夫が息子の前の扉を拳で叩き潰すまで、私はただ黙ってそこに立っていた。あの夜、夫はずっと前から知っていたことを口にした。自分が息子に完璧を求めすぎたせいだ、と。その姿を見たのは、結婚して四十年近く経って初めてだった。私たちには三百万円を超える借金と、払えない税金と、閉じたままの部屋があった。夫は酒を飲み、息子はスープを扉にぶつけ、私は廊下で膝をついて床を拭いた。そして翌朝、夫が息子に「お前の力…

夫が息子の前の扉を拳で叩き潰すまで、私はただ黙ってそこに立っていた。あの夜、夫はずっと前から知っていたことを口にした。自分が息子に完璧を求めすぎたせいだ、と。その姿を見たのは、結婚して四十年近く経って初めてだった。私たちには三百万円を超える借金と、払えない税金と、閉じたままの部屋があった。夫は酒を飲み、息子はスープを扉にぶつけ、私は廊下で膝をついて床を拭いた。そして翌朝、夫が息子に「お前の力...

夏の午後、白川記載は六十六歳。古びた団地の玄関ホールで、集合郵便ポストから郵便物を引き抜いた。指の間に一通の赤い封筒が挟まった。市役所の印が左上にある。それだけで記載の指先は止まった。じっと表面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

廊下の奥から足音が近づいてきた。記載は反射的に封筒を他の郵便物の下に押し込み、顔を上げた。見覚えのある老女が買い物帰りに歩いてくる。同じ棟の橋の部屋に住む人だ。記載は腰を折って会釈した。目は合わせなかった。

老女が通り過ぎてから、記載はゆっくり息を吐いた。赤い封筒を引き出し、布のトートバッグの底に押し込んだ。口をきつく締めて、抱えるように持ち直した。

階段を三人で上がりながら、記載はいつもの手順を自分に言い聞かせた。まず元つぐさんには言わない。言い方を考えてから言う。今日じゃなくてもいい。鍵を開けると、玄関に古い靴が二足並んでいた。自分のウォーキングシューズと夫の黒い革靴。息子の靴はその奥に、揃えないまま倒れていた。

細い廊下を進むと、突き当たりに扉が一枚。記載はその前を通る時、無意識に足音を殺した。扉は閉まっていた。去年の秋からずっと閉まったままだった。

白川洋介は四十一歳。会社の契約が切れたのは昨年の春。それから半年近く仕事を探していたようだったが、去年の十月にダンボール箱を一つ抱えてこの部屋に戻ってきた。それ以来、扉は閉まったまま。中からは昼夜関係なく、単調なゲームの効果音が漏れていた。

奥の間では夫の元つぐが新聞を広げていた。六十九歳。背が高く、少し猫背。顎のラインが太く張っていて、表情はいつも凝り固まったようだった。近所のコンビニに行くだけでも、スラックスにアイロンのかかった白いシャツを着込む男だった。

麦茶を注いだコップをテーブルに置くと、元つぐは新聞から目を離さずに言った。

「昨日、小泉さんに廊下で会ったぞ。洋介のことを聞かれた。東京の会社でITの仕事をしていて、今はリモートワークで自宅から働いているんだと言っておいた」

声には何の感情もなかった。天気の話をするような口ぶりだった。記載は「そうですか」とだけ返した。毎回近所にそう説明していることは知っていた。聞くたびに喉の奥が閉まるような気がしたが、言い返すことはなかった。

記載は封筒をテーブルに置いた。

「元さん、ちょっと見て欲しいものがあって」

元つぐはしぶしぶテレビから視線を外した。

「洋介のことで市役所から通知が来てたんですけど、税金と保険料の滞納の通知で」

元つぐは書類を取り、眼鏡をかけ直して読み始めた。表情は変わらなかった。読み終えると、テーブルに戻した。

「何だこれ」

「間違いじゃないと思う。洋介のマイナンバーが書いてあって、住所も全部合っているから」

元つぐは鼻から息を吹き出した。

「市役所が間違えたんだろう。こんな書類一枚で動揺するな」

「でも、もし本当だとしたら、通帳の残高では足りないかもしれなくて……」

元つぐは書類を手に取り、丸めた。止める間もなかった。丸まった紙が壁の隅に飛んでいった。低く、歯を噛みしめたような声だった。

「騒ぎを立てるな。隣に聞こえたらどうするんだ。分かっているのか? 」

元つぐは上着を羽織り、靴下を探して出ていった。玄関の扉が閉まる音が団地の廊下に吸い込まれていった。

夕方、記載は駅前のスーパーにいた。毎週この時間に来るのが週慣だった。半額シールが貼られる時間に合わせて、夕食の一品を安く手に入れる。現役の頃、半額シールを狙って買い物をする必要はなかった。それがいつの間にか当たり前になっていた。

