翌朝、夫はいつものように新聞を読みながら朝食を待っていました。私が淹れたコーヒーを飲みながら、まるで昨夜のことなどなかったかのように振る舞います。
「君は変わらないな。でも僕は変わりたいんだ。図書館の仕事だけの毎日じゃつまらないだろう。」
つまらない。私が三十年間大切にしてきた仕事を。子供たちに絵本を読み聞かせ、学生の調べ物を手伝い、お年寄りに本をすすめ、それが私の誇りだったのに。
離婚の条件を夫は淡々と並べました。「家は売って財産は半分ずつ。年金も分割だ。ただし俺の退職金には手を出すな。」
私は静かに頷きました。実は、夫がこの三年間何をしていたか全て知っていたのです。通帳の残高が不自然に減っていること、深夜にこっそり出かけていたこと、スマートフォンに届く見知らぬ女性からのメッセージ。でも、今はその切り札を出す時ではありません。
離婚を切り出されてから一週間が過ぎました。夫は日に日に増長していき、まるで新しい人生の設計図を私に聞かせるかのように自分の計画を語り始めました。
「り子、君の退職金だが、あれは家計に入れたものだから共有財産だ。離婚の際は半分もらう。」
私は手にしていた湯呑みを静かに置きました。三年前、私が父から相続した三千万円を、夫は私の退職金だと思い込んでいるようです。確かにまとまったお金が入ったとだけ伝えましたが、詳細は話していませんでした。
「それに君の退職金は別だ。俺が四十年間働いていた金だからな。君は専業主婦じゃなかったんだから。」
朝五時に起きて弁当を作り、夕食の準備をし、休日も家事に追われていたことが、この人にとっては働いていないことになるのでしょうか。
数日後、夫はさらに踏み込んできました。
「実は新しい生活を始めるんだ。SNSで知り合った人がいてね。彼女は君より十五歳も若い。人生は一度きりだからな。」
彼女は五十歳。夫は六十五歳です。本気でそんな関係が長続きすると思っているのでしょうか。
「お母さんのことはどうするの?」私は義母のことを聞きました。八十八歳で施設に入っている義母の面会には、私が週に二回通っています。
「それはまあ、君がやってくれるだろう。離婚しても情はあるはずだ。」
呆れて言葉も出ませんでした。離婚して他人になる私に、なぜ義母の世話を続ける義務があるというのでしょう。
ある日、夫は機嫌よく帰宅しました。顔を赤らめ、お酒の匂いをさせています。
「今日は楽しかった。久しぶりに女性と食事をしてね。君との食事はつまらなかったが、彼女といると時間があっという間だ。」
三十五年間毎日食卓を囲んできた私との時間をつまらないと切り捨てる。でも、そのつまらない食事を誰が用意してきたのでしょうか。
「ところでり子、今後の君の生活費だが、自分でなんとかするんだろうな。図書館の給料もあるし、困らないはずだ。」
「でも、あなたは年金を半分もらうのでしょう。」
「それとこれとは別だ。俺には新しい生活がある。君も自立すべき時が来たんだ。」
自立。この人は私が自立していないと思っているのでしょうか。家事と仕事を両立し、子育てをし、義母の世話までしてきた私が。
「家を売った金で俺は都心にマンションを買う。君は実家にでも帰ればいい。」
私の実家はとうに処分しています。両親も亡くし、帰る場所などありません。
「最後に一つ聞かせてください。私との三十五年間は、あなたにとって何だったんですか?」
夫は少し考えてから答えました。「悪くはなかった。でもそれだけだ。俺にはもっと刺激的な人生を送る権利がある。」
その瞬間、私の中で最後の糸が切れました。もうこの人に対する未練も何も残っていません。
「わかりました。お望み通りにいたしましょう。」
翌日、私は信頼できる弁護士事務所を訪れました。女性弁護士は夫の要求を聞いて、首を振りました。