半額の牛肉のしぐれ煮のパックに手を伸ばした時、声をかけられた。

「あら、白川さん」

小関文恵だった。同じ棟の二階に住む六十三歳。団地の中で最も情報の流通が早い人物だと記載は認識していた。口に入った話は翌朝には棟全体に広まる。悪意があるわけではなかったが、恐ろしい人だった。

文恵はニコニコしながら記載の買い物袋を一瞬だけ見た。視線は素早く、しかし確実に中を捉えていた。

「洋介さんはお元気? 最近全然お見かけしないけど。テレワークってやっぱり大変なんですかね。朝から夜遅くまで働いてるって聞きましたけど」

元つぐが言い広めた話が、すでに文恵の口から出てきた。記載は表情が崩れないように意識した。

「ええ、まあ、最近はオンラインの会議が多くて忙しいみたいで」

「そう。でも収入はいいんでしょうね。大手の会社だから」

記載は「そうですね」とだけ言った。文恵が背を向けた瞬間、記載は手の中の牛肉のパックを棚に戻した。静かにそっと戻した。代わりにもやしを一袋多く取って、袋に入れた。

その頃、駅前の自転車置き場では、元つぐが働いていた。週に三日、朝七時から夕方七時まで。単純な作業だったが、夏の炎天下では体への負担が無視できなかった。蛍光オレンジの反射ベストを着て、汗を拭いながら列を整えていた。

その時、声がした。

「白川さんじゃないですか」

かつての職場の同僚、田中だった。元つぐが課長職だった頃に部下として働いていた男だ。

「あれ、こちらで働いてらっしゃるんですか? 」

声に悪意はなかった。ただ事実を確認するような口調だった。元つぐは反射的にベストの前を閉じた。閉じても意味がなかった。

「ああ。知人に頼まれてね。管理組合の手伝いみたいなものだよ。ボランティアだ」

田中の表情が微妙に変わった。元つぐには分かった。信じていない顔だった。

仕事を終えた元つぐは、駅前のコンビニに寄った。何かを買って帰らなければいけないような気がした。果物のコーナーに、プラスチックのケースに入ったメロンがあった。千三百円。元つぐはそれを取り、何も言わずにレジに持っていった。

その夜、記載は夕食の席で話を切り出した。

「元さん、やっぱり話をしないといけないと思って。陽介が三年間、国民健康保険と住民税を払っていなかったみたいで。延滞金も合わせるとかなりの金額になっているんです。世帯主の元さんが連帯して払わないといけない」

元つぐは箸を置いた。

「あいつに払わせればいい」

「あいつにはお金がないんです。だから三年間払えなかった」

「だったらバイトでも何でもして稼げばいい。四十一歳だぞ。子供じゃない。俺は知らん」

「でも、このまま放置すると、私たちの口座が……」

「分かった」と元つぐは短く言った。「分かったから飯を食え」

翌朝、記載は奥の扉の前に立ち、軽く咳払いをして二回叩いた。

「陽介。お茶おくね。それと市役所からまた手紙が来てるんだけど、ちょっと見てもらえる?

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返事はなかった。暫くして、マウスのクリック音がした。起きていた。でも返事はなかった。記載はお茶と封筒を扉の前の床に置いて、廊下を戻った。

その日の午後、記載は一人で市役所へ行った。元つぐには言わなかった。言えば止められるか怒鳴られるかのどちらかだった。窓口の女性職員は淡々と説明した。

「息子さんが同一の住民票に記録されている以上、世帯主の方には連帯して納付する義務が生じます。現在の滞納額に延滞金を加算した合計が請求額になります。分割納付は可能ですが、その場合は改めて申請書を提出していただく必要があります。また、一定期間を過ぎても納付がない場合は、預金口座の差し押さえが行われる可能性があります」

記載は持っていたレシートの裏に必死にメモを取った。目頭が熱くなってくるのが分かった。抑えようとした。こういう場所で泣いてはいけないと思った。でも、言葉の内容と自分がレシートの裏に書いている事実が重なって、どうにも抑えきれなくなった。