「ご主人の要求は法的にかなり無理があります。特に退職金の扱いについては完全に間違っています。」
「実は主人が退職金だと思っているお金は、私の父の遺産なんです。三年前に相続した三千万円を私名義の口座に入れてあります。」
「それは完全にあなたの特有財産ですが、ご主人に渡す必要は一切ありません。」
私はさらに資料を広げました。通帳のコピー、相続の証明書、そして三十年間の住宅ローンの完済記録。
「このローンは実質的に私の収入で払ってきました。夫の給料は全て夫が管理し、私の給料から生活費と住宅ローンを払っていたんです。」
弁護士は驚いた顔をしました。「それはご主人があまりにも自分勝手ですね。家の所有権も主張できますが。」
「いいえ、家は売って構いません。ただし、正当な取り分はきちんといただきます。私には別の計画がありますから。」
数日後、夫は期限付きで離婚届を持ってきました。
「り子、これに判を押してくれ。来月には全て片付けよう。」
私は黙って判を手に取りましたが、その前に準備していた書類を差し出しました。
「これは何だ?」
「財産分与の合意書です。きちんと公正証書にしましょう。」
夫は面倒臭そうに書類を眺め、細かい字で書かれた内容をろくに読まずにサインをしました。
「ああ、分かった分かった。とにかく早く終わらせよう。」
夫が見落としていた条項がありました。住宅ローンの残債はこれまでの返済実績に基づき、夫が全額負担するという一文です。実はローンはまだ五百万円残っていました。
離婚届に判を押した後、私は静かに立ち上がりました。
「荷物はまとめてあります。今日中に出ていきます。」
夫は少し戸惑いながらも、すぐに安堵の表情を見せました。面倒な話を避けられると思ったのでしょう。
車に最小限の荷物を積み込み、出発しようとした時、夫が思い出したように言いました。
「ああ、そうそう。母の面会だが、来週の火曜日だ。よろしく頼む。」
「申し訳ありませんが、もう私には関係のないことです。」
「何を言ってるんだ?今までどおりやってくれるだろう?」
私は振り返り、夫の顔を見つめました。「私たちは離婚したんです。お母さんの面会は、息子であるあなたの役目でしょう。」
「でも俺は忙しいし、母も君を信頼しているし。」
「忙しい?定年退職して三年も経つのに。それに、新しい彼女がいるなら、一緒に行かれたらいかがですか?」
夫の顔が青ざめました。初めて義母の介護という現実を突きつけられたのでしょう。私は最後に家の中を見回しました。毎朝磨いていた廊下、丁寧に手入れしてきた庭、子供たちの身長を刻んだ柱。全てに別れを告げる時が来ました。
「り子、本当にこれでいいのか?」玄関で夫が急に不安そうな声を出しました。
「あなたが望んだことでしょう。自由になりたいと。」
「そうだが…君は大丈夫なのか?一人で…」
今更の心配に、私は小さく微笑みました。「ご心配なく。私には仕事もありますし、友人もいます。」
「それに…」私は言葉を切りました。夫が知らない真実を告げる時ではありません。「いいえ、何でもありません。では、お元気で。」
深々と頭を下げ、私は車を発進させました。バックミラーに小さくなっていく夫の姿が見えました。なぜか急に老けて見える夫。でももう振り返ることはありません。
新居として借りた小さなマンションに着くと、私は深呼吸をしました。狭いけれど清潔で日当たりのいい部屋。ここから私の新しい人生が始まるのです。その夜、私は日記を開きました。
「離婚成立。全ては計画通り。夫はまだ気づいていない。本当の自由を手に入れたのは私の方だということに。半年後、全ての真実が明らかになるだろう。」
離婚から半年が経ちました。私の新しい生活は想像以上に充実していました。朝は自分のペースで起き、好きな音楽を聞きながらコーヒーを飲む。図書館への出勤も、誰かのために急ぐ必要がなくなりました。週末は読書会を主催し、同世代の友人たちと文学談義に花を咲かせる。先月はずっと行きたかった京都の古書店巡りも楽しみました。