翌日の夜、元つぐが帰ってきたのは九時過ぎだった。様子がおかしかった。靴を脱ぐ動作がぎこちない。酒の匂いが漂ってきた。この二十年ほど、夫が酔って帰ってきた記憶がなかった。

元つぐは黙って廊下を歩いた。足取りが安定していなかった。奥の洋介の部屋の前まで来た時、足が止まった。扉を見ていた。それから突然、拳を叩きつけた。

「陽介! 」

返事はなかった。もう一度、今度はもっと強く。

「お前が三年間払わなかった金のせいで、俺たちが市役所に呼びつけられているんだぞ。分かってるのか? 四十一年生きてきて、何をやってるんだ? 」

扉の向こうから、物が投げつけられる鈍い音がした。扉の下の隙間から、とろみのある液体が滲み出てきた。インスタントラーメンのスープだった。廊下は静まり返った。元つぐは扉を見ていた。手が震えていた。そのまま廊下を引き返し、島に入ってソファに腰を下ろした。動かなくなった。記載は雑巾を持ってきて、廊下に膝をついて床を拭いた。

その夜から、記載は外に出る時間を変えた。朝のゴミ出しは八時ギリギリ。買い物は九時以降。廊下で誰かとすれ違うのが怖くなった。食欲がなかった。体重が減っているのは分かっていた。眠れない夜が続いていた。

七月に入ってから最初の週、記載は郵便局へ行くことにした。少し遠回りだが、知り合いに会う確率が下がる道を選んだ。細い路地を抜けると小さな公園があった。ベンチに人が座っていた。遠くから見た時、記載はまず服装で気づいた。紺のスラックス、白いシャツ。元つぐだった。ベンチに腰かけて、少し前傾姿勢で手の中のものを見ていた。コンビニのおにぎりだった。透明なフィルムを剥がして、白い三角形のおにぎりをゆっくりと食べていた。誰かと話しているわけでもなく、スマートフォンを見ているわけでもなかった。ただそこに座って、おにぎりを食べていた。

その横顔を見た瞬間、記載の胸の中で何かが絞られた。表情だった。弛緩していた。緊張が抜けていた。誰も見ていないから、誰かに見せる顔を作る必要がないから、ただそこに座っている老人の顔になっていた。顎の張りも、目つきの硬さもなかった。ただ疲れた顔で、おにぎりを食べていた。

記載は声をかけられなかった。声をかけたら、元つぐはすぐに元の顔に戻る。役職のある男の顔に。その瞬間を壊したくなかった。記載は静かに、来た道を引き返した。

家に戻ると、廊下がいつもと違った。奥の扉が開いていた。陽介の部屋の扉が半分ほど開いていた。台所の流しの前に、陽介が立っていた。四十一歳の息子の後ろ姿を、記載はしばらく見ていた。髪が長くなっていた。シャツは汚れていた。肌の色が悪かった。外に出ていないからだった。

陽介は振り返らなかった。記載の布のトートバッグの中を漁っていた。中には財布と通帳が入っていた。陽介の手が財布の中を探っていた。

「何してるの」

声が出た。思ったより落ち着いた声が出た。陽介は財布をカウンターに置いた。謝りはしなかった。代わりに、台所のテーブルに何かを置いた。紙の束だった。いくつかの書類が重なっていた。記載はそれを手に取った。

消費者金融の書類だった。氏名の欄に白川洋介とある。借入金額と残高と毎月の返済金額が書かれていた。金額を見た。三百万円を超えていた。別の会社の書類があった。また別の会社の書類があった。三者から借りていた。合計すると三百万を大幅に超えた。

「いつから、こんなに借りてたの?

「仕事なくなってから」

「何に使ったの? 」

陽介は床を見た。

「ゲームとか。あと生活費。食べるのに必要だったから」

記載は書類を持ったまま立っていた。頭の中でそれが整理されるまで、少し時間がかかった。そして、陽介が言った。

「督促状が来てて、ここに来てる。放っておいたら取り立てに来るって書いてあった」

声には感情がなかった。謝罪でも言い訳でも怒りでもなかった。

「なんで今まで言わなかったの」

「言っても仕方ないから」

陽介は台所を出て行った。廊下を歩いて自分の部屋に戻った。扉がまた閉まった。

夕方、元つぐが帰ってきた。記載はテーブルの前に座っていた。

「今日、洋介が部屋から出てきて。書類を持ってきた。消費者金融」元つぐはリモコンをテーブルに置いた。記載は書類を出して並べた。元つぐはそれを手に取らなかった。

「合計でいくらだ」

記載は金額を言った。元つぐは何も言わなかった。しばらくの間、二人ともテーブルの上の紙を見ていた。外から蝉の声が聞こえてくるだけだった。

元つぐはゆっくりと椅子に座った。背もたれに体を預けた。腕を組んだ。それから、また黙った。五分ほど経って、口を開いた。

「督促状が来てるって言ったか」

記載は頷いた。

その夜、元つぐがコンビニでおにぎりを買ってきて、二人で食べた。食べながら、元つぐは一度だけ言った。

「陽介に話をしなければいけない」

翌日、元つぐは陽介の部屋の前に立って、扉を叩いた。先月のような怒りに任せた叩き方ではなかった。控え目に二回。

「陽介。少し話がしたい。出てこられるか」

扉の向こうは静かだった。元つぐはもう一度言った。

「怒鳴ったりしない。ただ話したい」

暫くの間があった。扉が少し開いた。陽介が顔だけ出した。目が充血していた。髪が乱れていた。それでも顔を出した。元つぐは扉の前に立ったまま、穏やかな声で話し始めた。

「弁護士と相談して、自己破産の手続きを進めようと思っている。費用は親が出す。お前がやることは、弁護士に必要な書類を揃えることだ。一緒に行けるか」

陽介は黙っていた。元つぐは続けた。

「団地もここを引き払う予定だ。もっと安いところに移る。お前も一緒に来るかどうかは、お前が決めていい。でも、来るなら何か仕事を探してくれ。何でもいい。コンビニでも工場でも」

そこまで言って、元つぐは少し間を置いた。

「俺も週に一回しか仕事がないから、お前の力が必要だ」

その最後の一言を、元つぐはゆっくりと言った。陽介の顔がわずかに動いた。まゆの当たりが、ほんの少しだけ動いた。それだけだった。陽介は何も言わず、扉を少し閉めた。でも完全には閉めなかった。数センチだけ開いたまま残した。元つぐはその扉を見て、一度だけ頷いた。それから廊下を引き返してきた。

午後、記載は書類をテーブルに広げた。自己破産の申請書類。団地の退去届の下書き。弁護士への委任状。元つぐも椅子を引いて座った。眼鏡をかけて、書類を一つずつ読んだ。

「ここは洋介のマイナンバーが必要。ここは元さんの署名がいる。ここは来週の弁護士との面談で確認する」

元つぐが印鑑を置く準備をした。記載は引き出しから印鑑と印判を取り出してきた。元つぐはそれを受け取り、朱肉に当てた。書類の欄に静かに押した。丸い朱色の印が残った。記載も自分の印鑑を出して押した。二つの印が並んで紙の上にあった。

夕方、風が少し変わった。ほんのわずかだったが、夕暮れの風は昼間と違う温度を持っていた。記載はベランダに出てタオルを取り込んだ。廊下の奥の扉が数センチ開いていた。そこからキーボードを叩く音が聞こえてきた。でも今日は、ゲームの効果音がなかった。

記載は台所でお茶を入れた。今日は三つの湯飲みに注いだ。盆に乗せて廊下を歩いた。洋介の部屋の前に来て、扉の開いた隙間に向かって言った。

「陽介、お茶。ここに置いておくね」

キーボードの音が一瞬だけ止まった。それからまた始まった。記載は湯飲みを扉の前の床に置いた。今日は封筒を置かなかった。湯飲みだけ置いた。そのまま廊下を戻った。

今に戻ると、元つぐがお茶を受け取った。

「ありがとう」

その言葉は短かった。でも記載には聞こえた。記載は自分の湯飲みを持って窓の際に立った。蝉の声がしていた。でも今日の蝉の声は、今年の夏に聞いてきたどの日よりも少し静かだった。季節が終わりかけているのかもしれなかった。それともただ夕方になったからかもしれなかった。どちらでも良かった。

記載はお茶を飲んだ。温かかった。明日も弁護士に連絡しなければいけない。団地の管理会社にも連絡が必要だった。やることはまだたくさんあった。でも今この瞬間だけは、窓の外の夕暮れを見ていた。廊下の奥からキーボードの音が続いていた。蝉の声が遠くで続いていた。夕暮れの光が部屋に差し込んで、テーブルの上の封筒を照らしていた。封筒の中には、今日押した二つの印の跡がある書類が入っていた。それで十分だった。今日という一日が、その書類と共に終わろうとしていた。