「り子さん、最近本当に生き生きしてるわね。」同僚の言葉に、私は心から笑顔を返せるようになっていました。
ある土曜日の午後、私は近所の喫茶店で読書を楽しんでいました。窓際の席でお気に入りの小説に没頭していた時です。スマートフォンが激しく振動し始めました。画面を見ると、元夫からの着信。半年間、一度も連絡がなかったのに。
私は一度深呼吸をしてから、電話に出ました。
「もしもし…り子か?大変なんだ。助けてくれ。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、慌てふためいた元夫の声でした。あの冷静で自信満々だった夫とは別人のような取り乱し方です。
「どうしたんですか?」
「金が…金がないんだ。家の売却金が全然足りない。」
私は静かにコーヒーカップを置きました。ついにこの時が来たのです。
「足りないとは?」
「家は二千五百万円で売れた。半分の千二百五十万円もらえると思ってたのに、手元に来たのは七百五十万円だけだ。」
「ああ、ローンの残債と相殺されたんですね。」
「ローンの残債?何のことだ?」
元夫は本当に気づいていなかったのです。財産分与の合意書にサインした時、ローンの残債五百万円は元夫が負担すると明記されていたことを。私は優しく説明しました。
「住宅ローンの残債はあなたが全額負担することになっていたはずです。三十年間のローンは実質的に私の給料から払っていましたから、最後の五百万円くらい、あなたが払うのは当然でしょう。」
電話の向こうで元夫が息を飲む音が聞こえました。「でも、七百五十万円じゃ新しいマンションも買えない…」
「それは残念ですね。でも、退職金が三千万円もあったはずでは?」
長い沈黙の後、絞り出すような声が聞こえてきました。
「実は…退職金はもうないんだ。株で失敗して…いや、競馬で…とにかく全部なくなった。」
私は驚きませんでした。知っていたからです。元夫の通帳の動き、深夜のパソコン操作、競馬新聞の山。全て把握していました。
「それから、あの女性は?SNSで知り合った方と新生活を始めるんじゃなかったんですか?」
「あれは…あれは詐欺だったんだ。」元夫の声が震えています。「会ってみたら金を貸してくれって言われて、百万円渡したら連絡が取れなくなった。」
十五歳年下の都会的で知的な女性。全ては元夫の願望が見せた幻だったのでしょう。
「今どこに住んでいるんですか?」
「安アパートだ。家賃五万円の。こんなはずじゃなかった。母さんも…母さんも大変なんだ。」
「お母さんがどうかしたんですか?」
「施設の費用が月十五万円。俺の年金だけじゃ払えない。君が面会に来なくなってから、母の認知症も進んで、特別な介護が必要になって費用も上がって…」
週に二回の面会を欠かさなかった私。週の話し相手になり、好きな和菓子を差し入れていた私。その存在の大きさに、今更気づいたのでしょうか。
「り子、金を貸してくれ。君の退職金があるだろう。」
「あれは私の父の遺産です。退職金ではありません。」
「え?…遺産?退職金じゃないのか?」
「説明したはずです。まとまったお金が入ったとあなたが勝手に退職金だと思い込んだだけです。」
「じゃあ…君はずっと…何だ?騙していたのか?」
私は静かに笑いました。「騙す?三十五年間、私の給料で家のローンを払わせ、退職金を隠してギャンブルで使い果たし、若い女性の幻想に騙され。それでも私は黙っていました。」
「り子、もう一度やり直そう。」
「やり直す?」
「そうだ。俺が間違っていた。君がいないと何もできない。」
「何もできない?でも、あなたは自由になりたかったんでしょう。」
「あれは間違いだった。本当は君が必要なんだ。」
私は小さくため息をつきました。「申し訳ありませんが、私はもう自由なんです。来月、北欧に旅行に行きます。ずっと行きたかった場所です。父の遺産があれば、好きなだけ旅行もできますし、老後の心配もありません。」
「待ってくれ。本当に困ってるんだ。」
「あなたは自由になりたいと言いました。おめでとうございます。望み通り、完全に自由になれましたね。ただし、その自由には責任が伴うことを、今理解されたのでしょうか。」
「り子…」
「それでは、お元気で。」
電話を切る直前、元夫の慟哭のような声が聞こえました。でも、私は静かにスマートフォンを置き、読書に戻りました。窓の外では秋の柔らかな日差しが街を包んでいます。ページをめくる指が、かつてないほど軽やかに感じられました。
電話を切った後も、元夫からの着信は続きました。一日に何十回も。私は着信拒否をせず、あえてそのままにしておきました。この状況も私の計画の一部だったからです。
三日後の夜、私は図書館の仕事を終えて帰宅すると、マンションの前に人影を見つけました。薄暗い街灯の下にいたのは、見る影もなくやつれた元夫でした。
「り子、話を聞いてくれ。」
半年前の威圧的な態度はどこにもありません。髪は乱れ、無精ひげが伸び、よれよれのシャツを着た男。これが自由を求めた人の姿でしょうか。
「どうやってここを…」
「図書館で聞いた。少しだけ話を。」
私は迷いましたが、最後の真実を伝える時が来たのかもしれません。
「五分だけです。」
部屋に通すと、元夫は小さな部屋を見回しました。「こんな狭いところに。」
「でも、とても快適です。掃除も楽ですし、何より静かで。」
元夫は床に崩れ落ちるように座り込みました。「り子、本当に金がないんだ。年金だけじゃ母の施設代も払えない。このままじゃ母を引き取らなきゃいけない。」
「それは息子として当然では?」
「でも俺には介護なんてできない。料理も洗濯も何もできないんだ。」
「三十五年間、全て私に任せきりだった報いです。」
「り子、君の父親の遺産から少しだけでも貸してくれないか。」
「お断りします。」
「なぜだ?夫婦だっただろう。情もないのか?」
私は立ち上がり、書類ケースを取り出しました。真実をお話しする時が来たようです。
「真実?」
私は一枚の紙を差し出しました。「銀行の返済記録です。この三十年間の住宅ローン総額三千五百万円。このうち三千万円は私の給料から払いました。」
「それが何だ?夫婦なんだから当然だろう。」
「いいえ。あなたの給料は全てあなたが管理し、私には生活費として月十万円しか渡さなかった。その中から食費を出し、残りは全てローン返済に当てました。」
元夫の顔が青ざめました。私はさらに続けました。
「さらに、あなたの退職金三千万円がギャンブルで消えたこと、三年前から知っていました。あなたが毎週競馬場に通い、ネットカジノにはまり、最後は闇金融に手を出していたことも。」
「なぜ…知ってたんだ?」
「通帳を見ました。あなたが寝ている時に。」
私は別の書類を見せました。「これは探偵事務所の調査報告書です。あなたがSNSで知り合った女性は、最初から詐欺グループの一員でした。退職金を持て余した高齢男性を狙う組織です。」
「そんな…調べていたのか。」
「はい。でも、止めませんでした。なぜだと思いますか?」
元夫は答えられません。私は静かに言いました。
「あなたが自滅するのを待っていたんです。」
その残酷な真実に、元夫は凍りつきました。私は話題を変えました。
「三十五年前、結婚した時のことを覚えていますか?」
「…何だ、急に。」
「私の父は小さな会社を経営していました。あなたは無給で働くことを約束して、父の会社を継ぐはずでした。」
「それは…でも、結婚してすぐ約束を破りましたね。大企業の方が安定していると言って。」
元夫も覚えているはずです。父は失望しました。でも、私を愛していたから何も言いませんでした。そして、十年前に亡くなる時、私にこう言ったのです。私は父の最後の言葉を思い出しました。
「り子、このお金はお前だけのものだ。決して渡すな。いつかお前が自由になる時のために。」
「それが三千万円。いいえ、実は五千万円です。」
元夫の目が見開かれました。
「三千万円は定期預金。残りの二千万円は株式投資に回し、今では三千五百万円になっています。合計六千五百万円。これが私の本当の財産です。」
「六千五百万円…」
「でも、あなたには一円も渡しません。」
私は冷静に続けました。「面白いことに、あなたは私をつまらない女と言いました。図書館の仕事を退屈と言いました。でも、その図書館で私は投資の勉強をし、経済書を読み、運用を学んだんです。」
「り子…」
「さらに言えば、離婚時の財産分与の合意書。あれには別の条項もありました。配偶者の特有財産には一切の請求をしないという条項です。あなたはよく読まずにサインしましたね。」
元夫の顔から血の気が完全に失せました。私は窓の外を見ました。
「あなたはSNSの女性と新しい生活を夢見た。若い女性と都心でマンション暮らし。でも現実は、家賃五万円のアパートで一人暮らし。退職金はギャンブルで消え、詐欺で騙され、母の介護から逃げることもできない。」
元夫は頭を抱えました。一方、私は穏やかに微笑みました。
「私はどうでしょう?好きな本に囲まれ、気の合う友人と過ごし、行きたい場所に旅行に行ける。これが本当の自由です。」
「許してくれ。もう一度…」
「許す許さないの問題ではありません。これはあなたが選んだ結果です。」
私は立ち上がりました。「そろそろお引き取りください。」
「待ってくれ。母はどうなる?」
「お母さんですか?実は、お母さんの施設費を三ヶ月分前払いしてあります。その間に、あなたが息子として何をすべきか考えてください。」
「君が…払ってくれたのか。なぜ…」
「お母さんにはよくしていただきましたから。でも、これが最後です。あとはあなたの責任です。」
元夫はよろよろと立ち上がり、玄関に向かいました。ドアの前で振り返り、最後に言いました。
「君は…君は鬼だ。」
鬼。私は静かに首を振りました。
「違います。私はただ、三十五年間の献身の対価を受け取っただけです。あなたがつまらないと切り捨てた女の本当の価値に気づかなかったのは、あなた自身です。」
ドアが閉まり、足音が遠ざかっていきました。私は窓から外を見下ろすと、街灯の下をとぼとぼと歩く元夫の後ろ姿が見えました。かつて威風堂々としていた背中は、今や完全に丸まっています。
「さようなら。」私は小さくつぶやき、カーテンを閉めました。明日の朝、北欧行きの航空券を予約しようと決めていました。
元夫が去ってから一週間後、私は北欧への旅行準備を進めていました。パスポート、航空券、ホテルの予約。全て自分のペースで、自分の好みで選べる幸せを噛みしめながら。その朝、図書館に出勤すると、館長が私を呼び止めました。
「松永さん、来月の講演会の件ですが、ぜひ講師をお願いしたいんです。」
「講演会ですか?」
「『人生百年時代の生き方』というテーマで。松永さんの読書会も評判ですし、最近の松永さんの生き生きとした姿を見ていると、きっと素晴らしいお話が聞けると思って。」
私は少し驚きましたが、嬉しくもありました。「ありがとうございます。お引き受けします。」
昼休み、いつものカフェでランチをしていると、読書会の仲間である山下さんが隣に座りました。
「り子さん、最近本当に輝いてるわね。何かいいことでもあったの?」
「そうですね。自由を手に入れたんです。」
「自由?」
「はい。本当の自由を。」
私は微笑みました。三十五年間の結婚生活で失っていたもの。それは自分自身でした。でも今、私は完全に自分を取り戻しています。
その時、スマートフォンが鳴りました。息子からのメッセージです。
「母さん、父さんから聞いたよ。離婚したこと。心配してたけど、母さんが元気そうで安心した。今度会いに行くね。」
続いて娘からも。
「母さん、やっと自分の人生を歩き始めたのね。私、母さんを誇りに思う。北欧旅行楽しんできて。今度帰国したら会いに行くね。」
子供たちは理解してくれていました。むしろ、応援さえしてくれている。三日後、私は長年の友人である本田さんと会っていました。彼女も五年前に離婚を経験しています。「り子、あなたの選択は正しかったわ。私も離婚してから初めて、自分の人生を生きている実感があるもの。」
「でも、時々思うんです。もっと早く決断すべきだったのかなって。」
本田さんは首を振りました。「いいえ、全てにはタイミングがあるの。あなたは三十五年間家族のために生きた。それは決して無駄じゃない。その経験があったからこそ、今の自由の価値が分かるのよ。」
その言葉に、私は深く頷きました。
翌週、私は義母の施設を訪れました。最後のお別れの挨拶をするために。
「り子さん、来てくれたの。」
認知症が進んでいるはずの義母でしたが、私を見ると少し微笑みました。
「お母さん、今日でお別れです。」
「そう…あの子ったらね。」
義母は全て理解しているようでした。「り子さん、あなたには本当に感謝してる。あの子、息子は昔から自分勝手で、あなたにずいぶん我慢してもらったわ。お母さん、これからは自分のために生きなさい。もう十分すぎるほど尽くしたんだから。」
義母の手を握りながら、私は涙が頬を伝うのを感じました。でも、それは悲しみの涙ではなく、解放の涙でした。
帰り道、私は公園のベンチに座り、青い空を見上げました。秋の澄んだ空気が心地よく、深呼吸をすると体の奥から力が湧いてくるようでした。
その夜、私は日記に向かいました。
「離婚から半年。私は今、人生で最も自由で、最も幸せだ。思えば元夫が自由になりたいと言った時、私も同じことを考えていた。ただ私は三十五年間、その思いを押し殺してきた。家族のため、子供のため、世間体のため。でも、元夫の裏切りは、結果的に私を解放してくれた。皮肉なことに、彼の身勝手さが私に自由への扉を開けてくれたのだ。元夫は今、安アパートで一人暮らし。退職金はギャンブルで失い、詐欺に遭い、母親の介護に追われている。一方、私は六千五百万円の資産を持ち、好きな時に好きな場所へ行き、好きな本を読み、好きな人と過ごせる。これは復讐ではない。因果応報だ。人を蔑み、感謝を忘れ、相手の価値を認めない者はいずれその報いを受ける。元夫は私をつまらない女と言った。図書館の仕事を退屈と切り捨てた。三十五年の献身を『それだけ』と言った。でも、本当につまらなかったのは誰だろう?本当に何もなかったのは誰だろう?答えはもう明らかだ。」
日記を閉じ、私は立ち上がりました。明日はいよいよ北欧への出発です。スーツケースにはお気に入りの本を数冊入れました。オーロラを見ながら読書する。そんな贅沢が、今の私にはできるのです。
出発の朝、空港へ向かう途中、偶然元夫を見かけました。コンビニの前でカップラーメンを手に、疲れきった顔でレジに並んでいます。一瞬声をかけようかと思いましたが、やめました。もう、私たちは違う世界に生きているのですから。
飛行機の窓から見る雲海は、まるで新しい人生の始まりを祝福しているかのようでした。北欧で、り子さんは空一面に広がったオーロラに感動していました。緑の光が夜空に踊る様子は、まるで彼女の新しい人生を祝福しているかのよう。私は思いました。
私の人生は、今始まったばかりだと。
人生に遅すぎることなどないのです。いつだって新しく始めることができる。必要なのは、一歩踏み出す勇気だけ。



